第四十五話「黒い大老VS腹黒姫」
一 帰還
夜が更けていた。
風のない夜で、一橋上屋敷の奥御殿に灯る行灯の火は細いまま揺れもしなかった。廊下の外の庭は、冬を目前にした静けさに沈んでいる。闇の中へ伸びた松の枝の先に、江戸の夜空があった。星が多い。
京の空とは、星の見え方が違った。江戸は空が広い。遮るものが少ないせいか、星が近くに見える。
近衛糸子は、部屋の中に座っていた。膝の前に帳面を広げ、筆も手にしていたが、一文字も書いていない。筆を持ったまま、考えこんでいた。
昼間の光景が、頭の中で幾度も繰り返されていた。札の辻。四方から湧いて出た二十六名の武装した男たち。旭狼衛が動いた瞬間。血の匂い。そして、全員が無事だったこと。
旭狼衛が守ってくれた。それは分かっている。けれど、江戸に入るその日に刺客に囲まれるとは思っていなかった。江戸に着く前から、誰かが手を回していたのだ。その誰かは、今も動いているはずだった。
遠くで犬が吠えた。江戸の夜の犬はよく吠える。京の夜とも、南海路の船の上の夜とも違う音だった。
廊下に足音がした。近藤の足音だ、と糸子にはすぐ分かった。旭狼衛の面々は、歩き方が一人ずつ違う。近藤は重心が低く、一歩ごとの音が床板に確かに伝わってくる。
「姫様、土方たちが戻りました」
障子の外から近藤の声がした。
「お入りくださいませ」
障子が開き、近藤が入ってきた。その後ろに土方歳三の姿がある。斎藤一と永倉新八は廊下に控えていた。
土方の顔は汚れていた。血ではない。江戸の夜道の埃と、奉行所とのやりとりの疲れが顔に出ていた。それでも目は落ち着いている。片づけるべきことを片づけた者の目だった。
「姫様、只今戻りました。本日の事後処理、全て終わりましてございます」
土方の報告は短かった。糸子は小さく息を吐いた。それが安堵の息であることは、自分でも分かっていた。
「ご苦労様でございます。みな無事で?」
「はい。斎藤と永倉も含め、全員無事に戻りました」
「それは良かった……本当に良かった」
糸子は帳面を閉じた。
「詳しい報告を聞かせてくださいまし、土方殿」
二 土方の報告
行灯の光が、三人の顔を照らしていた。
土方歳三は、旭狼衛の中でも余計なことは口走らない男だ。動いたあとの報告でだけ、必要なことを正確に言う。自分の気持ちを報告に混ぜることもない。それが土方という人間だった。
「姫様、本日の件をご報告いたします」
「はい」
「死んだのは十一名。重傷で動けなくなった者が七名。逃げた者が八名です」
数字が、静かな部屋にひとつずつ置かれていった。
糸子は頭の中で足し算をした。あの時いた刺客は合計、二十六名。勘定は合っている。
「身元は分かりましょうや」
「確かめられたのは、元水戸藩の脱藩浪人と思しき者が三名。残りは雇われの浪人と思しき者たちです」
「その三名が水戸の出だと、どのようにお見立てになったのですか?」
土方はわずかに間を置いた。
「刀の拵え、それから身なりと持ち物からです」
「詳しく教えてくださいまし」
「……水戸の浪士の刀には、見慣れた者が見れば分かる癖があります。まず拵えです。柄巻が並の菱巻きではなく、平巻きや革巻きになっている。飾りを省いて実用一点に絞った、水戸拵と呼ばれる仕立てです。それに、切っ先が鋭く研ぎ上げてある。水戸の老公は、実戦では突きを重んじよと教えていました。その教えが刀の形に出ているのです」
「なるほど」
糸子は聞きながら、帳面に走り書きをした。
「身なりのほうは、着物の下に鎖帷子を仕込んでいた者が何人かおりました。人目を忍ぶ襲撃に防具を着こんでくるのは、返り討ちを覚悟している者の証です。袖口も括り紐で絞ってあった。斬り合いで袖が邪魔にならぬよう、前もって整えてある。これは水戸流の身ごしらえとして知られております」
「持ち物は?」
「一人の懐に書付がありました。水戸学に特有の言葉が並び、老公の好んだ『尊攘』の二文字もありました。別の一人は、常陸近辺の宿場の名が記された古い通行手形を持っていた。水戸のあたりから来た足取りを示すものです」
土方はそこで少し言葉を切った。
「もう一人、懐に書状を持っている者がいました」
「書状?」
「はい。我々が品川で泊まった宿の名が書かれておりました」
部屋が静まった。
「……宿の名が?」
「はい。品川の本陣、市郎右衛門家と、はっきり」
糸子の筆が止まった。
品川宿に着いたのは昨日だ。あの本陣に泊まることは、前もって決めていたのか。それとも当日に決めたのか。
記憶を辿る。船を降りたあと、近藤が段取りを確かめたときに決まった。品川に着いてから決まったことが、その日のうちに刺客に伝わっていたことになる。
「……見張られていた?」
「はい。あるいは、品川宿の近くに繋ぎ役がいたか」
「奉行所への届け出は?」
「済んでおります。正当防衛として扱われます。見ていた者が何人もおりましたので、差し障りはないかと」
「藤堂殿と秋山殿の傷は?」
これには、隣の近藤が答えた。
「そちらは大丈夫です、姫様。かすり傷で、もう普段どおり動けます」
「それは良かった」
糸子は小さく息をついてから、もう一度土方を見た。
「土方殿、今日の襲撃で、ほかに気になったことはございましたか」
土方は少し考えた。この考える間が、土方の言葉に重みを持たせていた。
「二つあります」
「なんでしょう」
「まず、二十六名という数は多すぎます」
「多すぎる?」
「旭狼衛の人数を知らなかったのか、知っていて念のために揃えたのか。どちらにしても、これだけの人数を短い間に集め、江戸まで動かし、配置までできたということは、相当な組織を動かせる者が関わっています」
「一人の思いつきでできることではない、ということですか?」
「はい。しかも我々の着く刻限と道筋を知っていた。品川宿に泊まったことも含めて、かなり正確につかんでいた節があります」
「どこかから漏れていたのでしょうか。それとも、わたくしたちが見張られていた?」
「あるいは、はじめから我々の動きをつかんでいた者がいたか」
「もしや幕府の内に……?」
近藤が低くつぶやいた。
「……それも、ありうることの一つです」
土方はそう答えてから、続けた。
「それから、もう一つ」
「なんでございましょう?」
「元とはいえ『水戸藩』を指し示すものが多すぎます。不自然なほどに」
「どういうことでありましょうか?」
「こういう襲撃では、正体を隠すのが鉄則です。誰の仕業か知れるような物は、決して持ちこみません」
糸子は少し身を乗り出した。
「正体を晒して襲うお馬鹿はいない、ということでございますね」
「つまり」
近藤が言葉を継いだ。
「現場に残っていた物はすべて、水戸藩の仕業に見せかけるための細工、ということですな」
土方が頷いた。
部屋に沈黙が落ちた。どこかで風が動いたのか、行灯の火がわずかに揺れ、三人の顔に小さな影が走った。
糸子は帳面を閉じた。
「分かりました。一晩ゆっくり考えを整理してみまする。土方殿は少し休んでくださいまし」
「それでは失礼します、姫様」
土方は立ち上がって一礼し、部屋を出ていった。近藤が残った。
「姫様、今回の襲撃で、何か思い当たることでもおありですか?」
「うーん、なくもないけど……ちょっと考えを整理するから、一晩時間を下さいまし」
「分かりました。それでは今晩はゆっくりお休みください。某もこれにて失礼いたします。何かありましたら、お声がけください」
近藤は会釈して出ていき、障子が閉まった。
糸子は一人になった。
「うーーんっ………」
声が部屋に広がった。
わざと残された水戸藩の名。多すぎる二十六名。品川の宿の名が書かれた書状。
水戸を陥れようとしている者がいる。今の江戸で、それだけの人数を動かせて、幕府の内の話を知ることができ、そのうえ朝廷の使者を消したい理由がある者といえば。
頭の中に、一人の名前が浮かんだ。
思い描いただけの姿ではあるが、薄暗い部屋の中で笑みを浮かべている顔だった。
その顔に名前をつけるのは、今夜ではない。まだ証拠がない。それでも、糸子の中では答えがもう出ていた。
三 一橋上屋敷 朝
冬の入り口の江戸の朝は冷たかった。
夜が明ける前から、空の色は変わりはじめていた。東の紺が少しずつ薄れて灰色になり、やがて橙がにじんでくる。その橙が雲の端を染め、江戸の朝をつくっていった。
糸子は早くに目が覚めた。
京の近衛家で目覚めるときとは、聞こえてくる音が違った。京では、朝の御所の鐘の音がかすかに届く。ここで聞こえるのは、まだ眠っている江戸の街の気配だった。どこかで荷車が鳴り、鳥が鳴き、遠くで誰かが呼び合う声がする。
糸子に用意されたのは、一橋上屋敷の奥御殿の上段の間だった。
一段高く設えた床に、青畳が隙なく敷き詰められている。床の間には御三卿の格式にふさわしい山水の掛け軸が下がり、墨の濃淡が見事だった。床柱は黒漆塗りの銘木で、節ひとつない。折り上げ格天井には金箔を施した格縁が整然と並び、朝の薄明かりの中でも金が鈍く光っていた。
付書院の障子越しに小庭が見えた。手入れの行き届いた松と、冬を前に葉を落とした楓が一本。石灯籠の台座に、朝露が光っていた。
次の間には葵と小夜が控え、詰所では旭狼衛の隊士たちが一晩じゅう交代で見張りに立っていた。上段の間を中心に、守りが幾重にも輪を描いている。糸子のまわりに、目に見えない結界が張られているようだった。
部屋の四隅の行灯は、夜明け前のこの時刻も、まだ細く燃えていた。
糸子は床を抜けて縁側へ出て、障子を少し開けた。
冷たい空気が入ってきた。小庭の松の葉で、露が朝の光を受けて小さく輝いている。江戸だ、と糸子は思った。
京を出て、伏見から淀川を下り、大坂から南海路で品川まで来た。品川宿に一泊して、昨日の午後ここに着いた。道中の刺客の件は、まだ頭から離れなかった。
しばらくして、葵が起きてきた。
「姫様、もうお目覚めでいらっしゃいましたか」
「少し前から」
「お顔をお拭きになりますか」
「はい、お願いします」
葵がぬるま湯を張ったたらいを運んできた。白い手拭いが添えてあり、湯気が細く立っていた。
「葵は昨日、大丈夫だった? 夜は眠れましたか?」
葵は少し手を止めてから答えた。
「はい。昨日はかなり怖かったですが、姫君様と旭狼衛の皆さんを見ていたら、途中から怖さがだいぶ薄れました。夜も少しですが、眠ることができました」
「あまり無理はしないでね。辛いときには、きちんと言うのよ」
「姫君様の温かいお心遣い、お礼の言葉もございません」
葵は深く頭を下げた。
小夜は少し遅れて起きてきた。昨日の一件で夜中に何度か目を覚ましたらしく、顔に疲れが出ている。目の下も少し赤かった。それでも、起きてきた。
「小夜、無理しなくてもいいのですよ」
「いいえ、姫様のお側におります」
小夜は首を振った。その振り方には、揺るがないものがあった。
「辛いときには、無理せずにきちんとおっしゃいね」
「……ありがとう存じます、姫君様」
小さいが、はっきりとした声だった。
糸子は小夜の顔を見た。昨日、包囲されたときに震えながら地面に座りこんでいた小夜とは、少し違う顔をしていた。震えてはいたが、逃げなかった。そのことが小夜の中で何かを変えたのかもしれない、と糸子は思った。
朝の支度が整ったところで、近藤がやってきた。
「姫様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
「はい、入ってきても大丈夫でございます」
上段の間に入ってきた近藤は、広い部屋にちょうど釣り合って見えた。この人はどんな部屋に入っても、その部屋の大きさにしっくり収まる。糸子はいつもそう思う。
「昨夜は眠れましたか」
「思ったより眠れました。旅の疲れが出たのでしょう」
「それは良かった。今日の予定をお伝えします」
「はい」
「本日の午前、堀田様のご使者が参ります。昨日の件でお越しになるとのことです」
「分かりました」
四 堀田の使者
堀田正睦の使者が来たのは、朝の四つ半、今の時刻でいえば午前十一時ごろだった。
小柄な男だった。歳は三十代半ばと見え、物腰が穏やかだ。名を田中久右衛門といった。
灰色の着物に地味な羽織をまとい、腰の刀も飾り気のない実用本位のものだった。顔には愛嬌があるが、目は鋭い。堀田が選んで寄こす人間は、見た目と中身が違う。最初に目にしたとき、糸子はそう思った。
御簾を挟んで向き合った。
「堀田様よりの使いの者、田中久右衛門と申します。近衛様のお目通りを賜りたく」
「はい、こちらへどうぞ」
田中がまず口にしたのは、昨日の件への詫びだった。
「昨日は大変なご迷惑をおかけいたしました。姫様のご無事を、心より喜んでおります」
「誠に恐れ入りまする。御一行へのお気遣い、痛み入りまする」
「恥ずかしながら、幕府の警護が行き届いておりませんでした。近衛様の護衛の方々の見事な働きに救われた次第です」
「旭狼衛が守ってくれました。彼らのおかげでございます」
「はい。その件は、堀田様も深く感謝しておられました」
田中は少し姿勢を正した。
「昨日の件は、幕府として調べを進めます。白昼に二十六名が集まり、公道で刃傷沙汰に及んだことは、江戸の治安の問題として扱います」
「治安の問題として……?」
「はい。政の問題として表に出ることは、双方にとって得策ではございません。幕府の面目の問題でもございますし、近衛様が関わっておられることが広まるのも、今後の交渉によろしくないかと……」
糸子はその意味をすぐに呑みこんだ。
幕府は、今回の件をなかったことにしたいのだ。朝廷の使者が江戸で刺客に狙われたとなれば、幕府の恥になる。広まれば権威が揺らぐ。だから「治安の問題」という名目で片づけ、政から切り離す。
それ自体は、筋の通った判断だった。
「承知いたしました」
糸子は静かに言い、そのまま続けた。
「……なれど、こちらもこのまま、というわけには参りませぬ」
「えっ?」
田中の顔が、一瞬崩れた。
「こちらはこちらで、独自に調べさせていただきまする。その際、幕府の協力が要るときには、最大限の便宜を図っていただきまする」
穏やかな声だった。だが、少しも揺らがなかった。
「なお、これはお願いではありませぬ」
田中の背筋が伸びた。
「御門様より正式なお役目を賜り、御門様の使者として参っているわたくしと、五摂家筆頭・近衛家の決めたことでございます。幕府が拒むことは一切認めませぬ。そのように堀田殿にお伝えくだされ」
御簾の向こうから届く声は静かだった。静かなぶん、重かった。田中の顔から血の気が引いていった。
「はっ、ははーっ。必ずや堀田様に、そのようにお伝えいたします」
田中は額を畳に擦りつけた。それから、どうにか次の用件に移った。
「それと……堀田様より、ハリス殿との会談の日取りでございますが、この度は思いもよらぬ事態となりましたゆえ、しばらく延ばし、改めて調整させていただきたいとのことでございます」
「会談のことは、それで構いませぬ」
糸子は答えた。
「ただ、会談そのものが取りやめになることだけは、おやめくださいまし」
「心得ております。それでは本日は、これにて失礼いたします」
田中は平伏すると、逃げるように部屋を出ていった。障子の閉まる音がした。
傍らの近藤が、微笑ましそうな顔をしていた。
「……姫様。此度はずいぶん強気でしたな」
「当たり前です。葵と小夜がどれだけ怖い思いをしたと思っているのですか!」
「ご自身のことではなく、他人のためにそうしてお怒りになる。実に姫様らしゅうございますな」
近藤は、本当に微笑ましそうに言った。
「今回は、わたくしも少し怖かったのですからね。それに、邪魔されるわけにもいきませんから」
「……邪魔?」
近藤が首をかしげた。
「ところで近藤殿、土方殿を呼んできてくださいまし。昨日のことで、お願いしたいことがありまする」
「分かりました。至急、土方を呼んで参ります」
近藤は席を立った。
五 江戸城 老中の間
江戸城は、威圧するような美しさをまとっていた。
白漆喰の壁が冬の陽を照り返し、目に痛いほど輝いている。整然と並ぶ松のあいだから、天守の跡に残る石垣が空へそびえていた。本丸御殿へ向かう石畳の道は、両側を高い石垣に挟まれていた。
堀田正睦が執務に使う一室は、本丸御殿の南側にあった。
書院造りの落ち着いた部屋だった。床の間には松の掛け軸が下がり、違い棚には文書の束が几帳面に積まれている。縁側の外の庭では、手入れされた石組みのあいだに苔が生え、冬でも青々としていた。城内の松の向こうには、雲の少ない冬の青空が広がっていた。
その部屋で、田中久右衛門が報告を終えたところだった。
「なに? 田中、姫君様はそれほどお怒りになって、そのようにおっしゃったのか?」
「はい」
田中はまだ少し青い顔で答えた。
「御門様のご使者というお立場と近衛家の名を出され、決めたことである、と……幕府が協力を拒むことは一切認めぬ、と確かにおっしゃいました」
「うーむっ」
堀田は腕を組んだ。
「これはかなりまずい。今の朝廷と幕府の間柄は微妙だ。これ以上こじらせるわけにはいかん」
そこへ、廊下を急ぐ足音がした。障子が開くより先に、声が飛びこんできた。
「ほ、堀田様、大変でございます!」
依田貞幹だった。老中の補佐として動き、噂や内情を集める役を担っている男だ。その依田が、息を切らしていた。
「どうした、依田。そのように慌てて」
「城内に、昨日の襲撃について、堀田様の事実無根の流言がばら撒かれております」
堀田の顔がこわばった。
「どのような流言だ」
依田は一息ついてから続けた。
「それが……近衛家の姫様を江戸に呼び寄せたのは堀田である。その堀田は、以前朝廷に出向いた折に近衛家と揉め、強い恨みを抱いている、という話が広まっております」
「……続けよ」
「その恨みを晴らすために姫様を殺そうと考え、自らの属する一橋派の水戸藩に手を借りて襲わせた、というのです。さらに、江戸は京から遠く、朝廷がすぐには動けぬゆえ、わざわざ江戸で事を起こしたらしい、と」
部屋が静まり返った。
「な、なんだその出鱈目な流言は!」
堀田の声が跳ね上がった。
「誰がそんな流言を流している!」
「それが、調べさせた限りでは、よく分かっておりません。城内のいくつもの場所で、ほぼ同時に広まりはじめたようで……」
「ほぼ同時に……!」
堀田は立ち上がった。
「くっ……誰がそのような卑怯な真似を……」
その噂は、江戸城の廊下を走っていた。
城内の番所に詰める下級の武士たちが、小声で話している。
「……聞いたか。昨日の刺客の件、どうやら老中の堀田様が糸を引いているそうだ」
「本当か? ずいぶんと大胆な」
「一橋派のよしみで、水戸の浪人を使ったらしいぞ」
「しかし、なぜ堀田様が……」
「近衛家と揉めていたそうだ。以前、上洛した折に」
「ほう。それで恨みを……」
「姫様が江戸に来ると聞いて、絶好の機会と見たんだろう。京より江戸のほうが、証拠が残らんからな」
廊下の端では、目付方の役人が聞き耳を立てていた。
老中の詰所で書類を整理していた二人の武士も、声をひそめていた。
「……それにしても、朝廷の姫様が白昼に二十六名に襲われるとは」
「怖い話だな。しかも、その黒幕が老中とは……幕府の信用がまた落ちるな」
「一橋様もご存じなのではないか?」
「さあ……。しかし一橋派の水戸が使われたとなれば、一橋様も無関係とは思われまい」
「うむ。これは一橋派には痛手だな」
流言は、驚くほどの速さで城内を走っていた。出所は分からない。それぞれの場所で少しずつ形を変えながら、確実に広がっていった。
御用部屋に近い廊下の角では、勘定方の武士が二人、声をひそめていた。
「……して、刺客は全員返り討ちにされたというのか」
「二十六名が、近衛家の護衛に、だ。旭狼衛とかいう連中らしい」
「二十六人を、十人そこらで……か。それはまた恐ろしい腕前だな」
「だろう。しかしそれよりも、なぜ老中様がそのようなことを? 朝廷の使者を江戸で殺そうとするなど……」
「本当にあのお方ならば、の話だが。しかし、これだけ話が広がっているところを見ると……」
「一橋様のご意向も絡んでいるのではないか、という話だぞ。水戸藩が使われたのだから」
「一橋様まで……。これは大ごとになるな」
二人は顔を見合わせて黙りこみ、廊下の向こうから別の足音が近づいてくるのに気づくと、そそくさとその場を離れた。
表御殿の渡り廊下では、目付方の役人が同僚に呼び止められていた。
「聞いたか、昨日の件」
「ああ、堀田様が黒幕だという話だろう。なんとも……」
「しかし、証拠はあるのか?」
「証拠は知らん。だが考えてもみろ。姫様を江戸に呼んだのは堀田様ご自身だ。呼び寄せておいて道中で消そうとしたのなら、ありえない話でもない」
「それは……確かに」
「しかも水戸が使われた。一橋派に疑いが向くよう仕向けたのだとすれば、なかなか巧みな企てだ」
「どちらにせよ、城内がざわついているのはまずい。上の方にはまだ届いていないのか?」
「さあ……。だが、これだけ広がれば、じきに届くだろう」
二人は顔を見合わせた。
別の門のそばでは、奥向きに出入りする御用達商人の番頭が、門番と話をしていた。
「なんだか今日は、城内がざわざわしていますねぇ」
「ああ。昨日、朝廷の御使者様が刺客に狙われたそうだ」
「えっ、使者様が? それは大変な……」
「しかも黒幕が幕府の中にいるとか、なんとか。真偽は知らんが、まあ物騒な話だ」
「はあ……。幕府の中にねぇ。これはどうなりますやら……」
番頭は苦い顔をして、抱えていた荷の包みを持ち直した。
城内のあちこちで、同じような会話が繰り返されていた。流言は木の根のように、誰の目にも見えない地面の下で、端から端へと確実に伸びていった。
自分の部屋でその事実を知った堀田は、しばらく黙りこんでいた。
「……組織立っている」
やがて堀田は静かに言った。
「こういう流言は、ひとりでには広がらん。人が動かねば広がらんのだ。いくつもの場所で同時に話が出たということは、前もって役目を割り振られた者たちが、一斉に動いたということだ」
「では……」
「誰かが指図した。それも、城内のいくつもの筋に手の者を抱えている誰かが」
堀田の目が細くなった。
「こういう動き方を、わたしは以前、一度だけ見たことがある」
堀田はその名を口にしなかった。だが依田には、その沈黙の意味が分かった。二人のあいだに、重い静けさが落ちた。
城内の廊下を走る流言は、止まらなかった。
六 彦根藩江戸藩邸
彦根藩の江戸藩邸は、広大な屋敷だった。
黒塗りの重厚な門には、井伊家の家紋である橘の金具が打たれている。長い塀の内側に屋敷の棟が立ち並び、庭には松が多かった。よく手入れされていて、冬の今も青々としている。
その松の向こうに、井伊直弼の使う部屋があった。
部屋へ続く板張りの廊下は拭き清められて鏡のように光り、歩く者の姿が床に映った。
部屋は広いが、飾り気が少ない。書院造りの床の間には古筆の漢詩の掛け軸が一幅だけ掛かっていた。窓の外の松と石組みの庭に冬の陽が斜めに差しこみ、冷たい光が長い影をつくっていた。
直弼はその部屋に座っていた。前に控えた長野義言が、報告を終えたところだった。
「首尾はどうだ、長野」
「はい。江戸の市中には広がらぬよう気を配り、城内だけに流言が回るようにいたしました」
「それでよい」
直弼は頷いた。
「城内だけなら、幕府の失態は外に漏れぬ。市中に出れば朝廷の耳に届く。城内に留めておけば、一橋派と堀田だけを傷つけて済む」
「井伊様のおっしゃる通りかと」
長野は頭を下げた。
「堀田もこれで、わたしの辛さが身に染みただろう」
直弼の口元に笑みが浮かんだ。
「……わたしがかつて味わった流言騒ぎを、早速使わせてもらった。これほど使い勝手のよい道具はない」
黒く、不気味な笑いだった。
「それでは、この先はいかがなさいましょう」
「近衛の姫の襲撃騒ぎと、此度の堀田の流言を使う。まずは一橋派の力を少しでも削ぐ。そして、わたしの大老職の権限を取り戻させてもらう」
直弼は立ち上がった。
「長野、老中を全員集めろ。急ぎの会合を開く!」
「御意」
長野は一礼して出ていき、直弼は部屋に一人残った。
窓の外では、冬の陽の中で松が静かに立ち、その影が地面に長く伸びていた。
「待っていろ。この機を逃すほど、わたしは愚かではない」
直弼は静かに言った。
「必ずや、掴み取ってみせる」
その顔には、深く黒い笑みが浮かんでいた。
七 糸子の策
一橋上屋敷の上段の間に、午後の光が満ちていた。
縁側の外の小庭に冬の陽が差し、石灯籠の細い影が庭石の上に伸びている。付書院の障子を透かして、外の光が柔らかく部屋に入ってきていた。
部屋には糸子と近藤、土方の三人がいた。近藤は改まった顔をしている。土方はいつものように表情が少ないが、話を聞くときの目は鋭かった。
「……それで、何でございましょう、姫様」
土方が口を開いた。
「今回は、土方殿が適任だと判断いたしました」
糸子は言った。
「土方殿には、いったんわたくしの警護の任を離れていただきたいと思いまする」
「どういうことですか? 土方が何か……」
近藤が少し前に出た。
「勘違いしないでくださいまし」
糸子は穏やかに言った。
「土方殿には、今回の襲撃について独自に調べてほしいのです。そのために、いったん警護から外れてもらうのでございます」
「……」
土方は少し考えた。
「ちょうど自分も、江戸に着いたら調べねばならぬと考えていました。望むところです」
「ただ、調べてほしいことは二つだけです。わたくしの考えたとおりなら、ほかは今のところ調べる必要はないと思いまする」
「ほう……」
土方の目が、わずかに動いた。
「それで、土方に何を調べさせるおつもりですか、姫様」
近藤が尋ねた。
「まず一つ目」
糸子は指を一本立てた。
「井伊に危うさを感じている武士や浪人が、おそらく水戸藩を中心に集まっていると思われまする。その規模を調べてくださいまし」
「二つ目」
指が二本になった。
「その中に、彦根藩の動きを常に探っている者がいるはずです。襲撃の前後を含めて、彦根藩の動きをつぶさに見ていた者を見つけ出し、詳しい話を聞いてきてほしいのです」
近藤が、少し眉を上げた。
「姫様は、今回の襲撃の黒幕が誰か、お分かりのようですな」
「こんなことをする人物は、今の江戸を見渡しても、わたくしには一人しか思い当たりませぬ」
「なるほど」
土方が静かに言った。
「いわば姫様は、その黒幕が誰なのか、確かめる仕事を私にやらせたいわけですな」
「そうでございます、土方殿」
糸子は頷くと、胸元から書状を取り出して土方の前に置いた。
「姫様、この書状は?」
「江戸の呉服商、松屋へ持っていきなさい。調べの費えとして、十両を渡してもらえまする」
土方の目が、わずかに見開かれた。
「……姫様は太っ腹でございますな」
「もし余ったら、旭狼衛の慰労に使ってください。今回は本当に助かりましたゆえ」
糸子はにっこりと笑った。
「姫様、本当によろしいので?」
近藤が念を押した。
「それでは遠慮なく。早速、失礼します」
土方は書状を懐にしまい、立ち上がった。
「土方殿」
糸子が呼び止めた。
「危ないと思ったら、すぐに引き上げてくださいまし。あなたの命のほうが、何よりも大事でございます」
土方の足が止まった。その表情が、ほんのわずかに動いた。
「姫様、忝う存じます。それでは」
土方が部屋を出ていき、近藤も続いて腰を上げた。
「某も、土方の別任務の件を旭狼衛の皆に伝えてまいります。いったん失礼いたします」
障子が閉まった。
八 倍返しだ
上段の間に、糸子は一人で残った。
縁側の外の庭に、冬の午後の日が差していた。かすかな風に松の葉が揺れ、石灯籠の影が少し動いた。
糸子は縁側のほうへ向き直って、庭を眺めた。この二日間のことが、頭の中を流れていった。
品川に泊まったことが漏れていた。二十六名もの人数が集められた。水戸の名がわざと残されていた。
直弼が長野に漏らした「独り言」を、糸子は知らない。それでも、起きたことを並べてみれば分かる。誰かが、計画を立てて動いていた。
狙いは二つだ。糸子を消すこと。そして、水戸に、ひいては一橋派に疑いをかけること。一石二鳥の企てだった。
けれど、それはしくじった。旭狼衛がいたからだ。
糸子は改めて、そのことに感謝した。近藤が、土方が、沖田が、斎藤が、みんながいたから、自分は今ここに座っていられる。
そして、しくじった以上、次の手が来るはずだった。今ごろ城内で、何かが広がっているかもしれない。糸子の手元に、その知らせはまだない。けれど、こういう相手が動くなら、次は噂と情報の戦いになる。
土方が調べれば、何かが分かるはずだった。
糸子は小さく息をついた。午後の光の中に、庭の松が立っている。京の近衛家の松とは違う松だ。それでも、同じ冬の光を浴びていた。
「……そっちが仕掛けてきたんだから」
糸子はつぶやいた。
「遠慮なんて一切しないわよ」
声が、静かな部屋に広がった。次の言葉は、もう少し大きかった。
「やられたらやり返す」
そして。
「倍返しだ!!!」
糸子の目が笑っていた。いつもの柔らかい笑みではない。百貨店のバイヤーとして、競合との値の駆け引きに勝ってきたときの顔。大学院で幕末経済史の史料を読み解いていたときの顔だった。
「うけけけけけーーーーーーっ」
笑い声が漏れた。小さく、けれど止まらずに。
縁側の外には誰もいない。松と石灯籠と、冬の午後の光があるだけだった。
近衛糸子は上段の間の高い畳の上で、一人、少し前のめりになって腹黒く笑っていた。公家の姫君の優雅な佇まいとはかけ離れた顔だった。
けれど、これが糸子の本当の顔だった。九歳から三年半かけて、準備を重ねてきた。天朝物産会所を作り、御門様の信頼を得て、英語を学び、旭狼衛を作り、堀田との情報の筋を築いた。すべては、ここへ来るためだった。
その「ここ」に着いたその日に、刺客を差し向けてきた者がいる。ならば、答えは一つだ。倍にして返す。
笑いが少し収まると、糸子は帳面を広げて筆を取った。
土方に調べさせる件。堀田に求めること。次に打つ手の順番。頭の中にあるものを一つずつ、丁寧に書き出していった。
江戸の冬の午後は短い。
陽が傾くにつれて、石灯籠の影も松の枝の影も長く伸び、部屋の中に夕方の光が斜めに差しこんできた。糸子はまだ書き続けていた。
ここからが始まりだった。
品川沖で見た蒸気軍艦の黒い煙突。高輪の海沿いから見た富士。この時代のすべてが、頭の中にあった。
近衛糸子は、江戸にいた。言葉と知恵と誠実さで戦うと決めていた。けれど、やられたままでいる理由は、どこにもなかった。
筆が帳面の上を走り、冬の夕暮れの中で、糸子の策が一行ずつ形になっていった。
第四十五話 了
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