第四十四話「江戸へ——言葉と刃の道中」
一 彦根藩江戸藩邸
秋の終わりの江戸には、どこか張り詰めた空気がある。
空は高く澄んでいたが、夏の澄み方とは違っていた。夏の空は遠い。秋の終わりの空は透きとおっているくせに近く、手を伸ばせば届きそうなところまで冷たい青が降りてきていた。
彦根藩江戸藩邸の一室は、その空とは裏腹に薄暗かった。秋が深まるにつれて日の差しこみが浅くなり、障子を開け放っても庭の光は部屋の奥まで届かない。朝の光は鋭いがすぐに引いてしまい、部屋の隅はいつも影に沈んでいた。
井伊直弼は、その薄暗がりに座っていた。膝の上には書類も茶もない。ただ座っているだけだった。
そこへ長野義言が入ってきた。
「井伊様、少々よろしいでしょうか」
「何だ」
「先ほど、幕府の事務方より書状が届きました。堀田様のご推挙に関するものでございます」
直弼は差し出された書状を受け取って広げたが、最初の数行で指が止まった。
「……なに? メリケンとの調印後の交渉会談に、朝廷の使者が同席するだと?」
「はい、そのように書いてございます」
「その話はいつ決まった」
「どうやら今年の春、堀田様が老中合議の場で持ち出し、条件付きで許しが出たとか……」
長野は少し言いよどんでから続けた。
「私もつい先ほど、堀田様の使いの方から聞いたばかりで……」
「わたしには何の報告もなかったぞ!」
直弼の声は静かだった。静かなぶん、その底にあるものがはっきりと聞き取れた。
「使いの方が申すには、井伊様は何かとお忙しいお方ゆえ、お手を煩わせるわけにはいかなかったと……」
言葉を継ぎながら、長野はわずかに身をすくめた。
直弼が立ち上がった。
「大老とは、本来軽んじられるものではないのだ!!」
叫んだのではない。低く押し出すような声だった。怒鳴られるよりこの声のほうがずっと怖いことを、長野はよく知っていた。
「おっしゃる通りでございます」
「……よほど堀田は、その朝廷の使者を会談に加えたいらしい。わざと報告を遅らせたな」
直弼は手元の書状に目を落とした。
「それで、使者は誰だと書いてある」
「そ、それが——近衛家の姫君とのことで……」
「また近衛か!」
吐き捨てた声には、隠そうともしない憎しみがにじんでいた。
「全くでございます」
長野が頭を下げるあいだに、直弼は続きを読み進めた。今度は一行ずつ確かめるように、ゆっくりと。
「御門様から正式に任じられた役職。天朝外語御用掛……御門様の意向を英語で確かめられる専門家……」
声に出して読んだところで、直弼は顔を上げた。
「……近衛の姫は、メリケン語が話せるのか?」
「……どうやら、そのようでございます」
直弼はしばらく黙りこんだ。その沈黙のあいだに、部屋の隅の影が少し濃くなったように長野には思えた。庭で鳥が一声鳴いた。秋の終わりの鳥は、口数が少ない。
やがて直弼が口を開いた。
「長野」
「はい……」
「今からわたしは独り言を言う。その意を勝手に汲み取れ」
直弼の口元に、笑みのようなものが浮かんだ。笑みの形をしているだけの、黒いものだった。
「御意」
「……近衛の姫君は、京の地よりわざわざこの江戸まで足を運ばれる。……近ごろこの藩邸の周りでも、不審な者を多く見かけるようになった。江戸はなにかと物騒で困る。その姫君が何事もなく、無事に……江戸にお着きになられるとよいなぁ。いや、まことに心配である」
「全くもって、その通りでございます」
顔を上げた長野の口元にも、主と同じ笑みが浮かんでいた。
雲が流れたのか、庭の光がわずかに揺れた。二人はしばらく何も言わなかった。
その日から、彦根藩邸の一部で不穏な動きが始まった。
二 近衛家の別れ
安政六年、冬を間近に控えた京の朝は冷たかった。
霜が降りるほどではないが、吐く息は白い。研ぎ澄まされた空気の中、庭の楓はほとんど葉を落とし、細い枝が冬の青空へ伸びていた。
近衛家の正面には、出立の支度が整っていた。
庭に置かれた上駕籠は、近衛家の姫君の移動と悟られないよう偽装したものだ。駕籠舁の中村庄吉、吉岡清蔵、佐吉弥助が、それぞれの持ち場に控えている。
旭狼衛の面々も庭に並んでいた。先発組の榊原直正、三浦清次郎、早川新之助の三名はすでに江戸へ発っており、小者に化けた長谷川辰吉と木村伊助も別の道筋で先行している。今日出立するのは、主力組の十名だった。
近藤勇
土方歳三
沖田総司
斎藤一
永倉新八
原田左之助
伊東甲子太郎
井上源三郎
藤堂平助
秋山恒一
誰ひとり騒ぐ者はいない。それでいて、張り詰めたものが庭じゅうに満ちていた。
縁側からその庭を見渡して、糸子は思った。とうとう今日が来た。
そこへ、お梅がやってきた。
「姫様」
「はい」
糸子の前に立つとき、この乳母の目はいつも静かだ。気持ちを押し殺しているのではない。気持ちがそのまま静けさになっている、そういう目だった。
「お生まれになった時から今日まで、ずっと見て参りました」
「はい」
「屋根を直すことから始まって、今日まで」
お梅は少し間を置いた。
「お梅が見てきた中で、姫様の一番大きな旅になりますね」
「大げさですよ、お梅」
「大げさではございません」
穏やかな声は、少しも揺らがなかった。
「この旅は、これまでのどの旅とも違います。京を出るのです。幕府のある江戸へ参るのです」
「……帰ってきます。必ず」
「はい。信じてお待ちしております」
お梅はにこりと笑った。
「近衛家のことは、どうぞご安心ください。お梅がおります」
その一言の重さを、糸子は知っていた。お梅がいる限り、何があっても近衛家は揺るがない。そういう意味の言葉だった。
「葵、小夜」
お梅は二人の侍女に向き直った。
「江戸へ行っても、姫様のお世話をしっかりするのですよ」
「はい、心得ております」
二人は揃って深く頭を下げた。葵の顔は引き締まり、小夜は緊張で少しこわばっていたが、どちらもしっかりとした目をしていた。
お梅は最後に近藤へ向き直った。武家の者ではないお梅の礼は、それでも武家の礼と変わらない深さだった。
「近藤殿、姫様を何卒よろしくお頼み申し上げます」
「お梅殿。姫様は我ら旭狼衛一同が全力でお守りいたしますゆえ、安心なめされよ」
短いが、重い答えだった。
「山南、近衛家の守護は任せたぞ!」
近藤が大声で檄を飛ばした。
「私を含めた五人で、しっかり近衛様をお守りいたします。近藤さんは安心して江戸へ行ってください」
山南ら五人が、揃って近藤に会釈した。
近藤の横顔を見ながら、糸子は昨夜の語らいを思い出していた。怖いことを怖いと言える人のほうが信頼できる。互いに守り合っているのだ、と。
「それでは、江戸へ参りましょう。いってきます!」
明るく言って、糸子は上駕籠に乗りこんだ。
駕籠が持ち上がる。隙間から振り返ると、皆が笑顔で手を振っていた。お梅だけは深く頭を下げたまま、しばらく動かなかった。
その唇が「姫様、どうかご無事で……」と動いたことを、糸子は知らない。
近衛家の門が遠ざかっていった。
三 伏見港から大坂へ
一行はまず伏見港へ向かった。
秋の終わりの淀川は水が少なく、川面が下がって川原の石がのぞいていた。石の上に横たわった枯れ草が、風が吹くたびに揺れる。
港には三十石船がつながれていた。糸子が三十石船を見るのは初めてだった。細長い船体に葦簀の屋根を張り、数人の船頭が荷を積みこんでいる。先に乗りこんだ客たち、商人風の男や旅装束の者、子連れの女が、思い思いの場所に腰を落ち着けていた。
近藤が駕籠に近づいてきた。
「姫様、船の支度が整いました。出られます」
「分かりました」
駕籠を降りると、水と泥の混じった淀川の匂いを、冷たい風が運んできた。
乗りこんでほどなく、竿に押し出された船がゆっくりと流れに乗った。
糸子は船べりに座って岸を眺めた。川沿いの家々や蔵、柳の木とともに、伏見の町が少しずつ小さくなっていく。川は南へ、大坂へと下っていた。水面には秋の空が映り、空を流れる雲が水の中でも流れていた。
大坂に着いたのは夕暮れ時だった。
天満の船着き場では船頭が声を張り、荷が降ろされ、客が次々と岸に上がっていく。大坂の空気は京と違っていた。川と海の混じった生臭さと潮気の中に、商いの匂いがする。荷を運ぶ者、受け取る者、それを眺める者の声が、夕暮れの船着き場を満たしていた。
その夜は、大坂の鴻池家に泊まった。
四 大坂から江戸へ——南海路
翌朝、一行は廻船に乗り換えた。
大きな廻船だった。三十石船とは比べものにならない船体に何本もの帆柱が立ち、米俵や酒樽、反物の包みといった江戸行きの荷が山のように積まれている。糸子はその大きさに少し驚いた。
「姫様、これより南海路で江戸の品川沖まで参ります」
「どのくらいかかりましょうや?」
「秋の終わりは海が荒れやすく、風向きも定まりませぬ。順調なら十五日から二十日ほど。ただ、ひと月近くかかることも覚悟しておかねばなりません」
「そうでございますか」
見上げた空は青く、風もそれほど強くない。船出には悪くない日だった。
「近藤殿、外海とはどのような海でございますか」
「大きな海にございます。陸は見えませぬ」
「ほんとね、見えない……」
口に出してから、糸子は心の中でその言葉を繰り返した。前世の記憶には、飛行機の窓から見下ろした太平洋がある。けれどそれは、上から眺めた青い広がりにすぎない。これから向き合うのは、船の上から見る波の中の海だった。
船が動きだし、大坂の岸が遠ざかっていった。
海の旅は、思ったより穏やかだった。はじめの数日は風が安定し、帆をいっぱいに張った船は南へ、それから東へと進んだ。
船縁に手をかけて外を眺めると、もう陸は見えなかった。四方はすべて水で、空と海の境目がどこにあるのかも分からない。空が海に溶け、海がそのまま空へ続いていた。
糸子は帳面を開いた。
「道中でも勉強なさるのですか?」
近藤の声がした。
「はい。止まる理由はありませぬ」
近藤は少し笑った。困ったような、それでいて嬉しそうな笑い方だった。
航路の半ばで、海が荒れた日があった。
波が高くなり、船は大きく揺れた。糸子は艫矢倉の中でじっとしていた。小夜は船酔いで横になり、葵は意地で起きていたものの、顔色がすぐれない。
「姫様は大丈夫なのですか?」
「案外、平気ですよ」
葵の問いに、糸子はにこやかに答えた。前世で乗ったクルーズ船も、こんなふうに揺れたものだ。慣れなのか体質なのか、糸子は波に揺られながら平然と帳面を読んでいた。
荒れた日が続いたあと、また穏やかな日が戻ってきた。
富士山が見えた日のことは、後の話になる。
五 品川沖、そして蒸気軍艦
品川沖に近づいたのは、大坂を出て十八日目のことだった。
朝の光が海を照らすなか、西の方角に陸が見えてきた。はじめは細い線にすぎなかったものが少しずつ形をとり、家並みの輪郭や緑の丘が見え、立ちのぼる煙まで見えるようになった。
艫矢倉の窓から外を見ていた糸子の顔を、冷たい風が叩いた。潮の匂いが濃い。
やがて品川沖が見えてきて、糸子は思わず声を上げた。何隻もの船が停泊し、並んだ廻船のあいだを小舟が行き交っている。圧巻だった。その向こうに、まだ小さいながら、確かに江戸の街があった。
けれど糸子の目が止まったのは、そこではなかった。
品川の軍艦係留所に、黒い船体が浮かんでいた。帆柱だけではない。煙突が立ち、そこから黒い煙がわずかに上がっている。
「……あれは……! 近藤殿! 近藤殿、あれは!?」
近藤が横に来た。
「はい、蒸気軍艦ですね、姫様」
「あれは観光丸? それとも咸臨丸? どっちだろう……」
糸子は目を凝らし、前世で読んだ本に載っていた二隻の記述と、船の形を見比べた。
近藤が少し驚いた顔をした。
「姫様はよくご存知ですなぁ」
「しょ、書物で見たことがあったの!」
糸子は慌てた。転生者として、知りすぎていることには常に気をつけなければならない。それなのに観光丸と咸臨丸の名が、するりと口から出てしまった。
「書物で……」
近藤が生暖かい目をした。「また書物で」という、あの目だ。その意味を、糸子はいやというほど知っていた。
「……品川で一度降りることはできましょうか」
「と、おっしゃいますと?」
「あの蒸気軍艦を近くで見とうございます。船に乗ったまま見るだけでも、できましょうや?」
近藤は少し考えた。
「通り道でございますので、少し近づくくらいはできます」
「是非、お願いしまする!」
糸子の顔が輝いた。
近藤の指示で、船はわずかに針路を変えて蒸気軍艦に近づいた。そばで見ると大きさがよく分かる。帆船に煙突を加え、鉄で補強した黒い船体が、静かに水に浮かんでいた。煙突から出る煙は細い。今は機関を止めているのだろう。それでも、その存在感は圧倒的だった。
「……すごい!」
糸子は小さくつぶやいた。巨大なタンカーも自衛隊の艦船も、前世で見たことがある。それでも、この時代のこの海にこの船が浮かんでいることが胸を打った。この黒い煙突の船が、これから日本の歴史を変えていくのだ。
「……姫様、楽しそうですね」
近藤が微笑んだ。糸子は気づいていなかったが、旭狼衛の面々も、それぞれ柔らかな顔で糸子を見ていた。
品川沖で小舟に乗り換えて品川湊に上がり、その日は品川宿に泊まることにした。江戸までは、あと一行程だった。
六 品川宿の光景
品川宿は、生きていた。
駕籠を降りた糸子は目を見開いた。東海道の入り口にある宿場町だとは知っていたが、実際に見るのは初めてだった。
道は広い、とは言えなかった。二十一世紀の道路と比べればずっと狭く、舗装もされていない。石混じりの土の道は黒く踏み固められていて、雨が降れば泥になるのだろう。ところどころに水たまりの跡が残り、荷車の轍が刻まれていた。
その道に、人があふれていた。
天秤棒の両端に魚の桶や野菜の籠をぶら下げた担ぎ屋が、それぞれの節回しで売り声を張り上げている。
「いわし! いわし! 朝とれの新鮮いわし!」
「大根! 大根! やーやー大根!」
笠をかぶり荷を背負った旅人が、黙々と歩いていく。武士もいれば商人もいて、百姓風の者もいた。みなが同じ道を、それぞれの速さで歩いていた。
宿の前では、客引きが声を張り上げていた。
「旅のお方、うちに泊まっていきなさいな! 飯がうまいですよ!」
「お客さん、一晩いかがですか! 江戸まであと少し、ゆっくり休んでいきなさい!」
道の真ん中では、五、六人の子供が何かを追いかけて走り回っていた。猫か、小石か。声を上げて笑うその声が、通りの喧騒の中でひときわ明るく響いた。
糸子は子供たちに目をやった。二十一世紀の公園で遊ぶ子供とは、着ているものが違う。裸足の子もいて、頬は赤く、手は荒れていた。それでも笑い方は同じだった。子供が笑うときの顔は、時代が変わっても変わらない。
糸子は思わず笑った。
「どうなさいましたか」
後ろから近藤が声をかけた。
「子供たちが、楽しそうで……」
「はい、元気のいい子たちでございますな」
道の端では、女が何かを炒っていた。煙と一緒に、香ばしい匂いが流れてくる。
「あれは何でございますか?」
「煎り豆を売っているのでしょう」
糸子は足を止めた。
「買えますか?」
「……はい。侍女に買わせましょう」
小走りに出ていった葵が、小さな紙の包みを手に戻ってきた。
「どうぞ、姫様」
包みを開けて一粒口に入れると、香ばしさと塩気が広がった。
「……おいしい」
「姫様、道中で物を召し上がるのは……」
近藤が困った顔をした。
「分かっています。ですが、せっかくですから」
糸子はもう一粒つまんだ。
一行が辿り着いたのは、北品川宿の本陣、市郎右衛門家だった。
表向きは「京の豪商の娘」という触れ込みだったが、宿の主人はすべてを察したように額を畳に擦りつけ、一行を奥へ、さらに奥へと導いた。
「ささ、こちらが奥座敷でございます」
通されたのは、本陣の最も奥にある上段の間だった。外の喧騒が嘘のように静まり返っている。一段高く設えた床に青畳が隙なく敷き詰められ、狩野派の流れを汲む豪壮な松の絵の襖の奥で、付書院が海からのかすかな光を拾っていた。
糸子が腰を下ろすと、衣擦れの音だけが静かに響いた。入側の先には手入れの行き届いた小庭があり、そのさらに向こうに品川の海が穏やかに広がっていた。
「ここなら、誰にも邪魔されずにお休みいただけます」
近藤たち旭狼衛は、隣の次の間に控えた。抜き身の刀を傍らに置き、一睡もしない構えで廊下に目を光らせている。
船の上から遠く霞んで見えた紀伊や駿河の陸。今はその陸の上、江戸の入り口にあるこの本陣の、薄暗い行灯の光の中に自分がいる。ようやく手に入れた畳の温もりを感じながら、糸子は小さく息をついた。
庭の向こうに見える品川の海が、夕暮れの橙色に染まっていた。
やがて夕餉が運ばれてきた。冬を目前にした名残と走りが交差する、品川本陣の矜持が詰まった一汁三菜だった。
冷えた指先をまず温めてくれたのは、粕汁の椀だった。灘の酒粕を惜しみなく使い、鮭の切り身と霜降りにした大根がたっぷり入っている。湯気とともに立ちのぼる酒粕の香りが、強張っていた心をゆっくりとほぐしていった。
「……温かいこと。京の冬を思い出しまする」
主菜は、この季節いちばん脂の乗った戻り鰹の刺身だった。江戸っ子が競って求める初鰹とは違い、ねっとりと舌に絡むような濃い旨味がある。それを京から持参した繊細な煎り酒でいただくのが、公家流の嗜みだった。
目を引いたのは、揚げ出し豆腐の葛餡かけだ。からりと揚げた豆腐に、冬の訪れを告げる聖護院蕪のすり流しを加え、吉野葛でとろみをつけた琥珀色の餡がかかっている。名残の柚子の皮がひとひら浮いて、爽やかに香った。
飯は、むかご飯だった。むかごの土の香りと塩気が、ふっくらと炊き上がった米の甘みを引き立てている。
「品川の海は、京の川とはまた違う、力強い冬を連れてくるのでございますね」
箸を運びながら、糸子は窓の外を眺めていた。夕暮れの橙が消えて海は紺色に沈み、品川沖に泊まる船の灯りが点々と浮かびはじめた。その中にひとつ、ひときわ大きな灯りがある。蒸気軍艦の灯りだった。
その灯りを見つめながら、糸子は明日のことを考えた。明日は江戸に入り、一橋上屋敷へ向かう。本当の始まりは、そこからだった。
七 江戸へ——東海道の光景と富士山
翌朝は早く起きた。
空はまだ暗く、夜明け前の海が灰色に光っていた。波の音がかすかに聞こえる。
葵と小夜に身なりを整えてもらっていると、近藤がやってきた。
「姫様、出立の支度が整いました。本日は品川宿から一橋上屋敷まで、上駕籠で参ります」
「道のりを教えてくださいませ」
「はい。品川宿を出て、高輪の海沿いを北へ上ります。大木戸を抜けて増上寺の前を通り、芝から日比谷へ。桜田門の方角を経て城の北側を抜け、神田へ。そこから一橋の上屋敷までで、概ね午後には着けます」
「距離はどのくらいになりましょうや?」
「二里あまりでしょうか」
八〜九キロほどか、と糸子は頭の中で換算した。
「分かりました」
上駕籠が上がり、一行は品川宿を出た。
高輪の海沿いの道は美しかった。右手にはずっと海が続き、秋の朝の海が灰色から少しずつ青に変わっていく。砂浜に波が打ち寄せ、貝殻が散らばっていた。左手の丘には寺社の屋根がのぞき、松並木が続いている。荷を担ぐ者、牛を引く者、走っていく者。江戸へ向かう人と江戸から出てくる人が、道ですれ違っていた。
その道の先に、突然それが現れた。
糸子は声を上げなかった。ただ、上駕籠の中で体が固まった。
富士山だった。
左手の後ろ、丘越し、空の中に白い頂が浮かんでいた。大きい、という言葉では足りない。空を占めていた。秋の終わりの澄んだ空気の中で、雪をかぶった頂だけが青空に静かに立っている。裾野は霞に消えているのに、山頂だけがくっきりと見えた。
前世の記憶にも富士山はある。東名高速から見た富士、飛行機から見た富士、テレビで見た富士。けれど、そのどれとも違った。電線もビルも標識もない。海と松と道があって、その向こうに、ただ富士がある。
この時代の人は、この景色を毎日見ていたのか。
目に涙がにじんだ。なぜ泣きたくなるのか、糸子自身にも分からなかった。美しいからか。それとも、自分がこの時代のこの場所に確かにいることを、初めて全身で感じたからか。
「……姫様、どうなさいました」
駕籠の外から近藤の声がした。
「何でも……ありませぬ。富士山が見えたので」
「左様ですか。この辺りから見る富士は格別でございますからね」
「……はい」
糸子は富士から目を離せないまま、しばらくただ見ていた。自分が転生してきた先の、本物の幕末がここにあった。
八 札の辻——旭狼衛対二十六名
一行は高輪大木戸を抜けて、芝へ向かっていた。
昼前のことだった。海沿いの道が少し内陸へ折れ、芝の町並みが近づいてきたあたりで、沖田が気づいた。
「土方さん……」
「分かってる」
土方が低く答えた。
周りの気配が変わっていた。道の両側の町家に人が多すぎる。茶屋の中には、客にしては多すぎる人数がいる。辻の角を曲がった先にも、何人かが立ち止まっていた。
「二十人以上だな」
土方が静かに言った。
近藤が駕籠に近づいた。
「姫様、我々を追っている者がおります」
「……そうですか」
糸子の声は平静だった。
「良い場所があったら上駕籠を降ろして頂戴。あとは近藤殿に全てお任せいたしまする」
割と平気な声だった。
「……承知しました」
葵と小夜が、上駕籠のそばに寄ってきた。
「ひ、姫様は怖くないのですか?」
小夜が震える声で言い、糸子の袖をつかんだ。
「旭狼衛が守ってくれましょう。大丈夫ですよ」
落ち着いて答えながら葵の顔を見ると、青ざめてはいたが、じっと動かずにいた。
札の辻。道が直角に折れ曲がるところだった。
近藤は即座に判断した。先へ進めば分断される。ここで止まり、ここで迎え撃つ。
「上駕籠を降ろせ」
駕籠舁の庄吉が、素早く駕籠を地面に降ろした。その瞬間、四方から人が湧いて出た。町家の中から、辻の陰から、路地の奥から。武装した男たちが次々に現れ、一行を取り囲んだ。総勢二十六名。
ほとんどが抜き身の刀を手にしており、槍を構えた者も混じっている。身なりはばらばらで、浪人風の者が多く、元は藩士だったと思しき者もいた。
包囲が閉じた。
「近藤さん、遠慮しないでいいんですよね」
沖田の小声は、どこか楽しそうだった。
「一切遠慮するな!」
「全員抜刀! 一人ずつ確実に仕留めろ」
近藤に続いて、土方の声が飛んだ。
「応!」
旭狼衛全員の声が一つになり、刀を抜く音が一斉に鳴った。
刺客の一人が一歩前に出た。その時だった。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
糸子の声が辻に響き渡った。高く澄んだ公家の姫君の声で、しかも叫んでいた。
刺客たちの動きが一瞬止まった。いきなり女の声が響いたうえに、言っていることがさっぱり分からない。助さん? 角さん? 誰のことだ?
そのわずかな停止が、すべてを決めた。
真っ先に飛び出したのは沖田だった。一瞬の隙を見逃さず、最短の軌跡で無駄なく踏みこむ。最初の一人が崩れ落ちるより早く、沖田はもう二人目に向き直っていた。
永倉は真正面から力で押した。向かってくる相手を受け止め、崩し、倒す。槍の使い手である原田は、槍を構えた相手に向かい、穂先を弾いて懐へ入りこんだ。斎藤は音もなく近づき、気づかれないまま一人を倒した。
藤堂と秋山は側面を守り、陣形が崩れないようにした。井上と伊東は後方を固め、逃げ道を押さえながら、突破を図る者を止めた。土方は全体を見渡して戦況をつかみ、指示を飛ばした。
「左の三人、先に行け」
斎藤と永倉が左へ動いた。中央に立つ近藤は、誰ひとり通さなかった。
血が飛び、悲鳴が上がった。刺客は次々と倒れ、数を減らしていった。
糸子は上駕籠の後ろに立っていた。葵は両手で目を覆い、小夜は震えながら地面に座りこんでいる。けれど糸子は、旭狼衛の動きをじっと見ていた。
昨夜、近藤と話したことを思い出す。互いに守り合っている。今、近藤たちは外を守っている。だから自分は、中で何も心配しなくていい。次にすべきことを考えていればいい。
「やっておしまいなさいーーーー!!」
糸子はもう一度叫んだ。
旭狼衛の何人かが、一瞬だけ糸子のほうを見た。笑いそうな、困ったような、それでいて妙に力の入った、おかしな顔になっていた。
小夜は信じられないものを見る目で糸子を見ていた。
葵のほうは、尊敬の眼差しを向けていた。
糸子の頭の中では、なぜか暴れちゃう将軍様のBGMが鳴り響いていた。
五分と経たずに決着がついた。倒れた者が十数人、逃げた者が十人ほど。追いかけようとした隊士を、土方が止めた。
「追うな。残りを押さえろ」
息のある者は縛り上げられた。
「状況確認! みな無事か?」
「藤堂と秋山が手傷を負いましたが、かすり傷です。ほかの者は全員無事です」
「よし」
隊士の報告に、土方が短く応じた。
「姫様、大丈夫でしたか?」
「大丈夫でございます」
近藤に答えたところへ、沖田が寄ってきた。
「姫様が大きな声を出してくれたおかげで、刺客どもの気が一瞬そっちに向いたから、隙をつけましたよ」
「それは良かった……」
「ところで姫様、助さん、角さんって誰ですか?」
沖田が不思議そうに首をかしげた。
「えっ、えーと……」
糸子は目を泳がせ、めちゃくちゃ必死に考えた。
「……夢です! 夢なのです!! 夢に出てきた人なのでございます!!!」
今までで一番、「夢」という言葉に力をこめてみた。言い終えた糸子は、少し赤い顔でもじもじしていた。
「夢?」
近藤の目が光った。
「姫様、あとでゆっくり、その夢についてお聞かせください!」
「……はい」
ああ、またこのパターンか。糸子はうなだれるしかなかった。
九 土方の事後処理
糸子と葵、小夜、そして近藤を含む旭狼衛の数名は、素早くその場を離れた。
あとに残ったのは、土方、斎藤、永倉の三人だった。
土方は落ち着き払っていたが、その目だけは鋭く動いていた。
「骸を検める。斎藤、息のある者を全員押さえろ」
「はい」
倒れた者を一人ずつ確かめ、懐を改めていく。書状を持っている者がいた。土方はそれを開いて目を通した。
「……水戸藩の出の者がいるのか。脱藩浪人だな」
「残りは銭で雇われた者でしょうか」
「身なりからして、そうだろう。寄せ集めだ。まとまりがなかったのはそのせいだ」
証拠の品を集め終えると、永倉が番屋の方角を見た。
「届け出が要りますね」
「分かってる」
土方は最寄りの番屋へ急使を走らせ、何者とも知れぬ不届き者に襲われ、防戦の末にこれこれの人数を斬り倒した、と簡潔に届けさせた。続いて、一橋上屋敷にも人を走らせた。
「援軍を呼べ。二の矢がある恐れがある」
「はい」
斎藤が走った。
土方は現場に残って奉行所の者を待ちながら、あたりに目を配り続けた。逃げた十人の中に、戻ってくる者がいるかもしれない。別の場所に控えていた者がいるかもしれない。
だが、二の矢は来なかった。
やがて番屋の者が駆けつけた。土方は落ち着いて応対した。
「身を守るための、やむを得ぬ仕儀でございます。こちらの方々が証してくださいます」
一部始終を見ていた商人や旅人が、何人も名乗り出た。
事後の処理が進むあいだ、土方は胸の内で考えていた。これは誰の指図か。水戸藩の脱藩浪人に、銭で雇われた浪人。二十六名という数は、大がかりな企てでなければ集まらない。いったい誰がこれだけの人数を揃え、姫様の到着を前もって知っていたのか。
江戸に着いたら、調べる必要がある。
十 一橋上屋敷へ
札の辻を離れた一行は、芝を抜けて北へ進んだ。
増上寺の前を通ると、境内から鐘の音が聞こえた。大きな山門を、参拝の人々が行き来している。
日比谷の広小路に出ると、人はさらに増えた。食べ物、反物、道具と、軒を並べた店はどこも活気にあふれ、呼び込みの声が飛び交っていた。
糸子は桜田門の方角に目をやった。あの門の向こうで何が起きるのかを、糸子は知っている。けれど今は、それを思う時ではなかった。
上駕籠は神田へ向かっていた。
糸子が一橋上屋敷に着いたのは、午後も遅くなってからだった。
門が開き、静まり返った屋敷の中へ通された。用意されていた部屋は広く、近衛家の格式に相応しいという言葉どおりの造りだった。縁側の外には庭があり、木々が色づいている。
部屋に入って腰を下ろすと、糸子はしばらく動かなかった。
京を発ち、伏見から大坂へ、南海路を経て品川へ。そして今、ここにいる。長い旅だった。
けれど、ここは江戸だ。
縁側の向こうで、楓の葉が一枚落ちた。京の近衛家の庭の楓と同じ季節に、同じように落ちていった。
十一 知らせが広がる
その夜のうちに、知らせは広がった。
近衛家の一行が品川から江戸へ向かう途中で二十六名の刺客に襲われ、随行の護衛がすべて撃退した。その話が、幕府の関係者のあいだを駆け巡った。
堀田正睦のもとに知らせが届いたのは、夜だった。報告を聞いた堀田は、しばらく黙っていた。
「……一行は無事か」
「はい。姫様はご無事でございます。護衛の者二名にかすり傷があったとのことですが、重傷者はおりません」
「刺客のほうは」
「十数名が倒れ、残りは逃げたとのことです。水戸藩の脱藩浪人と思しき者が混じっていたという話でございます」
堀田が目を細めた。
「……水戸藩の脱藩浪人だと?」
「はい」
「近衛家の一行の到着を幕府の一部が把握していて、そこに水戸藩につながる者が動いた、ということか?」
「……はい」
「老中合議にかけた話は、一部にしか伝わっていないはずだ。どこかへ漏れたか」
堀田は静かに続けた。
「あるいは、漏らした者がいるか……。しかし、まずいことになった。いくら脱藩浪人とはいえ、水戸藩は一橋派の中心だぞ。どうする」
堀田は必死に考えをめぐらせたが、答えは一向に出てこなかった。
ほかの老中たちにも知らせは届いた。太田資始は驚きを隠さなかった。
「本当に襲われたのか? しかも白昼堂々、二十六名で」
「はい」
「何という大それた企てを……。それで、御使者さん御一行は無事だったと?」
「はい。護衛が見事な働きをしたとのことです。旭狼衛とかいう、近衛家の護衛集団でございます」
「近衛家の護衛集団が、二十六名を返り討ちにしたのか……」
「はい」
太田はしばらく考えこんだ。
「これは、表沙汰にならぬよう収めねばならん。朝廷の御使者が江戸で刺客に襲われたなどと広まれば、幕府の恥だ」
彦根藩江戸藩邸でも、その夜、直弼が知らせを受けた。
長野が報告を終えると、部屋は静まり返った。直弼は窓の外の夜空を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「ちっ……」
小さな舌打ちが、静かな部屋にひとつ落ちた。
だが、その口元にはすぐに黒い笑みが戻っていた。
直弼は窓の外を見つめ続けた。夜空には、秋の終わりの冷たい星が出ていた。
第四十四話 了
決してぶれない糸子さん…┓( ̄∇ ̄;)┏
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