第二百四十四話「糸子のお嫁入り編―八十と七十」
一
卯月に入ると、屋敷の者たちの着るものが一斉に軽くなった。
朔日の更衣である。綿を抜いた袷に替えた女中たちが廊下を行き来するたび、裾の音まで冬より軽くなったように聞こえる。葵も小夜も、今朝から淡い色の袷を着ていた。
庭では、楓の若葉がすっかり広がっている。障子を閉めていても、その青さが紙越しにほのかに透けた。築山の裾には、白い卯の花も咲きはじめている。
明け方には、どこかで時鳥が一声鳴いたらしい。
朝餉の折に小夜がそう言ったが、糸子は聞いていなかった。そのころはまだ文机に向かい、灯を細くしたまま、西の丸下へ送る二通目の書状を書いていたのである。
日が高くなるにつれ、吹き込む風にもぬるさがまじった。
火鉢は、もう奥へ片づけられていた。
板倉周防守勝静が一橋上屋敷へ来たのは、その日の昼八つを少し回った頃だった。
糸子は、奥御殿の座敷に文机を出させていた。机の上には帳面が三冊と、善次郎の切絵図が一枚。葵が茶を置いて下がった。障子が閉まると、座敷には二人だけが残った。
周防守はすぐには坐らなかった。一度、膝を置くあたりの畳へ目を落としてから、静かに膝をつき、両手をついた。
肩衣が、前の座のときとは違っていた。色も、少し改まっている。
「本日は、まず一つ、ご報告申し上げねばならぬことがございます」
手をついたまま、周防守は言った。
「去る晦日、上意が下りました。備中守殿は首座をお退きになり、首座は、某が承ることとなりました」
糸子は、膝の上で手を重ねた。
知っていたことである。
弥生の二十日、水無瀬が城から戻り、備中守殿の口上を伝えている。
『この一件は、わしが首座として務める最後の御用。周防守には、首座として最初の御用とさせていただきたい』
あの日から、こうなることは分かっていた。それでも、決まっていたことがこうして形を取り、目の前に坐ると、やはり違って見えた。
ふと、西の丸下へ出した書状のことが頭をよぎる。
あの書状を、備中守殿は首座として読まれたのか。それとも、退かれてから読まれたのか。
「それは、めでたき……」
祝いの言葉を言いかけて、糸子は口を閉じた。
周防守の顔を見る。細い目が、まっすぐこちらを見ていた。そのような言葉を待っている顔ではなかった。
「よろしゅうお頼み申しまする」
糸子は小さく頷き、わずかに頭を下げた。
周防守は、黙って頭を下げた。
「備中守殿より、姫君へお伝えするよう申しつかったことがございます」
顔を上げると、周防守は言った。
「勘定の済んだ帳面を渡す、と。……それだけでございます」
「帳面……?」
「はい。某には、それで分かりました。姫君にも、お分かりになるかと」
糸子は、わずかに目を伏せた。
弥生二十三日の座で、備中守殿は首座の口から観光丸を退け、その代わりに伝奏屋敷の例を出された。御公儀の借りを、体面を崩さぬ形で返されたのである。
その勘定は、もう済んでいる。備中守殿が済ませた帳面を、今度は次の首座である周防守が受け取ったのだ。
「分かりました」
糸子は、それだけ答えた。
周防守は膝の前に、自分の帳面を置いた。表紙の角が少し擦れているのを見て、糸子は目を留めた。前の座で見たときには、なかった跡である。
この数日、どれほど繰り返しこの帳面を開いたのだろう。それは、擦れた角を見れば分かった。
「では、本日の段取りに入らせていただきとう存じます」
「お願いいたします」
周防守が帳面を開く。見開きには、細かな字がびっしりと並んでいた。
「首座になりましても、姫君との段取りは、某がそのまま承ります。後見職様より、そのように申しつかっております。御金のことなど、御用部屋に諮らねばならぬものは別にいたしますが、そのほかは、某の裁量で決めてよい、と」
「後見職殿が?」
「はい。先日の座で、お認めになったことでございますゆえ」
糸子は頷いた。
あの座で、慶喜殿は一つずつ削った。
削って、退けて、それでも最後に残ったものは認めた。認めた以上、その先の細かな段取りまで、いちいち御用部屋へ持ち戻らせるつもりはないらしい。
観光丸だけは勝った。
そう思っておられるうちは、このくらいの鷹揚さもおありになるのだろう。
糸子は、もちろん顔には出さなかった。
二
「まず、屋敷のことでございます」
周防守は、帳面の一枚目を指で押さえた。
「浜町の下屋敷に決まりました」
糸子は文机の上の切絵図を回し、周防守のほうへ向けた。大川に面した一角に、善次郎が朱を入れている。
周防守は少し身を乗り出し、その朱の上に人差し指を置いた。
「この区画でございます。替地の手配は済ませました。先方の御家にも異存はないとのこと。残っておられる留守居の方々も、今月の末には引き払われます」
「では、そのあとに?」
「いえ。すぐにはお移りいただけませぬ」
周防守は、帳面の次の行に指を移した。
「下屋敷は、詰めの者が国元へ戻ってから、手の入っておらぬところがございましょう。屋根、畳、建具、井戸、塀。御公儀の作事方に見させて、傷んだところを直してから、お渡しいたします。天朝外語御用掛の職に付く屋敷として御公儀がお出しするものを、傷んだままお渡しするわけには参りませぬ」
「どのくらい、かかりましょう」
「見てみねば分かりませぬが、あるいは三月ほどはかかるやも」
糸子は、指を折った。卯月、皐月、水無月。早くて、夏の盛りである。
「承知いたしました」
糸子は、周防守の指先を目で追った。
舟着場と荷揚場がある。大川からそのまま舟で荷を入れられ、小舟町の会所へも舟なら近い。長屋が八棟に、蔵が十。一万五千坪。
善次郎が最初に挙げた候補が、ここだった。
「周防守殿」
「なんでございましょう?」
「一度、この目で見とうございます」
切絵図の上で、周防守の指が止まった。
「屋敷を、でございますか」
「はい。これから住まう所でございます。切絵図と人の話だけで決めてしまうわけにはまいりませぬ。どこに何があり、どこが傷んでいるか。長屋の屋根はどうか、井戸はいくつあるか」
一つずつ数えるように、糸子は指を折った。
「そこまで人に任せきりにはできませぬ」
周防守はしばらく糸子の顔を見ていたが、何も言わず、帳面に一行書きつけた。
「では、某が手配いたします。先方の留守居の方々が引き払われる前に、一度御覧いただけるようにいたしましょう。日取りは、追ってお知らせ申し上げます」
「直すところがございましたら、その折にお申しつけください。作事方に申し伝えます」
「お骨折り、かたじけのう存じます」
「いえ。住まわれる方が御覧にならぬまま事を進めるほうが、後で手間がかかりましょう」
それだけ言って、周防守は筆を置いた。
糸子は、わずかに笑った。
この人は、手間を嫌う。
だからこそ、後で余計な手間が出ぬよう、先に手をかける。
「それから、屋敷の中で働く者のことでございます」
糸子は続けた。
「炊事、掃除、洗濯、厩、門まわり。必要な者はこちらで揃えます。御公儀のお手を煩わせることはいたしませぬ」
「異存はございません」
周防守はすぐに答えた。
「ただ、一つだけ、お願いがございます」
「なにか?」
「いま、あの屋敷には留守居の方々のほかに、下働きの者が幾人か残っておりましょう。先方の御家の国元へ戻る者もおりましょうが、江戸で雇われた者は、屋敷が替われば行き場を失いまする」
周防守は帳面を一枚めくった。
「その中に、引き続きあの屋敷で働きたいと申す者がおれば、こちらで雇う用意がある。そう伝えてもよろしゅうございますか」
糸子は周防守を見た。
細い目は帳面に落ちたままで、顔を上げようとはしない。
「よろしゅう、お見立てのほどを」
糸子は言った。
「あの屋敷のことをいちばんよく知っているのは、その者たちでございましょう。どの井戸の水が旨いか、どの蔵が湿気るか、どの雨戸が引っかかるか。そういうことは、切絵図には書いてございませぬ」
周防守の筆が動いた。
「では、そのように通達いたします。望む者は引き続き雇う。望まぬ者については、先方の御家と相談のうえ、身の振り方を考える」
「はい」
「人数は、まだ分かりませぬ。分かり次第、名をお知らせいたします」
「お願いいたしまする」
糸子は胸の内で、ひとつ息をついた。
(居抜き。ありがたいわ)
前の世の売場でも、同じだった。
棚なら買い替えればいい。道具も足りなければ揃えればいい。いちばん困るのは、その場所を知っている人間が、誰もいなくなることだった。
何がどこにあるのか。どこに癖があり、何をすればうまく回るのか。そういうものは、帳面にも図面にも残らない。
屋敷も、きっと同じだろう。
周防守が顔を上げた。
「屋敷については、以上でございます」
「嬉しゅう存じます」
周防守は頷き、帳面の次の紙をめくった。
三
次の紙には、表題があった。
洋書調所出入りの儀。
「前の座でお話しいただいた、洋書調所の写しのことでございます」
周防守は一枚の紙を抜き取り、糸子の前へ置いた。
「調所の頭取と詰めてまいりました。まだ粗いものではございますが、御覧いただけますか」
糸子は紙を手に取った。
細かな字が、きちんと行を揃えて並んでいる。項目の頭には、一つずつ小さな丸が打ってあった。
「まず、名簿でございます」
周防守が言った。
「語学所のほうで、調所へ通わせる者をお選びいただきます。その者どもの名を記した名簿を、あらかじめ頭取へお出しいただく」
「はい」
「それとは別に、鑑札を持たせます。木札を一枚ずつ、姫君の側からお渡しいただきたい。調所の門では、名簿に名があることと、鑑札を持っていること。その二つを改めます」
「名簿だけでも、鑑札だけでもなく」
「はい。名簿だけでは、名を騙る者が出ましょう。鑑札だけでは、拾った札でも入れてしまいます。二つを合わせれば、まず間違いはございません」
糸子は、次の丸へ目を移した。
「鑑札を失くしたときは」
「名簿を改めていただきます。辞めた者が出たときも同じでございます。新たに鑑札を出す場合も、その前に頭取へ届けていただく」
周防守が紙の端を指した。
「鑑札の書きぶりは、このように考えております」
そこには、小さく木札の形まで描いてあった。
縦に四行。
天朝外語御用掛。
商務語学所。
洋書写方。
その下に、氏名。
糸子は、しばらくその四行を眺めた。
天朝外語御用掛が上にある。その下に語学所があり、そこに属する写方であることまで、一枚の札で分かる。
「写方、でございますか」
「はい。調所へ書物を写しに来る者、という意味でございます。学生といたしますと、調所で学ぶ者とも取られかねませぬ。写方であれば、その心配はございません」
「本は、持ち出せませぬのね」
「はい。本そのものは貸し出しませぬ。指定された書物を調所の中で写し、その写しだけを持ち帰っていただきます」
周防守は、最後の丸を指で押さえた。
「もう一つ。どの書物を写してよいかは、頭取の側で決められるようにしておきとうございます。写してよいもの、見るだけのもの、出せぬもの。この三つに分けます」
糸子は紙から顔を上げた。
周防守も、帳面に手を置いたままこちらを見ている。
「会所の商いには口を出さぬと、先日の座でお約束いたしました。それを違えるつもりはございません。なれど、洋書調所は御公儀の施設でございますゆえ」
糸子は一度、紙へ目を落とした。
語学所は会所のもの。調所は御公儀のもの。
御公儀の施設へ人を入れてもらう以上、その中では御公儀の決まりに従う。それだけの話である。
「承知いたしました」
糸子は言った。
「調所の中のことは、頭取のお決めになるとおりにいたします。写してよいものを写させていただければ、それで十分でございます」
周防守の肩から、ほんのわずかに力が抜けた。
ここは押されると思っていたのかもしれない。
糸子は、もう一度紙を見た。
名簿と鑑札を突き合わせる。鑑札には所属と役目を記す。本そのものは外へ出さない。何を写させるかは、調所の側に決めさせる。
前の座から、まだ幾日も経っていない。
その間に頭取と話をつけ、ここまで詰めてきた。鑑札に何と書くかまで、もう決めてある。
それだけではない。
こちらが異を唱えそうなところには、先に筋を通してあった。
名を騙る者がいる。札を拾う者もいる。調所は御公儀の施設である。
どれも道理が立っている。
(……さすがね)
備中守殿が、首座に推された御方である。
御用部屋で、数のいちばん分かる者。
これからの御公儀は、財の勘定が合わねば何一つ動かぬ。その勘定を首座自身ができることが、何より肝要である――備中守殿は後見職様の前でそう申されたのだと、水無瀬から聞いていた。
けれど、この人が分かるのは数だけではないらしい。
決まりを作るだけなら、誰にでもできる。
誰が、どこで、何を確かめればよいのか。何を許し、どこから先を許さぬのか。それを一つずつ、人が動ける形にして持ってくる。
(備中守殿、人を見る目は確かでございますわね)
糸子は紙を丁寧に畳み、文机の上へ置いた。
「よう、ここまで詰めてくださいました」
「頭取が、話の分かる御仁でございましたので」
周防守は、それだけ言った。
自分の手柄にはしない。それも、この人のやり方なのだろう。
「長崎の製鉄所と、関所の通行のほうは」
糸子が訊くと、周防守は帳面をめくった。
「長崎奉行と道中奉行へは、書付を出しました。なれど長崎は遠うございます。返事が戻るまで、まだしばらくかかりましょう。道中奉行のほうも、関所が幾つにもまたがりますので、すぐにとは参りませぬ」
「では、待ちます」
「申し訳ござらん」
「いいえ。長崎が遠いのは、周防守殿のせいではございませぬ」
周防守の細い目が、ほんの少しだけ細くなった。
笑ったのかもしれなかった。
四
「次に、語学所を広げる件でございます」
周防守は帳面の次の紙をめくった。
だが、今度はすぐに読み上げなかった。紙の上で、一度、指が止まる。
「先日の座で、お認めいただいたことでございます。ついては、御公儀としてどのような形で認めるか、御用部屋でも量っておりました。会所の中の語学所を公に認めるとなれば、書付の名をどうするか、どこの掛かりにするか――」
「周防守殿」
糸子は言った。
「語学所につきましては、御門より綸旨を賜っております」
周防守の指が止まった。
「……綸旨」
「はい」
しばらく、返事がなかった。
周防守は帳面から顔を上げ、糸子を見た。細い目が、いつもよりわずかに開いている。
「いつ、でございますか」
「すでに賜っております」
糸子は、それだけ答えた。
周防守は何か言いかけて、やめた。
もう一度帳面へ目を落とす。書付の名をどうするか、と記したあたりを、しばらく黙って見ていた。
「天朝物産会所の中で、人を育てること」
糸子はゆっくりと言った。
「異国の言葉を学び、商いの書き物を読み、異国の商人と話せる者を育てること。それを、御門がお認めくださいました。語学所は、そのためにございます」
「……では」
「はい。御公儀に、語学所そのもののお許しをいただく必要はございませぬ。ただ、御公儀にも、語学所がここにあるものとして扱っていただければ、それで結構でございます」
糸子は、文机に置かれた先日の書付の写しへ目をやった。
「先日お願いいたしましたのは、語学所を広げるために、御公儀の施設へつながる口を開けていただくこと。洋書調所、長崎の製鉄所、関所の通行。その三つだけでございます」
周防守は、帳面の上の紙をゆっくり裏返した。
書付の名をどうするか、と記した紙だった。
「……さようでございましたか」
声は低かったが、乱れてはいない。
「某は、語学所そのものを公認するものと思い込んでおりました。先日の座で三つの窓口だけをお求めになり、なぜ公認の話をなさらぬのかと、不思議には思うておりましたが」
「申し上げませなんだ」
「申し上げる要が、なかったのでございますな」
周防守は、そこでわずかに首を振った。
「すでに建っておるものに、扉だけを開けさせに来られた。……御用意のよろしいことで」
糸子は何も言わず、頭を下げた。
周防守は裏返した紙を帳面の後ろへ回した。
「では、語学所について御公儀から新たにお出しするものはございません。三つの窓口についてのみ、先日のとおり進める。そのように御用部屋へ申し上げます」
「よろしゅうお頼み申します」
周防守は次の紙をめくった。
「続いて、会所の商いのことでございます」
「はい」
「先日の座で、口は出さぬとお約束いたしました。条約と運上の掛かりは御公儀に残す。咎人も御公儀に残す。そのほかの商いには口を出さぬ」
そこで一度、言葉を切った。
「ただ、一つだけ、お願いいたしたい。御公儀の法度だけは、お守りいただきとうございます。口を出さぬということは、法度の外に置くということではございませぬゆえ」
「もちろんでございます」
糸子はすぐに答えた。
「会所は、御公儀の法度の内で商いをいたします。そのことは、お約束いたします」
周防守が帳面に一行書きつけた。
その筆先を見ながら、糸子は少し間を置いた。
「そのうえで、周防守殿。一つ、お願いがございます」
「はい」
「法度について、こちらから申し上げたいことができた折には、お聞きいただけますか」
筆が止まった。
「法度に、でございますか」
「はい。横浜で商いをしておりますと、今の法度ではうまく合わぬところが見えてまいります。異国の商人には通る理屈が、日本の商人には通らぬところ。日本の商人が決まりを守るほど、かえって損をするところもございます」
糸子は、そこで言葉を選んだ。
「会所に都合よく変えていただきたいのではございませぬ。日本の商人を守り、商いをしやすくし、異国の商人にも勝手をさせぬために、直したほうがよいものがあれば申し上げたいのでございます。公平は守ります」
「もちろん、お決めになるのは御公儀でございます。こちらは、商いの場で見えてきたことを申し上げるだけ。その中に、直したほうがよいものがあれば、お耳に留めていただければと存じます」
周防守は、しばらく何も言わなかった。
やがて帳面を膝の上に置き直す。
「姫君は」
静かな声だった。
「われら役人よりも、商いのことに、なぜかよほどお詳しい」
「……そうでございましょうか」
「はい。先日の座でも、その前の座でも思うておりました。運上のことも、生糸の値のことも、某より先に数をお持ちでございます」
周防守は手をついた。
「でしたら、こちらからもお願い申し上げたい」
糸子は、わずかに目を上げた。
「法度に限らず、商いにかかわることで御公儀が量りかねることがございました折には、姫君にご相談させていただきとう存じます」
「はい、喜んで――」
そこまで言って、糸子は口を閉じた。
(……あっ!)
周防守は、まだ手をついたままである。
糸子は今しがた交わした言葉を、頭の中でもう一度たどった。法度について、こちらから申し上げる道がほしい。
そう頼んだのは、自分だった。
周防守は、それを断らなかった。ただ、こちらからも相談したい、と返してきただけである。
同じ道だった。
こちらから御公儀へ向かう道と、御公儀からこちらへ向かう道。向きが違うだけで、開けたのは一つの道である。
(……ひょっとして、仕事を増やしてしまった? )
会所の帳がある。横浜の糸の値を追わねばならない。京への返書もある。英国の技師、屋敷の見分、語学所。
その上に、御公儀の商いの相談まで加わる。
暮れの談判のときと同じではないか。
便利だから使う。
あのときは、それにあれほど腹を立てたというのに。
今度は、自分から扉をわざわざ開けてしまった。
(……やってしまった! 自ら墓穴を掘ってしまったーー!!)
糸子は、顔に出すまいと思った。けれど、隠そうとしたことが、かえって表に出たらしい。
周防守が頭を上げ、ほんの一度だけ糸子の顔を見た。何かを問うでもなく、何かを言うでもない。そのまま帳面を手元へ引き寄せると、筆を取り、さらさらと一行を書きつけた。
何と書いたのかは、糸子には見えなかった。
「それから」
周防守は、何事もなかったように次へ進んだ。
糸子は項垂れるしかなかった。
「旭狼衛を組として認める件、名を届け出る者の士分の件、それに毎年の掛かりの件は、いま勘定方と詰めております。運上所の写しは揃いましたが、額を出すには、もう少しかかります。次の座までには、形にいたします」
「……はい、よろしくお願いいたしまする」
糸子は項垂れながら答えた。
頭の片隅では、自分で増やした仕事の始末を考えていた。
五
帳面の上の項目が、一つずつ片づいていった。
屋敷、調所、語学所、会所。
板倉は話が済むたび、その行の頭に小さく印をつけた。残ったのは、勘定方と詰めている三つだけである。
今日の座は、これで終わるはずだった。
「周防守殿」
姫君が言った。
「旭狼衛のことで、もう二つ、申し上げてよろしゅうございますか」
「どうぞ」
板倉は帳面の余白に筆を置いた。
「先日の座で、江戸と京を合わせて三百とお認めいただきました。その三百を、京に七十、江戸に二百三十と考えております」
板倉は数字を書いた。
七十。二百三十。
合わせて三百。
総枠は、先日の座で後見職様がお認めになった数である。江戸と京に何人ずつ置くかまでは決めていない。三百の内で収まるなら、数の上では問題はなかった。
ただ、京に七十。
五十ではなく、七十である。
朝廷とのつながりがあり、近衛家の屋敷があり、京の試衛館もある。姫君自身は江戸にいるが、その背後には京がある。
七十という数は、京をただの留守居で済ませるつもりがないことを示していた。
「三百の内でございますな」
「はい」
「でしたら、異存はございません。某の裁量で承ります」
姫君が頭を下げた。
「ただ、一つ、念を押させていただきとう存じます」
板倉は続けた。
「名簿でございます。先日の座で、士分として届け出る者は、天朝外語御用掛を守護する者に限ると決めました。その名簿は、江戸の者だけでなく、京の七十についても同じ形でお出しいただきたい」
「京の者も、でございますか」
「はい。京には所司代がおります。旭狼衛の者が京で何かに関わった折、所司代が名を知らぬでは話が通りませぬ。江戸と京で同じ形の名簿をお出しいただければ、所司代にも写しを回せます」
「承知いたしました。京の分も、同じ形でお出しいたします」
「かたじけのう存じます」
板倉は一行書き足した。
京の名簿、所司代へ写し。
「それで、もう一つは」
「はい」
姫君は膝の上で手を重ね直した。
「屋敷の警固のため、鉄砲を置きとうございます」
板倉の筆が止まった。
「……何挺ほど」
「百挺」
間を置かずに返ってきた。
板倉は筆を硯の縁へ置いた。
五百は三百になった。
観光丸は退けた。
あの座から、まだひと月も経っていない。
その姫君の口から、今度は鉄砲百挺である。
屋敷の警固に鉄砲を備えること自体は、珍しい話ではない。大名の下屋敷にも鉄砲はある。御公儀にも鉄炮組がある。
だが、百挺。
朝廷の御用掛の屋敷に百挺。三百の旭狼衛に対して百挺である。
先日の座で、後見職様が「五百では私兵と申すほかない」と言われたときの顔を、板倉はまだ覚えていた。
「姫君」
板倉は言った。
「鉄砲のことは、某一人では決められませぬ。御用部屋へ持ち帰らせていただきます」
「はい。そのようにお願いいたします」
姫君は、初めからそうなると承知していたようだった。
板倉は筆を取り直した。
『鉄砲百挺。』
そう書きかけて、手を止める。
「鉄砲は、どこで手に入れられるおつもりで」
「長崎で求めるつもりでおりまする」
「長崎で?」
「はい。天朝物産会所を通して、異国の商人から買い入れまする」
また、筆が止まった。
国内で揃えるのではない。
異国の銃を百挺。
「……すでに、話をなされておいでですか?」
「いいえ。まだ何も」
「では、当てがおありになる」
「はい、ございます」
姫君は少し身を乗り出した。
「もちろん、買い入れましたのちは、長崎奉行へ届け出ます。数も、銃の種類も、すべて」
板倉は黙って、その顔を見た。
秘かに武を蓄えるつもりなら、わざわざ買う前にここへ持ち出す必要はない。
どこで買うかも、誰を通すかも、買った後にどこへ届けるかも、先に明かしている。
隠すつもりはない。
それは分かった。
だが、隠していないことと、認めてよいこととは別である。
板倉は、もう一つ確かめた。
「姫君。長崎で買い入れた鉄砲を江戸へ入れるとなれば、十挺を越える鉄砲には、老中の裏印をした証文が要ります」
「存じております」
姫君はすぐに答えた。
「関所で、鉄砲の種類と挺数、持ち主、出立の地、行き先を改められる。そのための証文でございますね」
「はい」
「そのための、今日でございます」
板倉は、帳面へ目を落とした。
裏印をするのは、老中である。
そして今、その首座にいるのは自分だった。
姫君はそこまで承知したうえで、首座になったばかりの板倉の前へ、百挺という数を持ってきたのである。
「も、持ち帰って、御用部屋に諮ります。数日、お待ちいただきたい」
「はい、よろしゅうお頼み申しまする」
板倉は帳面を閉じようとして、やめた。
余白に四つ、書きつける。
鉄砲百挺。
長崎。
会所を通す。
長崎奉行へ届け。
それから、帳面を閉じた。
六
御用部屋の空気は、重かった。
板倉は、一橋上屋敷で姫君から聞いたことを、帳面の順に申し上げた。
京に七十。江戸に二百三十。
三百の内であるから、これは某の裁量で承った。
そこまで話してから、鉄砲の件に移った。
「百挺にございます」
板倉がその数を口にしたところで、後見職様が扇を閉じられた。
「多い」
それだけだった。
総裁職様はしばらく黙っておられたが、やがて膝の上で扇を一度開き、また閉じられた。
「旭狼衛の三百を認めたのは、屋敷と御用掛を守るためでござる。戦をさせるためではない」
「姫君も、屋敷の警固のためと申されました」
「警固に、百挺が要るか」
板倉は答えなかった。
何挺あれば足りるのか。その数を、板倉は持っていない。
浪士の押し込みを防ぐだけなら、百挺は多かろう。それより大きなものを相手にするなら、百挺あっても足りぬかもしれない。
海防を預かる和泉守が、別のことを訊いた。
「どこの鉄砲じゃ」
「長崎で、異国の商人から買い入れると申されました」
また、座が静かになった。
「異国の銃か」
後見職様が、閉じた扇の先で膝を一度叩かれた。
「御公儀の鉄炮組が持っておるのは、まだゲベールじゃ。それより良い銃を、朝廷の御用掛の屋敷に百挺置くと申すか」
「銃の種類までは、まだ伺っておりませぬ。買い入れたのちは、数も種類も長崎奉行へ届けると申しております。それに、買う前にこちらへ話を持ってこられました」
「言いに来たから、許せと申すのか」
「いえ」
板倉は首を振った。
「秘かに武を備えるおつもりはない。某が量りましたのは、それだけでございます」
後見職様は、しばらく板倉の顔を見ておられた。
誰も、頭から退けよとは言わなかった。
三百の警固を認めておいて、では何を持たせるのかという話になる。刀だけで屋敷を守れと言える世ではないことくらい、ここにいる者は皆分かっていた。
やがて後見職様が言われた。
「五十」
板倉は顔を上げた。
「それ以上は、ならぬ」
帳面に、五十と書いた。
*
一橋上屋敷へ戻ると、姫君は前と同じ座敷で、文机を前に待っていた。
「五十挺まででございます」
板倉が告げると、姫君はすぐには答えなかった。
膝の上に重ねた自分の手を見て、それから顔を上げる。
「周防守殿」
「はい」
「わたくしは、祐宮様の后に内定しております」
静かな声だった。
「その身辺の警固まで量られて、五十挺でございますか」
板倉は、すぐには答えられなかった。
御用部屋で、その話は出なかった。
いや、出せなかったと言うほうが近い。
后の件を知る者は限られている。知っている者同士であっても、むやみに口へ出すことではない。
だから五十という数は、あくまで朝廷の御用掛、その屋敷を守るための数として量った。
儲君の后となる御方の身辺を守る数としてではない。
もし、その身に何かあったら。
御公儀は、何と申し開く。
鉄砲を五十挺しか許さなかったから守れませんでした、とでも申すのか。
姫君は、それ以上何も言わなかった。
言う必要がないのだろう。
数の分かる者なら、あとは自分で量れという顔をしていた。
「……い、今一度、量らせていただきます」
板倉は帳面を閉じた。
*
二日後。
板倉は、また同じ座敷へ来ていた。
あのあと御用部屋で、后のことを最初に口へ出されたのは、後見職様ご自身だった。
人を払った座で、板倉は姫君の言葉をそのまま伝えた。
その身辺の警固まで量られて、五十挺でございますか。
後見職様は、しばらく扇の先を見ておられた。
「……あの姫は、いつもそこを突く」
誰に言うともなく、そう言われた。
総裁職様が低く応じられた。
「突かれて、こちらに言い返す筋がござらぬ。儲君の后の身辺で何かあれば、御公儀は鉄砲を惜しんだと言われまする」
「分かっておる」
後見職様は扇を開き、すぐに閉じられた。
「百は、ならぬ。百を許せば、次は百五十と申す」
板倉は黙って帳面を見ていた。
「八十」
後見職様が言われた。
「八十までじゃ。それ以上は、后であろうと、ならぬ」
総裁職様も、異は唱えられなかった。
*
「八十挺まで、お認めいたします」
板倉が告げると、姫君は深く頭を下げた。
「八十挺のお許し、承りました」
顔を上げる。
「では、百五十挺、長崎へ注文いたしまする」
板倉の筆が、紙へ下りる寸前で止まった。
「……八十挺では、ございませぬか」
「はい。こちらへ置くのは、八十挺でございます」
「では、残りは」
「七十挺は、御公儀へお納めいたします」
板倉は姫君を見た。
姫君の目は、文机の帳面に落ちていた。何かの勘定を確かめているような顔である。
「なぜ、七十挺も」
「同じ銃を、お持ちいただいたほうがよろしいかと存じました」
「同じ銃を……でございますか?」
「はい」
それだけ言われて、板倉は意味を量った。
旭狼衛が八十挺の新しい異国銃を持つ。
御公儀の手元には、それと同じ銃が一挺もない。
それでは、朝廷の御用掛を守る者が、御公儀の兵より良い銃を持つことになる。
それを知った者が、どう見るか。
御公儀も同じものを持っていれば、少なくともその話にはならない。
「それに」
姫君が顔を上げた。
「八十挺より、百五十挺まとめたほうが、一挺あたりの値を下げられまする。異国の商人は、数を買う者には値を引きます。弾も、まとめて求めたほうが安うございます」
板倉は黙った。
鉄砲の話をしていたはずだった。
朝廷の御用掛に、鉄砲を何挺まで持たせてよいか。
そのために御用部屋で二度も量り、ようやく八十という数を出したのである。
ところが姫君は、いつの間にか仕入れの話をしている。
「姫君」
板倉は言葉を選んだ。
「御公儀が、姫君より鉄砲を頂戴するわけにも参りますまい」
朝廷の御用掛から武具を恵まれる。
そんな形になれば、御用部屋の誰も首を縦には振らない。
「では、代をいただきまする」
返事は早かった。
「……代を」
「はい。こちらの八十挺と、同じ値で結構でございます」
板倉は筆を置いた。
会所が長崎で百五十挺をまとめて買う。
八十挺は、浜町の屋敷へ。
七十挺は、御公儀へ。
同じ値で引き取る。
恵まれるのではない。
一緒に買うのである。
そして一緒に買えば、御公儀も安く買える。
「弾と雷管も、同じものを揃えまする」
姫君は、さらに続けた。
「手入れの道具も付けます。扱い方の書付も、お付けいたします。村田蔵六に書かせましょう。こちらで使うものと、同じ書付でございます」
「……銃は、どのようなものを」
「英国の軍が、いま使っている、新しい施条の銃でございます」
姫君は、それ以上説明しなかった。
板倉は帳面を開いた。
八十、と書く。
その横に、七十、と書いた。
並んだ二つの数字を、しばらく眺めた。
御用部屋では、この姫君に百挺を持たせてよいかと、二度も量った。
そして八十まで削った。
削ったはずだった。
ところが今、その八十の横には、御公儀の七十が並んでいる。
代を払い、同じ銃を買う。
弾も同じ。
雷管も同じ。
手入れの道具も、扱い方の書付も同じ。
後見職様に、これを何と申し上げたものか。
板倉はしばらく考えた。
やがて、筆を取った。
「証文には、百五十挺と書かねばなりませぬな」
「はい。行き先は、二つでございます」
「浜町の屋敷と、御公儀の御蔵」
「はい」
板倉は帳面に、百五十、と書いた。
その下へ、小さく二文字を添える。
裏印。
首座となって最初に裏印をする鉄砲百五十挺。
そのうち七十挺は、どうやら御公儀が買うことになるらしかった。
七
周防守の足音が、廊下の先で聞こえなくなった。
糸子は、しばらくそのまま坐っていた。
文机の上には、帳面が三冊と善次郎の切絵図。それに、前の座から今日までのあいだに周防守が置いていった書付の写しが、何枚か重なっている。
さっき言い残していった数が、まだ耳に残っていた。
八十と、七十。
糸子は膝の上で重ねていた手をほどいた。肩から、ゆっくりと力が抜けていく。
「……ふう」
声に出して息をついたのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
弥生二十三日の座から、半月あまり。御宸翰への返事を受け、英国のことを報告し、暮れの談判でできた借りを一つずつ数えた。観光丸では負けてみせ、備中守殿と笑い合い、泣いた。そして今日、その備中守殿から帳面を引き継いだ周防守と、残っていた段取りの大筋まで詰めた。
屋敷は、浜町に決まった。
糸子は切絵図を引き寄せた。大川に面した一角に、善次郎の朱が入っている。
(わたくしの、御屋敷!)
一橋殿の上屋敷、その奥御殿に間借りして、もう長い。御殿の作りは立派で、これといった不自由もない。それでも、ここは一橋殿の家だった。庭の木一本、障子の桟一本、こちらの好きにはできない。
浜町なら、できる。
長屋が八棟、蔵が十。舟着場と荷揚場があり、一万五千坪もある。
(一国一城……とまではいかないけど、城よね、これ)
どこに語学所の教場を置こうか。会所の荷を入れる蔵は、舟着場に近いほうがいい。旭狼衛の長屋は、夜番明けの者が昼に眠れるよう、人の行き来が少ない側に置きたい。井戸はいくつあるのか。台所や湯殿は、どこにあるのか。
(見分の日が、待ち遠しいわ)
糸子は、朱で囲まれたところを指先でなぞった。そうしているうちに、口元が緩んでくるのが自分でも分かった。
屋敷だけではない。
旭狼衛は三百。京に七十、江戸に二百三十。武士として名を届け出る道ができ、御門の御言葉を受けて、御公儀が勝手に引き出さぬ約束も取った。語学所には三つの窓口が開く。技師は十里の外へ出せる。会所の商いには口を出させず、毎年の掛かりも話が進んでいる。
そして、鉄砲は八十挺。
そのうえ、同じ銃を御公儀も七十挺買うことになりそうだった。
(観光丸は取れなかった。……まぁ、取るつもりはなかったけれど)
糸子は指を折って数えてみた。途中で、指が足りなくなった。
(……ほぼ、全部じゃない?)
暮れの十日を返してもらう。
そう決めたのは、霜月の末だった。あの日、文机の縁を両手でつかんで、ぐぎぎぎ、と歯を噛んだ。後悔していただきましょう、と葵にも言った。
もう一度、切絵図を見る。
(後悔は、していただけたわよね。たぶん)
口元が、さらに緩んだ。
(うけけけけけ……)
気づけば、立ち上がっていた。
立ったことに自分でも一拍遅れて気づいたが、もう遅い。両手を胸の前で軽く握ると、足まで勝手に動き出した。右へ一歩、左へ一歩。そのまま、くるりと半分回る。
(屋敷! 鉄砲! 語学所! 毎年の掛かり! ぜーんぶ、いただきましたわー!)
もう半分回ったところで、襖が開いた。
葵が、盆を持って立っていた。
盆の上には湯呑みが一つと、小皿が一枚。皿には、薄緑の菓子が載っている。
糸子は、半分回った姿勢のまま止まった。
葵も、襖に手をかけたまま止まった。
(……しまった)
片足が、まだ少し浮いていた。
糸子は何事もなかったように、その足をそっと畳へ下ろした。
座敷の中で、誰も口を開かなかった。庭で鳥が一声鳴き、その声だけが妙にはっきり聞こえた。
葵の目が、糸子の顔から足もとへ下り、また顔へ戻る。
それから黙って一歩下がると、襖を静かに閉めた。
糸子は、閉じた襖を見つめた。
(え……ちょっと待って、葵?)
襖の向こうで、ひとつ息を吸う気配がした。
「姫様」
いつもと変わらぬ声だった。
「お茶と菓子をお持ちいたしました」
糸子は大急ぎで文机の前へ戻り、膝を揃えて坐った。袖を直し、裾を直し、何事もなかったように背筋を伸ばす。額のあたりが、じっとりと湿っていた。
「……どうぞ」
声が少し上ずった。
襖が開いた。
葵は先ほどと同じ盆を持ち、先ほどと同じ歩き方で入ってきた。そのまま糸子の脇に膝をつき、湯呑みと小皿を置く。
皿の上に載っていたのは、青梅を象った練切だった。
「周防守様がお帰りになりましたので、そろそろお疲れかと存じまして」
「……ええ。おおきに」
糸子は湯呑みに手を伸ばした。指先が、ほんの少し揺れた。
葵は盆を膝の脇へ置くと、顔を上げないまま言った。
「わたくしは、何も見ておりません」
糸子の手が、湯呑みの上で止まった。
「どうぞ、ごゆっくりなさってくださいませ」
それだけ言って、葵は黙った。
顔つきはいつもと変わらない。本当に何も見ていない者の顔をしている。
糸子は、湯呑みを両手で包んだ。
見られた。間違いなく見られた。それを見なかったことにしてもらったばかりか、見なかったことにすると、わざわざ口に出して言われた。そのうえで、いつもの顔をされている。
(……この子)
これ以上の始末のつけ方はない。
(さすが葵ね)
糸子は湯呑みを置いた。
「葵」
「はい」
「グッジョブ!!」
葵が顔を上げた。
「……はぁ」
「異国の言葉で、良い仕事ぶり…と褒めたたえる言葉です」
葵は、しばらく糸子の顔を見ていた。
「……ありがとう存じます?」
なぜか、語尾が上がっていた。
糸子はそれ以上何も言わず、練切を一切れ口に入れた。白餡の甘さが、ゆっくりと舌に広がっていく。
甘いものを口にすると、頭も少し落ち着いた。
懐紙で口元を押さえてから、小さく咳払いをする。
「こほんっ」
背筋を伸ばした。
「葵……」
「近藤殿、村田殿、小夜、勝殿、善次郎、善兵衛殿を集めてください。皆に、申し伝えることがございます」
葵の顔つきが変わった。茶を運んできた侍女の顔から、いつもの筆頭侍女の顔へ戻る。
「皆様お揃いで、でございますね」
「ええ。日取りは皆の都合を聞いてから。なるべく早く」
「承知いたしました」
葵は盆を取り上げると、頭を下げて座敷を出ていった。襖が静かに閉まり、その足音もやがて廊下の奥へ遠ざかっていく。
一人になった座敷で、糸子はもう一度、目の前の切絵図に目を落とした。
浜町の一角を囲む、善次郎の朱。
(これで、とりあえず、足場は固められる)
屋敷があり、人がいる。銭の出どころもできる。御公儀に勝手に引き出されぬ約束があり、その上には御門の御言葉がある。
ここまであれば、動ける。
足場がなければ何も建てられないが、足場さえあれば、その上にようやく次のものを建てていける。
糸子は、切絵図の端に指を置いた。
庭で、また鳥が鳴いた。
第二百四十四話 了
せっかく老中首座になった板倉氏。これからわがまま姫とへそ曲がり後見職の間で、行ったり来たりで…神経擦り減らしそう。
これぞ、哀しき中間管理職。
あれっ?老中ってそんな役どころだったっけ???(;´Д`A




