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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百四十七話「糸子のお嫁入り編―守護組」

一

 小舟町の表通りは、暮れ六つを過ぎると、ほどなく人の足が絶えた。


 天朝物産会所の江戸取扱所も、表の戸をすっかり下ろしている。帳場の灯は落ち、荷を数える手代の声もない。裏手を流れる堀からは、湿った水の匂いが上がってきていた。昼のあいだ荷舟が行き交っていた堀も、いまは舫った舟の腹に水が当たる音がするばかりである。


 その表の奥に、渡り廊下でつながった二階建ての書院がある。


 近藤勇は、二階の座敷に一人で坐っていた。


 八畳ほどの座敷には、行灯が一つ。床の間に軸が一幅掛かっているが、灯の届かぬところにあり、何が描かれているのかよく見えない。障子の外は縁、その先は雨戸が閉てられている。


 静かだった。


 表通りを誰かが通っても、ここまでは聞こえてこない。一階にいたときには耳についていた堀の水音も、階段を上がればほとんど届かなかった。壁に手を当てると、ひやりとして厚い。土壁を二重に塗り込めてあるのだと、案内した手代が言っていた。


 表向きは「商談の間」と呼ばれている。会所の大口の客を通し、帳場ではできぬ値の話をするための座敷、ということになっていた。


 近藤がこの場所を知ったのは、数日前のことである。


 取扱所へ出向き、善次郎に「密談をしたい。人の耳のない場所を借りられぬか」と、そのまま言った。うまい口実を考えるような頭は、近藤にはなかった。


 善次郎は帳面から顔を上げ、近藤をしばらく見た。


「では、奥の書院をお使いください。日取りが決まりましたら、前の日までにお知らせを」


 それだけだった。誰と会うのか、何を話すのか、一つも訊かない。近藤のほうからも何も言わなかった。


 旭狼衛の総隊長が、姫様の会所の座敷を借り、人払いまでして誰かと話す。善次郎ほどの男なら、姫様に関わる話だとは分かっていたはずだ。


 それでも訊かなかった。訊かずにおくほうが姫様のためになると、あの男は知っている。


 階段の下で、足音がした。


 二人分。


 一人は板を軽く踏み、一人はほとんど音を立てない。それだけで、誰が来たのか分かった。


「近藤様。お連れいたしました」


 手代の声とともに、襖が開いた。


 沖田総司と斎藤一が、並んで敷居の外に立っている。


「二人とも、よく来てくれた」


 近藤が言うと、沖田は座敷の中を見回しながら入ってきた。天井を仰ぎ、床の間を見て、壁へ目をやる。


「へえ、こんな場所があったんですね」


 斎藤は黙って会釈し、沖田のあとに続いた。襖の脇に目をやり、次いで雨戸の閉てられた縁を見る。座る前に、出入り口を確かめる。この男の癖である。


 ひと通り見終えてから、近藤の前に膝を折った。


 手代が襖を閉める。足音が階段を下りていった。


「取扱所には何度も来てますけど、奥にこんな座敷があるなんて、ちっとも知りませんでしたよ」


 沖田は近藤の前に坐ってからも、まだ壁を見ていた。


「もともとは、姫様が使う御座所として用意したものらしい。防音のために土壁を二重にしてあって、密談には良いとのことだ」


「密談!」


 沖田の目が、近藤へ戻った。


「なにか良からぬことでもする気ですか? 近藤さん」


「なにか重要な話があるんですか」


 斎藤が言った。沖田とは違い、低い声だった。


「つい先日、近藤さんから聞いた旭狼衛の拡大に関わることですか?」


 沖田が重ねた。三百になる、という話はすでに二人へ伝えてある。


 近藤が答える前に、階段を上がってくる足音がした。


「失礼いたします」


 会所の小僧が、盆に茶を二つ載せて入ってきた。近藤の前には、来たときに出された茶がもうある。


 小僧は沖田と斎藤の前に湯呑みを一つずつ置き、盆を膝の脇へ引いた。


「すまんが」


 近藤は声をかけた。


「しばらく、誰もここへ近づけないでくれ」


「わかりました、近藤様」


 小僧は頭を下げ、盆を抱えて出ていった。


 階段を下りる足音が、途中で一度止まる。誰かに言い伝えたのだろう。それから、また下りていった。


 座敷には三人だけが残った。


 近藤は膝の上に拳を置いた。


「まず、お前たちに言っておくことがある」


 沖田が、湯呑みへ伸ばしかけた手を止めた。


「総司。斎藤。それに壬生と鷲尾。この四人を、姫様専属の護衛にする」


「専属……ですか」


「そうだ。これからは、それだけを専らにする。町の見回りも、語学所の守りも、横浜の御用も、ほかの者に回す。お前たちの務めは、姫様のお側を離れず、お守りすることだ」


 近藤は続けた。


「人数はこれから増やす。二十、三十と揃えば、一つの隊として立てるつもりだ。旭狼衛の内には置くが、指図は別にする。お前たち四人が、その始まりだ」


 二人の顔を順に見た。


「頭は総司。副えは斎藤だ」


 沖田はしばらく近藤を見ていた。


「やってくれるな?」


「いいですけど」


 軽い調子で答えてから、沖田は首を傾げた。


「改めて、どうしちゃったんですか?」


「自分も構いません」


 斎藤が言った。


 近藤は、すぐには続けなかった。


 ここまでは考えてきたとおりに話した。この先に言うことも決まっている。それでも、次の言葉が出るまでには間があった。


 膝の上の拳に、力が入っていた。


 沖田の顔から軽さが消える。斎藤も、膝の上に置いた手を揃え直した。


 二人とも、近藤が何か重いものを抱えてきたと察したのだろう。もう湯呑みには手を伸ばさなかった。


「まず」


 近藤は言った。


「姫様からの了承はいただいている。これから言うことは他言無用だ。時が来るまで、二人の胸の内に必ずしまっておけ」


「分かりました」


 沖田が答えた。さっきまでとは、声が違った。


 斎藤は黙って頷く。


 近藤は口を開きかけ、閉じた。


 姫様は、あの座敷で一言で告げられた。今度は自分が、それを人に伝える。


 自分にも、一言でしか言えない。


 それを聞いた二人が、どんな顔をするのか。近藤には見当もつかなかった。


 沖田と斎藤は、黙って待っている。二人の背筋が、さっきより伸びていた。


 近藤は息を吸った。


「姫様が、祐宮様の后に内定された」


 誰も動かなかった。


「正式に知らされるのは、祐宮様が御位に就かれるときだそうだ。それまでは他言無用」


 斎藤の目が見開かれた。


 近藤は、斎藤のこんな顔を見たことがない。


 寺田屋の階段口で何十人を相手にしたときも、この男の目は動かなかったと聞いている。その目がいまは、開いたまま近藤を見ていた。


 沖田は黙っていた。


 何かを確かめるように少し首を傾け、それから、ふっと肩の力を抜く。


「あぁ、だからかぁ」


 沖田が言った。


「近藤さんから今の話を聞いて、なんか、納得しちゃいました」


「どういうことだ、総司」


「京から帰ってきて、姫様とお会いしたときですよ」


 沖田は膝の上で指を組んだ。


「あのとき、この方は絶対に守らないと、悲しませちゃダメだと思ったんです」


「だからお前は、復帰してから強さを求めたのか?」


 斎藤が言った。目はまだ、いつもより大きく開いている。


「そうです」


 沖田は頷いた。


「自分でも、なんでそうしないといけないのか、はっきりした理由は分からなかったんですけどね。でも、今の話を聞いて、バラバラだったものが、すーっと一筋につながったみたいに、ようやく理由が分かりました」


「総司は、昔からそういうところがある」


 近藤は言った。


「我らには分からん感覚で、本質を掴む、とでも言うのか」


「うまいこと言いますね、近藤さん」


 沖田が笑った。


 近藤は笑わなかった。


「お前たちの任務は、旭狼衛の中でも最も重い。だから、お前たちに任せるんだ」


 沖田と斎藤は顔を見合わせることもなく、同時に頷いた。


 それから、膝の前に手をつく。


「拝命いたしました」


「身命を賭して、務めさせていただきます」


 二人の声が、続けて座敷に落ちた。


 近藤は、二人が頭を上げるのを待った。


「これからは、お前たちが姫様の最も近くにいる人間になる」


 近藤は言った。


「だから、隊長格の二人には知っておいてもらう必要があると判断した。姫様にもそう申し上げて、お許しをいただいた」


 ひと呼吸置いた。


「総司は、京で一度、階段の下に一晩立った。斎藤は、その階段口にいた」


 二人の顔を順に見る。


「誰を守っているのかも分からずに、ああいう夜を過ごさせるわけにはいかん。それだけのことだ」


 沖田は何も言わない。斎藤も黙っていた。


「お前たちに、全てを任せるつもりはない」


 近藤は続ける。


「屋敷の守りも、道中の守りも、旭狼衛の全部で当たる。浜町に移れば、旭狼衛の手で屋敷を囲む。だが、その輪の一番内側に立つのはお前たちだ。お前たちが最後の砦であることを自覚しろ」


「分かりました」


 二人が揃って答えた。


 座敷に、しばらく沈黙が落ちた。


 行灯の火がわずかに揺れる。これほど壁の厚い座敷でも、どこからか風は入ってくるらしい。


 近藤は膝の上の拳をほどいた。


 開いてみて、ずっと握りしめていたことに気づいた。


 沖田がようやく湯呑みに手を伸ばした。茶はすっかりぬるくなっているはずだが、一口飲んで、ふう、と息を吐く。


「しかし、あの姫様が」


 湯呑みを膝に置いた。


「人生、何があるか分からないですね」


「ああ」


 近藤も自分の湯呑みを取った。


「今回が一番、姫様には驚かされた」


 斎藤が黙って頷く。目は、もういつもの斎藤に戻っていた。


 沖田は笑っている。いつもの顔だった。


「でも、やっぱり姫様の周りは楽しいや」


 沖田が言った。


「これだから、姫様にはついていきたくなる」


 近藤は沖田の顔を見た。


 京から帰ってきた日の作り笑いではない。いつもの沖田の笑い方だった。


「そうだな」


 近藤は言った。


  *


 三人が書院を出たのは、それから半刻ほどしてからだった。


 渡り廊下を戻ると、表の帳場にはもう誰もいない。小僧が一人、土間の隅で待っていて、裏口の戸を開けた。


 外へ出ると、堀の匂いが戻ってきた。


 月は出ていない。水は黒く、舫った荷舟の影がいくつも並んでいる。どこかで舟の腹に水が当たり、小さな音を立てた。


 沖田が先に立ち、斎藤がそのあとへ続く。


 近藤は最後に戸口を出て、一度だけ書院の屋根を振り返った。


 灯の消えた二階は、夜の中に紛れて見えなかった。


二

 西の丸下の役宅に、灯が一つ点いていた。


 日が落ちると、このあたりはすぐに人の気配が消える。昼のあいだ、登城と下城の乗物が行き交う道も、いまは辻番の小屋に灯が残っているだけだった。屋敷の塀の向こうには、城の堀が黒く広がっている。風が止むと、水際の葦の陰で蛙が鳴き出した。


 皐月の夜気はぬるい。障子を少し開けておいても、寒くはなかった。


 書院の庭先では、植え込みの葉が灯を受け、縁の近くだけ白く浮いて見える。その先は暗く、塀がどこにあるのかも分からない。


 廊下の向こうで、家中の者が雨戸を一枚ずつ閉てていく音がした。ほどなく、それも止んだ。


 板倉周防守勝静は、書院の文机に向かっていた。


 机の上には、書付が二枚と帳面が一冊。


 首座を継いでから、夜に役宅で人を待つことが多くなった。城中の御用部屋では、話せることと話せないことがある。話せぬことは、役宅へ持ち帰って片づけるしかない。


 廊下に、膝をつく音がした。


「勘定方より、参りましてございます」


「通せ」


 入ってきたのは、勘定方の組頭格の役人だった。四十を少し過ぎた男で、膝の前に自分の帳面を置き、頭を下げる。


 板倉は、二枚の書付のうち一枚を男のほうへ向けた。


「読んでみよ」


 役人は両手で受け取った。


『天朝外語御用掛守護組御手当の儀。』


 そう表題があり、その下に役ごとの月々の額が並んでいる。姫君の側から出されてきた書付の写しだった。


 役人は上から順に目を通していった。途中で一度、目が止まる。


「これは」


「天朝外語御用掛の守護組の御手当じゃ。旭狼衛と申す者どもの」


「御公儀の掛かりになりますので」


「ならぬ」


 板倉は言った。


「御公儀の掛かりにはならぬ。御用掛の側で持つ。なれど、御用部屋に諮れば必ず問われる。三百の者を抱えて、年にいくらになるのか、とな。その場で分からぬとは言えぬ」


 役人が書付から顔を上げた。


「先に勘定しておけ、と」


「そうじゃ。月々の御手当を年に直すだけでは足りぬ。この者どもは、衣食住も道具も組で持つと申しておる。長屋も、飯も、着るものも、鉄砲の弾もじゃ。そこまで入れて、年にいくらになるか見立てを出せ」


「承知いたしました」


 役人は書付を膝の前に置き、自分の帳面へ何か書きつけた。


 筆を止めて、少し首を傾げる。


「周防守様。京に七十とございますが、京の掛かりは銀で動いております。米も薪も、向こうでは銀の値で買いましょう」


「両に直して、一本の勘定にせよ。御用部屋の者が読んで、すぐに分かる形がよい」


「承りました。それと、鉄砲でございます」


 役人は書付の余白を指で押さえた。


「この前、長崎で百五十挺を買い入れ、そのうち八十挺を御用掛の御屋敷に置くとのお話がございました。あの鉄砲の代も、この勘定に入れましょうか」


「鉄砲そのものは、買い入れの掛かりじゃ。一度払えば済む。毎年の入用には入れるな」


 板倉は続けた。


「なれど、弾と雷管、手入れの道具は、使えば減る。それは毎年の入用に入れておけ」


「一度きりのものと、毎年のものを分けて」


「そうじゃ」


 役人は帳面に二本の線を引いた。


「それから」


 板倉が言った。


「横浜の運上から御用掛へ回す毎年の掛かりがある。あれとは別の帳面であることを、確かめておけ。この守護組の入用が、運上の掛かりに紛れ込んでおるように見えては困る」


「運上の掛かりとは別の帳面。確かめておきます」


 役人が下がると、板倉はもう一枚の書付を手元へ引き寄せた。


 次に入ってきたのは、御用部屋付きの役人だった。御用部屋で書付を起こすのを務めにしている男である。


「評議の前に、三つ起こしておいてもらいたい」


 板倉は指を一本ずつ折った。


「天朝外語御用掛の守護組を置くこと、ならびにその条件を記した御書付。組頭に就く近藤勇への申付。それと、京の所司代への照会状じゃ」


 役人は帳面を開き、一つずつ書き取った。


 書き終えると、顔を上げる。


「周防守様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか」


「申せ」


「御公儀が、朝廷の御用掛に付く組を認めた例を、手前は存じませぬ。書付の型をどこから借りてまいればよいか、見当がつきませぬ。先例がございませぬ」


「であろうな」


 板倉は言った。


「ならば、文言は短くせよ」


 役人は少しのあいだ、板倉の顔を見ていた。


「短く、でございますか」


「先例がなければ、長く書くほど、どこかで先例と食い違う。決めたことだけを書け。決めておらぬことは書くな」


「承りました」


 役人は帳面を閉じかけ、もう一度開いた。


「所司代への照会でございますが、いまの所司代は稲葉様にお替わりになったばかりでございます。預りを決めた頃の控えは、所司代の御屋敷に残っておりましょうか」


「控えは役に付いて残る。人が替わっても、帳面は替わらぬ」


「では、宛ては稲葉様で」


「そうじゃ」


 役人は帳面を閉じ、下がっていった。


  *


 翌日、板倉は城中の一室で、後見職様に段取りを申し上げた。


 評議に諮るもの。勘定方には先に勘定させていること。書付を三つ起こさせていること。所司代への照会は、評議が済み次第すぐに出すこと。


 後見職様は、黙って聞いておられた。


 扇は膝の上に置かれたまま、一度も開かれない。


「所司代の返事は、待つのか」


 一度だけ、後見職様が訊かれた。


「待ちませぬ。組は先に置き、帳面は返事が来てから合わせまする」


「それでよい」


 板倉が申し上げ終えると、後見職様は短く言われた。


「延ばすには及ばぬ」


 それだけだった。


 板倉は頭を下げた。


 後見職様は、なぜ急ぐのかを言われなかった。言われずとも、板倉には分かっている。


 弥生の二十日、一橋上屋敷の御用の間で宸翰を受けた四人。そのうちの一人が、板倉だった。


 御用部屋のほかの者たちは、それを知らない。


 知らぬ者たちの前で、板倉はこの案件を急がせなければならなかった。


三

 御用部屋に、老中が揃っていた。


 朝の評議である。障子越しの光はまだ白く、火の気のない部屋の畳は冷えていた。坊主が茶を置いて下がると、誰も湯呑みに手を伸ばさなかった。


 後見職様も総裁職様も、今日は出ておられない。老中だけの合議である。首座の席に板倉が坐り、和泉守らがその脇に並ぶ。末のほうには、この弥生に老中格へ就いたばかりの小笠原図書頭長行がいた。


 板倉の膝の前に、見慣れぬ厚さの書付が置かれている。何の件かは、まだ誰にも知らされていなかった。幾人かの目が、一度だけそこに落ちた。


 板倉は、膝の前の書付を開いた。


「天朝外語御用掛に、守護の組を置く件にござる」


 座の何人かが顔を上げた。弥生の座で後見職様がお認めになったことは、御用部屋にも伝わっている。それが今日、書付となって出てきたのである。


「条件を、読み上げ申す」


 板倉は書付に目を落とした。


「一つ、人数は江戸と京を合わせて三百。一つ、士分の取立は、天朝外語御用掛を守護する者に限る。一つ、取り立てた者の姓名は、御公儀へ届け出る。一つ、取り立てた士分は一代限りとする。一つ、組の支配は御用掛附属とする。一つ、組の者は幕臣の列には加えぬ」


 読み終えると、書付を膝の前に置いた。


 しばらく、誰も口を開かなかった。


「周防守殿」


 末の席から声がした。


 小笠原だった。


「一つ、伺ってよろしゅうござるか」


「なんだ?」


「なぜ、そこまで急ぐのでござる」


 声は平らだった。


「弥生の座で、後見職様がお認めになったことは承知しておりまする。なれど、認めることと、それを書付にして下ろすこととは別でござろう。先例のない組を一つ置くのに、評議を一度で済ませる。急ぐ理由が、某には分かりませぬ」


 板倉は小笠原の顔を見た。


 この男は、唐津の世子のまま老中格に抜擢され、外の国のことと軍制を預かっている。御公儀が自らの手で事を運ぶべきだと、評議のたびに口にしてきた男でもある。朝廷の御用掛に付く組を、こうまで急いで認めることが腑に落ちぬのも当然だった。


「上様のお考えじゃ」


 板倉は言った。


「延ばすには及ばぬ」


 御用部屋が静まった。


 小笠原は、すぐには引かなかった。


「上様のお考えであれば、是非もござらぬ」


 そう言ってから、続ける。


「なれど、周防守殿。御公儀の内で、なぜあの組をあれほど急いで認めたのかと問われたとき、上様のお考えじゃ、とだけでは、某らは答えられませぬ。問われるのは、首座ばかりではござらぬゆえ」


 板倉は少し目を伏せた。


 小笠原の言うことは筋が通っている。上様のお考えという言葉は、御用部屋の中では重い。だが、外へ出れば理由を求められる。


 理由はある。


 言えぬ理由が一つと、言える理由が一つ。


「図書頭殿。暮れの英国の座のことは、ご存じでござろう」


 小笠原の目が、わずかに動いた。


「承知しておりまする」


「あの座に、御公儀は朝廷の御用掛を出させた。御公儀の答えに、朝廷の名を連ねさせた。そのことを、御公儀は京へ届けておらなんだ」


 板倉は、そこで言葉を切った。


「弥生の座で、御用掛の近衛様は一つの御言葉を示された。主上の御言葉じゃ。外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ」


 御用部屋の誰かが、膝の上で手を動かした。


「主上様より、直に……苦(・)言(・)を(・)呈(・)さ(・)れ(・)た(・)も同じでござる」


 板倉は言った。


「御公儀は、あの座で御用掛を便利に使うた。その御用掛の守りを求められて、評議を重ね、月を越し、季節を越して書付を出す。京から見れば、どう映るか。御公儀は、御用掛の使者をぞんざいには扱っておらぬ。それを示さねばならぬ。急ぐのは、そのためでござる」


 小笠原は黙っていた。


 暮れの談判の座には、外国奉行が二人同席している。外の国のことを預かる小笠原は、老中格に就いた折、その経緯を書付で読んでいるはずだった。御公儀が御用掛に何を負わせたのか、この男は知っている。


「……承知いたした」


 小笠原は、そう言った。


 それから、もう一度口を開く。


「では、もう一つ」


「なんじゃ」


「三百人を、認めるのでござるか」


 板倉は頷いた。


「後見職様が、御用の間でお認めになった数でござる。はじめは五百と申された。それを後見職様が退けられ、三百に落ち着いたのだ」


「三百は、少なからぬ数でござる」


 小笠原は言った。


「小藩の江戸詰めの侍を、まるごと一つ抱えるほどの数でござろう。それが御公儀の支配の外で、刀を差して江戸と京を歩く。某には、そこが気にかかり申す」


 末の席の近くで、酒井雅楽頭が膝の上の扇をわずかに動かした。何も言わなかったが、小笠原の言葉に頷いたようにも見える。


「左様」


 板倉は、膝の前の書付に指を置いた。


「なれど、手綱は御公儀にござる。人数は決して三百を超えさせぬ。士分に取り立てられるのは、御用掛を守護する者に限る。取り立てた者の姓名は、御公儀へ届け出る。それに、一代限りでござる」


 小笠原の目が、書付の一行に止まった。


「一代限り?」


「左様。取り立てた者の子が、そのまま士分を継ぐことはござらぬ。武士を家として増やすのではない。守りの任にある者へ、その任にあるあいだの身分を与えるだけでござる」


 小笠原は、しばらく書付を見ていた。


 和泉守が、小さく頷くのが見えた。


「……それならば」


 小笠原は言い、別の行へ目を移した。


「この組には、京都所司代の預りになっておる者がいると聞いており申す。所司代の手から、こちらの組へ移すのでござるか」


「移す。所司代預りを解き、守護組へ支配を替える。新たに取り立てるのではござらぬ。所司代には、帳面を確かめる照会を出しまする」


「所司代が否と申したら」


「否と申す筋の話ではない。組を置くことは、ここで決める。所司代に問うのは、帳面に載っておる者の名と身分だけでござる」


 小笠原は小さく頷いた。


 すぐに、また顔を上げる。


「その者どもの掛かりは、いかがなさる。三百の者を養うとなれば、少なからぬ銭でござる。御公儀から出すのでござるか」


『来た』と板倉は思った。


 襖の外へ声をかける。


「勘定方を」


 襖が開き、勘定方の役人が入ってきた。役宅で書付を渡した、あの組頭格の男である。膝の前に帳面を置き、頭を下げた。


「図書頭殿のお尋ねじゃ。守護組の掛かりは、いずこから出る」


「申し上げます」


 役人は帳面を開いた。


「御公儀からは、出しませぬ。守護組の掛かりは、天朝外語御用掛の御用金より出されます。その御用金は、天朝物産会所より御用掛へ繰り入れられるものにございます」


「運上は」


 小笠原が言った。


「横浜の運上から、御用掛へ毎年の掛かりを回すと聞いておる。それと混ざりはせぬのか」


「混ざりませぬ」


 役人はすぐに答えた。


「運上より回します毎年の掛かりは、別の帳面にて扱います。守護組の入用は、そちらには入りませぬ。手前のほうで、確かめましてございます」


 小笠原が板倉を見る。板倉は黙って頷いた。


「なお」


 役人は続けた。


「守護組の者が格別の働きをいたしました折には、御公儀より別段の御褒美を下されることは差し支えございませぬ。月々の御手当とは、別の扱いになります」


「御手当の額は」


「申し上げます」


 役人は帳面を一枚めくった。


「見習、月二両。士分の平の者、月三両。小頭、月五両。組頭級、月八両。副長、月十二両。組頭、月十五両。これとは別に、住まい、飯、着るもの、道具は、組の持ちとなります」


「見習とは」


 小笠原が言った。


 答えたのは、勘定方ではなく板倉だった。


「組に入ったばかりの者でござる。入ってすぐに士分とはいたさぬ。試しの間を置き、腕と人物を見たうえで、御用掛が士分に取り立てる。その間の者を見習と申す。ただし、組頭らの推薦があれば、その限りではないと聞いておる」


「見習も、三百のうちに数えるのでござるか」


「数える。組の者であるかぎりは」


 小笠原は、それ以上問わなかった。


 御用部屋の誰かが、小さく息を吐いた。


 平の者で三両。そこへ衣食住がつく。御公儀の御家人の中にも、それより暮らしの苦しい者はいくらでもいる。


「一年にいたしますと」


 役人は帳面の間から一枚の書付を抜いた。


「……かように、なります」


 板倉の前へ差し出す。


 受け取って、目を落とした。


 月々の御手当を年に直したもの。そこへ長屋、飯、薪炭、油、装束、道具、弾薬、医薬、京と江戸の往来の掛かりが加えられている。勘定方は、役宅で命じたとおりのものを出してきた。


 末尾に、一つの数があった。


 板倉は、その数をしばらく見た。


 小笠原が身を乗り出して書付を覗き込み、そのまま動かなくなった。


 和泉守も横から目を通し、黙って姿勢を戻す。ほかの老中も、回ってきた書付に一度目を落とすと、そのまま次へ回した。


「……それを」


 小笠原が言った。


「毎年」


「左様」


 板倉は答えた。


 小笠原は書付から目を離し、膝の上で手を組み直した。


 もう誰も、掛かりのことを問わなかった。


 御公儀が一文も出さずに済むことは、この数を見れば分かる。そのうえで、これだけの入用を毎年、一人の姫君の御用掛が自前で持つ。


 皆、そのことを黙って量っていた。


「ほかに、異議はござらぬか」


 板倉が言った。


 誰も口を開かなかった。


「では、これにて」


 書付を閉じかけたところで、小笠原がもう一度だけ口を開いた。


「周防守殿」


「なにか」


「勘定方の見立てまで、先に揃うておるとは」


 小笠原は、板倉の膝の前にある書付へ目をやった。


「手回しのよいことで」


 板倉は何も答えなかった。


 書付を閉じ、膝の脇へ置いた。


四

 評議が済んだその日の午後、板倉は御用部屋の次の間で、書付を起こす役人と向き合っていた。


 役人の膝の前には、雛形が三通並んでいる。役宅で命じた三つである。板倉は一通ずつ手に取り、役人と中身を確かめていった。


「まず、支配でございます」


 役人は、一通目の書付の一行を指で押さえた。


「天朝外語御用掛附属、といたしました」


「それでよい」


「念のため、伺います。この組は、近衛家の家来でございますか」


「違う」


 板倉は言った。


「近衛家の家来ではない。御公儀直属の組でもない。天朝外語御用掛という職に付く組じゃ。職を務める者が替われば、組はその者の下に付く」


 役人は頷き、余白に小さく書き足した。


「次に、身分でございます。幕臣の列には加えぬ、と」


「加えぬ。守護組に属する公認の士分とする。一代限りじゃ」


「御目見の以上、以下は」


「当てはめぬ。御公儀の家臣ではないゆえ、御目見の別も立てぬ」


 役人の筆がまた動いた。


「定員でございます。江戸と京を合わせて三百」


「下働きは数えぬ」


 板倉は言った。


「炊事、掃除、門番の小者の類は、三百のうちには入れぬ。三百は、組に属する隊士の数じゃ。まだ士分に取り立てておらぬ見習も、隊士であるかぎり数に入れる」


「江戸と京の振り分けは」


「三百のうちであれば、御用掛の側の差配に任せる。先方は京に七十、江戸に二百三十と申してきておる。それは、この前の座で某が承った」


 役人は書き取った。


「取立でございます」


 二通目の雛形を指す。


「士分の取立は、守護の任にある者に限る。取り立てるのは御用掛。御公儀へは、取り立てた者の姓名を……」


 そこで筆が止まった。


「伺い、といたしますか。届け、といたしますか」


「届けじゃ」


 板倉はすぐに答えた。


「御用掛が取り立て、その名を御公儀へ届ける。取り立ててよいかと伺わせるのではない。一人取り立てるたびに御用部屋へ書付を上げさせていては、御用掛の守りにならぬ」


「届け、で承りました」


「その代わり、名は必ずこちらの帳面に載る。誰が守護組の士分であるか、御公儀がいつでも知れるようにしておく」


 役人は余白に「届」と書き、その横へ小さく丸をつけた。


「欠けた者が出ましたときは」


 筆を止めたまま、役人が言った。


「病で退く者、務めの上で命を落とす者もございましょう。そのたびに、補うてよいかを伺わせますか」


「伺わせぬ」


 板倉は言った。


「三百を超えぬかぎり、御用掛の側で補えばよい。補うた者が士分に取り立てられたなら、その名を届けさせる。数が三百のうちにあることだけは、こちらの帳面で確かめる」


「補いも、届けにて」


 役人は書き足した。


「姓名書上でございます。組の発足に合わせて一度。以後は毎年正月」


「江戸の分と京の分は、同じ形で書かせよ。京の分は、所司代へ写しを回す」


「書上に載せますのは、士分の者だけでございますか。見習の者は」


「士分の者じゃ。御公儀が名を知っておかねばならぬのは、士分として扱う者じゃ。見習は三百の数には入るが、書上には載せぬ」


「承りました」


 役人は三通目の雛形を取り上げた。所司代への照会状である。その下に、一枚の紙が添えてある。古い控えの写しだった。


「支配替えの者でございます」


 役人は、その紙を読み上げた。


「京都所司代預り。京都警衛補佐。近藤勇、土方歳三、沖田総司、原田左之助、井上源三郎、秋山恒一。」


 板倉は黙って聞いた。


 阿部伊勢守殿の頃に、御門の御意向を受けて所司代預りとなった者たちである。京都警衛補佐という名目で、士分に準じて扱われてきた。その控えが、所司代の帳面に残っている。


「元から士分の者は、この控えには載っておらぬのか」


「載っておりませぬ。山南敬助、永倉新八らは、もとより士分の生まれにございますゆえ、所司代預りとする要がございませなんだ」


「その者たちは、組の姓名書上に士分として載せればよい。照会状には、この六名の名だけを載せよ」


 板倉は続けた。


「この六名は、所司代預りを解き、守護組へ移す。新たに取り立てるのではない。もとより士分として扱うてきた者たちじゃ。支配を替えるだけでよい」


「照会状には、何を問いましょう」


「今の身分。今の役目。扶持があれば、その有無。それと姓名じゃ。所司代の帳面と、こちらの控えが合うておるかを確かめる」


「組を置いてよいかどうかは、問いませぬので」


「問わぬ」


 板倉は言った。


「それは、もう決めたことじゃ。所司代に問うのは帳面のことだけでよい」


 役人は照会状の雛形に目を落とした。


「京からの返事は、いかがいたしましょう。返事を待ってから、組を発足させますか」


「待たぬ」


 板倉は言った。


「組は先に置く。帳面は、返事が来てから合わせればよい。京まで往き還りすれば、それだけで日が経つ。その間、組が宙に浮いておっては守りにならぬ」


「承りました」


 役人は、照会状の余白に二行書き足した。


 それから、二通の御書付の文案を板倉の前に並べた。


 一通は天朝外語御用掛宛て。守護組を置くことと、その条件。人数、取立、届け、一代限り、支配。


 もう一通は近藤勇への申付。京都所司代預りを解き、天朝外語御用掛守護組組頭を申し付ける。


「申付は、どちらで」


「某の役宅で申し渡す」


 板倉は言った。


「城へ呼ぶほどの者ではない。といって、書付を届けて済ませる者でもない。役宅へ呼び、顔を見て申し渡す」


「読み上げは、どなたが」


「そなたがせよ。書付を起こした者が読むのがよい。某は、同じ座におる」


「手前が…でございますか」


「御公儀の家臣に申し付けるのではない。首座が自ら読み上げれば、かえって話が大きゅうなる」


「承りました」


 板倉は、二通の文案を上から順に読んだ。


 一通目には、こうある。


『天朝外語御用掛の御用、追々相広まり候につき、その守護のため、御用掛附属の守護組を置くこと、聞き届け候。人数は江戸・京を合わせ三百を限りとす。守護の任にある者に限り、士分に取り立つるは御用掛の差配たるべし。取り立てたる者の姓名は、その都度届け出、毎年正月に惣書上を差し出すべし。士分は一代限りたるべきこと』


 二通目は、さらに短い。


『近藤勇。京都所司代預りを解き、天朝外語御用掛守護組組頭、申し付く』


 板倉は二通目を指で押さえた。


「申付は、これでよい。組頭が何をするかまでは書かぬ。それは御用掛の側の務めじゃ」


「心得ました」


 どちらも短かった。書いてあるのは、決めたことだけである。人数、取立、届け、一代限り、支配、組頭の名。


 なぜこの組を置くのか。なぜこれほど急ぐのか。そうしたことは、どこにもない。


 祐宮様のことも、一字として書かれていなかった。三通の雛形のどこにも、その名はない。


 それでよかった。


「これで、清書いたせ」


 板倉は文案を役人へ返した。


五

 夕刻、清書の済んだ書付が役宅に届いた。


 板倉は文机の上に三通を並べ、一通ずつ読み直した。昼に次の間で確かめた文言と、一字も違っていない。


 御用掛宛ての御書付。近藤勇への呼出状。それと、京の所司代、稲葉正邦への照会状。


 筆を取り、三通に花押を据えた。


 墨が乾くのを待つあいだ、文机の脇の帳面を開き、今日の評議で決まったことを一つずつ書き留める。守護組を置くこと。人数。取立。届け。一代限り。支配。照会。申付。


 書き終える頃には、花押の墨も乾いていた。


 照会状はその日のうちに封をされ、京へ向けて発った。


 残る二通は、一橋上屋敷へ届けさせる。


「御用掛宛ては、奥へ。呼出状は、近藤勇本人へ。取り違えるな」


 使いの者は二通を袱紗に包んで懐へ納め、役宅を出ていった。


 板倉は文机の上を片づけた。


 残ったのは、勘定方の見立ての書付が一枚だけだった。末尾の数は、昼に御用部屋で見たときと変わっていない。


 板倉はそれを畳み、帳面の間へ挟んだ。


  *


 一橋上屋敷の表に御公儀の使いが着いたのは、日が暮れる少し前だった。


 表の詰所には、もう灯が入っていた。開け放たれた引き戸の向こうでは、夕番に出る隊士たちが草履の鼻緒を確かめている。台所のほうから、飯の炊ける匂いが廊下伝いに流れてきていた。


 近藤は、詰所の奥にある畳の間で夜番の割り振りを見ていた。文机の上に紙を広げ、行灯を手もとへ引き寄せている。


 小舟町の書院で話した翌日から、割り振りの紙の書き方を変えた。沖田ら四人は、町の見回りの列からも語学所の守りの列からも外し、紙の端へ一行だけ別にまとめている。


 それを見て首を傾げる隊士もいる。訊かれれば、姫様のお側の務めだとだけ答えていた。


 取次の者が、詰所の敷居の外で膝をついた。


「近藤殿。周防守様の御使いより、近藤殿へ直にとのことでございます」


 近藤は割り振りの紙を脇へ置いた。


 詰所を出ると、表の廊下に使いの者が待っている。取次が、近藤を手で示した。


「近藤勇殿にござるか」


「近藤にござる」


 使いの者は懐から袱紗を出し、中の一通を両手で差し出した。


 もう一通は、すでに取次の手に渡っていた。奥へ回すのだろう。取次は近藤を一度だけ見て、そのまま奥へ続く廊下を去っていった。


 近藤は書状を受け取った。


 上書きには自分の名。その脇に、周防守の名がある。


 使いの者は受け取ったのを見届けると、頭を下げて帰っていった。


 近藤は、廊下に立ったまま封を切った。


『御用の儀これあり。日を定めて、周防守の役宅へ罷り出るべし。』


 書かれているのは、それだけだった。何の御用かはない。日付と刻限が一行、その下に周防守の花押がある。


 近藤は、その花押をしばらく見ていた。


 何の御用か、それでも分かった。


 小舟町の書院で沖田と斎藤に話してから、まだ幾日も経っていない。その間に、姫様の口から聞いていた話が御公儀の紙となり、自分の手元まで届いた。


 書状を元のとおりに畳み、懐へ納めた。


 詰所の中から、夜番の割り振りを読み上げる隊士の声が聞こえていた。


 第二百四十七話 了

【幕末、幕府はどうやって新しい「組」を作ったのか】


幕末になると、「○○組」と呼ばれる新しい組織が次々に現れる。


浪士組、新選組、新徴組、京都見廻組、新整組。


名前だけを並べると、幕府が必要に応じて部隊を作り、人を集め、すぐ警備に投入していたようにも見える。けれど、実際はそんなに簡単ではなかった。


江戸幕府の組織は、もともと「家」を基本にできている。誰がどの役に就くのか。どれほどの禄を受けるのか。どこに席を置き、誰の指揮を受けるのか。本人の腕前だけではなく、旗本や御家人としての家格、先祖代々の身分が深く関わっていた。


ところが幕末になると、その仕組みだけでは間に合わなくなる。


京都には諸藩の志士や浪士が集まり、江戸でも治安が揺らいでいた。将軍上洛の警護も必要になる。剣を使える者、市中を巡回できる者、いざというとき実際に戦える者を、短い期間でそろえなければならない。


その必要から生まれた大きな試みの一つが、文久三年(一八六三)の浪士組だった。


清河八郎らの働きかけを受けた幕府は、将軍上洛の警護を名目に浪士を集めた。従来の旗本・御家人だけではなく、幕臣組織の外にいた人間まで人材として取り込もうとしたところに、この組織の新しさがある。


もちろん、浪人を集めてそのまま京都へ向かわせたわけではない。


幕府側には浪士取締役などが置かれ、集めた者たちはその指揮下に入った。道中には宿泊も食事もいる。費用もかかる。人を募るだけでなく、指揮官を置き、金を出し、集団として動かすところまで幕府が面倒を見る必要があった。


ただ、制度が先に出来上がっていたわけではない。


まず人を集める。任務を与える。動かしてみる。そのうえで指揮や待遇を整えていく。


幕末に作られた新しい組織には、こうしたものが少なくない。


浪士組は、その危うさもすぐに見せた。


京都に着くと、清河八郎は幕府の意図とは違う方向へ浪士たちを動かそうとする。結局、幕府は浪士組を江戸へ戻すことになった。


そのまま全員が帰ったわけではない。


近藤勇や芹沢鴨ら一部は京都に残り、のちの新選組につながっていく。一方、江戸へ戻った者たちは再編され、新徴組となった。


ここからが、また面白い。


新徴組は文久三年四月に成立し、その後、庄内藩酒井家の預かりとなる。幕府が一人ひとりを正式な旗本や御家人として召し抱えるのではなく、まとまった集団を大名家に預け、その管理下で働かせたのである。


幕府は任務を命じる。


庄内藩は組を預かり、指揮し、江戸市中の警備に使う。


既存の幕臣制度を一から作り直さなくても、これなら新しい実働部隊を持てる。


便利なやり方ではあった。


しかし、問題も少なくない。


浪士を集めれば、出自も経歴も考え方もばらばらである。剣の腕が立つからといって、役人として命令に従うとは限らない。私的な争いを起こす者もいれば、素行に問題のある者も出る。


だから、組織を作るだけでは足りなかった。


必要だったのは、その後の規律である。


誰の命令を受けるのか。どこを巡回するのか。昼夜の当番をどう組むのか。不始末を起こした者をどう処分するのか。住まいをどうするのか。金は誰が出すのか。


こうした細かな決まりを一つずつ整えて、ようやく「浪士の集まり」が「治安組織」に変わっていく。


京都見廻組は、成立の仕方が少し違う。


元治元年(一八六四)、幕府は京都見廻役を新設し、その下に実働部隊として京都見廻組を置いた。


こちらは浪士中心の組織ではない。主として旗本や御家人の次男、三男など、幕臣層から人を選んだ。


浪士組では、先に人を集め、あとから幕府側の指揮系統に組み込んだ。


見廻組では、先に幕府の正式な役職を置き、その下に人を集めている。


同じように京都の治安を担った組織でも、作り方はかなり違う。


幕府の制度の中に、きちんと席を設けてから人を入れたわけである。


ただし、こちらにも別の難しさがあった。


旗本や御家人の子弟なら、誰でも京都で浪士を取り締まれるわけではない。市中警備では武芸も胆力も必要になる。ときには実際に斬り合うこともある。


身元が確かで、なおかつ武芸にも優れた人間。


そういう者を幕臣層だけから必要な人数そろえるのは、容易ではなかった。


浪士を集めれば人数はそろえやすい。その代わり、統制が難しい。


幕臣から選べば身元は確かだが、今度は使える人間が足りない。


幕府は、どちらを選んでも別の問題を抱えることになった。


新整組の成立を見ると、また違った形が出てくる。


新徴組には、小林登之助という砲術家がいた。


小林は神田お玉ヶ池で砲術を教えており、自分の門弟およそ八十人を率いて幕府への仕官を願い出ている。


だが、直接の幕臣にはなれなかった。


そこで文久三年十二月、彼らは庄内藩預かりとなり、「小林組」として江戸市中取締に加わった。その後「大砲組」と名を変え、慶応四年(一八六八)二月になって「新整組」と称するようになる。


この流れを見ると、腕のある者を集めれば、そのまま幕府の正式な部隊になれるわけではなかったことがよく分かる。


仕官を願い出る。


幕府が判断する。


直接召し抱えられなければ、大名家の預かりにする。


その下で任務を与え、指揮系統に組み込み、ようやく組織として形を整えていく。


面倒な手続きではあるが、当時の幕府にとっては必要な段階だった。


何しろ、それまでの幕府は家格と世襲を前提に人を使ってきた。


ところが幕末になって必要とされたのは、家柄よりも実際に役に立つ人間だった。


剣を使える者。


砲術を知る者。


市中を巡回できる者。


命令があれば、その場へ行って戦える者。


能力を優先すれば、今度は身分の問題が出る。


この者は幕臣なのか。


預けられた藩の家臣なのか。


誰が給金を払うのか。


問題を起こしたとき、誰が責任を取るのか。


それまでの仕組みでは答えの出ない問題が、次々に出てくる。


金もかかった。


人を集めれば、俸給だけでは済まない。宿舎がいる。食事もいる。武器も必要になる。巡回させれば、その分の運営費もかかる。


江戸や京都に数百人規模の部隊を常駐させるとなれば、負担はさらに大きい。


もっとも、これだけで幕府や諸藩の財政が破綻したわけではない。


幕末の財政難には、海防、軍備、外交、長州征討、幕政改革など、もっと大きな支出が重なっている。新しい治安組織の維持費も、その重荷の一つだったと見るのが妥当だろう。


指揮の問題もあった。


江戸には町奉行所があり、京都には京都所司代がある。さらに京都守護職が置かれ、その下や周辺に新選組、見廻組といった新しい実働部隊が加わっていった。


組織を増やせば、動かせる人数は増える。


その一方で、誰がどこまで命じるのか、どの役所がどの仕事を受け持つのか、調整も必要になる。


こうして見ていくと、幕末の「組」は、単なる剣客集団ではなかったことが分かる。


人を集める。


選ぶ。


金を出す。


住まわせる。


役職を作る。


指揮官を置く。


任務を決める。


規律を定める。


必要なら、大名家に預ける。


幕府は、そのとき使える制度をつなぎ合わせながら、新しい部隊をどうにか形にしていった。


幕末の幕府は、古い制度にしがみついて何もしなかったわけではない。


むしろ、かなり無理をしながら変えようとしている。


身分の外から人を集め、能力のある者を使い、新しい役職を作り、大名家への預かりという方法まで使った。


ただ、新しい仕組みを一つ加えるたびに、今までの身分制度や財政、指揮系統との間にひずみが出た。


浪士組、新徴組、京都見廻組、新整組。


幕末に次々と生まれたこれらの「組」は、治安の悪化に対応するための臨時部隊であると同時に、二百年以上続いた幕府が、それまでの仕組みだけではもう持たないと気づき、新しい組織の作り方を探していた跡でもある。

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