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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第四十三話「出発前日」

一 

 翌朝、糸子は御所に参内した。

 秋の御所は静かだった。

 回廊の外に見える庭では、紅葉した木々が朝の光を受けて輝いていた。

 楓が赤く、銀杏が黄に、それぞれに染まって、御所の白い砂の上に色とりどりの 葉を落としていた。

 踏んで歩けば乾いた音がするはずだが、この場所では誰も踏んで歩かない。

 砂の上の葉は、そのままそっと置かれていた。

 まるで誰かが丁寧に並べたもののように、静かに横たわっていた。

 糸子は小部屋に通された。

 いつもの部屋だった。

 畳の青みが少し薄くなっていた。

 三年以上、この部屋に通い続けている。

 最初に来た時、自分がここに座った時の緊張を、糸子は今でも覚えている。

 御簾の向こうに、気配があった。

「面を上げよ」

「はい。本日は御門様に二つのことをご報告しに参りましてございます」

「申せ」

 糸子は少し間を置いた後、言った。

「一つ目は、英語の習熟が実践水準に達したことです。村田蔵六殿から、これ以上教えることがないと言っていただきました。江戸に行く準備が整いましてこざいます」

「そうか」

「そして本日、幕府老中太田資始様より、御門様のご意向を確認するお役目として会談の同席をお願いする書状をいただいてございます。老中堀田正睦様の推薦を経て、老中合議にて承認を得ているとのことでございました」

 御簾の向こうが、少し動いた。

「……そうか。来たか」

「はい」

 糸子は一度頭を下げた。そして——再び顔を上げた。

「そして本日は、恐れ多くも御門様に伏してお願いしたき儀がございます」

「何じゃ」

「天朝物産会所に対して、幕府内で規制の議論が出ております。直接の規制ではなく、調査という形でございますが——この動きが続けば、商売に支障が出る可能性があります」

 御簾の向こうが静まった。

「天朝物産会所は、御所御用達の商売じゃが?」

「そうでございます。だからこそ、お願いがありまする」

 糸子が静かに言った。

「御所御用達であることを、正式な御朱印状として明文化していただけますよう伏してお願い申し上げまする。文書として残ることで、幕府が規制をかけることへの政治的な壁が高くなりまする」

 糸子が静かに平伏する。

「……朱印状を、ということか」

「左様でございます。御門様の直筆で、天朝物産会所が御所御用達の商いであることを証明していただければ——幕府が御所への商売を妨害することは、政治的に極めて難しくなりましょう」

 御簾の向こうが、長い間、沈黙した。

 糸子は平伏したまま動かなかった。

 この沈黙には、答えが含まれている。嫌なのであれば、すぐに言葉が来る。沈黙は、考えていることを意味する。

 庭から、風の音が来た。木の葉が揺れる音が、かすかに聞こえた。

「……実は朕も、以前からそなたに何か褒美を与えたいと思っていた」

「御門様…?」

 顔を上げる糸子。

「そなたはずっと朕のために動いてくれた。英語を学び、条件を整え、情報を集め——朕が何もできなかった時に、朕のために動いてくれた」

「それはわたくしのお役目です」

「役目だとしても——朕は感謝しておる。その感謝を、形にしたいと思っていた」

 御簾の向こうの声が、少し穏やかになった。

「証文を書こう」

「御門様——」

「朕が直筆で書く。署名も入れる。それでよいか」

 糸子は少し黙った後、深く頭を下げた。

「誠にありがたく存じ奉ります、御門様。このお心遣いに、深く感謝申し上げまする」

「そなたが感謝するものではない。朕こそ、そなたに感謝しておる」

「……御門様への、益々の誠心誠意、ここに誓いまする」

 糸子は御門様の前で、深く平伏した。

 額が畳についた。

 その姿勢のまま、少しの間、動かなかった。


 御門様の言葉が続く。

「糸子よ…」

「はい」

「江戸へは気をつけて行ってきなさい」

「御門様…?」

「そなたは前に言った。身分など、この際どうでもよい、生きねば何もできぬ、と…」

糸子が少し驚く。

「御門様、それはわたくしが申し上げたことですが——」

「朕も同じことを思うておる。そなたは生きて帰ってこなければならぬ」

「はい」

「約束しなさい」

「はい、お約束致します、必ずや…」

 御簾の向こうで、御門様はしばらく何も言わなかった。

 二人の間に、言葉ではない何かが流れていた。


 拝謁後、廊下でさとが言う。

「姫君様、御門様がお声を詰まらせておられました」

「え?」

 驚く糸子。

「御簾の外からは分かりませんでしたが、わたくしには分かります…」

「きっと姫君様が心配なのでございましょう」

 糸子が動けなくなる。


「御門様………」

「ご恩情、深く深く感謝申し上げます」

 来た廊下を振り返り、その先を見つめながら深く頭を下げる糸子がいた。

 その目には薄っすらと涙が浮かんでいた。



二 

 翌日、さとが近衛家に御朱印状を持ってきた。

 朝の光が縁側に差し込んでいた。楓の葉の影が畳の上に落ちて、風が吹くたびにその影が揺れた。

 さとは糸子の前に座って、両手で御朱印状を差し出した。

「御門様から、姫様にお届けするようにとのことでございます」

「忝なくもありがたく存じます、さと」

 糸子は両手で受け取った。

 白い和紙に、墨の字が流れるように書かれていた。

 糸子はゆっくりと読んだ。


 『近衛家天朝物産会所は御所御用達の商事機構として、御所の用を担うものである。この商いは御所と朝廷のための業であり、その活動を妨げることは御所の御用を妨げることに等しい』


 文書の最後には、御門様の直筆の署名があった。御名で『統仁』と…

 揺るぎない御花押が堂々と記されていた。

 糸子は御朱印状を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。

 この一枚が——天朝物産会所を、普通の商売から「朝廷と結びついた準公的な存在」に変える。

 幕府がこれを前にして規制をかけるためには、御所への介入という政治的な責任を負わなければならない。それは今の幕府には、それはできない。朝廷との関係がすでに微妙な今、御所御用達の商売を妨害したという事実は、幕府の政治的な立場を大きく傷つける。

 一枚の紙が、盾になる。

「さと、御門様に深く感謝申し上げますとお伝えください」

「はい。御門様は——証文をお書きしながら、嬉しそうなお顔をされておりました」

「嬉しそうに?」

「はい」

 さとが少し続けた。

「お久しぶりに、ご自分のできることをしたというお顔でございました」

 糸子は御朱印状を見つめたまま、少し黙った。

 御門様のあの声が、また耳によみがえった。

 (朕が何もできなかった時に、朕のために動いてくれた——)

「そうでございましたか」

「はい」

「……それを聞けて、何よりの言葉になりまする。」

 糸子は御朱印状を大切に持っていた。


三 

 江戸では、井伊の懐刀、長野義言が動いていた。

 秋の江戸の空は高かった。しかし長野が詰める彦根藩江戸藩邸の一室では、書類が積み上がっていた。

 天朝物産会所への調査、という名目の書類だ。

 御所御用達を名乗る商いについて、その実態を確認する——という形で、幕府の事務方を動かす準備を長野は進めていた。

直接の規制ではない。調査という名目だ。

調査の結果として問題が見つかれば、それを根拠に制限をかける。

問題が見つからなくても、調査が入ったという事実があかの相手方を萎縮させる。

 どちらに転んでも、天朝物産会所の活動に支障が出る。

 長野はそう計算していた。

 しかし——その調査書が正式に動き始めようとした時、幕府の担当者が長野のもとに来た。

「長野殿、少し問題が生じました」

「何だ」

「天朝物産会所について——御門様直筆の御朱印状が出ました」

「御朱印状?」

「はい。『近衛家天朝物産会所は御所御用達の商事機構として、御所の用を担うものである。この商いは御所と朝廷のための業であり、その活動を妨げることは御所の御用を妨げることに等しい』との御門様のお言葉が、御朱印状として正式にお出しされました」

 長野が少し止まった。

「御門様直筆で…」

「はい。署名入りだそうです」

 長野が黙った。

 書類の上に視線を落としたまま、しばらく動かなかった。

「……これは調査を続けることができないな」

「難しい状況です。御所御用達の商いを調査するという名目は、この御朱印状の前では——御所への介入という形になってしまいます」

「では幕府が御所に介入したということになる」

「はい。政治的に——」

「分かっている」

 長野が書類を置いた。

「井伊様にご報告する」


 彦根藩江戸藩邸の奥の間で、井伊はその報告を聞いた。

 部屋は薄暗かった。秋の午後の光が障子越しに差し込んでいたが、部屋の中は沈んでいた。

 長野が状況を説明する間、井伊は静かに聞いていた。

 その表情は動かなかった。

 聞き終えた後も、しばらく何も言わなかった。

「……御門様直筆の御朱印状が出たんだな」

「はい」

「御門様の直筆と署名のある御朱印状を持つ商いに、幕府が規制をかけることは——」

「政治的に不可能です。幕府が御所に介入したという形になります」

 直弼が歯を食いしばった。

 音にはならなかったが、その沈黙の中に、何か固いものが含まれていた。

「……またも、こちらの手が封じられたか」

 井伊が立ち上がった。

「誰がこれを仕組んだ。御門様に御朱印状を書かせた者がいる」

「……規制の動きが出た直後に御朱印状が出たとすれば、近衛家が我々の動きを事前に察知していた可能性があります」

「近衛家が——」

 井伊が少し考えた後、言った。

「近衛家は、わたしの動きを知っていた。規制の動きが出た直後に、御門様から御朱印状を取ったとすれば——近衛家はわたしの情報を握っているということだ」

「しかし近衛家が流言の発信元だという証拠は——」

「まだない。しかし——この連鎖が偶然とは思えん」

 直弼が窓の外を見た。

 秋の空が低かった。雲が動いていた。

「朝廷が——幕府に対して反抗的な態度を取っている」

 その言葉は、静かだった。

 静かさの中に、どす黒いものが含まれていた。

「これ以上、朝廷が幕府の権限を侵すようなことをするならば——朝廷への対応も考えなければならない」

「井伊様、それは——」

「今すぐは何もしない。しかし——覚えておくとしよう。朝廷が幕府の敵対勢力と繋がっている可能性を、覚えておく!」

 長野が少し顔を引き締めた。

「……承知しました」

 部屋に沈黙が戻った。

 秋の光が障子を透かして薄く差し込んでいたが、その光はどこか冷たかった。


四 

 江戸の一角で、近藤長次郎はその話を聞いた。

 夕暮れの商人街の一隅、いつも情報が集まってくる小さな茶屋だった。店の前では人が行き交い、荷車が通り過ぎ、江戸の秋の夕暮れが橙色に通りを染めていた。

 商人仲間から耳に入ってきた情報だった。

「天朝物産会所に幕府が調査を入れようとしたが、御門様直筆の御朱印状が出たおかげで骨抜きになった」という話だ。

 長次郎はその話を聞きながら、湯呑みを持ったまま動かなかった。

 頭の中で、何かが繋がっていた。

 天朝物産会所。御所御用達の商い。以前、龍馬が「地図を持っている方がいる」と言っていた。その方は商いと言葉と御所の権威を使っているとも言っていた。そして龍馬から活動資金を受け取る場所として、松屋と鴻池の名前が出ていた。

 松屋は——天朝物産会所と取引がある呉服商だ。

「……そういうことか」

 長次郎が小さく呟いた。

 龍馬に会いに行った。

 龍馬は宿の部屋にいた。何かを考えているように、窓の外の夕暮れを見ていた。

「龍馬さん、一つ聞いていいですかよ」

「何ぜよ」

「天朝物産会所の話を聞いたぜよ。幕府が調査しようとしたが、御門様の御朱印状で骨抜きになったと」

 龍馬が少し表情を固くした。

「それで?」

「こじゃんと鮮やかですぜよ。規制をかけようとした瞬間に、それを封じる御朱印状が出た。事前に動きを察知して、先手を打ったということぜよ」

「……そうやな」

「龍馬さん、わしはなんとなく分かってきたぜよ」

「何が」

「龍馬さんの後ろに誰がついているか」

 龍馬が少し沈黙した。

「……そうかよ」

 その返しは肯定でも否定でもなかった。しかし長次郎には、それで十分だった。

「言わんでいいぜよ。ただ——一つだけ言わせてください」

「何ぜよ」

「天朝物産会所という名前は——今後、人前では決して出さんことぜよ」

 龍馬が少し顔色を変えた。

「お、おう……」

「分かったかえ?、龍馬さん。もう二度と人前では言わんと約束しとうせ」

「も、もう二度と人前では言わんきに!」

 龍馬が少し焦りながら答えた。

 長次郎は湯呑みを置いた。

「……こじゃんと鮮やかやねえ。その方は」

 静かに言った。

「商売を政治の盾にするとは——わしには思いつかん発想ぜよ」

「そうぜよ」

「ええ主をもったちや、龍馬さん」

「……まったくぜよ」

 龍馬が少し遠い目をして言った。

 夕暮れの光が窓から差し込んで、二人の間の畳を橙色に染めていた。


五 父・忠房への報告

 書状が届いた翌日の午後、糸子は父・忠房に話しに行った。

 忠房は書院にいた。書物を前にしていたが、読んでいなかった。窓の外の庭を見ていた。楓の葉が一枚、また一枚と落ちていくのを、ただ見ていた。

「父上、お時間をいただけましょうや」

「入りなさい」

 糸子は書院に入り、忠房の前に座った。

 書状を差し出した。

 忠房が受け取った。

 広げて、読み始めた。

 糸子は動かなかった。

 父の表情を見ていた。忠房は読む間、ほとんど表情を変えなかった。しかし目が書状の上を動くにつれて、その目の奥で何かが動いているのが分かった。

 読み終えた後、しばらく黙っていた。

「……来たか」

「はい」

「江戸に行くのか」

「はい」

「幕府が認めたな」

「老中合議で承認されたとのことでございます」

 忠房がもう一度書状を見た。

「一橋藩の上屋敷の一角が用意される」

「はい」

「近衛家の格式に相応しい屋敷を、との言葉もある」

「はい」

 忠房が書状を丁寧に折りたたんだ。

 机の上に置いた。

 そして——糸子を見た。

「糸子」

「はい」

「お前は——本当によくやってきた」

 その言葉が、静かに座敷に落ちた。

 忠房はほとんど感情を表に出さない人だ。そのことを糸子はよく知っていた。父上が怒っている時も、悲しんでいる時も、喜んでいる時も——その感情は言葉の奥にある。表面には、静かさが来る。

 だから今の「本当によくやってきた」という言葉が、どれほどの重さを持っているかを、糸子は知っていた。

「屋根を直すことから始めた。商売を始めた。御所御用達の称号を得た。御門様と信頼関係を築いた。近藤たちを召し抱えた。英語を学んだ。堀田殿と伝達網を作った。島津斉彬殿とも対話した」

「父上——」

「わたしは何もしていない。お前が全部やったことだ」

「そんなことはございませぬ。父上が許してくださったからこそ、動けました」

「許すだけでは何もできない。糸子、お前が動いた結果だ」

 忠房が続けた。

「わたしはずっと、お前のことを見ていた。生まれた時から、今まで」

「はい」

「最初は——何も言わずに見ているのが最善だと思っていた。お前には、わたしが思いつかないことを考える力がある。その力を、わたしが邪魔してはいけないと思っていた」

 糸子の目が、少し潤んだ。

 こらえた。

 こらえようとした。

「お前はここまで本当によくやってきた。わたしはそんな糸子をずっと見守っていた。だからわかる」

 忠房が言った。

「お前は必ずや結果を出せる」

「父上……」

「だから糸子よ、安心して江戸に行ってきなさい。そして——無事元気に帰っておいで」

 糸子は父の言葉を聞きながら、頭を下げた。

 涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえた。

 こらえても、声が少し震えた。

「お父上、お心遣い、痛み入ります」

 少し間があった。

「糸子はその言葉を胸に、元気に江戸へ行ってまいります」

「元気に行ってきなさい」

 忠房の声も、少し震えていた。

 庭から、風の音が来た。楓の葉が揺れる音が、かすかに聞こえた。

 二人は、しばらく黙っていた。

 その沈黙に、多くのものが含まれていた。


六 

 書状が届いてから数日、糸子は具体的な準備を始めた。

 まず天朝物産会所の引き継ぎだ。

「村岡、天朝物産会所の日々の業務は、あなたに引き継ぎまする」

「はい、承知いたしました」

「判断が難しい問題が出た時は、善次郎に相談してくださいまし。善次郎からわたくしへの連絡は、松屋を通じて届くようにしてありまする」

「はい」

「御所との関係については、さとに引き続きお願いしてございます。さととの連絡は、これまで通りの形でお願い致しまする」

「はい」

「あと一つだけ、注意事項がありまする」

「何でしょうか?」

「幕府から何か調査の話が来た場合、御門様の御朱印状を実光様に見せてくださいまし。対応の方法を実光様が知っていおりましょう」

「承知致しました」

 次に京に呼び寄せた善次郎への指示だった。

「善次郎、わたくしが江戸にいる間の動きについて——普段より少し注意を高めてくださいませ。幕府内で規制の話が出たことは、まだ続いておりましょう。不自然な話が来た時は、すぐに知らせてくださいまし」

 善次郎が頷いた。

「もう一つ。坂本殿たちの活動についての情報が入った時は——急ぎで松屋経由でわたくしに届けてくださいませ」

「承知致しました」

 善次郎が退室した後、糸子は帳面を開いた。

 引き継ぎの確認事項を書いた。村岡への業務、さとへの御所連絡、善次郎への情報収集——それぞれの担当と連絡経路を整理した。

 糸子がいなくても、仕組みが動き続けるようにする。

 自分がいる時だけ機能する組織は、脆い。自分がいなくても動き続ける仕組みを作ることが、組織を作る意味だ。

 それを糸子は、この三年間で学んでいた。


七 出発前夜——夜の対話

 江戸へ出発する前夜だった。

 空が暗くなるにつれて、近衛家の庭は静まっていった。昼の間は風があって、楓の葉が何枚も落ちていた。しかし夜になると風も止んで、庭は静かになった。

 月が出ていた。

 秋の月だ。空気が澄んでいるから、月の輪郭がはっきりとしている。夏の月のように霞んでいない。冬の月のように冷たすぎるわけでもない。ちょうど今の季節の月は、透明で、どこか孤独な美しさを持っていた。

 糸子は一人で庭に出ていた。

 縁側に立って、空を見上げていた。

 星が多かった。御所の方角の空に、冷たい星が並んでいた。

「斉彬様、続けてます」

 声に出して言った。

「約束通り、続けておりますよ」

 秋の風が庭を渡った。

 紅葉した葉が一枚、糸子の足元に落ちた。

 音もなく、ただひらりと、着地した。

 糸子はその葉を見た。

 三年前の夏の終わりに、島津斉彬は逝った。その知らせを受けた日のことを、今でも覚えている。あの時、糸子は何かが終わった、と思った。終わりかけた何かを、自分が続けなければならない、とも思った。

 続けてきた。

「行きまする」

 星に向かって言った。

「この国の百年先のために——江戸に行ってきまする」


 縁側から、足音が来た。

 近藤だった。

「姫様、明日は早いですよ」

「存じ上げております。もう少しだけ…」

「御意…」

 近藤はそのまま帰らなかった。

 縁側の端に立ったまま、糸子と同じように庭を見ていた。

 しばらく、二人とも何も言わなかった。

 月が少し動いていた。

 近藤が言った。

「姫様、一つだけ聞かせてください」

「はい、何でございましょう」

「怖くはないですか」

「怖い、とは…?」

「江戸に行くことが。我々旭狼衛を連れて、近衛家の姫君として、幕府の心臓部に乗り込むということが。そしてハリスという異国の外交官と、言葉で戦うことが」

 糸子は月を見上げたまま、少し間を置いた。

 近藤がこういう問いを発することは、珍しかった。この男は普段、感情に関わる問いを発しない。武士として、護衛として、必要なことだけを確認する。それが近藤という人間だった。

 だから今この問いは——近藤自身の何かから来ている、と糸子は感じた。

「怖くないと言えば嘘になりましょう」

「はい」

「なれど——怖いことは、しないことの理由にはなりませぬ」

「なぜですか?」

「怖いことを全くしなければ、わたくしにできることは何もなくなりましょう。この三年間、全部がゆゆしゅう存じました」

 糸子は続けた。

「田辺屋が来た時も。御門様の前に初めて出た時も。堀田殿と話した時も。万次郎殿と英語で話した時も。旭狼衛を召し抱えると決めた時も。斉彬殿が逝かれたと聞いた時も——全部、心細うおじゃりました」

「それでも動いた」

「止まりかねたに相違ございませぬ」

 近藤が少し笑った。

 静かな、しかし確かな笑いだった。

「姫様、一つだけ申し上げます」

「はい」

「怖いことを怖いと言える方が、某は信頼できます」

「どういう意味でございますか」

 近藤がゆっくりと言った。

「怖くないと言う人間は、本当の危険が分かっていない場合があります。何が起きるかを正確に理解していれば、怖くならない方がおかしい。しかし怖いと知りながら動く人間は——最も危険な時に、最も正確に動けます。頭が冷えているからです。覚悟が、感情を押しのけるからです」

「……近藤殿は怖くないのですか。このお役目が」

 近藤が少し黙った。

「怖いです」

「え?」

「怖いです、某も」

 近藤が月を見上げた。

「姫様が御簾の向こうでハリスと話している間、自分は外にいます。建物の中で何が起きているか、外からは分からない。分からないまま待っている。それが——怖い」

「近藤殿が怖いとおっしゃるとは、意外でございました」

「某も人間ですから…」

 短い沈黙があった。

 月の光が庭の苔の上に落ちて、淡く光っていた。楓の木の影が長く伸びていた。

「近藤殿、約束させてくださいまし」

「はい」

「わたくしは言葉で戦いましょう。近藤殿たちが剣を使わなければならない状況を、できる限り作らないようにしまする」

「……それは」

「近藤殿たちに剣を使わせることは、近藤殿たちが危険に晒されることでございます。だからわたくしは、言葉で全部片付けましょう。交渉の場の中では——わたくしが守りまする」

 近藤がしばらく黙った。

 その沈黙は、先ほどのものとは違った。

 何かを、受け取っている沈黙だった。

「……姫様に守られている気がします」

「互いに守り合いましょう」

「御意」

「近藤殿たちが外を守ってくださるから、わたくしは中に集中できまする。わたくしが中で言葉を尽くすから、近藤殿たちが剣を使う必要がなくなるのでございます。そういう形になりましょう」

「……そうですね」

 近藤の声が、少し穏やかになった。

「俺たちが剣を一度も使わずに、このお役目が終わればいい」

「そうなるよう、わたくしが努めまする」

「はい。某たちも、そうなるよう、外で努めましょう」

 二人は少しの間、庭を見ていた。

 月が雲に少し隠れた。庭が薄暗くなった。そしてまた雲が動いて、月が出た。

 光が戻った。

 近藤が言った。

「姫様、江戸までの移動体制について、最後に確認させてください」

「はい」

「江戸には旭狼衛の護衛十五名で向かいます。三名が先発として地形の確認をします。四名が常時動ける状態を維持して、二名が宿泊場所を守ります。残りが交代で体を休みつつ、あとは道中の手配を行う者や荷物持ちとして武士の格好はせず、旅人や町人に変装する二名が、姫様をお守りします」

「それから姫様の侍女がニ名、交代人員を含む駕籠舁を3名。善次郎殿が信頼できる者を用意した者たちの計二十名にての移動になります」

「旭狼衛は十五名で足りましょうや」

「足りるよう動きます」

「近藤殿」

「はい」

「十五名全員の名前と、それぞれの得意なことを——出発の前に、もう一度教えてくださいまし。わたくしが一人一人を覚えまする」

 近藤が少し驚いた顔をした。

「なぜですか?」

「名前を知っているということは、その人を知っているということでございます。数ではなく、人間として見ている、という意味にしたいのでございます」

「……姫様」

「出発の朝に、全員に一言ずつ言葉をかけましょう。だから覚えまする」

 近藤が少し沈黙した。

「……御意。明日の朝、全員の名前と得意なことをお伝えします。喜ぶと思いますよ、あいつら…」

「かたじけなく存じます」

 近藤が一礼した。

「姫様、今夜はもう休んでください。明日は早いです」

「はい。もう少しだけ、星を見させてくださいまし」

「……御意」

 近藤が退いた。

 足音が遠ざかっていった。

 糸子は一人になった。

 月を見上げた。

 星がまだ多かった。御所の方角の空に、冷たい星が並んでいた。


八 最後の夜

 部屋に戻った。

 行燈の光が静かに揺れていた。

 帳面を開いた。

 明日の準備の最終確認を書いた。

 持ち物の確認。書状の確認。万次郎への連絡網の確認。実光様との合流の確認。村田蔵六の同行の確認。

 一つ一つを書いていった。

 書くことで、頭が整理される。整理されると、落ち着く。落ち着くと、次に何が必要かが見えてくる。

 この習慣も、この三年間で身についたものだ。

 最初の頃は、焦ると何も書けないときがあった。言葉が後からついてこなかった。しかし今は違う。焦った時こそ書く。書けば落ち着く。それを知っている。

 確認事項を書き終えた後、糸子は筆を持ったまましばらく動かなかった。

 帳面の白い紙が、行燈の光を受けて柔らかく光っていた。

 この帳面を最初に開いたのは、いつのことだろうか。

 英語の最初の授業の日だった。村田蔵六が来る前に、糸子は新しい帳面に「英語の授業 始め」と書いた。小さな手で書いたその文字は、今よりずっと稚拙だった。

 今の自分が書く文字は、あの頃と違う。

 文字だけではない。中身も違う——すべてが、あの頃とは違う。

 しかし、根っこは同じだ。

 転生した自分が「幕末にこの国のことを考えたら、英語が必須だ…」と感じたこと。その思いは、今も変わっていない。形は変わった。言葉がこの時代のものになった。方法がより具体的になった。しかし——なぜそうするのか?という、最も深いところにある理由は、変わっていない。

 糸子は最後に一行だけ書いた。

「三年間の準備したことが、江戸につけば実践する日に変わる」

 帳面を閉じた。

 行燈の光が揺れた。

 外では、秋の虫が鳴いていた。夜が深まるにつれて、虫の声は少なくなっていた。しかしまだ鳴いていた。

 糸子は床に就いた。

 すぐには眠れなかった。

 天井を見上げて、今夜の近藤の言葉を思い出していた。

 怖いことを怖いと言える方が、信頼できる。

 そして——互いに守り合っている。

 その言葉が、糸子の中でゆっくりと沈んでいった。

 眠れないまま、しかし焦らなかった。

 眠れない夜もある。それでいい。明日、体が動けば、それで十分だ。

 庭で、虫がまだ鳴いていた。

 月が、窓の障子を薄く照らしていた。

 江戸は——この月の下、東の方角にある。

 同じ月が、江戸を照らしている。

 ハリスも、同じ月を見ているかもしれない。

 糸子はそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じた。

 明日が来る。

 行く時が来たのだ。本番はもうすぐだ。


 第四十三話 了

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