第四十八話「天誅」
一 風呂敷の中身
安政六年、冬。
一橋藩上屋敷の奥御殿に、朝の光が差し込んでいた。
付書院の障子越しに、小庭の松が見えた。霜が降りていた。松の葉の先に、白い結晶が細かく付いていた。朝の光がそれを照らして、小さく輝かせていた。上段の間の金箔格天井が、その光を鈍く受けていた。
「姫様ーー、どこにいますかーー?」
廊下の向こうから、大きな声がした。
糸子は帳面から顔を上げた。
「こちらでございますよーいかがなさいました? 沖田殿」
障子が開いた。
沖田総司が、でかい風呂敷を肩に担いで現れた。
「あーいたいた! 持ってきましたよ!」
「何だ、沖田……その荷物は?」
廊下に控えていた近藤が、思わず声を出した。風呂敷の大きさが尋常ではなかった。沖田の肩から腰まで届きそうな、丸く膨らんだ包みだった。何が入っているのか、形から読めない。
「まぁまぁまぁ、随分と集められたのですね! 早く見せておくんなまし」
糸子が身を乗り出した。その顔が、明るかった。
「松屋と自分がめちゃめちゃ頑張ったんですよー。姫様は多い方が分かりやすくて喜ぶだろうなと思って、できるだけ集めました」
沖田が重そうに、風呂敷を床に降ろした。どすん、と鈍い音がした。
紐を解いて、広げた。
「こんな感じでどうでしょう?」
沖田が自慢げに見せた。
「どれどれ……」
糸子と近藤が、中身を見た。
「こっ……これは、こんなものを一体何に使うのだ? 沖田よ」
近藤が、中身を見ながら首を傾げた。訳が分からない顔をしていた。
風呂敷の中に広がっていたのは——いろいろな品々だった。それらが、ごちゃりと詰まっていた。
「まぁ、いろいろなものがありますのね。これだけあれば人目につきやすくて分かりやすい、大変よろしゅうございます」
糸子が大喜びで言った。
「でしょーー」
沖田がにんまりと笑った。
「?」
近藤は余計に訳が分からなかった。首を傾けたまま、二人の顔を交互に見た。
「それじゃ沖田殿。こちらの書状を見てくださいな」
糸子が胸元から書状を取り出して、沖田に渡した。
沖田が広げた。
「どれどれ……あー、土方さんから連絡ですね。へーこんなに具体的な計画案と、討ち入りの日時まで、参加者人数もわかったんですか!」
「さすが土方さんだ!」
沖田が感心した。
「参加者は……合計百二十七名!! かなり多いですね。これならばかなり紛れ込みやすいですよ、姫様」
沖田のわくわくが顔ににじみ出ていた。
「そうでございますかー」
糸子が静かに微笑んだ。
「沖田殿、お分かりだとは思いまするが、当日長居は無用にございます。目的を果たしましたら土方殿と二人でさっさと帰宅してくださいまし」
「わかってますよ、姫様。当日は土方さんも無理矢理にでも引っ張ってきますから安心してください」
沖田が屈託なく言った。
「よしなに、お頼み申します」
糸子が軽く頭を下げた。
「それにしても……」
沖田と糸子が、ほぼ同時に口を開いた。
「当日は楽しみだなー、早く日時が来ないかなー」
沖田が言った。
「全くでございます」
糸子が言った。
「ふふふふふーーーーーーっ」
二人が、同じ笑い方で笑った。黒く、不気味に、しかし楽しそうに。
近藤は、二人の笑う姿を黙って見ていた。
そして——誰にも気づかれないように、そっと、一歩後ろに下がった。
「俺は何も知らない。俺は何も見ていない。何も聞いていない。何も言わない……絶対にこの件には触れないぞ……」
近藤は、心の中で強く誓った。
二 彦根藩江戸藩邸
彦根藩江戸藩邸は、江戸城の外堀の外側に構えられた広大な屋敷だった。
外堀を越えた先、神田橋門の近くに位置していた。将軍に近い要地に、井伊家は長年、その屋敷を構えてきた。彦根三十五万石の格式を示すにふさわしい、威容を誇る大名屋敷だった。
正門は重厚な黒塗りの門だった。柱は太く、扉は分厚かった。彦根井伊家の家紋——井桁に橘——を象った金属細工が、門の上に施されていた。門柱の両側に番所が設けられており、常に門番が詰めていた。
門をくぐると、広い表向きの庭が広がっていた。松と石組みが整然と配置された、格式ある庭だった。庭の松は手入れが行き届いており、冬の今も濃い緑を保っていた。石灯籠が等間隔に並んでいた。
その庭の奥に、表御殿が建っていた。板廊下が長く伸びていた。廊下は磨かれており、鏡のように光っていた。表御殿には客間と書院があり、政務の場として使われていた。
表御殿と奥御殿の間には、中庭があった。冬の中庭は、地面に霜が残っていた。夜になると、その霜が固まり、踏むと音がした。
表御殿の奥に、玄関がある。玄関を入ると、中庭を挟んで奥御殿に続いた。奥御殿は直弼の日常の居所だった。書院があり、茶室があった。茶室の庭は、直弼が自ら手を加えた形跡がある。一期一会の精神を体現するような、簡素な中に深みのある庭だった。
屋敷全体は、高い土塀に囲まれていた。塀の高さは人の背丈の二倍ほどある。外から容易に侵入できない作りだった。
しかし——冬の夜の彦根藩邸に、百二十七名の意志が集まろうとしていた。
三 決行前夜
冬の深夜、江戸の各所に潜んでいた浪士たちが、静かに動き始めた。
本所の裏長屋を出た者がいた。深川の空き家から出た者がいた。神田の旅籠を出た者がいた。それぞれが別々の経路を取り、別々の時刻に動き、最終集合点へと向かった。
提灯は持たなかった。月明かりと、街の辻番所の灯りだけを頼りに歩いた。冬の夜の江戸は、暗かった。しかし——それが今夜は、都合が良かった。
集合場所は、彦根藩邸の外周に沿った数か所に分散していた。
金子孫二郎が全体を統括した。高橋多一郎が戦術を判断する。関鉄之介が現場を指揮する——この三層の指揮構造は、何度も確認されていた。
高橋が低く言った。
「目的は一つだ。それだけを見ろ」
「応!」
「離れるな。しかし固まるな。状況に応じて動け」
「応!!」
一人一人が頷いた。
合言葉は一つだった。
「天誅!!!」
集まった者たちの間に、静寂が流れていた。
誰も余計なことを言わなかった。怒鳴らなかった。激昂しなかった。それぞれが、各自の腹の中でそれぞれの理由を抱えていた。激情、義憤、疑念——それらを押し殺し、行動だけが統一されていた。
関鉄之介が前面隊を率いていた。冷たい夜気の中で、その目が動いていた。正門の位置を確認した。番所の様子を見た。内通者が動く時刻を確認した。
有村次左衛門が、集団の中にいた。薩摩の脱藩浪士は、他の者たちとは少し違う空気を持っていた。静かだった。感情的ではなかった。一点だけを見ていた。
そして——百二十七名の中に、粗末な着物を着た二人の男が、それぞれ別の場所に立っていた。
四 土方と沖田
土方歳三は、正門付近の集団の中に混じっていた。
田中弥次郎——この名前で数週間過ごした。脱藩浪人として信頼を得た。今夜がその終わりだ。計画の中にいて、情報は全部送った。あとは——糸子が何をするか、だ。
背後から、肩を叩かれた。
土方は反射的に振り向いた。
そこに——満面の笑みを浮かべた沖田総司がいた。
「──!!?」
土方が思わず声を出しそうになった。咄嗟に口を押さえた。
「随分探しちゃいましたよー」
沖田が、小声で言った。
「こんな楽しいこと、自分に内緒だったなんてずるいなー。自分も混ぜてくださいよ」
「おっ……なんでお前がここにいるんだよ!」
土方が小声で返した。声を抑えるのが精一杯だった。
「自分は姫様からある重要な役目をもらってきているだけですよ」
沖田が楽しそうに言った。
「なんか気のせいか……お前、ものすごく楽しそうだな」
「こんな祭りには、なかなか参加できませんからね。楽しまないともったいないですよ」
「祭り……だと?」
土方が少し引いた。
五 討ち入り
合図は、夜の中に静かに発せられた。
冬の夜の彦根藩邸周辺は、冷えていた。地面に霜が残っていた。遠くで犬が吠えていた。そして——百二十七名が、息を殺して待っていた。
金子孫二郎が手を上げた。
一瞬の沈黙の後——
前面の主力隊が動いた。
内通者が開門した。
彦根藩邸の正門が、内側から開いた。その音は、思いのほか静かだった。しかし次の瞬間、浪士たちが一気に流れ込んだ。
「天誅!!」
最初の声が上がった。それが合図だった。
正門を突破した前面隊の先頭は、槍を持った者たちだった。防御を打ち破るための突破役だ。その後ろに刀を持った者たちが続いた。外周から塀を乗り越える側面隊が、同時に動いた。塀の上に人が立ち、次々と内側に飛び降りた。
門番が応戦しようとした。しかし——数が違いすぎた。
「敵が侵入してきたぞーー!!」
「討ち入りだーー!」
彦根藩邸の中から声が上がった。
「応戦しろーー!」
「殿を守れ!!」
「井伊はどこだーー!」
「天誅を下せーーー!!」
彦根藩士たちが武装して飛び出してきた。廊下から、部屋から、庭の奥から——それぞれが武器を持って出てきた。
しかし——どこに向かえばよいか、すぐには判断できなかった。あちらでも声がし、こちらでも足音がした。包囲されているという感覚が、藩士たちの判断を鈍らせた。
六 戦闘
中庭に出た瞬間、白兵戦が始まった。
夜の中庭は、暗かった。庭の松が黒く立っていた。石灯籠が影を作っていた。その中で、刀と刀がぶつかった。
金属の音が、連続して鳴った。
浪士たちが押し込んでいた。人数が多かった。どこから来るか分からない——そういう状況が、彦根藩士の判断を狂わせた。
正門を突破した前面隊は、そのまま中庭に雪崩れ込んだ。
関鉄之介が先頭に立っていた。岡部三十郎と松田三郎が両側に控えた。三人が楔のように前に出て、彦根藩士の防衛線に食い込んでいった。
「玄関前に防衛線を張れ!」
彦根藩士が叫んだ。
「押し返せ! 殿を守れ!!」
彦根藩士が五名、玄関の前に並んだ。槍を構えた。槍の間合いは、刀より長い。正面から突入しようとした浪士が、槍に弾かれた。
しかし——側面から別の集団が入り込んでいた。廊下の奥から、声が上がった。
「こちらも来ているぞ!」
指揮系統が、混乱し始めた。
「迂回しろ!」
高橋多一郎の声が飛んだ。
浪士の一部が庭を回り込んで、廊下の横から入ろうとした。側面から侵入した者たちが、縁側の障子を蹴破って、屋敷の内部に入り込んでいた。
混戦が広がった。
廊下で、また別の衝突が始まった。廊下は狭い。二人並んで走れる幅しかない。しかしその狭さが、かえって浪士たちに有利だった。数が多い側が有利な、押し合いになった。
稲田重蔵が、正門付近で倒れた。最初の浪士の死者だった。しかし——前面隊は退かなかった。稲田が倒れる前に既に前に出ていた者が、さらに前に出た。一人が倒れても、次の者が前に出る。その連続が、彦根藩の防衛線を少しずつ削っていった。
彦根藩邸の一角から、銃声がした。
縁側から、藩士が鉄砲を撃ちこんできた。煙と轟音が、夜の庭に広がった。浪士の数名が倒れた。
しかし——勢いは止まらなかった。
山口辰之介と斎藤監物が、鉄砲が撃たれた方向へ向かった。縁側に上がり、撃った藩士に向かっていった。短い攻防があった。そして鉄砲の音が止んだ。
高橋多一郎が、中庭の中央から全体を見ていた。
戦況を計算していた。正門側の戦いは押している。側面から入った者も内部に食い込んでいる。しかし奥への突破がまだだ。
「標的に集中せよ!」
高橋が叫んだ。
「奥へ向かえ! 目的を見失うな!!」
その声で、散発していた浪士たちの意志が、一点に収束した。
七 奥——主君の間——へ。
戦闘が広がる中、土方と沖田は別の動きをしていた。
二人は浪士たちと共に彦根藩士を斬りながら、じわじわと屋敷の内部へ移動していた。
「みな元気いっぱいですねー。さすが祭りは違うなー」
沖田が実に楽しそうに、刀を動かしながら言った。
「なにが祭りだ? お前のその考えが俺には全く理解できん」
土方が答えた。しかし手は止まらなかった。向かってくる彦根藩士を捌いて、前に進んだ。
一定の場所まで来た時、沖田が言った。
「それじゃそろそろお役目をこなしちゃいますか。土方さんも付き合ってくださいねー」
沖田が土方の腕を掴んで、引っ張った。戦闘の主流から外れた場所に、二人は移動した。
「どうするんだよ」
「あったあった……」
沖田が、屋敷の柱の陰を確認した。そこには——例の大きな風呂敷が置かれていた。
「こんな討ち入りしている状態で、どうやったらそのでかい風呂敷を誰にも知られずに運び込めるんだよ?」
土方が目を見張った。
「いくら土方さんでもそれは秘密です。自分は謎多き男ですからねー」
「ほんとに訳がわからんぞ……」
「これを用意するのと、ここまで運び込むのはほんとに大変だったんですからー」
沖田がしみじみと言った。
「なんだそれは?」
「まぁ、中身は見れば分かりますよー」
沖田が一生懸命に風呂敷を広げた。
土方が覗き込んだ。
そして——固まった。
八 風呂敷の中身、再び
広げられた風呂敷の中には、水戸藩ゆかりの品々が、こんもりと詰まっていた。
まず目に入ったのは、刀だった。
水戸拵と呼ばれる仕立てのものが、複数本。柄に巻かれた紐は、通常の菱巻きではなく、平巻きと革巻きだった。装飾を一切省いた、実用本位の拵え。切っ先が鋭く研ぎ澄まされており、突きに特化した水戸刀の特徴が、見る者が見れば一目で分かった。鍔には、葵の紋を少し崩した意匠が施されており、水戸藩ゆかりの彫り物が入っていた。
その横には、鎖帷子があった。細かな鎖を丁寧に編み込んだ防具で、着物の下に仕込んで使うものだ。水戸浪士が実戦に備えて常用していたものだ。着用の跡が残っており、実際に使われたことを示していた。
袖口に結ぶための括り紐も数本あった。戦闘時に袖が邪魔にならないよう、あらかじめ絞るための紐だ。水戸流の身なりとして知られる習慣の痕跡だった。
印籠が何個かあった。常陸近辺の薬屋で作られたと分かる意匠の袋が付いていた。水戸藩は医学が盛んで、止血や気付けに効く特有の常備薬をこういった印籠に入れて携帯していた。
通行手形が数枚あった。水戸近隣の宿場や村の名前が記されたものだった。関所を越えるために使われた証拠であり、その足取りを示すものだ。一部は古く、端が擦り切れていた。長く使われてきた手形だと分かった。
さらに——懐紙の束があった。水戸学特有の用語が書かれていた。烈公・徳川斉昭が好んだ「尊攘」の二文字も、複数の紙に記されていた。志士としての信念を書き留めたものだ。血の染みが一部についていた。
「こりゃ……水戸藩のものばかりじゃねぇか」
土方が言った。
声が低かった。
土方は、これらの品の意味を知っていた。品川での刺客の体を検めた時に見たものと、同じ種類の品々だ。水戸の脱藩浪士が持つ、特徴的な品々。
「それじゃ行きますか……」
沖田が大きく息を吸った。
そして——
「おーい、見てくれ~! 水戸藩のものが大量にここにあるぞぉ! 彦根藩邸に討ち入ったら、とんでもないものを見つけてしまった! あぁーどうしよう!!」
沖田が、大声で叫んだ。
「驚くだろ!?」
土方が二歩後ずさった。
九 証拠の波紋
沖田の声は、戦闘の喧騒の中でも通った。
周囲の浪士たちが、動きを止めた。
「なに!?」
「どうした?」
其処らじゅうで戦闘をしていた浪人たちが、沖田の元へ集まってきた。
「なんだ?」「何があった?」
血刀を提げた浪士たちが、沖田の周りに集まった。広げられた風呂敷と、その中の品々を見た。
「そういえば……朝廷の使者を二十六人の刺客が襲った騒動があったな」
誰かが言った。
「犯人は水戸藩士らしいとのことだったけれど……」
「なるほど!」
別の声が上がった。
「彦根藩が成りすまして、水戸藩にその罪をなすりつけていたんだな!」
「この品々が彦根藩邸にあるのは何よりの証拠だぞ!!」
「益々許せん、井伊!!」
「井伊許すまじ!!!」
「急いでこの証拠を確保しろーー!!」
人がますます集まってきた。大騒ぎになった。
土方は、その光景を見ていた。
開いた口が、塞がらなかった…
これが——姫様の計画だったのか。
「姫様の襲撃騒動の時、水戸藩に罪を擦り付けるために彦根藩が用意した偽の水戸藩の証拠を、今度はあえて彦根藩邸の中から見つけ出させる。
しかも、それを見つけるのは討ち入りに参加した百人以上の武士たちだ。彼ら全員が証人になれば、流言の流れは一気に変わる。
井伊が堀田を失脚させようと画策して流した『堀田が姫様を狙っている』という流言が、今度は『井伊が堀田を陥れようとしていた』という真実にすり替わるんだ」
「大変な証拠を見つけてしまった!! あぁーどうしよう!!」
沖田がさらに大声で続けた。
「お前……」
土方が、信じられないものを見る目で、沖田を見た。
沖田は実に楽しそうだった。
十 離脱
土方が沖田の腕を掴んだ。
「行くぞ」
「あ、そうですね。帰りましょうか、用事も無事済んだことだし」
二人は、浪人たちの輪の中から静かに抜け出した。
屋敷の中は、まだ戦闘が続いていた。あちこちで剣の音がした。煙が上がっていた。屋敷の一角に火が出ていた。
しかし土方と沖田は、その混乱の中を、誰にも気づかれずに動いた。
側面の塀に近い場所に出た。事前に確認しておいた経路だった。
「それでいいのか? お前は……」
「自分は姫様のいう通りに役目をこなしただけですからねー。後は討ち入りした人たちがうまくやるでしょ?」
沖田が楽しそうに言った。
「………」
土方は答えなかった。
塀に手をかけた。身軽に越えた。沖田も続いた。
夜の外の道に、二人が降り立った。
「いやーほんとに楽しかったなぁー」
沖田が満足そうに言った。
「祭りは良いものですねー」
「……俺には全く理解できん」
土方が言った。
歩きながら、土方は頭の中で思っていた。
「うけけけけーーーーーーっ」
一橋藩上屋敷で糸子が笑っている姿が、なぜか目に浮かんだ。
「全く……あの姫様にはかなわん」
土方が小さく苦笑いした。
二人は夜の道を歩いた。後をつけられていないかを確認しながら、遠回りをしながら、彦根藩江戸藩邸を離れていった。
十一 奥の間
その頃、彦根藩邸の奥御殿では、別の戦いが続いていた。
浪士の主力が、表御殿を突破して奥へ向かっていた。廊下が、最も激しい戦場になっていた。
廊下は狭い。二人が並んで走れる幅しかない。彦根藩士が廊下に槍を構えて、時間を稼いでいた。
「殿を守れ! ここを通すな!!」
「押せ、押せ!!」
浪士の前列と、槍を構えた藩士の間で、激しい攻防が続いた。
槍が浪士の一人を捉えた。倒れた。しかし——次の者が前に出た。
高橋多一郎が判断を下した。
「側面から回れ! 縁側から入れ!」
縁側を経由して、庭から奥に回り込む者が出た。廊下の守りが崩れ始めた。
やがて——奥の間が見えた。
茶室の隣の書院だった。直弼が「一期一会」の掛け軸を下げた部屋だ。その部屋に向かって、浪士たちが廊下を押し込んでいった。
護衛が必死に防いでいた。しかし、廊下の両側から押されて、次第に後退していた。一人が倒れた。また一人が倒れた。護衛の数が減っていった。
外部の混乱が大きく、援軍が来なかった。全員が各所の戦闘に取られていた。奥の間の護衛は、孤立していた。
十二 井伊直弼・最期
奥の間は静かだった。
薄暗かった。行灯が一つ、隅に灯っていた。床の間に「一期一会」の掛け軸が下がっていた。その下に、直弼が立っていた。
護衛が数名いた。しかし——浪士が複数の方向から押し込んでいた。護衛は懸命に防いでいたが、もはや限界だった。
長野義言が直弼の前に立った。
「井伊様、お逃げください!」
「逃げぬ」
直弼が言った。
声は静かだった。怯えていなかった。
「お逃げください!!」
「大老が逃げてどうする」
直弼が刀を手に取った。しかし——その手が少し震えていた。
廊下の向こうで声がした。
「天誅!!」
浪士が奥の間に雪崩れ込んだ。
長野義言が直弼の前に立ちはだかった。
「ここは通さぬ!!」
刀を抜いて、浪士と斬り合った。長野は強かった。しかし——数が違いすぎた。
「長野!!」
直弼が叫んだ。
長野が倒れた。井伊直弼をかばって、数本の刀を受けて、倒れた。
直弼が前に出た。刀を構えた。
しかし——部屋の四方から浪士が押し込んできた。
有村次左衛門が、部屋の中心に出た。薩摩の脱藩浪士だった。その目に、迷いがなかった。他の者が戦況に引きずられる中、この男だけは一点だけを見ていた。
「井伊……直弼」
有村が言った。
直弼が有村を見た。
その刹那——直弼の顔に、何かが走った。
「この襲撃も……近衛が裏で手を引いているとでも言うのか?」
直弼が、声を絞り出すように言った。
「きっとそうに違いない!!」
「おのれーーこーのーーえーーーーっ!!!!」
有村が動いた。
一瞬だった。
十三 天誅
有村の刀が、直弼の首を落とした。
部屋が、静まった。
一瞬だけ、静まった。
有村が直弼の首を刀の先端に刺して、高く掲げた。
「逆賊井伊を打ち取ったリーーー我ら天誅を下す也ーーーー!!」
叫び声が、奥の間から廊下に、廊下から表御殿に、表御殿から庭に——広がっていった。
その声を聞いて、廊下で戦っていた浪士たちの動きが変わった。
目的が達成された。
金子孫二郎が、どこかから声を上げた。
「目的は達した! 離脱の準備を始めよ!」
庭で戦っていた浪士たちが、その声を聞いた。
「我らの勝利ぞ!!」
「目的は果たした!!」
彦根藩士たちは、その声を聞いた。
愕然とした。
指揮する者が消えた。命令が来なくなった。藩士たちが、孤立した戦いを続けていたが——統制が崩れた。
しかし——浪士たちの全員が、理性的に動いていたわけではなかった。
「彦根のものどのは皆殺しじゃー!!」
「彦根藩の者どもには全員天誅を下せーー!!」
叫ぶ声があった。それに引っ張られる者が出た。
藩邸の一角から炎が上がった。誰かが火をかけたのか、行灯が倒れたのか——冬の夜に、橙の炎が彦根藩邸の一部を照らし始めた。
その炎が、夜空に向かって揺れた。
遠くから見ると、彦根藩邸の一角が赤く光っていた。
十四 江戸城・堀田の判断
江戸城、本丸御殿。
堀田正睦が執務に使う部屋は、本丸御殿の南側に位置する一室だった。書院造りの落ち着いた部屋で、床の間に松の掛け軸が下がり、窓の外には手入れされた苔の庭があった。
その夜、堀田は執務をしていた。
急使が来た。
「老中様! 御急使にございます!」
入ってきた家臣が、書状を差し出した。
堀田が受け取った。怪訝な顔をした。
差出人を見た。近衛糸子——————
近衛の姫君がかつて「こちらはこちらで独自に調べさせていただきまする」と堀田の使者に伝えた言葉が、堀田の脳裏に浮かんだ。
書状を急いで開いた。
内容を読んだ。
「……百人……だと」
堀田の手が止まった。
書状には、こう記されていた。
「百人以上の浪人が天誅を掲げて大老井伊殿を討たんと彦根藩江戸藩邸に討ち入りする計画あり。至急動かれたし」
静かな座敷に、紙が開かれた時の音だけが残っていた。
しかし——堀田はすぐに動いた。
「若年寄へ急使! 彦根藩邸へ兵を集めよ!」
声が早口になった。
「町奉行に伝えよ、市中を閉じよ、木戸を落とせ!」
「火付盗賊改——武装して向かわせよ!」
家臣たちが、慌てて方々へ駆け出した。足音が廊下を走った。
やがて、部屋から人が全員出て行った。
堀田一人が、部屋に残った。
外から、夜の江戸の音が聞こえた。遠くで、何かが起きているような気配がした。
「(これは好機か、それとも破滅の始まりか?)」
堀田が心の中で思った。
「(誰がこの政を支える……)」
窓の外に、冬の夜空があった。
堀田は、もう一つのことを考えていた。
「……しかしあの姫君様……我々幕府の知らない、このような情報をなぜ先に知っている? どうやって手に入れた?」
堀田の背中に、冷たい汗が流れた。
十五 帰還
冬の終わりのある朝、一橋藩上屋敷に、彦根藩江戸藩邸襲撃騒動から随分時間か経った頃、土方と沖田が戻ってきた。
江戸の空気に、かすかに春の気配が混じり始めていた。風がまだ冷たかったが、その冷たさの中に、どこか柔らかいものがあった。梅の香りが、どこかから運ばれてきた。鳥の声が、京都とも品川とも違う、江戸の春の声だった。
奥御殿の小庭の松は、冬の間も緑を保っていた。石灯籠に、朝の光が当たっていた。霜はもう降りていなかった。庭の隅に植えられた梅の枝に、白い花が二、三輪開いていた。
上段の間の金箔格天井が、春めいた朝の光を受けて、いつもより明るく輝いていた。
糸子が座っていた。傍らに茶が一椀置かれていた。近藤が廊下に立っていた。
「ようやく戻ってきましたー」
沖田が元気な声で言った。
「無事帰還を致しました、姫様……」
土方が軽く会釈した。
糸子は茶を一口飲んでから、静かに言った。
「よく戻りました。お二方の元気な姿を見れて、安堵いたしました」
その声には、本当の安堵があった。待っていた、という言葉は言わなかった。しかし——待っていたことは、その声の中に全部あった。
「こんなに帰還が遅くなったのは、離脱後、誰かに後をつけられていないかを念のため確認する処置でした。申し訳ありません」
土方が、また会釈した。
「近藤殿より話は伺っておりましたから、何の問題もございませんよ」
「それでは報告をお願い致しまする」
土方は報告を始めた。
討ち入り後の状況——有村次左衛門の末路、散り散りになった浪士たち、関鉄之介が今も逃走中であること。藩邸の中で水戸藩ゆかりの品々が発見され、百名以上の参加者の目に触れたこと。その後、市中の木戸が落とされ、火付盗賊改が出動したこと。
糸子は聞きながら、何かを書き留めていた。
帳面の上を、筆が走った。止まった。また走った。
「それから——」
土方が続けた。
「堀田様が、当日夜に動いていたとのことです。かなり早い対応だったと、城内では言われているそうです」
「そうでしたか」
糸子が筆を止めた。
「……書状を出しておいて良かったですね」
ぽつりと言った。
「はい」
近藤が廊下から言った。
全てを話し終えると、土方は少し間を置いた。
「一つだけ聞いてもいいでしょうか?」
「なんでしょう」
「あの連中は——本当に、間違っていたのでしょうか」
糸子が筆を置いた。
「死なねばならぬほど、悪いことをしたのでしょうか」
部屋が静かになった。
墨の香りがした。
庭の松が、春の気配を帯びた風に揺れた。石灯籠の影が、少し動いた。梅の花が、かすかな光の中に白かった。
糸子は、しばらく沈黙していた。
その沈黙は、答えを探しているのではなかった。既にある答えを、どう言葉にするかを考えていた。
関鉄之介の顔が、頭の中にあった。直弼への怒りを抱えた人々の顔が、あった。有村次左衛門の、迷いのない目が、あった。
彼らは、正しかったのか。間違っていたのか。
二十一世紀から来た糸子には、この時代の終わりが分かっている。幕末がどう動いて、この国がどこへ向かったか、知っている。しかし——その知識が、今ここで死んだ者たちの義を量れるかどうかは、また別の問いだった。
「正しいか、間違いか。そんな理屈を追いかけている間にも、人はあっけなく死んでゆきまする……」
やがて、糸子は静かに言った。
「義か不義か、迷うている間に人は死ぬ。……確かなのは、『人は死ぬ』というそのことだけでございます」
土方は、その言葉を聞いた。
返す言葉がなかった。
刀を抱え直して、立ち上がった。
「そうか………」
小声でつぶやいた。
それから、土方は静かに礼をして、退室した。
沖田は少し残っていた。
「姫様」
「はい」
「今回は——楽しかったです」
沖田がにこやかに言った。しかし、その笑いの中に、いつもと少し違う何かがあった。
「また呼んでください」
沖田が礼をして、退室した。
十六 春の風
外では、春の風が吹いていた。
冬の間、ずっと凍っていたものが、少しずつ溶け始めていた。
土方が退室した後、糸子は一人、上段の間に座っていた。
縁側の外の小庭を見た。
松の葉が、春の最初の風に揺れた。その揺れ方が、冬と少し違った。柔らかかった。梅の花が、そよ風に小さく揺れた。
帳面を開いた。
これまで起きたことを、整理していた。
井伊は消えた。長野義言も死んだ。しかし——それで全てが終わったわけではなかった。
大奥ではまだ篤姫が動いていた。後継者問題は、まだ終わっていない。
条約の実施細則交渉は、延期されたままだ。ハリスとの会談は、まだ先にある。
そして——この幕末の流れは、まだ続く………
糸子の目が、帳面の上を動いた。
やるべきことが、まだある。
それが——今の、この幕末にいる意味だ。
「言葉と知恵と誠実さで……」
糸子が小さく呟いた。
「剣と権力に対抗できるか」
九歳から三年半かけて準備してきた問いの答えは、まだ出ていなかった。
ハリスとの交渉が、まだ待っていた。
外の風が、庭の松の葉を揺らした。
春が、少しずつ、江戸に来ていた。
第四十八話 了




