第二十九話「安政四年の空気」
一
安政四年の正月が来た。 京都の夜明けは遅い。
冬の東の空が、紺から藍へ、藍から薄い橙へと変わっていく様は、御所の瓦屋根の向こうに毎朝繰り返された。
糸子は元旦の朝、その色の変化を縁側から眺めていた。
冷たい空気が鼻の先を刺した。庭の石の上に、うっすらと霜が降りていた。
霜の白さは夜の間に積もった静けさの形で、朝の最初の光を受けてかすかに輝いた。
新しい年だ。
しかし糸子の胸の中に、晴れやかな気持ちは半分しかなかった。 残りの半分は、重さだった。
今年——安政四年——に何が起きるかを、糸子は前世の知識として知っている。
阿部正弘が亡くなる。
幕末の政治において最も開明的な要人の一人が、この年に三十八歳で世を去る。
その死が、幕府内の力のバランスを変える。
開明派が弱まり、より強硬な保守派が台頭する。
そして翌安政五年には—— 糸子は目を閉じた。
庭の霜が、朝の光の中でゆっくりと消えていった。
「姫様」 お梅の声がした。
「お雑煮でございます。お部屋の中でお召し上がりください。
今日は格別に冷えますから」「はい、今すぐ」
糸子は縁側から立ち上がった。
新しい年が始まる。
やるべきことはある。
二
正月の三日間は、近衛家として最低限の儀礼を行った。
父・忠房が表で公式の賀詞を受け、糸子は御簾の内で静かに待った。
来訪者の中に、実光の顔もあった。
実光は短い時間だが、糸子に近づいて小声で言った。
「本年も、いよいよ変わりなくお引き立てのほど、お願い奉りたく存じまする。重要な年になりそうでございますね」
「はい。実光様も、お健やかにお過ごしあそばされますよう、伏して祈り上げ奉ります」
「堀田様への情報伝達の経路ですが——年明け早々に動きが必要かもしれません」
「分かりました。具体的には後ほど…」
実光が会釈して戻った。
糸子は御簾の内で、静かに今年の動きを頭に描いた。
第一に、阿部正弘が倒れる前に動くこと。
阿部正弘との間接的な関係は、近藤たちの処遇を通じてある程度築かれている。
しかしそれをより具体的な協力関係に発展させる時間は、今年の前半しかない。
第二に、堀田正睦への御門様の条件の伝達を完了させること。
昨年末の御前で御門様が三つの条件を持ってくださった。
その内容を、実光→広橋権中納言→堀田という経路で正確に伝える必要がある。
第三に、英語とオランダ語の習熟をさらに高めること。
村田蔵六との授業を、今年はより実践的な内容に移行させる。
第四に、旭狼衛の体制を、江戸への移動に対応できる形にすること。
交渉が江戸で行われる可能性がある。その場合、近藤たちを連れて行くための準備が必要だ。
糸子は心の中でこれらを繰り返しながら、正月の儀礼が終わるのを待った。
三
正月明けの最初の授業で、村田蔵六が言った。
「今年は英語の実践に重点を置きたいと思います」
「さようでございます」
「具体的には——文書の読み取りだけでなく、実際に言葉を使う練習を増やしたい。ポンペ先生との対話で感じましたが、読めることと、その場で使えることは別です」
「実践の機会が限られているのが問題でございますね」
「はい。横浜に行けば外国人と話す機会は作れますが——」
「今は難しゅうございます」
「だからこそ、模擬的な場を作りたいと思っています」
「模擬的な場とは?」
「わたくしがハリスの立場を取ります。近衛様がご自身の立場を取る。英語で交渉の模擬対話を行うのです」
糸子は少し考えた。
「村田殿がハリスの立場を取ることができましょうや?」
「完全にはできません。しかしハリスの交渉の記録や、アメリカの外交の考え方については、ある程度学んでいます。それを元に、近衛様への対話者として機能できると思います」
「それは良い案だと思いまする」
「それからもう一つあります」 村田蔵六が続けた。
「相互主義の論理を、英語で話せるようになることが必要です。日本語で整理した概念を、英語で表現する練習をしたい」
「reciprocity——相互主義を英語ではそう言いますね」
「はい。この言葉が交渉の場で自然に出てくるよう、今年中に習熟させたい」
「分かりました。始めをいたしましょう」
四
その夜、糸子は帳面を開いた。今年の最初の記録だ。
書き始めながら、糸子は今年一年をどう過ごすかを改めて整理した。
交渉が近づいている。
堀田正睦との対話で感じた「急いでいる」という感覚は、年が明けても消えていなかった。
むしろ強まっている。
善次郎から届いた新年最初の文に、こう書いてあった。
「ハリスが将軍家への謁見を改めて強く求めているとのことです。幕府の中で、これを認める方向での議論が始まっているとも聞きます。もし謁見が実現すれば、通商条約の交渉は大きく前に進みます」
ハリスの将軍謁見。 それが実現すれば——交渉は一気に加速する。
史実では、安政四年十二月にハリスが将軍謁見を果たし、翌安政五年に通商条約が締結される。
つまり今年の年末が、一つの境界線だ。
その前に何ができるか?。
糸子は筆を止めて、窓の外を見た。
冬の夜の御所の方角に、いくつかの灯りが見えた。
御所は深夜も、どこかで誰かが起きている。
御門様も今夜、この寒い夜の中にいる。
御門様から三つの条件をいただいた。
その条件を、今年中に交渉の枠組みの中に組み込む。
それが糸子の今年の最大の目標だった。
五
一月の半ば、実光が近衛家に来た。
「堀田様への伝達について、一つご確認がございます」
「なんでありましょう?」
「御門様の三つの条件——相互主義、関税の自主権、金銀の適正交換——をそのままお伝えしてよろしいのでありましょうや?」
「はい。ただし御門様のお名前は出さないでくださいまし。朝廷の意向として、という形でお願いしたく」
「心得ましてございます。それからもう一つ」 実光が少し慎重な表情になった。
「父から、堀田様の最近の状況について話があり申した」
「どのような?」
「堀田様は今、阿部様との役割分担について、相当に気を張っておられるとのことでございます。阿部様のご体調がさらに優れないという話が出ていて、堀田様が事実上の主導役になりつつあるようです」
「阿部様の状態は?」
「……厳しいようでございます」
糸子は静かに頷いた。
分かっていたことだ。しかし実際に耳にすると、胸に重さが来る。
「実光様、一つお願いがありまする」
「なんでありましょう」
「阿部様に関することについて、何か新しい情報が入れば、できるだけ早くお教え願います。些細なことでも結構でございます」「……なぜでしょうか?」
「阿部様の動ける時間が限られているとすれば、その間に、阿部様との直接ではなくても間接的な意思疎通を完了させておきたいのでございます。阿部様が近衛家の立場を理解してくださっているかどうかが、後の展開に影響致しまする」
「なるほど。心得申した」
実光が帰った後、糸子は一人で座敷に残った。
阿部正弘という人物のことを、糸子は前世の歴史知識から知っていた。
三十八歳で亡くなる、早すぎる死。
諸大名への意見諮問という前例のない行動で、幕府の権威を傷つけながらも時代を変えようとした人物。
勝海舟、岩瀬忠震、江川太郎左衛門——開明的な人材を登用し続けた人物。
その人が、この年に亡くなる。
糸子にはそれを止める手段がない。
しかし——阿部が生きている間にできることがある。
近藤たちが近衛家の守護として武士の格式を得た、その経緯の中に阿部の影響がある。
その縁を、今年中にもう少し確かなものにしておく必要がある。
六
二月に入ると、京都の空気が微妙に変わった。
変わったのは天候だけではなかった。 街の空気が、少し違っていた。
近藤が朝の見回りから戻って言った。
「姫様、少しご報告があります」
「なんでありましょう」
「今朝、御所の北の辻で、三十代と思われる武士が二人、立ち話をしているのを見かけました。見慣れない顔です。藩の紋は分かりませんでした」
「どのような雰囲気でございましたか」
「怒っているような、焦っているような——どちらとも言えない雰囲気でした。
しかし声を荒げているわけではない。
静かに、しかし強い何かを持っている人間の顔でした」
「近藤殿の見立てでは、何者でしょうか」
「……志士と呼ばれる人々かもしれませぬ。最近、御所の周辺でそういう方々を見かけることが増えております」
土方が補足した。
「先月と比べて、明らかに数が増えています。江戸から流れてきた者、各藩を脱した者——理由は様々でしょうが、京都に集まってくる方向性は同じです」
「御所に近い場所に、そういう人々が増えているのでありましょうか?」
「はい。問題が起きているわけではない。しかし緊張感があります」
糸子は窓の外を見た。
二月の京都は、梅が咲き始める時期だ。
庭の梅が、白い花を少しずつ開いていた。
その美しさの中に、街全体の緊張が混じっている。
「近藤殿、旭狼衛の警戒を少し強めてくださいまし。人数は変えなくて結構でございます。ただし、見回りの頻度と時間帯を調整してくださいまし」
「承知つかまつった。具体的には?」
「早朝と夜分に、今より一回ずつ多く見回りを入れてください。特に御所への参内の前後の道筋を重点的にお願い致しまする」
「承知仕りました」
七
三月が来た。 梅が散って、京都の空に霞がかかり始めた。
その霞の中を、一つの知らせが届いた。
実光からだった。
「阿部様が、江戸城での職務を縮小されているとのことでございます。体力が続かないとのことで、実質的に老中の業務から退かれているとの話でございます」
糸子は静かにその知らせを受け取った。
来た——
歴史の流れが、また確実に前に進んでいる。
「堀田様への伝達は完了致しましたか」
「はい。先月中に、父を通じて伝達致しました。御門様の三つの条件は、堀田様の元に届いおりまする」
「堀田様の反応はいかがでしたでしょうや?」
「……慎重に受け止めておられるとのことでございます。三つの条件の内、相互主義については最も真剣に検討されているとのことでした。関税については、ハリスとの交渉の中でどこまで求められるかを見ながら判断するとのことでございます」
「金銀の比率については?」
「これが最も難しいとおっしゃっているとのことでございます。しかし——」
実光が続けた。
「堀田様が個人的に関心を持っておられるともお聞き致しました。あの問題は、幕府の財政にも直接影響することでしょうからな」
「そうでございます。金の流出は幕府財政を圧迫致しまする。その意味では、堀田様にとっても解決したい問題のはずでございます」
「利害が一致している部分でございますね」
「はい。その部分から入ることが大切でありましょう」
八
四月になった。 京の春は短い。
桜が咲き、あっという間に散った。
御所の桜が散った日、糸子はさとに呼ばれて参内した。
御門様との御前は、今回は以前より少し改まった雰囲気があった。
さとが糸子の隣に座った。
「御門様が、今日は少し長く話をしたいとおっしゃっております」
「何か特別なことがありましょうや」
「……先日、御門様の元に、幕府から使者がお参りになられました」
「使者が?」
「はい。ハリスが将軍への謁見を強く求めているとのことで、その件について御門様のご意向をお伺いしに参ったとか…」
糸子の胸が動いた。
来た。
「御門様は何とおっしゃられましたか」
「それを、今日糸子様にお話しになりたいとのことでございます」
九
小部屋で、糸子は御門様と向き合った。
「面を上げよ」
「はい」
「幕府から使者が来た。そなたも聞いておろう」
「はい、さとから伺いましてございます」
「ハリスとやらが、将軍に会いたいと言っておる。それを幕府が認めようとしておる」
「はい」
「朕にどうせよと? と聞いたら、使者は黙った」
御門様が続けた。
「黙った——というのは、朕に意見を聞きに来たのではなく、事後報告に来たということじゃ。朕の意向を問うているのではなく、こうなります、という知らせに来た」
「御門様、それは——」
「そなたが言う通りの展開じゃな」
御門様の声は、静かだった。怒りとも悲しみとも取れる静けさだった。
「朕の意向は後回しにされている。この件でも」
「……はい」
「しかし朕は今、条件を持っておる。そなたが整えてくれた条件じゃ」
「はい」
「その条件を、どのように使えばよいか——今日はそなたに聞きたかった」
糸子は深く息を吸った。
「御門様、まずお聞きしたいのですが——ハリスの将軍謁見を止めることを、御門様はお望みでございましょうか」
「止められるとは思っておらぬ」
「では——その謁見が進む中で、御門様の条件をどう活かすか、ということになりましょう」
「そうじゃ」
「それでは、お答え致しまする」
糸子は続けた。
「ハリスが将軍に謁見するということは、通商条約の交渉が実際に始まる前段階でございます。その後、交渉が具体化致しまする。条約の文書が作られ、内容が固まっていきまする。その過程のどこかで、勅許の問題が必ず出てくるでありましょう」
「幕府が朕に勅許を求めてくるのか」
「はい。前回の和親条約では、幕府は勅許なしに強行致しました。なれどその結果として、幕府の権威が傷つきました。今度は幕府も、勅許を得ようとするはずでございます」
「その時に、朕が条件を提示するのじゃな」
「そうでございます。『この三つの条件が条約に含まれれば、勅許を与える』という形になりましょう」「それで、幕府は動けるのか」
「堀田様は三つの条件を受け取っておりまする。その条件が御門様のご意向として示されれば、堀田様は交渉においてその条件を目標として持つことができましょう。すべてが実現するかどうかは交渉次第でございますが、条件があれば交渉の出発点が変わりましょう」
御門様がしばらく黙っていた。
「そなたは今、交渉に直接関わっておらぬ。しかしその枠組みを作っておる」
「さようでございます」
「枠組みを作ることが、そなたの今の役割じゃな」
「御門様がおっしゃる通りでございます」
十
「糸子よ、もう一つ聞く」
「はい」
「南蛮語の習得は進んでおるか」
「英語は、条約文を読んで問題点を指摘できる水準になりつつありまする。オランダ語も、日常的な会話ができる程度にはなってございます」
「交渉の場に座るためには、それで足りるか」
「……完全ではありませぬ。なれど、相手の言葉の大意を理解し、問題のある表現を指摘し、修正を提案する——この三つができれば、役割として最低限は果たせましょう」
「最低限、では心許ない」
「さようでごさいます。だから続けておりまする。村田蔵六殿との模擬的な交渉の練習も始めまておりまする」
「村田という方は信頼できる人物か?」
「はい。西洋の知識と、日本の現実の両方を理解している稀有な方です。わたくしには無い視点をお持ちでおります」
「そうか」
御門様が少し間を置いてから、言った。
「朕は今日、そなたに一つ正式なことを申す」
「はい」
「朕がそなたに与える役——南蛮の言葉で朕の意向を伝える役——これを、朕は正式に任じたいと思う」
「……ご正式にでございますか?」
「そうじゃ。名前が必要じゃな。役目の名前が…」
糸子は少し驚いた。
御門様が正式なお役目として任じてくださるとは——
「御門様、それは——」
「そなたが前例のないことをしようとしているのは分かっておる。しかし朕が正式に任じれば、前例ができる」
「御門様、なれど幕府から問題視されませんでしょうか?」
「幕府が朕の役職任命を問題にすることは難しい。御所の主は朕じゃ。御所に仕える者に役を与えることは、朕の権限の範囲内じゃ」
糸子は考えた。
御門様が正式な役を与えてくださるなら——交渉の場に座る根拠が生まれる。
「お役目の名前は——」
「朕が考えた。天朝外語御用掛——南蛮の語をもって天朝のお役に立てる者、という意味じゃ」
「天朝外語御用掛……」
「おかしいか」
「とんでもございません。身に余る光栄なお役目でございます」
「これでそなたは、御所の役目として、南蛮に関わることができよう。これで前例ができた」
糸子は深く頭を下げた。
「誠に有り難き幸せに存じます、御門様」
十一
御前から帰った夜、糸子はお梅に今日のことを話した。
「御門様から、正式なお役目をいただきましてございます」
「何というお役で?」
「天朝外語御用掛です」
お梅が目を丸くした。
「それは——御所の御用掛でございましょうか」
「左様でございます」
「姫君様が御所の御用掛に……」
お梅が少し黙った後、静かに言った。
「……姫様がお生まれになった時から、こんな日が来るとは思いませんでした」
「大げさですよ、お梅」
「大げさではございません」
お梅が糸子を見た。
その目に、何か深いものがあった。
「屋根を直すことから始まって、御所御用達の称号をいただいて、御門様と拝謁するようになりまして——そして今度は御所の御用掛までに…」
「まだ何もできていおりません。形だけでございます」
「形は大切でございます。形があれば、次が来ましょう」
糸子はお梅の言葉を聞きながら、そうだな、と思った。
形は大切だ。
お役目という形があれば、交渉の場に座る根拠となりうる。
根拠があれば、人が動く。
屋根の修繕も、商売の許可も、御所御用達の称号も、すべて形から始まったのだ。
「お梅、かたじけない」
「何がでしょうか」
「ずっとそばにいてくれて…」
お梅が静かに微笑んだ。
十二
翌朝、糸子は近藤に呼ばれた。
「姫様、少し話があります」
「なんでしょう?」
「旭狼衛の体制について、ご相談があります」
「はい」
「今の人数では、姫様が江戸に行かれる場合の護衛として足りるかどうかを、一度真剣に考え直したいと思います」
「どのような問題がありましょうや」
「京都での護衛と、江戸での護衛では性質が違います」
近藤が続けた。
「京都は御所の周辺という特殊な場所です。御所の格式と地形を理解した上での動きができる。しかし江戸は違う。江戸城の周辺、横浜の居留地——どちらも、わたくしたちが経験のない場所です」
「江戸に詳しい人間が必要だということでありましょうや」
「はい。旭狼衛の中に、江戸での警護の経験がある者を加えることを考えています。また——横浜に近い場所を知っている者も」
「心当たりはありまするか」
「一人います。以前、江戸の試衛館で共に稽古した者で、神奈川の出身です。今は京都にいます。声をかければ来てくれると思います」
「近藤殿にお任せ致しまする」
「それからもう一つ」
近藤が少し表情を変えた。
「土方から相談を受けました」
「何でしょう」
「江戸に行く場合、近衛家の者が江戸に滞在することになります。その間の費用と宿の問題があります。旭狼衛全員を連れて行くことは、費用の面で難しいかもしれない。何人が同行するかを決める必要があります」
「費用については天朝物産会所から出せましょう。ただし——」
「ただし?」
「何人連れて行くのかは、状況によりましょう。交渉の場の性質によって変わりまする。今の段階では、最低限必要な人数の検討をしておいてくださいまし」
「御意。土方と相談して案を作ります」
「何卒よしなに」
十三
五月になった。 京都の空に、新緑の匂いが混じり始めた。
御所の木々が濃い緑を持ち始め、風が渡るたびに葉の擦れ合う音がした。
その頃、善次郎から重要な文が届いた。
「阿部正弘様が、老中の職を事実上退かれたとのことです。今後は幕政の中枢から距離を置かれるとのこと。堀田正睦様が老中首座として幕府の主導をとられる形が確定したとのことです。」
「また、ハリス殿の将軍謁見の実現に向けた動きが、幕府内で本格化しています。年内には謁見が行われるとの見方が強まっています。」
糸子は文を閉じた。
年内に謁見。 史実通りだ。
阿部正弘が事実上退いた。
あとは——
「お梅、村田殿はいつ来られましょいや?」
「明日の午前中にいらっしゃる予定でございます」
「今日中に、英語で書いた文書を準備しておきましょう。明日の授業で確認してもらいまする」
「かしこまりました」
糸子は机に向かった。
英語で、通商条約における相互主義の必要性について書き始めた。
「The principle of reciprocity requires that——」
書きながら、糸子は村田蔵六に言われたことを思い出した。
「英語で考えることができれば、翻訳を介さずに論理が組み立てられる。それが最大の強みになります」
まだその水準には達していない。
しかし近づいている。着実に近づいている。
十四
六月、実光が青ざめた顔で来た。
「阿部正弘様が——」
糸子は実光の顔を見た瞬間に分かった。
「……逝去なされましたか」
「はい。今日の午前中に、江戸で…」
三十八歳。
分かっていた。分かっていたが——実際に聞くと、重さが違った。
糸子はしばらく黙った。
窓の外の庭では、梅雨前の光が葉に降りていた。
静かな午後の光だった。
「……よくできた方でございましたのに」
実光が静かに言った。
「わたくしも直接お会いしたことはありませぬが、父からのお話では——この国の行く先を本当に心配していた方だったとのことにございます」
「そうでございました」
「近藤殿たちの処遇を助けてくださった縁も、阿部様の判断によるものでございました」
「はい」
「……残念でなりませぬ」
糸子は窓の外を見た。
庭の木が風に揺れた。
「実光様、堀田様への伝達は、今後も同じ経路で続けられましょうや?」
「はい。父との関係は変わりませぬ。ただ——阿部様がいなくなれば、堀田様の立場もお変わりましょう。幕府内の力の関係が変わりまする」
「どのようにお変わりになりますか」
「阿部様は、開明派と保守派の間の調整役でございました。その方がいなくなれば——どちらかに振れまする。堀田様が開明派として主導できるか、それとも保守派が台頭をするのか」
「どちらだと思いまするか」
「……分かりませね。そのどちらの可能性もありましょう」
糸子は頷いた。
「実光様、お父上にお頼みたいことがございます」
「何でしょうか?」
「堀田様に、一つ伝えていただけませんでしょうか。『阿部様のご遺志は…御所の者も受け継いおりまする』と」
実光が少し驚いた顔をした。
「……御所の者が、阿部様の遺志を?でございますか」
「はい。開明的な幕府の要人と、朝廷の間の橋を作ろうとされていた阿部様の姿勢——それを近衛家は理解し、受け継ごうとしております、という意味でございます」
「……承知致しました。父には必ずお伝え致しまする」
十五
その夜、糸子は一人で帳面を開いた。
阿部正弘の死について、記録を残した。
「安政四年六月。阿部正弘様、ご逝去。享年三十八。」
「この国の近代化に向けた開明的な動きを支えた方が、また一人いなくなった。しかしその方が作った流れの一部は、今もここに残っている。近藤たちが武士の格式を得たことも、堀田様との情報経路も、その流れの中から生まれた。」
「人は去っても、作ったものは残る。」
「ならば——わたくしも、今年中に何かを作っておく必要がある。」
糸子は筆を置いた。
窓の外の京都の夜は静かだった。
しかし静けさの中に、何かが動いている気配があった。
攘夷の志士たちが御所の周辺に増えている。
ハリスが将軍謁見に向けて動いている。
阿部正弘が亡くなった。
これらの動きが、やがて一つの流れになる。
その流れの中で、糸子が作りたいものは何か。
対等な条約の枠組みだ。
相互主義を含む条約の骨格を、今年中に整えておく。
御門様の条件と、法的解釈基準と、相互主義の原則——この三つを組み合わせた交渉の論理を、英語でも日本語でも表現できるようにしておく。
そして、近藤たちが江戸に行けるだけの体制を整えておく。
これが今年のわたくしにできることだ。
糸子は新しい頁を開いて、書き始めた。
「今年残りの課題:一、英語での模擬交渉の完成。二、堀田様との情報経路の強化。三、旭狼衛の江戸対応体制の整備。四、御門様の天朝外語御用掛という役職の、関係者への周知。五、善次郎を通じた横浜・江戸の最新情報の収集。」
十六
秋が来た。 九月の京は、朝晩に冷たさが戻ってくる。
御所の木々が色づき始めた。
紅葉は、京の秋の中で最も美しいものの一つだ。
橙と赤と黄色が混ざり合って、御所の塀の向こうに揺れる様は、この世のものとも思えない美しさを持つ。
糸子は御前からの帰り道、その色に足を止めた。
今日の御前では、御門様に今年の進捗を報告した。
英語の習熟。堀田様との情報経路の維持。旭狼衛の体制強化。
御門様は静かに聞いていた。
「糸子よ、今年残り少なくなってきたが、来年はどうなると思うか」
「来年——安政五年——に、ハリスと幕府の間で通商条約の交渉が本格的に始まると思いまする」
「朕の勅許を幕府が求めてくる」
「左様でございます」
「その時が、そなたの言う枠組みを使う時じゃな」
「はい。御門様の条件として三つをご提示致しまする。それが交渉に影響を与えましょう」
「間に合うか」
「……間に合わせまする」
御門様が少し間を置いた。「そなたは今、十歳じゃな」
「はい」
「来年は十一歳になる」
「はい」
「十一歳の御用掛が、南蛮との条約交渉に関わる——本来であれば、あり得ない話じゃ」
「そうでございましょうや」
「しかし朕は、あり得ないことをあり得ることにすることが出来ると思うておる」
「御門様……」
「前例を作ることが、朕にできる一つのことじゃ。天朝外語御用掛という役目も、今までは前例がないことじゃった。なれど朕が正式に任じたことで、前例になった」
「深きご厚意に感謝いたしまする」
「礼はよい。そなたが役割を果たせば、それが一番の礼じゃ」
十七
十月になった。
善次郎から来た文に、こう書いてあった。
「ハリス殿の将軍謁見が、十二月中に実現する見通しとなりました。幕府内での調整がほぼ完了したとのことです。謁見の後、通商条約の交渉が来年初めから本格化するとの見方が強まっています。」
「また、堀田正睦様が御門様への勅許交渉に向けて、来春に上洛される予定があるとのことです。勅許を得ることを最優先課題として動かれているとのことです。」
糸子は文を読み終えて、帳面を開いた。
堀田正睦が来春に上洛する。 勅許交渉のために。
それは——直接の対話の機会になるかもしれない。
糸子は書いた。
「堀田様の上洛が来春に予定。その機会に、直接の対話を求めることができるか。実光様に相談する。」
「御門様の条件を、堀田様が上洛する前に再確認していただく。条件を持つ側と、それを受け取る側が、同じ方向を向いていることを確認する。」
「来年こそが本番だ。」
十八
師走が来た。安政四年の最後の月だった。
京都の空は冬の澄んだ青で、その青さが逆に寒さを際立たせた。
糸子は今年を振り返った。
阿部正弘が亡くなった。
御門様から天朝外語御用掛の役をいただいた。
堀田正睦との情報経路が確立した。
村田蔵六との英語の模擬交渉が軌道に乗った。
旭狼衛に神奈川出身の者が加わり、江戸対応の体制が一歩前進した。
そして——陸奥圓明流の話で、試衛館がまた妙な方向に研究を深めた。
この最後の一点については、糸子の中に複雑な思いがあった。思わず遠くを見つめてしまった…
しかし近藤は今日も言っていた。
「姫様、来年はさらに良い夢を見てください」
「……見るかどうかは分かりません」
「お体に気をつけて、沢山良い夢を見られるよう、規則正しい生活をされてくだされ」
「それは関係ないと思いますが…」
「夢は体調が良い時に良いものを見ると申します」
「…それはどこで聞いた話でしょうか?」
「自分の経験であります」
糸子は少し笑った。
近藤は、糸子が笑う時の顔が分かっている。
御簾越しでも、声の調子で分かるらしい。
「姫様が笑われると、こちらも気持ちが楽しくなります」
「大げさなことです」
「本当のことです」
十九
師走の末、糸子は帳面に今年最後の記録を書いた。
「安政四年。阿部正弘様ご逝去。御門様から天朝外語御用掛の役を賜る。堀田様との情報経路確立。英語の習熟が模擬交渉の水準に達し始める。旭狼衛、江戸対応の体制整備を開始。」
「来年——安政五年——がいよいよ本番が迫ってきた。ハリスの将軍謁見が十二月に実現し、来年初めから通商条約の交渉が本格化する見通し。堀田様が上洛し、御門様への勅許交渉を行う。その過程で、近衛家と糸子の関与の形が決まる。」
「準備は整いつつある。しかし整いつつある、というのは、整ったということではない。来年の本番に向けて、年明けから速度を上げる。」
「今年も、多くの人が動いてくれた。実光殿、善次郎、村岡、さと、村田蔵六殿、ポンペ先生、堀田様、島津斉彬様——それぞれが、それぞれの場所で動いてくれた。」
「そして近藤たちが、今年も近衛家を守り続けてくれた。」
「私は決して一人ではない。」
糸子は筆を置いた。
縁側の外で、近藤が夜番についていた。
師走の夜は深く冷えた。
しかし試衛館からは、遅くまで稽古の音が聞こえていた。
誰かが一人で木刀を振っている。 斎藤だろうか。
糸子はその音を聞きながら、来年のことを考えた。
いよいよだ。
屋根を直すことから始まったこの道が、来年、一つの大きな場所に出る。
怖くないと言えば嘘になる。
しかし—— 近藤が縁側の外に立っている。
村田蔵六が英語を教えてくれている。
御門様が条件を持ってくださっている。
堀田正睦が交渉の場で受け取る準備をしている。
一人ではない。決して…
近衛糸子は帳面を閉じた。
師走の夜の京都は、底冷えする寒さの中に静かだった。
しかしその静けさは、来年に向けた準備の静けさだった。
嵐の前の静けさではなく——動き出す前の、深い呼吸の静けさだった。
第二十九話 了




