第三十三話「噂の津波と腹黒姫」
一
五月の京は、緑が濃かった。
御所の周りの木々が深い翠を持ち、風が渡るたびに葉が揺れて、光が散らばった。朝の空気は澄んでいて、どこか甘い草の匂いが混じっていた。蝉の声はまだないが、鶯がどこかで鳴いていた。
糸子は縁側で、その緑を眺めながら茶を飲んでいた。
平和な朝だった。
お梅が、新しい茶を持ってきた。
「姫様、善次郎殿からの文が届いておりますよ」
「おおきに、ありがとう」
文を受け取って開いた。
糸子はその文を、ゆっくりと読み始めた。
最初の行を読んで、少し目が大きくなった。
次の行を読んで、もう少し大きくなった。
半分まで読んで、糸子は茶を置いた。
最後まで読んで、糸子はしばらく、文を持ったまま動かなかった。
二
善次郎の文には、こう書かれていた。
『姫君様、先日ご報告した件について、続報がございます。井伊直弼様についての噂が、姫君様がご存知の中身を大きく超えて広まっております。最初にご報告した中身に加えて、新たな噂が次々と加わっています』
『新たな噂の中身は、以下の通りです。彦根藩がご公儀の勝手から、不当に利を得ているという話。井伊様が南紀派の後ろ盾として、異国と裏で取引をしているという話。大老として、一橋派だけでなく、意見を述べた全ての藩士や幕臣まで粛清するという話。御所の公家を処罰する企てがあるという話。異人を江戸に招き入れるために、江戸の某所に秘密の屋敷を用意しているという話。メリケン以外の国とも裏で取引をしているという話。日本に不利な約定を結んだ後、メリケンに守られて日本を出るという話——』
糸子はそこまで読んで、少し止まった。
「日本を脱出する?」
その部分を読み直した。
これは、糸子が流した噂ではない。
善次郎の文が続いた。
『これらの噂は、わたくしが最初にお伝えした話とは、別の方向から出てきたものです。出所を探りましたが、いくつもの独立した経路から同時に出ているようで、誰が最初に言い出したか、まったく分かりません。また、噂は江戸だけにとどまらず、大坂、京、名古屋、仙台、薩摩、長州——各地の商人の伝手を通じて、日本全土に広まっています。姫君様のご存知ない新しい噂については、わたくしも出所がまったく分からず、困っております』
糸子は文を置いた。
緑の葉が、風に揺れていた。
光が散らばった。
縁側に座ったまま、糸子はしばらく動かなかった。
そして——
「……うけけけっ」
小さな黒い笑い声が、静かな朝の空気に溶けていった。
そこにはひっそりと…腹黒い公家の姫君がいた。
三
糸子は茶を一口飲んだ。
温かい茶の味がした。
「わたくしが仕掛けた噂が、わたくしの知らない噂を、次々と引き連れてきている」
これは、思いの外だった。
しかし考えてみれば、当然のことだ。
最初に「井伊直弼は問題のある人物だ」という空気を作れば——あとは人々が、自分で続きを作り始める。
人は噂が好きだ。しかも「悪い人物」についての噂は、次々と新しい「悪いこと」を付け加えながら広がっていく。
糸子は帳面を開いた。
「四月二十三日は、何事もなく過ぎた。井伊直弼は、まだ大老になっていない。」
「わたくしが蒔いた種は、三種類だった。大老就任の動き、処罰の企て、異国との関わり。しかし今、それが八種類以上の噂になって、日本全土を走っている」
「これは——わたくしの工作を、大きく超えた出来事だ」
「井伊直弼の悪評は、もはや独りでに広がっている。わたくしが何もしなくても、人々が自分で噂を育てている…」
糸子は少し考えた後、書いた。
「もはや、この井伊というおっさんは、わたくしの敵にしかなりえない。史実の安政の大獄で、理不尽に処罰を受ける人を、一人でも減らしたい。弱っている相手には、さらに踏みつけてトドメを刺すくらいでないとダメだ。やるならば徹底的に。情けをかければ、相手は息を吹き返してしまう…」
書いた後、糸子はお茶を飲みながら、ほほ笑んだ。
縁側に座る糸子の姿は、どこからどう見ても、上品な公家のお姫様だった。
四 江戸の様子
五月の江戸は、暑さが始まる季節だった。
日本橋の大通りから神田、浅草、深川——街のどこへ行っても、同じ話が聞こえてきた。
魚河岸では、魚を売る声の合間に、噂が飛び交った。
「彦根の殿様、日本を売り渡して逃げるって本当かい」
「本当かどうかは知らないが、そういう話があちこちで出ているぞ」
「秘密の屋敷まで用意しているとか」
「御所の公家様まで処罰するって話は、本当に怖い」
「いくらなんでも、御門様に近い方々まで処罰するなんて——」
神田の小料理屋では、浪人たちが声を高めていた。
「これほどの処罰の企てがあるとは、信じられん」
「しかし、名前まで出ているとなれば——」
「徳川斉昭公、松平春嶽公、山内豊信公——これほどの方々が、対象に入っているとは」
「許せん話だ」
「御所の方々まで——三条実万卿まで、処罰の対象とは」
「近衛家の方が?」
「そういう名前が出ているとのことで」
その一言が、浪人たちの間に沈黙を生んだ。
五 処罰対象として名前が挙がった人々の反応
徳川斉昭(前水戸藩主)
駒込の屋敷に、その噂は家臣を通じて届いた。
「殿、江戸で——このような話が広まっております」
家臣が、噂の中身を伝えた。
斉昭は、しばらく黙っていた。
「……処罰の対象に、余の名が」
「はい。最初から挙がっております」
斉昭が立ち上がった。
「これは——ただの噂ではない。誰かが、この国の行く先を案じて動いている」
「殿、それはどういう意味でしょうか」
「誰が流したか分からない噂が、これほど正確に名を挙げている。偶然ではない。誰かが知っている。そして、警告を発している」
斉昭が、窓の外を見た。
「余は——警戒を高める。慎重に動く」
岩瀬忠震(幕臣)
岩瀬忠震は、同僚からその噂を聞いた時、最初は笑った。
「そのような話が? 荒唐無稽だな」
しかし同じ話を、三人目の人間から聞いた時、笑えなくなった。
「……同じ話が、これほど多くの方向から来るとは」
岩瀬は帰宅後、書物を閉じて考えた。
「処罰の対象に、私の名がある。しかし私は、大老に逆らったことはない。——いや、待て。私は異国の事情について、ご公儀の内で正直な意見を述べてきた。それが、逆らったと見なされるかもしれないのか?」
岩瀬は次の日から、言動に細心の注意を払い始めた。
川路聖謨(幕臣)
川路聖謨は、その噂を聞いて、一言だけ言った。
「整理が要る」
机の前に座って、有り様を見立てた。
「大老就任の動きは、ご公儀の内ではすでに知れ渡った事だ。処罰の企てについては——誰が、これほど具体の名を知っているのか。これは、内の事情を知る者が動いているのかもしれない」
川路は、慎重な人物だった。
「当面は、言動を控える。大老が就いた後の動きを見てから判じる」
三条実万(前内大臣)
三条実万は、噂を聞いた時の顔つきが、複雑だった。
「御所の公家まで処罰するとは——」
実万は攘夷の立場から、井伊に逆らう立場だった。しかし処罰されることは、本人も覚悟の上だった。
ただし——名がこれほど早く噂として出回っていることには、驚いた。
「誰がこれを知っておるのだ」
実万は、近衛家の姫君の噂を思い出した。五摂家の姫でありながら商いをし、御所の内にも外にも、妙に耳が早いという。
糸子が——あの姫が——何か動かしているのだろうか。
しかし、証はない。
「……警戒しておくにこしたことはない」
山内豊信(土佐藩主)
屋敷で噂を聞いた山内豊信は、まず確かめた。
「この話の出所は」
「分かりません。いくつもの方向から、同時に出ているとのことで」
「いくつもの方向から、同時に——」
豊信が考えた。
「これは、組んだ動きだ。しかし誰が——薩摩か? 水戸か?」
「突き止められておりません」
「処罰の対象として、わたしの名が出ているとすれば——井伊が大老になれば、一橋派として、わたしも無事ではすまないかもしれない」
豊信は、一橋派の立場を取っていた。
「動きを見張る。江戸に、急ぎ人を送れ」
松平春嶽(福井藩主)
松平春嶽は、噂を聞いた時、最も冷静に見立てた。
「処罰の対象として名が挙がっている者の名簿を見ると——これは、処罰の規模の大きさを、前もって示しているようにも見える」
家老が、不思議そうな顔をした。
「一体、誰がこのようなものを…」
「まだ起きていない出来事だ。しかし、この噂が正確であれば——かなりの規模の処罰が企てられているとみていいだろう」
「誰が、これほど正確な知らせを持っているのでしょうか」
春嶽が少し考えた後、言った。
「……心当たりのある方向が、一つある。しかし、確証はない」
春嶽は、少し前に京の広橋家を通じて届いた、遠回しな警告の文を思い出した。その文の向こうに、ある公家の家の影が、見え隠れしていた。もしかすれば、この噂も——
「橋本左内を呼んでくれ。急いで、彼に会いたい」
安島帯刀(水戸藩家老)
安島帯刀は、自分の名が処罰の対象として噂に出ていると聞いて、驚いた。
「なぜ、俺の名が」
水戸藩の家老として、安島は一橋派を支える立場にあった。しかし、それほど表立って動いたわけではない。
「誰が、これほど細かいことを知っているのだ」
安島は、内に知らせの漏れがあると疑い始めた。
六 第二陣の噂
五月が終わり、六月に入った。
糸子は、新たな文を善次郎に送った。
今度は、さらに具体の名の並びを、「某筋から入った知らせ」として流した。
一橋慶喜、徳川慶勝、伊達宗城、堀田正睦、本郷泰固、松平春嶽——
そして、処刑・獄死が企てられている者の名まで含めた。
鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰——
これらが、「粛清の企ての第二の名簿」として、江戸中に流れた。
反応は、第一陣の比ではなかった。
七 第二陣への各地の反応
一橋慶喜
一橋慶喜は、自分の名が処罰の対象として噂に出ていると聞いた時、侍従に言った。
「出所を探れ」
「はい」
「どこから来た話か、分かるか」
「いくつもの方向から同時に出ているとのことで、出所が突き止められません」
慶喜が黙った。
「いくつもの方向から同時に——これは、かなり組んで動いている者がいる」
「一橋派が自ら流した、という見込みは?」
「一橋派が、これほどの規模で動けるとは思えない。何より——余たちが知らない名まで含まれている。橋本左内、吉田松陰——彼らが処罰の対象になるとは、余も知らなかった」
慶喜が考えた。
「……誰かが、我々の知らない知らせを持っておる。それを使って、警告を発している」
「どこからの警告でしょうか」
「分からない。しかし——この警告に従って、動きを慎重にすることが最善だ」
堀田正睦(老中首座)
堀田正睦は、自分の名が噂の名簿に入っていると知った時、書物を静かに閉じた。
「……わたくしの名まで」
老中の立場として、堀田はこの噂の重さを、誰より正確に分かっていた。
「これは——誰が仕組んだのか」
部下に調べを命じた。しかし報告は、「出所不明」だった。
「いくつもの独立した経路から、同時に出ている」
堀田が考えた。
そして——ふと、一つのことを思い出した。
京の近衛家…
御簾の向こうの声。
「先を見通す姫が、江戸の動きを案じている」と感じた時の、あの感覚。
まさか——
いや、あの姫が、江戸でこれほど大きな流言を——
しかし。
「……まさかな」
堀田は首を振った。
しかし、その「まさか」が、すっかりは消えなかった。
橋本左内(越前福井藩士)
橋本左内は、処刑の対象として自分の名が出ていると聞いた時、松平春嶽に直に確かめに行った。
「殿、この噂の出所は、お分かりになりますか」
「分からない。しかし——」
春嶽が少し考えた後、言った。
「左内、当面は、言動を極めて慎重にしなさい。この噂が何らかの形で正確であれば——」
「正確であれば、わたくしは処刑されるということですか」
「噂がすべて事実になるとは限らない。しかし、備えはしておくべきだ」
橋本左内は、松平春嶽の部屋を出た後、空を見た。
夏の青い空だった。
左内は、何かを感じた。
「……誰かが、我々を助けようとしている」
吉田松陰(長州藩士)
吉田松陰は萩の松下村塾で、弟子からその噂を聞いた。
「自分の名が、処刑の名簿に?」
「はい。江戸だけでなく、長州にも同じ噂が届いています」
松陰が少し考えた後、言った。
「誰かが、この国の危うさを正確に掴んで、警告を発している」
「どのような方でしょうか」
「分からない。しかし——この噂が正確だとすれば、わたくしは処刑される。しかし」
松陰が立ち上がった。
「それでも、すべきことはある。弟子たちを守ること。思想を伝えること。それだけだ」
八 ハリスへの到達
六月の下田、玉泉寺のアメリカ総領事館。
タウンゼント・ハリスは、書物を読んでいた。そこに、通訳のヒュースケンが入ってきた。
「Mr. Harris, there’s something you should know.」
(ハリス総領事、お伝えしたいことがあります)
「What is it, Heusken?」
(何だ、ヒュースケン)
「There are rumors spreading across Japan about Lord Ii Naosuke. The rumors say that he is taking bribes from America, that he plans to sell Japan to foreign powers, and then escape to America himself.」
(井伊直弼殿についての噂が、日本全土に広まっています。アメリカから賄賂を受け取っている、外国に日本を売り渡す企てがあり、その後アメリカに逃げる、という話です)
ハリスが本を閉じた。
「Bribes from America?」
(アメリカからの賄賂?)
「Yes. And the rumors also include lists of people he plans to punish. Very specific names.」
(はい。それから、処罰する人物の名簿も含まれています。非常に具体的な名が)
「Where are these rumors coming from?」
(どこから出た話だ)
「That’s the strange part. Multiple independent sources, all at the same time. No one can identify the origin.」
(それが奇妙なところで。いくつもの独立した出所から、同時に出ています。誰も出所を突き止められません)
ハリスが、しばらく考えた。
「Someone is trying to destabilize Lord Ii before he becomes the Regent.」
(誰かが、井伊殿が大老になる前に、その足場を崩そうとしている)
「Who would have that kind of reach? This is happening all over Japan.」
(これほどの力を持つのは誰でしょう。日本全土で起きているのですよ)
「I don’t know. But it’s sophisticated. Very sophisticated.」
(分からない。しかし——これは巧妙だ。非常に巧妙だ)
ハリスが立ち上がった。
「Heusken, find out who is behind this. It matters for our negotiations.」
(ヒュースケン、誰がこの背後にいるか調べろ。談判に響く)
「I’ll try. But so far, there are no leads at all.」
(やってみます。しかし今のところ、手がかりがまったくありません)
ハリスが、窓の外を見た。
下田の湾に、西洋の船が浮かんでいた。
「Someone in Japan knows too much. Too specific. Too accurate.」
(日本に、知り過ぎている者がいる。あまりに具体的で、あまりに正確だ)
「Could it be a Japanese who has Western knowledge?」
(西洋の知識を持つ日本人でしょうか?)
「Possibly. Or someone with connections to multiple power centers.」
(そうかもしれない。あるいは、いくつもの力の中枢に繋がりを持つ者か)
ハリスが、小さく呟いた。
「Whoever it is... they are dangerous.」
(誰であれ——危険な人物だ)
九 井伊直弼の部屋
六月の彦根藩江戸藩邸の書院。
井伊直弼は机の前に座っていたが、その机の上には何もなかった。
書物を読む気になれなかった。
茶も、飲む気になれなかった。
「どうして、こうなる」
直弼が呟いた。
「私が、何をしたのだ」
家老が、部屋に入ってきた。
「殿、新たな報告があります…」
「また噂か」
「はい。今度は——処罰の対象の、第二の名簿が出回っているとのことです」
直弼が、家老を見た。
「第二の名簿?」
「はい。一橋慶喜様、徳川慶勝様、伊達宗城様——それから、処刑・獄死の予定の者として、橋本左内、吉田松陰の名まで含まれているとのことです」
「吉田松陰——」
直弼が立ち上がった。
「私が、その者を知っているというのか?」
「長州藩の志士で、松下村塾を開いている者です」
「私が処刑するとは——どこから、そのような話が出るのだ!」
声が上がった。
家老が縮んだ。
直弼が、机を拳で叩いた。
「出所は! 犯人は! 誰が流しているのだ!」
「それが——まったく手がかりがございません。いくつもの独立した経路から、同時に出ているため——」
「いくつもの独立した経路! それは、すでに何度目だ!」
直弼が、部屋を歩き始めた。
往き来を繰り返した。
「これほどの規模で、これほど具体の知らせを、これほど速く日本全土に広められるのは——どのような組だ」
「……ご公儀の内に、知らせの漏れがあるやもしれませぬ」
「調べろ! 全員調べろ! 家臣の一人一人まで! 徹底的に!!」
「はい」
「御所と繋がりのある者も調べろ。薩摩との繋がりも。水戸との繋がりも」
「御意」
「それから——」
直弼が立ち止まった。
「これほどの噂が出回っている中で、大老に就けば——」
家老が、息を呑んだ。
「就けば、何でございましょうか」
直弼が、少し間を置いた後、言った。
「……今は言わん。下がれ」
家老が下がった後、直弼は一人で部屋に残った。
「……全く、洒落にもならん」
前回と同じ言葉が出た。
しかし今回は、前回より遥かに重かった。
前回は、江戸の噂だった。
今回は、日本全土の噂だ。
そして——処罰する予定のない者の名まで出ている。
「私は、吉田松陰という者を処刑するつもりはない。橋本左内という者も、今の段では——」
直弼は、窓の外を見た。
初夏の緑が濃かった。
「誰かが——私の考えを、先読みしている…とでも言うのか?」
その感覚は、直弼の背筋を冷たくした。
十 坂本龍馬と勝海舟の反応
江戸の勝海舟の屋敷の近くで、坂本龍馬が噂を聞いたのは、夏の暑い日だった。
「勝先生、あの噂を聞いちょった?」
「聞いた」
「彦根の井伊様の話やけんど——処罰の名簿に名前が出ちゅう方々が、まっこと大勢おるねぇ」
「ああ」
勝が、茶を飲みながら言った。
「で、龍馬、お前はどう思う」
「わしは正直、誰がこじゃんと正確な知らせを持ちゆうんか、それが一番気になっちゅうがよ」
「そうだな。吉田松陰の名まで出ているが、松陰が大老に処刑される理由は、今の段では薄い。しかし、噂が先に出ることで——」
「松陰先生が、警戒しちゅう」
「そうだ。警戒すれば、振る舞いが変わる。振る舞いが変われば——処刑の口実が消えるかもしれない」
龍馬が、膝を打った。
「これは——警告やね。誰かが、お仕置きを受けることになる人らぁを守ろうとして、先に噂を流しちゅうがよ」
「そういうことだ」
「誰が?」
勝が、しばらく考えた後、言った。
「……心当たりのある方向は、一つある。しかし、確証はない」
「どこながですか?」
「それは、今は言わん。しかし——龍馬、これだけ言っておく」
勝が、龍馬を見た。
「この国には、お前が思っているより先を読んでいる人間がいる。そしてその人間は——刀ではなく、言葉と知らせで動いている」
「……こじゃんと、かっこええねぇ」
「かっこいいかどうかは分からん。しかし——危ない橋を渡っている」
十一 横井小楠と村田蔵六と万次郎の反応
横井小楠は、招かれて移ったばかりの福井で噂を聞いた時、弟子に言った。
「これは、浮説を流布した戦だ」
「浮説を流布した戦、とは何ですか、先生」
「言葉と噂を武器にして、相手の振る舞いを縛ろうとしている。誰かが——とても賢い誰かが——大老就任を阻むか、その後の振る舞いを縛ろうとしている」
「どのような人物でしょうか」
「推し量りだが——ご公儀でも、薩摩でも、水戸でもない誰かだ。そのどこにも属さない立場から、動いている者がいる」
小楠が、しばらく考えた後、微笑んだ。
「公議というものは、こういう形で動くこともあるのかもしれない」
村田蔵六は、京で噂を聞いた時、静かに見立てた。
「処罰の名簿の正確さが、高すぎる。これは——先を知っている者か、ご公儀の最も奥に繋がっている者の仕業だ」
そして村田は、一つの見込みに思い当たった。
「……もしかして」
しかし村田は、その考えを声に出さなかった。
万次郎は、京の宿で噂を聞いた時、少しだけ笑った。
「Someone is fighting back with words instead of swords.」
(誰かが、刀の代わりに、言葉で戦っている)
そして万次郎は、御簾の向こうから英語で返事が来た時のことを思い出した。
「……姫様」
万次郎は確信した。しかし、何も言わなかった。
十二 糸子の縁側
六月の京、近衛家の縁側。
糸子は茶を飲みながら、庭を眺めていた。
紫陽花が咲き始めていた。青と紫が混じった色が、夏の初めを告げていた。
善次郎から、新しい文が来ていた。
噂が日本全土に広まり、処罰の対象として名が挙がった方々が警戒し始めていること。ハリスが出所の調べを命じているが、手がかりがないこと。井伊直弼が、家臣の全員を調べるよう命じていること。
糸子は文を読み終えて、丁寧に畳んだ。
帳面を開く気にはなれなかった。
なぜなら——もはや、すっかり「他人事」になっていたからだ。
自分が仕掛けたことは、すでに自分の手を離れていた。
噂は、独りでに動いている。人々が、自分で育てている。
糸子にできることは、もう何もない。
あとは——流れを見ることだけだ。
「良い紫陽花ですね」
糸子は、庭に向かって呟いた。
すっかり他人事として言った言葉だった。
…実に平和で、のどかな時が、糸子の周りには流れていた。
十三 土方の観察
その日の夕刻、土方歳三は、縁側の外から糸子の様子を見ていた。
糸子は庭の紫陽花を眺めながら、穏やかに茶を飲んでいた。
その横顔は、誰が見ても、上品な公家のお姫様だった。
しかし土方は、その穏やかさの下に、何かがあると感じていた。
近頃の糸子には、「知っていても、何も言わない」という空気があった。
江戸の噂については、一切何も言わない。
しかし、善次郎からの文が来るたびに、少し満足そうな気配がある。
土方は考えた。
最初の、「うけけけけ」という笑い声。
あの笑い声は、公家の姫がする笑い声ではなかった。
あの後から、江戸で噂が広まり始めた。
処罰の名簿には、余りにも具体的すぎる名が含まれていた。
出所は、いくつもの独立した経路から同時に出ていて、誰も突き止められない。
土方の頭の中で、一つの考えが形になった。
「……まさかな」
呟いた。
しかし、その「まさか」が消えなかった。
「この姫は——」
土方は、目を細めた。
「言葉で人を——噂で敵を、動けなくすることまでできるのか」
しばらく、土方は縁側の外から、糸子の横顔を見ていた。
糸子は気づいていないようで、紫陽花を眺め続けていた。
土方は心の中で、静かに誓った。
「……この姫の敵には、絶対にならない」
それだけではなかった。
「絶対にならないどころか——なっちゃいけない」
刀で人を斬ることは、怖くなかった。
しかし、この姫が敵に回った時に何をするかは——想像しただけで、土方は背筋が寒くなった。
「……俺たちは、この姫の味方でいる。守護者でいるまでだ。それが最善で、最良だ」
土方は、夜番の場所に戻った。
縁側では、糸子が紫陽花を眺めながら、どこからどう見ても何も知らない公家のお姫様の顔で、静かに茶を飲んでいた。
その下にある腹黒さを、誰にも知られずに隠しながら…
第三十三話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
少しでも楽しんでもらえたら、下のブックマークや星(☆☆☆☆☆)をぽちっと押して応援してもらえると嬉しいです。次の話を書く元気がモリモリ湧いてきます!




