第四十四話「江戸へ——言葉と刃の道中」
一 彦根藩江戸藩邸
秋の終わりの江戸は、どこか張り詰めた空気を持つ。
空は高く澄んでいたが、その澄み方が夏とは違う。夏の空は遠い。
しかし秋の終わりの空は、透明なくせに近い。手を伸ばせば届きそうな、そういう近さで、冷たい青が広がっていた。
彦根藩江戸藩邸の一室は、その空の色とは対照的に、薄暗かった。
障子を開けても、庭の光が部屋の奥まで届かない。
秋が深まるにつれて、日の入り方が浅くなった。朝の光は鋭く、しかし短い。部屋の隅は常に影になっていた。
井伊直弼は、その薄暗い部屋の中に座っていた。
膝の上に何も置いていない。書類も、茶も、何もない。ただ座っていた。
そこへ長野義言が来た。
「井伊様、少々よろしいでしょうか」
「何だ」
「先ほど書状が届きました。幕府の事務方より、堀田様のご推挙に関するものでございます」
長野が書状を差し出した。
直弼は受け取った。広げた。
読み始めた。
最初の数行を読んだところで、直弼の指が止まった。
「……なに? メリケンとの調印後の交渉会談に、朝廷の使者が同席するだと?」
「はい、その様に書いてございます」
「その話はいつ決まったものだ?」
「どうやら安政六年の春、堀田様が老中合議の場で提案し、条件付きで許可したとか……」
長野が少し言いよどんだ後、続けた。
「私もつい先ほど、堀田様の使いの方からその様な話しを聞いたばかりで……」
「わたしには何の報告もなかったぞ」
直弼の声は静かだった。静かだからこそ、その中に含まれているものが際立った。
「私もつい先ほど知ったばかりでして……。堀田様の使いの方が申すには、井伊様は何かとお忙しいお方、お手を煩わせるわけにはいかなかったと……」
長野が言葉を継ぎながら、わずかに身をすくめた。
直弼が立ち上がった。
「大老とは、本来軽んじられるものではないのだ!」
声が上がった。
しかし叫んだわけではない。低く、しかし強い声だった。長野はその声の質が、怒鳴られるよりもずっと怖い、と知っていた。
「おっしゃる通りです」
「……よほど堀田はその朝廷の使者を交渉会談に参加させたいらしい。だからわざとわたしに報告するのを遅らせたな」
直弼が書状を見た。
「それで——その書状には使者は誰だと書いてあった」
「そ、それが——近衛家の姫君とのことで……」
「また近衛か!」
その言葉には、憎しみが混じっていた。隠していない憎しみだった。
「全くでございます」
頭を下げる長野。
直弼は受け取った書状に目やり、さらに読み進めた。
今度はゆっくりと、一行一行を確かめるように。
「御門様から正式に任じられた役職。天朝外語御用掛?。御門様の意向を英語で確認できる専門家……」
声に出して読んだ後、直弼は止まった。
「……近衛の姫はメリケン語が話せるのか?」
「……どうやらその様です」
直弼がしばらく黙った。
部屋の隅の影が、その沈黙の間に少し濃くなったような気がした。
庭から鳥の声がした。秋の終わりの鳥は、声が少ない。それでも一声、鳴いた。
そして直弼が、ゆっくりと口を開いた。
「長野」
「はい…」
「今からわたしは独り言を言う。その意を勝手に汲み取れ」
直弼の口元に、笑いが浮かんだ。
笑いとは呼べない何かだった。笑いの形をした、黒いものだ。
「御意」
長野が頭を下げた。
「……近衛の姫君は京の地よりわざわざこの江戸まで脚を運ばれる…」
直弼が続けた。
「…この彦根藩邸周辺では、不審な者を多く見かけるようになった。最近の江戸はなにかと物騒で仕方がない。その姫君が何事もなく無事に……江戸にお着きになられるとよいなぁ。いや誠に心配である」
「全くもって、その通りでございます」
長野が顔を上げた。その顔にも、直弼と同じ笑いが浮かんでいた。
二人の間に、しばらく沈黙があった。
庭の光が少し動いた。雲が流れたのだろう、影が揺れた。
そして——彦根藩邸の一部に、不穏な動きが始まるのであった。
二 近衛家の別れ
安政六年、冬が近づく秋の終わりの京は、冷たかった。
朝の空気が研ぎ澄まされていた。霜がまだ降りるほどではないが、息を吐けば白くなる。庭の楓はすでにほとんどの葉を落として、枝が空に向かって細く伸びていた。その枝の先に、冬の青空があった。
近衛家の正面。
出発の朝だった。
駕籠が一挺、庭に置かれていた。糸子が乗る上駕籠は、偽装したものだ。
近衛家の姫君が移動していると思われないための処置だった。
駕籠舁の中村庄吉、吉岡清蔵、佐吉弥助が、それぞれの持ち場に控えていた。
旭狼衛の面々が庭に整列していた。
先発組の榊原直正、三浦清次郎、早川新之助の三名はすでに江戸に向かっていた。
小者変装組の長谷川辰吉と木村伊助も、別経路で先行していた。
今日出発するのは、旭狼衛の主力組十名だ。
近衛勇
土方歳三
沖田総司
斉藤一
永倉新八
原田左之助
伊東甲子太郎
井上源三郎
藤堂平助
秋山恒一
庭に立つ彼らの姿は、静かだった。
騒がしくない。しかし緊張が漲っていた。
糸子は縁側に立って、その庭を見た。
今日が来た。
そこへ、お梅が来た。
「姫様」
「はい」
お梅は糸子の前に立った。
この乳母が糸子の前に立つ時、その目は常に静かだ。感情を抑えているのではなく、感情がそのまま静けさになっている、そういう目だ。
「生まれた時から今日までずっと見て参りました」
「はい」
「屋根を直すことから始まって——今日まで」
お梅が少し間を置いた。
「お梅が見た中で、姫様の一番大きな旅になりますね」
「大げさですよ、お梅」
「大げさではございません」
お梅の声は穏やかだった。しかし揺るがなかった。
「大げさではございません、姫様。この旅は——これまでのどの旅とも違います。京を出るのです。幕府のある江戸に参るのです」
「……帰ってきます。必ず」
「はい。信じてお待ちしております」
お梅がにこりとした。
「近衛家のことはどうぞご安心ください。お梅がおります」
その言葉の重さを、糸子は知っていた。
お梅がいる、という言葉は、何があっても近衛家は動じない、という意味だ。
「葵、小夜」
お梅が二人の侍女に向いた。
「江戸へ行っても姫様をしっかりお世話をするのですよ」
「はい、心得ております」
葵と小夜が揃って深くお辞儀をした。葵の顔は引き締まっていた。小夜の顔は少し緊張で強張っていた。しかし二人とも、しっかりとした目をしていた。
お梅が近藤に向いた。
お梅は武家の者ではない。しかしその礼は、武家の礼と変わらない深さで、近藤に向けられた。
「近藤殿、姫様を何卒よろしくお頼み申し上げます」
「お梅殿」
近藤が答えた。
「姫様のことは我ら旭狼衛一同が全力を持ってお守り致しますゆえ、安心なされよ」
その言葉は短かった。しかし重かった。
「山南、近衛家の守護を任せたぞ!」
大声で激励する近藤。
「私含めた五人でしっかり近衛様をお守り致す。近藤さんは安心して江戸に行って下さい」
山南含めた五人全員が近藤に会釈する。
糸子は近藤の顔を見た。昨夜の対話が、また頭の中によみがえった。
怖いことを怖いと言える方が、信頼できる。
互いに守り合っている。
「それでは——江戸へ行きましょう、いってきます!」
糸子は明るく言った。
上駕籠に乗った。
駕籠が上がった。
糸子は駕籠の隙間から、後ろを見た。
皆が笑顔で手を振っていた。
お梅が深くお辞儀をしていた。
その頭が下がったまま、少し動かなかった。
糸子には聞こえなかったが、お梅の唇が動いていた。
「姫様どうかご無事で……」
近衛家の門が遠ざかっていった。
三 伏見港から大坂へ
一行は京都の伏見港に向かった。
秋の終わりの淀川は、水かさが少なかった。川面が低く、川原の石が露出していた。その石の上に、枯れた草が横たわっていた。風が吹くたびに、その草が揺れた。
三十石船が港に係留されていた。
糸子は初めて三十石船を見た。
長い船体だった。屋根に葦簀が張られていた。船頭が数名、準備をしていた。荷物を積んでいた。乗客が何人か既に乗り込んでいた。商人風の男、旅装束の者、子連れの女。それぞれが思い思いの場所に落ち着いていた。
近藤が糸子の駕籠に近づいた。
「姫様、船の準備が整いました。出発できます」
「分かりました」
糸子は駕籠から降りた。
川の匂いがした。水と泥が混じった、淀川独特の匂いだ。冷たい風がその匂いを運んできた。
船に乗り込んだ。
船が動き始めた。
竿で押し出されて、三十石船がゆっくりと流れに乗った。
糸子は船の縁に座って、川岸を見ていた。
伏見の町が後ろに遠ざかっていった。川沿いの家々、倉、柳の木——それらが少しずつ小さくなっていった。
川は南へ向かっている。大坂へ向かっている。
水面に秋の空が映っていた。雲が流れていた。その雲が水の中でも流れていた。
大坂についたのは夕暮れ時だった。
天満の船着き場に着くと、船頭が声を上げた。荷物が降ろされた。乗客が降りた。糸子も降りた。
大坂の空気は京都と違った。商いの匂いがした。川と海が混じった、生臭さと塩っ気が混じった匂いだ。人の声が多かった。荷物を運ぶ者、荷受けをする者、それを見ている者。夕暮れの中に、大坂の活気があった。
その夜は大坂の鴻池家に一泊した。
四 大坂から江戸へ——南海路
翌朝、廻船に乗り換えた。
大型の廻船だった。
糸子は船の大きさに少し驚いた。三十石船とは比べものにならない。帆柱が何本も立っていた。荷物が積み込まれていた。米俵、酒樽、反物の包み——大坂から江戸へ運ばれる荷物が、山のように積まれていた。
近藤が説明した。
「姫様、これより南海路で江戸の品川沖まで参ります」
「どのくらいかかりましょうや?」
「秋の終わりは海が荒れやすく、風向きも安定しません。順調であれば十五日から二十日ほど。しかし状況によっては一月近くかかることも覚悟が必要でございます」
「そうでございますか」
糸子は空を見た。
今日の空は青かった。風もそれほど強くない。出発には悪くない日だ。
「近藤殿、外海とはどのような海でございますか」
「大きい海にございます。陸地は見えませぬ」
「ほんとね、見えない……」
その言葉を、糸子は心の中で繰り返した。
二十一世紀の記憶の中に、飛行機から見た太平洋がある。しかしそれは上から見た青い広さだった。今から糸子が向き合うのは、船から見る、波の中の海だ。まったく違う海だ。
船が動き始めた。
大坂の海岸が遠ざかっていった。
海の旅は、思ったよりも穏やかだった。
最初の数日は風が安定していた。帆が張って、船は南へ、そして東へ向かった。
糸子は甲板に出て、海を見た。
陸が見えなくなった。
四方が水だった。空と海だけがあった。その境目が、どこなのかよく分からなかった。空が海に溶けていた。海が空に続いていた。
糸子は帳面を開いた。
「道中でも勉強するのですか?」
近藤の声がした。
「はい、止まる理由はありませぬ」
糸子は答えた。
近藤が少し笑った。その笑い方は、困っているような、しかし嬉しいような、そういう笑いだった。
中程で海が荒れた日があった。
波が高くなり、船が大きく揺れた。糸子は艫矢倉の中でじっとしていた。葵と小夜が青ざめていた。小夜は船酔いで横になっていた。葵は意地で起きていたが、顔色が良くなかった。
「姫様は大丈夫なのですか?」と葵が言った。
「案外、平気ですよ」と糸子は和かに答えた。
転生前の記憶の中に、クルーズ船の揺れがある。あの時も揺れた。
慣れてしまったのか、それとも体質なのか——糸子は波に乗りながら、帳面を読んでいた。
荒れた海が続いた後、また穏やかな日が来た。
富士山が見えた日のことは、後の話になる。
五 品川沖、そして蒸気軍艦
品川沖に近づいたのは、出発から十八日後だった。
朝の光が海を照らしていた。
西の方角から陸が見えてきた。最初は細い線だった。それが少しずつ、形になっていった。家々の輪郭が現れた。緑の丘が見えた。そして——煙が上がっているのが見えた。
糸子は艫矢倉の窓から見ていた。
冷たい風が顔を叩いた。海の塩の匂いが濃かった。
そして——品川沖が見えてきた。
その光景に、糸子は声を上げた。
港だった。船が何隻も停泊していた。廻船が並んで、小舟が行き来していた。
——圧巻だった。
その向こうに、江戸の街があった。まだ小さく見えたが、確かに江戸だった。
しかし糸子の目が止まったのは、そこではなかった。
品川の軍艦係留所に、それは停まっていた。
黒い船体だった。
帆もあったが、それだけではなかった。煙突が立っていた。
そこから黒い煙が少し上がっていた。
「……あれは……!」
糸子が思わず声に出した。
「近藤殿! 近藤殿、あれは!?」
近藤が糸子の横に来た。
「はい、蒸気軍艦ですね。姫様」
「あれは観光丸? それとも咸臨丸? どっちだろう…」
糸子は目を凝らした。
船の形を記憶の中と照らし合わせた。転生前に読んだ本に載っていた、二隻の蒸気軍艦の記述が頭の中に浮かんだ。
近藤が少し驚いた顔をした。
「姫様はよくご存知ですなぁ」
「書、書物で見たことがあったの!」
糸子が少し慌てた。
転生者として、知りすぎてしまっていることを糸子は常に気をつけなければならない。しかし観光丸と咸臨丸の名前が口から出てしまった。
「書物で……」
近藤が生暖かい目をした。
その目の意味を、糸子は知っていた。「また書物で」という、あの目だ。
「……品川で一度降りることはできましょうか」
「と、おっしゃいますと?」
「あの蒸気軍艦を近くで見たいのでございます。船に乗りながら見るだけでも——できましょうや?」
近藤が少し考えた。
「通り道でございますので、少し近づくことはできます」
「是非、お願いしまする!」
糸子の顔が輝いた。
近藤が指示を出した。
船が少し針路を変えた。
蒸気軍艦に近づいた。
近くで見ると、その大きさが分かった。帆船に煙突が加わり、鉄の補強が施された黒い船体が、静かに水に浮かんでいた。
煙突から出る煙は細く、今は停止しているのだろう。
しかし——その存在感は圧倒的だった。
「……すごい!」
糸子が小さく言った。
二十一世紀の記憶の中には、巨大なタンカーも知っている。自衛隊の艦船も見たことがあった。
しかしこの時代に、この海に、この船がある。
この黒い煙突の船が、日本の歴史を変えていく。
「……姫様、楽しそうですね」
近藤が少し微笑んだ。
糸子は気づいていなかったが、旭狼衛の面々が糸子を見て、それぞれに柔らかい表情をしていた。
品川沖に着いた。
小舟に乗り換えて、品川湊に着いた。
糸子は品川宿で一泊することにした。江戸までの最後の一行程だ。
六 品川宿の光景
品川宿は、生きていた。
糸子は駕籠から降りて、目を見開いた。
東海道の入り口にある宿場町だ。それは知っていた。しかし実際に見るのは、初めてだった。
道が広かった。いや、広いとは言えない。二十一世紀の道路と比べれば、狭い。舗装もされていない。
土の道に、石が混じっている。雨が降れば泥になるのだろう、その土は黒く固まっていた。
水たまりの跡が何箇所かあった。荷車が通った轍の跡が、道に刻まれていた。
しかしその道に、人が溢れていた。
担ぎ屋が歩いていた。天秤棒を担いで、両端に荷物をぶら下げていた。
魚の入った桶か、野菜の籠か——それぞれが独自の声で叫んでいた。
「いわし! いわし! 朝とれの新鮮いわし!」
「大根! 大根! やーやー大根!」
旅の者が歩いていた。笠をかぶって、荷物を背負って、黙々と歩いていた。
武士もいれば、商人もいた。百姓風の者もいた。みなが同じ道を、それぞれの速さで歩いていた。
宿の前では、客引きが声を張り上げていた。
「旅のお方、うちに泊まっていきなさいな! 飯がうまいですよ!」
「お客さん、一晩いかがですか! 江戸まであと少し、ゆっくり休んでいきなさい!」
子供たちが走っていた。
五、六人の子供が、道の真ん中で何かを追いかけていた。
猫だろうか、小石だろうか——何かを追いかけながら、声を上げて笑っていた。その笑い声は、通りの喧騒の中で一際明るかった。
糸子はその子供たちを見た。
二十一世紀の公園で遊ぶ子供とは、服が違う。裸足の子もいた。顔が赤く、手が荒れていた。
しかし——笑い方は同じだった。子供が笑う時の顔は、時代が変わっても変わらない。
糸子は思わず笑った。
近藤が後ろにいた。
「どうなさいましたか」
「子供たちが、楽しそうで…」
「はい、元気のいい子たちでございますな」
道の端で、女が何かを炒っていた。煙が上がっていた。香ばしい匂いがした。
「あれは何でございますか?」
「煎り豆を売っているのでしょう」
糸子は少し足を止めた。
「買えますか?」
「……はい。侍女に買わせましょう」
葵が小走りに行った。少しして戻ってきた。小さな紙の包みを持っていた。
「どうぞ、姫様」
糸子は包みを受け取って開けた。
煎った豆が入っていた。
一粒口に入れた。
香ばしかった。塩が利いていた。
「……おいしい」
近藤が少し困った顔をした。
「姫様、道中で物を召し上がるのは……」
「分かっています。しかし——せっかくですから」
糸子はもう一粒食べた。
糸子たち一向が辿り着いたのは、北品川宿にある本陣・市郎右衛門家。
表向きは「京の豪商の娘」という触れ込みだが、宿の主人はすべてを察したように深く額を畳に擦りつけ、一行を奥へ、さらなる奥へと導いていく。
「ささ、こちらが奥座敷でございます」
通されたのは、本陣の最奥に鎮座する「上段の間」。
そこは、外界の喧騒が嘘のように静まり返った別世界だった。
床は一段高く設えられ、その上には青畳が隙なく敷き詰められている。
壁には狩野派の流れを汲む豪壮な松の絵が描かれた障子があり、その奥には付書院が海からの微かな光を拾っていた。
糸子が畳に腰を下ろすと、衣の擦れる音だけが静かに響く。
部屋を囲む入側の先には、手入れの行き届いた小庭が広がり、そのさらに向こうには夜の品川の海が、黒々と、しかし穏やかに横たわっていた。
「ここなら、誰にも邪魔されずにお休みいただけます」
近藤たち旭狼衛の隊員たちは、隣の「次の間」に控え、抜き身の刀を傍らに置いて、一睡もせぬ構えで廊下を睨んでいる。
かつて旅路の船から眺めた、遠く霞む紀伊や駿河の陸地。
今はその陸地の上、江戸の入り口であるこの本陣の、薄暗い行灯の光の中に身を置いている。
糸子は、ようやく手に入れた畳の温もりを感じながら、小さく息をついた。
部屋から庭が見えた。
その庭の向こうに、海が見えた。品川の海だ。夕暮れ時、その海が橙色に染まっていた。
夕飯が運ばれてきた。
献立は、冬を目前にした名残と走りが交差する、品川本陣の矜持が詰まった一汁三菜である。
まず、冷えた指先を温めたのは、粕汁の椀だ。
灘の酒粕を贅沢に使い、品川の浜で揚がったばかりの鮭の切り身と、霜降りの大根がたっぷり入っている。
湯気とともに立ち上る酒粕の芳醇な香りが、姫の強張った心をゆっくりと解きほぐしていく。
「……温かいこと。京の冬を思い出しまする」
糸子は小さく呟き、箸を運ぶ。
主菜は、この季節、脂がもっとも乗った戻り鰹の刺身。江戸っ子が競って求める初鰹とは違い、ねっとりと舌に絡みつくような濃厚な旨味がある。それを、京から持参した繊細な煎り酒でいただくのが、公家流の嗜みだ。
さらに、目を引くのは揚げ出し豆腐の葛餡かけ。
からりと揚げた豆腐に、冬の訪れを告げる聖護院蕪のすり流しを加え、吉野葛でとろみをつけた。
琥珀色の餡には、名残の柚子の皮がひとひら浮いており、爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。
そして、飯はむかご飯。
土の香りがするむかごの塩気が、ふっくらと炊き上がった米の甘みを引き立てる。
「品川の海は、京の川とはまた違う、力強い冬を連れてくるのでございますね」
食べながら、糸子は窓の外を見ていた。
海が暗くなっていった。
夕暮れの橙が消えて、紺色が来た。その紺の中に、船の灯りが点々と浮かんでいた。品川沖に停泊している船たちの灯りだ。
そして——その灯りの中に、一つだけ大きな灯りがあった。
蒸気軍艦の灯りだ。
糸子はその灯りを見ながら、明日のことを考えた。
明日、江戸に入る。
一橋藩上屋敷に向かう。
そこからが、本当の始まりだ。
七 江戸へ——東海道の光景と富士山
翌朝、早く起きた。
空がまだ暗かった。
部屋から外を見ると、海が灰色に光っていた。夜明け前の海だ。波の音がかすかに聞こえた。
支度を整えた。
葵と小夜が身なりを整えてくれた。
近藤が来た。
「姫様、出発の準備が整いました。本日は品川宿から一橋藩上屋敷まで、上駕籠での移動になります」
「道のりを教えてくださいませ」
「はい。品川宿を出て、高輪の海岸線を北上します。大木戸を抜けて、増上寺の前を通り、芝から日比谷へ。桜田門の方角を経て、城の北側を抜けて神田へ。そこから一橋の藩邸まで、概ね午後には着けます」
「距離はどのくらいになりましょうや?」
「七、八里ほどでしょうか」
三十キロほどか…と糸子は計算した。
「分かりました」
上駕籠が上がった。
品川宿を出た。
高輪の海岸線は、美しかった。
右手に海がずっと続いていた。秋の朝の海は、灰色から少しずつ青に変わっていった。波が砂浜に打ち寄せていた。砂浜には、貝殻が散らばっていた。
左手には丘があった。寺社の屋根が見えた。松の木が続いていた。
道を人が歩いていた。
荷を担いだ者、牛を引いた者、走っている者。江戸へ向かう人々と、江戸から出てくる人々がすれ違っていた。
そして——その道の向こうに、突然それが現れた。
「……!」
糸子は声を上げなかった。
しかし上駕籠の中で、体が固まった。
富士山だった。
右手の海の向こう、空の中に、白い頂きが浮かんでいた。
大きかった。
ただ大きい、という言葉では足りなかった。
空を占領していた。
秋の終わりの澄んだ空気の中、富士の頂きだけに雪が積もって、その白が青空の中に静かに立っていた。
裾野は霞の中に消えていたが、山頂だけが鮮明に見えた。
二十一世紀の記憶の中にも、富士山はあった。東名高速から見た富士。飛行機から見た富士。テレビで見た富士。
しかしこれは——そのどれとも違った。
空気の中に邪魔なものが何もなかった。電線も、ビルも、標識も、何もなかった。ただ海と松と道があって、その向こうに富士があった。
この景色を、この時代の人は毎日見ていたのか…
糸子の目に、水が滲んだ。
なぜ泣きたいのかは、分からなかった。美しいからか、それとも——自分がこの時代に、この場所に確かにいることを、初めて全身で感じたからか。
「……姫様、どうなさいました」
上駕籠の外から、近藤の声がした。
「何でも……ありませぬ。富士山が見えたので」
「左様ですか。この辺りから見る富士は、格別でございますからね」
「……はい」
糸子は富士から目を離せなかった。
しばらく、ただ見ていた。
これが——この時代のものだ。
自分が転生して来た先の、本物の幕末がここにある。
増上寺の前を通った。
境内から鐘の音がした。
大きな山門が見えた。参拝の人々が行き来していた。
日比谷の広小路に出ると、人が更に増えた。商店が並んでいた。食べ物を売る店、反物を売る店、道具を売る店。どれも活気があった。声が多かった。
桜田門の方角を見た。
あの門の向こうに、将来何が起きるかを糸子は知っている。
しかし今は——それを思う場面ではなかった。
上駕籠は神田へ向かっていた。
八 札の辻——旭狼衛対二十六名
芝から高輪を抜けて、一行は北上していた。
昼前の時刻だった。
芝の海岸沿いの道を離れて、少し内陸に入った辺りで——沖田が気づいた。
「土方さん……」
「分かってる」
土方が低く答えた。
周囲の気配が変わっていた。
道の両側の町家に、人が多すぎた。茶屋の中に、客にしては多い人数がいた。辻の角を曲がった先で、何人かが止まっていた。
「人数は二十人以上だな」
土方が静かに言った。
「姫様…」
近藤が駕籠に近づいた。
「我々を追っているものがおります」
「……そうですか」
糸子の声は平静だった。
「良い場所があったら上駕籠を降ろして頂戴、あとは近藤殿に全てお任せ致しまする」
割と平気な声だった。
「……承知しました」
「ひ、姫様は怖くはないのですか?」
小夜が震えた声で言った。葵と小夜が糸子の上駕籠の周囲に集まる。
小夜が糸子の袖を掴んでいた。
「旭狼衛が守ってくれましょう。大丈夫ですよ」
糸子が落ち着いて言った。
葵の顔を見ると、青ざめていたが、じっとしていた。
札の辻だった。
道が直角に折れ曲がっている地点だ。
近藤は即座に判断した。この場所で止まる。先に行けば分断される。ここで向き合う。
「上駕籠を降ろせ」
駕籠舁の庄吉が素早く籠を地面に降ろした。
その瞬間だった。
四方から人が現れた。
町家の中から。辻の陰から。路地の奥から。
武装した男たちが出てきた。総数、二十六名。
抜き身の刀を持った者、槍を持った者、しかしほとんどが刀だった。服装はばらばらだった。浪人風の者が多かった。元藩士と思しき者もいた。
一行を取り囲んだ。
包囲が完成した。
沖田が小声で言った。
「近藤さん、遠慮しないでいいんですよね」
その声は——楽しそうだった。
「一切遠慮するな!」
近藤が言った。
「全員抜刀! 一人ずつ確実に仕留めろ」
土方の声が続いた。
「応!」
旭狼衛全員の声が、一つになった。
それぞれが刀を抜いた。
金属の音が一斉に鳴った。
刺客が一歩前に出た。
その瞬間だった。
「助さん! 角さん! やっておしまいなさい!!」
糸子の声が、辻に響いた。
高く、澄んだ、公家の姫君の声だった。
しかし叫んでいた。
刺客が——一瞬、止まった。
何が起きたのか理解できなかった。女の声が突然響いたからだ。
しかもその内容が訳が分からなかった。助さん? 角さん? 誰のことだ?
その一瞬の停止が、すべてを決めた。
沖田が素早く動いた。
最初に飛び出したのは沖田だった。
一瞬の隙を見逃さなかった。
動きに無駄がなかった。速さだけではなかった。最短の軌跡で、確実に。
最初の一人が倒れた。
その一人が倒れる前に、沖田は既に二人目に向いていた。
永倉が動いた。真正面から、力で押した。前に出る相手を受け止め、崩し、倒した。
原田が槍を持った相手に向かった。原田は槍の使い手だ。相手の槍を弾いて、懐に入り込んだ。
斉藤が無音で動いた。気づかれないまま近づいて、一人を倒した。
藤堂と秋山が側面を守った。包囲の輪が崩れないように。
井上と伊東が後方を固めた。逃げ道を守りながら、突破を試みる者を止めた。
土方が全体を見ていた。戦況を把握して、指示を出した。
「左の三人、先に行け」
斉藤と永倉が左に動いた。
近藤が中央に立っていた。
誰も抜けさせなかった。
血が飛んだ。
悲鳴があった。
刺客が次々と倒れた。
数が減っていった。
糸子は上駕籠の後ろに立っていた。
葵が目を覆っていた。小夜が震えながら地面に座り込んでいた。
しかし——糸子は見ていた。
旭狼衛の動きを、見ていた。
昨夜、近藤と話したことを思い出していた。
互いに守り合っている。
今、近藤たちは外を守っている。
だから——糸子は中で何も心配しなくていい。次にすべきことを考えていればいい。
「やっておしまいなさいーーーー!!」
糸子がまた言った。
旭狼衛の数名が、一瞬だけ糸子の方を見た。
それぞれの表情が——少しおかしくなった。
笑っているような、困っているような、しかし力が入っているような顔だった。
小夜が信じられないものを見る目で糸子を見ていた。
葵は——尊敬の眼差しで糸子を見ていた。
糸子の脳内では、なぜか?暴れん坊将軍のBGMが流れていた。
五分も経たないうちに、決着がついた。
倒れているものが十数人。逃げた者が十人ほど。追いかけようとした者を、土方が止めた。
「追うな。残りを確保する」
息のある者を縛り上げた。
近藤が状況を確認した。
「状況確認! みな無事か?」
「藤堂と秋山が手傷を負いましたが、かすり傷です。後のものは全員無事です」
隊員の報告が入った。
「よし」
土方が短く言った。
「姫様、大丈夫でしたか?」
近藤が糸子に向いた。
「大丈夫でございます」
糸子が答えた。
沖田が糸子に近づいた。
「姫様が大きい声を出してくれたおかげで、刺客どもの注意が一瞬姫様に向いたから、隙をつけましたよ」
「それは良かった…」
「ところで姫様、助さん、角さんって誰ですか?」
沖田が不思議そうに聞いた。
「えっ、えーと……」
糸子は目を泳がせながら、めちゃくちゃ必死に考えた……
「…夢です!夢なのです!!夢に出てきた人なのでございます!!!」
夢という言葉を今までで一番、強調してみた。
糸子が少し赤い顔で、もじもじしていた。
「夢?」
近藤の目が光った。
「姫様、あとでゆっくりその夢についてお聞かせ下さい!」
「……はい」
ああっ、またこのパターンか…と糸子は思った。
項垂れるしかなかった。
九 土方の事後処理
糸子と葵、小夜、そして近藤を含む数名の旭狼衛は、素早くその場を離れた。
残ったのは、土方、斉藤、永倉の三名だった。
土方は静かだった。
しかしその目が、鋭く動いていた。
「死体の確認をする。斉藤、息のある者を全員押さえろ」
「はい」
倒れた者を一人一人確認した。
懐を改めた。
書状を持っている者があった。土方が受け取って開いた。
文字を読んだ。
「……水戸藩の出身者がいる?。脱退浪人だな」
「残りは銭で雇われた者でしょうか」
「服装からして、そうだろう。混成だ。まとまりがなかった理由がそれだ」
証拠品を集めた。
永倉が番屋の方角を見た。
「届け出が必要ですね」
「分かってる」
土方が番屋に向けて急使を走らせた。
最寄りの番屋に伝えた。
「何者か分からぬ不届き者に襲撃されたが、防戦の末これこれの人数を斬り倒した」という内容を、簡潔に告げた。
次に、一橋藩邸に向けて人を走らせた。
「援軍を呼べ。二の矢がある可能性がある」
「はい」
斉藤が走った。
土方は現場に留まって、奉行所からの者が来るのを待った。
その間、周囲を見張った。
逃げた十人の中に、再び戻ってくる者がいるかもしれない。
あるいは別の場所に控えていた者がいるかもしれない。
しかし二の矢は来なかった。
やがて番屋の者が来た。
土方は落ち着いて応対した。
「正当防衛でございます。こちらの方々に証明いただけます」
周囲に、一部始終を見ていた者がいた。商人、旅人——複数の目撃者が名乗り出た。
事後処理が進んでいく中、土方は内心で考えていた。
これは——誰の指図か?。
水戸藩の脱退浪人が混じっていた。銭で雇われた浪人が混じっていた。
二十六名という数は、大規模な計画だ。
誰がこれほどの人数を集め、姫様の到着を事前に知っていたのか。
江戸に着いたら、調べる必要がある。
十 一橋藩上屋敷へ
糸子が一橋藩上屋敷に到着したのは、午後の遅い時刻だった。
門が開いた。
上屋敷の中は静かだった。
用意された部屋は広かった。近衛家の格式に相応しい、という言葉通りの部屋だった。縁側の外に庭があった。庭の木々が色づいていた。
糸子は部屋に入って、座った。
しばらく、動かなかった。
京都を出てから、伏見、大坂、南海路、品川、そして今ここにいる。
長い旅だった。
しかし——ここは江戸だ。
糸子は縁側の外の庭を見た。
楓の葉が一枚、落ちた。
京都の近衛家の庭の楓と、同じ季節に、同じように落ちた。
十一 知らせが広がる
その夜のうちに、知らせは広がった。
近衛家の一行が品川から江戸に向かう途中、二十六名の刺客に襲われた。
しかし随行の護衛が全員撃退した——という話が、幕府関係者の間を走った。
堀田正睦のもとに知らせが届いたのは、夜だった。
報告を聞いた堀田は、少しの間、黙った。
「……一行は無事か」
「はい。姫様は無事でございます。護衛の者に二名、かすり傷があったとのことですが、重傷者はおりません」
「刺客の方は」
「十数名が倒れ、残りは逃げたとのことです。水戸藩の脱退浪人と思しき者が混じっていたという話です」
堀田が目を細めた。
「……水戸藩の脱退浪人だと?」
「はい」
堀田が少し考えた。
「近衛家の一行の到着を、幕府の一部が把握していた。そして水戸藩に繋がる者が動いた?」
「……はい」
「老中合議にはかった話は一部にしか伝わっていない筈だ。別のところへ漏れた可能性がある?」
堀田が静かに言った。
「あるいは、漏らした者がいる…」「しかし、まずいことになった。いくら脱藩浪人だとは言っても…水戸藩は一橋派の中心だぞ。どうする」
堀田は必死に悩むが、答えは一向に出てこなかった。
他の老中たちにも知らせは届いた。
太田資始は驚いた。
「本当に襲われたのか?。しかも白昼堂々と二十六名で」
「はい」
「何という大それた計画を……。それで近衛様御一行は無事だったと?」
「はい、護衛が見事な働きをしたとのことです。旭狼衛とかいう、近衛家の護衛集団です」
「近衛家の護衛集団が、二十六名を返り討ちにしたのか…」
「はい」
太田が少し考えた。
「これは……表沙汰にならないよう、処理しなければならない。朝廷の使者が江戸で刺客に襲われた、などということが広まれば——幕府の恥だ」
彦根藩江戸藩邸では、その夜、直弼がその知らせを聞いた。
長野が報告を終えた。
部屋は静かだった。
直弼が窓の外を見た。
夜の空だった。
しばらく、何も言わなかった。
そして——
「ちっ……」
小さく、舌打ちをした。
その音が、静かな部屋の中に一人こぼれた。
しかし、すぐに黒い笑みが浮かんでいた。
直弼はそのまま窓の外を見続けていた。
夜の空に、星が出ていた。
冷たい、秋の終わりの星だった。
第四十四話 了
決してぶれない糸子さん…┓( ̄∇ ̄;)┏




