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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第四十七話「潜入」

一 来客

 冬の陽は短い。

 一橋藩上屋敷の奥御殿に差し込む光は、午後になると早くも傾いていた。付書院の障子越しに、小庭の松の影が長く伸びた。石灯籠の台座に白い霜が残っていた。夜の冷えが、昼になっても地面に残っていた。

 上段の間の金箔格天井が、傾いた陽の光を鈍く受けて、うっすらと輝いていた。床の間の掛け軸は山水図で、墨の濃淡が静かに息をしていた。青畳の縁には、近衛家の文様を模した織物が施されていた。

 糸子は上段の間に座っていた。

 膝の前に帳面があった。しかし筆は置いていた。考えていた。土方が出て行ってから、まだ間もない。あの男が何を調べて来るか——それを待つ間に、自分は何ができるか。

 そこへ近藤が来た。

「姫様、お客様がいらっしゃいました」

「誰でしょう?」

「勝海舟殿と、中浜万次郎殿でございます」

 糸子の顔が、ぱっと明るくなった。

「お通ししてください」

 しばらくして、二人が入ってきた。

 御簾を挟んで、向き合った。

 勝海舟は、相変わらずの人物だった。着流しに羽織という、どこか気取らない格好で、しかし目だけが鋭かった。歩き方に無駄がなかった。この人は江戸の海と空気で出来ている、と糸子はいつも思う。格式や礼法より、もっと根っこのところで動いている人だ。独特の江戸弁と、直接的な物言いが、かえって誠実さを感じさせた。

 中浜万次郎は、その隣で穏やかに立っていた。がっしりとした体格だった。漁師の家に生まれ、アメリカで鯨船に乗り、太平洋を渡って帰ってきた男。その経歴が、体の中に刻まれているような、落ち着きがあった。どんな場所に置かれても、自分の軸を失わない人だ、と糸子は中浜を見る度に思う。

「お久しぶりです、姫様」

 勝が言った。

「勝殿、中浜殿——よくぞいらしてくださいました」

「江戸に来たと聞いて、まあ会いに来るしかないじゃないですか」

 勝が少し笑った。しかしその笑いの中に、安堵があった。

「正直、道中の件を聞いた時は——姫様ならば大丈夫だとは思っていましたが、こうして無事な声を聞くまでは…」

「心配していました」

 中浜が続けた。穏やかな声だった。しかし、その穏やかさの中に本気があった。

「正直に申し上げると、不安でした。十八日の南海路の旅を終えて、品川から江戸に向かう途中に——という話を後から聞いて」

 糸子は、御簾の向こうで少し止まった。

 こんなにも自分のことを心配してくれている人たちがいる——。

 そのことが、今更のように、胸の中に落ちた。京都を出てから、伏見、大坂、南海路、品川、札の辻——ずっと動き続けてきた。その間、誰かが心配しながら待っていてくれていた。

「ご心配をおかけして誠に申し訳なく存じ上げます」

「謝ることはないですよ。無事ならそれで十分だ」

 勝が言った。

「旭狼衛の方々がいてくれたおかげでございます」

 糸子が答える。

「そうですね。あの方々がいてくださったおかげで」

 中浜が頷いた。

「さて——近況報告がありまして」

 勝が続けた。

「まず龍馬のことですが…」

「坂本ですか?」

「今は西に旅立っています。江戸にはおりません」

「……そうでしたか」

「あいつから文が来まして——『毎日が充実しちょって、まっこと楽しい。次会う時には、わしが成長した姿を楽しみしちょけよ』とかなんとか………」

 勝が苦笑いをした。

「相変わらずでございますね」

「まったく、あいつは——まあ、元気にやってるってことですよ」

 糸子は小さく笑った。

 坂本らしい。あの言葉の量と質の男が、文一つでもそのままだ。どこかで元気に、充実しながら動き回っているのだろう。その姿が、目に浮かぶようだった。

「元気でいるとのこと、安堵いたしました」

「ところで——姫様に聞いておきたいことがあるんですがね」

 勝が少し真面目な顔をした。

「なんでございましょう?」

「道中、本当に大変だったと聞いてるんですよ。二十六人ですか。白昼の公道でそれだけの数に囲まれて——まあ、旭狼衛がいたから大丈夫だったとはいえ、怖かったでしょう」

「……少し怖かっただけでございます」

 糸子が正直に答えた。

「少し、ね」

 勝が少し笑った。

「俺が聞いたところじゃ、包囲された時に姫様が大声出したそうで」

「……それは」

「なんて言ったんですか?」

「……夢の話です」

「夢?」

「はい、夢です!!」

 糸子が強調した。

 近藤が横でかすかに笑いを堪えていた。

「さて——俺はともかく」

 中浜が言った。

「姫様はまだ英語の勉強を続けておられるとのこと」

「はい。止まる理由はありませんので」

「感服致しております」

 中浜が本気の顔で言った。

「三年半、師として向き合って参りましたが——姫様ほど学びを止めない方は、見たことがありません。ハリス殿との交渉の件、私も全力で協力します。江戸にいる間は、遠慮なく使ってください」

「中浜殿……感謝の極みに存じます」

 糸子の声が、少し揺れた。

「ハリス殿という人物の癖、交渉の間合い——あなたは既に十分知っているはずです。しかし私はそれを横で見続けてきた。もし何か確認したいことがあれば、いつでも」

 糸子は御簾の向こうで、深く頭を下げた。


二 旭狼衛の評判

「ところで」

 勝が座り直して、近藤に向いた。

「今、江戸城内ではあんたら旭狼衛のことが話題だぜ」

 近藤が少し首を傾けた。

「そうで、ございますか」

「二十六人の刺客を十人そこいらで返り討ち。しかもほぼ無傷ときた——話題にならない方がおかしいぜ」

 勝がからりと言った。

「某は姫様を守護するのが務めですので、そのお役目を果たしただけにすぎません」

 近藤が静かに答えた。

「まじめだねー」

 勝が少し笑った。

「しかし姫様は良い家臣を持っているねー」

「近藤殿たちはわたくしの家臣ではありません」

 糸子が御簾の向こうから言った。

「絶対に守護してくれる、強い味方です」

「へー、いいねその関係は」

 勝が生暖かい目で見た。

「家臣より、味方か——確かに」

 中浜も少し笑った。その笑い方は、穏やかだった。命令で動く者と、信頼で動く者は、違う。この旭狼衛という集団と糸子の関係が、どういう種類のものかを、中浜はよく分かった気がした。


三 城内の噂

「そういえば——」

 中浜が思い出すように言った。

「今、城内ではもう一つ大きな話題があります」

「どのような話題ですか?」

 糸子が前に傾いた。

 中浜がゆっくりと話した。

「今回、近衛家の姫様を江戸に呼び寄せたのは堀田である——という流言が城内に広まっています」

「堀田殿が?」

「その堀田は、以前朝廷に出向いた際に近衛家と揉めており、強い恨みを抱いている——とのことで」

 中浜が続けた。

「そのため今回、その恨みを晴らすために姫様を殺そうと考え、自分が属する一橋派の水戸藩に協力を求めて襲わせた、というのです。さらに——江戸は京から遠く、朝廷がすぐに対応できないため、あえて江戸で実行したらしい——という話です」

 部屋が静かになった。

「姫様、これは事実なのですか?」

 勝が直接聞いた。

「事実無根です」

 糸子が即座に答えた。

「堀田殿がそのようなことをされるはずがございません。堀田殿はこの交渉の場に、わたくしを呼んでくださった方でございます。誰かがでたらめの流言を流しているのでございます」

「やっぱりそうか——」

 勝が腕を組んだ。

「実はな、この流言——気になることがあってよ」

「なんでしょう?」

「今から二年くらい前だったか?、井伊殿が大老になる少し前にも、同じような広がり方をした井伊殿の流言が江戸の街中で広がったことがあった。その流言が急速に広まって——一次々真実になっていった時には、かなり混乱があったんだぜ」

 勝が唸るように言った。

「今回の堀田殿の流言、その時の発生の仕方とそっくりなんだよな。今回は城内だけに広まり外には出ない。流言の規模だけは小さいんだが、同じ頃に複数の場所で話が出る——」

「どうなっていやがるんだ?」

 勝が腕を組んだまま、首を傾けた。

 真相は知らない。しかし、何かが動いていることは感じていた。その感覚を持てる人間が、勝海舟という男だった。

 糸子は御簾の向こうで、静かに考えていた。

 ——井伊のおっさんは、わたくしの情報の扱い方をあの悪評騒ぎで学んで、それを即実践したのか。

 感心した。本当に、感心した。

 あのおっさんは頭が切れる。学んで、すぐ使う。それができる者は、政治の世界では最も危険な種類の人物だ。史実では安政の大獄を起こすほどの強権を持ち、かつ謀略の嗅覚もある。

 しかし——。

 糸子の中で、何かが動いた。

 ——あのおっさんがわたくしの情報の扱い方を学んで使ったんなら、今度はわたくしが、あのおっさんの流した流言そのものを逆に使わせてもらいましょうか。

 黒い考えが、頭の中にするりと浮かんだ。

 消えなかった。

 むしろ、形をはっきりさせながら、そこにあった。

「とても良い情報を教えていただきました」

 糸子が穏やかに言った。

「良い情報?」

 勝が少し首を傾けた。

「はい。教えていただいたことに、衷心より、深謝申し上げます」

 その声は、穏やかだった。しかし——何かが違った。

 近藤は御簾の横でその声を聞いて、背筋に何かが走った。

 理由が分からなかった。しかし——糸子がこの声の出し方をする時は、何かを考えている時だということを、近藤は知っていた。経験則だった。

 勝がキョロキョロした。

「……なっ、なんだ? この感じ」

 中浜が同じようにあたりを見回した。

「……寒くはないのだが……なぜか、悪寒がする」

 二人が顔を見合わせた。

 御簾の向こうで、糸子は静かに笑っていた。

 腹黒い姫が顔を覗かせていた。


四 土方の出立

 話が一段落した後、糸子は近藤に声をかけた。

「近藤殿、土方殿を」

「はい、ただちに」

 近藤が中座して、しばらくして土方を連れて戻ってきた。

 三人が上段の間に揃った。勝と中浜は席を外した。

 糸子は御簾の向こうから言った。

「土方殿には一旦、わたくしの警護の任を離れていただきたいと思いまする」

「どういうことですか? 土方がなにか……」

 近藤が少し前に出た。

「勘違いしないでくださいまし」

 糸子が穏やかに言った。

「土方殿には今回の襲撃に関して、独自に調べてほしいのです。だから一旦、わたくしの警護の任から外れて貰うのでございます」

 土方が少し考えた。その考える間は、短かった。

「ちょうど自分も江戸に着いたら、調べる必要がある……と考えていました。望むところです」

「ただ、具体的に調べてほしいことが二点あります。それ以外は今のところ調べる必要はないと考えまする」

「ほう」

 土方の目が、わずかに動いた。

「まず一つ目——井伊の存在に危機感を持った武士、浪人が、水戸藩を中心に集まっていると考えます。その規模を調べてください」

「二つ目——その内に、彦根藩の動静を常に探っている者がいるはずです。彦根藩の動静をつぶさに見ていた者を見つけ出し、詳しい話を聞いてきてほしいのです」

「姫様は今回の襲撃者の黒幕が誰か、お分かりのようですが?」

 近藤が少し眉を上げた。

「こんなことをする人物は、今の江戸を見渡しても、わたくしには一人しか見当がつきませぬ」

「なるほど。いわば姫様は——黒幕が誰か?の確認作業を私にやらせたいのですね」

「そうでございます、土方殿」

 土方は立ち上がった。腰に刀を差した。その動きが、素早く静かだった。

「脱藩浪人を演じればいいんですね」

「京より来た、大老への怒りを抱えた男——それがあなたの役でございます」

「名前は?」

「田中弥次郎に致しましょう!」

 糸子が答えた。

 土方が少し頷いた。田中弥次郎——どこにでもいそうな名前だ。その平凡さが、逆に使いやすい。

「もし危険だと判断したら即時撤収してくださいまし。あなたの命の方が何よりも大事でございます」

「分かりました、姫様。それでは行って参ります」

 土方が一礼して、退室した。

 糸子は御簾の向こうで、その背中を見送った。

「あの男ならば大丈夫です。姫様」

 近藤が静かに言った。

「引き際はわきまえています」

「……はい」

 糸子が小さく答えた。

 足音が廊下を遠ざかって行った。


五 本所の裏長屋

 本所の裏長屋だった。

 大川沿いの道を少し入ると、細い路地が続いた。両側に古びた長屋が並んでいた。板が腐りかけた戸、煤けた格子、干しっぱなしの着物——生活の匂いが濃かった。冬の路地は日が当たらず、地面がまだ湿っていた。軒先に、つらら跡が残っていた。

 その裏長屋の一室に、土方歳三がいた。

 粗末な羽織に身を包んでいた。垢の落ち切らない着物だった。帯は結び直した跡がある。腰に差した刀は、鞘の塗りが剥げていた。見た目は、どこにでもいる疲れた浪人だった。

 名は、田中弥次郎——と名乗っていた。

 土方は部屋の隅に座っていた。豆腐屋の角豆腐が小皿に乗っていた。箸を持ったまま、外の音を聞いていた。

 路地の向こうで、誰かが話しているのが聞こえた。「昨日の集まり、また人が増えた」という声だった。

 土方は箸を置いた。

 糸子の言葉が頭の中にあった。——黒幕が誰かの確認作業を私にやらせたい。

 証拠を集める。それが、この潜入の目的だ。

 土方が用意した偽の信念は、極めて単純なものだった。

「井伊を生かせば、日本は異国に呑まれる」

 この言葉は、今の江戸の下町を歩けば、至る所で聞こえる共通言語だった。土方はそれを、信じているように見せる技術に長けていた。


六 末端との接触

 最初の数日、土方は酒場と剣術道場の外をうろついた。

 燻っている者たちがいた。どこかの藩を飛び出してきた者、主を失った者、怒りと行き場のなさを抱えた者——それらが江戸の下町の居酒屋に集まっていた。

 土方は、そこで聞き役に回った。

「京で何か動きがあるらしいな」

「水戸の連中が騒がしいと聞いた」

 噂を拾う男として振る舞った。自分から核心には触れない。ただ、話が来るのを待つ。話が来たら、少しだけ先を促す。

 その慎重さが、逆に信頼を生んだ。大口を叩く者は多い。しかし聞く者は少ない。静かに、正確に話を聞く者は、信頼される。

 三日目に、一人の男から「紹介がある」と言われた。


七 水戸浪士との接触

 紹介を受けたのは、本所のとある空き家だった。

 夜だった。道に灯りはなかった。足音だけが、凍りかけた地面に響いた。

 空き家の中に、男が数名いた。行灯が一つだけ灯っていた。その光が、男たちの顔を下から照らしていた。

 その中の一人が、土方を見た。

 関鉄之介だった。眼光が鋭かった。その目は、人を試す目だった。

「口で攘夷を語る者は多い。だが——血を見られるか?」

 関が言った。

 土方は即答しなかった。

 一拍、置いた。腹の底から言葉を持ってくる時間を取る。すぐに答える者は軽い。しかし一拍だけ——。

「見るだけでは足りぬ。流す覚悟で来た」

 土方が低く言った。

 部屋の空気が、わずかに変わった。

 関の目が、土方の顔から離れなかった。しばらく見ていた。それから——少し頷いた。

 その夜、土方は最初の任務を与えられた。連絡の伝達だった。土方はそれを確実にこなした。次に武器の運搬を頼まれた。これも確実にやった。見張りを一晩中続けたこともあった。

 土方は一切の失敗をしなかった。目立たず、確実に。ただそれだけだった。

 そして——次第に、核心へ近づいていった。


八 金子・高橋ライン

 数日後、土方は別の場所に通された。

 深川の料理屋の裏座敷だった。

 料理屋の表は静かだった。客がいるようには見えなかった。しかし裏の方に、人の気配があった。川沿いの冷たい風が、路地に吹き込んでいた。

 座敷に入ると、空気が変わった。

 末端の浪士たちの熱気ではなかった。計算と覚悟が混ざった静寂だった。

 二人の男が座っていた。

 金子孫二郎——この計画の総指揮であり、連絡役でもある男だ。五十がらみの、眼光の鋭い男だった。感情を表に出さない。

 高橋多一郎——実質的な指導者だ。言葉が多かった。その言葉の多さの中に、計算があった。

「お前は誰に命じられて動いている?」

 高橋が問いかけた。

 土方は少し考えた。名を出せばその名を調べられる。

「誰にも。だからこそ、裏切るものもない」

 土方が答えた。

 高橋が土方を見た。金子も同じ目で見ていた。

 この答えは危険だった。しかし——追跡される紐がない、という意味でもあった。組織にとって、追跡されにくい駒は、使い勝手がいい。

「使えるな」

 金子が短く言った。


九 計画の輪郭

 内側に入ると、計画の話を聞けるようになった。

 会合は、数日おきに場所を変えて行われた。本所、深川、神田——江戸のあちこちで、静かに集まっていた。

 ある夜の会合は、神田の裏手にある空家だった。冬の夜の空家は冷えていた。板張りの床に、藁が敷かれていた。行灯が二つ、部屋の隅に置かれていた。その光の中に、十数名が集まっていた。息が白かった。寒さの中で、人の体温だけが部屋を少し温めていた。

 その会合で語られた内容を、土方は頭に刻んだ。

 標的は彦根藩江戸藩邸。

 動員する人数は、百名以上。

 参加するのは、水戸藩浪士を中心に、各地の脱藩浪人。


 中核の構成員は、水戸藩出身者が十九名——

 関鉄之介

 岡部三十郎

 稲田重蔵

 松田三郎

 山口辰之介

 斎藤監物

 佐野惣三郎

 加田誠介

 海後嵯磯之介

 杉山弥一郎

 広岡子之次郎

 森山繁之介

 黒沢忠三郎

 佐藤鉄三郎

 中山誠一郎

 大関和七郎

 蓮田市五郎

 金子孫二郎

 高橋多一郎

 そして薩摩藩出身者が一名——

 有村次左衛門


 井伊直弼に天誅を加える——それが、この集団の目的だった。

 土方は黙ってその話を聞きながら、内心で冷静に記録していた。名前、人数、役割——頭の中に、正確に刻んだ。

 しかし土方は、その計画を聞きながら、別のことに気づいていた。

 この集団は、彦根藩の動きを妙に詳しく知っていた。

 彦根藩邸の警備の状況、長野義言の動き、直弼の外出の予定——それらが、会合の中で語られた。

 誰かが、ずっと彦根藩を見ていた。それも、かなり前から、入念に。

 ——これが、姫様の言っていた「二つ目」だ。

 土方は確信した。


十 第一報

 情報が形になったところで、土方は動いた。

 本所の裏長屋の一室で、行灯の光の下に座った。帳面を広げ、筆を持った。

 書いたのは、短い書状だった。

 ——中核構成員は水戸藩浪士十九名、薩摩藩士一名。彦根藩江戸藩邸への討ち入り計画あり。かなり前から入念に計画が練られている形跡あり。参加者は浪人・脱藩浪人を合わせて百名超えの見込み。詳細は引き続き調査中。

 墨が乾くのを待ってから、土方は書状を懐に入れた。

 翌朝、日本橋へ出た。

 日本橋の袂にある両替商の店は、外から見れば何の変哲もない店だった。暖簾をくぐると、番頭が顔を上げた。

「お越しをお待ちしておりました」

 番頭が低く言った。呉服屋松屋の傘下にある両替商だ。松屋との繋がりがある者が来れば、すぐに分かる。

「これを」

 土方が書状を差し出した。

「確かに」

 番頭が受け取った。

「必ず届けます」

 土方は店を出た。表の通りに出ると、日本橋の往来が広がっていた。荷車が通り、人が歩いていた。江戸の朝は活気があった。

 しかし土方は、その活気の中を、粗末な羽織のまま、田中弥次郎として歩いた。


十一 違和感のある男

 会合の中に、発言の少ない男がいた。

 他の者たちが感情的に語る中、この男だけが違った。補足する言葉が少なく、しかし正確だった。日付や人数を正確に覚えていた。彦根藩の動きを語る時、他の者より細部を知っていた。

 土方はその男を、何度か観察した。

 頭の中で「男乙」と呼んだ。

 ある夜、会合が終わった後、土方はその男の後を少し歩いた。

 深川の夜道だった。川沿いの道に、橋の下から冷たい風が来た。提灯の灯りが揺れた。男乙が歩いていた。

 角を曲がったところで、土方は声をかけた。

「少し、よろしいか」

 男乙が振り向いた。警戒した目だった。

「あの話——妙に詳しかったな」

 土方が言った。

 男乙が黙った。

「俺も見たことがある。裏で動く連中の"匂い"をな」

 断定しなかった。「知っている」とは言わなかった。ただ——「感じている」と伝えた。

 男乙の目の緊張が、わずかに緩んだ。


十二 証言

 二人で近くの居酒屋に入った。

 板張りの座敷に、他の客が数名いた。土方と男乙は端の席に座った。燗をした酒が来た。

 土方は急がなかった。まず酒を一杯、黙って飲んだ。それから、ゆっくり話を始めた。

「あの話——奇妙なところがいくつかあった」

 男乙が杯を持ったまま、聞いていた。

「二十六人で姫を襲う? しかも、ほとんど返り討ち……出来すぎていないか?

 男乙が沈黙した。

 その沈黙が、答えだった。土方は続けた。

「……見ていたのか」

 低い問いだった。

 男乙が杯を置いた。

「……見ていた」

 声が小さかった。しかし、はっきりしていた。

 土方は何も言わなかった。沈黙が、続きを引き出した。

「襲撃の前——彦根の者が頻繁に動いていた。品川の方向に人が動いていた。事前の動きを、俺はずっと見ていた」

「いつから見ていた?」

「夏の終わりから。彦根藩邸の出入りを追っていた。誰かが、何かを動かそうとしているのが分かったから」

「事後は?」

「……妙に静かだった。騒ぎが起きたのに、彦根の方からは何も出て来なかった」

 男乙が少し声を落とした。

「それだけじゃない——騒ぎの夜、ボロボロになった八名が彦根藩江戸藩邸に逃げ込んでいくのを、俺は見た」

 土方の目が、わずかに動いた。

「何時頃だった?」

「夜の五つを過ぎた辺りだ。品川の方角から来た。門が開いていた。待っていたように開いていた」

「人数は確かに八名か」

「間違いない」

 土方はその数字を、頭の中で確認した。

 品川から江戸に向かう途中の襲撃で、逃げた者が八名だったという報告があった。その八名が、その夜、彦根藩邸に入った——数が一致した。

 それは——偶然ではない。

「生き残った者の扱いも、不自然だった」

 男乙が続けた。

「本来、幕府の番屋に届け出があれば、逃げた者の行方を調べるはずだ。しかしそれが、どこかで止まった。誰かが手を回した」

「……そうか」

 土方はそれ以上、聞かなかった。なぜなら——知りすぎた者は消される、と分かっていたからだ。必要な情報は手に入った。


十三 内部への定着

 土方は、それ以上、男乙に深追いしなかった。

 なぜなら——知りすぎた者は消される、と分かっていたからだ。必要な情報は手に入った。これ以上は危険だ。

 翌日の会合で、土方はあえて強硬な姿勢を見せた。

 議論が「まだ準備が必要だ」という慎重論に傾きかけた時、土方が口を開いた。

「もはや猶予はない。討ち入りで決めるべきだ」

 室内が静まった。

 関が土方を見た。

「その通りだ」

 関が同意した。

 この一言で、土方の立場が変わった。疑念を持たれていた部外者から——実行派として信頼を得る者へ。

 結果、土方は計画の中により深く溶け込んだ。

 全体像、中枢人物、裏で動く観察者の証言——すべてを手に入れた。

 しかし同時に、土方自身もまた「命を預ける側」へと踏み込んでいた。

 それを分かった上で、土方は動いていた。


十五 第二報

 翌朝、土方は再び日本橋の両替商に向かった。

 朝の寒さは厳しかった。橋の上を吹く風が、顔を刺した。川の水は鉛色に光っていた。水鳥が一羽、川面を低く飛んでいた。

 店に入った。番頭が、今日も静かに待っていた。

「またお越しを」

「ああ」

 土方が書状を出した。

 今回の書状には、詳細を書いた。男乙という観察者の存在。潜伏先の情報。連絡に使われている経路。

 そして——騒ぎの夜に八名が彦根藩邸に逃げ込んだという目撃証言。彦根藩が事前に状況を把握しており、事後の処理にも関与した可能性。さらに——計画の中枢人物の名前も記した。金子孫二郎。高橋多一郎。関鉄之介——。

「確かに」

 番頭が受け取った。

 土方は店を出た。


十六 書状を読む糸子

 一橋藩上屋敷の奥御殿

 昼過ぎ、糸子のもとに書状が届いた。

 葵が持ってきた。松屋よりの荷物の中に混じっていた形だった。

 糸子は御簾の内側で書状を開いた。

 読み始めた。

 最初の行を読んだところで、目が止まった。計画の規模——百名超え。中核構成員の詳細——水戸十九名、薩摩一名。彦根藩邸への討ち入り計画。

 第一報だった。

 次の書状も来ていた。開いた。男乙の証言——彦根藩が事前に動きを把握していた。騒ぎの夜に八名が彦根藩邸に逃げ込んだ目撃証言。

 第二報だった。

 糸子は、両方を読み終えた後、しばらく動かなかった。

 頭の中で、情報が組み合わさっていた。

 勝から聞いた流言——堀田が犯人だという話——は、直弼が流したものだ。直弼が、自分の攻撃を隠すために、別の者に責任をなすりつけた。

 そして今、土方の報告が来た。彦根藩が、品川の刺客を事前に動かしていた。逃げた八名が彦根藩邸に逃げ込んだ。計画の全体が、彦根藩の関与を示している。

 証拠が、揃い始めていた。


「なるほど、これで確証は得られましたね。わたくしたちが襲撃された真の黒幕は彦根藩、そしてその彦根藩は井伊の指示、もしくは意向なしにはこんな襲撃計画は実行しえない…」

 土方殿が襲撃後の報告で言っていた、この襲撃者は『かなりの組織力がある者』、我々の動向を正確に把握されていたのは『幕府の内部にいる人物の可能性』………

「…わたくしの想像通りでございましたわね」

 少し安堵する糸子。


 史実では…安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城の桜田門外で水戸藩・薩摩藩の脱藩浪士ら計18名が幕府の大老・井伊直弼を暗殺した事件『桜田門外の変』


 そして土方は寄こした第一報の書状…計画の規模——百名超え。中核構成員の詳細——水戸十九名、薩摩一名。彦根藩邸への討ち入り計画——————

「史実と違うのは、私が井伊が大老になる前に流した悪評のせいでしょうね。桜田門外の急襲が、今や藩邸への討ち入りにまで膨れ上がり、18人だった襲撃者も100人を超えている。私の想像以上に、事件の規模が大きくなってしまいました……」

 史実と同じなのはこの計画の中核構成員が、桜田門外の変を起こした襲撃者と同じ人物たち…ということだけだろう。


 しかし——糸子の考えていることは、その先にあった。

 百名超えの討ち入り計画がある。井伊直弼を標的にした計画が、すでに動いている。

 それを——どう使うか——————

「近藤殿、沖田殿を呼んできてくださいまし」

 糸子が言った。


十七 沖田総司を呼ぶ

「分かりました」

 近藤が中座した。しばらくして、二人が戻ってきた。

「姫様、なんですかー?」

 沖田総司が、明るい声で入ってきた。

 上段の間に入ってきた沖田は、今日も屈託がなかった。旭狼衛の中で最も剣が鋭い男が、最も屈託のない顔をして立っている——この不思議を、糸子はいつも面白いと思っていた。

「沖田殿に、ちょうど頼みたいことがございます」

「楽しいことなら大歓迎ですよ!」

 沖田がにこにこした。

「多分……沖田殿ならば喜ぶのではないかしら?」

 糸子が静かに笑った。

 近藤が少し緊張した。姫様が「多分喜ぶ」と言う時は、それなりのことを頼む時だ、という経験則が、近藤の中にあった。

「なんですか、なんですか?」

 沖田が前のめりになった。

 糸子と沖田の間で、小声のやり取りが始まった。

 近藤には聞こえなかった。しかし——二人の声の調子から、何かが動いていることだけは分かった。近藤は聞こうとして、やめた。

「へーそれは面白そうだ!!」

 沖田が顔を輝かせた。

「それで、あなたに是非、用意してもらいたいものがございます」

 糸子が胸元から書状を取り出した。

「この書状を呉服屋松屋に持っていって、集めるのを協力してもらってくださいな」

「この書状を持っていけばいいんですね!」

 沖田が受け取った。

「なので、沖田殿も当分、わたくしの警護から外れてもらいますが……問題ないですか、近藤殿」

「姫様は当分お出かけになる予定はございませんので、特に問題はないかと」

「よかったー。ダメだって言われたら近藤さんのこと斬ってましたよ」

 沖田が笑顔のまま言った。

 近藤が少し顔を引きつらせた。

「それにしても楽しみだなー。土方さんの驚く顔が楽しみだ」

 沖田がにこやかに言った。

「集めたら、一度確認のためにわたくしにも見せてくださいませ」

「わかりました、姫様」

「もしこのお役目が危険だと判断したら、即時撤収してくださいまし。沖田殿の命の方が何よりも大事でございます」

「姫様はお優しいなぁ。わかりました、肝に銘じます。それでは自分はこれで失礼しますね」

 沖田が礼をして、退室した。

 その足音が廊下に消えた。

 糸子は一人、上段の間に座っていた。

 縁側の外の小庭に、冬の午後の光が差していた。松の葉が、かすかな風に揺れた。石灯籠の影が、地面に細く落ちていた。

 近藤がまだ残っていた。

「姫様、何かお考えで?」

「はい」

「……どのようなことを?」

 糸子がゆっくりと振り向いた。

 穏やかな笑みだった。しかし——その笑みの奥に、腹黒い公家のような姫っぽい人が、静かに目を光らせていた。


「あなたはもう、おしまいです」

 糸子が静かに言った。

「お・し・ま・い・DEATH!」


 近藤は黙って、なるべく反応しないと心に決めて…無表情を貫いていた。


十八 第三報

 数日後の夜、土方は再び動いた。

 会合の中で、計画の最終段階が語られた。討ち入りの日時——冬の終わり。参加者合計百二十七名。金子孫二郎が全体を指揮し、関鉄之介が現場を動かす。高橋多一郎は後方から支援する。

 日程が、絞り込まれていた。

 土方は会合の帰り道、立ち止まって空を見た。

 江戸の夜空に、星が出ていた。冬の星は鋭かった。

 頭の中を整理した。

 自分は今、百二十七名の討ち入り計画の中に溶け込んでいる。黒幕の確認は取れた。彦根藩が品川の刺客を事前に動かし、逃げた者を受け入れた証拠も取れた。計画の中心人物も把握した。

 これが最後に送るべき情報だと、土方は判断した。

 これ以上深追いすれば、消される。引き際だ。

 翌朝、日本橋の両替商に向かった。

 朝の寒さは厳しかった。橋の上を吹く風が、顔を刺した。川の水は鉛色に光っていた。水鳥が一羽、川面を低く飛んでいた。

 橋の上を行き来する人たちは、寒さで顔を縮めながら歩いていた。荷を担いだ者、急ぎ足の職人、笠をかぶった武士——それぞれが自分の道を歩いていた。

 土方はその中を、粗末な羽織のまま歩いた。

 店に入った。

「三度目でございます」

「ああ」

 土方が書状を差し出した。

「——この集団が彦根藩邸に討ち入る夜の目処が立ちました。参加者の総数は百二十七名。以下に詳細を記します——」

 番頭が受け取った。

「確かに」

「これで——終わりだ」

 土方が静かに言った。

「はい。お疲れ様でございました」

 番頭が深く頭を下げた。

 土方は店を出た。

 日本橋の朝の往来の中に、田中弥次郎が消えていった。

 一橋藩上屋敷では、糸子が帳面に何かを書き続けていた。

 冬の江戸の朝は、静かだった。

 しかしその静けさの中で、いくつもの計画が、同時に、静かに動き続けていた。


 第四十七話 了

※一部内容を加筆修正致しましたm(_ _)m



沖田総司が物騒極まりない。糸子がだんだんその正体を隠さなくなってきた。近藤さんはいろいろ気苦労が堪えなさそうだ…(  ̄д ̄)がっでぇ~む

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― 新着の感想 ―
第四十五話では活動資金をもらって出立してるのに対して、第四十七話では偽名をつけてもらって出立しています。同じシーンで違うやりとりをしていることに対して違和感があるのですが正しく伝わらなかったでしょうか…
第四十五話「黒い大老VS腹黒姫」の七 糸子の策 で土方さんと似たようなやり取りしてるけど、 第四十七話「潜入」四 土方の出立 のやりとりはおかしくないですか
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