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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第二十五話「堀田正睦という人」

 安政三年の冬が来た。

 京の冬は底冷えがする。

 御所の方角から吹いてくる風は、昼でも刃のように冷たかった。

 糸子は帳面を抱えて縁側に出た。冬の光が庭を白く照らしていた。

 三冊目の帳面——情報の帳面——を開いた。

 最新の項目には、実光からの伝言が書いてあった。

「堀田正睦様が京に来られます。来月の初めになりましょう。上洛の目的は御所への参内ですが、その前後に時間が取れると、広橋権中納言様を通じてお伝えいただきました。近衛家との対話の用意がある、とのことにございます。」

 来月。

 思ったより早かった。

 糸子は少し考えた後、帳面を閉じた。

 堀田正睦。

 阿部正弘の後継として老中首座になったこの人物は、幕末史の中でも特異な位置を持つ。

 開明的でありながら、現実的でもある。

 通商条約を結ぶことの必要性を理解しながら、しかし御門様の勅許を得ることの重要性も分かっている。

 その堀田が、来月京に来る。

 糸子には、これがどれほど重要な機会かが分かっていた。

 三年後——いや、もしかすれば二年後——に来る交渉の前に、幕府の開明派と近衛家の立場を一致させる必要がある。

 その最初の接点として、堀田との対話は決定的な意味を持つ。

 しかし問題がある。

 前回の島津斉彬との対話と同じく、五摂家の姫君としての礼法を守りながら、しかし内容のある対話をしなければならない。

 島津斉彬との対話では、御簾越しながらも率直な言葉の交換ができた。

 堀田との対話も、同じように進めばいい。

 しかし堀田は幕府の老中首座だ。

 幕府と朝廷の関係において、老中が五摂家の姫君と直接対話するという前例は、形式上は相当に異例だ。

 この前例のない形を、どう正当化するか。


 実光が翌日、近衛家に来た。

「父から詳しい話をお聞き致しました」

 実光の顔には、いつもより緊張した色があった。

「堀田様が近衛家を訪問されることは、表向きは近衛家への儀礼的な挨拶という形になりまする。五摂家への上洛中の挨拶は、幕府の要人にとって一般的な慣習でございます。その枠組みの中で対話する、という形になりましょう」

「問題はその内容ございますね」

「はい。儀礼的な挨拶の形式を取りながら、実質的には政治的な対話をいたす。これは双方にとって便利な建前になりまするが、その分、言葉には慎重さが必要になりましょう」

「御簾越しでの対話は?」

「姫様がご同席になる場合は、必然的に御簾越しになりまする。それは五摂家の礼法として正式な形ですので、問題はございません」

「堀田様は、そのような形での対話を理解してくださるとお思いですか」

 実光が少し考えた後、答えた。

「父の見立てでは、堀田様は形式を重んじながら、しかし形式の枠内で最大限に内容を引き出すことができる方だとのことです。実質的な対話ができる方だと思いまする」

「実光様はどう思われましょうや」

「わたくしは堀田様と直接お会いしたことございません。なれど父から聞く限りでは——」

 実光が続けた。「堀田様は、御門様の勅許問題を最も深刻に受け止めている幕府の要人の一人になりましょう。勅許なしの通商条約は、幕府の正統性を傷つけるとご理解されているとのこと。だからこそ、朝廷との関係を正面から考えようとしているのでございましょう」

「その点では、近衛家の立場と重なりまする」

「はい。なれど方法については、恐らく堀田様とはいくつかの違いがあると思いまする」

「どのような違いがございましょうや」

「堀田様は幕府の立場として、通商条約を結ぶことは避けられないという現実認識をお持ちでおります。問題はどのような条件で結ぶか、そして御門様の勅許をどのように得るか、という二点に絞られましょう。なれど近衛家の立場——姫様の立場は、さらに一歩踏み込んでおりまする」

「条約の内容そのものに関与したい、という…」

「はい。条約文の起草段階から、御門様のご意向を反映させとうございます。それは堀田様の想定より積極的な関与でございます」

 糸子は頷いた。

「その点を、対話の中でどう伝えるか。そこが今回の核心になりましょうや」

「そのように思いまする」


 堀田正睦が近衛家を訪れたのは、十二月に入った冷えた朝だった。

 空は澄んでいた。御所の方角の空に、うっすらと雲が流れていた。

 堀田は供を数人連れてきたが、島津斉彬の時と同じく、邸内には一人で入った。

 実光が設えた座敷に通された。

 忠房が表で迎えた。

 糸子は御簾の内に座った。

 堀田の足音が廊下を来た。

 重い足音だった。急いでいない。しかし一歩一歩に確かさがある。

 座敷に入ってきた堀田の声を聞いた瞬間、糸子は少し驚いた。

 声が穏やかだった。

 老中首座という立場の人間の声を想像すると、もう少し威圧的な何かを期待してしまうものだが、堀田の声は穏やかで、しかし明確だった。

「近衛殿、このたびは時間を取っていただき忝う存じます」

「遠路お越しくださり、恐悦に存じます。どうぞ、お楽に」

 忠房の声も、いつもより少し力があった。

 茶が運ばれた。

 しばらく、当たり障りのない話が続いた。

 京の冬の寒さ。道中の様子。御所の近況。

 それらを話しながら、糸子は堀田の話し方を分析していた。

 言葉を選んでいる。しかし選び方が自然だ。計算して選んでいるのに、計算を感じさせない。

 これは相当に経験を積んだ人間の話し方だ。


 当たり障りのない話が一段落した後、堀田が少し声のトーンを変えた。

「近衛殿、失礼ながら一つ確認させてください」

「はい」

「御簾の内に、姫君様がいらっしゃいますか」

「はい。御簾越しではありますが、娘が同席しておりまする」

「天朝物産会所を動かしておられるとお聞きしました」

 糸子は御簾の内から答えた。

「近衛家の糸子でございます。御簾越しではありますが、よしなに願い申します」

「お声を聞かせていただいて、光栄です」

 堀田が続けた。「姫君様、わたくしは率直に申し上げることをお許しください」

「どうぞ」

「近衛家の動きについて、いくつかの経路から話が入っています。天朝物産会所の商売、御所御用達の称号、御門様との関係、そして守護の体制。これらは、近衛家という枠を超えた何かを目指しているようにお見受けいたす」

「どのようなものに見えましょうや」

「正直に言えば——」

 堀田が少し間を置いた。「最初は、朝廷の権威を使って幕府に圧力をかけようとしているのかと思いました。しかし調べるほどに、そのような意図ではないと感じております」

「ではどのようにお感じか?」

「この国を外国から守ろうとしている、と感じております。しかし幕府の方法ではなく、朝廷の方法で。その二つは対立するものではないはずですが、今の状況では摩擦が生じております」

 糸子は静かに聞いていた。

「堀田様、一つお聞きしてよいでしょうか」

「なんでしょう?」

「通商条約についての交渉が、近々始まると思われましょうや?」

 堀田が少し沈黙した。

「……はい。ハリス殿との会談を重ねる中で、避けられないと判断しております」

「その交渉において、御門様の勅許を得ることをお考えか?」

「それが最も重要な課題の一つです。勅許なしで条約を結ぶことは、幕府の正統性を傷つけます。しかし御門様は外国との通商に強い反対の意向をお持ちです」

「だから難しいと?」

「はい」

「堀田様」

 糸子は言った。「わたくしは、この問題を解決できると思うておりまする」

 座敷の空気が変わった。

「解決できる、とは」

「御門様が、単に反対されているのではないということでございます。御門様には、この国を守りたいという明確な意志がおありでございます。その意志を、『拒否』ではなく『条件』として形にできれば、状況は変わりましょう」

「条件として?」

「はい。御門様が勅許を与えるための条件——これを、わたくしが三年かけて整理して参りました。三年後、あるいはそれより早く交渉が始まる時に、その条件を交渉の場に持ち込めれば、御門様の勅許を得る道が開けましょう」

 堀田がしばらく黙っていた。

「……御門様の条件を、交渉の場に持ち込むのですか?」

「はい。幕府が外国と交渉し、朝廷がただ承認するか拒否するかという構造ではなく、朝廷の意向が条件として交渉に反映される構造にするのでこざいます」

「それは——」

 堀田の声が、わずかに変わった。

「それは、朝廷が実質的に交渉に参加するということなのでは」

「形式上は幕府が交渉致しまする。なれど御門様のご意向を体現した条件を交渉に持ち込む者がいれば、朝廷の意向は実質的に反映されましょう」

「その者が、姫君様ということしょうか?」

「御門様から、南蛮の言葉で御門様のご意向を伝える役を示唆していただいておりまする」


 座敷に沈黙が流れた。

 長い沈黙だった。

 糸子は待った。

 堀田が考えている。これは拒否の沈黙ではない。受け止めて、整理している沈黙だ。

「……姫君様、一つ確認させてください」

「はい」

「姫君様が交渉の場に関与することで、御門様の勅許を得られる可能性が高まると——そのようにお考えですか」

「高まると思っておりまする。確実とは言えませんが。なれど今のままでは、御門様が勅許を拒否される可能性の方が高こうございます。わたくしが関与することで、拒否から『条件付きの承認』に変えられる可能性がございます」

「条件付きの承認というのは?」

「御門様が具体的な条件を提示して、その条件が満たされれば勅許を与えるという形でございます。現在のように単に拒否するより、交渉の余地が生まれましょう」

「その条件とは」

「大きく三点です。治外法権を認めないこと。関税の自主権を持つこと。金銀の交換比率を適正に定めること」

 堀田が少し動いた気配がした。

「……それは、日米和親条約で日本が不利になった点そのものではありませぬか」

「はい。和親条約の問題を、通商条約では繰り返さないための条件です」

「和親条約の英文と和文の差異についても、ご存知ですか」

「はい。第十一条の領事駐在に関する条項の差異です。英文では『いずれかの政府が必要とみなす場合』となっていたものが、和文では『両国政府の合意をもって』という全く異なる意味になっておりました」

 堀田がわずかに息を吸った音がした。

「……姫君様はどこでそれを?」

「書物と、外国語を学ぶ中で確認致しました。実際に英文を読んで確認しておりまする」

「英文を読んだのですか?」

「はい。今は英語とオランダ語を習得中です。条約文を直接読んで、問題のある表現を特定できる水準にはなりつつありまする」

 また沈黙があった。

 今度の沈黙は、少し違う種類だった。

 堀田が何かを決めようとしている沈黙だ。

「姫君様」

「はい」

「わたくしは、老中の立場として、朝廷の直接的な交渉参加を認めることは難しい」

「はい。そうだと思うておりました」

「しかし…」

 堀田が続けた。「御門様の意向を、交渉前に正確に把握することは、幕府にとっても必要です。御門様が何を条件とされるかを、事前に知ることができれば、交渉の方向性を設定する上で大きな助けになる」

「その情報の提供は、わたくしができましょう」

「御門様のご意向を、交渉の前にわたくしに伝えていただける、ということですか」

「はい。御門様がお許しになる範囲で」

「その情報があれば——」

 堀田が少し考えた後、言った。「交渉において、御門様が受け入れられる条件を組み込むことができます。勅許を得るための地ならしが、事前にできる」

「その通りでございます」

「……なるほど」

 堀田が静かに言った。

「姫君様は、幕府と朝廷の間に立っているわけではないのですね」

「どういう意味ですか」

「仲介ではなく、両方が望む結果に向けた相互利益を生む仕組みをなされている。幕府が望む条約の締結と、御門様が望む日本の独立、この二つを同時に満たす形を作ろうとしている」

「……はい。そういうことでございます」


 茶が再び運ばれた。

 会話の雰囲気が少し変わった。

 対話というより、協議に近い何かになっていた。

「堀田様、もう一つお聞きしてよろしいでしょうか」

「なんでしょう」

「ハリス殿との交渉で、一番難しい部分はどこだとお感じでございますか」

 堀田が少し考えた後、率直に答えた。

「時間です。ハリス殿は急いでいます。本国の指示と自身の任期の問題から、できるだけ早く条約を結びたいと思っている。その急ぎ方が、日本側に不利な条件を受け入れさせる圧力になります」

「急いでいる相手と交渉する時の対処はお考えですか」

「時間を稼ぐことが一つです。しかし完全に引き延ばすことはできない。いずれ結ばなければならない時が来る」

「引き延ばすより、条件を固める方が有効だと思います」

「固めるとは?」

「相手が急いでいる時、こちらが明確な条件を提示すれば、交渉が一点に集中致しまする。『この条件なら今すぐ結べる』という形にいたせば、相手の急ぎたいという気持ちを逆に利用できましょう」

 堀田がしばらく考えた。

「……なるほど。相手の時間的な圧力を、条件の確定にお使いになる」

「はい。条件が曖昧なまま時間をかけるより、条件を明確にして早期に決着させる方が、最終的に日本に有利な条件で結べる可能性がありましょう」

「しかしその条件を、御門様がお認めになられるかどうか…」

「だからこそ、事前に御門様のご意向を把握しておく必要がごさいましょう」

 堀田が頷いた。

「分かりました。その情報共有の経路を、近衛家との間で作ることは可能でしょうか」

「はい。ただし御門様のご意向についての情報は、御門様のお許しを得た上で、且つ扱いに慎重を期していただく必要がございます」

「当然です。朝廷の意向が外に漏れることは、双方にとって不利になります」

「では——」

 糸子は言った。「情報の経路について、実光様と広橋権中納言様を通じた形を作ることをご提案致しまする。広橋家は有職故実において朝廷と幕府の双方と関係を持っておりまする。その経路であれば、自然な形で情報が流れましょう」

「広橋権中納言殿を通じる、ということですね」

「はい。実光様がすでにわたくしとの協力関係を持っております。その形を少し拡張する形でございます」


 対話が深まっていく中で、堀田が少し話題を変えた。

「姫君様、一つ個人的なことをお聞きしてよろしいですか」

「何でございましょう」

「英語とオランダ語を学んでおられるとのことですが、それはいつから」

「昨年から本格的に始めました。今は村田蔵六殿に教わっておりまする」

「村田殿というのは」

「蘭学者で、長崎でポンペ先生にも学ばれた方でございます。西洋語と西洋事情の両方をよく知っておられまする」

「何のために外国語を学んでいるのですか」

「条約文を直接読むためでございます。英文の条約文と和文の条約文に差異があった時、日本側が自分でそれを確認できなければ不利になりましょう。また、交渉の場で相手が何を言っているかを直接理解できることも重要でございます」

「なるほど」

 堀田が少し間を置いた後、言った。「先ほどの和親条約第十一条の話——英文の内容を正確に把握されているとのことでしたが、どのような問題があったとお分かりになりますか」

「英文では"either government"——どちらかの政府が必要と判断した場合、という意味の言葉が使われていました。しかし和文では『両国政府の合意をもって』という、相互の合意が必要な意味になっていた」

「その差は」

「英文の解釈では、アメリカ側が一方的に必要と判断すれば領事を置ける、ということになりまする。和文の解釈では、日本側の合意も必要になる。これは全く異なる権利の範囲を示しておりまする」

「……正確に把握されておりますな」

「条約の起草段階でこのような問題が起きないようにするためには、英文を直接確認できる人物が必要でございます。わたくしはそのためにも外国語を学んでいるのでございます」

 堀田が静かに言った。

「通商条約の交渉において、そのような人物が日本側にいるということは——幕府にとっても、非常に有益なことです」

「お役に立てれば、光栄でございます」


 夕刻が近づいた頃、堀田が立ち上がる気配をした。

「近衛殿、今日は有益な時間をいただきました」

「こちらこそ」

「姫君様」

「はい」

「一つ申し上げます」

 堀田が続けた。「わたくしは幕府の立場として、朝廷の直接的な関与を正式に認めることは難しい。しかしわたくし個人として、今日の対話を通じて、姫君様の考えに共感する部分があります」

「誠に痛み入ります」

「交渉が始まった時に、御門様のご意向を事前に把握できる経路があることは——幕府にとって、御門様の勅許を得る上で大きな助けになります。その経路を、近衛家として担っていただけるのであれば」

「担わせていただきまする」

「それだけで十分です。今は」

 堀田が続けた。「交渉が実際に始まった時、状況は変わるかもしれません。その時に、改めて話し合う機会を持てれば、と思います」

「はい。その機会を作りましょう」

「では」

 堀田が立ち上がった。

「今日は近衛殿、姫君様、恐悦至極に存じ上げます」


 堀田が帰った後、忠房と糸子と実光の三人が座敷に残った。

「どうだった」

 忠房が糸子に聞いた。

「予想より良い展開でございました」

「良い、とは?」

「堀田様は、御門様の勅許問題を本気で解決しようとしてございます。そのための情報として、近衛家が御門様のご意向を事前に伝える経路を持つことを、実質的に認めてくださいました」

「正式ではないが」

「正式でなくてもいいのでございます。正式にしてしまうと、幕府の中で問題になりましょう。非公式な形で機能することの方が、今は大切でございます」

 実光が言った。

「広橋家を通じた情報経路という提案は、父も喜ぶと思います。家の役割として自然な形になりましょう」

「実光様の父上が動いてくれなければ、この形は成立しませんでした。何ともはや、言葉に尽くせぬほどにございます」

「はい」

 忠房が静かに言った。

「糸子、堀田様は信頼できると思うか」

「全面的な信頼はまだできません。なれど本日の対話を通じて、この問題について同じ方向を向いていると感じ受けました。利害が一致している部分がある。その部分での信頼は、十分だと思いまする」

「利害が一致している部分?」

「堀田様は通商条約を結ぶ必要があると思っていらっしゃります。そのためには御門様の勅許が必要だと思っていらっしゃる。わたくしは御門様のご意向を条件として交渉に反映させたいと思っております。この三つが重なっているのでございます」

「ならば」

「ならば、今は協力できましょう。将来、利害が一致しなくなる時が来るかもしれません。その時はまた考えまする」


 実光が帰った後、糸子は帳面を開いた。

 今日の対話を記録した。

 堀田との対話の内容。得られたもの。残った課題。

 最後に書いた。

「堀田様との対話により、以下の経路が生まれた。御門様のご意向の事前把握→近衛家→広橋家→堀田様。この経路を通じて、通商条約交渉の前に御門様の条件を幕府に伝えられる可能性が生まれた。」

「残る課題:御門様への報告と、条件の最終的な確認。英語の習熟の継続。村田蔵六の交渉への参加形式の確定。それから……」

 帳面を閉じた。

 縁側の外では、試衛館の稽古の音が聞こえていた。

 冬の空気の中、木刀の打ち合う音が鮮明に響いた。

 近藤が今日も稽古をしている。

 旭狼衛が今日も動いている。

 糸子は縁側に出て、冷たい空気を吸った。

 堀田との対話は、一つの扉を開いた。

 しかし扉が開いただけで、部屋の中にはまだ入っていない。

 入るためには、御門様への報告が必要だ。

 今日の話を御門様にお伝えして、御門様が条件を固めてくださるよう、もう一度御前に参る必要がある。


十一

 翌日の朝、さとから文が届いた。

「御門様が糸子様にお会いになりたいとのことです。年内にお時間をいただけますか」

 糸子は少し驚いた。

 こちらから参内を申し出る前に、御門様の方から話があった。

 御門様も、何か動きを感じていらっしゃるのだろうか。

 糸子はすぐに返書を書いた。

「はい。年内に参内いたしまする。来週の中頃はいかがでございましょうか。」


十二

 その夜、近藤が縁側に来た。

「姫様、今日はお疲れの様子ですか」

「少し疲れました。でも良い疲れです」

「良い疲れ?」

「動いた結果の疲れは、良い疲れです。動かないで不安なままでいる時の疲れとは違いまする」

 近藤が頷いた。

「今日、老中の堀田様とお会いになったとお聞きしました」

「はい」

「どのような方でしたか?」

「信頼できる人だと思います。全面的にではありませんが、今の段階では十分に…」

「この国のことを考えている方ですか?」

「はい。方法は幕府の立場からですが、この国をどうするかという問いを、本気で考えていらっしゃる方です」

「それは、島津斉彬様と似ておりましょうか」

 糸子は少し考えた。

「似ている部分と、違う部分があると思いまする。斉彬様は藩主として、力を持って変化を起こそうとしております。堀田様は幕府の要人として、制度の中で変化を起こそうとしております。どちらもこの国を変えようとしておりますが、立つ場所が違いましょう」

「姫様の立つ場所は…」

「どこにも属さない場所でございます」

「それは孤独ではないんですか」

 糸子は少し間を置いた後、答えた。

「孤独ではありません。近藤殿たちがいます。村岡も、善次郎も、実光様も、さとも。お梅も父上も。それだけの人がいる孤独は、孤独とは言いませぬ」

 近藤が静かに頷いた。

「俺たちがいます。どこに行くにもお供致しましょう」

「恐悦に存じます」

 冬の夜が静かに深まっていった。

 一年後、あるいは二年後に来る交渉に向けて、すべての準備が少しずつ、しかし確実に積み重なっていた。

 近衛糸子は帳面を閉じて、明日の計画を考え始めた。


第二十五話 了

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