第三十一話「堀田正睦、上洛する」
一
安政五年の春が来た。
京の春は、一夜で変わる。
昨日まで枯れ枝だった木が、朝目覚めると薄緑の芽を出している。御所の周りの桜が、まず一輪、次に三輪と花を開き始める頃になると、街全体の空気が変わる。
冬の底冷えが少しずつ溶けて、代わりに何か柔らかいものが、空に満ちてくる。
しかし糸子の頭の中には、その春の柔らかさとは、まるで別のものがあった。
堀田正睦が、京に来ている。
それが今年の最初の、そして何より大きな動きだ。
堀田正睦が京に入ったのは、二月の五日だった。川路聖謨様、岩瀬忠震様を従え、ご公儀の老中首座として、御門様の勅許を求めるための上洛だ。まずは武家伝奏や議奏の方々に、約定の事情を説いて回っていると聞く。
史実では、この上洛は失敗に終わる。
廷臣八十八卿列参事件——攘夷の公家たちが連なって、勅許に反対する——という出来事が起き、御門様も強く拒まれる。堀田は手ぶらで江戸に帰る。
その失敗が、井伊直弼の大老就任への道を開く。
糸子には、すっかり失敗を防ぐ力はない。
しかし「失敗の質」を変えることは、できるかもしれない。
すっかりの拒否ではなく、「条件付きの見込み」という種を、この上洛の中に蒔くことができれば——後の談判において、その種が芽を出すかもしれない。
糸子は帳面を開いた。
この上洛で果たすべきことを、整理し始めた。
二
二月の末、糸子は御門様との御前を願った。
さとが手配してくれた。
御所への道は、春の気配に包まれていた。梅が散り、桃の花が開き始めていた。薄紅の花が、早朝の光を受けて、かすかに輝いていた。
近藤と山南が、護衛として同行した。
「近藤殿、今日は少し長い御前になるかもしれませぬ」
「承知仕りました」
「御所の外でお待ちいただくことになりまするが…」
「問題ありません。天気も良いですし」
「……寒くないですか? この時期は」
「姫様がご心配になることではございませぬ。お気持ちだけ、ありがたく」
近藤が穏やかに言った。
糸子は少し笑って、御所の門をくぐった。
三
小部屋に通された。
御門様の気配が、今日は少し違っていた。
何か、張り詰めたものがあった。
「面を上げよ」
「はい」
「堀田が来ておるの」
「はい。すでに京に入っておられまする」
「朕は、会わねばならぬか」
「……はい。御門様と堀田様のお話が、この先の約定の談判の行方を、大きく左右しましょう」
「朕は会いたくない」
御門様が、率直に言った。
「会えば、勅許を出せと言われる。朕は出したくない。しかし出さねば、ご公儀が勝手に動く。どちらに転んでも、朕の望む方にはならぬ」
「御門様…」
「何じゃ」
「一つだけ、申し上げてよろしゅうございますか」
「申せ」
「堀田様にお会いになった時、ただ拒まれるのではなく——『この条件があれば、考える余地がある』というお言葉を、お示しいただくことはできませんでしょうか?」
「条件は分かっておる。そなたと一緒に決めた三つじゃ」
「左様でございます。その条件を、堀田様に示していただきたい。すっかりの勅許でなくてよいのでございます。『この条件が満たされれば、考える…』というお言葉が、後の談判において、とても大切な意味を持ちまする」
御門様が、しばらく黙った。
「……それは、朕が勅許を出す見込みを残す、ということじゃ」
「はい」
「朕は、勅許を出したくない」
「今すぐ出す要はございませぬ。条件が満たされた時に考える——それだけで十分でございます」
「その言葉が、後でどう使われるか分からぬ」
「はい。しかし今のように、すっかり拒まれるだけでは——」
「ご公儀が勝手に動く」
「その通りでございます。御門様が条件をお示しになれば、ご公儀には、御門様の条件を満たすように動く訳が生まれまする。満たせなくても、満たそうとした記録が残りましょう。その記録が、後の談判において意味を持ちまする」
御門様が、長い間黙っていた。
御所の中は静かだった。遠くで鳥の声がした。春の鳥だった。
「……朕は、この国が軽んじられることが嫌いじゃ」
「はい」
「異国に、対等に扱われることを望んでいる」
「はい」
「その気持ちは、条件付きの言葉を示すことと、食い違わぬか」
「食い違いませぬ。対等に扱われるための条件を示すことは、対等を求める振る舞いでございます」
御門様が、ゆっくりと頷いた。
「……あい分かった。堀田に会うたら、条件を示そう。しかし」
「はい」
「朕の名は使うな」
「はい、必ず守りましょう」
「そして——条件が満たされなければ、朕は認めぬ。それも堀田に伝えよ」
「はい。必ずお伝え致しまする」
四
御前から帰った翌日、糸子は万次郎を呼んだ。
万次郎は、二月の初めに近衛家を訪れてから、天朝物産会所の相談役という名目で、京に留まっていた。これは糸子が、善次郎を通じて手配した。軍艦操練所への届け出としては、「上方での語学教育の実情調べ」という名目だ。
「万次郎殿、一つご相談がありまする」
「なんでしょう、姫様」
「堀田正睦様が、近く近衛家に来られまする。その対話において、万次郎殿に同席していただきたいのです」
万次郎が、少し困った顔をした。
「……それは、少し難しいところがあります」
「どのような?」
「わたくしは、ご公儀の人間です。堀田様が老中首座として上洛されている間、わたくしが近衛家の座に同席するということは——ご公儀の内の人間が、朝廷の側の対話に加わる、ということになります」
「障りになりましょうや?」
「堀田様次第です。堀田様が、どうお感じになるかによります」
糸子が少し考えた後、言った。
「では、このような形はいかがでしょう。万次郎殿は、近衛家の語学の相談役として同席される。堀田様へ直に発言なさるのは、初めは控えていただく。なれど座にいていただくことで、要る時に、万次郎殿のお知恵を借りられまする…」
「……堀田様がわたくしに気づかれた時、障りになりませんか」
「なるかもしれませぬ。しかしその時は、正直に申し上げましょう。天朝物産会所の相談役として、英語と西洋の事情のご助言をいただいている、と」
「堀田様が、ご納得されるかどうか」
「堀田様は、蘭癖とも言われる開明の方でございます。西洋の事情に通じた者が朝廷の側にいることを、すっかり拒まれるとは思いませぬ」
万次郎が少し考えた後、頷いた。
「……分かりました。ただし、何かまずいことになりそうだと感じたら、すぐに引きます」
「はい。それで十分でございます」
五
三月の初め、堀田正睦が近衛家を訪ねてきた。
京に入って、ひと月が経っていた。根回しの合間を縫っての訪いだった。
その日の京は晴れていた。しかし山の方から吹いてくる風はまだ冷たく、春と冬が綱引きをしているような天気だった。
堀田が邸内に入ってきた時、近藤が門で迎えた。
堀田は、前回の訪問を覚えていた。
「近衛家の守護の方ですね」
「はい。近藤勇と申します」
「前回もお見かけしました。農家の出でしたか」
「はい」
「しかし今は、武士の格を持っている」
「御門様のお言葉と、阿部正弘様のお力添えをいただきました」
堀田が、少し目を細めた。
「阿部殿が、関わっておられたのですか」
「はい。阿部様は去年お亡くなりになりましたが——われわれの格を認めてくださった恩人です」
「……そうか」
堀田がしばらく黙って、邸の中を見た。
「近衛家は、変わっている」
「どのように変わっていると思われますか」
「農家の出の剣士が守護をしている。商いをしている。英語を学んでいる」
近藤が静かに言った。
「変わっているかもしれません。しかし、それは全て要ることだと思っています。姫様が要ると判じられたことを、われわれはやっています」
「その姫様は、今日もおられるのか」
「はい。お待ちです」
六
座敷に通された堀田は、前回と同じ場所に座った。
御簾が下がっていた。忠房が、表で迎えた。
そして——前回とは、一つだけ違うものがあった。
座敷の隅に、一人の人物が控えていた。
堀田は、その人物を見た。
見た瞬間に、動きが止まった。
「……そなたは!?」
思わず声が出た。
控えていた人物が、頭を下げた。
「中浜万次郎と申します」
「万次郎!? なぜここに!?」
「天朝物産会所の相談役として、英語と西洋の事情のご助言をさせていただいております」
「天朝物産会所の……」
堀田が、御簾の方を見た。
御簾の内から、糸子の声がした。
「堀田様、驚かせてしまい、申し訳ございませぬ。万次郎殿には、この春から、近衛家の語学の相談役をお願いしてございます」
「しかし、なぜ万次郎が——」
「ハリスという人物を、書物で学ぶだけでは分からぬと思いましてございます。メリケンで実際に暮らした方から、直に話を聞くことが要ると判じました」
堀田が、しばらく黙った。
顔つきが複雑だった。
驚きと、何か別のものが混じっていた。
「……操練所への届け出は?」
「上方での語学教育の実情調べ、という名目でございます。ご公儀への届けは、万次郎殿の上役の方を通じて行っておりまする」
「それは——」
「障りがありましょうや?」
堀田が少し考えた後、静かに言った。
「……いや。障りはありません。しかし」
「はい」
「近衛家は、随分と先を読んでいらっしゃる…」
「読んでいなければ、間に合いませぬので」
七
茶が運ばれた。
堀田が、まず万次郎に聞いた。
「万次郎、お前はここで何を学んでいる」
「姫君様から、相互主義という考え方を教えていただきました」
「相互主義を、姫君様から?」
「はい。わたくしがメリケンで体で学んだことに、姫君様は書物と理屈で辿り着いておられました。その同じ辿り着き先から、談判の理屈を整える作業を、ご一緒させていただいています」
「……逆ではないのか。お前が姫君様に教えるのではないのか?」
「初めは、そのつもりで来ました。しかし実際には、わたくしが教わることの方が多い」
堀田が、御簾の方を見た。
「姫君様、率直にお聞き致します」
「なんでしょう」
「万次郎をここに呼んだ、本当の目的は何なのですか?」
「二つありまする」
糸子が答えた。
「一つは、英語の稽古の相手でございます。書物で学んだ英語と、実際に使われる英語には、差がありまする。その差を埋めるために、万次郎殿に来ていただきました」
「もう一つは…」
「ハリスという人物の考えの道筋を、具体に知るためにございます。万次郎殿はメリケンで長く暮らし、様々なメリケン人と接してきました。ハリスがどのような値打ちを持ち、何を重んじ、どのような理屈に弱いか——それを知ることが、談判の備えに直に役立ちましょう」
堀田が少し考えた後、万次郎に向いた。
「万次郎、ハリスはどのような人物だ」
万次郎が答えた。
「直に話したことはございませぬが、頭の切れる方です。交渉の術を持っている。しかし——」
「しかし?」
「この国を、少し軽く見ています。この国が英語で言い返してくるとは思っていない。この国が万国の法を知っているとは思っていない。その見込みが崩れれば、ハリスの談判の策は大きく変わります」
「崩れるとは、どういう意味だ?」
「御簾の内から英語で言い返しが来れば、ハリスは最初の見込みから、すっかり外れます。そして——」
「そして?」
「ハリスは急いでいます。本国からの圧が強い。急いでいる相手は、思いの外のことが起きた時に、より大きく揺らぎます」
堀田が、御簾の方を見た。
「姫君様、万次郎の言っていることは——」
「はい」
「姫君様が、英語でハリスに言い返す、という話ですね」
「御門様より、天朝外語御用掛のお役目を賜っておりまする。そのお役目として、御所のお考えを英語でも伝えることは、正当なことでございます」
堀田が、しばらく黙った。
その沈黙は、前回の訪いの時と同じ種類の沈黙だった。
何かを決めようとしている沈黙だ。
「……姫君様、一つお聞きします」
「はい」
「あなた様は今、わたくしに何をしてほしいのですか?」
八
「三つ、お願いがありまする」
糸子が答えた。
「まず一つ目。御門様とのお話において、御門様が条件付きの見込みを示されたとしたら——その言葉を、正確に持ち帰っていただきたいと思うております」
「条件付きの見込みとは?」
「御門様が、すっかりの勅許を今すぐ出されるとは思いませぬ。なれど、三つの条件——相互主義、関税の自主権、金銀の正しい引き替え——これらが満たされれば考える余地がある、とおっしゃっていただけるやもしれませぬ。その言葉を正確に持ち帰り、ハリスとの談判において、その条件を目当てとして持っていただきたいのでございます」
「二つ目は」
「将来の改正の条項を、約定の文に入れることでございます。ハリスとの談判で、すべての条件を今すぐ叶えることは難しいやもしれませぬ。なれど、将来改めるための出口として、『両国の合意により、条項を見直すことができる』という文言を入れることは——ハリスが受け入れるやもしれませぬ」
「なぜ、ハリスが受け入れると思うのですか?」
「万次郎殿の見立てでは、ハリスは急いでおります。今すぐ調印したい。将来の改正の条項という出口があれば、ハリスは今すぐ調印できる。その出口を、この国の利のために使うことができましょう」
堀田が、万次郎を見た。
「万次郎、それは本当か?」
「はい。ハリスは、本国に手柄を持ち帰らねばならない。約定に調印することが、一番の目当てです。条件が少し違っても、調印できれば手柄とみなされる。だから将来の改正の条項は——ハリスの手柄の邪魔をしない形で、この国の権を残すものです」
「三つ目は、何ですか」
糸子が続けた。
「金銀の比率の問題について、具体の数字を談判に持ち込むことでございます。この国の金銀の比率と、外の市場の比率の差——その差を放っておいた時に、どれほどの金が流れ出るか——その見込みを、数字として示すことでございます」
「その数字は、持っているのですか」
「長崎の出島の商館の記録と、江戸と下田の両替の様子を集めた書付がありまする。実光様が、法の上の拠りどころを整えてくださっております。要るのであれば、その書付をお渡しできましょう」
堀田が、腕を組んだ。
「……姫君様の三つは、いずれも理にかなっておりますな」
「しかし堀田様のお立場では、難しいところがありましょうや?」
「…ある」
堀田が、率直に言った。
「将来の改正の条項と、金銀の比率の問題——これは、ハリスとの談判において示せるかもしれない。しかしご公儀の内で、これを通すためには——」
「堀田様のご決断が要りまする」
堀田が、糸子を見た。
正確には、御簾の方を見た。
「……姫君様は、ご公儀の内の事情も掴んでおられるのか」
「要る範囲で」
「どこから、知らせを?」
「わたくしに手を貸してくださっている方々が、江戸に拠点を持っております。また、島津斉彬様とも、知らせを通わせております」
「斉彬殿とも?」
「はい。一年半ほど前からになりまするが…」
堀田が、静かに言った。
「斉彬殿も、近衛家と繋がっておられたか」
「知らせを通わせる、という形で、でございます」
「……この国には、わたくしの知らないところで、随分と大きな動きがあるものだな」
堀田が少し笑った。
その笑いは、皮肉ではなく、何かを認める笑いだった。
九
「堀田様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」
「何でしょう?」
「堀田様は、この国がどうなることを望んでおられますか」
堀田が、少し驚いた顔をした。
「真っ直ぐな問いですな」
「真っ直ぐに聞かないと、真っ直ぐな答えはいただけないものと思いましたので…」
堀田がしばらく考えた後、答えた。
「この国が、異国と対等に付き合えるようになることを、望んでおります」
「対等に?」
「はい。今の約定は、対等ではない。わたくしには、それが分かっている。しかし今すぐ対等にすることはできない、とも考えております。ならば——将来、対等になれる道を作ることが、今わたくしにできることだと思っています」
「それは、わたくしの願いと同じことでございまする」
「同じ、でしたか」
「はい。今すぐすっかり対等にすることは、できないかもしれない。なれど、将来の道を作ることはできましょう。将来の改正の条項は、その道の一つでございます」
堀田が頷いた。
「分かりました。やってみせましょう」
「恐れ入りまする」
「ただし」
堀田が続けた。
「御門様の勅許が得られない見込みは高い。攘夷の公家の反対は強い。御門様ご自身も、強く攘夷を唱えておられる」
「はい、分かっております」
「それでも、姫君様は、御門様に条件付きの言葉を示させようとしている。なぜです?」
「すっかりの拒否と、条件付きの見込みとでは——後に残るものが違いまする」
「どう違うと?」
「すっかりの拒否は、それで終わりでございます。なれど条件付きの見込みは、記録として残りましょう。その記録が、後の談判において拠りどころになりまする。今日蒔く種が、十年後に芽を出すやもしれませぬ」
堀田が、しばらく糸子を見た。
「……おいくつになられる?」
「十になりまする」
「十の方が、十年後のことを考えておられるのか…」
「考えなければ、間に合わないことがありましょう」
堀田が、静かに笑った。
「そうですな。わたくしが若い頃には、十年後のことなど考えていなかった」
「堀田様、今からでも遅くはないと思いまする」
「……その言葉は、なかなか手厳しいですな」
万次郎が隅で、小さく笑っていた。
十
堀田が帰った後、座敷に残った万次郎が言った。
「姫様、堀田様は動かれると思いますか」
「動かれると思いまする」
「その拠りどころは」
「最後のお顔でございます。何かを決めたお顔をされておりました」
万次郎が少し考えた後、言った。
「堀田様は、誠実な方だと感じました」
「はい。誠実で、現を見ていて、開明の方。この三つが揃っている方です。なれど——」
「しかし?」
「ご公儀の仕組みの中に生きている方でもありまする。その仕組みが、堀田様の動きを縛りましょう」
「井伊直弼の問題ですか」
糸子は少し間を置いた後、答えた。
「はい。堀田様が京におられる間に、江戸では別の動きが起きるやもしれませぬ」
「どのような動きでしょうか」
「南紀の方々が動くやもしれませぬ。大老の職を求める動きが…」
「井伊直弼が——」
「はい。堀田様がここで時をかけている間に、江戸では、堀田様の足元が変わっているかもしれませぬ」
万次郎が静かに言った。
「それを分かっていて、堀田様に対話を求めたのですか」
「はい。時がないからこそ、この対話が、最後の機会になるかもしれませぬ」
万次郎が、御簾の方を見た。
「……姫様は、それでも諦めていないのですね」
「諦めてはおりません。なれど、できることとできないことの分け目はつけております。できることをすべてやって、できなかったことは、次の手で補う。それだけでございます」
十一
三月の十二日、八十八人の公家が列をなして、約定の案を退けよと座り込んだ。それから日を置かず、堀田が御所に参内した。
糸子はさとを通じて、その日の御門様とのお話の経緯を、翌日に聞いた。
「御門様は、条件付きのお言葉をお示しになりました」
さとが、静かに言った。
「どのようなお言葉でしたか」
「『三つの条件が満たされれば、考える余地がある』とおっしゃいました。勅許ではございませんが、見込みを否まれませんでした」
「攘夷の公家衆の反対は」
「強うございました。廷臣の多くが連なって、反対しておりました。御門様も、最後には勅許を出されなかった」
「やはり」
「なれど——」
さとが続けた。
「堀田様のお顔が、最後に少し変わっておりました。御門様のお言葉——『条件が満たされれば考える余地がある』——そのお言葉を、しっかりと受け取られたご様子でした」
「ありがたく存じます、さと」
「姫君様が前もって整えてくださった言葉が、御門様から出ました。わたくしにも、それが分かりました」
糸子は静かに頷いた。
史実通り、勅許は出なかった。
しかし、すっかりの拒否ではなかった。
「条件付きの見込み」という種が、蒔かれた。
十二
堀田が江戸に帰る前日、もう一度、近衛家を訪れた。
正式な挨拶という形だったが、実のところは、最後の対話だった。
「姫君様、御門様から条件付きのお言葉をいただきました」
「御所の内から、伺っております」
「勅許は得られなかった。それは、申し訳なく思っています」
「堀田様のお力の及ぶところではございませんでした」
「しかし、御門様のお言葉は持って帰ります。『三つの条件が満たされれば考える余地がある』——このお言葉を、ハリスとの談判でどう使うかは、わたくしが考えます」
「将来の改正の条項については」
「談判に持ち込んでみます。ハリスが受け入れるかどうかは、分からない。しかし、示すことはできます」
「ありがたく存じます」
「金銀の比率の書付も、善次郎殿から受け取りました。これも談判で使います」
堀田が少し間を置いた後、言った。
「姫君様、一つだけ申し上げます」
「はい」
「万次郎のことです」
「はい」
「江戸に帰れば、万次郎が近衛家に来ていたことを知る者が出るかもしれない。ご公儀の人間が、朝廷の側の対話に加わった、という批判が出るかもしれません」
「その時は、どうなりましょうか」
「悪くすれば、万次郎の立場が危うくなります」
「……」
「しかし」
堀田が続けた。
「万次郎がここで何をしたかを、わたくしは見ました。語学の相談役として、西洋の事情の助言として——これは天朝物産会所の事業として、届け出の範囲の内の振る舞いです。批判が来ても、わたくしがその解き方で守ります」
糸子は、少し驚いた。
「堀田様が、万次郎殿を守ってくださいますか」
「わたくしも、蘭癖と陰口を叩かれる身です。西洋の知識を持った者が朝廷の側にいることは、この国全体の利になる。そう思っています」
「かたじけなく存じます」
「礼を言うことはありません。これは、わたくしの判断です」
十三
堀田が帰った後、万次郎が言った。
「堀田様は、思っていたより大きな方でございました」
「…そう感じましたか」
「現の縛りの中で、できる限りのことをしようとしておられます。その姿が——」
「わたくしと似ている、と思われましたか?」
万次郎が少し考えた後、笑った。
「はい。ただ——」
「ただ?」
「堀田様はもうじき、江戸で大きな問題に向き合われましょう」
「分かっています」
糸子が、静かに言った。
「それでも、今日の対話には意味がございました。堀田様が『条件付きの見込み』という言葉を持ち帰られた。それが記録として残りましょう。その記録が、後の談判において生きるやもしれませぬ」
「今日蒔いた種が、いつか芽を出す…」
「はい。それが、わたくしにできる精一杯でございます」
万次郎が、窓の外を見た。
晩春の京の空は、高く澄んでいた。
「姫様、一つ申し上げてもよろしいですか」
「なんでしょう」
「わたくしはメリケンで十年近く過ごして、この国に帰ってきました。帰ってから、長い間——自分がここで何をすればいいか、分からない時期がありました」
「そのような時期が?」
「はい。英語を教えることはできる。西洋の事情を伝えることはできる。しかしそれが、この国の何に繋がっているのか——見えにくかった」
「今は、見えておりますか」
万次郎が、御簾の方を見た。
「今日、少し見えました」
「どのように?」
「姫様のしていることの一部として、わたくしの知識が使われました。それが堀田様に届き、御門様のお言葉と繋がった。その繋がりの中に、わたくしがいた」
「これからも、その繋がりの中にいてくださいまし」
「はい。そのつもりです」
にこりと笑う万次郎が、そこにはいた。
十四
その夜、近藤が縁側に来た。
「姫様、今日はいかがでしたか」
「やれることはやりました。結果は、まだ分かりませぬが…」
「堀田様は、動かれると思いますか」
「動かれると思いまする。ただし——江戸では、別の動きが始まっているかもしれませぬ」
「井伊直弼の件ですか」
「はい」
近藤が少し間を置いた後、言った。
「姫様、一つだけ確かめさせてください」
「なんでしょう」
「最悪の場合——井伊直弼が大老になり、勅許なしに約定が結ばれたとして——姫様は、その後も動き続けますか」
糸子は、すぐに答えた。
「はい」
「止まらない?」
「決して止まりません。約定に将来の改正の条項が入れば——それを使って、次の手を打ちまする。入らなければ、別の手立てを考えましょう」
近藤が、静かに頷いた。
「では、俺たちも止まりません」
「かたじけなく存じます」
「姫様が動く限り、俺たちは守り続けます。それだけです」
晩春の夜の京は、静かだった。
遠くで、鶯の声がした。
季節の終わりの声だった。
しかしその声の向こうに、糸子には嵐の気配が聞こえていた。
堀田が江戸に帰る。
そして——井伊直弼が動く。
今日蒔いた種が、その嵐の中を生き残れるかどうか。
近衛糸子は、帳面を開いた。
「堀田様が、『条件付きの見込み』の言葉を持ち帰られた。これが今日の、一番の収穫だ。この記録を残しておく」
「次に来る嵐の中で、この種を守ること。それが、次の課題だ…」
筆を置いた。
晩春の風が、縁側を渡った。
卯の花の白い花びらが一枚、庭に舞い落ちた。
晩春の夜の光の中で、静かに地に降りた。
第三十一話 了




