第三十話「中浜万次郎という人」
一
安政四年の師走が終わり、安政五年の正月が来た。
京の正月は、静かだった。
御所の方角から吹いてくる風は相変わらず冷たかったが、空の青さが少し違っていた。冬の終わりを予感させるような、透明な青さが東の空に広がっていた。
糸子は元旦の朝、縁側に出てその空を見ていた。
今年が本番だ、と思っていた。
去年一年で、準備のほとんどが整った。御門様の三つの条件。堀田正睦との情報経路。村田蔵六との英語の模擬交渉。旭狼衛の体制強化。島津斉彬との情報共有。
しかし一つだけ、まだ足りないと感じているものがあった。
「生きた英語」だ。
村田蔵六の英語は正確だった。しかし村田も、書物から学んだ英語だ。ポンペとの対話は貴重だったが、ポンペはオランダ人で、英語はあくまで第二言語だ。
本物のアメリカ英語を知っている人間と話さなければ、ハリスとの交渉で生きた言葉が使えない。
糸子はその問いを抱えながら、年明けの朝を過ごしていた。
そこに善次郎からの文が届いたのは、正月の五日のことだった。
二
文を開くと、善次郎らしい丁寧な字で書いてあった。
「姫君様、新年おめでとうございます。江戸からご報告があります。先月、蕃書調所に勤める中浜万次郎様という方と知り合いになりました。万次郎様は土佐の出身で、かつて漂流してアメリカに渡り、十年近くを過ごされた後に帰国された方です。今は幕府に旗本として召し抱えられ、英語の指導と西洋事情の講義を担当されています」
「先日、商談の場でたまたまお会いした折に、姫君様のことをお話ししました。近衛家の姫様が英語を学んでおられること、また条約が対等でなければならないという考えをお持ちで、日露和親条約を先例として使おうとされていることを申し上げました」
「万次郎様は最初、信じておられませんでした。しかしお話を続けるうちに、表情が変わられました。しばらく黙っておられた後、『その方に会えないだろうか』とおっしゃいました」
糸子は文を持ったまま、少し動きを止めた。
中浜万次郎。愛称: 「ジョン万次郎(John Manjiro)」
前世の歴史知識の中に、その名前はある。
土佐の漁師の子として生まれ、漂流してアメリカに渡り、ホイットフィールド船長に拾われて教育を受けた。アメリカで鯨漁に従事し、ゴールドラッシュに参加し、日本への帰国のために資金を貯めた。
帰国後は幕府に登用されたが、「アメリカに近すぎる」という疑念を持つ幕臣もおり、正式な交渉の場には出されなかった。
しかしこの人物が持っている「本物のアメリカ」の知識は、糸子が今最も必要としているものだ。
糸子はすぐに善次郎への返書を書いた。
「万次郎殿のご来訪を歓迎します。日程の調整をお願い致します。ただし、万次郎殿には事前に一つだけお伝えください。近衛家は五摂家の筆頭です。対話は御簾越しになりますが、内容のあるお話ができると申し上げてください」
三
二月の初め、梅の花が咲き始めた頃、善次郎が万次郎を連れて京都に来た。
京都の梅は早い。御所の周囲の梅が、白い花を開いていた。
冬の残りと春の予感が混ざり合った空気の中を、二人は近衛家に向かった。
近藤が門で二人を迎えた。
万次郎の姿を見た時、近藤は少し驚いた。
想像していた人物と、少し違った。
漁師の出身で、アメリカに渡ったという話から、もっと野性的な雰囲気の人間を想像していた。しかし目の前の万次郎は、旗本らしい落ち着いた装いをしながら、しかしその目に何か強いものを持っていた。
遠くを見ている目だ、と近藤は思った。
遠い海の向こうを見てきた人間の目だと…
四
座敷に通された万次郎は、最初に部屋の作りを一度だけ見た。
御簾が下がっていた。
その向こうに気配がある。
善次郎が隣に座っていた。実光も同席していた。村田蔵六も来ていた。
「中浜万次郎殿、ようこそ近衛家へいらしゃいました」
御簾の内から声がした。
万次郎は少し驚いた。
思っていた声と違った。
公家の姫の声というものを万次郎は聞いたことがなかったが、もっと細く、もっと儚い声を想像していた。しかし御簾の向こうの声は、穏やかだが芯があった。
「此度は遠路、誠に有り難き幸せに存じます。御簾越しで失礼ですが、どうぞ楽になさってくださいまし」
「……はい。お招きいただき、光栄です」
万次郎が答えた。
しばらく、最初の挨拶と世間話が続いた。
旅の様子。京都の寒さ。善次郎との出会い。
万次郎は話しながら、御簾の向こうの気配を感じていた。
静かだが、集中している。
何かを待っている。
糸子が言った。
「万次郎殿、一つ確認させてくださいな」
「はい」
「英語で話してもよしゅうございますか」
万次郎が止まった。
「……英語で、ですか」
「はい。わたくしの英語の水準がどの程度なのか、ご確認していただきたいと思うております」
万次郎は少し考えた後、英語で言った。
「Good morning. My name is Nakahama Manjiro. I am honored to meet you.」
(おはようございます。私は中浜万次郎と申します。お会いできて光栄です)
御簾の内から、英語で返事が来た。
「Good morning, Mr. Nakahama. I am Konoe Itoko. I have been studying English for about two years. Please correct me if I make any mistakes.」
(おはようございます、中浜殿。近衛糸子と申します。英語を学んで約二年になります。間違いがあればご指摘ください)
万次郎は固まった。
「御簾の向こうから英語が来た」という事実が、しばらく頭の中で処理されなかった。
村田蔵六が隣でかすかに笑っていた。
五
万次郎が体制を立て直した。
「Your English is very clear. Where did you learn?」
(英語がとても明瞭です。どこで学ばれましたか)
「I learned from Mr. Murata Zoro, who studied Dutch and English from books and Western scholars. But I know my pronunciation might be too formal.」
(村田蔵六殿に教わりました。書物と西洋の学者から学ばれた方です。ただ、発音が少し堅すぎるかもしれないと思っています)
万次郎が少し前に乗り出した。
「Your pronunciation is very correct. Almost too correct, actually.」
(発音はとても正確です。正確すぎるくらい、と言った方がいいかもしれません)
「Too correct? Is that a problem?」
(正確すぎる? それは問題ですか)
「It depends. When speaking with a formal diplomat, it's perfect. But when you want to catch the natural rhythm of conversation, it can sound a little stiff.」
(場合によります。正式な外交官と話す時は完璧です。しかし会話の自然なリズムを掴みたい時には、少し堅く聞こえるかもしれない)
御簾の内でわずかに動く気配があった。
「Can you show me what you mean? How would a real American say the same thing naturally?」
(どういう意味か見本を見せてもらえますか? 本物のアメリカ人なら同じことをどう自然に言いますか)
万次郎が少し笑った。
「Sure. For example, instead of saying 'I would like to understand your position,' an American might say 'I'd really like to get where you're coming from.'」
(いいですよ。例えば『あなたの立場を理解したいと思います』と言う代わりに、アメリカ人なら『あなたの言いたいことが本当に分かりたい』という感じで言います)
糸子が繰り返した。
「I'd really like to get where you're coming from.」
(あなたの言いたいことが本当に分かりたい)
「Good. But try to relax the rhythm a little more——」
(いいですね。ただリズムをもう少しリラックスさせて——)
「Like this? 'I'd really like to get where you're coming from.'」
(こうですか?「あなたの言いたいことが本当に分かりたい」)
万次郎がしばらく黙った。
「……Honestly, that's already better than most Americans. You don't need to change anything.」
(……正直に言うと、もうほとんどのアメリカ人より上手いです。何も変える必要はないかもしれません)
御簾の内から、小さく満足した気配がした。
村田蔵六が小声で実光に言った。
「姫様がご満足されています」
「声で分かりまするか」
「二年間毎週聞いておりますから」
六
本題に入った。
糸子が日本語で言った。
「万次郎殿、今日来ていただいたのは、英語の発音の確認だけではございません」
「はい、それは分かっています」
「善次郎から聞かれたことについて、教えていただきたいことがあります」
「対等ということですね」
「はい。ただし、その前に一つお聞きしたい。善次郎から聞いた話の中で、万次郎殿が反応されたのはどの部分でしたか」
万次郎がしばらく考えた後、答えた。
「日露和親条約を先例として使う、という部分です」
「なぜその部分に反応されましたでしょうか」
「……アメリカで学んだことの中に、相互主義という考え方があります」
万次郎が続けた。
「アメリカは建国の精神として、すべての人間は平等だと言っています。しかし実際には——」
万次郎が少し間を置いた。
「実際には、その精神が守られていないことがある。しかしその精神は本物です。アメリカ人の中に、その精神を本当に信じている人間がいる」
「その精神を、日本との条約に求めることは——アメリカの論理として正しい、とお考えでしょうか」
「はい。ホイットフィールド船長という方がわたくしを拾ってくれました。彼はわたくしを対等な人間として扱ってくれた。アメリカにはそういう人間がいる。その人たちに届く論理です」
「しかしハリスは?」
万次郎の顔が少し変わった。
「ハリスは——」
七
「ハリスという人物について、教えていただけますでしょうか」
糸子が言った。
「Can you tell me about Harris? What kind of man is he?」
(ハリスはどのような人物ですか)
英語で聞いたのは意図的だった。
日本語で話す時より、万次郎が率直に話せると思ったからだ。
万次郎が英語で答えた。
「Harris is intelligent. Very intelligent. He knows international law, he knows trade, he knows how to negotiate. But——」
(ハリスは頭が切れます。非常に。国際法を知っていて、貿易を知っていて、交渉の方法を知っている。しかし——)
「But?」
(しかし?)
「He underestimates Japan. He believes Japan cannot argue back in English. He believes Japan doesn't know international law. That assumption is his biggest weakness.」
(日本を軽く見ています。日本側が英語で反論してくるとは思っていない。日本が国際法を知っているとは思っていない。その思い込みが、ハリスの最大の弱点です)
糸子が少し間を置いた。
「And if Japan argues back in English, using international law——」
(そして日本が英語で、国際法を使って反論したら——)
「He won't know what to do. His entire strategy is built on the assumption that Japan will be confused and passive. If that assumption breaks——」
(何をすればいいか分からなくなります。彼の戦略全体が、日本が混乱して受け身になるという前提で組み立てられている。その前提が崩れれば——)
「His strategy collapses.」
(戦略が崩れます)
「Yes. Exactly.」
(はい、その通りです)
万次郎が、御簾の方を見た。
「御簾の向こうの十一歳の姫が、今この分析を静かに受け取っている」という事実が、万次郎に不思議な感覚を与えた。
八
茶が運ばれた。
しばらく、話が緩やかな時間を持った。
糸子が改まった様子で言った。
「万次郎殿、一つ全く別のことをお聞きしてよろしいですか」
「はい」
「メリケンという国のことです。ただし、表向きの話ではなく——ある部分について」
「どのような部分ですか」
「書物で読んだことがあります。メリケンの先住民族の方々について」
万次郎の顔が変わった。
糸子が続けた。
「白人の入植者たちが、数百年かけてその方々に何をしてきたか——病の持ち込みによる人口の激減、土地の強制的な奪取、涙の旅路と呼ばれる強制移住、バッファローの意図的な乱獲による生活基盤の破壊、文字の読めない方々に不利な契約書に署名をさせた欺瞞——これらのことを書物で読みました」
「……はい」
「万次郎殿はその事実をご存知でしたか。そしてメリケンにいた時、それをどのようにお感じになりましたか」
万次郎が少し長い間、黙った。
座敷の外では、梅の木が冬の風に揺れていた。白い花弁が一枚、庭に落ちた。
「……知っていました」
万次郎がゆっくりと言った。
「アメリカにいた時、西部の方向に行くことがありました。そこで見たものがあります」
「何を見ましたか」
「かつて先住民族の方々が住んでいた土地に、白人の農場が広がっていました。先住民族の方々は、遠くに見える丘の向こうの保留地に追いやられていた。その丘の向こうで、何が起きているのか——わたくしには直接見ることができませんでした。しかし、話として聞きました」
万次郎が続けた。
「ホイットフィールド船長は良い人でした。わたくしを本当に対等に扱ってくれた。しかし、その船長でさえ——先住民族の方々への扱いについて話す時は、何かを見ないようにしていた」
「見ないようにしていた、とは」
「見えているのに、見ていないふりをする——あの感覚です。善意の人間でも、自分の社会が作った構造の中に生きている。その構造が何をしてきたかを直視することは、その善意の人間にとっても難しい」
糸子は静かに聞いていた。
「メリケンは自由と平等を建国の理念にしています。それは本物だと思いますか」
「……本物だと思います」
「しかし、先住民族への扱いと矛盾しています」
「矛盾しています。その矛盾を——アメリカ人の多くは今もきちんと向き合っていない?」
「万次郎殿は、その矛盾についてどうお感じになりましたか」
万次郎がまた少しの間黙った。
「怒りを感じました」
「怒り?」
「はい。しかしその怒りは、アメリカ全体への怒りではありませんでした。良い人間がいることは知っていた。その良い人間たちが、なぜその矛盾を直視できないのか——その部分への怒りです」
糸子が静かに言った。
「理念と現実の差です」
「その通りです」
「自由と平等を言いながら、それを一部の人間にしか適用しない。その差が——」
「その差が、条約においても表れます」
万次郎が言った。
「メリケンは相互主義という概念を知っています。しかし日本との条約で、それを適用しようとしなかった。なぜかといえば——日本を、先住民族と同じように見ていた部分があるからでございましょう」
「対等な相手ではなく、教化すべき相手として…」
「はい」
「しかしわたくしが英語で、国際法を引用して反論すれば——」
「その見方が崩れます」
万次郎が続けた。
「姫様、一つ申し上げます」
「はい」
「先住民族の方々は、英語を知らなかった。法律を知らなかった。文字の読めない方も多かった。だから欺瞞的な契約書に署名をさせられた」
「はい」
「姫様は英語を知っている。国際法を知っている。その差が——」
「同じことを繰り返させない、最初の壁になりましょう」
「その通りです」
九
糸子は少し間を置いた後、言った。
「万次郎殿、一つお聞き致します。メリケンにいた十年近くで、あなたが最も大切だと思ったことは何でございましょうか」
「……」
万次郎がしばらく考えた。
「言葉を持つことです」
「言葉を?」
「言語という意味ではありません。自分の考えを、相手に伝えられる言葉を持つことです」
「どういう意味でございましょうか?」
「わたくしが最初にアメリカに着いた時、英語が分かりませんでした。何も言えなかった。何も主張できなかった。人々の善意だけに頼るしかなかった」
万次郎が続けた。
「しかし英語を学んで、自分の考えを言えるようになった時——わたくしは初めて、対等な人間として扱われるようになりました。言葉があれば、主張できる。主張できれば、相手は聞かなければならない。相手が聞けば、対等な関係が生まれる」
「言葉が対等の始まり、ということでありましょうや」
「はい。逆に言えば——言葉を持っていない相手は、どんなに優れた文明を持っていても、対等には扱われない。先住民族の方々がそうでした。言葉の壁があった。その壁が、すべての出発点でした」
糸子は静かに頷いた。
「だからわたくしは英語を学んでおりまする。言葉が対等の始まりですから…」
「姫様が英語を学んでいる理由を、わたくしは善次郎殿から聞きました。しかし今この話を聞いて——」
万次郎が御簾の方を見た。
「わたくしが十年かけて体験で学んだことを、姫様は書物と論理で到達している。そのことが——正直、驚きです」
「書物では限界があります。だから今日、万次郎殿に来ていただきました」
「わたくしに教えられることがあるとすれば——」
「ありましょう。ハリスという人物の具体的な交渉の癖。アメリカの外交官が何を重視し、何を軽視するか。どのような論理に弱いか。それは書物では学べませぬ」
十
話が具体的な交渉の話に移った。
「Let me tell you how Harris thinks. He believes time is on his side.」
(ハリスの考え方をお話しします。彼は時間が自分の味方だと思っています)
「Why?」
(なぜですか?)
「Because he believes Japan will eventually give in. He thinks Japan is afraid of Western military power. So the longer the negotiation goes, the more Japan will panic and accept worse terms.」
(日本はいずれ折れると思っているからです。日本は西洋の軍事力を恐れていると考えている。だから交渉が長引けば長引くほど、日本は焦って悪い条件を飲むと思っている)
「What if Japan doesn't panic?」
(日本が焦らなかったら?)
「Then his entire strategy breaks down. Harris needs Japan to be afraid. If Japan is calm and logical, he doesn't know what to do next.」
(戦略全体が崩れます。ハリスは日本が恐れることを必要としている。日本が冷静で論理的なら、次に何をすればいいか分からなくなる)
「And if Japan uses international law——」
(そして日本が国際法を使ったら——)
「He can't ignore it. He knows international law better than most American diplomats. If you use it correctly, he has to respond to it. He can't just pretend he doesn't understand.」
(無視できません。ハリスはほとんどのアメリカ外交官より国際法をよく知っています。正確に使えば、彼はそれに応答しなければならない。知らないふりはできない)
「So the key is——」
(つまり鍵は——)
「Use what he knows. Use the principles he believes in. Reciprocity. Equal treatment. These are American values. If you demand these things using American logic, he cannot refuse without contradicting his own country's values.」
(彼が知っていることを使うことです。彼が信じている原則を使う。相互主義。平等な扱い。これらはアメリカの価値観です。アメリカの論理を使ってこれらを求めれば、彼は自国の価値観と矛盾することなしに断ることができない)
糸子がしばらく沈黙した。
その沈黙は、考えている時の糸子の沈黙だった。
「That is exactly what I planned to do. But I was not completely sure. Now I am sure.」
(それがまさにわたくしが考えていたことです。しかし完全に確信が持てていなかった。今、確信が持てました)
万次郎が静かに言った。
「You were already there. You just needed confirmation.」
(あなたはもうそこに到達していました。確認が必要だっただけです)
十一
夕刻が近づいてきた。
梅の花が庭に散り、赤い夕の光を受けて白く輝いていた。
万次郎が言った。
「一つ、個人的なことをお聞きしてよいですか」
「なんでございましょう」
「姫様は今、おいくつですか」
「十一歳になりまする」
「……」
万次郎が少し間を置いた。
「わたくしが最初にアメリカの船に拾われた時、十四歳でした。何もできなかった。何も分からなかった。しかし十一歳の姫様が——」
「わたくしにも分からないことはたくさんありますよ」
「しかし分かっていることが、わたくしが十四歳の時より遥かに多い」
「書物のおかげでございます。そして、いろいろな方が教えてくださるおかげでございます」
「書物だけではありません」
万次郎が言った。「先ほどの、先住民族のお話——あれを聞いてわたくしが感じたことをお話しします」
「はい」
「アメリカで十年近く過ごして、わたくしはその問題についてずっと考えてきました。しかし日本に帰ってから、そのことを真剣に話せる相手がいなかった」
「なぜでありましょう?」
「日本にいる人々にとって、先住民族の話は遠い外国の話です。自分たちに関係ないことに見える。しかし姫様は——」
「自分たちに関係あるお話として聞いておりました」
「なぜですか?」
糸子が少し考えてから言った。
「言葉を知らない相手は対等に扱われない、という話として聞いておりました。だから日本も、言葉を知らなければ——同じ扱いを受ける可能性がありましょう。そうならないために、わたくしは英語を学んでいるのでございます」
万次郎がしばらく黙った。
「……その考え方は、わたくしが十年かけて到達したことと同じです」
「同じでございますか」
「はい。言葉を持つことが対等の始まりだということを、わたくしは体験で学びました。姫様は論理で到達された。しかし到達した場所は同じです」
糸子が静かに言った。
「では、同じ場所に立っている者として——これから中浜のお力をお貸しいただけますか」
「……はい」
万次郎が答えた。
その言葉は短かったが、迷いがなかった。
十二
帰り際、万次郎が近藤に声をかけた。
「あなたは近衛家の守護についている方ですか」
「はい。旭狼衛の近藤勇と申します」
「姫様を守っているのですね」
「はい」
「……どのようなお方ですか」
近藤が少し考えた後、答えた。
「言葉で人を動かすお方です。刀より、言葉の方が鋭い」
万次郎が少し笑った。
「アメリカにも、そういう人間はいます。しかし十一歳でそれができる人は——」
「おらぬでしょうな、あちらにも…」
「おりませんね」
万次郎が門の外に出る前に、もう一度振り返った。
「近藤殿」
「はい」
「その姫様を、しっかり守ってください」
「命をかけて」
「……頼みます」
十三
万次郎が帰った後、糸子は帳面を開いた。
今日の対話を記録した。
万次郎が教えてくれたこと。ハリスの思考回路。時間的な圧力を逆用する可能性。相互主義をアメリカの価値観として突きつける論理。
そして——先住民族の話から万次郎が語ったこと。
「言葉を持つことが対等の始まりだ、と万次郎殿は言った。体験から到達した言葉だった。わたくしが前世と今世の知識を合わせて論理として到達したことを、この方は生きることで学んでいた」
「どちらが正しいかではない。同じ場所に立っているということが重要だ」
糸子は最後に書いた。
「準備が整いつつある。しかし——今年はまだ、もっと大きな嵐が来る」
「堀田様の上洛が間もなくある。その後、勅許の問題が動く。そして——」
糸子は筆を止めた。
井伊直弼の名前を書きそうになって、止めた。
書くことが現実になるような気がして。
しかし書かなければ、準備ができない。
糸子は書いた。
「井伊直弼が動く前に、できることをすべてやる」
十四
その夜、縁側で近藤が夜番をしていた。
糸子が近藤に声をかけた。
「近藤殿、万次郎殿はどのようにお感じになりましたか?」
「……不思議な方でした」
「どのように」
「遠くを見ている目をしています。海の向こうを見てきた人間の目だと思いました。しかしその目に、日本への情愛があった」
「日本への情愛?」
「はい。メリケンで長く過ごして、それでも日本に帰ってきた。帰ってきて、日本のために働いている。幕府に疑われながらも、それでも動いている。その理由が、日本を良くしたいという思いからだと感じました」
「近藤殿は人をよく見ますね」
「守るためには、人を見なければなりません」
糸子がしばらく黙った後、言った。
「近藤殿、今年は大きな動きがありましょう」
「はい、分かっています」
「旭狼衛の体制を、さらに整えてくださいまし。江戸への移動に対応できるよう…」
「江戸への移動——いよいよですか」
「いつになるかはまだ分かりませぬ。なれど準備だけはしておく必要がありまする」
「承知仕りました」
近藤が続けた。
「姫様、一つだけ聞かせてください」
「なんでしょうか?」
「今日の万次郎殿との話で、何か変わりましたか」
糸子は少し考えた後、答えた。
「確信が持てました」
「何への確信ですか」
「これまで準備してきたことが、正しかったという確信でございます。相互主義の論理も、法的解釈基準も、御門様の条件も——万次郎殿の話を聞いて、それらが一つの線として繋がった気が致しました」
「その線が、ハリスとの交渉に使える?」
「はい。今まで準備していたものが、バラバラに見えていた部分が……今日、それが一本の線になりました」
近藤が静かに頷いた。
「では俺たちは、その線が使われる場所に、姫様を連れて行きます」
「よしなにお頼み申し上げます」
「合言葉は変わりません」
「命をかけて、でございますね」
「はい」
二月の京都の夜は冷たかった。
しかし梅の花の香りが、かすかに風に混じっていた。
春が来ようとしていた。
そしてその春の先に、この国の形を変えるかもしれない交渉が待っていた。
近衛糸子は帳面を閉じて、明日の準備を考え始めた。
今年は、いよいよ本番だ…
第三十話 了




