第四十三話「出発前日」
一
翌朝、糸子は御所に参内した。
秋の御所は静かだった。
回廊の外の庭で、紅葉した木々が朝の光を受けて輝いていた。楓は赤く、銀杏は黄に染まり、御所の白い砂の上に色とりどりの葉を落としている。踏めば乾いた音がするはずだが、ここでは誰も踏んで歩かない。砂の上の葉は、誰かが丁寧に並べたかのように、そっと横たわったままだった。
糸子が通されたのは、いつもの小部屋だった。
畳の青みが、少し薄くなっていた。五年近く、この部屋に通い続けてきた。初めてここに座ったときの緊張を、糸子は今も覚えている。
御簾の向こうに、気配があった。
「面を上げよ」
「はい。本日は御門様に、二つのことをご報告しに参りましてございます」
「申せ」
糸子は少し間を置いてから、言った。
「一つ目は、英語の習熟が、実地に使える域に達したことでございます。村田蔵六殿から、もうこれ以上教えることはないとのお言葉をいただきました。江戸へ参る支度が整いましてございます」
「そうか」
「そして昨日、幕府老中の太田資始様より、御門様のご意向を確かめるお役目として、会談への同席を願う書状をいただきました。老中堀田正睦様の推薦を経て、老中合議で承認を得ているとのことでございます」
御簾の向こうが、わずかに動いた。
「……そうか。来たか」
「はい」
糸子は一度頭を下げ、それから再び顔を上げた。
「そして本日は、恐れ多くも、御門様に伏してお願い申し上げたき儀がございます」
「何じゃ」
「天朝物産会所について、幕府の内で取り締まりの議論が出ております。じかの取り締まりではなく、調べという形ではございますが、この動きが続けば、商いに差し障りが出るやもしれませぬ」
御簾の向こうが静まった。
「天朝物産会所は、御所御用達の商いであろう」
「さようでございます。だからこそ、お願いがございまする」
糸子は静かに言った。
「御所御用達であることを、宸翰として正式に書き表していただけますよう、伏してお願い申し上げまする。文書として残れば、幕府が取り締まりをかけることへの政の壁が、ぐっと高くなりまする」
糸子は静かに平伏した。
「……宸翰を、ということか」
「さようでございます。御門様のご直筆で、天朝物産会所が御所御用達の商いであることを証していただければ、幕府が御所への商いを妨げることは、政の上でまず叶わなくなりましょう」
御簾の向こうは、長いあいだ黙っていた。
糸子は平伏したまま動かなかった。
この沈黙には、答えが含まれている。否であれば、すぐに言葉が返ってくる。黙っておられるのは、考えておられるからだ。
庭から風の音が届いた。木の葉の揺れる音が、かすかに聞こえた。
「……実は朕も、以前から、そなたに何か褒美を与えたいと思うていた」
「御門様……?」
糸子は顔を上げた。
「そなたはずっと、朕のために動いてくれた。英語を学び、条件を整え、話を集め、朕が何もできなかったときに、朕のために動いてくれた」
「それは、わたくしのお役目でございます」
「役目だとしても、朕は感謝しておる。その感謝を、形にしたいと思うていた」
御簾の向こうの声が、少し和らいだ。
「証文を書こう」
「御門様……」
「朕が自ら筆を執り、名も記す。それでよいか」
糸子は少し黙ってから、深く頭を下げた。
「誠にありがたく存じ奉ります、御門様。このお心遣いに、深く感謝申し上げまする」
「そなたが感謝することではない。朕こそ、そなたに感謝しておる」
「……御門様へ、いっそうの誠心誠意をここにお誓い申し上げまする」
糸子は深く平伏した。額が畳についた。その姿勢のまま、しばらく動かなかった。
御門様の言葉が続いた。
「糸子よ……」
「はい」
「江戸へは、気をつけて行ってきなさい」
「御門様……?」
「そなたは前に言うたな。身分など、この際どうでもよい。生きねば何もできぬ、と……」
糸子は少し驚いた。
「御門様、それはわたくしが申し上げたことでございますが……」
「朕も同じことを思うておる。そなたは、生きて帰ってこねばならぬ」
「はい」
「約束しなさい」
「はい。お約束いたします、必ずや……」
御簾の向こうで、御門様はしばらく何もおっしゃらなかった。二人のあいだに、言葉ではない何かが流れていた。
拝謁を終えて廊下に出ると、さとが言った。
「姫君様、御門様がお声を詰まらせておられました」
「え?」
糸子は驚いた。
「御簾の外からは分かりませんでしたでしょうが、わたくしには分かります……。きっと、姫君様のことがご心配なのでございましょう」
糸子は、その場から動けなくなった。
「御門様………」
来た廊下を振り返り、その先を見つめながら、糸子は深く頭を下げた。
「ご恩情、深く深く感謝申し上げます」
その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
二
翌日、さとが近衛家に宸翰を届けに来た。
縁側に朝の光が差しこみ、畳の上に落ちた楓の葉の影が、風が吹くたびに揺れていた。
さとは糸子の前に座り、両手で宸翰を差し出した。
「御門様より、姫様にお届けするようにとのことでございます」
「かたじけなく、ありがたく存じます、さと」
糸子は両手で受け取った。白い和紙に、墨の字が流れるように書かれていた。糸子は、ゆっくりと読んだ。
『近衛家天朝物産会所の儀は、全く御所御用達の商事機構たるべく、叡慮を以て御所の御用を総理せしむるものなり。』
『此の商いはひとえに御所並びに朝廷のための天業に候。これに依って、その活動を妨げ候はば、則ち御所の御用を相妨げ候に同じ。いささかも滞りあるべからず。』
文書の最後には、御門様ご直筆の御名『統仁』と、揺るぎない御花押が堂々と記されていた。
糸子は宸翰を両手で持ったまま、しばらく動かなかった。
この一枚が、天朝物産会所を、ただの商いから、朝廷と結びついた半ば公の存在に変える。
幕府がこれを前にして取り締まりをかけるなら、御所に手を突っこむという政の責めを負わなければならない。今の幕府に、それはできない。
朝廷との間柄がただでさえ微妙な今、御所御用達の商いを妨げたという事実は、幕府の立場を大きく傷つける。
一枚の紙が、盾になるのだ。
「さと、御門様に、深く感謝申し上げますとお伝えください」
「はい。御門様は、証文をお書きになりながら、嬉しそうなお顔をなさっておいででした」
「嬉しそうに?」
「はい」
さとは少し言葉を継いだ。
「久しぶりに、ご自分にできることをなさった、というお顔でございました」
糸子は宸翰を見つめたまま、少し黙った。
朕が何もできなかったときに、朕のために動いてくれた。御門様のあの声が、また耳によみがえった。
「そうでございましたか」
「はい」
「……それを伺えたことが、何よりでございます」
糸子は宸翰を、大切に胸に抱いていた。
三
そのころ江戸では、井伊の懐刀、長野義言が動いていた。
秋の江戸の空は高かった。だが長野の詰める彦根藩江戸藩邸の一室には、書類が積み上がっていた。天朝物産会所を調べる、という名目の書類だ。
御所御用達を名乗る商いについて、その実態を確かめる。そういう形で幕府の事務方を動かす支度を、長野は進めていた。
じかの取り締まりではない。あくまで調べという名目だ。調べた結果、問題が見つかれば、それを盾に縛りをかける。見つからなくとも、調べが入ったという事実だけで相手は縮み上がる。
どちらに転んでも、天朝物産会所の動きに差し障りが出る。長野はそう計算していた。
ところが、その調べの書類が正式に動きだそうとしたところで、幕府の担当の者が長野のもとへやってきた。
「長野殿、少々困ったことになりました」
「何だ」
「天朝物産会所について、御門様ご直筆の宸翰が出ました」
「宸翰?」
「はい。近衛家天朝物産会所は御所御用達の商事機構として、御所の用を担うものである。この商いは御所と朝廷のための業であり、その活動を妨げることは御所の御用を妨げることに等しい。そういう御門様のお言葉が、宸翰として正式に出されたとのことです」
長野の手が止まった。
「御門様ご直筆で……」
「はい。御名も記されているそうです」
長野は黙りこんだ。書類に目を落としたまま、しばらく動かなかった。
「……これでは、調べを続けられんな」
「難しゅうございます。御所御用達の商いを調べるという名目は、この宸翰の前では、御所への手出しという形になってしまいます」
「つまり、幕府が御所に手を出したことになる、か」
「はい。政の上で……」
「分かっている」
長野は書類を置いた。
「殿にご報告する」
彦根藩江戸藩邸の奥の間で、直弼はその報告を聞いた。
部屋は薄暗かった。秋の午後の光が障子越しに差しこんでいたが、部屋の中は沈んだままだった。
長野が事の次第を説明するあいだ、直弼は静かに聞いていた。表情は動かず、聞き終えたあとも、しばらく何も言わなかった。
「……御門様ご直筆の宸翰が出たのだな」
「はい」
「御門様の御筆と御名のある宸翰を持つ商いに、幕府が縛りをかけるのは……」
「政の上で、叶いません。幕府が御所に手を出した形になります」
直弼は奥歯を噛みしめた。音にはならなかったが、その沈黙の中に、何か固いものがあった。
「……またしても、こちらの手を封じられたか」
直弼は立ち上がった。
「誰がこれを仕組んだ。御門様に宸翰を書かせた者がいる」
「……取り締まりの動きが出た直後に宸翰が出たのだとすれば、近衛家がこちらの動きを前もって掴んでいたのかもしれません」
「近衛家が……」
直弼は少し考えてから、言った。
「近衛家は、わたしの動きを知っていた。取り締まりの動きが出た直後に御門様から宸翰を取ったのなら、近衛家はわたしの手の内を握っているということだ」
「ですが、近衛家があの流言の出どころだという証拠は……」
「まだない。だが、こうも続くのが偶然とは思えん」
直弼は窓の外を見た。秋の空は低く、雲が流れていた。
「朝廷が、幕府に盾突いている」
静かな声だった。その静けさの底に、どす黒いものがあった。
「これ以上、朝廷が幕府の権限を侵すようなら、朝廷への手立ても考えねばならん」
「井伊様、それは……」
「今すぐ何かをするわけではない。だが、覚えておく。朝廷が幕府に仇なす者どもと繋がっているかもしれぬことを、覚えておくぞ!」
長野は顔を引き締めた。
「……承知いたしました」
部屋に沈黙が戻った。障子を透かして秋の光が薄く差しこんでいたが、その光はどこか冷たかった。
四
江戸の一角で、近藤長次郎はその話を耳にした。
夕暮れの商人町の一隅に、いつも噂の集まってくる小さな茶屋がある。店の前を人が行き交い、荷車が通り過ぎ、江戸の秋の夕暮れが通りを橙色に染めていた。
商人仲間から聞いた話だった。天朝物産会所に幕府が調べを入れようとしたが、御門様ご直筆の宸翰が出たおかげで骨抜きになった、という。
長次郎は湯呑みを手にしたまま、動かなかった。頭の中で、何かが繋がりはじめていた。
天朝物産会所。
御所御用達の商い。以前、龍馬が「地図を持っちゅうお方がおる」と言っていた。そのお方は、商いと言葉と御所の権威を使うとも言っていた。そして、龍馬が活動の金を受け取る先として、松屋と鴻池の名が出ていた。
松屋は、天朝物産会所と取引のある呉服商だ。
「……そういうことかえ」
長次郎は小さくつぶやいた。
長次郎は龍馬に会いに行った。
宿の部屋で、龍馬は窓の外の夕暮れを眺めていた。何か考えごとをしているふうだった。
「龍馬さん、一つ聞いてもええかえ」
「何ぜよ」
「天朝物産会所の話を聞いたぜよ。幕府が調べを入れようとしたけんど、御門様の宸翰で骨抜きになったっちゅう話じゃ」
龍馬の顔が、少し固くなった。
「それで?」
「こじゃんと鮮やかじゃ。縛りをかけようとしたその途端に、それを封じる宸翰が出た。前もって動きを掴んで、先手を打ったっちゅうことぜよ」
「……そうじゃのう」
「龍馬さん、わしはなんとなく分かってきたぜよ」
「何がぜよ」
「龍馬さんの後ろに、誰がついちゅうか」
龍馬は少し黙った。
「……そうかよ」
肯定でも否定でもない返事だった。だが長次郎には、それで十分だった。
「言わんでええぜよ。ただ、一つだけ言わせとうせ」
「何ぜよ」
「天朝物産会所っちゅう名前は、これから先、人前では決して出さんことぜよ」
龍馬の顔色が、少し変わった。
「お、おう……」
「分かったかえ、龍馬さん。もう二度と人前では言わんと、約束しとうせ」
「も、もう二度と、人前では言わんきに!」
龍馬は少し焦りながら答えた。
長次郎は湯呑みを置いた。
「……こじゃんと鮮やかなお方じゃのう、そのお方は」
静かな声だった。
「商いを政の盾にするとは。わしには思いもつかん考えぜよ」
「そうぜよ」
「ええ主を持ったのう、龍馬さん」
「……まっことぜよ」
龍馬は少し遠い目をして言った。
窓から差しこむ夕暮れの光が、二人のあいだの畳を橙色に染めていた。
五 父・忠房への報告
書状が届いた翌日の午後、糸子は父・忠房のもとへ話しに行った。
忠房は書院にいた。書物を前にしてはいたが、読んではいなかった。窓の外の庭で、楓の葉が一枚、また一枚と落ちていくのを、ただ眺めていた。
「父上、お時間をいただけましょうや」
「入りなさい」
糸子は書院に入って忠房の前に座り、書状を差し出した。
忠房はそれを受け取って広げ、読みはじめた。
糸子は動かずに、父の表情を見ていた。読むあいだ、忠房の表情はほとんど変わらなかった。けれど、書状の上を目が動くにつれて、その奥で何かが動いているのが分かった。
読み終えても、忠房はしばらく黙っていた。
「……来たか」
「はい」
「江戸へ行くのか」
「はい」
「幕府が認めたのだな」
「老中合議で承認されたとのことでございます」
忠房はもう一度、書状に目をやった。
「一橋上屋敷の一角を用意する、とある」
「はい」
「近衛家の格式にふさわしい部屋を、との言葉もある」
「はい」
忠房は書状を丁寧に折りたたみ、机の上に置いた。そして、糸子を見た。
「糸子」
「はい」
「お前は、本当によくやってきた」
その言葉が、静かに座敷に落ちた。
忠房はほとんど感情を表に出さない人だ。糸子はそれをよく知っていた。怒っているときも、悲しんでいるときも、喜んでいるときも、父上の気持ちは言葉の奥にしまわれていて、表にはいつも静けさがある。
だからこそ、今の「本当によくやってきた」という一言がどれほど重いか、糸子には分かった。
「屋根を直すことから始めた。商いを始めた。御所御用達の称号を得た。御門様の信を得た。近藤たちを召し抱えた。英語を学んだ。堀田殿との繋ぎを作った。島津殿とも語り合った」
「父上……」
「わたしは何もしていない。全部、お前がやったことだ」
「そのようなことはございませぬ。父上が許してくださったからこそ、動けたのでございます」
「許すだけでは何もできぬ。糸子、お前が動いたからだ」
忠房は続けた。
「わたしはずっと、お前を見ていた。生まれたときから、今まで」
「はい」
「はじめは、何も言わずに見ているのがいちばんだと思っていた。お前には、わたしの思いもよらぬことを考える力がある。その力を、わたしが邪魔してはならぬと思っていた」
糸子の目が、少し潤んだ。こらえた。こらえようとした。
「お前はここまで、本当によくやってきた。わたしはそんな糸子を、ずっと見守ってきた。だから分かる」
忠房は言った。
「お前は必ず、結果を出せる」
「父上……」
「だから糸子よ、安心して江戸へ行ってきなさい。そして、無事に、元気に帰っておいで」
糸子は父の言葉を聞きながら、頭を下げた。こぼれそうになる涙を、必死にこらえた。こらえても、声が少し震えた。
「父上、お心遣い、痛み入ります」
少し間があった。
「糸子は、そのお言葉を胸に、元気に江戸へ行ってまいります」
「元気に、行ってきなさい」
忠房の声も、少し震えていた。
庭から風の音が届いた。楓の葉の揺れる音が、かすかに聞こえた。
二人はしばらく、何も言わなかった。その沈黙に、たくさんのものが詰まっていた。
六
書状が届いてから数日のうちに、糸子は具体的な支度に取りかかった。
まずは、天朝物産会所の引き継ぎだった。
「村岡、天朝物産会所の日々の仕事は、あなたに引き継ぎまする」
「はい、承知いたしました」
「判断の難しいことが出てきたときは、善次郎に相談してくださいまし。善次郎からわたくしへの報せは、松屋を通じて届くようにしてありまする」
「はい」
「御所とのことは、引き続きさとにお願いしてございます。さととのやりとりは、これまでどおりの形でお願いいたしまする」
「はい」
「あと一つだけ、気をつけてほしいことがありまする」
「何でございましょう?」
「幕府から何か調べの話が来たときは、御門様の宸翰を実光様にお見せしてくださいまし。どう対処すればよいか、実光様がご存じでしょう」
「承知いたしました」
次は、京へ呼び寄せた善次郎への指図だった。
「善次郎、わたくしが江戸にいるあいだは、いつもより少し気を張っていてくださいませ。幕府の内で出た取り締まりの話は、まだくすぶっておりましょう。おかしな話が来たときは、すぐに知らせてくださいまし」
善次郎が頷いた。
「もう一つ。坂本殿たちの動きについて報せが入ったときは、急ぎ松屋を通じて、わたくしに届けてくださいませ」
「承知いたしました」
善次郎が下がったあと、糸子は帳面を開いて、引き継ぎの確かめごとを書いていった。村岡には日々の仕事、さとには御所との繋ぎ、善次郎には報せ集め。それぞれの受け持ちと、連絡の筋を整理した。
自分がいなくても、仕組みが回り続けるようにしておく。自分がいるときにしか動かない組織は脆い。自分がいなくても動き続ける仕組みを作ることこそが、組織を作る意味だ。
糸子はそれを、この四年近くで学んでいた。
七 出発前夜——夜の対話
江戸へ発つ前の夜だった。
空が暗くなるにつれて、近衛家の庭は静まっていった。昼のあいだは風があり、楓の葉が何枚も落ちていた。だが夜になると風もやみ、庭はしんとした。
月が出ていた。
秋の月だった。空気が澄んでいるから、輪郭がくっきりと見える。夏の月のように霞んでもいないし、冬の月ほど冷たすぎもしない。今の季節の月は、透きとおっていて、どこか孤独な美しさがあった。
糸子は一人で縁側に立ち、空を見上げていた。御所の方角の空に、冷たい星がいくつも並んでいた。
「斉彬様、続けておりますよ」
声に出して言った。
「約束どおり、続けておりますよ」
秋の風が庭を渡り、紅葉した葉が一枚、糸子の足もとに落ちた。音もなく、ひらりと。
糸子はその葉を見た。
昨年の秋の初めに、島津斉彬は逝った。その知らせを受けた日のことを、糸子は今も覚えている。あのとき、何かが終わったと思った。終わりかけたその何かを、自分が続けなければならない、とも思った。
そして、続けてきた。
「行きまする」
星に向かって言った。
「この国の百年先のために、江戸へ行ってまいります」
縁側に足音がした。近藤だった。
「姫様、明日は早いですよ」
「存じております。もう少しだけ……」
「御意……」
近藤はそのまま戻らなかった。縁側の端に立って、糸子と同じように庭を眺めていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。月が少し動いた。
やがて、近藤が口を開いた。
「姫様、一つだけお聞かせください」
「はい、何でございましょう」
「怖くはありませんか」
「怖い、とは……?」
「江戸へ行くことが、です。我ら旭狼衛を連れて、近衛家の姫君として、幕府の心の臓に乗りこむことが。そしてハリスという異国の外交官と、言葉で戦うことが」
糸子は月を見上げたまま、少し間を置いた。
近藤がこういう問いを口にするのは珍しかった。この男はふだん、気持ちに関わることを尋ねない。武士として、護衛として、要ることだけを確かめる。それが近藤という人間だった。
だから今の問いは、近藤自身の胸の内から出てきたものだ、と糸子は感じた。
「怖くないと言えば、嘘になりましょう」
「はい」
「なれど、怖いことは、しない理由にはなりませぬ」
「なぜですか?」
「怖いことをいっさいしなければ、わたくしにできることは何もなくなりましょう。この数年、何もかもが恐ろしゅうございました」
糸子は続けた。
「田辺屋が来たときも。御門様の前に初めて出たときも。堀田殿と話したときも。万次郎殿と英語で話したときも。旭狼衛を召し抱えると決めたときも。斉彬様が逝かれたと聞いたときも。どれもみな、心細うございました」
「それでも、動いた」
「止まってはいられなかったのでございます」
近藤が少し笑った。静かな、けれど確かな笑いだった。
「姫様、一つだけ申し上げます」
「はい」
「怖いことを怖いと言えるお方のほうが、某は信じられます」
「どういう意味でございますか」
近藤はゆっくりと言った。
「怖くないと言う者は、本当の危うさが分かっていないことがあります。何が起きるかを正しく分かっていれば、怖くならないほうがおかしい。ですが、怖いと知りながら動く者は、いちばん危うい場面で、いちばん正確に動けます。頭が冷えているからです。覚悟が、気持ちを押しのけるからです」
「……近藤殿は、怖くはないのですか。このお役目が」
近藤は少し黙った。
「怖いです」
「え?」
「怖いです、某も」
近藤は月を見上げた。
「姫様が御簾の向こうでハリスと話しているあいだ、某は外にいます。建物の中で何が起きているのか、外からは分からない。分からないまま待っている。それが、怖い」
「近藤殿が怖いとおっしゃるとは、思いもよりませんでした」
「某も、人ですから……」
短い沈黙があった。月の光が庭の苔の上に落ちて淡く光り、楓の木の影が長く伸びていた。
「近藤殿、約束させてくださいまし」
「はい」
「わたくしは、言葉で戦いましょう。近藤殿たちが剣を抜かねばならないような場は、できる限り作らぬようにいたしまする」
「……それは」
「近藤殿たちに剣を抜かせることは、近藤殿たちを危うい目に遭わせることでございます。だからわたくしは、言葉で全部片づけましょう。交渉の場の内では、わたくしが守りまする」
近藤は、しばらく黙っていた。
さっきとは違う沈黙だった。何かを受け取っている沈黙だった。
「……姫様に、守られている気がします」
「互いに守り合いましょう」
「御意」
「近藤殿たちが外を守ってくださるから、わたくしは内に気を集められまする。わたくしが内で言葉を尽くすから、近藤殿たちは剣を抜かずに済むのでございます。そういう形にいたしましょう」
「……そうですね」
近藤の声が、少し和らいだ。
「某たちが一度も剣を抜かずに、このお役目が終わればいい」
「そうなるよう、わたくしが努めまする」
「はい。某たちも、そうなるよう、我らも外で努めましょう」
二人はしばらく、庭を眺めていた。月が少し雲に隠れて庭が薄暗くなり、また雲が流れて月が顔を出した。光が戻った。
近藤が言った。
「姫様、江戸までの道中の備えについて、最後に確かめさせてください」
「はい」
「江戸へは、旭狼衛の護衛十五名で向かいます。三名が先発して道筋を確かめます。四名が常に動ける構えを保ち、二名が泊まる場所を守ります。残りは交代で体を休めながら、道中の手配や荷物持ちに回ります。そのうち二名は、武士の格好をせず旅人や町人に化けて、別に姫様をお守りします」
「はい」
「それに姫様の侍女が二名。駕籠舁は、善次郎殿が信のおける者を用意してくれた三名。合わせて二十名での道中になります」
「旭狼衛は、十五名で足りましょうや」
「足りるように動きます」
「近藤殿」
「はい」
「十五名全員の名と、それぞれの得手を、出立の前にもう一度教えてくださいまし。わたくしが一人一人を覚えまする」
近藤は少し驚いた顔をした。
「なぜですか?」
「名を知るということは、その人を知るということでございます。数ではなく、人として見ている。そういうことにしたいのでございます」
「……姫様」
「出立の朝に、皆に一言ずつ声をかけましょう。だから覚えまする」
近藤は少し黙った。
「……御意。明日の朝、全員の名と得手をお伝えします。喜ぶと思いますよ、あいつら……」
「忝う存じます」
近藤は一礼した。
「姫様、今夜はもうお休みください。明日は早いです」
「はい。もう少しだけ、星を見させてくださいまし」
「……御意」
近藤が下がり、足音が遠ざかっていった。
糸子は一人になった。月を見上げた。御所の方角の空には、まだ冷たい星がいくつも並んでいた。
八 最後の夜
糸子は部屋に戻った。行灯の光が、静かに揺れていた。
帳面を開いて、明日の支度の最後の確かめを書きつけた。持ち物。書状。万次郎への連絡の筋。実光様との落ち合い。村田蔵六の同行。一つずつ書いていった。
書けば頭が整う。整えば落ち着く。落ち着けば、次に何が要るかが見えてくる。これも、この四年近くで身についた習いだった。
はじめのうちは、焦ると何も書けないことがあった。言葉が手に追いついてこなかった。だが今は違う。焦ったときこそ書く。書けば落ち着く。それを知っている。
確かめごとを書き終えると、糸子は筆を持ったまま、しばらく動かなかった。帳面の白い紙が、行灯の光を受けて柔らかく光っていた。
この帳面を最初に開いたのは、いつだったろう。
英語の最初の授業の日だった。村田蔵六が来る前に、糸子は新しい帳面に「英語の授業 始め」と書いた。小さな手で書いたその字は、今よりずっと拙かった。
今の自分が書く字は、あのころとは違う。字だけではない。中身も、何もかもが違う。
けれど、根っこは同じだ。
転生した自分が、幕末にこの国のことを考えるなら英語は欠かせない、と感じたこと。その思いは今も変わっていない。形は変わった。言葉はこの時代のものになり、やり方はより具体的になった。けれど、なぜそうするのかという、いちばん深いところにある理由は、少しも変わっていなかった。
糸子は最後に一行だけ書いた。
四年近い支度が、江戸に着けば、実践の日々に変わる。
帳面を閉じた。行灯の光が揺れた。
外では、秋の虫が鳴いていた。夜が更けるにつれて声は少なくなっていたが、それでもまだ鳴いていた。
糸子は床に就いた。すぐには眠れなかった。
天井を見上げて、今夜の近藤の言葉を思い返した。怖いことを怖いと言えるお方のほうが、信じられる。そして、互いに守り合っている。
その言葉が、糸子の中にゆっくりと沈んでいった。
眠れないまま、それでも焦りはしなかった。眠れない夜もある。それでいい。明日、体が動けば、それで十分だ。
庭では、まだ虫が鳴いていた。月が、障子を薄く照らしていた。
江戸は、この月の下の、東の方角にある。同じ月が、江戸も照らしている。ハリスも、同じ月を見ているかもしれない。
そんなことを考えながら、糸子はゆっくりと目を閉じた。
明日が来る。行くときが来たのだ。本番は、もうすぐそこだった。
第四十三話 了
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