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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第四十二話「行く時が来た」

 安政六年、秋が深まる頃の京都は、どこか切ない美しさを持つ。

 御所の周囲の木々が紅と黄に染まり、風が吹くたびに葉が一枚また一枚と落ちていく。その葉が石畳の上に積もって、踏むたびに乾いた音を立てた。まるでこの季節そのものが、何かに別れを告げようとしているかのように。

 近衛家の庭でも、紅葉が始まっていた。

 楓の古木が一本、縁側の正面にある。その木は糸子が生まれる前からあったと聞いていた。祖父の代に植えられたのだという。毎年この季節になると、その楓が最初に色づく。今年もまた、梢の先から赤みが差し始めて、それが少しずつ枝の根元へと降りてきていた。

 糸子は縁側に座って、その庭を眺めていた。

 朝の授業の前の、静かな時間だった。

 膝の上に帳面を置いていたが、ひとつも書いていなかった。ただ庭を見ていた。楓の葉が一枚、ゆっくりと落ちた。風もないのに、それはひらひらと揺れながら、苔の上に静かに着いた。

 村田蔵六との授業は、今日も続く。

 しかし——今日が最後かもしれない、と糸子は思っていた。

 そう思う根拠があった。

 先週の授業で、村田蔵六が少し違う顔をしていた。何かを確認するような、整理するような、そういう表情だった。授業の内容は変わらなかった。模擬交渉の練習も、英語の精度を上げる作業も、いつも通りに進んだ。しかし——ふとした瞬間に、村田蔵六が糸子を見る目が違った。

 最後を確認している顔だ、と糸子は感じていた。

 師が弟子の仕上がりを、最後にもう一度確かめる時の顔だ。

 庭の向こうで、門番が何かを告げる声がした。客が来た。

 糸子は帳面を閉じた。


二 最後の授業

 村田蔵六が来た。

 いつもと同じ時刻に、いつもと同じ落ち着いた足取りで。廊下を歩む音も、いつも通りだった。急ぎもせず、遅れもしない。三年以上ともに過ごしてきたその足音を、糸子は今や廊下の遠くから聞き分けることができる。

「御機嫌よろしゅう、村田殿」

「はい。今日もよろしくお願いします」

 座敷に向かい合って座った。村田蔵六はいつも通り、文机の前に正座した。糸子の前には帳面と筆が用意されていた。

 しかし村田蔵六は、すぐに教材を広げなかった。

 少し間を置いてから、言った。

「今日は——少し特別な授業をしたいと思います」

「どのような?」

「模擬交渉を、今日は本番に近い形でやります」

「本番に近い形、とはどのような意味でございましょう?」

「私が完全にハリスの立場で話します。事前の打ち合わせなしに、今日初めて出てくる論点を使います。近衛様は、その場その場で判断して返してください」

「分かりましてございます」

 村田蔵六が少し姿勢を正した。

 そして——声のトーンが変わった。

 日本語だが、口調が変わった。ハリスの立場を演じる時の、あの独特の語気だ。糸子はこの三年で、その変化に慣れていた。しかし今日は——いつもより変化が鮮明だった。村田蔵六が何かに本気で向き合っている、そういう緊張が伝わってきた。

「The treaty has been signed. Now we need to discuss the implementation details. Japan must open the designated ports by the scheduled date. There will be no delays.」

 条約は調印された。今は実施細則について話し合う必要がある。日本は期日通りに指定された港を開かなければならない。遅延は認めない。

 その言葉が座敷の空気に落ちた。

 糸子は少し間を置いた。

 一拍、二拍。

 焦ってはいけない。相手が言い終わった後、すぐに返すのは素人の交渉だ。間を置くことで、自分が考えているということを示す。考えているということは、相手の言葉を真剣に受け取っているということだ。

 そして——英語で返した。

「We understand the scheduled date. However, before discussing implementation, I would like to confirm the interpretation of Article seven regarding the future revision clause. The text in English and the Japanese version appear to have different implications.」

 期日については了解しています。しかし実施の話し合いの前に、将来の改正条項に関する第七条の解釈を確認させてください。英文と和文では意味合いが異なる部分があるようです。

 村田が少し止まった。

 ほんの一瞬だが、止まった。

 そしてまた続けた。

「The treaty text is clear. There is no ambiguity.」

 条約文は明確です。曖昧さはありません。

「If that is your position, I would like to read the relevant section aloud in English and ask you to confirm whether the Japanese translation accurately represents the original intent.」

 そのようにお考えであれば、関連する箇所を英語で読み上げて、日本語訳が原文の意図を正確に表しているかどうかをご確認いただきたいと思います。

 村田が模擬交渉を止めた。

「……姫様」

「はい」

「今の返し方を、もう一度説明していただけますか。なぜそのような順序で問いを組み立てましたか」

 糸子は帳面を開き、筆を取った。しかしすぐには書かなかった。声で答えた。

「相手が『明確だ』と言った時、直接反論するより、相手に自分で確認させる方が有効でございます。相手が確認する過程で、問題に気づく可能性がある。気づかなくても、こちらが『確認を求めた』という事実が残りましょう」

「続けてください」

「直接反論は、相手の面目を傷つけまする。外交の場で相手の面目を傷つけることは、その後の交渉を難しくするでしょう。なれど確認を求めることは、礼を失しませぬ。むしろ相手の言葉を信頼しているからこそ確認する、という姿勢を示せるのでございます」

「もうひとつ」

「何でございましょう?」

「なぜ七条を選びましたか。実施の話をしている時に、なぜ七条を持ち出したのですか」

 糸子は少し考えた。

「実施細則の話に入ってしまうと、細かな数字と期日の話になりまする。そうなると、こちらが守勢に立たされましょう。なれど改正条項の解釈という問題を先に出すことで、話の枠組みが変わります。相手が設定した『実施細則の協議』という枠から、こちらが重要だと考える『条約の前提の確認』という枠へ、話の重心を移すことができまする」

 村田蔵六が少しの間、糸子を見た。

 その目に何かが浮かんだ。

 糸子にはそれが何かが分かった。それは満足ではなかった。あるいは満足よりも深いところにある、何か別のものだった。

「……姫様、英語の授業は——今日を最後にします」

「え?」

 思わず声が出た。

「これ以上教えることが、私にはなくなりました…」

 糸子が少し驚いた。

「それは——」

「そういう意味ではなく」

 村田蔵六が続けた。

「これ以上は、実際の交渉でしか学べないことだからです。書物では学べない。模擬交渉でも学べない。実際の場で、実際の相手と話すことでしか——この先は身につきません」

「では——」

「行く時が来たのでございますよ、姫様……」


 その言葉が、座敷の空気に静かに溶けた。

 行く時が来た。

 糸子は少し間を置いた後、言った。

「村田殿、最初にお会いした時のことを覚えておりましょうや」

「はい。三年以上前になりますね」

「わたくしが英語を学び始めた理由をお話しした時、村田殿は驚かれておりましたね」

「驚きました。九歳の姫様が、条約交渉のために英語を学ぶとおっしゃったので……」

「今は驚きませぬか?」

 村田蔵六が少し笑った。

「今は——驚き、というよりも楽しみです」

「楽しみ?」

「あの九歳の姫様が、三年かけてどこまで来たのかを——実際の場で見るのが楽しみで仕方がないのですよ」

「見に来てくれましょうや、江戸に?」

「はい。天朝物産会所の顧問という立場で同席させていただけるならば、是非に」

優しく微笑村田。

「もちろんでございます。村田殿がいなければ、この準備は半分も達成できませんでしたでしょう」

「いいえ、姫様が学んだのです。私は教えたのではなく——姫様が自分で考え、自分で習得されたのですよ」

 糸子は帳面を開いた。

 今日が最後の授業だった。

 しかし、書くべきことはまだあった。

「最後に、一つ確認させてくださいませ」

「何でしょう」

「本番では、万次郎殿も同席しまする。また実光様も来てくださいまする。…なれど交渉の場で英語を使うのは——わたくし一人でございます」

「はい」

「その場で想定外のことが起きた時——」

「万次郎殿が言っていましたね」

 村田蔵六が言った。

「想定外のことが起きた時は、最も大切にしていることに戻れ、と」

「はい」

「相互主義。対等な関係。この国の百年先……」

「その通りです」

「覚えていれば、言葉は出てくる」

 糸子は帳面に最後の確認事項を書いた。

 筆が紙の上を走る音が、静かな座敷に響いた。

 そして筆を置いた。

「誠にありがたく、お礼の申し上げようもございません、村田殿。三年間、本当に感無量に存じます」

 村田蔵六が頭を下げた。

「ありがとうございました、姫様。私の方こそ、多くのことを学ばせていただきました」


四 水面下で動いていたもの

 村田蔵六が帰った後、糸子は座敷にしばらく一人でいた。

 帳面は閉じたままだった。

 庭の楓が、また一枚、葉を落とした。

 この三年間に学んだことは、糸子の中に積み重なっている。英語の文法だけではない。交渉の論理だけではない。むしろそれらを土台にして、もっと大きな何かが糸子の中に育っていた。

 しかしその「大きな何か」が実際の場で使えるかどうかは、まだ誰にも分からなかった。

 村田蔵六にも分からない。万次郎にも分からない。

 おそらく——糸子自身にも、まだ分からない。

 分かるのは、実際の場に出てから、だ。

 糸子はそのことを知っていた。知っていながら、それでも準備を続けてきた。準備は完璧にはならない。しかし準備をしないことと、できる限りの準備をすることとは、まったく違う。

 では、この三年の間に、糸子の知らないところで何が動いていたのか。

 それを糸子は知らなかった。

 正確には——断片的には知っていた。しかし全体の絵は見えていなかった。

 実際には、相当に複雑な動きが、水面の下で続いていた。


 安政五年十二月に日米修好通商条約が調印された時、京都の朝廷と江戸の幕府の間には、深い溝があった。

 勅許を得ないまま調印したことへの朝廷の怒りは、表向きには収まっていた。しかしその怒りは消えたのではなく、形を変えていた。御門様は、幕府に対して条件を持っておられた。

 条約調印は認める。しかし、その実施にあたっては、朝廷の意向が正確に反映されなければならない。

 特に二つの点において。

 第一に、将来の改正条項の解釈についてだ。

 条約には将来の改正を認める条項がある。日本語訳と英語原文では、その解釈に微妙な差異があった。日本側の理解では「双方の合意によって改正できる」だったが、英語原文の表現は「いずれかの側が要求した場合に協議する」という意味合いを持つ可能性があった。この差異は、今すぐには問題にならない。しかし十年後、二十年後に、大きな問題になり得る。

 第二に、金銀交換の比率についてだ。

 外国の金貨と日本の金貨の交換比率が、日本に不利な形で設定されていた。この問題を放置すれば、日本の金が大量に国外へ流出する。御門様はこの点について、強い懸念を持っておられた。

 しかし——この御門様の懸念を、誰が、どうやってアメリカ側に伝えるのか。

 そこに問題があった。


 堀田正睦が考えていた。

 史実と違いこの世界線では、堀田は安政五年の条約調印後も失脚していなかった。井伊直弼の権限が一定程度制限されていたためだ。堀田は引き続き老中として、実施細則の交渉に関与していた。

 実施細則の交渉というのは、条約本文の交渉よりも、ある意味で難しい。

 条約本文の交渉は、大きな枠組みを決める。そこでは双方の政治的な意志が問われる。しかし実施細則の交渉は、具体的な数字と手続きの問題だ。開港の時期は何月何日か。居留地の範囲はどこまでか。関税率はいかほどか。金銀交換の実際の手続きはどうするか。

 そしてこれらの具体的な問題の中に、将来に影響する重要な「解釈の問題」が潜んでいる。

 特に、将来の改正条項の解釈については、今ここで確認しておかなければならない。

 しかし幕府の交渉担当者は、英語が読めない。

 岩瀬忠震のように英語の素養がある者もいたが、精度には限界があった。ハリスが英語で話す言葉の微妙なニュアンスを、正確に把握できているかどうかは、常に不安が付きまとった。

 そこで堀田は考えた。

 近衛家の姫君のことを、堀田は知っていた。

 糸子との連絡網は、この三年間、機能し続けていた。実光が広橋権中納言を通じ、広橋が堀田に伝える。その逆の経路も機能していた。

 堀田は糸子が英語を学んでいることを知っていた。その精度がどの程度か、正確には把握していなかったが、村田蔵六という人物が教えているということは聞いていた。村田の名は、堀田も知っていた。宇和島藩に縁のある蘭学者で、語学の能力には定評がある。その村田が三年以上教えているのであれば、相当の水準に達しているはずだ。

 堀田は一つの考えを持った。

 しかし、その考えを実現するためには、いくつもの障壁があった。


 安政六年の春、堀田は老中合議の場で、一つの提案をした。

 実施細則の交渉に、朝廷側の語学専門家を同席させることができないか、という提案だった。

 老中たちの反応は、最初、否定的だった。

「朝廷の者が交渉の場に出てくるのか。幕府の交渉が主体ではないのか」

「御所御用達の機構の者ならば、朝廷の機構だ。それが交渉の場に出てくることを認めれば、幕府の独立性に傷がつく」

 堀田は丁寧に説明した。

「御所御用達の機構の天朝外語御用掛は、御門様から正式に任じられた役職でございます。御門様が勅許の問題について条件を持っておられる以上、その意向を英語で確認できる専門家が同席することは、幕府の交渉を助けることになります」

「しかし——」

「英語の原文と日本語訳の差異については、我々に確認する手段がございません。その差異が将来の問題になることを、今ここで防ぐことができれば——それは幕府にとっても利益でございます」

 老中の一人が言った。

「その専門家というのは、どういう人物だ」

 堀田は少し間を置いた。

「近衛家の姫君様にございます」

 座が静まった。

「……公家の姫君が、交渉の場に出てくるということか?」

「御簾越しに同席するという形であれば、礼法上の問題はございません。御簾の後ろにおられる限り、直接外国人と対面するわけではない。声だけが出るという形であれば、朝廷の礼法の範囲内でございます」

「英語が話せる公家の姫君など、聞いたことがないぞ」

「はい。それゆえに、この会談においては有利に働くかもしれません。ハリス殿は、御簾の後ろに誰がいるのか、最初は把握できないはずです」

 老中たちはしばらく話し合った。

 最終的に、条件付きで認める、という結論になった。


 条件は三つだった。

 一つ目。御簾越しの参加であること。正式な交渉の場に、公家の姫君が直接外国人と対面することは、礼法上あり得ない。御簾の後ろに座り、声だけが出るという形であれば、礼法的に問題がない。

 二つ目。幕府の交渉を妨げないこと。糸子は幕府の交渉担当者に代わって交渉するのではなく、「御門様のご意向を伝えるお役目」として参加する。幕府の交渉が主体であり、糸子は補助的な立場という名目だ。

 三つ目。発言は御門様のご意向に関わる事項に限定すること。関税率や開港地の細則については幕府が交渉する。御門様のご意向——相互主義、金銀比率の見直し、将来の改正条項の解釈——についてのみ、糸子が口を出す。

 堀田はこの三つの条件を聞いて、内心で少し思った。

 三つ目の条件は、実際には制限として機能しないだろう、と。

 なぜなら、糸子が相互主義の論理を持ち出した瞬間に、それは条約全体の前提に関わる議論になるからだ。「御門様のご意向に関わる事項」の範囲は、交渉の現場では非常に広くなる。

 しかし堀田はそれを口にはしなかった。

 条件を受け入れ、老中合議の承認を得た。


五 ハリスへの伝達

 老中合議の承認が得られた後、幕府からハリスへの事前通知が行われた。

 ハリスはその通知を、居室で受け取った。

 幕府の使者が告げた内容を、ヒュースケンが通訳した。

「At this meeting, an official serving as a liaison to the Imperial Court will be present to convey His Majesty’s intentions. This individual is a specialist affiliated with an organization serving the Imperial Household and is said to be proficient in both Japanese and English.」

 (今回の協議には、朝廷の御用掛として御門様のご意向を伝える役の方が同席される。御所御用達の機構の専門家であり、日本語と英語の双方に通じているとのことです)

 ハリスは少し眉を上げた。

「Will a Japanese person who is fluent in both Japanese and English be present?」

 (日本語と英語に通じている日本人が同席する?)

「That appears to be the case.」

 (そのようです)


 ヒュースケンが小声で言った。

「That is unusual. But it could be useful if we need to confirm the Emperor's position.」

 (それは珍しい。しかし御門様の立場を確認する必要がある時には便利かもしれません)


 ハリスは少し考えた。

 この交渉においては、朝廷と幕府の関係が常に複雑な影を落としていた。勅許なしに条約が調印されたことへの朝廷の不満は、ハリスも把握していた。その朝廷が、英語で直接意向を伝えられる人間を送り込んでくる。

 それは脅威なのか、機会なのか。

 ハリスは少し考えた末に、同席を了承した。

「If we can directly confirm the intentions of the Imperial Court in English—that would be beneficial. We don’t know what kind of person will come, but if we can speak without an interpreter, we’ll be able to communicate that much more accurately.」

 (朝廷の意向を英語で直接確認できるなら——それは有益だ。どのような人物が来るのかは分からないが、通訳を介さずに話せるなら、その分だけ正確な意思疎通ができる)


 ハリスはこの時点で、御簾の後ろにいるのが十二歳の公家の姫君だとは、知る由もなかった。


六 知らせが届く前夜

 安政六年の秋が深まった。

 近衛家の庭では、楓の木が毎日少しずつ色を増していた。

 糸子は村田蔵六との授業が終わってからも、毎日帳面に向かっていた。授業がなくなれば学びも止まると思うのは間違いだ。むしろ授業がなくなった今こそ、自分で自分を律して学び続けなければならない。

 しかし今日は——帳面を前にして、筆が止まっていた。

 庭から虫の声がした。秋の終わりの虫は、夏の盛りとは違う。少し疲れたような、それでもまだ鳴き続けているような、そういう声だ。

 糸子は窓の外を見た。

 月が出ていた。

 秋の月は透明だ、と誰かが言っていた。父上だったか、母上だったか。秋の月は空気が澄んでいるから、夏の月よりも鮮明に見える。しかしその鮮明さは、どこか寂しい。

 今夜、糸子はふと思った。

 三年前の自分は、この夜の自分を想像できただろうか、と。

 転生前の自分は、英語は実務レベルまで使えていた。しかし、この幕末という時代の英語の書物を初めて見た時の驚きは、今でもはっきり覚えている。あの時は——何もかもが遠く感じた。21世紀に使われていた英語とこの幕末に使われていた英語も違った、条約という国を背負った交渉の場も、教科書でしか知らないハリスという人物も、現実の江戸という場所も。

 今はどうか。

 今の…英語は、もうわたくしにとっては「遠いもの」ではない。完璧ではないだろう。本番でどこまで機能するかも、まだ分からない。しかし——自分の中に確かに根付いている、という感覚があった。

 交渉の論理も、自分の中にある。

 しかし——ハリスという実際の人物と相対した時に、何が起きるかは分からない。

 模擬交渉では、村田蔵六がハリスを演じてくれた。しかし本物のハリスは、村田蔵六が想定したものとは違うかもしれない。本物の交渉の場には、模擬交渉では出てこなかった空気がある。緊張の質が、根本的に違うはずだ。

 糸子は筆を取った。

 帳面に、一行書いた。

「想定外のことが起きた時は、最も大切にしていることに戻れ」

 万次郎の言葉だ。

 相互主義。対等な関係。この国の百年先。

 それを覚えていれば、言葉は出てくる。

 そう言ったのは、村田蔵六だった。

 糸子は帳面を閉じた。

 月が少し動いていた。

 虫の声は続いていた。


七 書状

 ある日の朝、近衛家に一通の書状が届いた。

 幕府の事務方からだった。

 朝の光が庭に差し込んでいた。楓の木の赤が、朝の光を受けて一際鮮やかに見えた。昨夜の月とは違う透明さで、空が高く青かった。その青の下で、楓の赤が燃えるように輝いていた。

 糸子は縁側で帳面を開いていた。そこへ村岡が小走りに来た。

「姫様、書状が届いておりますが」

「どなたからでございましょう」

「幕府の事務方からとのことで。こちらに」

 村岡が盆の上に乗せた書状を差し出した。

 糸子は書状を受け取った。

 封を開いた。

 丁寧に折られた紙を広げた。


「近衛忠房様ならびに天朝外語御用掛、近衛糸子様


此度、御所御用達の業務確認ならびに天朝外語御用掛の職務の一環として、江戸への赴任をご依頼申し上げます。

江戸滞在中の宿泊については、幕府の取り計らいにより、一橋藩上屋敷の一角をご使用いただく手配をいたしました。近衛家の格式に相応しい部屋を用意しております。

また別途、御所御用達の業務として、幕府とアメリカ側との実施細則の協議に際し、御門様のご意向を確認する役として同席をお願いしたく存じます。

この件については、老中堀田正睦殿の推薦を経て、老中合議にて承認を得ております。

出発の日程については、近衛家のご都合をお聞かせください。


       幕府老中 太田資始」


 糸子は書状を読み終えた。

 庭で、楓の葉が一枚落ちた。

 静かだった。

 自分の心臓の音が、かすかに聞こえる気がした。

 手の中の紙が、少し震えていた。

 感情が来た。

 こらえた。

 こらえようとした。

 しかし——完全にはこらえられなかった。

 三年間が、一瞬でよみがえった。

 村田蔵六と初めて向き合った日のことを、糸子は覚えている。緊張していた。

 条約交渉するためと言った…そのことを、村田蔵六は笑わなかった。

 万次郎が来た日のことも覚えている。

 実光様に初めて会った日のことも。

 堀田正睦の書状を広橋権中納言から見せられた日のことも。

 それらすべてが積み重なって、今この手の中の紙になっていた。

 紙の上の文字は、乱れていない。

 しかし——書状を持つ手は、確かに震えていた。

 糸子は深く息を吸った。

「村岡」

「何でございましょう、姫様」

「父上にわたくしがお話ししたいことがございますとお伝えしてくださいまし」

「仰せのままに」

 村岡が退室した。

 足音が廊下の向こうへ遠ざかっていく。

 糸子は再び書状を見た。

 江戸への赴任。老中合議での承認。堀田正睦の推薦。

 一橋藩上屋敷の一角。

 これらの言葉が意味することを、糸子は頭の中で整理しようとした。しかし今は——整理できなかった。

 三年間、準備してきた。

 準備のために英語を学んだ。準備のために条約交渉の論理を学んだ。準備のために、御門様のご意向を正確に把握しようとしてきた。

 しかし今、実際にその「本番」への扉が開いた瞬間に——糸子の中にあったのは、準備の達成感ではなかった。

 もっと違う何かだった。

 恐れではなかった。

 緊張でもなかった。

 強いて言えば——それは、いよいよ本番という現実になった実感だった。

 夢のように描いてきたものが、紙の上の文字として現れた時の、あの感覚。

 糸子は書状をそっと畳んだ。

 庭では、楓の木が秋の朝の光を受けて輝いていた。

 その赤い葉の一枚一枚が、風もないのに少しずつ揺れていた。

 まるで——何かを祝うように。

 あるいは——何かを送り出すように。

 糸子は書状を見つめ続けるのであった。

 父上に話しに行くのは、もう少し後でいい。今はまだ——この瞬間の中にいたかった。

 三年間が、ここで一つの章を閉じようとしていた。

 そして次の章が、今、始まろうとしていた。


第四十二話 了

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