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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第三十一話「堀田正睦、上洛する」

一

 安政五年の春が来た。


 京の春は、一夜で変わる。


 昨日まで枯れ枝だった木が、朝目覚めると薄緑の芽を出している。御所の周りの桜が、まず一輪、次に三輪と花を開き始める頃になると、街全体の空気が変わる。


 冬の底冷えが少しずつ溶けて、代わりに何か柔らかいものが、空に満ちてくる。


 しかし糸子の頭の中には、その春の柔らかさとは、まるで別のものがあった。


 堀田正睦が、京に来ている。


 それが今年の最初の、そして何より大きな動きだ。


 堀田正睦が京に入ったのは、二月の五日だった。川路聖謨様、岩瀬忠震様を従え、ご公儀の老中首座として、御門様の勅許を求めるための上洛だ。まずは武家伝奏や議奏の方々に、約定の事情を説いて回っていると聞く。


 史実では、この上洛は失敗に終わる。


 廷臣八十八卿列参事件——攘夷の公家たちが連なって、勅許に反対する——という出来事が起き、御門様も強く拒まれる。堀田は手ぶらで江戸に帰る。


 その失敗が、井伊直弼の大老就任への道を開く。


 糸子には、すっかり失敗を防ぐ力はない。


 しかし「失敗の質」を変えることは、できるかもしれない。


 すっかりの拒否ではなく、「条件付きの見込み」という種を、この上洛の中に蒔くことができれば——後の談判において、その種が芽を出すかもしれない。


 糸子は帳面を開いた。


 この上洛で果たすべきことを、整理し始めた。


二

 二月の末、糸子は御門様との御前を願った。


 さとが手配してくれた。


 御所への道は、春の気配に包まれていた。梅が散り、桃の花が開き始めていた。薄紅の花が、早朝の光を受けて、かすかに輝いていた。


 近藤と山南が、護衛として同行した。


「近藤殿、今日は少し長い御前になるかもしれませぬ」


「承知仕りました」


「御所の外でお待ちいただくことになりまするが…」


「問題ありません。天気も良いですし」


「……寒くないですか? この時期は」


「姫様がご心配になることではございませぬ。お気持ちだけ、ありがたく」


 近藤が穏やかに言った。


 糸子は少し笑って、御所の門をくぐった。


三

 小部屋に通された。


 御門様の気配が、今日は少し違っていた。


 何か、張り詰めたものがあった。


「面を上げよ」


「はい」


「堀田が来ておるの」


「はい。すでに京に入っておられまする」


「朕は、会わねばならぬか」


「……はい。御門様と堀田様のお話が、この先の約定の談判の行方を、大きく左右しましょう」


「朕は会いたくない」


 御門様が、率直に言った。


「会えば、勅許を出せと言われる。朕は出したくない。しかし出さねば、ご公儀が勝手に動く。どちらに転んでも、朕の望む方にはならぬ」


「御門様…」


「何じゃ」


「一つだけ、申し上げてよろしゅうございますか」


「申せ」


「堀田様にお会いになった時、ただ拒まれるのではなく——『この条件があれば、考える余地がある』というお言葉を、お示しいただくことはできませんでしょうか?」


「条件は分かっておる。そなたと一緒に決めた三つじゃ」


「左様でございます。その条件を、堀田様に示していただきたい。すっかりの勅許でなくてよいのでございます。『この条件が満たされれば、考える…』というお言葉が、後の談判において、とても大切な意味を持ちまする」


 御門様が、しばらく黙った。


「……それは、朕が勅許を出す見込みを残す、ということじゃ」


「はい」


「朕は、勅許を出したくない」


「今すぐ出す要はございませぬ。条件が満たされた時に考える——それだけで十分でございます」


「その言葉が、後でどう使われるか分からぬ」


「はい。しかし今のように、すっかり拒まれるだけでは——」


「ご公儀が勝手に動く」


「その通りでございます。御門様が条件をお示しになれば、ご公儀には、御門様の条件を満たすように動く訳が生まれまする。満たせなくても、満たそうとした記録が残りましょう。その記録が、後の談判において意味を持ちまする」


 御門様が、長い間黙っていた。


 御所の中は静かだった。遠くで鳥の声がした。春の鳥だった。


「……朕は、この国が軽んじられることが嫌いじゃ」


「はい」


「異国に、対等に扱われることを望んでいる」


「はい」


「その気持ちは、条件付きの言葉を示すことと、食い違わぬか」


「食い違いませぬ。対等に扱われるための条件を示すことは、対等を求める振る舞いでございます」


 御門様が、ゆっくりと頷いた。


「……あい分かった。堀田に会うたら、条件を示そう。しかし」


「はい」


「朕の名は使うな」


「はい、必ず守りましょう」


「そして——条件が満たされなければ、朕は認めぬ。それも堀田に伝えよ」


「はい。必ずお伝え致しまする」


四

 御前から帰った翌日、糸子は万次郎を呼んだ。


 万次郎は、二月の初めに近衛家を訪れてから、天朝物産会所の相談役という名目で、京に留まっていた。これは糸子が、善次郎を通じて手配した。軍艦操練所への届け出としては、「上方での語学教育の実情調べ」という名目だ。


「万次郎殿、一つご相談がありまする」


「なんでしょう、姫様」


「堀田正睦様が、近く近衛家に来られまする。その対話において、万次郎殿に同席していただきたいのです」


 万次郎が、少し困った顔をした。


「……それは、少し難しいところがあります」


「どのような?」


「わたくしは、ご公儀の人間です。堀田様が老中首座として上洛されている間、わたくしが近衛家の座に同席するということは——ご公儀の内の人間が、朝廷の側の対話に加わる、ということになります」


「障りになりましょうや?」


「堀田様次第です。堀田様が、どうお感じになるかによります」


 糸子が少し考えた後、言った。


「では、このような形はいかがでしょう。万次郎殿は、近衛家の語学の相談役として同席される。堀田様へ直に発言なさるのは、初めは控えていただく。なれど座にいていただくことで、要る時に、万次郎殿のお知恵を借りられまする…」


「……堀田様がわたくしに気づかれた時、障りになりませんか」


「なるかもしれませぬ。しかしその時は、正直に申し上げましょう。天朝物産会所の相談役として、英語と西洋の事情のご助言をいただいている、と」


「堀田様が、ご納得されるかどうか」


「堀田様は、蘭癖とも言われる開明の方でございます。西洋の事情に通じた者が朝廷の側にいることを、すっかり拒まれるとは思いませぬ」


 万次郎が少し考えた後、頷いた。


「……分かりました。ただし、何かまずいことになりそうだと感じたら、すぐに引きます」


「はい。それで十分でございます」


五

 三月の初め、堀田正睦が近衛家を訪ねてきた。


 京に入って、ひと月が経っていた。根回しの合間を縫っての訪いだった。


 その日の京は晴れていた。しかし山の方から吹いてくる風はまだ冷たく、春と冬が綱引きをしているような天気だった。


 堀田が邸内に入ってきた時、近藤が門で迎えた。


 堀田は、前回の訪問を覚えていた。


「近衛家の守護の方ですね」


「はい。近藤勇と申します」


「前回もお見かけしました。農家の出でしたか」


「はい」


「しかし今は、武士の格を持っている」


「御門様のお言葉と、阿部正弘様のお力添えをいただきました」


 堀田が、少し目を細めた。


「阿部殿が、関わっておられたのですか」


「はい。阿部様は去年お亡くなりになりましたが——われわれの格を認めてくださった恩人です」


「……そうか」


 堀田がしばらく黙って、邸の中を見た。


「近衛家は、変わっている」


「どのように変わっていると思われますか」


「農家の出の剣士が守護をしている。商いをしている。英語を学んでいる」


 近藤が静かに言った。


「変わっているかもしれません。しかし、それは全て要ることだと思っています。姫様が要ると判じられたことを、われわれはやっています」


「その姫様は、今日もおられるのか」


「はい。お待ちです」


六

 座敷に通された堀田は、前回と同じ場所に座った。


 御簾が下がっていた。忠房が、表で迎えた。


 そして——前回とは、一つだけ違うものがあった。


 座敷の隅に、一人の人物が控えていた。


 堀田は、その人物を見た。


 見た瞬間に、動きが止まった。


「……そなたは!?」


 思わず声が出た。


 控えていた人物が、頭を下げた。


「中浜万次郎と申します」


「万次郎!? なぜここに!?」


「天朝物産会所の相談役として、英語と西洋の事情のご助言をさせていただいております」


「天朝物産会所の……」


 堀田が、御簾の方を見た。


 御簾の内から、糸子の声がした。


「堀田様、驚かせてしまい、申し訳ございませぬ。万次郎殿には、この春から、近衛家の語学の相談役をお願いしてございます」


「しかし、なぜ万次郎が——」


「ハリスという人物を、書物で学ぶだけでは分からぬと思いましてございます。メリケンで実際に暮らした方から、直に話を聞くことが要ると判じました」


 堀田が、しばらく黙った。


 顔つきが複雑だった。


 驚きと、何か別のものが混じっていた。


「……操練所への届け出は?」


「上方での語学教育の実情調べ、という名目でございます。ご公儀への届けは、万次郎殿の上役の方を通じて行っておりまする」


「それは——」


「障りがありましょうや?」


 堀田が少し考えた後、静かに言った。


「……いや。障りはありません。しかし」


「はい」


「近衛家は、随分と先を読んでいらっしゃる…」


「読んでいなければ、間に合いませぬので」


七

 茶が運ばれた。


 堀田が、まず万次郎に聞いた。


「万次郎、お前はここで何を学んでいる」


「姫君様から、相互主義という考え方を教えていただきました」


「相互主義を、姫君様から?」


「はい。わたくしがメリケンで体で学んだことに、姫君様は書物と理屈で辿り着いておられました。その同じ辿り着き先から、談判の理屈を整える作業を、ご一緒させていただいています」


「……逆ではないのか。お前が姫君様に教えるのではないのか?」


「初めは、そのつもりで来ました。しかし実際には、わたくしが教わることの方が多い」


 堀田が、御簾の方を見た。


「姫君様、率直にお聞き致します」


「なんでしょう」


「万次郎をここに呼んだ、本当の目的は何なのですか?」


「二つありまする」


 糸子が答えた。


「一つは、英語の稽古の相手でございます。書物で学んだ英語と、実際に使われる英語には、差がありまする。その差を埋めるために、万次郎殿に来ていただきました」


「もう一つは…」


「ハリスという人物の考えの道筋を、具体に知るためにございます。万次郎殿はメリケンで長く暮らし、様々なメリケン人と接してきました。ハリスがどのような値打ちを持ち、何を重んじ、どのような理屈に弱いか——それを知ることが、談判の備えに直に役立ちましょう」


 堀田が少し考えた後、万次郎に向いた。


「万次郎、ハリスはどのような人物だ」


 万次郎が答えた。


「直に話したことはございませぬが、頭の切れる方です。交渉の術を持っている。しかし——」


「しかし?」


「この国を、少し軽く見ています。この国が英語で言い返してくるとは思っていない。この国が万国の法を知っているとは思っていない。その見込みが崩れれば、ハリスの談判の策は大きく変わります」


「崩れるとは、どういう意味だ?」


「御簾の内から英語で言い返しが来れば、ハリスは最初の見込みから、すっかり外れます。そして——」


「そして?」


「ハリスは急いでいます。本国からの圧が強い。急いでいる相手は、思いの外のことが起きた時に、より大きく揺らぎます」


 堀田が、御簾の方を見た。


「姫君様、万次郎の言っていることは——」


「はい」


「姫君様が、英語でハリスに言い返す、という話ですね」


「御門様より、天朝外語御用掛のお役目を賜っておりまする。そのお役目として、御所のお考えを英語でも伝えることは、正当なことでございます」


 堀田が、しばらく黙った。


 その沈黙は、前回の訪いの時と同じ種類の沈黙だった。


 何かを決めようとしている沈黙だ。


「……姫君様、一つお聞きします」


「はい」


「あなた様は今、わたくしに何をしてほしいのですか?」


八

「三つ、お願いがありまする」


 糸子が答えた。


「まず一つ目。御門様とのお話において、御門様が条件付きの見込みを示されたとしたら——その言葉を、正確に持ち帰っていただきたいと思うております」


「条件付きの見込みとは?」


「御門様が、すっかりの勅許を今すぐ出されるとは思いませぬ。なれど、三つの条件——相互主義、関税の自主権、金銀の正しい引き替え——これらが満たされれば考える余地がある、とおっしゃっていただけるやもしれませぬ。その言葉を正確に持ち帰り、ハリスとの談判において、その条件を目当てとして持っていただきたいのでございます」


「二つ目は」


「将来の改正の条項を、約定の文に入れることでございます。ハリスとの談判で、すべての条件を今すぐ叶えることは難しいやもしれませぬ。なれど、将来改めるための出口として、『両国の合意により、条項を見直すことができる』という文言を入れることは——ハリスが受け入れるやもしれませぬ」


「なぜ、ハリスが受け入れると思うのですか?」


「万次郎殿の見立てでは、ハリスは急いでおります。今すぐ調印したい。将来の改正の条項という出口があれば、ハリスは今すぐ調印できる。その出口を、この国の利のために使うことができましょう」


 堀田が、万次郎を見た。


「万次郎、それは本当か?」


「はい。ハリスは、本国に手柄を持ち帰らねばならない。約定に調印することが、一番の目当てです。条件が少し違っても、調印できれば手柄とみなされる。だから将来の改正の条項は——ハリスの手柄の邪魔をしない形で、この国の権を残すものです」


「三つ目は、何ですか」


 糸子が続けた。


「金銀の比率の問題について、具体の数字を談判に持ち込むことでございます。この国の金銀の比率と、外の市場の比率の差——その差を放っておいた時に、どれほどの金が流れ出るか——その見込みを、数字として示すことでございます」


「その数字は、持っているのですか」


「長崎の出島の商館の記録と、江戸と下田の両替の様子を集めた書付がありまする。実光様が、法の上の拠りどころを整えてくださっております。要るのであれば、その書付をお渡しできましょう」


 堀田が、腕を組んだ。


「……姫君様の三つは、いずれも理にかなっておりますな」


「しかし堀田様のお立場では、難しいところがありましょうや?」


「…ある」


 堀田が、率直に言った。


「将来の改正の条項と、金銀の比率の問題——これは、ハリスとの談判において示せるかもしれない。しかしご公儀の内で、これを通すためには——」


「堀田様のご決断が要りまする」


 堀田が、糸子を見た。


 正確には、御簾の方を見た。


「……姫君様は、ご公儀の内の事情も掴んでおられるのか」


「要る範囲で」


「どこから、知らせを?」


「わたくしに手を貸してくださっている方々が、江戸に拠点を持っております。また、島津斉彬様とも、知らせを通わせております」


「斉彬殿とも?」


「はい。一年半ほど前からになりまするが…」


 堀田が、静かに言った。


「斉彬殿も、近衛家と繋がっておられたか」


「知らせを通わせる、という形で、でございます」


「……この国には、わたくしの知らないところで、随分と大きな動きがあるものだな」


 堀田が少し笑った。


 その笑いは、皮肉ではなく、何かを認める笑いだった。


九

「堀田様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」


「何でしょう?」


「堀田様は、この国がどうなることを望んでおられますか」


 堀田が、少し驚いた顔をした。


「真っ直ぐな問いですな」


「真っ直ぐに聞かないと、真っ直ぐな答えはいただけないものと思いましたので…」


 堀田がしばらく考えた後、答えた。


「この国が、異国と対等に付き合えるようになることを、望んでおります」


「対等に?」


「はい。今の約定は、対等ではない。わたくしには、それが分かっている。しかし今すぐ対等にすることはできない、とも考えております。ならば——将来、対等になれる道を作ることが、今わたくしにできることだと思っています」


「それは、わたくしの願いと同じことでございまする」


「同じ、でしたか」


「はい。今すぐすっかり対等にすることは、できないかもしれない。なれど、将来の道を作ることはできましょう。将来の改正の条項は、その道の一つでございます」


 堀田が頷いた。


「分かりました。やってみせましょう」


「恐れ入りまする」


「ただし」


 堀田が続けた。


「御門様の勅許が得られない見込みは高い。攘夷の公家の反対は強い。御門様ご自身も、強く攘夷を唱えておられる」


「はい、分かっております」


「それでも、姫君様は、御門様に条件付きの言葉を示させようとしている。なぜです?」


「すっかりの拒否と、条件付きの見込みとでは——後に残るものが違いまする」


「どう違うと?」


「すっかりの拒否は、それで終わりでございます。なれど条件付きの見込みは、記録として残りましょう。その記録が、後の談判において拠りどころになりまする。今日蒔く種が、十年後に芽を出すやもしれませぬ」


 堀田が、しばらく糸子を見た。


「……おいくつになられる?」


「十になりまする」


「十の方が、十年後のことを考えておられるのか…」


「考えなければ、間に合わないことがありましょう」


 堀田が、静かに笑った。


「そうですな。わたくしが若い頃には、十年後のことなど考えていなかった」


「堀田様、今からでも遅くはないと思いまする」


「……その言葉は、なかなか手厳しいですな」


 万次郎が隅で、小さく笑っていた。


十

 堀田が帰った後、座敷に残った万次郎が言った。


「姫様、堀田様は動かれると思いますか」


「動かれると思いまする」


「その拠りどころは」


「最後のお顔でございます。何かを決めたお顔をされておりました」


 万次郎が少し考えた後、言った。


「堀田様は、誠実な方だと感じました」


「はい。誠実で、現を見ていて、開明の方。この三つが揃っている方です。なれど——」


「しかし?」


「ご公儀の仕組みの中に生きている方でもありまする。その仕組みが、堀田様の動きを縛りましょう」


「井伊直弼の問題ですか」


 糸子は少し間を置いた後、答えた。


「はい。堀田様が京におられる間に、江戸では別の動きが起きるやもしれませぬ」


「どのような動きでしょうか」


「南紀の方々が動くやもしれませぬ。大老の職を求める動きが…」


「井伊直弼が——」


「はい。堀田様がここで時をかけている間に、江戸では、堀田様の足元が変わっているかもしれませぬ」


 万次郎が静かに言った。


「それを分かっていて、堀田様に対話を求めたのですか」


「はい。時がないからこそ、この対話が、最後の機会になるかもしれませぬ」


 万次郎が、御簾の方を見た。


「……姫様は、それでも諦めていないのですね」


「諦めてはおりません。なれど、できることとできないことの分け目はつけております。できることをすべてやって、できなかったことは、次の手で補う。それだけでございます」


十一

 三月の十二日、八十八人の公家が列をなして、約定の案を退けよと座り込んだ。それから日を置かず、堀田が御所に参内した。


 糸子はさとを通じて、その日の御門様とのお話の経緯を、翌日に聞いた。


「御門様は、条件付きのお言葉をお示しになりました」


 さとが、静かに言った。


「どのようなお言葉でしたか」


「『三つの条件が満たされれば、考える余地がある』とおっしゃいました。勅許ではございませんが、見込みを否まれませんでした」


「攘夷の公家衆の反対は」


「強うございました。廷臣の多くが連なって、反対しておりました。御門様も、最後には勅許を出されなかった」


「やはり」


「なれど——」


 さとが続けた。


「堀田様のお顔が、最後に少し変わっておりました。御門様のお言葉——『条件が満たされれば考える余地がある』——そのお言葉を、しっかりと受け取られたご様子でした」


「ありがたく存じます、さと」


「姫君様が前もって整えてくださった言葉が、御門様から出ました。わたくしにも、それが分かりました」


 糸子は静かに頷いた。


 史実通り、勅許は出なかった。


 しかし、すっかりの拒否ではなかった。


「条件付きの見込み」という種が、蒔かれた。


十二

 堀田が江戸に帰る前日、もう一度、近衛家を訪れた。


 正式な挨拶という形だったが、実のところは、最後の対話だった。


「姫君様、御門様から条件付きのお言葉をいただきました」


「御所の内から、伺っております」


「勅許は得られなかった。それは、申し訳なく思っています」


「堀田様のお力の及ぶところではございませんでした」


「しかし、御門様のお言葉は持って帰ります。『三つの条件が満たされれば考える余地がある』——このお言葉を、ハリスとの談判でどう使うかは、わたくしが考えます」


「将来の改正の条項については」


「談判に持ち込んでみます。ハリスが受け入れるかどうかは、分からない。しかし、示すことはできます」


「ありがたく存じます」


「金銀の比率の書付も、善次郎殿から受け取りました。これも談判で使います」


 堀田が少し間を置いた後、言った。


「姫君様、一つだけ申し上げます」


「はい」


「万次郎のことです」


「はい」


「江戸に帰れば、万次郎が近衛家に来ていたことを知る者が出るかもしれない。ご公儀の人間が、朝廷の側の対話に加わった、という批判が出るかもしれません」


「その時は、どうなりましょうか」


「悪くすれば、万次郎の立場が危うくなります」


「……」


「しかし」


 堀田が続けた。


「万次郎がここで何をしたかを、わたくしは見ました。語学の相談役として、西洋の事情の助言として——これは天朝物産会所の事業として、届け出の範囲の内の振る舞いです。批判が来ても、わたくしがその解き方で守ります」


 糸子は、少し驚いた。


「堀田様が、万次郎殿を守ってくださいますか」


「わたくしも、蘭癖と陰口を叩かれる身です。西洋の知識を持った者が朝廷の側にいることは、この国全体の利になる。そう思っています」


「かたじけなく存じます」


「礼を言うことはありません。これは、わたくしの判断です」


十三

 堀田が帰った後、万次郎が言った。


「堀田様は、思っていたより大きな方でございました」


「…そう感じましたか」


「現の縛りの中で、できる限りのことをしようとしておられます。その姿が——」


「わたくしと似ている、と思われましたか?」


 万次郎が少し考えた後、笑った。


「はい。ただ——」


「ただ?」


「堀田様はもうじき、江戸で大きな問題に向き合われましょう」


「分かっています」


 糸子が、静かに言った。


「それでも、今日の対話には意味がございました。堀田様が『条件付きの見込み』という言葉を持ち帰られた。それが記録として残りましょう。その記録が、後の談判において生きるやもしれませぬ」


「今日蒔いた種が、いつか芽を出す…」


「はい。それが、わたくしにできる精一杯でございます」


 万次郎が、窓の外を見た。


 晩春の京の空は、高く澄んでいた。


「姫様、一つ申し上げてもよろしいですか」


「なんでしょう」


「わたくしはメリケンで十年近く過ごして、この国に帰ってきました。帰ってから、長い間——自分がここで何をすればいいか、分からない時期がありました」


「そのような時期が?」


「はい。英語を教えることはできる。西洋の事情を伝えることはできる。しかしそれが、この国の何に繋がっているのか——見えにくかった」


「今は、見えておりますか」


 万次郎が、御簾の方を見た。


「今日、少し見えました」


「どのように?」


「姫様のしていることの一部として、わたくしの知識が使われました。それが堀田様に届き、御門様のお言葉と繋がった。その繋がりの中に、わたくしがいた」


「これからも、その繋がりの中にいてくださいまし」


「はい。そのつもりです」


 にこりと笑う万次郎が、そこにはいた。


十四

 その夜、近藤が縁側に来た。


「姫様、今日はいかがでしたか」


「やれることはやりました。結果は、まだ分かりませぬが…」


「堀田様は、動かれると思いますか」


「動かれると思いまする。ただし——江戸では、別の動きが始まっているかもしれませぬ」


「井伊直弼の件ですか」


「はい」


 近藤が少し間を置いた後、言った。


「姫様、一つだけ確かめさせてください」


「なんでしょう」


「最悪の場合——井伊直弼が大老になり、勅許なしに約定が結ばれたとして——姫様は、その後も動き続けますか」


 糸子は、すぐに答えた。


「はい」


「止まらない?」


「決して止まりません。約定に将来の改正の条項が入れば——それを使って、次の手を打ちまする。入らなければ、別の手立てを考えましょう」


 近藤が、静かに頷いた。


「では、俺たちも止まりません」


「かたじけなく存じます」


「姫様が動く限り、俺たちは守り続けます。それだけです」


 晩春の夜の京は、静かだった。


 遠くで、鶯の声がした。


 季節の終わりの声だった。


 しかしその声の向こうに、糸子には嵐の気配が聞こえていた。


 堀田が江戸に帰る。


 そして——井伊直弼が動く。


 今日蒔いた種が、その嵐の中を生き残れるかどうか。


 近衛糸子は、帳面を開いた。


「堀田様が、『条件付きの見込み』の言葉を持ち帰られた。これが今日の、一番の収穫だ。この記録を残しておく」


「次に来る嵐の中で、この種を守ること。それが、次の課題だ…」


 筆を置いた。


 晩春の風が、縁側を渡った。


 卯の花の白い花びらが一枚、庭に舞い落ちた。


 晩春の夜の光の中で、静かに地に降りた。


 第三十一話 了

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― 新着の感想 ―
  う〜、堀田様が糸子様への、そなた は貴方様 とかが良いのではと そなた では ちょいと上から目線かな?^^; 近衛の姫様に対して…… (すみませんですm(_ _)m)
堀田さんが姫様に話しかける際 「そなた」 が複数箇所使われており、敬称としてどうだろう?と思いました
武力行使の正体が江戸湾全体の海岸線から数百メートルの破壊と周知すれば、国交破棄が正解なのにね
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