第二百四十六話「糸子のお嫁入り編―京と長崎と江戸と」
一
皐月に入り、京の町は青くなった。
東山の稜線は、もう若葉の色ではない。濃い緑が山肌を覆い、その下を流れる鴨川は、河原の石を浅く洗っている。三条の橋では梅の実を籠に盛った物売りが声を上げ、その脇を、荷を担いだ男たちが行き交っていた。
町は、静かだった。
去年の卯月のような騒ぎはなく、斬り合いの噂も、ここしばらく聞かない。物売りの声も荷車の音も、いつもと変わらず、町には普段どおりの日々が流れている。
だが、変わらなすぎる、と言う者もいた。
攘夷を口にする者たちが、近ごろ京へ集まってきているという。諸国からひとり、ふたりと上ってきては、どこかの寺や宿に身を寄せ、いつしか町に溶け込んでいる。表立って騒ぐ者はいない。ただ夜になると、決まった家の戸口に見知らぬ草鞋が並ぶ――そんな話が、声を潜めて交わされていた。
誰が集めているのか。何のために集まっているのか。
そこまで口にする者はいなかった。
町は、何も起きていないような顔をしていた。
御所の北、今出川の通りに面して、近衛の屋敷の築地塀が長く延びている。その奥にある庭も、すっかり青くなっていた。
障子を開ければ、糸桜の枝が見える。弥生の初めにはまだ固い蕾をつけていた枝である。花はとうに散り、いまは細い葉が枝いっぱいに垂れ、風が通るたびに揺れていた。
日差しは、もう夏に近い。それでも軒の影に入れば、まだ涼しかった。
忠房は文机に向かい、書き物をしていた。
廊下に、膝をつく音がした。
「御前様」
藤右衛門の声だった。
「江戸の姫様より、御文が届きましてござります」
「通せ」
障子が開き、藤右衛門が文箱を捧げて入ってきた。膝で進み、文机の脇へ置く。何も問わず、そのまま下がった。
忠房は筆を置いた。
文箱の蓋を取る。中には封が一つ。厚い。上書きは娘の手である。
正月に届いた文も厚かった。あのときは、壬生という若者が東海道を半月かけ、胸に抱えて運んできた。灯を一つだけ点けさせ、人払いをしてから封を切ったものだった。
今度の文は、並の飛脚で来た。
忠房は灯を待たず、障子越しの昼の光の下で封を切った。
『父上、』
一行目は、いつもと同じだった。
『先の御文、つつがなく拝しまいらせ候。御門の御言葉、まことに有り難く、御公儀との座に携えて参り候』
御言葉。
如月、娘への返書に添えた一行である。
外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ。
御門が、娘のために賜った御言葉だった。
娘はそれを携えて、座に出たという。
忠房は次の行へ目を移した。
『御公儀との座、万事、思いのほかよろしく運び申し候』
思いのほか、と娘は書いている。
娘がそう書くときは、たいてい思ったとおりに運んだときである。忠房は知っていた。
先を読む。
浜町に御屋敷を賜ること。天朝外語御用掛の職に付く屋敷として、御公儀が出すこと。広さは一万五千坪。大川に面し、御公儀が手を入れてから引き渡すため、移るのは夏過ぎになること。
一万五千坪。
忠房は、その数のところで目を止めた。
この近衛の屋敷より広い。
御公儀では、後見職、総裁職、首座が、いずれも話を聞いてくれたこと。
旭狼衛は、江戸と京を合わせて三百。京に七十、江戸に二百三十。名を届け出た者は、士分として扱われる見込みであること。
その先に、鉄砲のことがあった。
『御屋敷の守りのため、英国の新しき鉄砲、八十挺を置くこと、御公儀の許しを得申し候』
忠房は、その行を二度読んだ。
八十挺。
娘の屋敷を守るために、鉄砲が八十挺要る。それを御公儀が許した。
許したからには、御公儀も必要だと見たのである。
次の行には、こうあった。
『大砲も、いずれ』
紙の端を持つ忠房の手が止まった。
それだけだった。
いずれ……とだけ書き、娘の筆は次の話へ移っている。何門とも、何のためとも書いていない。
忠房は紙を膝へ下ろした。
障子の外で、糸桜の葉が揺れている。
江戸とは、それほど物騒なところなのか。
暮れには、娘が英国の書記官と談判の座に着いた。そのことは文で知った。浪士の噂も、天誅の噂も、京と江戸で変わりはない。
それにしても、大砲である。
五摂家の姫が、父への文に大砲と書いてくる。
忠房は紙を持ち上げ直した。
いずれ。
その文字を、しばらく見ていた。
「……わが娘ながら」
声に出ていた。
「糸子は、どこへ向かっておるのやら」
庭で、鳥が一声鳴いた。
忠房は首を振り、先を読む。
語学所を広げること。学ぶ者が増え、仏語を学びたいという者も出てきたこと。
そこで紙が一枚、改まっていた。
『つきましては、近衛の家より、人をお遣わしいただきたく』
諸大夫を二人。用人を三人。勘定方を二人。近習を三人、叶うなら四人。奥向きの女中、女房を十二人より十五人ほど。小者、使いの者を四人より六人ほど。
合わせて、おおよそ三十人……
役名ごとに一行ずつ、何をさせる者かまで書き添えてある。近衛の名で御公儀と取り次ぐ者。屋敷の実務をまとめる者。給金と食い扶持、修繕の銭を預かる者。娘への取り次ぎをする者。
三百を超える者を抱える屋敷の骨組みだった。
最後の一枚には、短い一行があった。
『乳母のお梅を、こちらへ寄越していただけませぬか。本人が否と申すなら、それで構いませぬ』
忠房はそこまで読んで、ふっと息を吐いた。
否と申すなら、と娘は書いている。
お梅が否と言うはずがない。それを娘も知っている。そのうえで、そう書いていた。
紙を揃え、文机の上へ置いた。
喜ぶべき文だった。
御公儀との座は、娘の望んだとおりに運んだ。御門の御言葉が娘を守り、屋敷を得て、人も得ることができた。
忠房は、素直に喜ばしいと思った。
だが、そのあとで、ふと「大砲」の二文字が頭に浮かんだ。
急に不安になった。
二
「藤右衛門」
障子の外へ声をかけると、すぐに返事があった。
「はい」
「入れ」
藤右衛門が入ってきて、先ほどと同じところに膝をついた。
忠房は、人の名を並べた紙を藤右衛門のほうへ向ける。
「読んでみよ」
「拝見いたします」
藤右衛門は両手で紙を受け取り、上から順に目を落としていった。
諸大夫、用人、勘定方、近習、奥の女中、小者。
読み終えると、顔を上げた。
「江戸の、姫様の御屋敷へ」
「そうじゃ。夏過ぎに浜町へ移るそうな。御公儀の職屋敷として、一万五千坪だそうじゃ」
「随分と広うござりますな」
藤右衛門は、それだけを繰り返した。顔つきは変わらない。
忠房は文机に肘を置いた。
「おおよそ三十人じゃ。諸大夫が二人、用人が三人。これだけの者を江戸へ出して、この家が手薄にならぬか」
諸大夫は近衛の家の顔であり、用人は家の手足である。どちらも京の屋敷から急に抜ければ、家のどこかが回らなくなる。
藤右衛門は紙を膝の上へ置いた。
「御前様」
「なんじゃ」
「申し上げにくいことにございますが」
わずかに間を置く。
「このような日が、いずれ参るやもしれぬと存じまして。かねてより、人を見繕っておりました」
忠房は、藤右衛門の顔を見た。
「……かねてより?」
「はい。姫様が江戸へお下りになりましたときから」
安政六年の秋。三年半あまり前である。
「姫様は、江戸で何かをお始めになる御方でございます。お始めになれば、いずれ人がお入り用になる。そのときになって、こちらの家の手を割き、慌てて送り出すのでは、どちらも回らなくなりましょう」
藤右衛門は膝の上の紙に指を置いた。
「諸大夫に据えられそうな者、用人の務まる者、帳面の分かる者。家の内で、それぞれ下の者を育てておきました。いま抜けても、家の中は回ります。奥の者も同じでございます」
「名は」
「すでに、幾人かは挙げられます。改めて書き付け、お目にかけましょう」
忠房はしばらく黙っていた。
三年半。
娘が江戸へ下ってから、この家司は、娘が人を求める日を見越して、黙って家の者を育てていた。誰にも言わずに。
「……さすがじゃな」
それだけ言った。
藤右衛門は頭を下げる。
「御前様をはじめ、近衛の皆様が、安んじてお暮らしになれますように。それだけにございますれば」
忠房は、少し笑った。
この男は、手柄を手柄と言わない。そのまま三年半を過ごしてきた。
「日取りは、どうする」
「江戸の御屋敷のお引き渡しが夏過ぎとのことでございますれば、それに合わせて発つのがよろしいかと。女の旅を含みますゆえ、東海道は日数をかけて。奥の者は、御屋敷が整ってから入るほうが、姫様もお困りになりますまい」
「任せる」
「承りました」
「それから」
忠房は、文机の上にある最後の一枚へ目をやった。
「お梅を、呼んでくれ」
藤右衛門は何も問わず、下がった。
三
お梅が呼ばれたのは、昼八つを少し過ぎた頃だった。
奥の台所で、夏の着物を繕っていたところである。藤右衛門様が自ら呼びに来たので、お梅は針を刺したまま立ち上がりかけ、慌てて針山へ戻した。
御前様の私室へ呼ばれることなど、めったにない。
廊下を歩きながら、思い当たることを胸の中で数えた。
姫様のことしかなかった。
障子の外で膝をつく。
「お梅にございます」
「入れ」
障子を開けると、御前様は文机の前に坐っていた。机の上には、紙が何枚も重ねてある。
お梅は、その上の字を遠目に見た。
姫様の手だった。
「近う」
膝で進む。
御前様は紙の束から一枚を抜き、お梅のほうへ向けた。
「ここを、読んでみよ」
お梅は両手で受け取った。
いちばん下の一行に、自分の名がある。
『乳母のお梅を、こちらへ寄越していただけませぬか。本人が否と申すなら、それで構いませぬ』
一度読み、もう一度読んだ。
紙を持つ手が、少し揺れた。
「お梅」
御前様の声がした。
「江戸へ、行ってくれまいか」
お梅は顔を上げた。
「もちろんでございます」
自分でも驚くほど、すぐに声が出た。
「姫様には、もう何年もお目にかかっておりませぬ。さびしゅうて、さびしゅうて、仕方がございませんでした」
言ってしまってから、口を押さえた。
御前様の前で口にすることではなかった。
けれど、御前様は咎めなかった。ほんの少し、目元が緩んでいる。
安政六年の秋、姫様は江戸へ下られた。それから、三年半あまりになる。
否と申すなら、それで構いませぬ。
姫様は、そう書いておられる。
お梅が否と言うはずなどない。それを姫様もご存じのはずだった。それでも、断る道を残してくださった。
お梅は紙を膝の上に置き、両手をついた。
「お連れくださいまし。どこへでも、参ります」
「うむ」
御前様は頷いた。
「道中は、駕籠を用意させる。女の足で東海道を歩かせるつもりはない。日数もかけてよい。無理はするな」
「もったいのうございます」
「それとな」
御前様は、少し声を落とした。
「もし、江戸がそなたに合わぬところであったなら…」
「はい」
「糸子を連れて、帰ってまいれ」
お梅は、御前様の顔を見た。
笑っておられない。けれど、本気でもないことは分かった。
半分ほどは、本気かもしれない。
お梅は少し笑った。
「姫様が、お帰りになると申されましたら」
「そうじゃな。……あれが、そう申すはずもないか」
御前様は苦笑された。
その顔から、やがて笑みが消えた。
お梅も口元を引き締める。
御前様は文机の上の紙を揃え、脇へ寄せた。それから障子のほうへ一度目をやり、外に人の気配がないのを確かめるように、しばらく黙っている。
「それとな、お梅」
「はい」
「そなたに、大事な話がある」
御前様は、膝の上で手を組んだ。
「これは、他言無用ぞ」
お梅は背筋を伸ばした。
御前様が「他言無用」と口にされるのを、お梅は数えるほどしか聞いたことがない。
「……なんでございましょう、御前様」
障子の向こうで、庭の糸桜から鳥が一羽、飛び立った。
羽音が短く響き、すぐに消える。枝はしばらく揺れていたが、やがて静まり、垂れた葉は何事もなかったように昼の光を受けていた。
築地塀の向こうへ、鳥の影が小さくなっていく。
屋敷の中は、静かだった。
閉じた障子の内で交わされた言葉が、庭の木にも、塀の外を行く者にも届くことはない。それでも、その言葉は聞いた者の胸に残る。
やがて、鳥の影も東の空へ消えていった。
四
お梅も藤右衛門も下がり、私室から人の気配がなくなったのは、日が傾きはじめた頃だった。
忠房は一人、文机の前に坐っていた。
娘の文は畳み直し、すでに文箱へ納めてある。
藤右衛門は人を見繕っていた。お梅も、行くと言った。江戸へ出す者の顔ぶれは、あとは日取りを決めればよい。
お梅には、あのことも話した。
黙って聞いていたお梅は、話が終わってもしばらく畳に手をついたまま動かなかった。やがて顔を上げ、「承りました」とだけ言った。
江戸で娘の一番近くにいる者が何も知らぬままでは、守れるものも守れぬ。そう思って話した。
忠房は、文箱の蓋に手を置いた。
娘の文には、御屋敷のこと、旭狼衛のこと、鉄砲のこと。そして、御公儀が娘の求めをほとんど呑んだことが書かれている。
それを支えたのは、御門の御言葉だった。
だが、その顛末を御門はまだご存じない。
「さて……」
忠房は障子のほうへ目をやった。糸桜の葉が、夕方の風に揺れている。
「このことは、早急に御門のお耳にもお入れせねばならぬな」
文机の上で、硯の水が少しだけ光っていた。
五
長崎の皐月は、雨が多い。
この朝も、明け方から細かな雨が降りつづいていた。湾は靄にかすみ、沖に錨を下ろした異国船の帆柱が、薄墨で引いた線のように浮かんでいる。その手前を、荷を積んだ小舟が何艘も、雨をものともせず行き交っていた。
大浦の波止場では、人足たちが濡れた背に荷を担ぎ、次々と陸へ運び上げている。茶の箱、生糸の束、樟脳の樽。短い掛け声が、同じ調子で繰り返されていた。
居留地へ続く石畳の坂を、蝙蝠傘を差した異人が二人、言葉を交わしながら下りてくる。その脇を、蓑を着た物売りが天秤棒を揺らしながら上っていった。
江戸で何が決まろうと、京で何がささやかれようと、この町の営みは変わらない。船が着けば荷が揚がり、荷が動けば銭も動く。雨が降ったところで、それが止まることはなかった。
波止場から少し入った町筋に、大浦屋の店がある。
表の土間には茶の箱が天井近くまで積み上げられ、手代が帳面を片手に数を読み上げていた。湿った空気の中には、乾いた茶葉の匂いが濃く漂っている。
その奥の座敷で、岩崎弥太郎は江戸からの便を受け取った。
手代が置いていった書状は二通。一通は会所の総差配の名で、帳の締めについて細かな指図が書かれている。もう一通には、表に「岩崎弥太郎殿」とだけあった。
姫様の手である。
弥太郎は会所の書状を脇へ置き、姫様の書状の封を切った。
用件から始まっていた。いつものことだ。
『英国の軍がいま用いる新式の施条銃、エンフィールドと申すものを、ひとまず百五十挺、買い入れられたし』
弥太郎はその一行を読み、紙から目を離した。
格子窓の外を見る。雨が降っていた。
もう一度、書状へ目を戻す。
『百五十挺。』
眼を擦ってみる。
『百五十挺。』
やはり、そう書いてあった。
「はぁーーーーっ!?」
声が出た。
「なんじゃあ、こん書状はあああああぁぁぁっ!!」
奥座敷に声が響いた。
表の土間で荷の数を読み上げていた手代が、ぴたりと口を止める。
向かいの机で筆を動かしていた伊藤俊輔も顔を上げた。
「どうしたんね、弥太郎殿」
「伊藤殿」
弥太郎は紙を突き出した。
「読んでみい」
伊藤は立って書状を受け取り、眉を寄せながら上から目を落としていく。
一行目で止まった。
「……えっ?」
「えっ、じゃろう」
弥太郎は腕を組んだ。
「一体、なにを考えちょるんか。あの姫様は」
帳場の奥の戸が開いた。
「なんちや」
「どがいした?」
近藤長次郎が顔を出し、その後ろから飯田俊徳が帳面を抱えたまま覗き込む。
「弥太郎さんが叫びよったき、何事かと思うたぜよ」
「何事も何も、ないわ!」
表の土間から吉田稔麿が上がってきた。そのあとに、雨に濡れた沢村惣之丞が続く。肩の雨粒を払いながら、帳場を見回した。
「なんじゃ、皆揃うて。誰ぞ死んだがか」
「死んじょらん。死んじょらんが……」
弥太郎は伊藤の手から書状を取り戻した。
六人が奥座敷に揃った。
弥太郎は、書状を指で叩く。
「江戸の姫様からじゃ。英国の、エンフィールドっちう新しい鉄砲を、百五十挺、注文じゃ」
帳場が静まった。
「それに」
紙をめくる。
「大砲も…いずれ、折を見て頼むかもしれんと書いてきよった」
「……えっ?」
五人の声が揃った。
「しかもじゃ」
弥太郎は続けた。
「御公儀とは、もう話がついちょるき、銃が着いたら長崎奉行に届け出ろ、じゃと。奉行所にも御公儀からお達しが出る手筈じゃき、安心して買え、と」
沢村が、濡れた袖のまま腕を組んだ。
「公家のお姫様がする注文じゃないきね、これっ」
吉田は眉間に皺を寄せた。
「姫様は、江戸で戦でも始めるおつもりかね」
飯田が帳面を胸に抱え直す。
「わしらが江戸を出てから、何かあったんかね」
長次郎も首をひねった。
「江戸っちゅうところは、いつからそんな物騒な場所になったがじゃ」
誰も答えを持っていなかった。
弥太郎は書状を机の上に置いた。
『百五十挺。』
頭の中では、もう算盤が動きはじめている。英国の銃を一挺いくらで引くか。百五十挺なら、まとめて値が下がる。弾と雷管、それに手入れの道具も揃いで、と書いてある。誰の商館を通すか。いつ着くか。
動きはじめた算盤を、止める気はなかった。
「まあ」
弥太郎は大きく息を吐いた。
「姫様からの頼みじゃ。きっちり、用意はしちゃる」
皆が弥太郎を見る。
「しちゃるが……」
その先が出てこない。
伊藤が机の上の書状をもう一度手に取った。最後の紙をめくり、末尾へ目を落とす。
「あっ!」
「なんじゃ」
「書状の最後に、まだ書いてありますけぇ」
指で行をたどる。
『大砲は、いずれ…折を見て。急ぎは致さず。……家内安全のため、一応』
帳場の中が、一瞬しんとなった。
六人が顔を見合わせる。
家内安全。
鉄砲百五十挺。
大砲。
「どんな家内安全じゃああぁぁあぁーーーっ!!」
弥太郎の声に、五人の声が重なった。
表の土間で、手代が帳面を取り落とした。
*
笑いが収まるまで、しばらくかかった。
沢村は柱にもたれて肩を震わせ、長次郎は畳に手をついて笑っていた。吉田は口元を袖で押さえ、まだ笑いを堪えている。飯田だけが帳面を抱えたまま、困ったように皆を見ていた。
弥太郎は書状を丁寧に畳み、文箱へ入れた。
「……まったく、あん姫様はぁ」
口ではそう言ったが、口の端はまだ上がっていた。
*
昼を過ぎると、雨は小降りになった。
手代たちが表で荷を動かしはじめた頃を見計らい、弥太郎は五人を帳場の奥の小部屋へ呼んだ。
伊藤俊輔。吉田稔麿。飯田俊徳。近藤長次郎。沢村惣之丞。
障子を閉めると、雨の音が遠くなった。
「さっきの書状とは、別の話じゃ」
弥太郎は膝の前に一枚の紙を置いた。日付と船の名が書いてある。
「段取りを、もっぺん確かめちょくきね」
五人が膝を寄せた。
「一月後じゃ。水無月の下旬」
紙の日付を指で押さえる。
「おまんらは、水夫の格好をして向こうの船に乗り込む。髷は、その前の晩に落とす。荷も、水夫の持つ程度に絞れ。書物は、持ちたかろうが二冊までじゃ」
「二冊……」
飯田が小さく呟いた。
十五である。五人の中でいちばん若い。蘭書の図面を写すだけでは足りぬと言い、蒸気の船と機械の本物を自分の目で見に行くと言い出した男だった。
「三冊目は、向こうで買え。銭は持たせる」
飯田は黙って頷いた。
「船は、まず上海へ行く。上海で英国の船に乗り換える。そこから英国まで」
「どれくらい、かかりますかね」
吉田が訊いた。
「早うて、四月。遅けりゃ、半年」
膝の上で指を組んだ。
横浜で、この男は条約の文を毎日のように読まされた。万延の条約に記された、日本の側にばかり重くのしかかる決まりを、一つずつ。
その条約を書いた国の人間とは、いったい何者なのか。何を考え、なぜこのような決まりを作ったのか。
それを自分の目で確かめに行くのだと、吉田は言った。
半年かかろうと、行く男だ。
「英国に着いたら、グラバーの商館の者が迎えに出る。宿も、向こうでの銭の受け渡しも、学ぶところの手配も、グラバーの伝手でひととおり整えてくれる手筈じゃ」
伊藤が少し身を乗り出した。
「グラバー殿には、わしらが直に頼んじょるっちゃ」
弥太郎は伊藤を見る。
「弥太郎殿の名は、出しちょりません。会所の名も、姫様の名も」
伊藤は続けた。
「わしらが英国で何をしくじっても、こちらに累が及ばぬように。グラバー殿は、それならと引き受けてくれましたけぇ。あの御仁も、自分の国でわしらがどう育つか、見てみたいそうっちゃ」
吉田と飯田が、その横で頷いた。
三人でグラバーの商館へ通ったのだろう。弥太郎の知らないところで、何度も。
しばらく、伊藤の顔を見る。
語学所にいた頃から知っている。横浜へ出され、異人と直に話すようになった。相手の前で黙って喋らせ、そのあいだに相手を量ることを、横浜で覚えてきた。
書物の知恵ではなく、人を納得させて動かす知恵を、本物の国で身につけたい。この男は、そう言った。
その伊藤が、異人の商人と自分で掛け合い、自分の行く道を作った。
「……そうか」
弥太郎は、それだけ言った。
それから、残る二人を見る。
長次郎と惣之丞。
この二人は、長州の三人とは別口だった。三人の渡航が決まったあと、弥太郎が自分の銭を上乗せして、枠を二つ足したのである。
長次郎は、膝の上で指を組んでいた。顔は静かだった。
去年、この男はグラバーに誘われ、一人で海を渡りかけた。その足を止めたのは、龍馬が懐から出した姫様の手紙である。
その長次郎が今度は、仲間と並んで坐っている。
「長次郎」
「はい」
「今度は、一人やないき」
長次郎は少し笑った。
「分かっちょります。今度は、天朝の銭で、天朝のために行くがじゃ。グラバーの銭で、自分のために行くがとは違う」
弥太郎は頷いた。
その隣で、惣之丞が胡坐の膝を揺すっている。
「わしは、まだ腑に落ちんがじゃ」
惣之丞が言った。
「長次郎はええ。英語も読める、帳面も読める。わしは、港で密輸の舟を追いかけちょっただけじゃき。英国へ行って、何をするがじゃ」
「船を見てこい」
弥太郎はすぐに答えた。
「おまんは、海の門番じゃった。長崎の港で、どの舟が怪しいか、どの船が何を積んじょるか、足で見て回った。英国の港で、同じことをしてこい。向こうの船乗りが船をどう動かし、荷をどう積み、港をどう守っちょるか。それを見てこい」
惣之丞は口を開きかけ、閉じた。
「それにの」
弥太郎は、算盤を弾くときの顔になった。
「長次郎を一人で出すより、おまんと二人で出したほうが、手間は変わらんき。船の手配も、向こうの宿も、二人分も一人分も、かかる手間は同じじゃ。銭は二人分かかるが、手間は二人分かからん。そんなら、二人で出したほうが得じゃ」
「……わしは、ついでか」
「長次郎の背中を守る役じゃ。龍馬に頼まれちょったろうが」
惣之丞はしばらく弥太郎を見ていた。
鼻を鳴らす。
「……そういうことなら、行っちゃる」
長次郎が横で小さく笑った。
弥太郎は紙を畳み、懐へ入れた。
五人の顔を順に見る。
横浜から長崎まで、和船で二月も三月もかけてやって来た長州の三人。去年、一度は一人で海を渡りかけた男。その背中を、土佐から守ってきた男。
その五人が、いま自分の膝の前に並んでいる。
「ええか」
五人が背を伸ばした。
「銭を、ドブに捨てさすなや」
弥太郎の声が低くなる。
「おまんらに出す銭は、異人から毟った銭じゃ。会所が汗をかいて取り返した銭じゃ。それを英国で酒と女に変えてきたら、わしが英国まで追いかけて行って、海に叩き込んじゃる」
惣之丞が喉の奥で笑った。
「死ぬ気で、知恵を吸い尽くしてこい。向こうの国が、どうやって物を作り、どうやって売り、どうやって船を走らせちょるか。全部じゃ。全部、頭に入れて持って帰ってこい」
伊藤が膝の上で拳を握った。
「分かっとるっちゃ、弥太郎殿」
吉田も、飯田も、長次郎も、惣之丞も頷いた。
障子の外で、雨がまた少し強くなった。
六
参内の願いを出して、三日のちに召しがあった。
その朝、京の空は薄く曇っていた。雨になるほどではなく、雲を透かして白い光が落ちている。皐月の湿り気を含んだ風が、乗物の小窓から入り込んできた。
近衛邸を出た乗物は、公家町の築地のあいだを進んでいく。
どの屋敷も、築地塀の上には青葉が覗いていた。弥生には花をつけていた枝も、いまはすっかり葉ばかりになり、塀の瓦に影を落としている。道はきれいに掃き清められ、行き交う者の足取りも静かだった。
何も起きていないように見える町を、忠房は小窓から眺めていた。
「静かすぎるのう……」
やがて乗物は御所の西側へ回り、宜秋門の前でゆっくりと速度を落とした。
檜皮葺の屋根を載せた門である。柱も扉も白木のままで、華美なところはない。公卿門とも呼ばれるこの門をくぐれるのは、宮家と摂家、それに大臣をはじめとする限られた公卿だけだった。
門の脇に控えていた者たちが、近衛の乗物と見るや、揃って頭を下げる。
乗物は門をくぐり、内の広場で一度止まった。
供の者がついて入れるのは、ここまでである。この先、御車寄までは、乗物を担ぐ者のほかに誰も進まない。
忠房は、小窓を少しだけ開けた。
「山南」
乗物の脇に控えていた山南敬助が、すぐに小窓の前へ寄り、片膝をついた。
「はっ」
「京が、静かすぎる」
小窓の外に、いまくぐってきた宜秋門が見えた。その向こうには、青葉を覗かせた公家町の築地が続いている。
「そなたは、どう思う」
山南は、少しだけ間を置いた。
「はっ。左府様の仰せのとおりかと存じます」
短い答えだった。
「まるで、嵐の前の静けさじゃ」
忠房の声が、ひとつ低くなった。
「山南。何か起こっておるか、調べよ」
「はっ」
山南は、深く頭を下げた。顔を上げたときには、その目はもう門の外へ向いていた。
その先に、白砂が広がっていた。
敷き詰められた砂には竹箒の目がまっすぐに通っている。今朝のうちに掃かれたものだろう。曇り空から落ちる白い光の下では、照り返しも弱く、ただどこまでも平らに見えた。
その向こうに、御殿の屋根が幾重にも重なっている。
手前の低い屋根の奥には、ひときわ高く紫宸殿の大屋根が見えた。黒みを帯びた檜皮が曇り空を背に、ゆるやかな反りを描いている。
安政の御造営から、八年。
焼ける前の御殿を知る者も、朝廷にはまだ多かった。
乗物は御車寄の前で止まった。
忠房は乗物を降り、階を上がって殿上へ入った。よく磨かれた廊下の板から、足袋越しに冷たさが伝わってくる。蔀戸は上げられており、庭の白砂から返る光が、廊下の天井にまで淡く届いていた。
取次の者に名と用向きを告げると、諸大夫の間へ通された。
桜の間、鶴の間の前を過ぎ、一番奥の虎の間に入る。
襖に描かれた虎は、右府と並んで坐ったあの朝と変わらぬ顔で、座敷を見下ろしていた。
今日は、先客がいない。
忠房は座に着き、膝の上で手を重ねた。
障子には庭の松の枝が影となって映り、風が渡るたび、わずかに揺れる。遠くで戸の閉まる音がした。
ほどなく、取次の者が敷居際に膝をついた。
「左府様。御常御殿へ、お召しにござります」
*
御常御殿の一間は、障子が閉て切られていた。
障子を透かす光は、表の廊下よりもやわらかい。畳には、まだかすかに青い匂いが残っている。
忠房は敷居際で平伏した。
「面を上げよ、忠房。近う」
おもてを上げ、御前近くまでにじり寄る。
御簾は上げられていた。御門は御座にあって、脇息に軽く肘を置いておられる。
「畏り奉りて候」
「糸子から、文が参ったか」
先に仰せになったのは、御門だった。
「はっ。皐月の初めに、届きましてござりまする」
「申せ」
忠房は懐から娘の文を取り出し、膝の前に開いた。
「娘は、まず御礼を申し上げておりまする」
一行目を読む。
「御門の御言葉、まことに有り難く、御公儀との座に携えて参り候」
脇息に置かれていた御門の指が止まった。
「携えて、か」
「はっ。主上より賜りました御言葉を携え、御公儀の座に出ましてござりまする」
忠房は紙をめくった。
「その座にて、娘の願いは、ほとんど容れられましてござりまする」
あとは、娘が書いて寄越した順に申し上げた。
天朝外語御用掛の職に付く屋敷を得たこと。
移るのは夏過ぎになること。
旭狼衛のこと。英国の新しき鉄砲を八十挺置くこと。
それに、語学所を広げること。
…………
……
…
御門は途中で口を挟まず、黙って聞いておられた。
ただ、鉄砲のところで御眉がわずかに動いた。
異国のものを厭うておられる御方である。忠房もそれには気づいたが、御門は何も仰せにならなかった。
すべてを申し上げ、忠房が文を膝へ下ろすと、御門はしばらく障子のほうを見ておられた。
「八十挺か」
「はっ」
「御公儀が、それを許したと」
「はっ。許したということは、御公儀も、それだけの守りが要ると見たのでござりましょう」
「……そうか」
御門は障子から忠房へ目を戻された。
「朕は、くれぐれも慎重に動けと申した」
「はっ」
「糸子は、慎重に動いたうえで、取るものを取ったということじゃな」
「臣も、そのように読みましてござりまする」
御門の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。
家臣の前で声を上げて笑われるような御方ではない。御おもてはほとんど変わらず、ただ、脇息に置かれていた手がゆっくりと膝へ戻った。
「忠房」
「はっ」
「朕の言葉が、役に立ったか」
低い御声だった。
どこか、娘からの返事を聞かれたときの御声に似ていた。
「役に立ったどころではござりませぬ」
忠房は両手をついた。
「主上の御言葉がござりましたゆえ、御公儀は娘を朝廷の使いとして扱わざるを得ませなんだ。娘の文にも、御言葉のこと、まことに有り難くと、何より先に書いてござりまする」
「そうか」
御門は、しばらくしてもう一度仰せになった。
「そうか。……朕の言葉が、糸子の役に立ったか」
忠房は顔を伏せた。
御門は、御所の外へ出られることがない。江戸の座で何が起きたのかを、御自らの目で御覧になることもない。
けれど、その御言葉だけは娘の懐に入って東海道を下り、江戸城の座まで届いた。
そして、娘を守った。
そのことを、御門は喜んでおられるのだろう。
「糸子に伝えよ」
「はっ」
「よう務めた、と」
忠房は深く平伏した。
「必ずやお伝えいたしまする」
「それと」
御声が、わずかに改まった。
「慎重に、と、重ねて伝えよ。屋敷が広うなれば、人も増える。人が増えれば、口も増える」
「はっ」
忠房はもう一度、額を畳に近づけた。
御前を下がるとき、娘の文は懐へ戻した。
七
長い廊下を、忠房は取次の者のあとについて戻った。
奥の静けさが遠ざかり、表に近づくにつれて人の声が聞こえはじめる。朝議の退けた刻限だったらしい。
虎の間の前まで来ると、中には幾人かの公卿が坐っていた。乗物の支度を待っているのか、膝を崩して話をしている。
その上座寄りに、一条忠香がいた。
扇を膝に置き、周りの者たちと何やら話していたが、忠房が敷居の外に姿を見せると、言葉を止めて顔を上げた。
「おお、これは左府殿」
座敷の話し声が、ふっと途切れた。
一条の声は、いつもより大きい。隅にいた者までが、何事かとこちらへ顔を向けた。
「また御常御殿からのお戻りにおじゃるか。左府殿は近ごろ、よう奥へ召されるのう」
「右府殿」
忠房は敷居の外で軽く頭を下げた。
一条は扇を取り上げ、要のあたりを指でなぞった。
「いや、麿は案じておじゃるのよ。同じ五摂家の者として、そして同じく姫を持つ親としてのう」
座敷にいた者たちの目が、一条から忠房へ動いた。
「江戸の姫君のことは、麿の耳にもあれこれと届いておじゃる。御役目に励んでおられる姫君のことを、面白おかしく申す不届き者もおるそうではないか」
一条は扇の先を軽く振った。
「五摂家の姫君が、そこまで武家の町に馴染まれては、いずれ京へお戻りになった折、ご縁組にも差し障ろうとな。さぞ左府殿も、お胸を痛めておじゃろう、と」
そこで言葉を切り、ゆっくり首を振る。
「麿には、他人事とは思えぬのでおじゃる。左府殿の御苦労を思えば、不憫でならぬ」
座敷の隅で、誰かが扇を口元へ持っていった。
「……江戸の姫君と申せば」
「ほんに、のう……」
「いろいろ申す者もおるとか」
「左府殿も、さぞ御心配であろう」
低い声があちこちで交わされ、扇の陰で目と目が合う。気の毒そうに眉を寄せる者もいれば、面白そうに口元をゆるめている者もいた。
忠房は敷居の外に立ったまま、一条を見ていた。
顔色は変えなかった。
「右府殿」
穏やかに言った。
「姫のことまで、それほどに御心を砕いてたもうこと、まことに辱く存じます」
一条の扇が止まった。
「……ありがたく、承りました」
忠房は型どおりに頭を下げ、座敷の者たちにも軽く会釈した。
「では、お先に」
それだけ言うと踵を返し、御車寄へ向かった。
その足取りは、来たときと少しも変わらなかった。
*
虎の間には、しばらく、ばつの悪い静けさが残った。
誰かが咳払いをした。別の誰かが、乗物の支度はまだかと取次に声をかける。それをきっかけに、座敷には少しずつ話し声が戻ってきた。
一条は扇を膝へ戻し、閉じた要を指先でなぞった。
(つまらん奴じゃ)
廊下の先へ目をやったが、もう左府の背は見えない。
あれだけ人のいる前で、わざわざ娘のことを持ち出したのである。眉の一つも動かせば、それだけで座の者たちは勝手に噂を広げてくれただろう。言い返してくれば、なおよかった。
それを、礼一つで返された。
(少しは顔色を変えれば、面白かろうに)
一条は鼻から小さく息を抜いた。
あの男は、いつもそうである。朝議の座でも、こうした控えの間でも、何を言われようと同じ顔をして、同じように頭を下げる。
娘のことで御前へ二度も三度も召されて、それでも、あの顔を崩さない。
(強情なことよ)
一条が扇を持ち直したところで、取次の者が名を呼んだ。
*
御車寄で乗物に入り、戸が閉まった。
担ぎ上げられた乗物が宜秋門を抜けると、白砂の明るさが小窓の向こうへ少しずつ遠ざかっていった。
公家町の築地のあいだまで戻ったところで、忠房はようやく肩の力を抜いた。
青葉を覗かせた築地塀が、小窓の外を流れていく。
「……はぁ」
小さく息が漏れた。
異人と言を交わし、武家の町に根を下ろし、縁組の道も狭くなる。
一条の言ったことを、頭の中でもう一度並べてみる。
何も知らぬのだ。
娘のことを碌に知らぬまま、さも案じているような顔をして、あれだけ大きな声で座の者たちに聞かせた。
いずれ、知らせる日が来る。
そのとき、あの御仁はどんな顔をするだろう。
そこまで考えて、忠房はやめた。まだ先の話である。
(右府殿も、相変わらず面倒な御仁よ)
もう一度、小さく息を吐く。
懐の中で、娘の文が乗物の揺れに合わせ、かすかに鳴った。
「よう務めた」と伝えねばならない。
「慎重に」とも。
屋敷へ戻ったら、すぐに筆を執ろう。
忠房は小窓の外へ目をやりながら、そう決めた。
八
皐月の初め、近藤勇は、奥御殿へ一人で呼ばれた。
呼びに来たのは、葵殿だった。
「姫様が、お一人でお会いしたいと」
それだけ告げると、葵殿は近藤を奥御殿の廊下まで案内した。座敷の前で膝をつき、障子越しに声をかける。
「近藤殿を、お連れいたしました」
「お入りください」
姫様の声がした。
近藤が障子を開けて入ると、葵殿は後ろで障子を閉めた。足音が廊下を遠ざかっていく。いつもなら障子の外に控えているはずが、今日は廊下の奥まで下がっていった。
近藤は、それに気づいた。
座敷には、姫様しかいなかった。文机は脇へ寄せてある。姫様は座敷の真ん中に坐り、膝の上で手を重ねていた。
「近う」
近藤は膝で進んだ。
浜町の見分から、数日が経っていた。あの日、池の縁で石を一つ飛ばしに踏んでいた姫様に、いまはその面影もない。背を伸ばし、まっすぐこちらを見ている。
近藤は、膝の上に拳を置いた。
「近藤殿」
「はっ」
「これから申し上げることは、他言無用にございます」
「……はっ」
姫様は一度だけ目を伏せ、顔を上げた。
「わたくしは、祐宮様の后に、内定しておりまする」
近藤は、すぐには何も言えなかった。
祐宮様。
御門の御子である。いずれ御位を継がれる御方。
その御方の、后。
目の前に坐っている、この姫様が。
顔から血の気が引いていくのが、自分でも分かった。
八年前。京の近衛家の座敷で、この姫様が御簾の内から出てきて頭を下げたときも、同じように血の気が引いた。
あのときは、公家の姫君が自分に頭を下げたからだった。
いまは違う。
その姫君が、いずれ、この国でいちばん高いところに坐る御方の隣に坐るという。
「……謹んで」
近藤は畳に両手をついた。
「承りました」
声が掠れた。
「顔を上げてくださいまし」
顔を上げる。
姫様は、いつもと同じ顔をしていた。
「正式に知らされるのは、祐宮様が御位に就かれるときでございます。それまでは、表には出ませぬ。ですから、他言無用でございまする」
「……御意」
近藤は、膝の上の拳を握り直した。
そのまま頭の中で、いくつかのことが繋がっていく。
旭狼衛を、御公儀が組として認める。三百に増やす。名を届け出れば、士分として扱う。
あの集まりの座で姫様からそう聞かされたとき、近藤はうれしかった。
だが、腑に落ちないところもあった。
御公儀が、朝廷の御用掛の身辺の守りに、なぜそこまでするのか。鉄砲を八十挺も、なぜ許したのか。御公儀は、姫様の求めにいつも、あれほど渋い顔をしてきたはずである。
それが、繋がった。
御公儀が守ろうとしているのは、朝廷の御用掛ではない。
いずれ后になる御方である。
「……もちろん」
近藤は、言葉を選んだ。
「御公儀も、このことは……」
「御公儀では、後見職様、総裁職様、それに老中首座。御公儀で知っておられるのは、その方々だけでございます」
近藤は頷いた。
それだけの御方が知っていて、それで三百と八十挺なのだ。
「近藤殿」
「はっ」
「旭狼衛の務めが、これまでとは、重さが変わりまする」
姫様はまっすぐに言った。
「わたくしを守ることが、近衛の娘を守ることではなくなりました。そのことを、近藤殿にだけは、知っておいていただきとうございました」
近藤はしばらく黙っていた。
やがて口を開く。
「姫様。一つ、申し上げてもよろしゅうございますか」
「なんでしょう?」
「姫様の御身の守りを、旭狼衛とは別に立てとうございます」
姫様が、わずかに首を傾げた。
「沖田総司を頭に、斎藤一、壬生影明、鷲尾官兵衛。まずはこの四人を、姫様のお側に専らお付けいたします」
浜町の見分の日、姫様のそばに付けた四人である。
「ゆくゆくは、二十から三十ほどの一隊にいたします。名目の上では旭狼衛に属しますが、隊としては完全に独立させるつもりにございます。務めはただ一つ、姫様をお守りすること。それだけにございます」
「完全に独立……?」
「はい。旭狼衛は、これから三百になります。今後は、屋敷の守りも、町の見回りも、横浜も、京も、手が広がります。その中で姫様のお側だけは、ほかの務めに手を割かずに済む者へ任せとうございます」
姫様は、近藤の顔を見ていた。
しばらくして、頷いた。
「お任せいたしまする」
「忝う存じます」
近藤は頭を下げた。下げたまま、もう一つ口にする。
「ちなみに、姫様」
「はい」
「沖田と斎藤にだけは、先の件を、お話してもよろしゅうございますか」
姫様の目が、わずかに細くなった。
「よろしいですが、なぜでございますか」
「沖田を隊の頭に、斎藤を副えにいたすからにございます」
近藤は顔を上げた。
「隊の頭が、自分が何を守っているのかを知らずにおっては、いざというときに迷います。せめて隊長格の二人だけは、知っておらねばなりませぬ」
姫様はしばらく黙っていた。
「……分かりました」
そう言って、近藤を見る。
「なれど、くれぐれも、正式な発表があるまでは、他言無用で」
「御意」
近藤は、もう一度頭を下げた。
頭を上げてから、少し迷った。それでも訊いておくことにする。
「このことは、村田殿には」
「お話しするつもりは、ございませぬ」
姫様は、すぐに答えた。
「村田殿は、いろいろと察せられる御方でございます。わたくしが言わずとも、何かを感じておられましょう。それならば、わざわざ言葉にする要はございませぬ」
近藤は、集まりの座で村田殿が、八十挺と聞いて目を細めたのを思い出した。あの人は、数を聞けば、その向こうにあるものまで量る人である。
「では、葵殿と小夜殿には……」
「いまは、お話しする予定はございませぬ」
姫様は、少し目を伏せた。
「いずれ、お話しいたします。なれど、いまは…まだ」
近藤は、それ以上訊かなかった。
廊下の奥まで下がっていった葵殿の足音を思い出す。
姫様は膝の上で手を組み替えた。
「近藤殿。ここからが、今日の本題でございます」
近藤は背を伸ばした。
「旭狼衛が三百に広がるにつき、もう一つ、組んでいただきたいものがございます」
「はっ」
「御公儀に届け出る名簿に、載らぬ者で」
近藤の拳が、膝の上で止まった。
「知らせを集める者たちでございます。江戸の町の噂、御公儀の内の動き、諸藩の屋敷の出入り、異人の居留地のこと。京のことも」
姫様は、近藤の目をまっすぐに見た。
「もし、もしものことがありましたときは、わたくしは何も知らぬことにいたしまする」
「……はっ」
「これからは、知らせが、これまで以上に大事になりましょう」
姫様は指を一本ずつ折った。
「質。量。それから、速さ。この三つが、知らせの肝になりましょう。どれだけ確かか。どれだけ多く集まるか。どれだけ早く、わたくしのところへ届くか」
近藤は黙って聞いていた。
「某が頭になっては、まずうございますな」
そう言って、少し考える。
「旭狼衛の頭が、名簿に載らぬ者を束ねておっては、もしものときに旭狼衛ごと疑われます。ならば、旭狼衛の中でも、決まった者を二人か三人。その者たちに、やらせましょう」
「どなたに?」
「それは、まだ申し上げられませぬ。某の中で、もう少し量りとうございます」
姫様は、少し笑った。
「よきに、お計らいくださいまし」
「お任せあれ」
近藤は頭を下げた。
座敷に言葉が途絶えた。
障子の向こうから、庭の木の葉が擦れる音が聞こえる。
姫様が、膝の上で手を重ね直した。
「近藤殿」
「はっ」
「この身は、これから、大事になります」
声は、いつもと同じ高さだった。
「しっかり、守ってくださいまし」
近藤は、姫様の顔を見た。
八年前、京の近衛家の座敷で、まだ七つだった姫君が、自分に頭を下げた。あのとき近藤は驚きながらも、命に代えてもお守り申す、と答えた。
その姫君がいま、十五の顔で目の前に坐り、もう一度、同じことを頼んでいる。
八年前とは、何もかもが違った。
あのとき守ろうとしたのは、近衛家の幼い姫君だった。いま目の前にいるのは、いずれ祐宮様の后となる御方である。
守るものの重さは、もはや比べものにならない。
近藤は、畳に両手をついた。
「身命を、賭して」
額が、畳に触れた。
第二百四十六話 了
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