第二百四十三話「糸子のお嫁入り編―ご愛嬌」
一
目を開けると、障子が白かった。
堀田は、しばらくそれを見ていた。
白いのは紙の色ではない。外から入る日の色である。障子の桟の影が、畳の上にくっきりと落ちていた。夜明けの青い光ではなかった。日はもう、だいぶ高いところにある。
夜中に、一度も目を覚まさなかった。そのことに気づくまで、少し時がかかった。
病が重くなってからというもの、夜がひどく長くなった。
床に入っても、なかなか眠りにはつけない。ようやくうとうとしかけた頃に咳が込み上げ、堀田は身を起こして懐紙を口元に当てる。しばらくそうして息を整え、咳が静まるのを待ってから再び横になるのだが、今度は胸の奥がざわついて、なかなか目を閉じることができなかった。
西の丸下の役宅に移ってから、そんな夜をいくつ過ごしただろう。
眠れぬまま、暗かった障子が少しずつ青みを帯びていくのを眺めて朝を迎えることも珍しくない。眠れたとしても、ごく浅い眠りだった。夜中に何度も目を覚まし、そのたびに、体が昨日よりまた少し重くなったように感じられた。
それが、昨夜は覚えていない。
床に入ったところまでは覚えている。一橋家の者が床を延べてくれ、しばらくすると平岡殿が様子を見に来た。やがて行灯の火が細くなり、襖が静かに閉められた。
覚えているのは、そこまでだった。
枕元で、衣擦れの音がした。
「お目覚めでございますか」
平野縫殿である。
堀田の家老は、膝を揃えて枕元に坐っていた。昨日の夕刻、一橋家の使いが走り、平野はその夜のうちに薬と着替えを持ってこちらへ上がってきた。堀田はそれを、床の中で半分眠りながら聞いた気がする。
「……いま、何刻じゃ」
「四つを少し過ぎましてございます」
堀田は、天井を見た。
役宅であれば、とうに登城の支度を終えている刻限である。
「起こさなんだのか」
「お休みでございましたので」
平野は、それだけ言った。
堀田が肘をついて身を起こすと、平野がすぐに背へ手を添えた。体の重さも、胸の奥に居座る苦しさも、まだ消えてはいない。
それでも昨日、座が退いたあと、周防守の手を借りて立ち上がったときほどではなかった。あのときは、足にまるで力が入らず、膝から下が自分のものではないように感じられた。
平野が、堀田の顔をのぞき込んだ。
「お顔の色が、昨日よりようございます」
「そうか」
「はい。頬に、少し」
平野はそう言って、自分の頬に指を当ててみせた。
堀田は何とはなしに手元へ目を落とした。痩せて尖った指の節は相変わらずだったが、爪には昨日よりいくらか血の色が戻っている。
試すように、ゆっくりと息を吸ってみた。
胸の奥には、いつもの引っかかるような重さが残っている。それでも息は途切れず、咳が込み上げてくることもなかった。
「……あれほど眠れなんだものが、よその屋敷で眠れた」
平野が、黙って聞いている。
「不思議なものですなぁ」
平野は、わずかに目を伏せた。
役宅にいた頃、夜ごと障子の外に控え、主が咳のたびに身を起こす気配を聞いていたのは、この男だった。ひと晩に何度目を覚ましたかまで、誰に聞かずとも知っている。
「薬を」
「こちらです」
平野が、煎じ薬の入った碗を差し出した。昨夜のうちに用意しておいたものを、こちらの台所で温め直させたらしい。堀田は両手で受け取り、湯気の立つ薬を少しずつ口に含んだ。舌に残るのは、もう慣れた苦さだった。
飲み終えた碗を受け取りながら、平野が言った。
「朝のうちに、近衛様のお使いがございました」
堀田は、顔を上げた。
「侍女の方でございました。お加減がよろしければ、昼前に少しだけ、お見舞いに伺いたいと」
平野はそう言った。
昨日、座が退いたあと、姫君とはのちほど話をする約束をしていた。堀田も「承りました」と答えたはずだったが、その直後に激しく咳き込み、そこから先の記憶はひどく曖昧だった。
覚えているのは、慶喜公の声と、慌ただしく行き来する平岡殿の足音。それから、倒れたときに触れた床の冷たさくらいである。
「のちほど」が、結局ひと晩延びた。
「お断りなさいますか」
平野が訊いた。医者から何を言われているのか、この男はよく覚えている。
「いや」
堀田は首を振った。
「お受けすると申し上げよ。……床のままで失礼をいたすが、と」
それから、少し間を置いて付け加えた。
「着替えて坐っておっては、かえってお気遣いをさせる」
平野はしばらく主の顔を見ていたが、やがて承知したように頭を下げた。
「承知いたしました」
立ち上がって障子の外へ出ると、ほどなく廊下から、誰かに口上を伝える声が聞こえてきた。一橋家の者に取り次いでいるのだろう。
堀田は床の上に坐ったまま、朝の光を透かした障子をぼんやりと眺めていた。
思い浮かぶのは、昨日の座のことだった。姫君が持ち出した話のうち、退けられたのは観光丸だけだった。
あのとき姫君は袖の端をつかみ、「諦めまする」と言った。そのあとで、隠そうともせず「くやしゅうございます」と口にした。
――あの御方は、負けたのか。昨夜、床に入る前にも同じことを考えていた。
望んだものを得られなかったのだから、負けたと言えば負けたのだろう。だが、どうにもそれだけではないような気がして、結局答えを出せないまま眠りに落ちた。
そして一夜明けた今も、まだ答えは出ていない。
やがて平野が戻ってきた。手には羽織を一枚持っている。
「せめて、これを」
堀田は何も言わず、平野に任せて肩へ羽織を掛けさせた。
二
侍女の葵が、茶を運んできた。
糸子は、盆の上を見た。宇治の茶が一服。湯呑みが二つ。菓子はない。
「これでよろしゅうございますか」
「ええ。今日は、お茶だけで」
葵は、盆を持ったまま頷いた。
昨日、座が退いたあと、備中守殿が懐紙を口元に当てたのを、糸子は奥正面の座から見ていた。離れていても、紙の端に色がついているのが分かった。
慶喜殿はすぐに平岡殿を呼び、床を延べさせた。そのときの備中守殿の顔色を思い出すと、とても甘いものを勧める気にはなれなかった。
茶は、熱すぎないように淹れさせた。
糸子は、廊下の先に目をやった。
「近藤殿」
「はっ」
廊下の角に控えていた近藤勇が、膝をついた。
「備中守殿のお部屋の前の廊下で、控えていてください。わたくしが中におりますあいだ、どなたもお通ししないように」
「一橋家の方々も、でございますか」
「平岡殿には、わたくしから申し上げてあります。床の様子を見に来られる方がおられましたら、少し待っていただいてください」
「御意」
近藤は、それ以上何も訊かなかった。
葵が、盆を持ち直した。
「葵は、障子の外に。お茶を替えるときだけ、呼びます」
「はい」
水無瀬は離れにいるが、今日は呼ばなかった。昨日の座では御使者として最後まで役目を果たしてくれたものの、これから備中守殿と交わすのは御使者として聞かせる話ではない。
糸子は一人で奥御殿を出ると、表のほうへ向かい、客の間が並ぶ廊下へ折れた。途中、一橋家の者が二人、すれ違いざまに頭を下げたので、軽く会釈を返す。
そのまま歩きながら、糸子は昨日の備中守殿の顔を思い浮かべていた。
弥生二十三日、御用の間で続いた長い座のあいだ、備中守殿は一度も首座を離れなかった。何度か咳が出ても、そのたびに手で制して、最後まで話を止めようとはしなかった。
あの座で話を進めたのは糸子だった。何を出して何を伏せるか、その順まで自分で考え、決めたとおりに話を進めた。
そのあいだ、右後ろに坐る備中守殿の顔色が次第に悪くなり、咳のたびに体力を削られていくのも分かっていた。それでも止めなかった。ここで止めれば、せっかく作った流れが途切れる。
その思いがあったのは確かだが、だからといって、あの人に無理をさせたことまで消えるわけではない。
昨日の顔色が、まだ目に残っている。
だからこそ、本当なら今日は休ませたほうがいいのだろう。それでも、先へ延ばすわけにはいかなかった。備中守殿がまだ一橋上屋敷にいる今日のうちに、どうしても話しておかなければならないことがあった。
部屋の前で、平野縫殿が待っていた。
「近衛様」
「平野殿。お加減はいかがでございますか」
「昨夜は、よくお休みになられておりました」
平野は、そう言った。声に、昨日の夕刻にはなかった張りがあった。
「お床のままで失礼をいたす、と申しております」
「そのほうが、ようございます」
平野が障子を開けた。
堀田は床の上に身を起こし、肩に羽織を掛けたまま、膝の上に両手を置いていた。糸子が部屋へ入ると、その姿勢のまま頭を下げようとした。
「そのままで」
糸子は、先に言った。
堀田は頭を下げかけたものの、体がついてこなかったのか、途中で止めてそのまま礼とした。
糸子が床から少し離れたところに腰を下ろすと、入れ替わるように葵が入ってきた。二人の前に湯呑みを置き、一礼して静かに下がっていく。
障子が閉まるのを待って、平野もその際に膝をついた。
「平野」
堀田が言った。
「下がっておれ」
「……はっ」
平野は主と糸子の顔を順に見てから、一礼して障子の外へ出ていった。
ほどなく廊下で近藤と二言三言交わす声が聞こえ、やがて足音が遠ざかっていく。それも少し先で止まり、あたりは再び静かになった。
部屋の中に、二人だけになった。
糸子は、堀田の顔を見た。
頬はまだこけたままで、目のまわりにも深い影が残っている。それでも、昨日の座で見た顔とは明らかに違っていた。あのときは肌の下から血の気がすっかり失せているように見えたが、今日は頬にほんのわずかながら色が戻っている。
糸子は、自分の顔が少し緩むのが分かった。
「よくお休みになれましたか」
「久しぶりに、朝まで眠り申した」
堀田は、そう言って、少しだけ首を傾けた。
「役宅では、どうにも眠れなんだのが、ここでは眠れた。……不思議なものですなぁ」
「一橋殿の御屋敷の床が、よほどよろしいのでございましょう」
「それとも、昨日の座で、精が尽きたか」
堀田の目元が、わずかに動いた。
糸子は、湯呑みを手で示した。
「お茶を。熱くはいたしておりませぬ」
堀田は湯呑みを手に取り、ゆっくりと一口含んだ。飲み下すまでには少し時間がかかったが、やがて静かに息をつくと、湯呑みを膝の上へ戻し、冷めないように両手で包んだ。
「……昨日のことを、申し上げておかねばなりませぬ」
堀田が言った。
「観光丸のことでござる」
糸子は、黙って聞いていた。
「首座として、出せぬものは出せぬと申し上げた。あの船を御公儀の手から離さぬのは、首座の役目でござる。それに、悔いはござらぬ」
堀田は、そこで一度息を整えた。
「なれど――」
三
なれど…の先を、堀田はすぐに言えなかった。
言うべきことは、昨夜から決めていた。詫びるつもりはない。たとえ姫君を前にしても、首座として口にしたことを自ら詫びるわけにはいかなかった。そこで言葉を翻せば、老中首座の言葉だけではなく、御公儀そのものを軽くしてしまう。
それでも、何も言わずに済ませるつもりはなかった。詫びるのとは別に、どうしても口にしておかなければならないことがある。
「姫君の求めを、わしは首座の口で退けた」
堀田は、湯呑みを見下ろしたまま言った。
「オランダへの信義と申し、御公儀の名では出せぬと申した。わしがそう申したから、周防守が佐賀の話を添えた。わしが先に口を開かなんだら、周防守は黙っておったかもしれぬ」
姫君は、何も言わない。
「姫君は昨日『佐賀へは…』と、そこまで申されて言葉をお止めになった。そして『諦める…』とも申された」
堀田は顔を上げた。
「あの負けに手を貸したのは、わしでござる」
言い終えて、堀田は姫君の顔を見た。
姫君は、きょとんとしていた。
目を少し見開き、首をわずかに傾けている。何を言われたのか分からない…という顔だった。座で見たどの顔とも違った。
「負け……?」
姫君は、そう言った。
「はて、どなたが?」
「……えっ?」
堀田は口を開きかけたまま、言葉を失った。
姫君は、首を少し傾けたまま、黙って堀田を見ている。からかっているわけでも、答えを急かしているわけでもない。その顔には、ただ真っ直ぐに堀田の返事を待つ静けさがあった。
堀田はその視線を受けたまま、やがて膝の上の湯呑みに手を戻し、置き直した。
「……観光丸を、お諦めになった」
「はい?」
「くやしゅうございます…と」
「あぁ!、確かに申しましたね」
姫君は、あっさり頷いた。
「堀田殿。あの船は、わたくしの書付には、はじめから書いてございませなんだ」
堀田は、昨日の座を思い出した。
残りの行を述べ終えたあと、姫君は書付を畳み、懐へ戻した。「それからもう一つ…」と言い出したのであった。
「取れぬことは、初めから分かっておりました」
姫君は言った。
「軍船でございましょう?。オランダの王から御公儀への贈り物でございまする。御公儀が手放されるはずがございませぬ」
「手放されぬものを、最後に、わざと出しました」
「……なぜ?」
「後見職様に、一つ、お勝ちになっていただかねばなりませなんだ」
姫君は、静かに言った。
「旭狼衛は、三百になりました。任命も、御用掛を守る者に限られました。屋敷も、職に付く者のためのものになりました。どれも、後見職様に削っていただいたところでございます。正直に申せば、最初からわたくしが持ち帰りたかったのは、その削られた形のほうでございました」
堀田は、黙って聞いていた。
「なれど、削ったものが、どれもこちらの欲しい形であったと、いずれ後見職様はお気づきになりましょう。そうなったとき、一つも勝っておられなければ、後見職様は、次の座でどこまでも意地をお張りになりましょう」
姫君は呆れたように、ひとつため息をついた。
「そうなってしまうと、めんどくさいこと、この上ない」
「め、めんどくさい……」
「……あのお方は、そういう方にございます」
「それで、観光丸を……?」
「一つくらい、はっきりとお勝ちになったものがあれば、あとでこちらの思惑にお気づきになっても、まだお顔が立ちましょう」
姫君は、そこで少しだけ目を伏せた。
「悔しがって見せたのも、そのためでございます」
堀田は、膝の上の湯呑みを見た。茶の面が、わずかに揺れている。自分の手が震えていた。
昨日、右後ろから見ていた姫君の姿が、目の前に戻ってきた。
袖の端をつかんだ指には力が入り、声はわずかに低くなった。重ねた手も、座に入ってきたときより浅くなっていた。
全部、見ていたつもりだった。だが、見せられていたのではないか。
首座として、姫君の望みを叩き落とした。そう思っていた。けれど実際には、叩き落とさせてもらっていたのかもしれない。
昨日、後見職様の頬の端がわずかに持ち上がったのを、堀田は見た。満足しておられる――そう思った。あの満足も、姫君の帳面に載っていたものだった。
堀田は、昨夜決められなかった問いを思い出した。
姫君は負けたのか。
御公儀が守ったのか。
それとも、引き分けか。
答えは、どれでもなかった。
姫君は、負けてなどおられなかった。負けたと思わされていたのは、座のこちら側だったのだ。堀田は、自分が姫君の負けに手を貸したのだと思い込み、そのことを一晩、胸に抱えて眠った。
堀田の肩が、揺れかけた。
「くっくっくっくっ……」
咳ではなかった。胸の底から、笑いがせり上がってきた。堀田は袖で口元を覆ったまま、しばらく肩を震わせていた。
「……堀田殿?」
姫君が、腰を浮かしかけた。
堀田は、空いたほうの手を上げて、それを制した。
「いや……いや、大事ござらぬ」
袖を下ろすと、目尻に涙が滲んでいた。笑いの涙である。
「わしは、一晩、姫君の負けを抱えて寝たのでござるぞ」
「それは……」
姫君は、浮かしかけた腰を戻し、膝の上で手を重ねた。
「迷惑をかけました」
「詫びられることではござらぬ」
堀田は湯呑みを取り、一口飲んだ。温かな茶が、ゆっくりと喉を落ちていく。
四
堀田は、湯呑みを膝に戻した。
笑いが引いていくと、別の覚えが浮かんできた。
ハリスとの談判が行われた、あの春のことである。
そのとき、堀田は談判の座にはいなかった。本丸の御用部屋で岩瀬らの戻りを待ち、戻ってきた岩瀬から、座の様子を順に聞いた。
改正の条項。金銀の比率。相互の取り決め。阿片の禁輸。
御公儀が欲しながら、どこかで諦めかけていたものが、一人の姫君の言葉で条約の中に入っていた。
その中に、イギリスの話があった。
イギリスが、アメリカより有利な条件を差し出す用意をしているという。姫君は「聞いたところによれば」と前置きして、それを語った。ハリスは、そこで崩れたという。
そんな話を、御公儀は一度も耳にしていない。
嘘だ、と堀田は思った。
だが、すぐに考えを改めた。姫君は聞いたのではない。ハリスに、そう思わせたのだ。
国と国との談判で、嘘が通った。
あの晩、背筋を走った冷たいものを、堀田はいまでも覚えている。
御公儀としてはともかく、自分一人は、この姫君に逆らうまい。
そう決めた晩だった。
談判が退いたあと、御簾の内から「おほほほほ」と笑う声が聞こえたことも、岩瀬は伝えてきた。
堀田は、目の前の姫君を見た。姫君は膝の上で手を重ね、何も言わずに堀田の言葉を待っている。
「……あの折」
堀田は言った。
「ハリス殿に、イギリスの話をなさいましたな」
姫君の目が、ほんのわずかに動いた。
「イギリスが、メリケンより有利な条件を差し出す用意がある、と」
「……はて、そうでございましたかしら?」
「あれも、同じでござろう」
堀田は、ゆっくりと言った。
「……昨日の観光丸も、同じ手でござる。わしにはそう思えました」
姫君は、すぐには答えなかった。
堀田は、ふと目を障子のほうへ向けた。向こうには、葵が控えている。すぐに視線を戻すと、堀田の口元に、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。
「まぁ……、か弱き女子がしたことでございます。ご愛嬌でござりましょう」
「殿方には、それを笑って許せるだけの度量もございませんと……」
堀田は、こらえきれなかった。
「はっ、はっ、はっ、はっ、はっ」
堀田は声を立てて笑った。だが、笑うほどに胸の奥が引きつり、やがて笑いは咳に変わった。袖で口元を覆い、堀田は苦しげに背を丸めた。
姫君が、腰を浮かせた。
「堀田殿」
堀田は片手を上げた。昨日、御用の間で制したときと同じ仕草だった。姫君は浮かせかけた腰を、そのまま止めた。
咳は三つ、四つと続いたが、やがて収まった。
堀田は袖を下ろし、懐紙に手を伸ばしかけて止めた。今日は、口の中に鉄の味がしなかった。
「……大事ござらぬ」
息を整えながら、堀田は言った。
「ご愛嬌で、ハリス殿は条約を書き直し、後見職様は観光丸を抱えて満足なさったのですな」
「書き直されたのは、ハリス殿のお考えでございます」
「左様でござろうとも」
障子の外で、衣擦れの音がした。葵が身じろいだのだろう。主の客が咳き込めば、侍女が膝を浮かせるのは珍しいことではない。
中の話までは聞こえていないはずだった。仮に聞こえたとしても、イギリスとハリスという名だけで、何の話をしているのかまでは分からない。
堀田は湯呑みを取り上げた。茶は、もうぬるくなっていた。
「後見職様には、申し上げませぬ」
その言葉に、姫君が顔を上げた。
「後見職様は、観光丸のことだけは勝ったと思うておられる。それを、わしの口から崩すことはいたさぬ」
「堀田殿ならば、そう言っていただけると思い、正直にお話しいたしました」
「……わしも姫君には、読まれていたのですな」
「すみませぬ……」
姫君は、素直に頭を下げた。
堀田は、その姿を黙って見ていた。
恐ろしい御方だと、ずっと思ってきた。霜月の御用部屋でも、そう口にした。
いまも、恐ろしい。
けれど、胸の内にあるものは、あの頃の恐れとは少し違っていた。
五
「葵」
姫君が、障子のほうへ声をかけた。
「はい」
「お茶を替えてください」
障子が開き、葵が新しい湯呑みを二つ載せた盆を手に入ってきた。ぬるくなった茶を下げ、代わりの湯呑みを二人の前へ置いていく。
堀田の前に置くときだけ、葵はちらりとその顔を見た。先ほど咳き込んだあとの顔色を確かめたのだろう。
だが、何も言わなかった。そのまま静かに一礼して下がり、障子を閉めた。
新しい茶は、さっきより少し熱かった。
堀田は、湯呑みを両手で包んだ。手のひらが、温まっていく。
「師走の京は、冷えましたな」
堀田は言った。
姫君が、少し首を傾げた。それから、何のことか分かったという顔をした。
「安政三年の、でございますか」
「左様。広橋権中納言殿を通じて、近衛家を訪ねた朝でござる」
あの朝のことは、よく覚えている。
御所への参内を前に、少しばかり時が取れた。広橋殿から近衛家に対話の用意があると聞かされていたこともあり、堀田は供を門外に残し、一人で邸内へ入った。
通された座敷の奥には、御簾が下りていた。
やがて左大臣様から、御簾の内には娘も同席していると告げられ、堀田は少しばかり困った。五摂家の姫君ともなれば、何か礼法の上で同席されることもあるのだろう。そう考え、ただ黙って坐っておられるものと思っていた。
「御簾の内から、まだ幼いお声がした」
堀田は言った。
「『近衛家の糸子でございます』と名乗られた。それから、勅許を拒むか認めるかではなく、条件を付けての御許しに変えられるやもしれぬ、と申された」
「覚えておいででございますか」
「忘れられるものではござらぬ」
堀田は、茶を一口飲んだ。
「はじめは、朝廷の御威光で御公儀を脅すおつもりかと思うた。京から戻って、あれこれ調べさせた。調べるうちに、そうではないと分かった。姫君は、本気でこの国を守る算段をしておられた」
姫君は、何も言わずに聞いている。
「わしがあの年頃のとき、国の先のことなど、考えてもおらなんだ」
「堀田殿があの年頃のときには、まだ黒船が来ておりませなんだ」
「来ておらなんだら、考えずに済んだと?」
「はい」
姫君は、ためらわずに答えた。
堀田は、また少し笑った。今度は咳にならなかった。
「あの朝、知らせの道の話もなされた。御所のお考えを、広橋家を通じて、前もってわしに知らせる道を作りたいと」
「父が、喜びました。家の役目として、自然な形になると」
「あの道で、ずいぶん助けられた」
堀田は、湯呑みを膝に置いた。
「それから、松陰のことです」
姫君の手が、膝の上でわずかに動いた。
「姫君から、短い書状が届いた。頼み事は、一行も書かれておらなんだ。松陰は、生かして役目を変えれば、長州の若い者たちを穏やかなほうへ導ける。あの者は、まだ国の役に立つ。書かれていたのは、それだけでござった」
「……覚えております」
「わしは、あれを読んで、罪状を調べ直させた」
堀田は、天井のほうへ目をやった。
「頼まれれば、断ることもできる。だが、何も頼まず材料だけを置いていかれると、あとはわしが決めるしかない。わしが拾うと分かっておられたのであろう……」
堀田は、姫君のほうへ目を戻した。
「それを、姫君は見抜いておられた」
姫君は、少しだけ笑った。
「堀田殿は、置けば必ず拾ってくださる御方でございましたから」
「末恐ろしい姫君様だと、あのとき独り言を申した」
「お聞きしとうございませなんだ」
「はっ、はっ、はっ、いまだから申し上げる」
堀田は、湯呑みの縁を指でなぞった。
昔の話をすると、胸の奥が軽くなる気がした。役宅の寝所では、昔のことを思い出すと、決まって今のことにつながった。今の御公儀のこと、今の自分の体のこと。ここでは、昔の話が昔の話のまま、湯呑みの湯気の中に浮かんでいる。
昨日の座が始まったときのことを、堀田は思い出した。
御簾が巻き上げられ、座の顔ぶれが見えたとき、姫君は堀田の姿に気づいて、ほんの一瞬、目を見開いた。それから、こちらの身体を気遣うように言った。
『備中守殿のお体は、一つにございます』と。
観光丸を諦めたときに見せた表情は、相手に見せるためのものだった。
だが、あのときは違った。
なぜそう思うのかと問われても、うまく説明はできない。それでも堀田は、姫君が一瞬だけ目を見開いたのを、首座の席から確かに見ていた。
あれは、あらかじめ用意していた顔ではない。
堀田には、そう思えた。
だが、そのことは口に出さなかった。
六
茶が、半分ほどになった。
堀田は、湯呑みを膝の上で回した。
この先、こうして姫君と話す折が、またあるかどうかは分からない。少なくとも、首座でいるうちにこの屋敷へ上がることは、もうないだろう。
西の丸下へ戻れば、待っているのは医者の言いつけと、眠れぬまま障子が青くなっていくのを眺める夜である。
聞いておきたいことが、一つあった。
「姫君」
堀田は、まっすぐに言った。
「この国を、どこへ持っていかれるおつもりか」
姫君は、すぐには答えなかった。
湯呑みを膝の上に置き、両手を重ねた。目を一度伏せ、それから堀田を見た。
「いま、メリケンでは、国内で争うております」
姫君は言った。
「北と南に分かれて、同じ国の者どうしが戦をしております。そのようなことを、この国では起こさせませぬ。異国の勝手にも、させませぬ」
声は、座で話すときと同じ高さだった。
「異国と、対等に付き合うことのできる国を、御門様を中心にお作りできれば…と」
堀田は、しばらく黙っていた。
メリケンの内戦については、御公儀にも知らせが届いている。長崎や横浜から入る異国の新聞によれば、戦が始まってすでに二年になる。
それでも堀田にとっては、海の向こうの遠い話だった。
「国内で争い……」
堀田は、言葉を確かめるように繰り返した。
「そのようなことが、我が日ノ本でも起こり得ると、本当にお考えか?」
「わたくしは、そうなる見込みはあると考えておりまする」
姫君は、言い切らなかった。それでも、目は逸らさなかった。
堀田は、いつの頃からか城内で耳にするようになった話を思い出した。
異国の大国は、離れた小国どうしをけしかけて戦わせ、双方に鉄砲や弾薬を売りつけて肥え太る。そういうやり口が、いずれこの国にも及びかねない。誰が言い出したのかは分からないまま、その話は江戸の街にも流れていた。
「代理の戦…でしたかな」
堀田が言うと、姫君の眉が、わずかに上がった。
「やはり、堀田殿のお耳にも届いておりましたか」
「はい」
堀田は、頷いた。
「江戸の街で、そのような話しが出回っているのを、聞いておりました」
そう言ってから、堀田は姫君の顔を見た。
「わしは、出どころは姫君あたりでござろうと睨んでおりました」
姫君は、答えなかった。
肯くでもなく、首を振るでもなく、ただ湯呑みに手を添えたまま、堀田を見ていた。
堀田は、それ以上訊かなかった。
姫君は、必要なことだけを口にした。あとは、こちらに委ねるつもりなのだろう。
「もし、争うことになれば……」
姫君が言った。
「諸藩と、幕府の戦になりましょう」
部屋の中が、静かになった。
障子の向こうには、葵がじっと控えている気配があった。
老中首座を前にして、幕府と諸藩が戦になるかもしれないと言い切ったのだ。本来なら、たしなめてもおかしくない。
だが堀田には、その気が起こらなかった。今さら咎めたところで、口にされた言葉が消えるわけでもない。
何より、姫君が言ったことは、堀田自身も病の床で幾度となく考えていた。
御公儀の力は、確実に衰えている。その一方で、諸藩の中には御公儀を通さず、独自に異国との商いを求める動きも出てきている。そこへ異国が目をつけ、特定の藩に力を貸すようになればどうなるか。
ある国は藩につき、別の国は御公儀につく。
そうなったとき、日本人同士の争いだけでは済まなくなる。この国の戦が、異国どうしの算盤で始まることになる。その戦を、自分は見ることはないだろう。
堀田は、そう思った。口には出さなかった。
「御公儀は」
堀田は言った。
「そのとき、どちらに立てばよろしいか」
姫君は、少しだけ首を振った。
「どちらにも、立たせとうございませぬ」
それだけ言った。
堀田は、その言葉を、しばらく胸の中で転がしていた。
昨日、姫君が御公儀から持ち帰ったものを、堀田は一つずつ思い浮かべた。そのどれもが、御公儀を倒すための札ではない。御公儀の手の外にも、異国と話せる座を一つ作る。そのために必要なものだった。
堀田は、そこで考えるのをやめた。
この先がどうなるにせよ、自分が最後まで見届けることはないだろう。その役目を担うのは、周防守であり、後見職様であり、今はまだ名も知らぬ若い者たちである。
「……承った」
堀田は、それだけ言った。
七
日が、障子の上のほうへ移っていた。
障子に落ちる桟の影が、先ほどより短くなっていた。廊下の先から、一橋家の者が誰かを呼ぶ声が聞こえたが、すぐに途切れた。近藤が気を利かせて、声を抑えさせたのかもしれない。
姫君が、湯呑みを盆に戻した。
「長居をいたしました」
「いや」
堀田は、首を振った。
「わしのほうこそ、床のままで」
「お床のままでなければ、伺いませなんだ」
姫君は、そう言って、膝の上で手を重ね直した。
「堀田殿は、今日、西の丸下へお戻りになりますか」
「昼過ぎに、乗物を回させる。平野が、医者を役宅に呼んでおると申しておった」
「それが、ようございます」
姫君は、少しだけ間を置いた。
「昨日の座は、堀田殿がおられなければ、あの形にはなりませなんだ」
「わしは、観光丸を退けただけでござる」
「伝奏屋敷の例をお出しになったのは、備中守殿でございます」
堀田は、黙った。
出せるものなら、どうすれば出せるかを考える。出せぬものなら、その理由を御公儀の体面が立つ言葉で申し上げる。
座の前の晩に決めたとおりにした。それだけだった。
「首座の役目でござる」
堀田は、それだけ言った。
姫君は、頷いた。
それから、居住まいを正した。
「堀田殿。お戻りになりましたら、書状を出しまする」
堀田は、姫君を見た。
「周防守殿と詰めましたことを、順にお知らせいたします。お読みになれる折に、お読みくださいまし」
「……首座の手を離れることも、ござろうが」
「首座でなくとも、堀田殿には、お知らせしとうございます」
姫君は、言い直さなかった。
堀田は、湯呑みの中を見下ろした。茶は、底のほうに少しだけ残っている。
「わしも、返事を書きましょう」
姫君の目が、少し動いた。
「わしのほうからは、知らせることは、もうあまりござらぬかもしれぬ。役宅の庭の様子くらいでござる。それでも、書きましょう」
「お待ちしております」
姫君は、そう言った。
堀田は黙って残りの茶を飲み干し、湯呑みを膝の脇へ置いた。それを見届けると、姫君は両手をつき、静かに頭を下げた。
「では、また」
頭を上げて、姫君は言った。
「また、こうして笑い合いましょう」
堀田は、すぐには答えなかった。
「また」の先に、あと何度があるのか。そこまで考えて、数えるのをやめた。
目を上げると、姫君は笑っていた。座で見せる顔ではない。その笑みを見て、堀田はあの師走の朝、御簾の内から聞こえた幼い声を思い出した。
姫君も、分かっておられるのだろう。
昨日、懐紙についた色を、奥の座から見ておられた。今朝は少し顔色がよいことも、そのわずかな違いが先のことまで約束するものではないことも。
それでも、姫君は「また」と言った。
「……ぜひ」
堀田は笑って頭を下げ、そのまま少し長く、顔を上げずにいた。
やがて姫君が立ち上がる衣擦れの音がして、障子が開く。外に控えていた葵が膝をつき、主を迎えた。
障子が閉まる前に、堀田はようやく顔を上げた。
姫君は、もう背を向けていた。
*
近藤勇は、廊下の角に立っていた。
姫様が備中守様の部屋へ入られてから、もう一刻近くになる。その間に、一橋家の小姓が医者の伝言を二度持ってきたが、そのたびに「少しお待ちいただきたい」と言って帰した。初めは不満そうな顔をされたものの、平岡様から言いつけられていると伝えると、それ以上は何も言わずに引き下がった。
途中、一度だけ、部屋の中から備中守様の笑い声が聞こえた。
珍しいこともあるものだと思った、そのすぐあとだった。笑い声が咳に変わり、近藤は思わず半歩踏み出しかけた。だが、中から姫様の声が聞こえたので、その場にとどまった。ほどなく咳も収まった。
何を話しておられるのかは、知らない。いや、知らなくてよいのだろう。
姫様から言われたのは、どなたも通すなということだけだった。それを守るのが、自分の役目である。
やがて、障子の開く音がした。
近藤が角から様子をうかがうと、姫様が部屋から出てこられ、そのあとを葵が続いた。入れ替わるように、廊下の先から平野様が急ぎ足で戻ってくる。姫様に深く頭を下げると、そのまま部屋へ入り、葵が静かに障子を閉めた。
姫様は、こちらへ向かって廊下を歩いてこられた。
近藤が角の陰で膝をつこうとしたとき、その少し手前で、姫様の足が止まった。
客の間の一つが空いており、襖がわずかに開いていた。姫様はそのまま中へ入られ、葵もあとに続く。襖は、葵の手で半分ほど閉められた。
近藤は、膝をつきかけた姿勢のまま、動かなかった。
半分開いた襖の向こうに、姫様の背が見えている。
姫様は、空いた座敷の真ん中に坐っておられた。膝の上で両手を重ね、背筋をまっすぐに伸ばしている。その姿は、昨日の座で見たときと何も変わらない。何事もなかったように、いつもの姫様の背だった。
その背が、一度だけ揺れた。
声は、しなかった。
姫様の頭が少し前に傾いた。重ねた手の甲に何かが落ちるのが、近藤のところからも見えた。それが涙だと分かるまでに、さほど時間はかからなかった。
葵は、姫様の斜め後ろに坐っていた。何も言わず、ただ目を伏せている。手を伸ばそうともしない。ただ、そこにいる。
近藤は、姫様が涙を流されるところを、これまでにも何度か見ていた。
けれど、姫様が泣かれるときは、いつも何かがあった。胸の内に抱えたものが、どうしても抑えきれなくなったときだけだった。
今も、そうなのだろう。
近藤には、その理由を訊くことはできない。ただ、さっきまで備中守様と二人で話しておられたことを思えば、何となく分かるような気がした。
備中守様は、さっき笑っておられた。
それを思うと、近藤は、それ以上は見てはいけない気がした。
膝を起こして立ち上がると、角から一歩下がった。そのまま廊下の先へ戻り、空いた座敷の襖に背を向けて立つ。誰かが来れば、ここで止めればよい。それが今の自分の役目だった。
ほどなくして、廊下の向こうから一橋家の小姓が歩いてくるのが見えた。
近藤は、手を上げた。
その者を、そこで止めた。
八
備中守殿の乗物が帰っていったのは、あの日の昼過ぎだった。
それから五日が過ぎた。庭の桜はいつの間にか葉ばかりになり、代わるように、楓の若葉が日ごとに色を濃くしている。
客の間に延べられていた床も、その日のうちに畳まれた。今ではもう誰も使っておらず、障子を開ければ、庭から葉の擦れ合う音が聞こえてくるだけだった。
糸子も、いつもの暮らしに戻っていた。
朝になると、葵が淹れた茶を一服飲んでから文机に向かう。会所から届いた帳に目を通し、京への返書を書く。その合間に、西の丸下へも書状を一通したためた。
板倉周防守勝静が一橋上屋敷へ来たのは、昼八つの少し前である。
奥御殿の座敷に、糸子は文机を出させていた。机の上には、帳面が三冊、切絵図が一枚、書付の写しが一枚置かれている。葵が茶を置いて下がると、周防守は膝の前に自分の帳面を置いた。
「本日は、まず入口のところを決めさせていただければと存じます」
「わたくしも、そのつもりでございます」
糸子は、切絵図を周防守のほうへ向けた。
「まず、屋敷でございます」
浜町の区画に、善次郎が朱で囲いを入れてある。大川に面した一角で、舟着場と荷揚場がある。
「一万五千坪。長屋が八棟、蔵が十。この区画で、お願い申し上げます」
周防守は、切絵図をしばらく見た。
「この区画につきましては、某のほうで当たっております。替地のことも、御公儀で手配するよう取り計らいましょう」
「替地の先は、お任せいたします」
「かしこまりました」
周防守が、帳面に一行書いた。
「門の構えはいかがいたしましょう」
「天朝外語御用掛の屋敷として、表門を一つ。大名屋敷の格は求めませぬ」
「伝奏屋敷の類、と考えてよろしゅうございますか」
「はい」
周防守の筆が、また動いた。
「次に、名簿についてでございますが」
糸子は、書付の写しを指で示した。
「旭狼衛のうち、武士として届け出る者は、天朝外語御用掛を守護する者に限ります。名を記した帳面を、毎年、正月に御公儀へお届けいたします」
「届け先につきましては、いかがいたしましょう」
「周防守殿に、お決めいただきとうございます」
「承知いたしました。こちらで届け先を定めましたら、改めてお知らせ申し上げます」
「手配をお願いいたします」
周防守は、糸子の書付の写しを手に取り、自分の帳面に写した。写す手に、迷いがない。
「技師の件はいかがいたしましょう」
「外国奉行へ、お回しくださいまし」
糸子は、帳面の一冊を開いた。
「英国から技師が参りましたら、居留地から十里の外へ出ます。行き先は、生糸の産地の村々。行き先と日数を、その都度、外国奉行と神奈川奉行へ届けます。届けの形は、外国奉行のお決めになる形に合わせます」
「人数は、まだ分からぬと」
「英国の本国の返事しだいでございます。分かりましたら、すぐにお知らせいたします」
周防守が頷いた。
「洋書調所の写しは、調所の頭取へ。長崎の製鉄所は、長崎奉行へ。関所の公用の通行は、道中奉行へ。窓口は、この三つでよろしゅうございますか」
「異存はございませぬ」
「では、その三つについては、こちらで手配いたしましょう。書付も、某の名で出しておきます。十日ほど見ていただければ、届くかと存じます」
「有り難く存じます」
糸子は、帳面を閉じた。
周防守が、顔を上げた。
「運上の額につきましては」
「それは、周防守殿の座で、と伺っておりました」
「はい。神奈川の運上所の帳を、いま写させております。写しが揃うまで、もう少しかかりましょう。額につきましては、次の座でお願いできればと存じます」
「承知いたしました」
糸子は、それ以上押さなかった。
周防守は、帳面をめくり、今日決めたことを順に指でたどった。屋敷、名簿、技師、三つの窓口。運上は持ち越しである。
「半刻で、ここまで決まりました」
「周防守殿が、お決めくださいましたので」
「いえ。決められたのは、姫君でございます。某は、それを帳面に移したまでのこと」
周防守は、帳面を閉じた。
それから、ふと思い出したように言った。
「そういえば、備中守殿は、あれから咳が少し収まったと、平野殿が申しておりました」
糸子の手が、文机の上で止まった。
「……左様でございますか」
「姫君から書状が届いたと。床の上で、二度読まれたそうでございます」
周防守は、それだけ言った。それ以上は、何も言わなかった。
糸子は、止めていた手を、静かに帳面の上へ戻した。
「次の座は、いつにいたしましょう」
「運上の写しが揃い次第、お願いできればと存じます。……卯月の初めには、間に合うかと」
「では、卯月の初めに」
周防守が、帳面を懐に納めた。
「その折には、もう少し、数の多い話になろうかと存じます」
「はい。わたくしも、そのつもりでおります」
周防守は、糸子の顔を一度見た。何か言いかけたように口を開きかけたが、結局は何も言わず、頭を下げると、そのまま座敷を出ていった。
廊下を遠ざかっていく足音が、次第に小さくなっていく。
糸子はしばらく動かず、文机の上の切絵図へ目を落とした。大川に面した一角には、善次郎の朱が入っている。まだ決まったわけではない。それでも、そこへ目を向ければ、これから始まることが少しずつ形になって見えた。
机の端には、書きかけの書状が一枚、伏せてある。宛名は西の丸下。
糸子はその書状を表に返し、静かに筆を取った。
第二百四十三話 了
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