第四十一話「犬、吠える準備をする」
一
安政六年の夏が来た。
江戸の夏は、京とは違う種類の暑さだった。
京の夏は盆地の蒸し暑さで、熱が逃げ場を失って積み重なる感じがする。しかし江戸の夏は、海からの風が時々吹いて、その風が来るたびに少しだけ息ができた。
坂本龍馬は、神田の安い宿に部屋を借りていた。
勝海舟の屋敷から歩いて行ける距離だ。
部屋は狭かった。一人で寝るには十分だが、二人では窮屈だった。
その狭い部屋で、龍馬は畳の上に寝転がって天井を見ていた。
近衛糸子から言われた言葉が、頭の中を繰り返していた。
「信頼できる仲間を最低あと三人は作ること」
三人。
誰を選ぶか。
龍馬は天井を見ながら、頭の中で顔を浮かべた。
まず一人目は——迷わなかった。
二 中岡慎太郎との接触
夏の終わりが近づいた頃、龍馬は土佐の仲間の集まりがあると聞いて、神田の道場の近くにある小料理屋に顔を出した。
土佐出身の者たちが数人集まっていた。
その中に、中岡慎太郎がいた。
中岡は二十歳になったばかりで、龍馬より三つ年下だった。しかし顔には落ち着きがあった。考えている顔だ、と龍馬はいつも思う。
「龍馬、久しいのう」
中岡が言った。
「おう、慎太郎。元気そうじゃのう」
「元気と言えるかどうか……最近、考えることが多うてのう」
「何を考えちょるんかや」
中岡が少し声を低くした。
「この国のことぜよ。条約が結ばれた。井伊が大老になって、処罰も始まった。このままでは日本はどうなるか」
「それはわしも考えちょる」
「龍馬は今、何をしちょるがよ」
「勝先生の下で、海軍の話を学んじゅうぜよ」
「海軍か」
中岡が少し考えた後、言った。
「それは大切なことやきに。しかし——海軍だけで日本は変わるがか」
「変わらんぜよ」
龍馬が言った。
「海軍は手段ぜよ。問題は——この国が外国と対等に付き合えるようになることぜよ。その目的に向かって、どう動くかが問題ながぜよ」
中岡が少し前に乗り出した。
「その目的のために、何をするがぜよ」
「……少し話があるぜよ。ここやないところで、二人で話せるか」
中岡が頷いた。
翌日、二人は神田川の近くを歩いた。
夏の川面が光を弾いていた。川沿いの柳が、風に揺れていた。
「慎太郎、一つ聞くぜよ」
「何ぜよ」
「わしはある方に会うてから、考え方が変わったぜよ」
「ある方?」
「誰とは言えんぜよ。しかし——その方が持っている地図が、わしの目を開いてくれたぜよ」
「地図とはどういう意味ぜよ」
龍馬が少し考えた後、話し始めた。
「この国が外国と対等に付き合えるようになるためには——三つのことが必要ぜよ」
「三つ」
「一つは、相互主義ぜよ。外国が日本に権利を求めるなら、日本も外国に同じ権利を持つべきやきに。一方的な関係は長続きせんぜよ」
「それは——日露和親条約の考え方やないか」
「そうぜよ。ロシアとの条約はその原則で結ばれちゅうぜよ。なぜアメリカとの条約ではその原則が守られんかったか。それが問題ぜよ」
中岡が静かに聞いていた。
「二つ目は、言葉ぜよ。外国の言葉が分かる人間が交渉の場にいなければ、相手の言葉の罠に気づけんぜよ。だから言葉を学ぶことが、外交の第一歩ぜよ」
「言葉か」
「三つ目は——主上様の権威ぜよ。主上様のお許しがない条約には、正統性がないぜよ。逆に言えば、主上様のお許しがある条約は、この国全体が認めたものになるぜよ」
中岡が立ち止まった。
「……龍馬、お前はいつからそんなことを考えるようになったんぜよ」
「ある方に会うてからぜよ」
「その方は、どのような方ぜよ」
「それは言えんぜよ。しかし——信じていい方ぜよ」
中岡が川面を見た。
夏の光が水の上で揺れていた。
「……その方が持っている地図とやらを、少し教えてくれんかよ」
「今話したことが、その地図の一部ぜよ。もっと細かい話もあるぜよ。しかしそれを話すためには——慎太郎が仲間になってくれんといかんぜよ」
「仲間?」
「そうぜよ。わしには、信頼できる仲間が必要ぜよ。慎太郎、お前に頼みたいぜよ」
中岡がしばらく黙っていた。
川の音だけが聞こえた。
「わしに何をしてほしいがぜよ」
「まず——長州との関係を深めてほしいぜよ。わしは薩摩を担う。慎太郎は長州を担うぜよ。この国を変えるためには、薩摩と長州の両方に繋がりが必要ぜよ」
「薩摩と長州か」
「今は対立しちゅうけんど——根本の目的は同じはずぜよ。その共通の目的を確認できれば、二つが手を組む可能性があるぜよ」
中岡が龍馬を見た。
「……お前は本当に変わったのう、龍馬」
「そうかよ」
「前のお前は、もっと単純やったきに。しかし今のお前の話は——考えが整理されちゅうぜよ。その地図を持っているという方が、相当な人物なんやろうな」
「相当な方ぜよ」
「わしはその方を信じていいがかよ」
「わしが信じちゅうぜよ。それで十分やないかよ」
中岡がしばらく考えた後、言った。
「……分かったぜよ。乗るぜよ」
「ほんとうかよ!」
「ただし——一つだけ聞いてくれよ」
「何ぜよ」
「その地図が指し示す方向が、この国の人々のためになるものかどうか——それだけは確認させてほしいぜよ。わしは人のためにならんことには動かんきに」
「その方向は——必ず人のためになるぜよ。その方はそのためだけに動いちゅうきに」
「分かったき」
中岡が手を差し出した。
龍馬がその手を握った。
夏の川が、二人の横を流れていた。
三 近藤長次郎との接触
中岡が仲間になった翌週、龍馬は浅草の方角に足を向けた。
土佐出身の若者が集まる道場の近くに、近藤長次郎が住んでいると聞いていた。
長次郎を見つけたのは、その道場の近くの本屋だった。
長次郎は背が低く、少し丸い体格をしていた。しかし目が鋭かった。本を熱心に見ていた。それも——西洋語の辞書のようなものだった。
「長次郎、珍しいところにおるのう」
龍馬が声をかけた。
長次郎が顔を上げた。
「龍馬さん、久しいのう」
「何を読みよるがぜよ」
「英語の辞書ぜよ。少しずつ覚えようと思うちゅうんやけんど——なかなか難しゅうてのう」
「英語を学んじゅうがか」
「これからは言葉ぜよ、龍馬さん。外国の言葉が分からんままでは、外国とまともに話もできんぜよ」
龍馬が長次郎を見た。
この男は——自分で分かっちゅうき。
姫様が言うたがことと同じことを、この男は自分の頭で考えちゅうぜよ。
「長次郎、少し話があるがぜよ。時間はあるかよ」
「あるぜよ」
「飯でも食いながら話そうかよ」
二人は近くの蕎麦屋に入った。
蕎麦を食いながら、龍馬は話を切り出した。
「長次郎、お前は今、何を一番したいがぜよ」
「この国を外国と対等にしたいぜよ」
長次郎が即座に答えた。
「対等に、とはどういうことぜよ」
「外国の商人がこの国に来て、自分たちに有利な条件で商いをして帰っていく——そういうことをさせたくないぜよ。この国の商人が外国と対等に商いできるようにしたいきに」
「どうすればそれが実現するがぜよ」
「商いの力ぜよ。強い商いの組織を作って、外国と対等に交渉できるようにすれば——刀を使わなくても、この国を守れるかもしれんぜよ」
龍馬が少し前に乗り出した。
「長次郎、その考え方は正しいぜよ」
「……龍馬さん、そんな褒め方は珍しいぜよ」
「褒めちゅうんじゃないぜよ。同じ考え方の人間に会ったぜよ」
「誰ぜよ」
「ある方ぜよ。詳しくは言えんが——その方は商いと言葉と権威の三つを使って、この国を変えようとしちゅうぜよ。わしはその方の地図を得てから、自分が動くべき方向が分かったぜよ」
「地図?」
「そうぜよ。目的地と道筋ぜよ。その地図の中に、商いは必ず入っちゅうぜよ。しかしわしには商いの感覚がないぜよ。だから——お前に頼みたいぜよ」
長次郎が蕎麦を食いながら考えた。
「わしに何をしてほしいがぜよ」
「商いの実務を担ってほしいぜよ。長崎に行って、外国の商いと接触して——何が売れて何が買えるかを調べてほしいぜよ。また英語を本格的に学んでほしいぜよ。言葉は力ぜよ」
「長崎か」
「行けるかよ」
長次郎が少し考えた。
「……龍馬さん、一つだけ聞かせてほしいぜよ」
「何ぜよ」
「その方——地図を持っているという方は——商いを重要なものとして考えてくれちゅうかよ。武士の世の中では、商い人は下に見られるきに。武士が剣を使わんと何もできんという考え方の人もおるきに」
龍馬が間を置かずに答えた。
「その方は商いを最初から重要なものとして考えちゅうぜよ。天朝物産会所という商いの仕組みを、その方自身が作って動かしちゅうぜよ。商売人を下に見る方やないぜよ」
「天朝物産会所……」
長次郎の目が少し動いた。
「御所御用達の?」
「知っちゅうがか」
「名前くらいはぜよ。随分と大きな商いぜよ。その方がその商いを動かしちゅうと——」
「詳しくは言えんぜよ。しかし——言えることは、その方はわしが今まで会った人間の中で、最も先を読んでいる方ぜよ。その方の地図は、正しい方向を向いちゅうぜよ」
長次郎がしばらく蕎麦を見ていた。
「……分かったぜよ。やってみるぜよ」
「ほんまかよ!」
「ただし——英語は今のわしには中途半端ぜよ。もっとちゃんと学ばんといかんぜよ。勝先生に頼めば、誰か教えてくれる方を紹介してもらえんかよ」
「万次郎殿を知っちゅうかよ。アメリカに渡って帰ってきた方ぜよ。その方に頼めるぜよ」
「中浜万次郎殿か。それは心強いぜよ」
「じゃあ、決まりぜよ」
龍馬が長次郎の肩を叩いた。
「お前に命を粗末にするなと、支援してくれる方から言葉を預かっちゅうぜよ。失敗しても命さえあれば挽回できるぜよ。だから無理は絶対にするなよ」
長次郎が少し驚いた顔をした。
「支援してくれる方が、わしのことをそこまで」
「その方はわしの仲間全員のことを心配してくれちゅうぜよ」
長次郎が静かに頷いた。
「……ありがたいぜよ」
四 沢村惣之丞との接触
三人目は——一番時間がかかった。
理由は、沢村惣之丞が江戸にいなかったからだ。
沢村は、この時期は土佐に戻っていると聞いていた。
龍馬は沢村に文を送った。
「こっちに来い。話がある。急ぎぜよ」
それだけ書いた。
一ヶ月後、沢村が江戸に来た。
神田の宿で再会した。
「龍馬、呼び出しておいて、一ヶ月も待たせるがかよ」
沢村が少し怒った顔をした。しかしその顔に、笑いが混じっていた。
「すまんのう、惣之丞。急いでほしかったがぜよ」
「何の話ぜよ。文には何も書いちゅうかったぜよ」
「ここでは話せんぜよ。外に出ようぜよ」
隅田川の近くを、二人で歩いた。
秋になりかけていた。川沿いの葦が風に揺れていた。
「惣之丞、わしの話を聞いてや!まっこと頼むき!」
「何ぜよ」
「わしは変わったぜよ」
「知っちゅうぜよ」
「え?」
「お前が変わったことは、文を見た瞬間に分かったぜよ。『急ぎぜよ』と書いただけやのに——その言葉に以前とは違う何かが混じっちょったきに」
龍馬が少し笑った。
「さすが惣之丞ぜよ」
「で、何があったがぜよ」
「ある方に会うてから、わしの考え方が変わったぜよ」
「ある方とは」
「詳しくは言えんぜよ。しかし——その方に会うてから、わしはこの国がどうなるべきかについての地図を得たぜよ」
「地図?」
「そうぜよ。目的地と道筋ぜよ。その地図に従って、わしはこれから動くぜよ」
「わしに何を望むがぜよ」
沢村が直接的に聞いた。
龍馬が少し止まった。
「……惣之丞、お前はわしのことを一番よく知っちゅうやろう」
「まあ、それなりにはぜよ」
「わしがどういう人間かも知っちゅうぜよ。暴走することも、見切り発車することも。一人でどんどん進んでしちゅうことも」
「知っちゅうぜよ」
「そういうわしを——横で見ていてほしいぜよ。二人一組で動くのが基本ぜよ。わしの背中を守ってほしいぜよ」
沢村が少し黙った。
「……要するに、いつものことやないか」
「え?」
「わしはいつもそうしちゅうぜよ。お前が突っ走ろうとする時に止めて、お前が落ち込んだ時に引き上げる——それが土佐にいた頃からのわしの役割やないか」
「……そうやったかよ」
「今更、正式に頼むことかよ」
龍馬が少し笑った。
「しかし今回は——前とは規模が違うぜよ。この国全体が動く話ぜよ。お前に危険が及ぶかもしれんぜよ」
「それは前と同じぜよ」
「え?」
「お前と一緒に動いて、危険がなかったことがあったかよ」
「……確かにのう」
「いいぜよ、龍馬。乗るぜよ」
「本当かよ」
「ただし一つだけ条件があるぜよ」
「何ぜよ」
「その地図を持っちゅう方が、誰かは言えんでも——その方がわしらを信頼してくれちゅうかどうかだけ、教えてくれよ」
龍馬が真剣な顔で言った。
「信頼してくれちゅうぜよ。命を大切にしろとまで言ってくれちゅうきに」
「……それだけ分かれば十分ぜよ」
沢村が手を差し出した。
「よろしゅうぜよ、龍馬」
「ありがとうぜよ、惣之丞」
隅田川が秋の光を受けて輝いていた。
五 四人が揃った夜
三人が揃ったのは、秋の初めの夜だった。
神田の小さな居酒屋に、龍馬、中岡、長次郎、沢村の四人が集まった。
狭い座敷に四人が入ると、かなり窮屈だった。しかし誰も文句を言わなかった。
「みんな揃ったぜよ」
龍馬が言った。
「慎太郎、長次郎、惣之丞——この三人はわしが信頼する仲間ぜよ。これから一緒に動くことになるぜよ」
「よろしゅうぜよ」
「よろしゅうお願いしますぜよ」
「こちらこそぜよ」
挨拶が交わされた。
龍馬が続けた。
「一つだけ、全員に言うておくことがあるぜよ」
全員が龍馬を見た。
「わしらを支援してくれる方がいるぜよ。詳しくは言えんが——その方は、このわしらの動きを後ろから支えてくれちゅうぜよ」
「どのような方ぜよ」
中岡が聞いた。
「それは言えんぜよ。しかし——その方から、一つだけ伝えることがあるぜよ」
「何ぜよ」
「命あっての物種ぜよ。失敗しても命さえあれば挽回できるぜよ。撤退が必要な時には早めに判断して、早めに動けぜよ。命を失えば、何もかも終わりぜよ」
四人がしばらく黙った。
その言葉の重さが、座敷の空気に満ちていた。
「……わかったぜよ」
沢村が最初に言った。
「命を大切に、ぜよ」
「生きて帰れぜよ」
長次郎が言った。
「生きて帰れば、やり直せるぜよ」
中岡が言った。
「それが前提ぜよ」
龍馬が頷いた。
「では——飲もうかよ」
居酒屋の夜が、静かに深まっていった。
六 糸子からの書状
四人が揃ってから十日後、龍馬の元に書状が届いた。
松屋の番頭が持ってきた。
「坂本様宛てに、京から預かってきました」
「ありがとうぜよ」
龍馬は書状を受け取った。
封を開けた。
まず一枚目に、短い言葉が書いてあった。
「この書状を読んだ後、すべての内容を覚えた上で、必ず燃やして処分すること。人の目に触れさせてはならない」
龍馬は一人で書状を読んだ。
四枚の紙だった。
その内容を、後に龍馬が仲間に伝えた時の言葉として再現すると、以下のようになる。
坂本龍馬殿
仲間が揃ったとの報告を受けた。
よくやった。これから動いてもらう。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
指示その一「薩摩の動向を探れ」
目的:
島津斉彬様が急死された後の薩摩藩の
方向性を把握すること。
斉彬様には遺志があった。朝廷との
関係強化、そしてこの国を外国と
対等に付き合えるようにすること。
その遺志が今の薩摩に引き継がれて
いるかどうかを確認しろ。
具体的にすること:
薩摩藩士との接触を試みること。
江戸の薩摩藩邸に近づく機会を作れ。
各地の志士の集まりに顔を出すことで、
薩摩の人間と自然に出会える。
確認すべきこと:
・薩摩が今、何を求めているか
・斉彬様の遺志は生きているか
・朝廷との関係についてどのような
考えを持っているか
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
指示その二「長州の動向を探れ」
目的:
尊王攘夷が激化している長州藩の
内部事情と、主要な人物の考え方を
把握すること。
具体的にすること:
吉田松陰先生の松下村塾の弟子たちと
の接触を試みること。
確認すべきこと:
松陰先生の弟子たちの中に、信頼
できる人物がいるかどうか。
特に——攘夷だけでなく、この国の
行く先をより広い視点で考えられる
人物がいるかどうかを確認しろ。
重要な注意:
長州では過激な行動に走る者が
出てくるかもしれない。
そのような動きには巻き込まれるな。
情報を収集するだけでよい。
自ら行動することは、この段階では不要。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
指示その三「商売の可能性を探れ」
※三人の仲間が揃った後、四人で動くこと
目的:
商売でこの国を変える道筋を、
自分たちの手で具体化すること。
具体的にすること:
長崎を中心とした貿易商人との接触。
外国の商人と接触できる人物を探せ。
長崎で何が売れるか、何が買えるかを
調べてこい。
これはわたくしからの言葉だ:
「商売で日本を変えることができると、
わたくしは信じています。
刀を使わずに、商売の力でこの国を
強くする方法を——あなたが実践して
みてください」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
最後に:
・二人一組を常に徹底すること
・命あっての物種。無理は絶対にするな
・連絡は松屋または鴻池を通じること
・この書状は読み終えたら燃やせ
協力者より。
龍馬は書状を読み終えた後、しばらく動かなかった。
火鉢の前に座って、書状の内容を頭の中に刻んだ。
薩摩の動向を探れ。
長州の動向を探れ。
商売の可能性を探れ。
三つの指示が、明確だった。
「……よし」
龍馬が書状を火鉢にかざした。
白い紙が、静かに燃え始めた。
燃えながら黒くなり、灰になった。
龍馬はその灰を見ながら、指示の内容が頭の中に焼き付いていることを確認した。
七
翌日、四人が集まった。
龍馬が指示の内容を、仲間に伝えた。
「支援してくれている方から、三つの指示がきたぜよ」
「どのような指示ぜよ」
「一つ目は——薩摩の動向を探れ、ぜよ」
中岡が少し目を輝かせた。
「薩摩か」
「島津斉彬様が亡くなられてから、薩摩の方向性がどう変わったか、を確認したいぜよ。斉彬様の遺志が今も薩摩にあるかどうかをぜよ」
「ほいたら、それはわしが行くぜよ」
中岡が言った。
「慎太郎、頼むぜよ。薩摩との接触は——慎太郎に任せたい」
「任しちょけ」
「二つ目は——長州の動向を探れ、ぜよ」
「それも慎太郎かよ?」
「そうぜよ。松陰先生の弟子たちと接触してほしいぜよ。しかし——過激な動きには巻き込まれるな、という指示が来ちゅうぜよ。情報を集めるだけでいいぜよ」
「分かっちゅう。無茶はせんぜよ」
中岡が頷いた。
「薩摩と長州——両方をわしが担うということやな」
「それで頼めるかよ」
「できるぜよ。時間はかかるが——」
「急がんでいいぜよ。正確に、慎重にやってほしいぜよ」
「三つ目は——商売の可能性を探れ、ぜよ」
長次郎が身を乗り出した。
「それはわしの出番ぜよ」
「そうぜよ。長崎に行って、外国の商人と接触して——何が売れて何が買えるかを調べてほしいぜよ。そしてこれは四人全員でやる指示ぜよ」
「四人で長崎に?」
「一度はそうしたいぜよ。商売の現場を全員が見ておくことで——それぞれが各地で動く時に、商売の観点を持てるぜよ」
沢村が言った。
「わしは護衛として動くぜよ。龍馬が薩摩の人間と会う時も、長州の人間と会う時も——必ず一緒にいるぜよ」
「二人一組の基本、ぜよ」
「そうぜよ。それは絶対に守るぜよ」
四人がしばらく顔を見合わせた。
「……面白くなってきたぜよ」
中岡が静かに言った。
「これが始まりぜよ」
龍馬が言った。
「この国を変える、最初の一歩ぜよ」
八 京都の糸子
京では、糸子が帳面を開いていた。
秋の庭に、金木犀の香りが漂っていた。
甘い匂いが、開いた窓から入ってきた。
「松屋から報告が来た。龍馬の元に書状が届いたことを確認した。書状はその日のうちに処分されたとのことだ」
「三人の仲間が揃ったことも確認した。中岡慎太郎、近藤長次郎、沢村惣之丞——いずれも龍馬が選んだ人物だ。わたくしが想定していた通りの選択だった」
糸子は少し考えた後、続けた。
「指示は三つ出した。薩摩、長州、商売。この三つが同時に動き始めれば——次の段階への準備が整う」
「龍馬たちが動く間に、こちらもやることがある」
「ハリスとの交渉の準備の最終段階。英語の仕上げ。万次郎との最後の実践。旭狼衛の江戸対応体制の完成。そして——直弼への対応」
糸子は筆を置いた。
「全てが、一点に向かっている」
近藤が縁側の外で夜番についていた。
「近藤殿」
「はい」
「坂本が動き始めました」
「そうですか」
「あの人が動いた先に何があるかを——わたくしはまだ全部は見えておりませぬ。なれど方向は合っているはずでございます」
「姫様が地図を渡したのですから」
「はい。地図が正しければ——あとは、その地図を使う人間の力次第でございます」
「坂本殿は、その力を持っていますか」
糸子が少し間を置いた後、言った。
「持っているでしょう。あの方は——わたくしがこの世界で会った中で、最も大きく化ける可能性がある人物でございます」
「大きく化ける?」
「はい。地図を得た今、その可能性が現実になりつつありまする」
近藤が静かに頷いた。
金木犀の香りが、秋の夜に漂い続けていた。
坂本龍馬と三人の仲間が、これから動き始める。
糸子はその動きが、やがて大きな力になることを知っていた。
しかしその力が実現するまでには、まだ時間がかかる。
それまでの間に——ハリスとの交渉があり、直弼との見えない戦いがあり、御門様との関係を深める日々がある。
全てが同時に動いている。
糸子は帳面を閉じた。
次の手を考え始めた。
第四十一話 了




