第二十九話「安政四年の空気」
一
安政四年の正月が来た。京の夜明けは遅い。
冬の東の空が、紺から藍へ、藍から薄い橙へと変わっていく様は、御所の瓦屋根の向こうに毎朝繰り返された。
糸子は元旦の朝、その色の変わりを縁側から眺めていた。
冷たい空気が鼻の先を刺した。庭の石の上に、うっすらと霜が降りていた。
霜の白さは夜の間に積もった静けさの形で、朝の最初の光を受けて、かすかに輝いた。
新しい年だ。
しかし糸子の胸の中に、晴れやかな気持ちは半分しかなかった。残りの半分は、重さだった。
今年——安政四年——に何が起きるかを、糸子は前世の知識として知っている。
阿部正弘が亡くなる。
幕末の政において最も開明的な要人の一人が、この年に、四十にもならずに世を去る。
その死が、ご公儀の内の釣り合いを変える。
開明の方々が弱まり、より強硬な守りの方々が台頭する。
そして翌安政五年には——糸子は目を閉じた。
庭の霜が、朝の光の中でゆっくりと消えていった。
「姫様」
お梅の声がした。
「お雑煮でございます。お部屋の中でお召し上がりください。今日は格別に冷えますから」
「はい、今すぐ」
糸子は縁側から立ち上がった。
新しい年が始まる。
やるべきことはある。
二
正月の三日間は、近衛家として最低限の儀礼を行った。
父・忠房が表で公式の賀詞を受け、糸子は御簾の内で静かに待った。
来訪者の中に、実光の顔もあった。
実光は短い間だが、糸子に近づいて小声で言った。
「本年も、いよいよ変わりなくお引き立てのほど、お願い奉りたく存じまする。大事な年になりそうでございますね」
「はい。実光様も、お健やかにお過ごしあそばされますよう、伏して祈り上げ奉ります」
「堀田様への知らせの道でございますが——年明け早々に動く必要がありましょう」
「分かりました。具体的には、後ほど…」
実光が会釈して戻った。
年が明けても、天朝物産会所の戸口から、人の足は絶えなかった。看板を掲げて、まだ半月にもならない。帳場の帳面の厚みは、もう去年一年分に届こうとしていた。
糸子は御簾の内で、静かに今年の動きを頭に描いた。
第一に、阿部正弘が倒れる前に動くこと。近藤たちの処遇を通じて結ばれた阿部様との縁を、今年の前半のうちに、もう少し確かなものにしておく。
第二に、堀田正睦への、御門様の条件の伝達を済ませること。
昨年末の御前で、御門様が三つの条件を持ってくださった。
その中身を、実光、広橋権中納言、堀田という道で、正しく伝える必要がある。
第三に、英語とオランダ語の習熟を、さらに高めること。
村田蔵六との授業を、今年はより実際に近い中身に移していく。
第四に、旭狼衛の体制を、江戸へ動けるだけの形にすること。
談判が江戸で行われるかもしれない。その時は、近藤たちを連れて行くための支度が要る。
糸子は心の中でこれらを繰り返しながら、正月の儀礼が終わるのを待った。
三
正月明けの最初の授業で、村田蔵六が言った。
「今年は、英語を実際に使うことに重きを置きたいと思います」
「はい」
「具体的には——文を読み取るだけでなく、実際に言葉を使う練習を増やしたい。長崎の先生と話された時に、わたくしも感じましたが、読めることと、その場で使えることは別です」
「使う場が限られているのが、難しいところでございますね」
「はい。長崎か下田に行けば、異人と話す機会は作れますが——」
「今は、難しゅうございます」
「だからこそ、見立ての場を作りたいと思っています」
「見立ての場とは?」
「わたくしがハリスの立場を取ります。近衛様が、ご自身の立場を取る。英語で、談判の見立ての対話を行うのです」
糸子は少し考えた。
「村田殿が、ハリスの立場を取ることができましょうや?」
「完全にはできません。しかし、ハリスが下田で何をどう申し立てたか、聞き書きはいくらか手に入ります。メリケンの外交の考え方も、蘭書で少しは学んでおります。それを元に、近衛様の相手として務まると思います」
「それは良い案だと思いまする」
「それから、もう一つあります」
村田蔵六が続けた。
「相互主義の論理を、英語で話せるようになることが要ります。日本の言葉で整理した考えを、英語で言い表す練習をしたい」
「reciprocity——相互主義を、英語ではそう言いますね」
「はい。この言葉が談判の場で自然に出てくるよう、今年のうちに身につけていただきたい」
「分かりました。始めましょう」
四
その夜、糸子は帳面を開いた。今年の最初の記録だ。
書き始めながら、糸子は今年一年をどう過ごすかを、改めて整理した。
談判が近づいている。
堀田正睦との対話で感じた「急いでいる」という感覚は、年が明けても消えていなかった。
むしろ強まっている。
善次郎から届いた新年最初の文に、こう書いてあった。
「ハリスが、将軍家への謁見を改めて強く求めているとのことです。ご公儀の中で、これを認める方向での議論が始まっているとも聞きます。もし謁見が叶えば、通商の談判は大きく前に進みます」
ハリスの将軍謁見。
それが叶えば——談判は一気に加速する。
史実では、安政四年の十月に、ハリスが江戸に入って将軍謁見を果たし、翌安政五年に通商の約定が結ばれる。
つまり、今年の秋が一つの境目だ。
その前に、何ができるか。
糸子は筆を止めて、窓の外を見た。
冬の夜の御所の方角に、いくつかの灯りが見えた。
御所は夜更けも、どこかで誰かが起きている。
御門様も今夜、この寒い夜の中にいる。
御門様から、三つの条件をいただいた。
その条件を、今年のうちに、談判の枠組みの中に組み込む。
それが、糸子の今年の一番の目当てだった。
五
一月の半ば、実光が近衛家に来た。
「堀田様への伝達について、一つ確かめたいことがございます」
「なんでありましょう?」
「御門様の三つの条件——相互主義、関税の自主権、金銀の正しい引き替え——を、そのままお伝えしてよろしいのでありましょうや?」
「はい。ただし、御門様のお名前は出さないでくださいまし。朝廷のお考えとして、という形でお願いしたく」
「心得ましてございます。それから、もう一つ」
実光が少し慎重な顔になった。
「父から、堀田様の近頃のご様子について話がございました」
「どのような?」
「堀田様は今、阿部様との役の分け方について、相当に気を張っておられるとのことでございます。阿部様のお体がさらに優れぬという話が出ており、堀田様が事実上、ご公儀の舵を取りつつあるようです」
「阿部様のご容体は?」
「……厳しいようでございます」
糸子は静かに頷いた。
分かっていたことだ。しかし実際に耳にすると、胸に重さが来る。
「実光様、一つお願いがありまする」
「なんでありましょう」
「阿部様について、何か新しい知らせが入れば、できるだけ早くお教え願います。些細なことでも、結構でございます」
「……なぜでしょうか?」
「阿部様の動ける時が限られているとすれば、その間に、直にではなくとも、間を置いての意の通い合いを済ませておきたいのでございます。阿部様が近衛家の立場を分かってくださっているかどうかが、後の運びに響きまする」
「なるほど。心得申した」
実光が帰った後、糸子は一人で座敷に残った。
阿部正弘という人物のことを、糸子は前世の歴史の知識から知っていた。
四十にもならずに亡くなる、早すぎる死。
諸大名に意見を求めるという前例のない振る舞いで、ご公儀の威光を傷つけながらも、時代を変えようとした人物。
勝海舟、岩瀬忠震、江川太郎左衛門——開明の人材を、登用し続けた人物。
その人が、この年に亡くなる。
糸子には、それを止める手立てがない。
しかし——阿部が生きている間に、できることがある。
近藤たちが近衛家の守護として武士に准じる格を得た、その経緯の中に、阿部の力がある。
その縁を、今年のうちに、もう少し確かなものにしておく必要がある。
六
二月に入ると、京の空気が微妙に変わった。
変わったのは、空模様だけではなかった。街の空気が、少し違っていた。
近藤が、朝の見回りから戻って言った。
「姫様、少しご報告があります」
「なんでありましょう」
「今朝、御所の北の辻で、三十代と思われる武士が二人、立ち話をしているのを見かけました。見慣れない顔です。藩の紋は分かりませんでした」
「どのような様子でございましたか」
「怒っているような、焦っているような——どちらとも言えない様子でした。しかし声を荒げているわけではない。静かに、しかし強い何かを持っている人間の顔でした」
「近藤殿の見立てでは、何者でしょうか」
「……志士と呼ばれる人々かもしれませぬ。近頃、御所の周りでそういう方々を見かけることが増えております」
土方が言い添えた。
「先月と比べて、明らかに数が増えています。江戸から流れてきた者、藩を脱した者——理由は様々でしょうが、京へ集まってくる向きは同じです」
「御所に近い所に、そういう人々が増えているのでありましょうか?」
「はい。揉め事が起きているわけではない。しかし張りつめたものがあります」
糸子は窓の外を見た。
二月の京は、梅が咲き始める頃だ。
庭の梅が、白い花を少しずつ開いていた。
その美しさの中に、街全体の張りつめたものが混じっている。
「近藤殿、旭狼衛の警戒を少し強めてくださいまし。人数は変えなくて結構でございます。ただし、見回りの数と刻限を調えてくださいまし」
「承知つかまつった。具体的には?」
「早朝と夜分に、今より一回ずつ多く見回りを入れてください。とりわけ、御所への参内の前後の道筋を重く見てくださいまし」
「承知仕りました」
七
三月が来た。梅が散って、京の空に霞がかかり始めた。
その霞の中を、一つの知らせが届いた。
実光からだった。
「阿部様が、江戸城でのお務めを減らしておられるとのことでございます。お体が続かぬとのことで、実のところ、老中の務めから退かれつつあるとの話でございます」
糸子は静かに、その知らせを受け取った。
来た——
歴史の流れが、また確実に前へ進んでいる。
「堀田様への伝達は、済みましたか」
「はい。先月のうちに、父を通じてお伝え致しました。御門様の三つの条件は、堀田様の元に届いておりまする」
「堀田様のご反応は、いかがでしたでしょうや?」
「……慎重に受け止めておられるとのことでございます。三つの条件のうち、相互主義については、最も真剣に考えておられるとのこと。関税については、ハリスとの談判の中でどこまで求められるかを見ながら判じるとのことでございます」
「金銀の比率については?」
「これが最も難しいとおっしゃっているとのことでございます。しかし——」
実光が続けた。
「堀田様が、ご自身として関心を持っておられるともお聞き致しました。あの問題は、ご公儀の勝手向きにも直に響くことでしょうからな」
「そうでございます。金が流れ出れば、ご公儀の勝手向きを圧しまする。その意味では、堀田様にとっても解きたい問題のはずでございます」
「利の重なるところでございますね」
「はい。そこから入ることが大切でありましょう」
八
四月になった。京の春は短い。
桜が咲き、あっという間に散った。
御所の桜が散った日、糸子はさとに呼ばれて参内した。
御門様との御前は、今回はこれまでより少し改まった気配があった。
さとが、糸子の隣に座った。
「御門様が、今日は少し長くお話しなさりたいとおっしゃっております」
「何か、特別なことがありましょうや」
「……先日、御門様の元に、ご公儀から使者が参りました」
「使者が?」
「はい。ハリスが将軍への謁見を強く求めているとのことで、その件について、御門様のご意向を伺いに参ったとか…」
糸子の胸が動いた。
来た。
「御門様は、何とおっしゃられましたか」
「それを、今日姫君様にお話しになりたいとの思し召しでございます」
九
小部屋で、糸子は御門様と向き合った。
「面を上げよ」
「はい」
「ご公儀から使者が来た。そなたも聞いておろう」
「はい、さとから伺いましてございます」
「ハリスとやらが、将軍に会いたいと言っておる。それを、ご公儀が認めようとしておる」
「はい」
「朕にどうせよと? と聞いたら、使者は黙った」
御門様が続けた。
「黙った——というのは、朕に意見を聞きに来たのではなく、事の後の報せに来たということじゃ。朕の意向を問うているのではなく、こうなります、という知らせに来た」
「御門様、それは——」
「そなたが言う通りの運びじゃな」
御門様の声は、静かだった。怒りとも悲しみとも取れる静けさだった。
「朕の意向は、後回しにされておる。この件でも」
「……はい」
「しかし朕は今、条件を持っておる。そなたが整えてくれた条件じゃ」
「はい」
「その条件を、どのように使えばよいか——今日は、そなたに聞きたかった」
糸子は深く息を吸った。
「御門様、まずお聞きしたいのですが——ハリスの将軍謁見を止めることを、御門様はお望みでございましょうか」
「止められるとは思っておらぬ」
「では——その謁見が進む中で、御門様の条件をどう活かすか、ということになりましょう」
「そうじゃ」
「それでは、お答え致しまする」
糸子は続けた。
「ハリスが将軍に謁見するということは、通商の談判が実際に始まる前の段でございます。その後、談判が形になりまする。約定の文が作られ、中身が固まっていきまする。その道のどこかで、勅許のことが必ず出てくるでありましょう」
「ご公儀が、朕に勅許を求めてくるのか」
「はい。前の和親の約定では、ご公儀は御門様のお許しを待たずに結び、後から奏上いたしました。なれど、そのことが今、ご公儀を責める声の種になっておりまする。今度は、ご公儀も勅許を得ようとするはずでございます」
「その時に、朕が条件を示すのじゃな」
「そうでございます。『この三つの条件が約定に含まれれば、勅許を与える』という形になりましょう」
「それで、ご公儀は動けるのか」
「堀田様は、三つの条件を受け取っておりまする。その条件が御門様のご意向として示されれば、堀田様は談判において、その条件を目当てとして持つことができましょう。すべてが叶うかどうかは談判次第でございますが、条件があれば、談判の出発点が変わりましょう」
御門様が、しばらく黙っていた。
「そなたは今、談判に直には関わっておらぬ。しかし、その枠組みを作っておる」
「さようでございます」
「枠組みを作ることが、そなたの今の役目じゃな」
「御門様がおっしゃる通りでございます」
十
「糸子よ、もう一つ聞く」
「はい」
「南蛮の言葉の習得は、進んでおるか」
「英語は、約定の文を読んで、問題のあるところを指し示せるほどになりつつありまする。オランダ語も、日々の会話ができるほどにはなってございます」
「談判の場に座るには、それで足りるか」
「……完全ではありませぬ。なれど、相手の言葉の大意を分かり、問題のある言い回しを指し示し、直しを申し出る——この三つができれば、役目としては、最低限は果たせましょう」
「最低限、では心もとない」
「さようでございます。だから、続けておりまする。村田蔵六殿との、談判の見立ての練習も始めておりまする」
「村田という者は、信の置ける者か?」
「はい。西洋の知識と、この国の現の両方を分かっている、稀な方でございます。わたくしには無い見方をお持ちでおります」
「そうか」
御門様が少し間を置いてから、言った。
「朕は今日、そなたに一つ、正式なことを申す」
「はい」
「朕がそなたに与える役——南蛮の言葉で朕の意向を伝える役——これを、朕は正式に任じたいと思う」
「……ご正式に、でございますか?」
「そうじゃ。名が要るな。役目の名が…」
糸子は少し驚いた。
御門様が、正式なお役目として任じてくださるとは——
「御門様、それは——」
「そなたが前例のないことをしようとしているのは、分かっておる。しかし朕が正式に任じれば、前例ができる」
「御門様、なれど、ご公儀から問題とされませぬでしょうか?」
「ご公儀が、朕の役の任じ方を問題にすることは難しい。御所の主は朕じゃ。御所に仕える者に役を与えることは、朕の権の内じゃ」
糸子は考えた。
御門様が正式な役を与えてくださるなら——談判の場に座る拠りどころが生まれる。
「お役目の名は——」
「朕が考えた。天朝外語御用掛——南蛮の語をもって天朝のお役に立てる者、という意味じゃ」
「天朝外語御用掛……」
「おかしいか」
「とんでもございません。身に余る、光栄なお役目でございます」
「これでそなたは、御所の役目として、南蛮に関わることができよう。これで前例ができた」
糸子は深く頭を下げた。
「誠に、有り難き幸せに存じます、御門様」
十一
御前から帰った夜、糸子はお梅に今日のことを話した。
「御門様から、正式なお役目をいただきましてございます」
「何というお役で?」
「天朝外語御用掛です」
お梅が目を丸くした。
「それは——御所の御用掛でございましょうか」
「左様でございます」
「姫君様が、御所の御用掛に……」
お梅が少し黙った後、静かに言った。
「……姫様がお生まれになった時から、こんな日が来るとは思いませんでした」
「大げさですよ、お梅」
「大げさではございません」
お梅が糸子を見た。
その目に、何か深いものがあった。
「屋根を直すことから始まって、御所御用達の称号をいただいて、御門様の御前に参るようになられて——そして今度は、御所の御用掛にまで…」
「まだ何もできておりません。形だけでございます」
「形は大切でございます。形があれば、次が来ましょう」
糸子はお梅の言葉を聞きながら、そうだな、と思った。
形は大切だ。
お役目という形があれば、談判の場に座る拠りどころになり得る。
拠りどころがあれば、人が動く。
屋根の修繕も、商いの許しも、御所御用達の称号も、すべて形から始まったのだ。
「お梅、ありがとう」
「何がでしょうか」
「ずっと、そばにいてくれて…」
お梅が、静かに微笑んだ。
十二
翌朝、糸子は近藤に呼ばれた。
「姫様、少しお話があります」
「なんでしょう?」
「旭狼衛の体制について、ご相談があります」
「はい」
「今の人数で、姫様が江戸に行かれる時の護衛として足りるかどうかを、一度真剣に考え直したいと思います」
「どのような問題がありましょうや」
「京での護衛と、江戸での護衛では、性質が違います」
近藤が続けた。
「京は、御所の周りという特別な場所です。御所の格式と地の形を分かった上での動きができる。しかし江戸は違う。江戸城の周り、下田の御用所——どちらも、俺たちが知らない場所です」
「江戸に詳しい者が要る、ということでありましょうや」
「はい。旭狼衛の中に、江戸での警護を経た者を加えることを考えています。また——神奈川の辺りを知っている者も」
「心当たりは、ありまするか」
「一人います。以前、江戸の試衛館で共に稽古した者で、神奈川の出です。今は京にいます。声をかければ、来てくれると思います」
「近藤殿にお任せ致しまする」
「それから、もう一つ」
近藤が少し顔を改めた。
「土方から相談を受けました」
「何でしょう」
「江戸に行く場合、近衛家の者が江戸に留まることになります。その間の費えと宿の問題があります。旭狼衛の全員を連れて行くことは、費えの面で難しいかもしれない。何人が同行するかを決める必要があります」
「費えは、天朝物産会所から出せましょう。ただし——」
「ただし?」
「何人連れて行くかは、その時の事情によりましょう。談判の場の性質によって変わりまする。今の段では、最低限要る人数を考えておいてくださいまし」
「御意。土方と相談して、案を作ります」
「何卒、よしなに」
十三
五月になった。京の空に、新緑の匂いが混じり始めた。
御所の木々が濃い緑を持ち始め、風が渡るたびに、葉の擦れ合う音がした。
その頃、善次郎から大事な文が届いた。
「阿部正弘様が、老中のお務めから事実上退かれたとのことです。今後は、政の中ほどから距離を置かれるとのこと。ご公儀の舵を、首座の堀田様がお一人で取られる形が定まったとのことです」
「また、ハリス殿の将軍謁見に向けた動きが、ご公儀の内で本格的になっています。年内には謁見が行われるとの見方が強まっています」
糸子は文を閉じた。
年内に謁見。
史実通りだ。
阿部正弘が、事実上退いた。
あとは——
「お梅、村田殿はいつ来られましょうや?」
「明日の午前中に、いらっしゃる予定でございます」
「今日のうちに、英語で書いた文を支度しておきましょう。明日の授業で、見てもらいまする」
「かしこまりました」
糸子は机に向かった。
英語で、通商の約定における相互主義の要について、書き始めた。
「The principle of reciprocity requires that——」
書きながら、糸子は村田蔵六に言われたことを思い出した。
「英語で考えることができれば、訳を挟まずに論理が組み立てられる。それが一番の強みになります」
まだ、その域には達していない。
しかし近づいている。確実に、近づいている。
十四
六月の末、実光が青ざめた顔で来た。
「阿部正弘様が——」
糸子は、実光の顔を見た瞬間に分かった。
「……ご逝去なされましたか」
「はい。去る十七日に、江戸で…」
四十にもならぬお年だった。
分かっていた。分かっていたが——実際に聞くと、重さが違った。
糸子は、しばらく黙った。
窓の外の庭では、梅雨の晴れ間の光が、葉に降りていた。
静かな午後の光だった。
「……よくできた方でございましたのに」
実光が静かに言った。
「わたくしも直にお会いしたことはありませぬが、父からの話では——この国の行く先を、本当に案じておられた方だったとのことにございます」
「そうでございました」
「近藤殿たちの処遇を助けてくださった縁も、阿部様のご判断によるものでございました」
「はい」
「……残念でなりませぬ」
糸子は窓の外を見た。
庭の木が、風に揺れた。
「実光様、堀田様への伝達は、これからも同じ道で続けられましょうや?」
「はい。父との関わりは変わりませぬ。ただ——阿部様がおられなくなれば、堀田様のお立場も変わりましょう。ご公儀の内の力の釣り合いが変わりまする」
「どのように変わりましょう」
「阿部様は、開明の方々と、古い仕来りを重んじる方々の間を取り持っておられました。その方がおられなくなれば——どちらかに振れまする。堀田様がお一人で開明の方々を束ねられるか、それとも、守りの方々が頭をもたげるのか」
「どちらだと思いまするか」
「……分かりませぬ。どちらも、あり得ましょう」
糸子は頷いた。
「実光様、お父上にお頼みしたいことがございます」
「何でしょうか?」
「堀田様に、一つ伝えていただけませんでしょうか。『阿部様のお志は、近衛家の者も受け継いでおりまする』と」
実光が、少し驚いた顔をした。
「……近衛家の者が、阿部様のお志を? でございますか」
「はい。ご公儀の開明の要人と、朝廷との間に橋を架けようとしておられた阿部様の姿勢——それを近衛家は分かっており、受け継ごうとしております、という意味でございます」
「……承知致しました。父には、必ずお伝え致しまする」
十五
その夜、糸子は一人で帳面を開いた。
阿部正弘の死について、記録を残した。
「安政四年六月。阿部正弘様、ご逝去。四十にもならぬお年であった。」
「この国の新しい動きを支えた方が、また一人いなくなった。しかしその方が作った流れの一部は、今もここに残っている。近藤たちが武士の格を得たことも、堀田様との知らせの道も、その流れの中から生まれた。」
「人は去っても、作ったものは残る。」
「ならば——わたくしも、今年のうちに何かを作っておく必要がある。」
糸子は筆を置いた。
窓の外の京の夜は、静かだった。
しかし静けさの中に、何かが動いている気配があった。
攘夷の志士たちが、御所の周りに増えている。
ハリスが、将軍謁見に向けて動いている。
阿部正弘が、亡くなった。
これらの動きが、やがて一つの流れになる。
その流れの中で、糸子が作りたいものは何か。
対等な約定の枠組みだ。
相互主義を含む約定の骨格を、今年のうちに整えておく。
御門様の条件と、法的解釈基準と、相互主義の原則——この三つを組み合わせた談判の論理を、英語でも日本の言葉でも言い表せるようにしておく。
そして、近藤たちが江戸に行けるだけの体制を整えておく。
これが、今年のわたくしにできることだ。
糸子は新しい頁を開いて、書き始めた。
「今年の残りの課題:一、英語での談判の見立てを仕上げる。二、堀田様との知らせの道を強める。三、旭狼衛の、江戸へ動ける体制を整える。四、天朝外語御用掛のお役目を、然るべき方々にだけ、然るべき形でお伝えすること。五、善次郎を通じた、下田と江戸の新しい知らせの収集。」
十六
夏の終わりに、長崎から最後の英語の文が届いた。
帰国が決まった、とあった。
朱の入っていない、短い文だった。余白に、いつもの皮肉はなかった。代わりに、末尾に一行だけ添えてあった。
——I have told your name to the doctor who comes after me. His name is Pompe.
(わたしの後に来る医師に、あなたの名を伝えておきました。名は、ポンペといいます)
糸子は、その名をしばらく見つめていた。
前世の記憶の中の名が、長崎の港に着こうとしている。
秋が来た。
九月の京は、朝晩に冷たさが戻ってくる。
御所の木々が、色づき始めた。
紅葉は、京の秋の中で最も美しいものの一つだ。
橙と赤と黄色が混ざり合って、御所の塀の向こうに揺れる様は、この世のものとも思えない美しさを持つ。
糸子は御前からの帰り道、その色に足を止めた。
今日の御前では、御門様に今年の進み具合をご報告した。
英語の習熟。堀田様との知らせの道の維持。旭狼衛の体制の強め。
御門様は、静かに聞いておられた。
「糸子よ、今年も残り少なくなってきたが、これからどうなると思うか」
「年の暮れには談判が始まり、来年、安政五年には、約定の形が決まりましょう」
「朕の勅許を、ご公儀が求めてくる」
「左様でございます」
「その時が、そなたの言う枠組みを使う時じゃな」
「はい。御門様の条件として、三つをお示し致しまする。それが、談判に響きましょう」
「間に合うか」
「……間に合わせまする」
御門様が少し間を置いた。
「そなたは今、九つじゃな」
「はい」
「来年は十になる」
「はい」
「十の御用掛が、南蛮との約定の談判に関わる——本来であれば、あり得ない話じゃ」
「そうでございましょうや」
「しかし朕は、あり得ないことを、あり得ることにできると思うておる」
「御門様……」
「前例を作ることが、朕にできる一つのことじゃ。天朝外語御用掛という役目も、これまでは前例のないことじゃった。なれど朕が正式に任じたことで、前例になった」
「深きご厚意に、感謝いたしまする」
「礼はよい。そなたが役目を果たせば、それが一番の礼じゃ」
十七
十一月の初め、善次郎から文が来た。
「ハリス殿が江戸に入り、先月二十一日、公方様への謁見が叶いました。その数日後には、堀田様のお屋敷で長く話をしたとのことです。通商の談判は、年の暮れから本格的に始まるとの見方が強まっています」
「また、堀田正睦様が、勅許を得るために、来春に上洛される見込みとのことです。勅許を得ることを、何より先の課題として動いておられるとのことです」
糸子は文を読み終えて、帳面を開いた。
堀田正睦が、来春に上洛する。
勅許を得るために。
それは——直に話す機会になるかもしれない。
糸子は書いた。
「堀田様の上洛が、来春の見込み。その機に、直の対話を求められるか。実光様に相談する」
「御門様の条件を、堀田様が上洛する前に、改めてお確かめいただく。条件を持つ側と、それを受け取る側が、同じ向きを見ていることを確かめる」
「来年こそが、本番だ」
十八
師走が来た。安政四年の、最後の月だった。
京の空は冬の澄んだ青で、その青さが、かえって寒さを際立たせた。
糸子は、今年を振り返った。
阿部正弘が亡くなった。
御門様から、天朝外語御用掛の役をいただいた。
天朝物産会所は、看板を掲げて一年で、近衛家の内々の商いだった頃の何倍もの取引を抱えるようになった。
堀田正睦との知らせの道が、確かなものになった。
村田蔵六との英語の談判の見立てが、軌道に乗った。
長崎の先生が帰国し、その名がポンペへと手渡された。
旭狼衛に神奈川出の者が加わり、江戸へ動ける体制が一歩進んだ。
そして——去年の暮れの(自主規制)流の話が尾を引いて、試衛館は今年も、妙な方向に研究を深め続けた。
この最後の一点については、糸子の中に複雑な思いがあった。思わず、遠くを見つめてしまった…
しかし近藤は、今日も言っていた。
「姫様、来年はさらに良い夢を見てください」
「……見るかどうかは、分かりません」
「お体に気をつけて、沢山良い夢を見られるよう、規則正しい暮らしをなさってくだされ」
「それは、関係ないと思いますが…」
「夢は、体の調子が良い時に良いものを見ると申します」
「…それは、どこで聞いた話でしょうか?」
「自分の経験であります」
糸子は少し笑った。
近藤は、糸子が笑う時の顔が分かっている。
御簾越しでも、声の調子で分かるらしい。
「姫様が笑われると、こちらも気持ちが楽しくなります」
「大げさなことです」
「本当のことです」
十九
師走の末、糸子は帳面に、今年最後の記録を書いた。
「安政四年。阿部正弘様ご逝去。御門様から天朝外語御用掛の役を賜る。堀田様との知らせの道、確かなものとなる。英語の習熟が、談判の見立ての水準に達し始める。旭狼衛、江戸へ動ける体制の整えを始める。」
「来年——安政五年——いよいよ本番が迫ってきた。ハリスの将軍謁見が十月に叶い、年の暮れから通商の談判が始まった。堀田様が上洛し、勅許を求める。その中で、近衛家と糸子の関わり方が決まる。」
「備えは整いつつある。しかし整いつつある、というのは、整ったということではない。来年の本番に向けて、年明けから速さを上げる。」
「今年も、多くの人が動いてくれた。実光様、善次郎、村岡、さと、村田蔵六殿、長崎のステーンハイゼン先生、堀田様、島津斉彬様——それぞれが、それぞれの場所で動いてくれた。」
「そして近藤たちが、今年も近衛家を守り続けてくれた。」
「わたくしは、決して一人ではない。」
糸子は筆を置いた。
縁側まで、師走の夜の冷たさが下りてきていた。
第二十九話 了
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