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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第三十四話「最後の対話」

一

 六月の京は、息が詰まるような暑さだった。


 御所の周りの木々が濃い緑の葉を重ね、風が渡るたびに葉が揺れて、光が散らばった。しかしその風でさえ生ぬるく、涼しさのかけらもなかった。


 蝉が鳴き始めていた。


 夏の本番が来ようとしていた。


 糸子は縁側で、帳面を開いていた。


 今日の段取りを確かめていた。


 村田蔵六との英語の談判の見立てが、午前中にある。


 午後は万次郎と、ハリスの談判の癖についての研究。


 夕刻には実光と、約定の文の法的解釈の整理。


 糸子の頭の中は、ほぼすっかり、ハリスとの談判一色になっていた。


 井伊直弼の噂については——正直に言えば、もうほとんど頭にない。


 あれは蒔いた種だ。独りでに動いている。今のわたくしが付き合っていられる余裕はない。


 そこへ、お梅が来た。


「姫様、島津斉彬様がいらっしゃっております」


 糸子は帳面から目を上げた。


「斉彬様が?」


「はい。急ぎのご用があるとのことで」


 糸子は少し考えた。


 今日の段取りが頭をよぎったが、すぐに判じた。


「お通ししてください」


二

 父上は、御所へ出ていた。表には、実光が座った。


 兵を率いて上洛する——その企ての前に、斉彬はわずかな供だけを連れ、ひそかに京の様子を確かめに来たのだという。


 座敷に通された斉彬は、前回より少しだけ、顔色が悪かった。


 しかし、その目の力は変わっていなかった。


 遠くを見る目。薩摩から、日本全体を見てきた人間の目。


「姫君様、急に参りまして」


「いいえ。どうぞ、お楽に」


 茶が運ばれた。


 しばらく最初の挨拶が続いた後、斉彬が、少し声の調子を変えた。


「一つ、姫君様にお聞きしたいことがございます」


「一体、なんでしょう?」


「近頃、江戸で——彦根の井伊直弼殿についての噂が、随分と広まっているとのことですが、ご存知ですか」


 糸子は、少し首を傾けた。


「……はい。確か、そのような噂がございましたね」


「確か、と申されますと?」


「以前に、知り合いの商家の者から、文で知らせを受けた覚えがありまする。今は——少し他の支度で忙しくしておりまして、細かくは……」


 糸子が、少し考える顔をした。


「……そういえば、かなり広まっているとのことでございましたね。賄賂の話でしたか? 処罰の企てでしたか?」


 斉彬が、少し止まった。


「……かなり細かな噂だとのことで、わたくしも驚きました。姫君様は、その噂について、どのようにお感じでしたか」


「そうでございますね……」


 糸子が、しばらく考えた後、答えた。


「江戸では、様々な噂が流れるものですから。この時期は特に、政の動きが盛んですし——あ、それより斉彬様、今日のご用件は何でございましょうか。実はわたくし、本日は午前中に村田蔵六殿との授業がありまして、少し急いでおりましたもので…」


 斉彬は、しばらく、御簾の方を見ていた。


三

 斉彬の頭の中で、何かが整わなくなっていた。


 上洛の前に、家臣から報告を受けていた。


「井伊直弼殿についての噂の出所を調べましたが——近衛家の周りの動きがおかしい、という話があります」


「具体的には?」


「ある江戸の商人が、噂が広まり始める直前から動いており、その商人は近衛家と繋がっているとのことです。また、御所の女官の間でも、同じ頃に関わる話が出始めていたとのことです」


 斉彬は「黒幕は近衛家の姫君だ」と疑いを抱いて、上洛した。


 流言の正確さが、高すぎた。あれほど具体的な処罰の名簿を持っているのは、御所と繋がりのある者でなければ難しい。しかも、いくつもの独立した経路から同時に出るという巧みさは——ふつうの人間にできることではない。


 しかし——目の前の糸子の声と様子を見る限りでは……


「確か、そのような噂がございましたね」


 この返しは、何だ。


 頭の切れる人間が、自分の仕掛けた工作について問われた時に、これほど何気ない、何も感じられない返し方ができるものなのか。


 何らかの揺らぎが見えるはずだ。あるいは、過ぎるほど打ち消そうとするか、話を変えようとするか——


 しかし、この姫は「本日は授業があります」と言った。


 本当に、興味がなさそうだった。いや…ないのか?


「えっ?」


 斉彬は、心の中で呟いた。


「この姫君では、ないのか?」


四

「斉彬様、どうかなさいましたか?」


 糸子が、御簾の内から声をかけた。


 斉彬が、ゆっくりと茶を飲んだ。


「いえ、少し考えておりました」


「何か、お困りのことがありましょうや?」


「……いえ。ただ、その流言の件について、わたくしには少し気になることがありまして」


「何でございましょうか」


「あの噂は——非常に組んで動いた形跡があります。出所がいくつもの独立した経路に散らされており、本当と嘘が巧みに混ぜられており、処罰の名簿の正確さが——」


「斉彬様」


 糸子が、少し穏やかに割り込んだ。


「わたくしには、その噂の見立てよりも…今気になることがありまする」


「何でしょう」


「斉彬様のお顔色でございます。前にお会いした時より、少し悪い気がしております。お体の具合は、いかがでございますか」


 斉彬が、少し止まった。


「……わたくしのことは、大丈夫です」


「本当でございますか。夏の初めは、体に堪えまする。とりわけ、上洛は遠路でしょう。ご無理をなさっているのではないですか?」


「……正直に申せば」


 斉彬が、少し下を向いた。


「近頃、体の調子が優れない日が続いています」


 糸子は御簾の内で、静かに息を吸った。


 知っていた。


 七月に、斉彬は亡くなる。


 それが、目の前に迫っていた。


 斉彬が、まだ見立てを続けていた。


「姫君様、わたくしは——その噂の件について、もしかすれば近衛家が関わっているのではないかと——」


「斉彬様」


 糸子が言った。


 御簾が動いた。


五

 スっと。


 御簾が、静かに上がった。


 あるいは、糸子が御簾の外へ出てきた、と言うべきか。


 公家の姫が、見知らぬ男の前に、御簾なしで姿を見せることは——とりわけ五摂家の姫にとっては——あってはならないことだ。


 表に座る実光が、息を呑む気配がした。


 しかし糸子は今、その外に立っていた。


 斉彬が、目を見張った。


 少女だった。


 当然だと、頭では分かっていた。十と聞いていた。


 しかし、「十の少女」という知らせと、「目の前にいる少女」の間には、まだ大きな差があった。


 気品があった。


 立ち姿に、生まれながらの格があった。五摂家の筆頭に育てられた姫君としての品が、自然に出ていた。


 しかし同時に——本当に、十の少女だった。


 あどけなさの残る顔。真剣な目。本気で案じている顔つき。


 これが——あの声の持ち主か。


「斉彬様、本当に大丈夫でございましょうや?」


 その少女が、心の底から案じた声で言っていた。


 斉彬は——自分が今まで考えていたことのすべてが、音を立てて崩れていくのを感じた。


「……なん、とか大丈夫です」


 言葉が出た。しかし、声が揺れた。


「本当ですか。ご無理をなさってはいませんか?」


「……大丈夫です」


 斉彬は、取り繕った。


 取り繕いながら、考えた。


「この姫君が——あの噂の黒幕だと、わたくしは本気で思っていたのか?」


 目の前にいる十の少女を見た。


 案じた顔で、自分を見ている少女を…


「……わたくしの見立てが、すっかり間違っていたのか?」


 頭が乱れ始めた。


「よく、わからなくなってきた」


 心の中で、斉彬は頭を抱えた。


六

「斉彬様、お座りください。長旅で、お疲れでございましょう」


 糸子が言った。


 斉彬は、座り直した。


「姫君様、その——御簾を出てこられては、礼法の上で障りでは」


「今日は、それより大切なことがございます」


 糸子が、斉彬の前に座った。


 正式な座り方だが、御簾の外だ。


「斉彬様のお体が、本当に心配でございます。先ほどおっしゃっていた、体の調子が優れないというお話を、もう少しお聞かせくださいまし」


 斉彬が、少し考えた後、答えた。


「……六月に入ってから、疲れが取れない日が続いています。食も、以前より細くなっています」


「お医者様には?」


「みてもらっています」


「何とおっしゃっておりましたか」


「……養生が要る、と」


 糸子が、静かに言った。


「斉彬様、上洛は、しばらくお控えになった方がよろしいかと思いまする」


「しかし、ご公儀の動きが——」


「斉彬様のお体より大切な政は、ございません」


 斉彬が、少し止まった。


 糸子が続けた。


「斉彬様がいてくださることが、一橋派にとっても、この国にとっても大事でございます。お体を大切にしてくださいまし」


 斉彬は、しばらく、この少女の顔を見ていた。


 心の底から案じてくれている顔だった。


「……かたじけのう存じます、姫君様」


 そして斉彬は、改めて思った。


「この姫君が——あの噂の黒幕のはずがない」


 こんなにまっすぐに人を案じられる人間が、あれほど巧みな浮説を流すはずがない——


 斉彬の中で、その確信が固まった。


 それはすっかり間違った確信だったが、斉彬には分からなかった。


七

「一つ、申し上げたいことがあります」


 斉彬が言った。


「はい」


「わたくしは——長くないかもしれません」


「……斉彬様」


「体の話だけではありません。政の上でも——一橋派は厳しい有り様になりつつある。井伊直弼殿が大老に就けば、わたくしたちの立場は一変するでしょう」


「はい」


「そのような中で——もし何かがあった後に、篤を通じた、大奥との縁を使えるかどうかを、考えておいてください」


「斉彬様、そのような先のことを——」


「先のことを考えておくことが、今できる最善です」


 斉彬が、少し笑った。


「あなたから教わりました。先を読んでおくことの大切さを…」


 糸子は、少しの間、黙った。


 斉彬の顔を見た。


 六月の光が、座敷に差し込んでいた。斉彬の顔を、横から照らしていた。


 少し痩せた顔。しかしその目には、まだ強い光があった。


 知っている。


 七月に、この人は逝く。


 今目の前にいる人が、来月にはいなくなる。


「……分かりました」


 糸子は言った。


「御台所様との縁については、時機を見て考えまする」


「それで十分です」


 斉彬が続けた。


「姫君様、一つだけ、お願いがあります」


「何でしょう」


「続けてください」


「続ける、とは?」


「あなたがしていることを。御門様との関わりを深め、外の交わりの理屈を整え、言葉で国を守ろうとしていること——それを、続けてください」


「……はい」


「たとえ有り様が厳しくなっても、諦めないでください」


「諦めません」


「約束しますか」


「約束しまする」


 斉彬が、少し満足そうな顔をした。


「それで、わたくしは安心できます」


八

 対話が終わり、斉彬が立ち上がろうとした時、糸子が言った。


「斉彬様、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」


「はい」


「今日、御簾の外に出てきたことは——非常に異例のことです。礼法として、本来はあり得ないことです」


「分かっています。しかし——」


「訳がありまする」


 糸子が続けた。


「斉彬様が来られると聞いた時、今日が、長くお話しできる最後の機会になるかもしれない、と感じましてございます。そのような機会に、御簾越しのままでよいのかと思いました」


 斉彬が、しばらく糸子を見た。


「……最後の機会、とはどういう意味ですか」


「斉彬様のお体が、心配だからでございます。養生が要るとおっしゃっていました。次に京においでになるのが、いつになるか分かりません…」


「なるほど」


「ですから——今日は、御簾を出ました。斉彬様のお顔を、きちんと拝見したかった。直にお話ししたかったのでございます」


 斉彬が、静かに頷いた。


「……あなたは、礼法を守ることと、本当に大切なことの間で、正しい選び方をされた」


「礼法は道具です。使いどころが大切でございます」


「そうですね」


 斉彬が立ち上がった。


「姫君様、今日は来てよかった」


「わたくしも、斉彬様に来ていただけて、良かったです」


「また——お会いできれば」


「はい。必ず」


 糸子は、その言葉を声に出して言った。


 しかし心の中では、別のことを思っていた。


 また会えることを、祈っている。


 しかし、知っている。


 七月が来る。


九

 斉彬が帰った後、糸子は御簾の内に戻った。


 午前中の授業に戻った。


 村田蔵六が待っていた。


「姫様、お客様でしたか」


「はい。島津斉彬様が」


「……斉彬様が、上洛されていたのですか」


「はい。少し、顔色が悪かったのでございます」


 村田蔵六が、少し顔つきを変えた。


「それは——」


「心配です」


 糸子が言った。


「では、今日の授業を始めましょう」


「よろしいですか」


「はい。今日は、ハリスが使いそうな理屈の検討でしたね。急ぎましょう、午後に万次郎殿との約束もありますから」


 村田蔵六は、姫様の横顔を少しの間見た後、頷いた。


「分かりました。では——」


 授業が始まった。


十

 七月も末に近づいていた。


 京の夏は、本格的になっていた。


 御所の周りの木々が深い緑を持ち、空気が重かった。蝉の声が、朝から夜まで鳴き続けた。


 薩摩の京屋敷から、使いが来た。


 お梅が、文を持ってきた。


「姫様、薩摩のお屋敷から」


「おおきに」


 糸子は、文を受け取った。


 開いた瞬間に——分かった。


「島津斉彬様、去る十六日、鹿児島にて御逝去。急な病とのことにございます」


 一行だった。


 短い一行だった。


 糸子は文を持ったまま、しばらく動かなかった。


 知っていた。


 知っていたのに。


 前世の歴史の授業で学んだことが、今は一人の人間の死として届いた。


 知っていることと、受け入れることは、違う。


十一

 糸子は、ゆっくりと帳面を開いた。


 何かを書こうとした。


 しかし、筆が動かなかった。


 蝉が鳴いていた。


 夏の蝉が、うるさいほど鳴いていた。


 しばらくして、ようやく書いた。


「七月。島津斉彬様、御逝去。」


 それだけしか、書けなかった。


「一橋派の、一番の後ろ盾が消えた。これで——」


 続きを書こうとした。


「これで、井伊直弼への道が——」


 止まった。


 分かっている。次に何が来るかは、分かっている。


 安政の大獄が、来るかもしれない。


 吉田松陰が、処刑されるかもしれない。橋本左内が、処刑されるかもしれない。


 それが、歴史の流れだ…


 しかし今日は——それを書く気になれなかった。


 糸子は、帳面を閉じた。


十二

 その夜、糸子は一人で泣いた。


 声を出さないように、手で口を押さえながら。


 お梅に気づかれないように、布団の中で。


 前世の橘咲として生きた二十八年で、人の死を受け入れることは、何度か経てきた。祖父が亡くなった時。同僚が突然亡くなった時。しかし今世では——近衛糸子として動き始めてから——初めて、直に知っている人を失った。


 斉彬は、わたくしのことを「姫君様」と呼んでくれた。


 対等な話し相手として、扱ってくれた。


 薩摩の藩主が、十の公家の姫を、本当の意味で対等に扱っていた。


 あの方がいなければ、糸子の知らせの網は、今の半分もなかっただろう。


 御台所様との縁のことを、委ねてくれた。


 続けてください、と言ってくれた。


 それが、最後の言葉になった。


「わたくしは——前世の知識という、誰も持っていない知らせを持っていながら」


 糸子は布団の中で、小さく呟いた。


「斉彬様の命は、結局、救えなかった」


 病だから、どうすることもできない。


 それは、分かっている。


 しかし——前世の知識があって、七月に亡くなることを知っていて、それでも何もできなかった。


 六月に会っていた。直に、顔を見ていた。


 それでも——「次は無いかもしれない」と心のどこかで思いながら、「約束します」と言いながら、祈るだけしかできなかった。


 糸子は声を押し殺しながら、しばらく泣いた。


十三

 近藤は廊下で、糸子の部屋からの、かすかな音を聞いた。


 何の音か、近藤には分かった。


 入ろうとした。


 しかし、止まった。


 今は、一人にしておく方が良い。


 近藤は、廊下に座った。


 姿勢を正して、糸子の部屋の前で、静かに待った。


 守ることは、傍にいることだけではない。


 一人でいることを守ることも、守護の一つだ。


 夏の夜は、蒸し暑かった。廊下は、外気と変わらない熱を持っていた。


 しかし近藤は、動かなかった。


 虫の音が聞こえた。


 庭の木が、風に揺れる音がした。


 遠くで、誰かの声がした。


 近藤は静かに、糸子の部屋の前に座り続けた。


十四

 どれくらい経ったか。


 部屋の中から、物音がした。


 帳面を開く音。


 筆を取る音。


 近藤は立ち上がった。


 部屋の前に立った。


「姫様」


 静かに呼んだ。


 少しの間があった後、答えが来た。


「近藤殿」


「……はい」


「外に、いらしたのですか」


「少し」


「……いつから?」


「少し前から」


 また、少しの間があった。


「申し訳ありません。心配をおかけして」


「いいえ」


 近藤が言った。


「斉彬様は——良い方でしたね」


「……はい」


「姫様と話す時、対等な方として話されていたのを、俺は見ていました」


「見ていてくださったのですね」


「守護者ですから。見ています」


 また、少しの間があった。


「近藤殿」


「はい」


「誠に、ありがたく存じます」


「いいえ」


「外は暑いでしょう。お休みくださいまし」


「もう少し外気を吸いたいので、大丈夫です。姫様…」


「……はい」


 部屋の中の気配が、少し落ち着いた。


 近藤は、廊下に座り直した。


 夏の夜が、深まっていた。


十五

 糸子は帳面を開いた。


 今度は、書けた。


「斉彬様が逝かれた。一橋派の、一番の後ろ盾が消えた。これで——井伊直弼への道が、より開きやすくなった」


「歴史は止められなかった。わたくしには、斉彬様を救う力がなかった。前世の知識があっても、人の命が尽きる時を変えることはできなかった」


「しかし——斉彬様の言葉は残っている。続けてください、と。約束します、と言った。その約束を、守る」


 糸子は、筆を置いた。


「斉彬様、ありがとう存じまする」


 声に出さずに、心の中で言った。


 それから、少しの間、帳面を見ていた。


 やがて、次の頁を開いた。


 書かなければならないことがある。


 次の手を、考えなければならない。


「井伊直弼が大老に就いた後の動きについて。一橋派への響きについて。旭狼衛の、江戸へ動く体制について」


 斉彬様がいなくなっても、止まることはできない。


 続けることが、約束だ。


十六

 翌朝、土方が縁側の警護の番についていた。


 部屋の中の糸子は、帳面に向かっていた。


 土方は縁側から、糸子の横顔を少し見た。


 帳面を開いて、何かを考えて、筆を動かしている。いつもの糸子だった。


 しかし土方は、何かが変わっていると感じた。


 表は、変わっていない。


 しかし、その顔つきの奥に、少し違う何かがあった。


 土方は、この近衛家に来て以来、糸子をずっと見てきた。


 英語を学ぶ顔。御門様の御前から帰った時の顔。堀田正睦と話した後の、静かな満足。万次郎と英語で話した時の、心の凝らし方。


 そして——井伊の悪評の件だ。


 土方は確信していた。


 あの噂は、この姫が仕組んだものだ。


 証はない。しかし、確かな確信はあった。


 今の糸子は、「一切しーらない」という顔をしている。


 自分に都合の悪い振る舞いについては、きれいさっぱり、覚えから消してしまっているようだった。


 土方は、少し笑いそうになった。


 しかし、すぐに引き締めた。


 笑えない。


 あの噂の巧みさは、本物だった。


 出所をすっかり隠しながら、いくつもの経路から同時に流す。本当と嘘を混ぜて、本当が確かめられるたびに、嘘まで信じられていく。


 何も、証を残していない。


 これは、武器だと思った。


 刀より、遥かに遠くまで届く武器だと…


 そして昨夜——糸子は、一人で泣いていた。


 近藤が廊下に座っているのを、土方は知っていた。


 この姫は、人の死を悼んで泣く。


 そして翌朝には帳面を開いて、次の手を考える。


 刃物みたいな頭と、普通の人間の心を、両方持っている。


 土方はしばらく糸子の横顔を見た後、警護の番の場所に戻った。


 その時、土方の心の中に、一つの決意が生まれた。


 静かで、しかし固い決意だった。


「俺は——この近衛家と、この姫君の守護者で居続ける」


 それだけは、はっきりしていた。


十七

 夏の夜が、深まっていた。


 糸子は帳面を閉じ、縁側へ出た。


 夜気に触れながら、ふと顔を上げる。京の夏の星は、よく見えた。御所の周りには明かりが少ないため、町の灯に空が紛れることもなく、暗い夜空に星が一つ一つ浮かんでいる。


 天の川が、薄く白く夜空を流れていた。


 しばらく黙って眺めていた糸子は、やがて小さく息を吐いた。


「斉彬様、見ていらっしゃいますか」


 誰もいない庭に向かって、声に出した。


 返事はない。


 ただ、草むらから虫の音が聞こえてくる。途切れてはまた鳴き、静かな庭に細く響いていた。


「続けます。約束しました。続けます」


 言葉にしてみると、不思議と胸の奥が落ち着いた。


 斉彬がもういないことは、分かっている。


 それでも、こうして夜空を見上げていると、どこかで同じ星を見ているような気がした。


 虫の音が、また鳴いた。


 それで、十分だった。


 糸子はしばらくその場に立ち、星を見上げていた。やがて静かに振り返ると、縁側へ戻った。


 閉じたばかりの帳面を、もう一度開く。


 残された仕事は、まだある。


 糸子は筆を取り、続きを書き始めた。


 次の手を考えなければならない。


「安政の大獄を少しでも小さくするために——今できることは何か。警告は届いているはず。噂を通じて警戒しているはず。しかしそれで十分か…」


 糸子は書き続けた。


 斉彬様がいなくなっても、止まることはできない。


 続けることが、約束だ。


 夏の夜が深まる中で、糸子の筆は動き続けた。


 第三十四話 了

多分…糸子さんの面の皮の厚さは誰もかなわないと思います(;'∀')

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― 新着の感想 ―
あれ? 三十一話で島津斉彬は前年に亡くなったとありますが……?
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