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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第二十六話「相互主義という武器」

 堀田正睦が近衛家を去った後、糸子はしばらく座敷に座ったままでいた。

 お梅が茶を入れ直してくれた。

 糸子は茶を受け取りながら、今日の対話を頭の中でゆっくりと反芻していた。

 堀田は本物だ、と思った。

 島津斉彬も本物だった。

 しかし今日の対話を通じて、糸子は別のことを感じ始めていた。

 現実感が、急に増してきている。

 今まで「三年後」という言葉で語っていた交渉が、堀田の言葉を聞いてから、「もしかすれば一年後かもしれない」という手触りになってきた。

 ハリスが急いでいる…

 堀田もそれを知っていて、対処に追われている。

 時間軸が、糸子の想定より速く動いているように思えた。

 糸子は茶を一口飲んだ。

 冬の茶は、体の芯を温めた。

 頭の中を整理した。


 夜になってから、糸子は帳面を四冊すべて開いた。

 珍しいことだった。普段は一冊だけ開いて作業をする。四冊同時に開く時は、全体を見渡す必要がある時だ。

 糸子は日米和親条約と日米修好通商条約について、自分の知っていることを書き出し始めた。

 前世の歴史知識として知っていることと、この世界で実際に確認したこと——その二つを並べた。

日米和親条約(一八五四年、嘉永七年)

 下田・箱館の開港。漂流民の保護。薪水・食料の補給。領事駐在の許可。

 問題点として第十一条の英文と和文の差異があった。「either government」と「両国政府の合意」の間の、解釈の落差。

 この条約はまだ通商を認めていない。しかし鎖国の原則を崩した点で、象徴的な意味を持つ。

日米修好通商条約(一八五八年、安政五年——まだ来ていない)

 領事裁判権の容認。関税自主権の喪失。箱館・新潟・横浜・兵庫・長崎の五港の開港。江戸・大坂の開市。外国貨幣と日本貨幣の同種同量交換。

 この条約が、明治になっても改正できず、日本が五十年かけて少しずつ取り戻すことになる問題の根だ。

 糸子は書きながら、一つのことを繰り返し考えた。

 法的解釈基準——条約文の言葉の意味を一義的に定める方法——は、確かに重要だ。

 しかし、それだけでは足りない。

 なぜ足りないか。

 糸子は書いた。

「法的解釈基準は、条約の文書が確定した後に有効になる。しかし問題の多くは、文書が確定する前の交渉の段階で起きる。文書に書かれた言葉が、最初から日本に不利な前提で書かれていれば、いくら解釈を精密にしても根本は変わらない。」

 つまり——

 条約の文書が作られる時点で、どのような前提の下で作られるかが決定的に重要だ。

 その前提とは何か。

 糸子はしばらく考えた後、書いた。

「前提とは:一方がもう一方に何かを与える時、その行為は相互的でなければならないという原則。」

 それを書いた瞬間、糸子の頭の中で何かが動いた。


 相互主義。

 その言葉が、糸子の記憶の中から浮かんだ。

 前世でバイヤーをしていた頃、海外との取引で常に問題になっていたのは「相互性の確保」だった。

 こちらが何かを与えれば、相手も同じものを与える。

 一方が得するだけの契約は、長続きしない。

 しかしそれは商売の話だ。

 国家間の条約でも、同じことが言えるか。

 糸子は前世の記憶をたどった。

 ウィーン条約法条約が一九六九年に採択される前から、相互主義の原則は国際法の慣習として存在していた。

 それはウェストファリア条約(一六四八年)以後の国際秩序——主権国家が対等に並ぶ体制——から自然に導き出された原則だ。

 対等な主権国家が並ぶ。

 しかしその間に、ルールを強制する上位の権力がない。

 ならば——国家は自己防衛のために、「相手がやるなら自分もやる」という原則を持つ必要がある。

 それが相互主義の根拠だ。

 糸子は書いた。

「相互主義とは:相手国が自国民に与えた権利は、自国も相手国民に与えるべきという原則。A国がB国の国民に何かを認めれば、B国もA国の国民に同じことを認める。」

 そしてその下に書いた。

「重要な事実:日露和親条約(一八五五年)においては、この相互主義が守られていた。領事裁判権について、ロシア人はロシア領事が裁き、日本人は日本の役人が裁くという形式的な平等が認められていた。」

「しかし日米和親条約にはこの相互性がない。アメリカ人は領事が裁くが、日本人をアメリカで裁く権利は日本に与えられていない。」

 これが問題の核心だ。

 日露条約と日米条約の差は何か。

 日露条約の方が、相互主義の原則に沿っている。

 日米条約は一方的だ。


 糸子は立ち上がって、縁側に出た。

 冬の夜の空気が、頬を刺した。

 遠くに御所の方角の暗闇がある。

 糸子は冷たい空気の中で、考えを整理した。

 日露和親条約に相互主義があるなら——

 それを根拠として使えないか。

 「日本はロシアとの間に相互主義に基づく条約を結んでいます。日露和親条約を見てください。ロシア人はロシア領事が裁き、日本人は日本の役人が裁く。これが対等な国家間の条約のあるべき形です。なぜアメリカとの条約では、この原則が守られないのですか」

 これは、交渉の場で使える論理だ。

 なぜなら——

 アメリカ自身が、相互主義の原則を知らないはずがない。

 アメリカもヨーロッパの国際法の体系の中にある。一六四八年以後の主権国家の秩序の中で、アメリカは独立を宣言し、列強の一員として振る舞っている。

 その体系の中に生きるアメリカの外交官に、「相互主義の原則によれば、あなた方の要求は原則に反します」と言うことは——

 正面から否定することができない主張だ。

 糸子は縁側に座った。

 冷たい板の上に、着物の裾を整えながら座った。

 なるほど。

 法的解釈基準は「条約文の言葉をどう読むか」という問題だ。

 相互主義は「条約がどのような前提で結ばれるべきか」という問題だ。

 この二つは、補完関係にある。

 相互主義で「条約は対等でなければならない」という前提を固め、法的解釈基準で「文書の言葉を正確に一義的に定める」という方法を使う。

 前提と方法が揃えば、交渉の論理的な骨格ができる。


 翌朝、糸子は村田蔵六に相談した。

「村田殿、一つ確認させてくださいまし」

「何でしょう」

「日露和親条約において、領事裁判権が相互的な形になっていることはご存知でございましょうか」

 村田蔵六が少し考えた後、答えた。

「はい、知っております。ロシア側の交渉では、プチャーチンが相互主義を重視した形で条約をまとめたと聞いています。日本人はロシアで日本の役人が裁くという形式です」

「それは日米和親条約と異なりましょうか」

「異なります。日米和親条約には、メリケン人に対する領事裁判権の条項はありますが、日本人がメリケンで日本の管轄を受けるという規定はありません。形式的な相互性がない」

「その差を、通商条約の交渉において根拠として使えると思いましょうや?」

 村田蔵六が少し時間をかけて考えた。

「……理論として使えます。日露和親条約を先例として示し、それと同水準の相互主義を通商条約にも求める——これは論理的に整合しています」

「実際に通じましょうか?」

「それは別問題だと考えます」

 村田蔵六が率直に言った。

「理論として正しくても、交渉の場では力関係が優先されることがあります。メリケンは軍事的に優位にある。その優位が交渉に影響を与える。いくら理論が正しくても、相手が受け入れなければ意味がない」

「その通りでございます。だからこそ——」

 糸子は言った。「相互主義を単独で使うのではなく、他の要素と組み合わせる必要がございます」

「他の要素というのは?」

「御門様の勅許問題でございます」


 糸子は説明を続けた。

「メリケンが急いでいることは、堀田様との対話でも確認致しました。ハリスは早く条約を結びたいと考えておりまする。なぜなら本国からの指示と任期の問題がございます」

「はい」

「急いでいる相手に対して、日本側が明確な条件を提示すれば、交渉が一点に集中致します。『この条件なら早期に結べる』という形にすれば、メリケンの時間的な焦りを逆用できましょう」

「その条件として相互主義を使うと?」

「そうでございます。『日露和親条約と同水準の相互主義を条文に明記するなら、御門様の勅許を得る道が開けましょう』——これが日本側の提示できる最も強い条件でございます」

 村田蔵六が静かに考えていた。

「……御門様の勅許を勝手に担保として使うことは、難しくはないでしょうか」

「御門様とはこれから改めてお話し致しまする。御門様の条件を先に固めて、それをもとに交渉する形とするのでございます。順序が重要でございます」

「なるほど。御門様の条件が先に決まっていれば、交渉でそれを提示することに正当性が生まれしょう」

「はい。そして御門様の条件として相互主義を含めることができれば——」

「相互主義は単なる日本側の要求ではなく、帝のご意向として示せる」

「そういうことでございます」

 村田蔵六が頷いた。

「論理の構造としては、かなり強いです」

「なれど…」

 糸子は続けた。「問題がまだありまする」

「何ですか?」

「相互主義という原則を、ハリスに理解させることでございます。メリケンの外交官が、この原則を知っていることは確かでございます。なれど知っていることと、交渉の場でその論理を受け入れることは違いましょう」

「相手が知っている原則を使えば、否定しにくい——とおっしゃっていましたね」

「はい。しかし否定しにくいことと、受け入れることは別でございます。相手は『日本は文明的に劣る国だ、相互主義のような近代的な概念は適用されない』という論理で逃げるかもしれませぬ」

 村田蔵六が少し間を置いた後、言った。

「……それは、メリケンが当日実際に使いそうな論理ですね」

「はい。だからこそ、それへの反論も準備しておく必要がありましょう」


 糸子は帳面を開いて、想定される反論と、その反論への返し方を書き始めた。

アメリカ側が使いそうな論理と、その返し方

「①相互主義は西洋の近代的な概念だ。日本のような東洋の国には適用されない」

 返し方として「ロシアとの条約において、日本はすでに相互主義に基づく合意をしています。日本は相互主義の概念を理解し、それに基づいて行動する能力があることを、日露条約が証明しています」

「②日本は鎖国をしていた。国際法の慣習を積んでいない」

 返し方として「日本は二百年以上にわたって長崎・対馬・薩摩・松前という四つの口を通じて対外関係を維持してきました。独自の外交の慣習を持っています。また、日露和親条約の締結において、日本は相互主義を理解して合意しました」

「③領事裁判権は日本の法制度が未整備だから必要だ」

 返し方として「では、日本の法制度が整備された段階で、領事裁判権を廃止する条項を条約に明記してください。制度の整備という条件が満たされれば廃止する——という形なら、双方にとって合理的です」

 この三番目の反論への返し方を書いた時、糸子は少し手を止めた。

 三番目の返しは——実は現代の国際法的な解決策と同じ方向性だ。

 条件付きの条項を入れる。制度整備という条件が満たされれば、不平等な条項が消える仕組みを最初から作っておく。

 これは明治政府が最終的に使った論理だ。条約改正の主張として「日本の法制度は西洋と同水準になった。だから領事裁判権は必要ない」という論理で、一八九四年に撤廃を実現した。

 しかし糸子は今、安政三年にその種を蒔こうとしている。

 条約の本文に、最初から「条件付きで廃止できる」という条項を入れることができれば——後の改正が、より早く、よりスムーズになるかもしれない。

 糸子は書いた。

「領事裁判権については、廃止条件を条文に明記することを求める。条件は:日本の法制度が西洋と同水準に整備されたと双方が認めた場合。これは将来の改正を容易にする布石になる。」


 糸子は書き続けた。

 頭の中に積もっていた問いが、形になっていく感覚があった。

 次は金銀比率の問題だ。

外国貨幣と日本貨幣の同種同量交換の問題

 これも相互主義の観点から問えるか。

 糸子は考えた。

 日本の金銀比率は金一に対して銀五。国際的な比率は金一に対して銀十五。

 この差を利用してアメリカ商人は金を大量に持ち出した。

 相互主義の観点から言えば——「同種同量」という言葉は一見対等に見えるが、実際には一方に有利な結果をもたらす。

 同種同量の交換が相互主義なのではなく、実質的な等価交換が相互主義だ。

 糸子は書いた。

「外国貨幣と日本貨幣の交換については、額面での同種同量ではなく、実質的な価値での等価交換を求める。国際市場における金銀の実際の比率を基準とした交換レートを設定する。」

 これを実現するためには——

 交渉の場で金銀の国際比率を示す必要がある。

 糸子は次の項目を書いた。

「準備事項:金銀の国際的な比率についての文書化。オランダ商館またはアメリカ側の記録から、当時の国際市場での金銀比率を示せるデータを収集する。」

 村田蔵六かポンペに頼めば、オランダ語の資料からこのデータが取れるかもしれない。

 善次郎に頼めば、横浜の商館からも情報が得られるかもしれない。


 翌日の授業の後、糸子は村田蔵六に相互主義の話をさらに深く聞いた。

「村田殿、ヴァッテルの国際法論に相互主義についての記述はありましょうや?」

 村田蔵六が少し驚いた顔をした。

「ヴァッテルをご存知でいらっしゃいますか」

「名前だけでございます。村田殿が以前、条約の解釈についてヴァッテルの名前を挙げてくださいました」

「はい。ヴァッテルは一七五八年に『国際法』を著しました。その中に、国家間の条約の原則として相互主義についての記述があります」

「具体的にはどのような内容でございますか?」

「……正確に覚えていませんが、大意としては:条約は当事国双方が義務を持つものであり、一方のみが義務を持つ条約は、真の意味での合意とは言えない——という趣旨のことが書かれていたと思います」

「その書物は、今の幕府の交渉担当者が知っている可能性はありましょうか」

「岩瀬忠震殿や堀田様のような開明的な方なら、その名前は知っているかもしれません。しかし内容まで詳しく知っているかどうかは……」

「ではハリスは?」

「ハリスは外交官として、国際法の基礎は学んでいるはずです。ヴァッテルの著書は当時のヨーロッパとメリケンで外交の必読書的な位置づけでした」

「つまりハリスはヴァッテルを知っている可能性が高いのでございますね」

「そうです」

「そしてヴァッテルは相互主義について書いている…」

「はい」

「ならば——」

 糸子は静かに言った。「交渉の場で、ヴァッテルの著書を参照しながら相互主義を主張することは、ハリスが知っている原則を使うことになります。ハリスが論理的に反論しにくい形になりましょう」

 村田蔵六が頷いた。

「……その通りです。ただし——」

「ただし?」

「その著書を、日本側が持っていることをハリスが知れば、ハリスは驚くでしょう。日本側が国際法の文献を参照していることは、ハリスの想定外かもしれません」

「それは良いことですか、悪いことですか」

「場合によります」

 村田蔵六が続けた。「ハリスが驚いて、日本を相互主義の原則を理解できる国として扱い始めれば、良い方向に動く。しかしハリスが脅威を感じて、より強い圧力をかけてくる可能性もある」

「その判断は、実際の交渉の場でしかできませぬ」

「はい。事前に準備しておいて、使うかどうかは状況次第、ということです」


 夕刻、糸子は善次郎への文を書いた。

「一つお調べいただきたいことがあります。横浜のアメリカ商館またはオランダ商館において、現在の金銀の国際的な交換比率に関する記録や文書があるかどうかをお調べください。また、日米和親条約締結前後の時期における、メリケン側の金の持ち出しについての記録も、可能な範囲で確認してください。」

 文を書き終えて、糸子は別の紙を取り出した。

 御門様への御前の準備だ。

 さとからは「来週に時間が取れる」という返事が来ていた。

 御門様に伝えることを整理した。

 一つ目は、堀田正睦との対話の報告だ。

 二つ目は、相互主義という原則についての説明だ。

 御門様に相互主義を理解していただく必要がある。

 しかしどう説明すればいいか。

 糸子は考えた。

 御門様は儒学と神道の教育を受けてきた方だ。西洋の国際法の概念をそのまま示しても、馴染みがない。

 しかし相互主義の根本は、日本にも通じる考え方のはずだ。

「相手に何かを求めるなら、自分も同じことを相手に与える」

 これは互恵の精神だ。儒学的にも、神道的にも、この考え方は存在する。

 糸子は書いた。

「御門様への説明:相互主義を日本の言葉で表すなら、互いに礼を尽くすということです。一方だけが礼を尽くし、もう一方が礼を尽くさない関係は、長続きしません。条約においても同じことが言えます。日本がアメリカに何かを認めるなら、アメリカも日本に同じことを認めなければならない。この原則を条約に明記することが、御門様が求める『対等な関係』の具体的な形です。」

 これなら御門様に伝わる、と糸子は思った。


十一

 その夜、近藤が縁側に来た。

「姫様、最近よく灯りが遅くまでついていますが…」

「考えることが多くて…」

「お体は大丈夫ですか?」

「大丈夫でございます。近藤殿こそ、毎晩夜番で疲れませぬか?」

「慣れております。それに——」

 近藤が少し間を置いた。

「姫様の灯りが見えている間は、なんぜか安心いたします」

「何故でしょうか?」

「考えている姫様は、危なくない姫様だからです。危ない時は、姫様は動いています。考えている時は、まだ動いておりませぬ」

 糸子は少し笑った。

「では、わたくしが動いた時が心配ということでしょうか」

「はい」

「動く前に伝えましょう。いつ動くかを…」

「それだけで十分です」

 近藤が静かに座った。

「姫様、交渉の準備は進んでおりますか」

「少しずつ。新しい考え方が出てきました」

「どのような?」

「相互主義という原則です」

 糸子は続けた。「国と国が条約を結ぶ時、一方だけが得をする形にしてはならない、という原則でございます。メリケン人が日本でメリケンの法律で裁かれるなら、日本人もメリケンでメリケンの法律ではなく日本の規則の下に置かれるべきだ、という形の主張でございます」

「……なるほど」

「この原則は、すでに日露和親条約の中に含まれておりまする。だから先例として使えましょう」

「日露の条約を根拠にして、メリケンにも同じことを求めるのですな」

「はい。理論として正しいだけでなく、先例がある。これが強みでございます」

 近藤が少し考えた後、言った。

「……剣術で言えば」

「はい」

「先例のある技は、否定しにくいですね。実際に誰かが使って、実戦で効いたという記録がある技は、『その技は使えない』と否定するのが難しい」

「その通りでございます。理論だけより、実例がある方が強いのです」

「牙突も、実際に試して効果が出たから、技として認められました」

「そういうことでありましょう」

 糸子は夜空を見た。

「近藤殿、一つ聞いてもよろしゅうございますか?」

「何でしょう…」

「交渉が想定より早まる可能性が出てきました。来年中に始まるかもしれない。その場合、旭狼衛の人数はどのくらいになりましょうや」

「今の道場に十二名います。来春には十五名になれると思います。ただし全員が実戦で使える水準に達するまでには、もう少し時間が必要です」

「十五名で足りましょうや?」

 近藤が静かに言った。

「姫様がどのような場所に行くか、によると思います」

「江戸の可能性がありまする。あるいは横浜」

「江戸か横浜…ですか」

「条約交渉の場でございます」

 近藤がしばらく黙った後、言った。

「準備します。江戸と横浜を知っている者を、旭狼衛に加える必要があります。それは俺が考えます」

「お願いいたします」

「一つだけ確認させてください」

「はい」

「姫様がその場に行く時、俺たちはどのような立場で同行しますか。旭狼衛の守護者として、それとも別の形で」

 糸子は少し考えた。

「堀田様との関係が続けば、何らかの形で正式な役割が生まれる可能性がありましょう。そうでなければ……そなたらが近衛家の者として同行する形になると思いまする」

「近衛家の者として江戸に行くことは、幕府から問題視されませんか」

「問題視されないよう、事前に関係を整えましょう。堀田様との経路がその一つでございます」

「分かりました」

 近藤が頷いた。

「姫様が動く時のために、俺たちも動き続けます」


十二

 翌朝、糸子は四冊の帳面を開いて、昨夜考えたことの全体像を書き直した。

交渉の三つの柱

 第一の柱として相互主義の原則がある。日露和親条約を先例として示し、通商条約においても相互主義を求める。領事裁判権の条件付き廃止条項を求める。金銀比率の実質的等価交換を求める。

 第二の柱として法的解釈基準がある。条約文の重要な言葉を定義する条項を入れる。解釈が分かれる可能性のある表現を避ける。目的を前文に明記し、解釈の基準を固める。

 第三の柱として御門様のご意向の正式な反映がある。御門様の条件を事前に固め、堀田様への情報として提供する。条約の勅許を、「この条件なら認める」という形で提示してもらう。

 この三つが揃った時、日本側の交渉の論理的な骨格ができる。

 糸子は最後に書いた。

「これは防衛のための交渉だ。日本が外国に何かを攻撃的に求めているのではない。日本が持つべき権利を、正当な原則に基づいて守ろうとしているだけだ。」

「その正当な原則とは:主権国家は対等であり、対等な関係に基づく条約は相互主義を含まなければならない、というウェストファリア体制以来の慣習だ。」

「アメリカはその慣習の中に生きている。だからこの主張を、論理的に否定することはできない。」

「できるのは、力で押し切ることだ。」

「しかし力で押し切ることには、費用がかかることだ。」

「アメリカは今、南北の分裂を抱えている。この問題が大きくなれば、日本に対して軍事的な圧力をかけ続ける余裕がなくなる可能性がある。」

「その時間的な窓が、いつ開くかを見極めることも重要だ。」

 南北戦争は一八六一年に始まる。

 通商条約の交渉が一八五八年なら——

 その前に条約を結ぶことになれば、アメリカの軍事的圧力はまだある。

 しかし条約の中に将来の改正条項を入れることができれば——南北戦争後に、改正の機会が来るかもしれない。

 糸子は書いた。

「将来の改正条項を条約に入れることが、最後の砦だ。今すぐ対等にできなくても、対等になれる道を最初から条文に組み込む。それが今の糸子にできる最善だ。」

 帳面を閉じた。

 冬の朝の光が、庭を白く照らしていた。

 試衛館の稽古が始まる音がした。

 近藤の声が聞こえた。

「今日も始めます。手を抜かずに」

 糸子はその声を聞きながら、自分も同じことを心の中で言った。

 今日も始める。手を抜かずに。

 時間は確実に動いている。

 その中で、できることをすべてやる。


第二十六話 了

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