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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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32/50

第三十一話「堀田正睦、上洛する」

 安政五年の春が来た。

 京の春は、一夜で変わる。

 昨日まで枯れ枝だった木が、朝目覚めると薄緑の芽を出している。御所の周囲の桜が、まず一輪、次に三輪と花を開き始める頃になると、街全体の空気が変わる。

 冬の底冷えが少しずつ溶けて、代わりに何か柔らかいものが空に満ちてくる。

 しかし糸子の頭の中には、その春の柔らかさとは全く別のものがあった。

 堀田正睦が上洛する。

 それが今年の最初の、そして最も重要な動きだ。

 善次郎からの文に、日程が書いてあった。三月の初め。幕府の老中首座として、孝明天皇への勅許交渉のために京に来る。

 史実では、この上洛は失敗に終わる。

 廷臣八十八卿列参事件——攘夷派の公家たちが連署して勅許に反対する——という出来事が起き、御門様も強硬に拒否する。堀田は手ぶらで江戸に帰る。

 その失敗が、井伊直弼の大老就任への道を開く。

 糸子には完全な失敗を防ぐ力はない。

 しかし「失敗の質」を変えることはできるかもしれない。

 完全な拒否ではなく、「条件付きの可能性」という種を、この上洛の中に蒔くことができれば——後の交渉において、その種が芽を出す可能性がある。

 糸子は帳面を開いた。

 今回の上洛で達成すべきことを、整理し始めた。


 二月の末、糸子は御門様との御前を求めた。

 さとが手配してくれた。

 御所への道は、春の予感に包まれていた。梅が散り、桃の花が開き始めていた。薄いピンクの花が、早朝の光を受けてかすかに輝いていた。

 近藤と山南が護衛として同行した。

「近藤殿、今日は少し長い御前になるかもしれませぬ」

「承知仕りました」

「御所の外でお待ちいただくことになりまするが…」

「問題ありません。天気も良いですし」

「……寒くないですか?、この時期は」

「姫様がご心配になることではございませぬ。お気持ちだけありがたく」

 近藤が穏やかに言った。

 糸子は少し笑って、御所の門をくぐった。


 小部屋に通された。

 御門様の気配が、今日は少し違っていた。

 何か張り詰めたものがあった。

「面を上げよ」

「はい」

「堀田が来るの」

「はい。三月の初めに上洛されると聞いておりまする」

「朕は会わなければならぬか」

「……はい。御門様と堀田様の対話が、今後の条約交渉の行方を大きく左右しましょう」

「朕は会いたくない」

 御門様が率直に言った。

「会えば、勅許を出せと言われる。朕は出したくない。しかし出さなければ、幕府が勝手に動く。どちらに転んでも、朕の望む方向にはならぬ」

「御門様…」

「何じゃ」

「一つだけ申し上げてよろしいしゅうございますか」

「申せ」

「堀田様に会った時、単純な拒否ではなく——『この条件があれば検討の余地がある』という言葉を示していただくことはできませんでしょうか?」

「条件は分かっておる。そなたと一緒に決めた三つじゃ」

「左様でございます。その条件を、堀田様に示していただきたい。完全な勅許ではなくていいのでございます。『この条件が満たされれば、検討する…』というお言葉が、後の交渉において非常に大切な意味を持ちまする」

御門様がしばらく黙った。

「……それは、朕が勅許を出す可能性を残すということじゃ」

「はい」

「朕は勅許を出したくない」

「今すぐ出す必要はございませぬ。条件が満たされた時に検討する——それだけで十分でございます」

「その言葉が、後でどう使われるか分からぬ」

「はい。しかし今のように完全に拒否するだけでは——」

「幕府が勝手に動く」

「その通りでございます。御門様が条件を示せば、幕府は御門様の条件を満たすように動く動機が生まれまする。満たせなくても、満たそうとした記録が残りましょう。その記録が、後の交渉において意味を持ちまする」

 御門様が長い間黙っていた。

 御所の中は静かだった。遠くで鳥の声がした。春の鳥だった。

「……朕は、この国が軽んじられることが嫌いじゃ」

「はい」

「外国に対等に扱われることを望んでいる」

「はい」

「その気持ちは、条件付きの言葉を示すことと矛盾しないか」

「矛盾致しません。対等に扱われるための条件を示すことは、対等を求める行動でございます」

御門様がゆっくりと頷いた。

「……あい分かった。堀田が来たら、条件を示そう。しかし」

「はい」

「朕の名前は使うな」

「はい、必ず守りましょう」

「そして——条件が満たされなければ、朕は認めぬ。それも堀田に伝えよ」

「はい。必ずお伝え致しまする」


 御前から帰った翌日、糸子は万次郎を呼んだ。

 万次郎は今、天朝物産会所の顧問という名目で京都に滞在していた。これは糸子が善次郎を通じて手配した。蕃書調所への届け出としては「近畿地方での語学教育の実情調査」という名目だ。

「万次郎殿、一つご相談がありまする」

「なんでしょう、姫様」

「堀田正睦様が上洛されまする。わたくしは堀田様との対話の機会を得ております。その対話において、万次郎殿に同席していただきたいのです」

万次郎が少し困った顔をした。

「……それは、少し難しい問題があります」

「どのような?」

「わたくしは幕府の人間です。堀田様が老中首座として上洛されている間、わたくしが近衛家に同席するということは——幕府の内部の人間が、朝廷側の対話に参加するということになります」

「問題になりましょうや?」

「堀田様次第です。堀田様がどのようにお感じになるかによります」

糸子が少し考えた後、言った。

「では、このような形はいかがでしょう。万次郎殿は、近衛家の語学顧問として同席される。堀田様への直接の発言は最初はなさらない。なれど対話の場にいていただくことで、必要な時に万次郎殿のお知恵を借りられまする…」

「……堀田様が私の存在に気づいた時、問題になりませんか」

「なるかもしれませぬ。しかしその時は正直に説明いたしましょう。天朝物産会所の顧問として、英語と西洋事情のご助言をいただいている、と」

「堀田様がご納得されるかどうか」

「堀田様は蘭癖とも言われる開明的な方でございます。西洋事情に通じた人物が朝廷側にいることを、全面的に拒否されるとは思いませぬ」

万次郎が少し考えた後、頷いた。

「……分かりました。ただし、何かまずいことになりそうだと感じたら、すぐに引きます」

「はい。それで十分でございます」


 三月の初め、堀田正睦が京に入った。

 その日の京は晴れていた。しかし山の方から吹いてくる風はまだ冷たく、春と冬が綱引きをしているような天気だった。

 堀田が近衛家を訪ねてきたのは、上洛の翌日だった。

 御所への正式な参内の前に、近衛家への挨拶という形を取った。

 堀田が邸内に入ってきた時、近藤が門で迎えた。

 堀田は前回の訪問を覚えていた。

「近衛家の守護の方ですね」

「はい。近藤勇と申します」

「前回もお見かけしました。農家の出身でしたか」

「はい」

「しかし今は武士の格式を持っている」

「御門様のお言葉と、阿部正弘様のお力添えをいただきました」

堀田が少し目を細めた。

「阿部殿が関わっておられたのですか」

「はい。阿部様は去年お亡くなりになりましたが——われわれの格式を認めてくださった恩人です」

「……そうか」

堀田がしばらく黙って、邸の中を見た。

「近衛家は、変わっている」

「どのように変わっていると思われますか」

「農家出身の剣士が守護をしている。商売をしている。英語を学んでいる」

近藤が静かに言った。

「変わっているかもしれません。しかし、それは全て必要なことだと思っています。姫様が必要だと判断されたことを、われわれはやっています」

「その姫様は、今日もおられるのか」

「はい。お待ちです」


 座敷に通された堀田は、前回と同じ場所に座った。

 御簾が下がっていた。忠房が表で迎えた。

 そして——前回とは一つだけ違うものがあった。

 座敷の隅に、一人の人物が控えていた。

 堀田はその人物を見た。

 見た瞬間に、動きが止まった。

「……そなたは!?」

 思わず声が出た。

 控えていた人物が、頭を下げた。

「中浜万次郎と申します」

「万次郎!? なぜここに!?」

「天朝物産会所の顧問として、英語と西洋事情の助言をさせていただいております」

「天朝物産会所の……」

堀田が御簾の方を見た。

御簾の内から、糸子の声がした。

「堀田様、驚かせてしまい申し訳ございませぬ。万次郎殿には昨年から、近衛家の語学教育の顧問をお願いしてございます」

「しかしなぜ万次郎が——」

「ハリスという人物を、書物で学ぶだけでは理解できないと思いましてございます。アメリカで実際に暮らした方から直接話を聞くことが必要だと判断致しました」

堀田がしばらく黙った。

表情が複雑だった。

驚きと、何か別のものが混じっていた。

「……蕃書調所への届け出は?」

「語学教育の実情調査という名目でございます。幕府への正式な届け出は、万次郎殿のご上司である頭取様を通じて行っておりまする」

「それは——」

「問題がありましょうや?」

堀田が少し考えた後、静かに言った。

「……いや。問題はありません。しかし」

「はい」

「近衛家は、随分と先を読んでいらっしゃる…」

「読んでいなければ間に合いませぬので」


 茶が運ばれた。

 堀田がまず万次郎に聞いた。

「万次郎、お前はここで何を学んでいる」

「姫君様から、相互主義という考え方について教えていただきました」

「相互主義を、姫君様から?」

「はい。わたくしがアメリカで体験で学んだことを、姫君様は書物と論理で到達しておられました。その共通の到達点から、交渉の論理を整理する作業をご一緒させていただいています」

「……逆ではないのか。お前が姫君様に教えるのではないのか?」

「最初はそのつもりで来ました。しかし実際には、わたくしが教わることの方が多い」

堀田が御簾の方を見た。

「姫君様、率直にお聞き致します」

「なんでしょう」

「万次郎をここに呼んだ本当の目的は何なのですか?」

「二つありまする」

糸子が答えた。

「一つは、英語の実践相手でございます。書物で学んだ英語と、実際に使われる英語には差がありまする。その差を埋めるために、万次郎殿に来ていただきました」

「もう一つは…」

「ハリスという人物の具体的な思考を知るためにございます。万次郎殿はメリケンで長く暮らし、様々なメリケン人と接してきました。ハリスがどのような価値観を持ち、何を重視し、どのような論理に弱いか——それを知ることが、交渉の準備に直接役立ちましょう」

堀田が少し考えた後、万次郎に向いた。

「万次郎、ハリスはどのような人物だ」

万次郎が答えた。

「頭の切れる方です。国際法を知っていて、交渉の技術も持っている。しかし——」

「しかし?」

「日本を少し軽く見ています。日本側が英語で反論してくるとは思っていない。日本側が国際法を知っているとは思っていない。その前提が崩れれば、ハリスの交渉戦略は大きく変わります」

「崩れるとはどういう意味だ?」

「御簾の内から英語で反論が来れば、ハリスは最初の想定を完全に外れます。そして——」

「そして?」

「ハリスは急いでいます。本国からの圧力が強い。急いでいる相手は、想定外のことが起きた時に、より大きく動揺します」

堀田が御簾の方を見た。

「姫君様、万次郎の言っていることは——」

「はい」

「そなたが英語でハリスに反論するという話ですね」

「交渉の場に、天朝外語御用掛として同席することを、御門様から正式に任じていただいておりまする。その立場から、御門様のご意向を英語でも伝えることは、お役目として正当でございます」

堀田がしばらく黙った。

その沈黙は、前回の訪問の時と同じ種類の沈黙だった。

何かを決めようとしている沈黙だ。

「……姫君様、一つお聞きします」

「はい」

「そなたは今、わたくしに何をしてほしいのですか?」


「三つお願いがありまする」

糸子が答えた。

「まず一つ目。御門様との対話において、御門様が条件付きの可能性を示されたとしたら——その言葉を正確に持ち帰っていただきたいと思うております」

「条件付きの可能性とは?」

「御門様は完全な勅許を今すぐ出されるとは思いませぬ。なれど、三つの条件——相互主義、関税の自主権、金銀の適正交換——これらが満たされれば検討の余地があるとおっしゃっていただける可能性がございます。その言葉を正確に持ち帰り、ハリスとの交渉においてその条件を目標として持っていただきたいのでございます」

「二つ目は」

「将来の改正条項を、条約の文書に入れることでございます。ハリスとの交渉で、すべての条件を今すぐ実現することは難しいかもしれませぬ。なれど将来の改正のための出口として、『両国の合意により条項を見直すことができる』という文言を入れることは——ハリスが受け入れる可能性がありまする」

「なぜハリスが受け入れると思うのですか?」

「万次郎殿の分析では、ハリスは急いでおります。今すぐ調印したい。将来の改正条項という出口があれば、ハリスは今すぐ調印できる。その出口を、日本側の利益のために使うことができましょう」

堀田が万次郎を見た。

「万次郎、それは本当か?」

「はい。ハリスは本国に成果を持ち帰らなければならない。条約に調印することが第一目標です。条件が少し違っても、調印できれば成功とみなされる。だから将来の改正条項は——ハリスの成功の邪魔をしない形での、日本側の権利の確保をするのです」

「三つ目は何ですか」

糸子が続けた。

「金銀の比率問題について、具体的な数字を交渉に持ち込むことでございます。日本の金銀比率と国際市場の比率の差——その差によって引き起こされている金の流出の規模を、数字として示すことでございます」

「その数字は持っているのですか」

「わたくしに協力くださっている横浜の商館から収集した記録がありまする。実光様が法的な根拠を整理してくださっております。必要であれば、その資料をご提供できましょう」

堀田が腕を組んだ。

「……そなたが言う三つのことは、いずれも理にかなっておられますな」

「しかし堀田様のお立場では、難しい部分がありましょうや?」

「…ある」

堀田が率直に言った。

「将来の改正条項と金銀比率の問題——これはハリスとの交渉において提示できる可能性がある。しかし幕府の内部で、これを通すためには——」

「堀田様のご決断が必要でございます」

堀田が糸子を見た。

正確には、御簾の方を見た。

「……姫君様は、幕府の内部事情も把握しておられるのか」

「必要な範囲で」

「どこから情報を?」

「わたくしに協力してくださっている方々が江戸に拠点を持っております。また島津斉彬様との情報共有もございます」

「斉彬殿とも?」

「はい。大凡二年くらい前からになりまするが…」

堀田が静かに言った。

「斉彬殿も、近衛家と繋がっておられたか」

「情報の共有という形で、でございます」

「……この国には、わたしの知らないところで、随分と大きな動きがあるものだな」

堀田が少し笑った。

その笑いは、皮肉ではなく、何か認める笑いだった。


「堀田様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」

「何でしょう?」

「堀田様は、この国がどうなることを望んでおられますか」

堀田が少し驚いた顔をした。

「直接的な問いですな」

「直接的に聞かないと、直接的な答えをいただけないものと思いましたので…」

堀田がしばらく考えた後、答えた。

「この国が、外国と対等に付き合えるようになることを望んでおります」

「対等に?」

「はい。今の条約は対等ではない。わたしにはそれが分かっている。しかし今すぐ対等にすることはできないとも考えております。ならば——将来対等になれる道を作ることが、今わたくしにできることだと思っています」

「それはわたくしの願いと同じことでございまする」

「同じ、でしたか」

「はい。今すぐ完全に対等にすることはできないかもしれない。なれど将来の道を作ることはできましょう。将来の改正条項は、その道の一つでございます」

堀田が頷いた。

「分かりました。やってみせましょう」

「恐れ入りまする」

「ただし」

堀田が続けた。

「御門様の勅許が得られない可能性は高い。攘夷派公家の反対は強い。御門様ご自身も強硬な攘夷論者です」

「はい、分かっております」

「それでも、姫君様は御門様に条件付きの言葉を示させようとしている。なぜだ?」

「完全な拒否と、条件付きの可能性では——後に残るものが違いまする」

「どう違うと?」

「完全な拒否は、それで終わりでございます。なれど条件付きの可能性は、記録として残りましょう。その記録が、後の交渉において根拠になりまする。今日蒔く種が、十年後に芽を出す可能性がありましょう」

堀田がしばらく糸子を見た。

「……おいくつになられる?」

「十一歳になりまする」

「十一歳が、十年後のことを考えているのか…」

「考えなければ、間に合わないことがありましょう」

堀田が静かに笑った。

「そうですな。わたくしが若い頃には、十年後のことなど考えていなかった」

「堀田様、今からでも遅くはないと思いまする」

「……その言葉は、なかなか手厳しいですな」

万次郎が隅で、小さく笑っていた。


 堀田が帰った後、座敷に残った万次郎が言った。

「姫様、堀田様は動かれると思いますか」

「動かれると思いまする」

「その根拠は」

「最後の表情でございます。何かを決めたお顔をされておりました」

万次郎が少し考えた後、言った。

「堀田様は誠実な方だと感じました」

「はい。誠実で、現実的で、開明的。この三つが揃っている方です。なれど——」

「しかし?」

「幕府の構造の中に生きている方でもありまする。その構造が、堀田様の動きに制約を与えましょう」

「井伊直弼の問題ですか」

糸子は少し間を置いた後、答えた。

「はい。堀田様が上洛している間に、江戸では別の動きが起きる可能性がありまする」

「どのような動きでしょうか」

「南紀派が動く可能性がありまする。大老職を求める動きが…」

「井伊直弼が——」

「はい。堀田様がここで時間をかけている間に、江戸では堀田様の足元が変わっているかもしれませぬ」

万次郎が静かに言った。

「それを分かっていて、堀田様に対話を求めたのですか」

「はい。時間がないからこそ、この対話が最後の機会になるかもしれませぬ」

万次郎が御簾の方を見た。

「……姫様は、それでも諦めていないのですね」

「諦めてはおりません。なれどできることとできないことの区別はしております。できることをすべてやって、できなかったことは次の手で補う。それだけでございます」


十一

 三月の中頃、堀田が御所に参内した。

 糸子はさとを通じて、その日の御門様との対話の経緯を翌日に聞いた。

「御門様は、条件付きの言葉をお示しになりました」

 さとが静かに言った。

「どのようなお言葉でしたか」

「『三つの条件が満たされれば、検討の余地がある』とおっしゃいました。直接の勅許ではありませんが、可能性を否定されませんでした」

「攘夷派公家の反対は」

「強かったです。廷臣の多くが連署して反対しておりました。御門様も、最終的には勅許を出されなかった」

「やはり」

「なれど——」

さとが続けた。

「堀田様のお顔が、最後に少し変わっておりました。御門様の言葉——『条件が満たされれば検討の余地がある』——その言葉を、しっかりと受け取られた様子でした」

「ありがたく存じます、さと」

「姫様が事前に整えてくださった言葉が、御門様から出ました。わたくしにも、それが分かりました」

糸子は静かに頷いた。

史実通り、勅許は出なかった。

しかし完全な拒否ではなかった。

「条件付きの可能性」という種が、蒔かれた。


十二

 堀田が江戸に帰る前日、もう一度近衛家を訪れた。

 正式な挨拶という形だったが、実質は最後の対話だった。

「姫君様、御門様から条件付きの言葉をいただきました」

「さとという者からお聞きしました」

「勅許は得られなかった。それは申し訳なく思っています」

「堀田様のお力の及ぶ範囲ではございませんでした」

「しかし、御門様の言葉は持って帰ります。『三つの条件が満たされれば検討の余地がある』——この言葉を、ハリスとの交渉においてどう使うかは、わたくしが考えます」

「将来の改正条項については」

「交渉に持ち込んでみます。ハリスが受け入れるかどうかは分からない。しかし提示することはできます」

「ありがたく存じます」

「金銀比率の資料も、善次郎殿から受け取りました。これも交渉で使います」

堀田が少し間を置いた後、言った。

「姫君様、一つだけ申し上げます」

「はい」

「万次郎のことです」

「はい」

「江戸に帰れば、万次郎が近衛家に来ていたことを知る者が出るかもしれない。幕府の人間が朝廷側の対話に参加したという批判が出る可能性があります」

「その場合、どうなりましょうか」

「最悪の場合、万次郎の立場が危うくなります」

「……」

「しかし」

堀田が続けた。「万次郎がここで何をしたかを、わたくしは見ました。語学の顧問として、西洋事情の助言として——これは天朝物産会所の事業として、幕府への届け出の範囲内の行動です。批判が来ても、わたくしがその解釈で守ります」

糸子は少し驚いた。

「堀田様が、万次郎殿を守ってくださいますか」

「わたくしも開明派です。蘭癖と呼ばれています。西洋の知識を持った人間が朝廷側にいることは、この国全体にとって利益になる。そう思っています」

「かたじけなく存じます」

「お礼を言うことはありません。これはわたしの判断です」


十三

 堀田が帰った後、万次郎が言った。

「堀田様は、思っていたより大きな方でございました」

「…そう感じましたか」

「現実の制約の中で、できる限りのことをしようとしております。その姿が——」

「わたしと似ていると思いましたか?」

万次郎が少し考えた後、笑った。

「はい。ただし——」

「ただし?」

「堀田様はもうじき、江戸で大きな問題に直面されまする。わたくしには見えておりまする」

「井伊直弼の問題ですね」

「はい。堀田様がここで時間を使っている間に、江戸では——」

「分かっています」

糸子が静かに言った。

「それでも、今日の対話は意味がございました。堀田様が『条件付きの可能性』という言葉を持ち帰られた。それが記録として残りましょう。その記録が、後の交渉において生きる可能性がありございます」

「今日蒔いた種が、いつか芽を出す…」

「はい。それがわたくしにできる精一杯でございます」

万次郎が窓の外を見た。

春の京都の空は、高く澄んでいた。

「姫様、一つ申し上げてもよろしいですか」

「なんでしょう」

「わたくしはアメリカで十年近く過ごして、この国に帰ってきました。帰ってから、長い間——自分がここで何をすればいいか、分からない時期がありました」

「そんな時期が?」

「はい。英語を教えることはできる。西洋事情を伝えることはできる。しかしそれが、この国の何に繋がっているのか——見えにくかった」

「今は見えておりますか」

万次郎が御簾の方を見た。

「今日、少し見えました」

「どのように?」

「姫様がしていることの一部として、わたくしの知識が使われました。それが堀田様に届き、御門様の言葉と繋がった。その連鎖の中に、わたくしがいた」

「これからも、その連鎖の中にいてくださいまし」

「はい。そのつもりです」

にこりと笑う万次郎がそこにはいた。


十四

 その夜、近藤が縁側に来た。

「姫様、今日はいかがでしたか」

「やれることはやりました。結果はまだ分かりませぬが…」

「堀田様は、動かれると思いますか」

「動かれると思いまする。ただし——江戸では、別の動きが始まっているかもしれませぬ」

「井伊直弼の件ですか」

「はい」

近藤が少し間を置いた後、言った。

「姫様、一つだけ確認させてください」

「なんでしょう」

「最悪の場合——井伊直弼が大老になり、勅許なしに条約が結ばれたとして——姫様はその後も動き続けますか」

糸子はすぐに答えた。

「はい」

「止まらない?」

「決して止まりません。条約に将来の改正条項が入れば——それを使って次の手を打ちまする。入らなければ、別の方法を考えましょう」

近藤が静かに頷いた。

「では俺たちも、止まりません」

「かたじけなく存じます」

「姫様が動く限り、俺たちは守り続けます。それだけです」

春の夜の京都は、静かだった。

遠くで鶯の声がした。

春の声だった。

しかしその声の向こうに、糸子には嵐の気配が聞こえていた。

堀田が江戸に帰る。

そして——井伊直弼が動く。

今日蒔いた種が、その嵐の中を生き残れるかどうか。

近衛糸子は帳面を開いた。

「堀田様が『条件付きの可能性』の言葉を持ち帰られた。これが今日の最大の成果だ。この記録を残しておく」

「次に来る嵐の中で、この種を守ること。それが次の課題だ…」

筆を置いた。

春の風が縁側を渡った。

梅の花びらが一枚、庭に舞い落ちた。

白い花びらが、春の夜の光の中で静かに地に降りた。


第三十一話 了

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― 新着の感想 ―
島津斉彬様の死去は安政5年7月16日のはずなので、この話の時点ではまだご存命ではないかと。次話ではまだ存命なので整合性を取られたほうが混乱しないでしょう。
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