第三十五話「大老、就任する」
一
安政五年の秋が来た。
九月の江戸は、夏の熱が残りながら、空気の質が少しずつ変わっていく季節だった。空が高くなり始め、雲の形が変わり、風の中に秋の匂いが混じってくる。
しかし、その秋の空の下で、江戸城はふだんとは違う空気を持っていた。
九月の半ば過ぎのことだった。
彦根藩主・井伊直弼が大老に就くことが正式に決まった、という知らせが、江戸城の内を走った。
大老就任。
ご公儀の最高の職。将軍に次ぐ地位。急の時にのみ置かれる、絶大な権を持つ臨時の役。
本来であれば、その就任はご公儀の威信を示す出来事として、江戸城の内に一定の重みを与えるはずだった。
しかし、この日の江戸城には、その重みがなかった。
二 就任の儀式
就任の儀式が行われた大広間。
老中たちが並んでいた。
顔つきが、固かった。
全員が、要る限りの礼儀を守りながら、しかし誰も、進んで祝いの意を示していなかった。
老中の松平忠固が、定められた言葉で就任を告げた。
「彦根藩主・井伊直弼殿を、ご公儀の大老に任ずる」
その声は正確だったが、何かが欠けていた。
高ぶりがなかった。
居並ぶ者たちの目が、直弼に向いていた。
その目の中に、温かさはなかった。
品定めする目。
警戒する目。
様子を見る目。
しかし、直弼を真正面から支える目は、どこにもなかった。
直弼は大広間の中央に立って、その視線を全身に受けた。
顔には何も出さなかった。
長年、埋木舎での不遇の暮らしを経てきた直弼は、自分の気持ちを外に出さないことに長けていた。
茶の湯で培った静けさが、今も顔に張り付いていた。
しかし、内側では——
内側では、何かが燃えていた。
三 江戸の街の反応
大老就任の知らせは、その日のうちに江戸の街に広まった。
しかし街の反応は、ご公儀が期待したものとは、まったく違った。
日本橋の呉服商の番頭・清七は、得意先から知らせを聞いて言った。
「……やっぱり、大老になったか」
「驚かなかったのですか」
「驚かないよ。前から、そういう話が出ていたから」
「噂の通りになった、ということですか」
「そういうことだ。異国から金をもらっているとか、処罰の企てがあるとか、そういう話が出ていた人が大老になった。これからどうなるかは——」
清七が、少し声を低くした。
「見ていれば分かるだろう」
浅草寄りの長屋では、左官職人の熊吉が、女房のおきんに言った。
「大老になったぞ、あの彦根の殿様が」
「どうするんだい」
「どうするって——まあ、様子を見るしかないな。ただ」
「ただ?」
「あれだけの噂が出ていた人だ。これからが怖いな」
「本当に、日本を売り渡したりしないでしょうね」
「さあ。しかし、御門様のお許しも取らずに条約を結ぶ、なんてことだけはしてくれるなよと思うよ」
浪人たちが集まる小料理屋では、もっと真っ直ぐな話になっていた。
「大老就任だと。しかし今の有り様で、本当に動けるのか」
「動けないかもしれないな。これだけの噂が出回った後では」
「足かせになっている、ということか」
「噂が本当になれば——大老の職が取り消されるどころか、彦根藩そのものが危うい。そう思っているから、慎重にならざるを得ないだろう」
「なるほど。噂そのものが、鎖になっているわけだ」
「うまく言ったな」
四 直弼が直面した現実
就任の翌日、直弼は早速動こうとした。
まず、通商条約の問題だ。ハリスとの談判を、自分の主導で進めたい。老中を通じてではなく、直に動きたい。
しかし、老中の松平忠固が、丁重に、しかしはっきりと言った。
「大老殿、ご公儀の内外の有り様を鑑みますと、今の時点での独断の決定は——その響きが測りがたく——合議の上で進めることが、ふさわしいかと存じます」
「…合議?」
直弼が繰り返した。
「はい。老中全員の合議の上で、方針を定めることが、この時期には——」
「老中の合議の上で、大老が決裁する、ということに…?」
「その通りでございますが、この時期は特に——ご公儀全体の意見の一致が求められておりますゆえ——」
直弼は、話が続くのを遮って言った。
「…あい分かった。今日のところは、下がれ」
松平忠固が下がった後、直弼は一人で書院に座った。
「合議…」
また呟いた。
大老の役目は、老中の上に立ち、大事な政の決定を行うことだ。
合議が要るのは老中の段であって、大老がその合議を経た上で、さらに慎重に進めろという話は——本来の大老の権とは相容れない。
しかし「合議がふさわしい」と言われた瞬間、直弼は気づいた。
これは——形の上では、誰も大老を否んでいない。
しかし実のところ、大老が動ける範囲が、極めて狭くなっている。
誰かが——何かが——大老の権を、骨抜きにしていた。
五 権限の骨抜きという現実
その日の夜、直弼は、側近の長野義言を呼んだ。
「義言、正直に答えよ」
「はい」
「大老の権が、実のところ働いていないと思うか?」
長野義言が、少しの間、黙った。
「……はい。そのように見受けられます」
「原因は何だ」
「いくつかの訳が重なっています」
長野が続けた。
「まず、殿についての噂が広まったことで、ご公儀の内の人心が、殿から離れています。老中たちは、殿の指図を遂げることで、自分たちまで批判の的になることを恐れています」
「だから、合議という盾を使うのか…」
「はい。合議の結果として動いたのであれば、責めの所在が散らされます。殿お一人の責めにはならない」
「そして」
「将軍継嗣の問題でも、諸大名の間で意見が割れています。慶福様を推す南紀派と、慶喜様を推す一橋派が争っている中で、大老が一方を推す形で動けば——もう一方の反発が大きくなります」
「つまり?」
直弼が、静かに言った。
「大老になったが、大老として動けない有り様になっている?」
「……端的に言えば、そういうことです」
「そして——」
直弼が立ち上がった。
「この有り様を作ったのは、あの流言だ」
「おそらくは」
「あの流言がなければ、わたしは今頃、ハリスとの談判を主導して通商条約の問題を片づけ、将軍継嗣の問題にも決着をつけていた」
「はい」
「しかし流言のせいで、わたしの就任の前から『問題のある人物』という印象が形作られた。ご公儀の内の人間は、わたしに従うことの危うさを、勘定している。その勘定が、わたしの権を、実のところ奪っている」
長野が頷いた。
「…おっしゃる通りかと存じます」
六 夜の独白
長野が下がった後、直弼は書院に一人で残った。
秋の夜の江戸は、静かだった。
遠くで犬の声がした。風が、木の葉を揺らした。
直弼は机の前に座ったが、何も書かなかった。
頭の中で、この数か月を振り返っていた。
春から夏にかけて広まった噂。
賄賂。売国奴。大粛清の企て。処罰の対象の名。
あの流言が出始めた時から、直弼は犯人を探し続けていた。
しかし、犯人は見つからなかった。
いくつもの独立した経路から、同時に出ていた。商人の口から、御所の周りから、剣術の道場から——それぞれ別々の場所で、同じような話が出ていた。
出所を一つに絞ることが、できなかった。
「どこかの組が動いている」
直弼は確信していた。
「しかし——どの組なのかが見えない」
水戸藩か。一橋派か。薩摩か。
あるいは——これらのどれでもない、別の何かか。
直弼は考え続けた。
「あれほどの噂を組んで流せるのは——ご公儀の内の事情を知っている者だ。御所との繋がりがある者だ。しかし、ご公儀の内でも御所でも、手がかりが掴めなかった」
「どこかに、わたしが見落としている何かがある」
「必ず——必ず見つける」
直弼は、机を静かに叩いた。
「このままで終わるつもりはない。大老になった。形の上では、この国の最高の位に近い立場だ。その立場を使えない有り様にしたのが誰であれ——必ず報いを受けさせる」
秋の夜が、深まっていった。
書院の灯りが、直弼の顔を照らしていた。
その顔に、怒りとも悲しみとも取れる色が浮かんでいた。
七 直弼の裏工作
翌日から、直弼はひそかに動き始めた。
表向きは「大老として合議に従って動く」という姿勢を示しながら、その裏で、犯人を突き止めるための仕掛けを始めた。
「長野」
「はい」
「一つ、ひそかに動いてほしいことがある」
「何でしょうか」
「囮の話を流す」
長野が、少し眉を動かした。
「囮の話、とは」
「特定の中身の話を、特定の経路から流す。その話がどのように広まるかを追いかける。犯人は、何らかの方法で風聞を集めている。その集める仕掛けに引っかかる話を流せば——風聞が向かう先が見えてくる」
「なるほど。犯人の集める仕掛けを、逆に使うわけですね」
「そういうことだ。流す話の中身は、わたしが考える。それぞれの経路に少しずつ違う中身を流して、どの風聞がどこに届くかを確かめる。いくつかの違う話が合流している場所があれば——そこに、犯人の仕掛けがある」
長野が考えた後、言った。
「非常に巧みな方法です。しかし——」
「しかし?」
「相手も賢いかもしれません。同じような方法を見越して、囮の話をわざと避けるかもしれません」
「それも踏まえている」
直弼が続けた。
「囮の話を一種類だけ流すのではなく、いくつかの種類を、違う時期に流す。相手が最初の囮を避けても、次の囮には引っかかるかもしれない。長い追いかけになる」
「かなりの時と手間がかかります」
「構わない。時はある」
直弼が、窓の外を見た。
「わたしは今、動けない有り様にある。しかし、動けない間も、支度はできる。犯人を突き止める支度を、じっくりと進める。いずれ必ず——その者を見つける」
長野が頷いた。
「かしこまりました。どのような話を、どの経路から流しますか」
「まず、大老として、次の動きをひそかに検討しているという話を流す。中身は、実際にはしない予定のことを、するように見せかける。その話が誰の耳に入るかで、相手の知らせの仕掛けの一端が見えてくる」
「具体の中身は」
「特定の幕臣への接触を検討している、という話を流す。その幕臣の名も、わたしが決める。実際には接触しない。しかし、その話が、その幕臣に届くかどうかを確かめる」
「届けば——その幕臣に近い人間が、犯人の風聞を集める仕掛けに繋がっている、ということですね」
「そういうことだ」
直弼が、少し微笑んだ。
その微笑みは、冷たかった。
「一期一会、という言葉がある。茶の湯の言葉だ。この一会の出会いを、生涯に一度の機会と思って、誠実に向き合う。わたしは、その精神で、この戦いにも向き合う」
「戦い、とおっしゃいますか」
「そうだ。これは戦いだ。刀を使わない戦いだが、戦いだ。わたしを追い詰めた者と、これからじっくりと戦う」
八 江戸の善次郎から届いた知らせ
京の近衛家に、善次郎からの文が届いたのは、秋の深まる頃だった。
お梅が、文を持ってきた。
「姫様、善次郎殿からです」
「ありがとう」
糸子は文を受け取って、開いた。
『姫君様、江戸の様子をご報告します。井伊直弼様が、大老に就任されました。しかし就任後の江戸城の内の様子が、ふだんの大老就任とは、まったく異なっています』
糸子は、そこで一度、文から目を上げた。
九月。
史実では、四月の二十三日だった。
五月ほども、遅れている。
あの噂が、それだけの時を稼いだのだ。
善次郎の文が続いた。
『老中たちが進んで大老殿に従う様子がなく、合議という形で、大老の独断を実のところ防いでいます。ご公儀の内では、大老が就いたことよりも、大老が動けない有り様にあることの方が、話の種になっています』
『また、大老殿が、犯人を突き止めるために、ひそかに何かを動かし始めているとの話が出ています。具体の中身は分かりませんが、何人もの商人が「彦根藩の関わりの者から、変な話を聞かされた」と話しています。その話の中身が、少しずつ違う形で、何人もの人間に伝えられているとのことです』
糸子は文を読みながら、少し静止した。
「いくつもの中身が、少しずつ違う形で…」
直弼の裏工作が、早くも動き始めていた。
九 近藤を呼ぶ
糸子は、すぐに近藤を呼んだ。
二人になった座敷で、糸子は静かに言った。
「近藤殿、少し大事な話がございます。まず、座ってくださいまし」
「はい」
「これからお話しすることは……わたくしが今まで、近衛家の外に一切明かしていなかったことでございます」
近藤が、糸子を見た。
「……はい」
「この春から夏にかけて、江戸で広まった井伊直弼についての噂を、ご存知でしょうか」
「はい。道場でも、話の種になっていました」
「あの噂を流したのは——わたくしでございます」
近藤が止まった。
しばらく、動かなかった。
「……姫様が?」
「はい。善次郎、村岡、そして道場の方々を通じた形で——いくつもの経路から、同時に流しました。すべて間を置いた形で、近衛家の名が出ないように、細心の注意を払いながら…」
近藤が、しばらく黙っていた。
その沈黙は、驚きからくるものだったが、揺らぎではなかった。
「……なんとなく、そのような気はしておりました」
「やはり」
「すべての時期が、合っておりましたので。しかし、確証はありませんでした」
糸子が言った。
「なぜ今頃に打ち明けるのか? と、お思いですか」
「……はい。今頃に、なぜ?」
「井伊直弼は、近衛家の影すら掴んでおりません。また、これからも掴ませません。しかし、わたくしは一切油断致しませぬ。井伊は今回のことで、犯人を相当恨んでおります。今後、必ず何かをしてきます。だから近藤殿に、今、お話しをしているのです」
近藤が頷いた。
「一つだけ、お聞かせ願えますか」
「はい、なんでしょう?」
「なぜ姫様は、あのような振る舞いを取られたのですか?」
糸子が、少し間を置いた後、答えた。
「理不尽な訳で処罰される方々を、一人でも少なくするためでございます」
「理不尽な処罰、とは」
「あの井伊直弼という人物は、独善的な人間です。そのような人間が大老という権を持てば、邪魔者、邪魔になりそうな者、自分に反対する者、逆らう者を、次々に排除するでしょう。あらゆる手を使って。そしてそれを見せしめとして、さらなる権を固めようとするでしょう。だから——先に動きました」
「姫様は、それほど先を読まれていたのですか」
近藤が、静かに言った。
「この近藤は、姫様の守護者でございます。姫様が最良と思うことをなさってください。どんなことがあっても、旭狼衛が全力で、姫様と、この近衛家をお守りいたします」
糸子は少し間を置いた後、頭を下げた。
「御厚情に、深く感謝申し上げます」
近藤が驚いた。
糸子が頭を下げることは、極めて珍しかった。
「姫様、頭をお上げください」
「いいえ。わたくしが判じたことで、近藤殿たちに危うさが及ぶかもしれません。その危うさを、正直にお伝えしなければなりませんでした。それが遅くなったことを、お詫び致しまする」
「……旭狼衛は、始めからそういう集団です」
近藤が言った。
「危うさも含めて、守護することを選んだ者たちです。姫様のお詫びは——かたじけないですが、要りません」
十 対策を考える
「直弼が、犯人を探している」
糸子が続けた。
「善次郎の文に、いくつもの経路から少しずつ違う中身の話が出ているとあります。これは囮を使って、知らせの流れを追いかけようとしているものでございます」
「囮の話、ということですか」
「はい。少し違う中身の話を、別々の経路に流して——その話がどのように広まるかを見る。どこかで話が合流すれば、そこが知らせを集める仕掛けのある場所だと判じられまする」
近藤が考えた。
「それは——善次郎殿が引っかかるかもしれませんか」
「はい。だから、善次郎に今すぐ文を送りましょう。中身は、『しばらく、彦根藩の関わりの者からの話は、一切取り上げないように』ということでございます。引っかかりそうな話が来ても、聞き流すよう伝えます」
「村岡殿には?」
「御所の内の話については、さとを通じて同じことを伝えまする。ご公儀の関わりの者から不自然な話が来た時は、すぐに知らせるようにと…」
「道場については?」
「道場に入ってくる新しい者については、当面、警戒を高めてくださいまし。直弼が追いかけるために、道場に近づく者を送り込むかもしれません」
近藤が頷いた。
「分かりました。永倉と斎藤に、新しい入門者への応対を厳しくするよう伝えます」
「よろしゅう、お頼み申し上げます」
「もう一つございます」
糸子が続けた。
「天朝物産会所の商いの経路についても、ひとまず整えまする。直弼が商いを通じて追いかけようとした時、経路が入り組みすぎれば、手がかりを掴めませぬ。逆に単純すぎれば、分かってしまいましょう。ほどよい入り組み方を保つ要がありまする」
「それは、姫様が直に見られますか」
「はい。この件については、善次郎と二人だけで動きまする。余計な者を挟みませぬ」
十一 直弼の囮作戦の状況
その頃、江戸では、直弼の囮作戦が動き始めていた。
長野義言が、慎重にいくつもの経路を通じて、少しずつ違う中身の「囮の話」を流した。
「大老殿が、某幕臣との接触を検討しているとのこと」——これが第一の囮の話だった。
「大老殿が、御所の特定の公家との対話を求めているとのこと」——これが第二の囮の話だった。
「大老殿が、異国の通詞を独自に召し抱えようとしているとのこと」——これが第三の囮の話だった。
それぞれ、少しずつ違う経路を通じて流した。
そして——それぞれの話がどのように広まるかを、彦根藩の者が追いかけ始めた。
しかし、問題があった。
善次郎が引っかからなかった。
御所の周りが引っかからなかった。
道場から出ていかなかった。
追いかけた結果、話が広まるのは、すべて「ふつうの商人の口伝え」の経路だった。
どこかに特定の集める仕掛けがある、という証が出てこなかった。
長野が、直弼に報告した。
「殿、今の時点では——いずれの囮の話も、特定の仕掛けに引っかかった形跡がありません」
「まだ時が足りないのか、それとも——相手も察している」
「どちらかは、判じられません」
直弼が、窓の外を見た。
秋の空が高かった。
「相手は、賢いな…」
直弼が、静かに言った。
「動きを止めた。あるいは、動きの質を変えた。どちらにしても——こちらの追いかけを知っているか、あるいは、勘で察している」
「では、どうされますか」
「続ける。時期を変えて、中身を変えて、経路を変えて、続ける。必ず尻尾を出す瞬間がある」
「長い戦いになりますね」
「構わない。わたしには時がある」
十二 糸子の分析
京の近衛家では、糸子が帳面に向かっていた。
秋の午後の光が、座敷に差し込んでいた。
糸子は、直弼の動きについて、見立てを書いていた。
「直弼が囮の話を使って、追いかけを試みている。しかし今のところ、こちらの仕掛けには引っかかっていない。訳は、以下の通り」
「第一に、善次郎に前もって警告を伝えた。善次郎は、彦根藩の関わりの者からの不自然な話を、取り上げていない」
「第二に、御所の内の経路についても、さとを通じて警告が届いている」
「第三に、道場の警戒を強めている。新しい入門者への応対が、厳しくなっている」
「この三つが働いている間は、直弼の追いかけは空振りに終わる」
糸子は少し考えた後、続けた。
「しかし——長い目で見れば、どこかに綻びが生じるかもしれない。直弼は、長い戦いを覚悟している。こちらも、同じ覚悟が要る」
「直弼が追いかけている間に、こちらがすべきことがある」
糸子が、次の頁を開いた。
「ハリスとの談判の備えを、速める。直弼の気が犯人探しに向いている今が——こちらにとって、動きやすい時期だ」
「英語の習熟を、さらに高める。万次郎との実際の対話を増やす。堀田様との知らせの道を保つ。旭狼衛の、江戸へ動く体制を整える」
「直弼を見ながら、しかし直弼に気を取られすぎない。この国には、直弼の他にも、動かさなければならない物事がある」
糸子は、筆を置いた。
十三 旭狼衛の現状
京の試衛館では、この頃から、新しい稽古が始まっていた。
近藤が主導した稽古だ。
「今日から、江戸での警護を見込んだ動きを稽古する」
道場に集まった十五名が、近藤の言葉を聞いた。
「江戸は、京と地の形が違う。街の造りが違う。人の動きが違う。その違いに応じられなければ、江戸での守護はできない」
永倉新八が聞いた。
「江戸での警護は、いつ頃になりますか」
「具体の時期は分からない。しかし、姫様がいずれ江戸に行く要が生じることは、ほぼ確かだ」
「それは、なぜですか」
「条約の談判の問題があるからだ。詳しいことは今は言えないが、姫様が異国の方と対話する要が生じた時、その場は、江戸か下田になる」
「御簾越しで、異国の方と」
「そうだ。姫様は英語を学んでいる。その訳を考えれば、自ずと答えが出る」
近藤が、全員を見た。
「旭狼衛の役目は、剣で戦うことではなく、姫様が動ける場を整えることだ。姫様が言葉で戦える場所に、無事に辿り着けるよう——そして戦いを終えた後、無事に帰ってこられるよう——それが、俺たちの仕事だ」
道場に、静かな空気が流れた。
沖田総司が言った。
「姫様が言葉で戦う——格好いいですね」
土方歳三が言った。
「格好いい、で済む話ではない。姫様が言葉で戦っている間、俺たちは外で戦っているかもしれない」
「え、刀を使いますか」
「悪くすれば、そうなる。だから、今から備える」
近藤が頷いた。
「その通りだ。姫様が言葉で戦い、俺たちが剣で守る。それが、これからの旭狼衛の形だ」
江戸に詳しい者を三名加えるため、近藤はすでに動いていた。
一人は江戸の深川の出で、江戸の地理に明るい者。
一人は神奈川の宿の近くの生まれで、江戸の海辺の様子を知っている者。
一人はご公儀の末端に仕えていた者で、江戸城の周りの動きに詳しい者。
この三名を加えることで、旭狼衛は、江戸での働きに応じられる体制に近づいていた。
十四 直弼と糸子、それぞれの夜
秋の終わりが、近づいていた。
江戸の彦根藩邸では、直弼が一人で書院に座っていた。
囮作戦は続いていたが、手がかりが掴めなかった。
直弼は、茶を入れていた。
茶の湯は、直弼にとって最も落ち着ける時だった。
埋木舎での不遇の十五年、直弼を支えたのは茶の湯だった。一期一会の精神。この一瞬を、生涯に一度の機会として、誠実に向き合う。
今、直弼はその精神を、犯人探しに向けていた。
「必ず見つける…」
茶を飲みながら、直弼は思った。
「この一会に、必ず決着をつける」
一方、京の近衛家では、糸子が縁側に出ていた。
秋の夜の空に、星が多く出ていた。
御所の木々が、風に揺れていた。葉が落ち始めていた。
「直弼は、追ってくる」
糸子は星を見ながら思った。
「しかし——今は、追ってこれない。こちらが先手を打ったから」
「その間に、次の手を進める」
「英語の仕上げ。万次郎との最後の稽古。堀田様との知らせの確かめ。旭狼衛の、江戸への備え」
「すべてが、一点に向かっている」
糸子は、少し深く息を吸った。
秋の夜の空気は、冷たかった。しかし、澄んでいた。
「来年が……本番だ」
縁側から戻った。
帳面を開いた。
やるべきことは、まだたくさんあった。
近衛家の灯りが、秋の夜に温かく灯り続けていた。
第三十五話 了
【人物解説】井伊直弼という、時代の矢面に立った男
井伊直弼という名前を聞くと、まず「安政の大獄」が浮かぶ人は多いだろう。
吉田松陰を処刑し、一橋派を弾圧し、最後には桜田門外で暗殺された大老。幕末史では、どうしてもそんな姿が先に出てくる。
けれど、直弼という人物は、それだけではない。
むしろ政治の表舞台に出るまでの人生を知ると、この人がずいぶん違って見えてくる。
文化十二年(一八一五)、彦根藩主・井伊直中の十四男として生まれた。
十四男である。
兄たちが健在なら、藩主になる可能性などほとんどない。十七歳から三十二歳まで、直弼は「埋木舎」と自ら名づけた屋敷で、部屋住みの生活を送った。
この名前が、いかにも直弼らしい。
世に出ることなく、土の中に埋もれた木のように生きる。
ところが、その十五年間を、彼は無為に過ごしたわけではなかった。
茶の湯を学び、和歌を詠み、能や狂言をたしなみ、国学を学び、居合にも打ち込んだ。茶道では石州流に一派を立て、居合では新心新流を創始するほどになった。『茶湯一会集』も、この時代に積み重ねた茶の湯への深い探究の結晶である。
後に広く知られる「一期一会」という言葉も、直弼が『茶湯一会集』で茶の湯の心得として示したものだった。
つまり、幕末政治を血なまぐさいものにした人物の若き日は、茶室と書物と武芸の中にあった。
周囲から「チャカポン」と呼ばれたのも、この多芸ぶりからである。
茶、歌、鼓。
政治とは縁のないところで、ひたすら自分を磨いていた。
ところが人生は、そこで終わらなかった。
兄たちが相次いで亡くなり、直弼は三十五歳で彦根藩主となる。
そこからの展開は急だ。
それまで埋もれていた男が、彦根藩を背負う立場になり、さらに幕府政治の中心へ入っていく。そして安政五年(一八五八)、大老に就任した。
このとき日本は、もう「昔のまま」ではいられなかった。
ペリー来航以来、外国船が日本近海に姿を見せ、清国はアヘン戦争でイギリスに敗れていた。
直弼は、その現実をかなり切実に見ていた。
実際、日米修好通商条約を結んだ直後、前内大臣の三条実万に宛てた書簡で、清国が敗れた二の舞を日本が踏んではならないという趣旨を書いている。少なくとも、単純に「外国が怖いから開国した」という人物ではない。
一方で、朝廷の勅許を得ないまま条約調印に踏み切った。
ここは直弼を語るうえで避けて通れない。
幕府としては、外国との交渉をこれ以上引き延ばすことが危険だった。
しかし、天皇の許可を得ないまま条約を結んだことで、朝廷や水戸藩、一橋派などとの対立は一気に深まった。
将軍継嗣問題も重なっている。
直弼は徳川慶福、後の十四代将軍・家茂を支持し、一橋慶喜を推す勢力と対立した。そこへ条約問題まで加わったことで、幕府内部の政治対立は抜き差しならないところまで進んでいった。
そして始まったのが、安政の大獄である。
直弼は反対派に対して厳しい処分を次々と下した。
大名や公卿にも処分を加え、吉田松陰や橋本左内らも命を落とした。
これは、いくら「国家を守るためだった」と説明しても消えるものではない。
直弼は、反対する者を説得して政治をまとめるより、幕府の権威を守るために処罰する道を選んだ。
その強硬さが、後世の「井伊の赤鬼」というイメージにつながっていく。
ただ、ここで直弼を単純な独裁者として片づけてしまうと、やはり何かが抜け落ちる。
彼自身は、自分が好き勝手に政治を動かしているつもりではなかったのだろう。
幕府には幕府の責任がある。
国家の危機に直面した以上、決めるべきことは決めなければならない。
そう考えていたからこそ、反対を押し切ってでも決断した。
そこに直弼の怖さがある。
そして同時に、彼の悲劇もある。
政治というものは、正しいと思って決断すれば、それで結果がついてくるほど単純ではない。
条約を結べば反発が起こる。
反発を抑えれば、さらに恨みが積み重なる。
その恨みが、最後には自分自身へ向かってくる。
安政七年(一八六〇)三月三日。
雪の降る朝、直弼は江戸城へ向かっていた。
桜田門外で、水戸藩を脱藩した浪士らの襲撃を受ける。
直弼は駕籠の中で銃撃され、その後、斬り殺された。
四十五歳。
幕府の最高権力者として日本の進路を決めようとしていた男が、わずか二年足らずでその生涯を終えた。
皮肉なのは、その最期だけではない。
直弼は若いころ、埋木舎で「世に出ない人生」を受け入れるように暮らしていた。
ところが、運命に押し出されるように藩主となり、やがて日本の命運を左右する大老になった。
そして最後には、その決断によって生まれた激しい政治対立の真ん中で命を奪われる。
一人の人間の人生として見ると、あまりにも激しい。
私は、井伊直弼を「開国の英雄」とも「冷酷な独裁者」とも、一言では片づけたくない。
茶室で一期一会を説き、和歌や居合を究めた文化人であり、国家の危機を前に決断した政治家でもあった。その一方で、自らが信じる幕府の秩序を守るため、反対者に苛烈な処分を下した権力者でもある。
この三つの顔は、別々の人間ではない。
すべて同じ井伊直弼である。
直弼の死後も、日本は動き続けた。幕府はさらに追い詰められ、やがて明治維新へ向かっていく。
直弼自身は、その先を見ることができなかった。
けれど、彼が生きた時代には、もう従来の幕府政治だけでは解決できない問題が押し寄せていた。その嵐の中で、直弼は自分の信じる道を選び、政治の矢面に立った。
その判断が正しかったのか、間違っていたのか。
簡単には決められない。
ただ、彼が背負ったものの重さは、後世の私たちにも想像できる。
「井伊の赤鬼」という呼び名だけでは、その人生は語り尽くせない。
埋木舎で世に出ない人生を覚悟していた青年が、幕府の命運を左右する大老となり、その決断の果てに桜田門外で倒れた。
それが、井伊直弼という男だった。




