第二百四十五話「糸子のお嫁入り編―浜町」
一
座敷の障子は、朝のうちに葵が開け放させておいた。
卯月の風が、庭の若葉の匂いを運んでくる。奥御殿でいちばん広いこの座敷に、七人が坐れるだけの座を設けるのは、葵の役目だった。
縁側の向こうには、庭が見えている。
楓の若葉は、ひと月前よりずっと濃くなっていた。朝の日が葉を透かし、縁側の板に細かな影をいくつも落としている。風が吹くたび、その影は揺れて形を変えた。
植え込みの卯の花は、盛りを迎えている。白い小さな花が枝いっぱいに付き、根もとの苔にも、こぼれた花びらが散っていた。
軒の下を、燕が一羽、低く横切っていった。庭の向こうの屋根のどこかに、巣をかけているのだろう。
座を整え終えた葵は、縁側の端からしばらく庭を眺めていた。
姫様がこの座敷に皆を集めるのは珍しい。何を伝えられるのか、葵も聞かされていなかった。
近藤勇は、いちばん縁側に近いところに坐っている。総隊長の顔をしていた。姫様に呼ばれたときは、いつもこの顔になる。袴の膝に置いた拳が、まだ何も聞かされていないうちから固い。
その隣に、村田蔵六。広い額の下の目は、天井の木目でも数えているように動かない。この人が何を考えているのか、葵にはいつも分からなかった。ただ、何も考えていないときなど一度もないのだろうとは思っている。
小夜は、葵の斜め後ろに控えていた。呼ばれた顔ぶれを聞いたときから落ち着かない。殿方ばかりの座に、なぜ自分が並ぶのか分からない――そんな顔をしている。
勝麟太郎は座に着くなり脚を崩しかけ、葵と目が合うと坐り直した。それから、にやりと笑う。何が始まるのか、楽しみにしている顔だった。
善兵衛と善次郎の父子は、並んで坐っていた。善兵衛は膝の前に帳面を置き、善次郎は何も置いていない。葵が見る限り、善次郎はいつもより少しだけ澄ました顔をしていた。
それから末座に近いところに、水無瀬実光。
実光様には、姫様が別に知らせを出していた。葵が口上を持って離れへ行くと、実光様は「承った」とだけ言った。
いまは御使者の座ではなく、この顔ぶれの一人として坐っている。袖の中で手を組み、庭のほうを見ていた。
葵は座の端に膝をついた。
この数日、姫様は機嫌がよかった。
周防守様がお帰りになったあの日から、文机に向かう背が軽い。茶を運べば、一口で半分ほど飲む。夜には灯を細くしてから、ふふ、と小さく笑う声が障子越しに聞こえることもあった。
あの日の座敷で何を見たかについては、葵は何も見ていない。そう申し上げたのだから、そのとおりである。
廊下に衣擦れの音がした。
座の空気が締まる。勝も、顔から笑いを引っ込めた。
姫様が座敷に入ってきた。
皆が頭を下げる。姫様は上座に坐り、膝の上で手を重ねた。
「面を上げてくださいまし」
七つの顔が上がった。
姫様は、一人一人の顔を順に見ていく。近藤殿、村田殿、勝殿、善兵衛殿、善次郎、小夜。そして実光様。最後に、葵の顔で目が止まった。
葵は目を伏せなかった。
「本日は、心せわしき折から、皆々様方お揃いなされまして、誠に忝く存じまする」
そう言うと、姫様はその場にいる者たちをゆっくりと見渡し、少し間を置いた。
「皆様に、お伝えすることがございます」
その一言で、座敷の気配が変わった。
近藤殿は、膝の拳をさらに固くした。顎を引き、姫様の口もとだけを見ている。何を言われても、その場で受けるつもりの顔だった。
村田殿の目が、天井から下りてきた。姫様の顔に止まり、そこから動かない。数えるのをやめて、聞くほうに回った目である。
勝殿は、口の端に残っていた笑いを、いつのまにか消していた。片方の眉だけが、わずかに上がっている。
善兵衛殿は、帳面に置いた手を止めた。商いの座で、相手が値を言う前の顔をしている。
善次郎殿は、表情を変えなかった。ただ、膝の上で指を一本、そっと折った。
小夜は、葵の袖の端を、また小さくつかんだ。
実光様だけが、庭から目を戻しただけで、顔つきは変わらなかった。
葵は、姫様を見ていた。
姫様は、皆の顔が自分に向き揃うのを待っていた。一人ずつ、目が合うたびに、ほんの少しだけ頷く。
最後の一人と目が合ったところで、姫様は口を開いた。
二
「この夏が過ぎましたら」
姫様は言った。
「わたくしどもは、この一橋殿の御屋敷を出ます」
座敷の中で、誰かが息を吸った。
小夜だった。葵の斜め後ろで、小さく「え」と言いかけ、口を押さえる。
近藤殿の拳が、膝の上でわずかに動いた。村田殿は、瞼を下ろした。
最初に声を出したのは、勝殿だった。
「姫様、京に帰っちまうのかい?」
声が大きかった。自分でも気づいたらしく、勝殿は首をすくめる。
「いいえ、違いまする」
姫様は首を振った。
「御公儀とお話し合いをいたしました末、天朝外語御用掛の御屋敷を、いただけることになりました」
座敷が静まり返った。
「浜町でございます。大川沿いの……」
善次郎が小さく頷いた。
頷いたのは、善次郎だけだった。葵はその様子を見ても驚かなかった。屋敷探しを申しつけられ、切絵図を用意したのは善次郎である。葵もまた、その切絵図が姫様の文机に広げられているのを何度も目にしていた。
善兵衛殿は、隣に坐る息子の横顔をちらりと見たが、何も言わずに正面へ向き直った。
「えっ?」
勝殿が、もう一度声を上げた。
「なんだい、そりゃ! 屋敷をいただける? 御公儀から? 姫様が?」
「はい」
「天朝外語御用掛の、って……そりゃ、つまり、御用掛の役に付いたお屋敷ってことですかい」
「はい。そのように御公儀がお出しくださる屋敷でございます」
勝殿は口を開けたまま、しばらく姫様を見ていた。
やがて腕を組み、天井を仰ぐ。
「……オイラは、毎日御公儀の御用で船の掛かりをしてるが、そんな話は、とんと聞いたことがねえや」
「まだ、表には出ておりませぬゆえ」
姫様はさらりと言った。
葵は、その横顔を見た。
周防守様がお帰りになった日の、あの機嫌のよさ。夜ごとの、ふふ、という笑い声。理由の一つがこれだったのだと分かった。
それ以上は考えない。姫様が皆の前で言わないことを、葵が胸の中で数えることでもなかった。
「ただし」
姫様が言葉を継いだ。
「すぐには移れませぬ。いまは、さる御家の下屋敷でございます。先方の方々が引き払われたあとで、御公儀が手をお入れくださいます。屋根、畳、建具、井戸、塀。それが済んでから、お引き渡しになります」
「どのくらい、かかるんで」
近藤殿が初めて口を開いた。
「二月か、三月と伺っております。早くて、夏の盛りでございましょう」
「暑い盛りだねぇ」
「はい。それまでに支度をいたします。皆様にお集まりいただいたのは、その支度のことでございます」
姫様は膝の上の手を重ね直した。
「申し上げておきますが、まだ正式に決まったことばかりではございませぬ。御公儀とは大筋で話がついておりますが、御沙汰として下りておらぬものもございます」
座の何人かが顔を見合わせる。
「なれど、御沙汰が下りてから動き出していては遅うございます。ですから今日は、それぞれに心づもりと支度だけはしておいていただきたい。そのためのお知らせでございます」
姫様は近藤殿へ顔を向けた。
「まずは、近藤殿」
「はっ」
近藤殿の背が伸びた。
三
姫様の目が、まっすぐこちらを向いていた。
近藤は、膝の上の拳に力を込める。
「旭狼衛のことでございます」
姫様は言った。
「御公儀に、組として認めていただける運びになりました。江戸と京を合わせて、三百」
三百。
近藤は、その数を胸の内で繰り返した。
いまは、江戸と京と、小舟町などの持ち場を合わせて、百名ほどである。
江戸の試衛館で竹刀を振っていた者に、浪人や剣術修行の若者が加わり、京にも試衛館を開き、会所の蔵や語学所の守りにも人を割いた。そうやって数年かけて、ようやく百ほどになった。
その三倍である。
「京に七十。江戸に二百三十。そのように分けたいと、周防守殿にお伝えし、ご承知いただいております」
「……京に、七十」
「はい。京には父上がおられ、御所がございます。山南殿のところを、留守居で済ませるつもりはございませぬ」
近藤は、山南の顔を思い浮かべた。伏見の試衛館で、帳面を見ている男の顔である。七十を預かれば、あの男はひと月で七十人の名と顔を覚えるだろう。
「それから」
姫様は、少し声を改めた。
「天朝外語御用掛を守護する者として、名を御公儀へ届け出た者は、士分として扱われる見込みでございます。帯刀も、御用での通行も」
座敷の中で、誰も動かなかった。
近藤も動けなかった。
士分。
武士の身分である。
近藤勇は、多摩の百姓の家に生まれた。宮川家の三男として生まれ、近藤家の養子に入り、天然理心流を継いだ。だが、生まれは変わらない。道場の名がどれほど上がろうと、二本差して歩こうと、生まれを問われれば百姓だった。
土方もそうだ。沖田は武家の出だが、家は貧しかった。試衛館に集まった者たちは皆、どこかで生まれを問われる側にいた。
その者たちが、名を届け出れば武士になる。
近藤は何も言えなかった。膝の上の拳が、自分のものではないように固くなっている。
「まだ、御沙汰としては下りておりませぬ」
姫様が言った。
「ですから、いまは誰にも申されませぬように。ただ、近藤殿には、心づもりをしておいていただきたいのです」
「……はっ」
「三百になれば、いまの者だけでは足りませぬ。広く、人を募ってくださいまし」
姫様は、近藤の目を見た。
「百姓の出の者も、浪人も、構いませぬ。生まれは問いませぬ。近藤殿が、この者なら背中を預けられると思う者を」
「……某が、選んでよろしいので」
「近藤殿に、お任せいたします」
近藤は姫様の顔を見た。
安政二年の秋、京の近衛家で初めてお会いした日のことを、近藤は今でもよく覚えている。
あの日、姫様は御簾の内から出てこられた。まだ七つの姫君が、百姓の出である自分の前に膝を折り、頭を下げられたのである。そして、身分などこの際どうでもよい、と言われた。
『命に代えてもお守り申す』
近藤も、そう答えた。
あれから、八年が経っている。
「名簿は、江戸の分と京の分を、同じ形でお作りくださいまし。京の分は、所司代にも写しが回ります」
「承知仕りました」
「それから、もう一つ」
姫様はそこで少し間を置いた。
「英国の軍がいま使っている、新しい施条の銃を、八十挺まで置くことを認めていただきました」
近藤の隣で、村田殿の目がわずかに細くなった。
「八十挺。旭狼衛に組み込んでくださいまし。扱い方は、村田殿にお願いいたします」
近藤は頭を下げた。
「……謹んで、お受けいたします」
声が少し掠れた。
頭を上げるまでに、いつもより少し時がかかった。
*
「村田殿」
「はい」
村田殿は、いつもと変わらぬ調子で答えた。
「いまの銃の扱い方の書付を、村田殿にお書きいただきたいのです。御公儀にも、同じ銃が入ります。同じ書付を、お付けすることになっております」
「御公儀にも?」
「はい。こちらが八十、御公儀が七十。まとめて買い入れます」
村田殿の眉が、わずかに上がった。それだけだった。
「承知いたしました」
「それから」
姫様は少し身を乗り出した。
「長州で、高杉殿と旭日隊を組み上げられましたときの見聞を、旭狼衛の鉄砲の隊に生かしていただきとうございます」
近藤はその名を聞いて、隣を見た。
旭日隊。
長州で、身分を問わず集めた者たちを西洋の流儀で鍛えている隊である。高杉晋作が原野で兵を鍛え、その様子を書き送り、村田殿が江戸から直しを返す。その書状のやり取りは、近藤の耳にも入っていた。
村田殿は、しばらく黙っていた。
「旭日隊は、長州での隊でございます」
そう言った。
「旭狼衛は、姫様の御身を守る組でございます。同じ形には、なりませぬ」
「はい」
「なれど、仕組みは使えます。号令の通し方、隊の分け方、弾と火薬の数え方。人を数で量り、物を数で量る。それは、どこの隊でも同じでございます」
「お願いいたします」
姫様は、それから語学所のことを話した。
学ぶ者が増えた。英語のほかに、仏語を学びたいという者も出てきた。いまの場所では手狭になっているため、新しい屋敷に場所を取る。費えは会所から出す。
洋書調所のことも話した。名簿と鑑札があれば、調所の中で書物を写せるようになった。写してよい書物は、調所の頭取が決める。写方を、語学所の中から選んでほしい。
村田殿は、一つずつ頷いた。そのたび、目の奥で何かを数えているようだった。
「村田どのには、ご骨折りをいただくことになり、心苦しう存じますが、なにとぞお頼み申し上げます」
姫様が頭を下げると、村田殿は少し首を傾げた。
「姫様には、得難い経験ばかりさせていただいております」
表情を変えずに言う。
「……しかし、これはまた、やりがいのある御役目でございますな」
姫様が少し笑った。
「それから、村田殿。いずれ、大砲も――」
「姫様は、何を撃つおつもりで?」
村田殿は、間を置かずに言った。
姫様の口が、半分開いたところで止まった。
近藤は隣を見た。村田殿の顔は、からかっているものではなかった。本当に、何を撃つのかを訊いている顔だった。
「……お、お守りでございます」
姫様は言った。
「お守り……?」
「はい。一門、置いておけば、それだけで、何か寄って来にくくなりましょう。お守り代わりでございます」
「備えあれば憂いなし、家内安全……でござります」
村田殿は、しばらく姫様の顔を見ていた。
「それでしたら、急ぐことはございませぬな。御屋敷を守るのであれば、まず鉄砲を揃えるのが先でございましょう」
「……はい」
姫様は素直に頷いた。
そこへ、勝殿の声が飛んだ。
「姫様よ」
見ると、勝殿は膝を叩いていた。
「大砲を据えて家内安全ってのは、聞いたことがねえや。そりゃあ寄って来ねえだろうよ。寄って来る前に、寄った向こうが吹っ飛んじまわぁ」
一拍、座敷が静まった。
最初に噴き出したのは、善兵衛殿だった。慌てて袖で口を押さえたものの、もう遅い。それにつられた小夜が肩を震わせ、葵殿も顔を伏せる。善次郎にいたっては、帳面の陰へ顔を隠してしまった。
近藤も、とうとうこらえきれなかった。腹の底から笑いが込み上げ、いつの間にか膝の上で握っていた拳もほどけていた。
村田殿だけは、いつもと変わらぬ顔をしている。ただ、その口の端がほんのわずかに動いていた。
実光様はと見れば、扇で口元を覆っておられた。こちらも肩が小刻みに揺れている。
姫様は、しばらく勝殿をにらんでいた。
だが、にらんでいるうちに、その口元まで少しずつ緩んでくる。
「……勝殿」
「はい」
「お守りは、お守りでございます」
そう言いながら、姫様もとうとう堪えきれなくなったのか、袖で口元を押さえて笑い出した。
それを見て、座敷にまた笑いが広がった。
開け放した障子の向こうでは若葉が揺れ、その笑い声は庭へ抜けていった。
四
葵は、座の端から近藤殿の後ろ姿を見ていた。
姫様が「士分」と口にされたときも、近藤殿は身じろぎひとつしなかった。いつもと変わらぬように見えたが、葵には、何かをじっと堪えているのが分かった。
やがて村田殿と姫様のやり取りが続くうちに、張っていた肩から、少しずつ力が抜けていった。
「葵。小夜」
姫様の声に、葵は顔を上げた。
「はい」
「は、はいっ」
小夜の返事が少し裏返った。
「新しい御屋敷に移るにあたって、京から人を呼びます」
姫様は、二人へ顔を向けた。
「まだ、時はございます。すぐのことではございませぬ。なれど、心構えだけは、いまからしておいてくださいまし」
「心構え、でございますか」
「はい。新しい御屋敷では、二人には大事なお役目に就いていただきます。奥のことを、二人に預けとうございます」
小夜が、葵の袖の端をそっと引いた。
「人を使うことを、覚えていただきまする」
姫様は言った。
「いまは、わたくしの身の回りを二人でしてくれております。新しい御屋敷では、二人の下に何人もの者が付きます。その者たちに、何を、どのように頼むか。それを二人に決めていただくことになりましょう」
小夜の手が、葵の袖を握ったまま止まった。
「わ……わたくしが」
声が震えている。
「わたくしが、人の、上に……?」
葵は、小夜の顔を見た。
江戸へ下る道中、刺客に囲まれて座り込んでしまったこともある。それでも逃げなかった。糸子に半ば強引に組手稽古へ参加させられたときも、半泣きになりながら、翌朝にはきちんと起きてきた。
葵は、小夜に笑ってみせた。
「はい」
それだけ言った。
小夜は葵の顔を見たあと、姫様へ目を向け、もう一度こちらを見た。その間にも、固く握っていた袖から、指が少しずつほどけていった。
*
「姫様」
勝殿が膝を進めた。顔には、さっきまでのにやにやが戻っている。
「で、オイラは何だい? ここに呼ばれたからにゃ、何か役があるんだろう?」
「はい。勝殿には、お願いがございます」
姫様は勝殿へ向き直った。
「蒸気の船を動かせる者を、当たっていただきたいのです」
「蒸気船?」
「はい。それから、その船に乗る者の教えも。勝殿の御公儀の御役目が、おろそかにならぬ範囲で、お手伝いいただけましたら」
「それりゃあ……」
勝殿の顔から、にやにやが消えた。
「姫様。蒸気船ってのは、どこの蒸気船なんでしょう?」
「英国から、いただけることになりそうなのでございます」
姫様はさらりと言った。
「船が来てから動かす者を探していては、遅うございます。来ると分かっているものの支度は、来る前にしておくものでございましょう」
「はい~~~っ?」
勝殿は首を前へ突き出した。
「いただける? 買ったんじゃなくて?」
「はい。手土産の一つに、いただけることになりそうなのです」
「手土産?、蒸気船が??」
「はい」
勝殿は口を開けたまま、しばらく動かなかった。
それから腕を組み、天井を見上げたまま、しばらく考え込むように首をひねった。
「……オイラがおかしくなったのかね」
誰に言うともなく、勝殿は言った。
「蒸気船ってのは、手土産でもらえるもんじゃねえんだが」
姫様は、何も答えなかった。
勝殿は腕を組んだまま、今度は庭先の空を見上げていた。
「屋敷は御公儀からいただく。鉄砲は認められる。今度は蒸気船を英国からもらう……オイラ、夢でも見てるのかね?」
すると、村田殿が真顔で言った。
「わたしにも同じように聞こえておりますからな。勝殿は正気ですよ」
「そうですかい、村田先生……」
勝殿はそう答えたきり黙り込み、今度は膝の上で指を動かしながら、ぶつぶつと何かを数えはじめた。船の長さか、釜の大きさか、それとも乗り組む者の数か。何を勘定しているのかまでは分からないが、どうやら頭の中は、もう蒸気船のことでいっぱいらしい。
そんな勝殿の様子を見ながら、姫様はおかしそうに、くすくすと笑っておられた。
*
「善兵衛殿。善次郎」
「「はい」」
父子の返事が揃った。
「屋敷が替われば、いろいろと物が入り用になります。畳も、建具も、台所の道具も、御公儀が手を入れてくださる分のほかは、こちらで揃えねばなりませぬ」
「承知いたしました」
善兵衛殿が頭を下げた。商人の顔である。
「それから、奉公人などのことでございます。炊事、掃除、洗濯、厩、門まわり。良い者がおりましたら、いまから当たっておいてくださいまし。先方の御屋敷に残っておる者で、引き続き働きたいという者は、そのまま雇うことになっております。それで足りぬ分を」
「人数は、いかほどで」
「まだ、はっきりとは申せませぬ。善次郎と相談してくださいまし」
善兵衛殿は、また隣の息子を見た。
善次郎は何も言わずに頷いた。
*
葵は、座を見回した。
近藤殿は、膝の上で拳をほどいたまま、まだ何かを噛みしめているような顔をしていた。村田殿は黙って手元に目を落とし、小夜はいつの間にか葵の袖を放して、自分の膝の上で両手を握っている。勝殿はいまだに首をひねり、善兵衛殿などは帳面へ何かを書きつけようとしたのか、筆を持ったまま動きを止めていた。
していることは、それぞれ違う。けれど、皆の顔に浮かんでいるものは、どこか似ていた。
まだ、話に頭が追いついていないのだ。
三百。士分。新しい銃。屋敷。京から来る者たち。それに蒸気船まで、手土産でもらうという。
一つずつ聞けば、まだ分かる。ところが、こうして一度に並べられると、何がどうなっているのか分からなくなってくる。
葵も人のことは言えなかった。
おそらく自分も、皆とよく似た顔をしている。
「それから、善次郎」
姫様が言った。
「はい」
「近いうちに、新しい御屋敷を見に参ります。ついてきてくださいまし」
「ははっ」
善次郎は、すぐに頭を下げた。
「実光殿」
姫様は最後に、末座へ顔を向けた。
実光様が、袖の中で組んでいた手をほどいた。
「新しい御屋敷には、実光殿がお住まいになる別棟もご用意いたします。出入りの口も別に設けますゆえ、どうかともに、天朝の御屋敷へお移りいただきとうござります」
実光様は少し目を伏せ、それから頭を下げた。
「承りました」
それだけだった。
別棟に、別の出入り口――その言葉を聞いても、実光様は何も問われなかった。それだけで、葵には返事が分かった。
「それでは、本日はこれまでにいたします。みなさま、よろしゅうお頼み申しまする」
姫様がそう言って頭を下げると、
「ははっ」
皆も揃って平伏した。
けれど、すぐに立ち上がる者はいなかった。
五
見分の日は、卯月の末に決まった。
周防守から使いが来て、先方の留守居の方々が引き払われる三日前の朝、と日取りを知らせてきた。御公儀の作事方の者と、首座の御用部屋付きの者が案内に立つという。
朝のうちに、一橋上屋敷を出た。
糸子の乗物の前後を、沖田総司と斎藤一が固める。その後ろに、壬生影明と鷲尾官兵衛。ほかに旭狼衛の者が十数人、乗物を遠巻きにして歩いていた。
葵と小夜は乗物の脇に付き、実光様は別の乗物で後に続く。善次郎は、切絵図を懐に入れて先に立った。
浜町までは、さほど遠くない。
乗物の簾越しに、大川の匂いが入ってきた。小舟町の堀とは違う、広い水の匂いである。
浜町に入ったあたりから、乗物の外の気配が変わった。
簾越しに、侍の姿が見える。辻ごとに二人、三人。揃いの羽織を着て、道の両側に間を置いて立っている。旭狼衛の者ではない。顔ぶれも、立ち方も違った。
御公儀の者だ。
その侍たちの後ろには、何事かと町の者が集まりはじめていた。表店の戸口から半分だけ顔を出している者もいれば、天秤棒を肩から下ろし、道の端に立ち止まっている棒手振りもいる。子供を背に括りつけた女は、隣にいる女の袖を引きながら、こちらを窺っていた。
「なんだい、ありゃあ」
「どっかの御大名の御成りかね」
「御大名なら、もっと供が多かろうよ。乗物は一つきりだぜ」
「そういや、あの下屋敷、暮れから人が減ってたろう。今朝になって急に御役人が三人も四人も来てよ。辻にゃあ朝っぱらから侍が立つしよ」
「お屋敷替えかね」
「誰が入るんだい」
「知らねえよ。知らねえが、あの侍の数を見ねえ。並の御家じゃねえや」
声を潜めているつもりなのだろうが、乗物の中まではっきり届いてくる。
町方の同心らしい男が一人、人垣の前を行ったり来たりしていた。誰かが前へ出ようとするたび、手を広げて押し戻している。
糸子は簾の内からその様子を眺め、膝の上でそっと手を重ね直した。
(……大げさね)
周防守殿は、いったい何を、どこまで下へ伝えたのだろう。
后の件を知る者は、御公儀の中でも限られている。ならば、辻に立っている侍たちも、詳しいことまでは知らされていないはずだった。首座の名で、朝廷の御使者が来るゆえ警固せよ――せいぜい、その程度だろう。
それで、この人数である。
やがて乗物が止まった。
「姫様。着きましてございます」
沖田の声がして、簾が上がる。
糸子が乗物を降りると、目の前には長屋門があった。門の両脇から長屋が塀のように延び、瓦にはそれなりの古さが見えるものの、傷みが目立つほどではない。門扉はすでに開け放たれており、その左右には揃いの羽織を着た侍が四人、膝をついて控えていた。
さらに門前には、裃を着けた男が三人並んで頭を下げている。
やがて、真ん中の男が顔を上げた。
四十を少し過ぎたくらいだろうか。四角い顔をした男で、額にはうっすらと汗が浮いていた。まだ暑いとはいえない卯月の朝である。
「て、天朝外語御用掛、近衛様におかれましては、本日は、遠路……」
そこで、男の言葉が止まった。
浜町は、一橋殿の御屋敷から遠路と言うほど離れてはいない。口にしてから自分でも気づいたらしく、男の顔がみるみる赤くなっていく。
「……ご、ご足労を賜り、まことに恐悦至極に存じ奉りまする。拙者、御公儀御作事方、ならびに首座様御用部屋よりの申し付けにより、本日のご案内を相務めまする――」
どうにか最後まで言い終えると、男は深々と頭を下げた。後ろの二人もそれに倣い、三人揃って頭を垂れたまま、なかなか顔を上げようとしない。
ずいぶん固くなっている。
おそらく、この者たちも詳しい事情までは知らされていないのだろう。朝廷の御使者であり、五摂家筆頭の近衛家の姫君が屋敷を見に来る。首座から、くれぐれも失礼のないように――聞かされているとしても、そのくらいではないか。
それだけで、これほど緊張している。
背後で、町の者たちのざわめきが一段大きくなった。乗物を降りた糸子の姿が、人垣の隙間から見えたらしい。
「……おい、女だぜ」
「姫さまだ。あれは、どこかのお武家様の姫さまかねぇ」
「おやおや、なんてべっぴさんなんだい!」
沖田が半歩下がって糸子の背後につき、斎藤は何も言わず、人垣のほうへ体を向けた。
「本日は、お見知りおきに。よろしゅうお頼申し上げます」
糸子がそう声をかけると、男はようやく顔を上げた。
「ははっ」
こめかみを、一筋の汗が伝っていた
*
門をくぐったところで、糸子は足を止め、ゆっくりとあたりを見渡した。
「広い……」
切絵図の上では、指一本で押さえられる区画だった。善次郎が朱で囲った線の内側に、長屋が八棟、蔵が十。一万五千坪。数はとうに頭に入っている。
だが、その数と目の前の景色が繋がらなかった。
門の先に、屋敷の表の建物がある。その向こうに木立が見え、さらに向こうにまた屋根がある。その屋根の先にも、何かが続いていた。
向こう側の塀が見えない。
(……想像以上に広すぎる)
糸子は、門の内側に立ったまま動けなかった。
(これ……ここにわたくしが、本当に住むの?)
前世では、百貨店の売場を端から端まで、毎日のように歩いた。広さには慣れているつもりだった。
けれど、あれは建物の中だ。屋根の下である。
ここには空がある。その下に、地面がずっと続いている。その全部が、これから自分の預かるものになる。
背中を、何かが走った。
糸子は袖の中で指を握った。
*
小夜は、姫様の半歩うしろで震えていた。
膝が勝手に震える。止めようとしても、止まらない。
大きすぎる。
近衛様の京の御屋敷も、一橋様のこの江戸の御屋敷も、小夜には大きかった。けれど、どこに何があるかは、ひと月もすれば覚えられた。
ここは、覚えられる気がしない。
姫様は、ここの奥に住まわれる。自分は、その奥のことを預かる。人を使う、と姫様は言った。
(わたくしが、ここで……?)
小夜は隣の葵を見た。
葵は、いつもの顔をしていた。門の内側をひととおり見渡し、それから姫様の背へ目を戻しただけである。驚いた様子はどこにもない。
近衛様の奥で長く仕えてきた家の人だ。広い御屋敷は見慣れているのだろう。
善次郎殿も、当たり前のような顔で懐から切絵図を出していた。この人は、紙の上でもう何度もこの屋敷を歩いているのだと、葵が言っていた。
震えているのは、小夜一人だった。
膝に力を入れる。それでも、震えは少ししか止まらなかった。
*
「姫様」
善次郎が、切絵図を広げて差し出した。
「表の御殿は、あちらでございます。客を迎えるのも、御用の文書を扱うのも、表で済ませられます」
糸子は、ようやく足を動かした。
表の御殿は、思っていたほど傷んでいなかった。雨戸の何枚かが歪み、縁側の板が一か所浮いている。畳はどれも日に焼け、色が抜けていた。
「畳は、全部替えていただけましょうや?」
糸子が言うと、作事方の男が慌てて矢立を取り出した。
「は、はっ。畳、全部」
「雨戸のあの三枚と、縁側の板も」
「雨戸、三枚。縁側」
男の筆が、懐紙の上を走った。
表を抜けると、庭に出た。
池がある。
大きな池だった。水は少し濁っているが、涸れてはいない。向こうには築山があり、その上で松が一本、斜めに枝を伸ばしている。
「ほう」
後ろで、実光様が声を漏らした。
「庭が、ようございますな」
池の縁まで歩き、築山を見上げる。京の公家の屋敷で育った人の目だった。手を入れれば、とでも言いたげな顔をしている。
「実光様の別棟は、あちらの奥に」
糸子は、池の向こう、木立の陰になった一角を指した。
「奥の御殿とは、棟を分けます。出入りの口も、別に」
「お心尽くし、まことに嬉しゅう存じ奉ります」
実光様は、それだけ言った。
糸子は池の縁を回りながら、頭の中で屋敷を割り振っていった。
表に、客殿と御用掛の執務の場。来る者は表門から入り、表で用を済ませる。奥へは入れない。
池と築山の奥に、自分の御殿。その脇に、実光様の別棟。
西側には長屋が並んでいる。善次郎が指で示した。八棟。一棟に三十人ほど。旭狼衛の長屋になる。そのそばに道場と稽古場を置けば、近藤殿が喜ぶ。本部もそこに。
大川の側には水門があった。水門の外に舟着場と荷揚場。そのそばに蔵が並ぶ。会所の荷は、ここから入れられる。
北の奥には畑がある。詰めの者が耕していたという畑だった。その手前に、医者を置く部屋を。
(……いけるわ)
糸子は、頭の中の絵図をもう一度、端から端まで見渡した。
いける。
井戸の前で足を止めた。
石組みの井戸である。縁に手を掛けて覗き込むと、暗い水面に自分の顔が小さく映っていた。
「井戸は、いくつございますか」
「はっ」
作事方の男が帳面をめくった。
「表御殿に一つ、奥向に一つ、長屋の側に一つ、台所と風呂場の側に一つ、それから河岸寄りに一つ……合わせて五つでございます」
「水は?」
「どれも涸れてはおりませぬ。ただ、長屋の側の一つだけ、少し濁りが出ております」
「では、そこは浚っていただけますか」
「井戸を浚う…と。御意にござる」
男の筆が、また走った。
長屋の前では、屋根を見上げた。瓦が何枚か落ち、下地の見えているところがある。
「あの屋根も」
「屋根。御意」
男はもう、汗を拭くのも忘れていた。
*
長屋の端から、下働きらしい老人が一人、恐る恐る顔を出した。
作事方の男が何か言いかける。糸子は手で止めた。
「この御屋敷に、長くおられるのですか」
老人は地面に膝をついた。
「へ、へい。十年ほど」
「引き続き、ここで働きたいと思われますか」
老人が顔を上げた。
御公儀の方から、そういう話があるとは聞いていたのだろう。だが、本当だとは思っていなかった顔だった。
「……へい。もし、お許しいただけますなら」
「では、そのように」
糸子は言った。
「どの井戸の水がおいしいのか、あとで教えてくださいまし」
老人は、何と答えてよいのか分からぬ顔で、もう一度頭を下げた。
*
ひと通り表の建物を見て回ったあと、一行は屋敷の東側へ向かった。
塀に設けられた水門をくぐると、急に目の前が開けた。
大川である。
思っていたより、ずっと広い。向こう岸の家並みは遠く、霞んで低く見えた。荷を積んだ舟が二艘、三艘と間を置いて行き交い、川下へゆっくり流れていく。風が吹くたび、水の匂いが糸子の頬を撫でた。
河岸には石を組んだ舟着場が張り出していた。石段を下りた先には苔のついた杭があり、古い舫い綱が一本、巻きついたまま残されている。その脇に続く荷揚場も長く使われていないらしく、石畳の継ぎ目からところどころ草が伸びていた。
「満ち潮のときは、あの段の二つ目まで水が来ます」
老人が舟着場の石段を指さした。
「大水の年は、荷揚場の半ばまで」
善次郎は黙って懐紙を取り出し、その言葉を書き留めた。
そこから河岸に沿って歩くと、白壁の土蔵がいくつも並んでいた。作事方の男がそのうちの一つを開けると、乾いた土と古い木の匂いが、閉じ込められていた空気とともに流れ出してくる。
中には何もなかった。
ただ、床の隅には、かつて米俵でも積んでいたのだろう、四角い跡だけがいくつも残っている。
「川に近い蔵は、梅雨どきに湿ります。奥の三つは、乾いております」
老人の説明を聞きながら、糸子は蔵の中をゆっくり見回した。
ここに会所の荷が入る。米も入る。
いずれは、長崎から届く荷も。
蔵を出て西へ戻る途中、今度は台所を見せてもらった。
広い土間の奥に、大きな竈が三つ並んでいる。どれも火は落ち、すっかり冷えていた。屋根の煙出しから細い光が差し込み、その中で、舞い上がった埃がゆっくり浮いている。
隣には湯殿と洗い場が続いていた。長く使われてきたせいか、床板には黒ずんだ跡が残っている。水を使う場所だけに、板の合わせ目もところどころ濃く染まっていた。
小夜が、竈の前で足を止めた。
「……これで、何人分、炊けるのでしょう」
誰も答えなかった。
善次郎だけが、何やら考えるように三つの竈を順に眺めている。答えを知っているとすれば、たぶんこの男なのだろう。
さらに北の奥へ進むと、厩に出た。
馬の姿はなく、仕切りの柵だけがいくつも並んでいた。敷き藁の匂いが、まだかすかに残っている。
その先に、裏門が見えた。
表の長屋門とは比べものにならないほど小さく、今は太い閂が掛けられている。老人によれば、この門を出た道は、そのままお玉が池のほうへ続いているという。
「千葉様の道場が、あの先に」
その言葉を聞いて、糸子は足を止めた。
そして、閉ざされた裏門をしばらく眺めていた。
ひととおり回り終えて表の庭へ戻ったころには、日もだいぶ高くなっていた。
糸子は池の縁に立った。
水面に、築山の松が映っている。風が吹くと、その姿が揺れた。
門をくぐったとき、背中を走ったものはもう消えていた。
代わりに、別のものがせり上がってくる。
(わたくしの、屋敷)
口の端が勝手に上がった。
止められなかった。
(畳を替えて、屋根を直して、井戸を浚って。会所の荷はあそこ。長屋は……)
足が少し弾んだ。
池の縁の石を、一つ飛ばしに踏んだ。
(ここが、わたくしの――)
「こほん」
すぐ後ろで咳払いがした。
葵だった。
糸子は石の上で止まった。
作事方の男たちがこちらを見ている。沖田は口元を押さえて横を向き、斎藤は表情を変えず、池の向こうを見ていた。
糸子は石から降りた。
袖を直す。
「……御作事方の皆様」
「は、はっ」
「本日は、まことに恐悦に存じ奉りました。改めまほしきところは、先つ頃申し上げた通りのことにございます。なにとぞ、よろしゅうお引き回しのほど、頼み奉ります」
「は、ははっ」
三人が揃って頭を下げた。
糸子は、その頭の上を見ながら、もう一度だけ口の端が上がるのを感じた。
今度は、止めなかった。
六
その夜、一橋上屋敷の奥御殿で、糸子は文机に向かった。
灯を一つだけ点ける。障子は閉めたまま。葵は茶を置いて下がった。
紙を二枚、並べた。
一通目は、長崎の岩崎弥太郎へ。
筆を取り、少し考える。弥太郎へは、いつも用件から書く。今夜もそうした。
『英国の軍がいま用いる新式の施条銃、エンフィールドと申すものを、ひとまず百五十挺、買い入れられたし』
そこまで書いて、行を改めた。
『弾、雷管、手入れの道具も揃いで。扱い方の書付が添えられるものなら、それも』
『買い入れたるのちは、必ず長崎奉行所へ届け出ること。挺数、品、買い入れ先、行き先を、漏れなく』
『御公儀よりは、すでに了承を得てあり。長崎奉行所へも、御公儀よりお達しが出る手筈なれば、案ずることなく買い入れられたし』
弥太郎は、銃と聞けば、まず御公儀の目を気にするだろう。そういう男だから、長崎を任せている。
その先を書こうとして、筆が止まった。
大砲。
集まりの座で、村田殿に言われたことを思い出す。何を撃つおつもりで。
糸子は、少し口を尖らせた。
『大砲は、いずれ、折を見て。急ぎは致さず』
そう書いた。お守り代わり、とは書かない。弥太郎に読まれたら、何と返ってくるか分からなかった。
一通目を脇へ寄せた。
*
二通目は、京の父へ。
こちらは長くなる。
まず、御屋敷を賜ることになった次第を書いた。浜町。大川沿い。一万五千坪。天朝外語御用掛の職に付く屋敷として、御公儀より出される。移るのは夏過ぎ。
御門へは、父上より申し上げていただきたい、と書いた。御門の御言葉のおかげで、御公儀との座はほぼ望んだとおりに運んだ。そのことも、父から御門へ。
旭狼衛が三百となる見込み。士分の見込み。銃のこと。語学所のこと。一つずつ、短く書いていく。
それから、新しい紙を一枚足した。
『つきましては、近衛の家より、人をお遣わしいただきたく』
一行ずつ、書いた。
『諸大夫を二人。近衛の家を代表して御屋敷の家政を預かり、御公儀と正式に取り次ぐ者。家格と儀礼にも通じた者を』
『用人を三人。御屋敷の実務をまとめ、人の割り振りと日々の差配をする者』
『勘定方を二人。出し入れの帳、給金、食い扶持、買い入れ、修繕の銭を預かる者』
『近習を三人、叶いますなら四人。わたくしへの取り次ぎ、書状、来客、身の回りの実務を扱う者』
『奥向きの女中、女房を十二人より十五人ほど。わたくしの身の回りと奥のこと、衣と食、女中たちの指図を任せられる者』
『小者、使いの者を四人より六人ほど。雑用、使い、荷の運び、日々の下働きをする者』
すべて合わせて、二十五人から三十人前後。
そこまで書いて、糸子は筆を止めた。
近衛の家にとっても、軽い数ではない。それでも、この数を江戸で一から雇い集めるわけにはいかなかった。奥のことと銭のことと、御公儀との取り次ぎを任せる者は、近衛の家の者でなければならない。
筆を進めながら、糸子は数を数えていた。
旭狼衛だけで、江戸に二百三十。そこへ奥の者、奉公人、帳場の者が加わる。三百五十を超える。その者たちの飯を毎日炊き、給金を毎月払い、屋根が漏れれば直さなければならない。
一橋殿の御屋敷では、それを一橋殿の家の者がしてくれていた。浜町では、こちらでする。
近衛の家の者でなければ任せられない。
糸子は筆を置き、少し考えた。
もう一度、筆を取る。
『それから、もしお許しいただけるなら…』
そこで、また止まった。
お梅の顔が浮かんだ。
江戸は京から遠い。それでも……
『乳母のお梅を、こちらへ寄越していただけませぬか。本人が否と申すなら、それで構いませぬ』
書いてから、読み返した。
「本人が否と申すなら」と書いたのは、自分への言い訳だったのかもしれない。お梅が否と言わないことを、糸子は知っていた。それでも、そう書かずにはいられなかったのだ。
糸子は、その一行を消さなかった。
二通の書状を並べる。薄いほうと、厚いほう。
正月にも、こうして二通を並べたことを思い出す。あのときは、厚いほうに自分のこれからが書かれていた。
今夜は違う。
どちらにも、これからが書いてある。
糸子は二通を重ね、封をした。
七
灯を細くした。
障子の向こうでは、庭がすっかり暗くなっている。卯の花の白だけが、闇の中にぼんやりと浮かんでいた。どこか遠くで、時鳥が鳴いた。
糸子は文机の前に坐ったまま、しばらく耳を澄ませていた。もう一度鳴くかと思ったが、それきり声は聞こえなかった。
今朝、門の内側に立ったときのことを思い出す。向こうの塀が見えなかった。空の下に地面がどこまでも続いていて、そのすべてを、これから自分が預かるのだと思った。
背中を走ったものは、怖さだった。けれど、池の縁で足が弾んだときに感じたものは、確かに嬉しさだった。
どちらも本当だった。糸子は、膝の上で静かに手を重ねた。
屋敷がある。三百の盾がある。八十の銃がある。語学所もある。京から人が来る。英国から船が来るかもしれない。
ここまで来て、ようやく足場ができた。
足場はできた……と思う。
(そうしたら――)
糸子は灯を吹き消した。
暗い座敷の中で、もう一度だけ、時鳥が鳴いた。
第二百四十五話 了
【今後、糸子さんが住むことになる天朝屋敷 絵図ですψ(`∇´)ψ ウケケッ!!】
【公家の「奥」は、女中だけで動いていたのではない】
公家の屋敷の「奥」と聞けば、姫君の身の回りを世話する女中たちを思い浮かべるかもしれない。だが、屋敷の暮らしはそれだけでは回らない。食事や衣服の用意はもちろん、手紙の取り次ぎ、来客への応対、医師や職人の出入りまで、日々の仕事は思いのほか多い。奥の女房たちと、それを支える表の人々が動いて、ようやく一つの家の暮らしが成り立つ。
近衛家のような摂関家では、家の格式を守ることも大切な役目だった。家臣や使用人の配置、仕事の分担は、どの家でも同じというわけではない。幕末期の公家の家臣編成や家法を扱った研究からも、それぞれの家が独自の決まりと仕組みを持っていたことがわかる。
公家の奥向きを、江戸城の大奥と同じものとして考えるのも正確ではない。大奥には幕府独自の制度や役職があり、多くの女性が組織の中で働いていた。公家の屋敷では、家の規模や事情に合わせて奥向きのあり方が定められていたのである。女性たちの役目は重要だったが、奥だけで仕事が完結するわけではない。家臣や会計役、用向きを取り次ぐ者との連絡が欠かせなかった。
屋敷を支える役職にも、さまざまなものがあった。「諸大夫」は、公家社会の身分や官位に関わる呼び名だが、近世には親王家や摂関家などに仕える家臣の役職名としても使われた。近衛家の家政を担った家令の家としては、舟橋家の名が知られている。格式ある家の暮らしは、主人や家族だけで営まれていたのではない。家政を取り仕切る者がいて、その下で大勢が働いていた。
奥向きの仕事も、姫君の身の回りの世話に限らない。衣服を整え、食事を用意し、手紙を取り次ぐ。客人や医師が来れば応対し、旅に出るとなれば支度を進める。贈答品や日用品の手配も必要だ。表立って語られることは少なくても、こうした仕事が滞れば、屋敷の日常はたちまち立ちゆかなくなる。
乳母のように、幼いころから姫君に仕えてきた者は、単なる世話役では終わらないこともあった。姫君の気性や習慣を知り、奥にいる者たちの事情にも通じている。長年の奉公で培った経験があれば、任せられる仕事も増えていく。本作のお梅も、そうした立場を踏まえ、奥のことを任せられる人物として描いている。ただし、これは特定の公家に共通する固定の役職を再現したものではなく、物語に合わせて設定した役割である。
奥と表の境目も、いつも明確だったわけではない。来客の知らせや手紙は人を介して行き来し、医師や職人が奥に入ることもある。必要な品をそろえるには、商人や会計を担う者との連絡も要る。誰が何を担当し、どこへ話を通せばよいのか。そうした段取りを心得ていることも、屋敷を動かすうえで大切だった。
本作では、近衛家から三十人ほどを中核となる人員として迎え、江戸で新たに人を雇うほか、以前の屋敷に仕えていた者たちも一部呼び戻す設定にしている。近衛家に実際、三十人という定員があったわけではない。公家の家臣編成や家政のあり方を踏まえ、物語の屋敷を運営するために考えた人数である。
京都から来る者たちは、近衛家の作法や慣例を知り、家との連絡を保つ。江戸で雇う者たちは、土地の事情に通じ、現地での仕事を受け持つ。さらに、台所や倉、庭、厩、舟着場の管理、掃除や修繕、荷物の運搬、使い走りと、屋敷を維持するには人手が要る。百人を超える使用人を置く設定も、姫君のそばに大勢を侍らせるためではない。広い屋敷を日々動かすには、それだけの働き手が必要になるからだ。
公家の「奥」は、女中たちだけの閉じた世界ではなかった。表と奥は人を介してつながり、さまざまな役目が折り重なって一つの家を支えていた。本作の屋敷も、そうした暮らしの仕組みを踏まえて描いている。




