第二十八話「陸奥圓明流と、また夢のこと」
一
試衛館の京道場が、さらに変わった。
安政三年の師走も末が近づいた頃、道場の前を通りかかると、以前にも増して賑やかな声がした。
聞き慣れない声も混じっている。
また人が増えたのか、と思いながら庭に回ってみると、見慣れない顔がまたさらに増えていた。
活気があった。本当に活気があった。
木刀の打ち合う音、近藤の指導の声、誰かの笑い声——それらが混ざり合って、一つの生きた空間を作っていた。
旭狼衛は今や十五名に近づきつつあった。近藤が江戸から声をかけた者、京都で腕を見て選んだ者、口伝で集まってきた者——それぞれに個性を持つ剣士たちが、近衛家の守護集団として形を整えつつあった。
糸子は道場の様子を眺めながら、この三ヶ月で随分と大きくなったと感じていた。
そして——
稽古の合間に、汗を拭いながら立ち話をしている二人の姿が目に入った。
沖田総司と土方歳三だ。
二人と目が合った。
沖田と土方が軽く頭を下げた。
糸子も会釈を返した。
そして——
糸子の頭の中に、ふっと何かが浮かんだ。
前世の記憶だ。
橘咲が十代の頃に読んだ漫画の話。
幕末を舞台にした、あの漫画の中で——確か、この二人はある武術の使い手と戦っていたはずだ。
陸奥圓明流。
ただの一度も敗北したことがない一人殺しの技を極めた無手の武術。
糸子はその漫画のことを思い出した。
虎砲。傾葵。雷。斗浪。弧月——
牙突の件はすっかり忘れていた。今この瞬間に別の何かが浮かんできた。
糸子の心の中で、前世の好奇心がむくりと頭を持ち上げた。
糸子は二人に近づいていた。
二
「調子はいかがですか」
「調子は良いですよ!」
沖田が元気よく答えた。今日も笑顔だ。
土方は糸子の顔を見た瞬間に、何かを感じ取ったのか少し身構えた。
土方の勘は鋭い。
「一度、お二人にはお聞きしたいことがあったのですが、よろしいでしょうか」
「なんですか?」
沖田がにこにこしながら答えた。
土方は黙って糸子を見ていた。
糸子は少しもじもじした。
聞かずにはいられない。これは前世から引きずっている好奇心というやつだ。完全に創作だとは分かっている。しかし——
「お二人は……むっ……」
糸子は小声になった。
「陸奥圓明流という流派を、ご存知でしょうか」
二人が糸子を見た。
沖田がきょとんとした。
「はっ?」
「平安時代から生まれてより数百年間、ただの一度も敗北したことがない——一子相伝・門外不出の技。人殺しの技を極めた、幻の無手の武術です」
糸子は期待に満ちた目で二人を見た。
沖田と土方は、糸子をまっすぐ見ていた。
しばらくの沈黙があった。
「……言っていることが、よく分かりませんが」
土方が言った。
「へえ。数百年、一度も敗北なしの無手による殺人術ですか。興味あるなぁ」
沖田が言った。目が輝いている。
その言葉が、糸子に静かに、しかし確実にクリーンヒットした。
やっぱりそうか。
現実は違うんだ。
当然だ。あれは漫画の話だ。創作だ。
「……ですよねー」
糸子は呟いた。
「やっぱり現実は何て厳しいんだろう……」
なんらかのダメージを受けたまま、糸子は二人の元を立ち去った。
項垂れながら。
三
遠ざかっていく糸子の後ろ姿を、近藤が見ていた。
「……姫様、なんか元気がないな」
隣の土方に聞いた。
「お前ら、姫様に何か言ったのか」
沖田と土方が、先ほどの会話を説明した。
陸奥圓明流。数百年一度も敗北なし。無手の殺人術。
近藤はその話を聞きながら、目が少しずつ輝き始めた。
「……陸奥圓明流」
「近藤さん、もしかして」
「これは牙突の時と同じではないか!!」
近藤が言った。確信に満ちた声だった。
「姫様がまた夢を見られたのだろう。しかし今度は、無手の殺人術とは……」
「嫌な予感がする…」
土方が言った。後退りしながら。
「絶対ろくなことにならない」
「面白そうですね!」
沖田が言った。ワクワクが全身から滲み出ていた。
「近藤さん、今度は何が出てくるんでしょう」
「夢の中の姫様に聞くしかあるまい」
近藤が決然として言った。
「今夜、姫様にお聞きしよう」
「土方さん、そんなに後退らなくても」
「俺は参加しない」
「は?」
「牙突の時、あの絵を見た後の試衛館の騒ぎを俺は覚えている。今度は無手の技だぞ。どうなるか目に見えている」
「どうなるんですか」
「全員で素手で殴り合いが始まる」
「楽しそうですね!」
「楽しくない」
四
夜になっても、糸子はまだダメージを受けたままだった。
帳面を開いていたが、英語の勉強もオランダ語の練習も、いつもより少し進みが悪かった。
「またやってしまった…」
糸子は一人で頭を抱えていた。
「牙突のことをすっかり忘れてしまっていた。牙突の時に私は確かに学んだはずだった。同じ過ちを繰り返してしまった……」
後悔先に立たず、とはよく言ったものだ。
「……でも聞いてしまったものは仕方ない」
糸子は気持ちを切り替えようとした。
しかし切り替えられないのが人間というものだ。
「姫様、少しよろしいでしょうか」
縁側から近藤の声がした。
糸子は少しだけ嫌な予感がした。
「はい、何でしょう」
「失礼します。先ほど、沖田と土方から話を聞いたのですが」
「…………」
「陸奥圓明流という、無手の殺人術についてご存知とのことで」
「…………」
「それは、また夢で見られたのでしょうか」
糸子は帳面をそっと閉じた。
「……はい。夢です。夢でございます。夢なのです!」
夢という言葉をこれでもか、というくらいに強調してみた。
「やはり!」
近藤が明らかに喜んでいた。
「その夢の中の陸奥圓明流とは、どのような術だったのでしょうか?」
「えっ、えーと……」
糸子は目を泳がせながら必死に考えた。
無手の殺人術を、公家の姫が体を使って説明することは、礼法上絶対に駄目だ。
しかし絵で説明するとしても——牙突の時と違い、今度は技の数が非常に多い。
「……絵で説明いたしまする」
「今度も絵で説明なされるのですか、また!」
「ただし……今回は、少し時間をいただけますか」
「えっ、どれくらいですか?」
「数日……いえ、一週間ほど」
「一週間?」
「夢の中に出てきた技が、一つや二つではなかったものですから…」
「!」
近藤の目が、さらに輝いた。
「そんなに技があるのですか?」
「……はい。虎砲、傾葵、雷、斗浪、弧月——数えてみると、二十種以上あったような気が」
「二十種以上!!」
「……はい」
「それは是非!ぜひとも!出来上がりましたら、お声をかけてください!」
近藤が嬉しそうに言って、退室した。
糸子は残された帳面を眺めながら、静かに頭を机に押しつけた。
「……なにをやっているんだ、私」
明らかに余計な仕事を自分で増やしてしまっている。
後悔は決して先に立たないのである。
これは永遠の真実だ。
五
一週間後、糸子は二十枚を超える絵を近藤に渡した。
それぞれに技の名前と、体の動き、どのような状況で使うかの説明が添えられていた。
虎砲の構えから、全身の力を一点に集めて打ち込む瞬間の図。傾葵という三角絞めの形。雷という一本背負いから関節を逆方向に極める動き。弧月という逆立ちからの蹴り。
近藤はそれらの絵を受け取って、一枚一枚を真剣な顔で見た。
長い時間がかかった。
「……姫様」
「はい」
「これは」
「はい」
「夢の中の話とは申せ、非常によく考えられた術体系です」
「……そうですか」
「特に——」
近藤が一枚の絵を持ち上げた。虎砲の図だ。
「この、触れた状態から全身の力を叩き込む技。これは実在するのでしょうか」
「夢の中での話ですから……実際に使えるかどうかは分かりません」
「理屈としては、大陸の武術にある寸勁に近いものを感じます」
「寸勁をご存知ですか」
「長崎で聞いたことがある者から話を聞いたことがあります。ごく短い距離から、全身の力を乗せた打撃を打つという」
「その原理と似ているかもしれません」
「しかしこの技の説明では、当たった箇所が陥没するほどの威力とある」
「……夢の中ではそうでした」
「現実では難しいでしょうな」
近藤が頷きながら言った。
「しかし原理として、全身の力を一点に集める——これは試してみる価値があります」
それを聞いて、糸子は心の中で思った。
また始まるのか。始まってしまうのか…
六
翌朝から、試衛館では陸奥圓明流についての議論が始まった。
近藤が全員を集めて、糸子の絵を広げた。
「姫様から教えていただいた無手の術について、考えたい」
全員が絵を覗き込んだ。
「これは」
「随分と種類が多いですね」
「無手で、こんなに技があるのか」
「二十種以上とのことだ」
沖田が目を輝かせながら言った。
「全部試してみたいですね」
「怪我人が出る」
土方が冷静に言った。
「まず整理しよう」
近藤が言った。「絵を見ると、大きく四種類に分けられる。打撃、投げ、関節、蹴り。そして特殊な技が幾つかある」
「特殊というのは」
「この弧月というものだ」
近藤が一枚の絵を示した。
逆立ちになって片手を床につき、そこから真っ直ぐ突き上げるように蹴る技だ。
「……逆立ちで蹴る?」
永倉新八が首を傾げた。
「実戦で使えますか、これ」
「夢の中では使えていたようです」
「夢の話か」
「しかし原理は面白い。逆立ちになることで、相手が全く予想していない角度から攻撃できる」
「逆立ち中は隙だらけでは?」
「そこが問題だな」
山南敬助が静かに言った。「逆立ちになる瞬間が最も危ない。しかし、もし既に相手を崩した状態であれば——相手が動けない一瞬があれば——使えるかもしれない」
「連続技の最後に使う、ということですか」
「その考え方は理にかなっている。一技で決めようとせず、相手を段階的に追い詰めて最後に打ち込む」
七 傾葵の検証
「まずこれを試してみたい」
近藤が傾葵の絵を示した。
相対した相手を前のめりに引き込んでの三角絞め、という説明がある。
「三角絞め、というのは」
「絵を見ると——自分の両足を使って、相手の首と腕を挟んで締める」
「柔術にも似た技があります」
山南が言った。「天然理心流の組討にも、絞め技の類いはある。しかしこの形は少し違う」
「どこが違いますか」
「相手を前のめりに引き込む——これが先にある。普通の絞め技は組み合ってから仕掛けるが、この術は引き込みが技の最初にある」
「つまり、相手の勢いを利用する」
「はい。相手が前に突っ込んでくる勢いを、そのまま絞めの体勢に変えてしまう」
「試してみよう」
近藤と永倉が向かい合った。
近藤が相手役になった。
永倉が前に踏み込む。
山南がその腕を引いた。前のめりになった永倉の上体が、山南の引きに合わせて傾く。
山南が素早く体勢を変えて——
「いた!!」
永倉が声を上げた。
首と右腕が何かに挟まれる感覚があった。
「……これは」
永倉が言った。「絞まりますね、確かに」
「しかし決めるには相手の動きがかなり大きくないと難しい」
山南が解いた後、言った。
「刀を持った相手が突撃してくる瞬間なら使えるかもしれない。しかし慎重な相手には効かない」
「では、慎重な相手に無理に突進させる方法があれば?」
「誘い込む、ということですね」
「一人が囮になって相手を突進させ、もう一人が引き込んで絞める——連携があれば使えるかもしれない」
「旭狼衛は複数での守護が基本だ。連携の技として使えるなら価値がある」
八 雷の分析
「次はこれだ」
近藤が雷の絵を示した。
逆関節を極めた一本背負いで相手の腕を折りつつ頭から落とし、逆さになった相手が空中にある間に頭部に蹴りを入れる——という説明がある。
「…………」
全員が絵を見て、しばらく黙った。
「空中に相手がいる間に蹴りを入れる」
土方が静かに言った。
「人間はそんなに空中で止まらない」
「そうですね」
「投げてから蹴りを入れるまでの時間は——」
沖田が計算するような顔をした。
「一本背負いで相手が空中に浮いている時間は、恐らく半刻の半刻ほどでしょうか。その間に蹴りを繰り出すのは……」
「難しい」
「しかし」
山南が言った。「投げる——その直後に蹴るというのは、考え方として成立する。空中の相手に当てるのは難しいが、投げた相手が地面に落ちた直後に追い討ちの蹴りを入れることは?」
「それは可能です」
「つまり、夢の中の術は少し誇張されているとしても、投げた直後に追い討ちを入れる——この発想は現実でも使える」
「連撃の技か」
「一技で終わらない。投げて、さらに攻める。相手に回復の時間を与えない」
「それは天然理心流の考え方とも一致する」
近藤が頷いた。「相手が崩れた瞬間を逃さない。そこに更に畳み掛ける」
「では、雷の現実的な解釈としては——一本背負いで相手を崩し、その直後に追い討ちの打撃を入れる、ということですか」
「そう考えれば使えるかもしれませんな」
九 虎砲の探求
「この技が一番気になる」
近藤が虎砲の絵を取り出した。
「触れた状態から全身の力を叩き込む——この原理を研究したい」
「なぜ特にこれを」
「剣術では、間合いが重要です。刀の届く距離は限られている。しかし近接では刀が使えない。そういう状況での打撃技として、これは考え方が良いと思います」
「近接での一撃か」
「はい。狭い室内で相手に詰め寄られた時、刀が使えない場面がある。そういう時に、全身の力を一点に集めた打撃が使えれば——」
「牙突と同じ状況での使用を想定しているのですか」
「室内戦という観点では近いですね。牙突は刀を使った突きの研究だった。虎砲は素手での、しかし原理は似た方向の研究です」
土方が腕を組んだ。
「実際に、全身の力を一点に集めることはできるのか」
「試してみましょう」
近藤が立ち上がった。
道場の柱の前に立った。
「この柱を叩いてみます。普通の打ち方と、力を集めた打ち方で、どう違うか見てください」
近藤がまず普通に柱を叩いた。
次に——少し腰を落として、重心を下げて、全身を一瞬静止させてから——叩いた。
音が違った。
「……なるほど」
山南が言った。「同じ力で叩いているように見えたが、音の深みが違う」
「重心が違います」
「重心を下げて、腰から上の力を下に送り込むような感覚があります」
「これは天然理心流の体使いにも通じる部分がある」
「相手の体に直接当てた場合、どう違うのか」
「人を相手には試せませんが——感覚として、拳が当たった後に力が乗り続ける感じがあります。普通の打撃は当たって終わりだが、これは当たってから押し込む感覚がある」
「それが内部への衝撃を生む原理では」
「恐らく」
「しかし姫様の——夢の中の術のように、当たった箇所が陥没するほどの威力は」
「難しいと思います」
土方が言った。「人の肉体の頑強さを考えれば、一撃でそこまで破壊するのは——」
「しかし考え方として、押し込む打撃——衝撃が奥まで伝わる打ち方——は研究する価値がある」
「刀が使えない場面での補助技として」
「はい。室内戦で相手に詰められた時、牙突に繋げる前の崩しとして使えるかもしれない」
十 狼牙と獅子吼の実践検証
「この二つが面白い」
沖田が絵を持ち上げた。
狼牙——立った状態で腕挫腕緘を極め、眉間に肘を打ちながら後方に刈り倒す技。
獅子吼——相手の拳で腕が伸び切った瞬間、自らの首を支点にして外側から腕を叩き付けて肘を折る技。
「どちらも、相手の動きを利用するという点が共通しています」
「沖田がそう感じましたか」
「はい。狼牙は相手を押し込む。獅子吼は相手の腕が伸び切った瞬間を狙う。どちらも相手の勢いを逆用している」
「天然理心流の考え方——力には力で対抗しない——と一致しますね」
「そうです。力の強い相手に対して、正面から受け止めるのではなく、体を捌いて力を逃がす。この方向性と同じです」
「では実際に試してみましょう」
沖田と永倉が向かい合った。
永倉が右手を大きく振り上げる動作をした。
沖田がその腕の外側に体を寄せた。
腕が伸び切った瞬間——
沖田が首を傾けるような動作をしながら、自分の腕で永倉の腕を外側から叩いた。
「……っ」
永倉の腕に鈍い衝撃があった。
「……肘に来ます」
「痛みはありますか」
「かなり来ます。実際に力を込めてやられたら——」
「肘の関節が危ない」
「肘を折ることはできるか」
「相当な力と速度が必要ですが——完全に伸び切った状態で正確に当てれば、可能かもしれない」
「しかし相手もそう簡単には腕を伸び切らせない」
「だから誘い出す必要がある。牙突と同じですね——相手の動きを引き出して、そこに技を入れる」
「組み合わせると強い」
山南が言った。「牙突で突いて、相手が腕で払った瞬間——その腕が伸び切ったところで獅子吼を入れる。連携として成立する可能性がある」
「牙突に繋がった!」
沖田が嬉しそうに言った。
「室内戦の連携として、牙突→獅子吼という流れが使えるかもしれない」
十一 浮身の考察
「この技は一番奇妙に見えるが、一番大切かもしれない」
山南が一枚の絵を持ち上げた。
浮身——相手から打撃を受けた際、力の方向に合わせて跳ぶことにより、受けた攻撃の衝撃を逃がす。
「受けた打撃を逃がす——ということは、防御の術ですか」
「はい。しかし単純な防御ではない」
「どういう意味ですか」
「打たれた方向に跳ぶ——これは普通は逆です。打たれたら後退する。しかしこの術は、打たれた勢いに乗って自分から跳ぶ」
「なぜそうするのか」
「衝撃を逃がすためです。固く受け止めれば、力がそのまま体に伝わる。しかし力の方向に自分が動けば、衝撃が分散される」
「……柔の理ですね」
近藤が言った。「剣術でも、相手の力を正面から受けず、体を捌いて逃がすことは重要な考え方です。それを打撃の受け方に応用している」
「傍目には強烈に吹き飛ばされたように見える、と書いてある」
「つまり——わざと大げさに飛んで見せることで、相手に『手応えがあった』と錯覚させることもできるかもしれない」
「相手を油断させる?」
「はい。大きく飛んで、相手が『決まった』と思った瞬間に立て直す。その一瞬の隙に攻める」
「……それは、かなり使えます」
「この考え方は、旭狼衛の守護においても使える。護衛対象を守る時、自分が倒れたように見せかけて相手を引きつけ、その隙に仲間が動く」
「陽動の術として」
「はい」
十二 総合的な考察
夜になって、全員が道場に集まった。
今日一日の研究の結果を整理する時間だった。
「陸奥圓明流——姫様がご覧になった夢の術について、一日研究して分かったことを整理しよう」
近藤が言った。
「まず、この術の根本にある考え方は何か」
山南が答えた。
「二つあると思います。一つは、相手の動きを先読みして、その動きに合わせて技を入れること。もう一つは、力には力で対抗せず、相手の力を利用することです」
「その二つは、天然理心流の考え方とも重なります」
「はい。だからこそ、この術の技の多くは——夢の話として多少の誇張はあるとしても——原理として理解できる」
「では、現実で使えると判断したものは」
「傾葵の前のめり引き込み——連携であれば成立する。狼牙と獅子吼——相手の勢いを逆用する発想は正しい。虎砲の押し込む打撃——原理は正しいが、夢ほどの威力は出ない。浮身——打撃を受けた際に力の方向に跳んで衝撃を逃がす——これは実践的な防御として有用」
「現実では難しいと判断したものは」
「弧月の逆立ちからの蹴り——逆立ちになる瞬間の隙が大きすぎる。ただし、崩した相手への仕上げとして使うなら可能性はある。雷の空中への追い討ち蹴り——空中に止まれない。しかし投げた直後の追い撃ちとして解釈すれば使える」
「つまり」
土方が言った。「夢の技は——無手の合理的な戦い方の原理を、誇張した形で表現したものだ。直接使えるものは少ないが、原理から学べることは多い」
「そういうことです」
「牙突との連携という可能性は」
「はい。牙突で突いて、相手が払った瞬間に獅子吼で肘を取る——これは連携として研究する価値があります」
「室内戦において、刀と無手の組み合わせ——これは旭狼衛の戦い方として磨いていけると思います」
十三
数日後、近藤が近衛家を訪ねてきた。
「姫様、少しよろしいでしょうか」
「はい、何でしょう」
「例の、夢でご覧になった陸奥圓明流の技についてです」
「……はい」
「研究をした結果をご報告したいと思いまして」
「そうですか……どうぞ」
近藤が報告した。
傾葵の引き込みの発想が連携技として使えること。獅子吼と牙突の組み合わせが室内戦で有効なこと。浮身の考え方が防御として実用的なこと。虎砲の押し込む打撃の原理が天然理心流の発展に使えること。
「それから——」
近藤が続けた。「姫様の絵にあった術のすべてを試したわけではありませんが、原理として学べるものが多くありました。特に、相手の力を利用するという考え方は、これからの旭狼衛の鍛錬に取り入れたいと思っています」
「そうでございますか…」
「かたじけなく存じます。今回も姫様の夢から多くを学べました」
「……よかったですね」
近藤が続けた。
「それから一つ、確認したいのですが——この術の中に、虎砲という押し込む打撃がありましたね」
「はい」
「これを天然理心流の体術として研究しています。名前をそのまま使わせていただいてよろしいですか」
「どうぞ……」
「かたじけなき幸せ。それから獅子吼も——牙突との連携技として研究中です。姫様、また夢で何か見ましたら、ぜひ教えてください」
「……気が向いた時に」
「失礼します」
近藤が嬉しそうに立ち去った。
糸子はその後ろ姿を見送ってから、ゆっくりと空を見上げた。
「……またやってしまった」
師走の空は高く、澄んでいた。
「……本当にごめんなさい!!!」
誰に謝っているのかは、やっぱり分からなかった。
前世の漫画を描いた人に、かもしれない。
あるいは陸奥の末裔がもし存在するなら、その人に、かもしれない。
十四
糸子はしばらく空を見ていた。
そして——
ふと思った。
今度は、九頭なんちゃらを言ってみようかな。
あるいは天翔けるなんちゃら……
いや、駄目だ。
牙突も、陸奥圓明流も——どちらも前世の漫画の話で、どちらも現実に「使える部分がある」と近藤たちに判断されてしまった。
これ以上何かを言えば、試衛館がどこに向かうか分からない。
それは余りにも危険すぎる…
糸子は真剣に悩んだ。
しかし悩みながらも、帳面を開いていた。
そこには前世の記憶の中にある、別の漫画の術の名前がいくつか浮かんでいた。
糸子は帳面を閉じた。
開いた。
また閉じた。
やっぱりやめておこう。
そう思いながら、また開いた。
いや、しかし——
縁側の外から、試衛館の稽古の声が聞こえてきた。
近藤の声だ。
「もう一度。その押し込み方——虎砲の体使いを意識して」
全員が稽古をしている。
前世の漫画から取り出した技の考え方を、今この幕末の剣士たちが真剣に研究している。
糸子はその声を聞きながら、帳面をそっと閉じた。
今のところは、やめておこう。
本当の仕事——英語の練習、相互主義の論理の整理、御門様の条件のまとめ——そちらに集中しよう。
近衛糸子は深く息を吸って、帳面の別のページを開いた。
師走の終わりが近づいていた。
安政三年が、もうじき終わる。
来年——安政四年——に何が来るかを糸子は知っていた。
阿部正弘の死。幕府の開明派の力の弱まり。交渉の加速。
前世の漫画の話に時間を使っている場合ではない。
そう思いながらも——
糸子の目は、帳面の端に小さく書かれた文字に止まった。
「九頭……」
糸子は素早くその文字を消した。
集中しよう。
今は、集中しよう。うん、そうしよう…
第二十八話 了
懲りない糸子さん…(;^_^A




