第二百四十二話「糸子のお嫁入り編―御用の間④」
一
「くやしゅうございます」という声は、慶喜の耳にも届いていた。
ほとんど声になっていなかった。正面の姫君の口が小さく動き、その形のまま、言葉が膝の上へ落ちた。慶喜の座からは、それが聞こえた。
姫君は、目を伏せている。
膝の上で重ねた手が、座に入ってきたときより少し浅い。さっきまで左の袖の端をつかんでいた右の手が、いまはもう一方の手の上に置かれている。
慶喜は、膝の上の扇を指先で撫でた。
観光丸は、守った。「諦めまする」と姫君の口から出たとき、慶喜は、この座で初めて一つ取り返したと思った。
座敷は静かだった。
障子越しの光はいつのまにか畳の目を斜めに渡り、姫君の膝の手前で白く切れている。庭のどこかで、鳥が一声だけ鳴いてやんだ。誰も、次の言葉を急がなかった。
慶喜は、座に入ってから初めて、背に力を入れずに坐っている自分に気づいた。肩衣の肩が、いつのまにか下がっている。扇を握る指も、握ってはいない。
今朝、謀られぬと決めた。そのとおりになった、と慶喜は思った。
右の後ろで、備中守が一つ咳をした。袖で口元を押さえた音がして、それからまた浅い息に戻った。左の後ろの越前殿は、扇を閉じたまま動かない。周防守の気配も、止まっている。
背後の襖の際で、平岡が身じろいだ。
慶喜は、振り返らなかった。
この姫君が負けるのを、慶喜は初めて見た。その姫君が、悔しさをこぼした。
その声を聞いたとき、胸の底に、小さな棘のようなものが引っかかった。
目の前で目を伏せているのは、いずれ御所の奥に坐る儲君である。その御方を、いま自分が悔しがらせている。
二十日にはあれほど震えていたというのに、三日後には、その御方の負けた顔を見て背を緩めている。
慶喜は、その棘を、扇の先で払うように考えを先へ進めた。座の上の勝ち負けは、座の上のことである。御公儀の名で守るべきものを守った。それを恥じる筋はない。
棘は、払っても、どこかに残った。
改めて量り、借りは返す。そう決めたのは自分である。観光丸を一つ取ったのなら、そのぶんは別のところで返す。それが筋だった。
どこで、どれほど返すか。
それは、姫君の出方を見てからでよい。五百も任命も、すでに一度退けてある。あとは、どこまで譲るか。その加減はこちらで決めればよい。
慶喜は、正面の姫君の顔を見た。
姫君が、顔を上げた。
伏せがちだった目が上がり、慶喜の顔に止まった。固く結んでいた口元も、わずかに緩んだ。
「……では」
声は、さっきより低かった。
「代わりに…と申し上げてもよろしゅうございますか」
慶喜は、扇を膝の上に立てた。
「代わりに」という言葉は、慶喜の読みどおりに出てきた。思惑どおりに事が運ぶのは、悪い心持ちではない。
「申されよ」
慶喜は、鷹揚に言った。
言ってから、自分の声が、座に入ってきたときより、少し柔らかくなっていることに気がついた。
二
堀田は、後見職様の背を見ていた。
右の後ろから見える後見職様の肩は、さっきより下がっている。声も、柔らかかった。観光丸を守って、後見職様の背からは力が抜けている。
正面の姫君は、膝の上で手を重ね直していた。
「代わりに」と姫君は言った。
堀田は、その言葉を胸のうちで繰り返した。譲ったぶんだけ、別のところで取り返す。
負けた側なら、そう考えるのが自然だった。
御用部屋では、何度も見てきたやり取りである。諸藩の願いを退ければ、留守居役は「では代わりに」と、一段軽い願いを出してくる。
御公儀も、それなら呑める。互いに顔を立てて話を収める、いつものやり方だった。
後見職様は、その一言を待っておられたように、堀田には思えた。
姫君が、口を開いた。
「旭狼衛のことでございます」
後見職様の扇が、膝の上で一度だけ止まった。
「先ほど、五百は呑めぬと仰せでございました」
「左様」
「では、三百ではいかがでございましょう」
堀田は、姫君の顔を見ていた。
三百、という数が、迷いなく出た。
座敷の気配が、一度に止まった。すぐ後ろで周防守の衣擦れがやみ、後見職様の向こうでは、総裁職様の扇が膝の上で動かなくなった。堀田は、自分の吸いかけた息が胸の途中で止まっているのに気づいて、ゆっくりと吐いた。
後見職様の背が、少しだけ前へ出た。
「三百……か」
後見職様は、その数を一度口の中で転がした。
「はい」
後見職様の指が、膝の上で一度だけ動いた。数を数えるときの癖だと、堀田は知っている。
すぐ後ろから、低い声がした。
「数で申し上げてよろしゅうござるか」
周防守である。
後見職様が、小さく頷いた。
「三百ならば、いまの百近い者に二百を足す勘定。江戸と京に分けて詰めるとしても、先ほど拙者が申した町方の伺いは、その数ならば、まだ捌け申す」
周防守の声は、平らだった。
「五百と申した折には、江戸と京にそれだけの人数がおれば、どうしても目の届かぬ者が出る、と申しました。三百ならば、その数も減り申す。組として御公儀の帳面に載れば、町方も、何かあった折にどこの誰へ掛け合えばよいかが分かり申す」
後見職様は、黙って聞いていた。
後見職様の向こうで、総裁職様が扇の先を膝に当てた。
「後見職様」
総裁職様の声だった。
「先ほど、借りは返さねばならぬと仰せになり申した。三百ならば、借りの返し方として、筋は立ち申そう。五百を退けたうえで三百を認めたのであれば、御公儀が言うべきことは言い、返すべきものは返した、と申せまする」
堀田は、総裁職様の顔の半分を見た。
さっきまで曇っていた顔に、少しだけ色が戻っていた。あの苦さを、いま、返し方の筋で埋めようとしておられる。
後見職様は、しばらく黙っておられた。
扇の要が、一度だけ回った。
「三百ならば」
後見職様が言った。
「認めよう。旭狼衛を、組として御公儀が認める。人数は、江戸と京を合わせて三百」
「ありがとう存じます」
姫君は、頭を下げた。
頭を下げたまま、少し間があった。それから顔を上げ、また紙を見ずに言った。
「武士の任命のことでございます」
後見職様の背が、また少しだけ前へ出た。
「先ほどは、近衛の家が召し抱えました者を、と申し上げました。近衛の家が召し抱える者すべて、とは申しませぬ」
姫君は、言葉を区切った。
「天朝外語御用掛の職を守護いたす者に限ります。任じた者の名は、御公儀へ届け出ます」
堀田は、後見職様の背を見ていた。
背も肩も動かず、扇を持つ手も膝の上に置かれたままだった。その静かな横顔を見ていると、何かを胸の内で量っているのが分かる。
御公儀の根に障るのは、公家の家が好きに武士を任じることだと、さっき後見職様は言われた。
職を守る者に限り、名を届ける。
公家の家が好きに任じるのではない。御用掛という職に付いた者だけで、しかも名は御公儀の帳面に載る。
手綱は、御公儀の手にある。
後見職様は、そう量っておられるのだろう。量り終えるまで、背が動かないのだ。
「……それならば」
後見職様が言った。
「御用掛の職を守る者に限り、名を届け出るならば、認めよう」
「ありがたく存じまする」
姫君は、また頭を下げた。
(……通りが、よすぎる)
堀田は、そう思った。首座として、諸藩の願いをいくつも捌いてきた。退けた願いが、角を落として出し直されることはある。
だが、出し直すとなれば、たいてい迷いが混じる。どこまで譲れば通るのか。引きすぎれば取り分が減り、足りなければまた退けられる。その迷いは、言葉の端に出る。
いまの二つには、それがなかった。
堀田は、膝の上の手を重ね直した。
盤面が、変わりはじめている。観光丸を一つ取った後見職様は、返す筋を探しておられた。そこへ、返しやすい形のものが、二つ続けて出てきたのである。
堀田は、正面の姫君の顔を見た。
姫君の顔は、悔しさをこぼしたときと、ほとんど変わらなかった。目元に、まだ少し影がある。口元は結ばれている。
その顔のまま、二つが通った。
三
姫君が次の行を口にするより先に、後見職様が口を開いた。
「屋敷は、先ほど考えおくと申した」
後見職様の声は、落ち着いていた。
「考えた。天朝外語御用掛の職に付く屋敷として、認める。御公儀が朝廷の御使者のために構えてきた伝奏屋敷の類と、備中守が申したとおりじゃ。公家の御方に大名屋敷を下すのとは、筋が違う」
自分の名が出ると、堀田はわずかに頭を下げた。後見職様の背に向けた、ほとんど無意識の一礼だった。
「浜町のことは、如何いたしましょう」
後見職様が言いかけたところで、すぐ後ろから声がした。
「某が、当たり申す」
周防守だった。
「浜町の御家のことと、替地の手当ては、御公儀で当たり申す。御家への話の通し方も、某から。近衛様のほうからは、御家へは何もなさらずにいていただきとうござる」
「承知いたしました」
姫君は、周防守のほうへ頭を下げた。堀田の肩越しに、周防守を見たのだろう。
「よろしゅうお頼み申します」
後見職様が、扇を膝の上で一度転がした。
堀田は、後見職様の背が、また少し前へ出るのを見た。
「御沙汰の行だが」
後見職様の声が、わずかに硬くなった。先ほど、答えずに残しておかれた行である。
「御沙汰を要する、とは、御用掛を座に呼ぶたびに、京へ伺いを立てよ、ということでありましょうか」
姫君は、黙って聞いていた。
「京まで早飛脚を立てても、往き還りで十日はみねばならぬ。御所で評議があれば、それより延びる。異国との談判は、向こうの都合で日が決まることも多い。急ぎの談判に、間に合わぬ」
後見職様の言うことは、御公儀の御用の理屈だった。
堀田にも、それは分かった。異国の船は、日を選ばずに入ってくる。英国の書記官が書面を持ってきたのも、向こうの都合だった。座を設ける日を、こちらがいつも選べるわけではない。
「御公儀の御用として、それでは回らぬ」
後見職様は、そこまで言って口を閉じた。
座敷に沈黙が落ちたが、姫君はすぐには答えなかった。膝の上で重ねていた手をゆっくりとほどくと、右手を懐へ入れた。
障子の外を、廊下を行く者の足音が近づいてきた。御用の間の手前で歩みが鈍り、やがて聞こえなくなる。誰かが廊下の角で、表の者を押しとどめたのだろう。
座敷の中まで、その静けさが入ってきた。
堀田は、その手を見ていた。
先ほど、姫君はこの行を出したとき、懐に一度だけ手を当てた。だが、何も出さなかった。後見職様は問わなかった。
いま、その手が懐へ入っている。
出てきたのは、畳んだ紙だった。書付とは違う。紙の色が少し違い、畳み方も違う。上書きのある、文の形をしていた。
「父の文に、御門の御言葉が記してございます」
姫君は言った。
後見職様の背が、止まった。
姫君は膝の上で文を広げると、一つの行に指を置き、御使者の座へ顔を向けた。
「水無瀬殿」
「はい」
水無瀬が、膝で進んできた。
姫君は、開いた文を、指で押さえた行が上になるようにして、水無瀬へ差し出した。
「この一行を、お読みくださいまし」
水無瀬は両手で文を受け、額の高さまで押し戴いた。それから膝の前に下ろし、姫君の指が押さえていた行に目を落とした。
水無瀬が、背を伸ばした。
この男が、今日、御返事を受けたときのほかに声を出すのは、初めてだった。
「外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり」
水無瀬の声は、低く、はっきりしていた。
「朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ」
読み終えて、水無瀬は文から目を上げなかった。
座敷の誰も、動かなかった。
水無瀬の声は、もう途切れている。それでも、読み上げられた二つの句が、まだ天井の下に残っているように堀田には思えた。障子に映る庭木の影が、風もないのに、ほんのわずか揺れた。
堀田は、後見職様の背を見ていた。
先ほどまで、そこには何かを量るような張りがあった。それが、ふっと消えている。
後見職様は、ただ黙って姫君の言葉を受けていた。
扇を膝に置き、そのまま両手を揃えた。
朕の言葉。
御門の御言葉である。父君の文に記された、内々の御言葉。書面ではない。宸翰でもない。だが、御門の御言葉であることに変わりはない。
急ぎの談判に間に合わぬ。それは御公儀にとっての都合にすぎない。それを理由に、御門の御言葉を退けるわけにはいかなかった。
「……承った」
後見職様が言った。
それ以上は、何も足されなかった。
その返答を聞きながら、堀田は今日、自分が据えた花押を思い出していた。
『御宸翰の御趣、謹んで承り候。御公儀においては、その御用に障りなきよう相勤め申すべく候』
御返事は、それだけだった。短いほうがよいと思い、直さずに花押を据えた。
あのときは、「その御用」が何を意味するのか、深く考えもしなかった。
いま、御門の御言葉によって、その意味がはっきりした。
『外語御用掛は、朕の言葉を伝える者なり』
その務めを妨げぬと、首座の名で約したのである。
堀田は膝の上の手に目を落とした。昼に据えた花押が、いまになって重かった。
水無瀬が文を畳み、両手で姫君へ返すと、姫君はそれを受け取り、静かに懐へ収めた。
文は、渡さなかった。
後見職様にも、総裁職様にも、手渡されることはなかった。読み上げられた一行だけが、この座に残った。
水無瀬は、膝で御使者の座へ戻り、また目を伏せた。
後見職様の向こうで、総裁職様が、扇を膝の上に置いたまま動かなかった。総裁職様にも、いまの一行は聞こえている。御門の御言葉に、政事総裁職が何かを申し添えることはできない。
すぐ後ろの周防守も、黙っていた。膝の上の指が、止まっている気配がした。数の人である周防守にも、この一行は数にならない。
堀田は、姫君の懐に目をやった。
この座に着いたときから、あの文はそこにあった。御返事を受けるときも、英国の件を話すときも、暮れの件を並べるときも、姫君は一度も出さなかった。先ほど御沙汰の行を示すために懐へ手を入れたときも、文はそのままだった。
慶喜が御公儀の御用を理由に話を進めるのを、姫君は待っていたのである。理屈が出揃ったところで、ようやく文を出した。
堀田は、その手際に息を呑んだ。
四
「残りを、短く申し上げます」
姫君の声は、くやしゅうございますと言ったときより、少しだけ元の高さに戻っていた。
堀田は、後見職様の背を見ていた。
御沙汰の行で、御公儀の御用という理屈は、御門の御言葉に退けられた。ここで同じ理屈を残りの小さな行にまで持ち出し、一つずつ渋れば、さっき姫君に並べ直された「呑めぬ、考えおく、ならぬ」という姿へ、御公儀を戻すことになる。
それに、返すと言ったのは後見職様御自身である。観光丸を守ったぶん、ほかで返す。そう口にされた以上、残りの行まで拒む理由はない。
英国の件を話したときから、御公儀の根に手の届かぬものばかりだと見ておられたのだろう。しかも、額と細目は周防守の座へ回る。ここで認めたところで、まだ何一つ渡したことにはならない。
小さなものは、小さく通す。
後見職様は、そう決めて坐っておられるように、堀田には見えた。
「商務語学所を広げること」
「認める」
後見職様は、すぐに答えた。
「人と場所と掛かりは、周防守と詰められよ」
「はい」
すぐ後ろで、周防守が短く応えた。
「承り申した」
「技師が十里の外へ出る、お許し」
「先ほど申したとおり、外国奉行へ申し付ける。数と行き先が決まれば、周防守から神奈川奉行へも下ろさせる」
「ありがたく存じまする」
姫君は、紙を見ずに続けた。
「洋書調所の書物を、写させていただくこと」
「認める」
「長崎製鉄所を、使わせていただくこと」
「認める。ただし、長崎奉行の差配の内で」
「はい」
「関所を、公用で通る許し」
「認める。通行の印は、周防守から出させる」
後見職様の答えは、短かった。量っていないのではない。量る的を、もう細目から外しておられるのだと、堀田には見えた。
「認める」と同じ声が続くたびに、座敷の空気が少しずつ軽くなっていくのが分かった。軽くなるほど、堀田の胸の奥では、別の重みが増していった。
一つ認めるごとに、周防守の帳面に一行ずつ載るものがある。その一行が、いま、量られずに積まれていく。
「天朝物産会所の商いに、御公儀が口を出されぬこと」
「認める」
後見職様がそう言ったところで、すぐ後ろから声がした。
「一つだけ、添えてよろしゅうござるか」
周防守だった。
「申せ」
「会所の商いに口を出さぬことは、承り申した。ただ、条約にかかわること、運上の掛かりにかかわることは、御公儀の御用でござる。そこだけは、別としていただきとうござる」
姫君は、周防守のほうへ顔を向けた。
「はい。異国との条約と運上の掛かり、それに咎人のことは、御公儀にお残しいたします」
周防守は、それ以上は言わなかった。
堀田は、姫君の答えの速さに少しだけ目を細めた。条約と運上、と周防守は言った。姫君は、そこに咎人を加えて返した。咎人のことまでは、周防守は言っていない。姫君のほうから、一つ足して返した。
足した一つは、御公儀に残すものだった。
「最後に、毎年の掛かり。それと、異国との御用の費えを、横浜の運上より」
「認める」
後見職様が言った。
すぐ後ろで、周防守が膝を少し動かした。
「横浜の運上より、と申されるは」
周防守の声は、平らだった。
「神奈川の運上所に納まる分のうちから回す形で、よろしゅうござるか」
「はい。それで結構でございます」
「掛かりと費えは、別の帳面にいたしまする」
「はい」
「額は、拙者の座で」
「よろしゅうお頼み申します」
姫君は、周防守のほうへ頭を下げた。
それで、行が尽きた。
堀田は、膝の上の手を見下ろした。指の節が、また白く尖っている。
頭の中で盤面を数え直してみると、観光丸のほかは、すべて通っていた。
堀田は、正面の姫君の顔を見た。
姫君は、膝の上で手を重ね、後見職様を見ていた。目元の影は、まだ少し残っている。口元は、結ばれたままだった。
(やはり、この御方は、一筋縄にはいかぬな……)
堀田は、そう思った。
思ったところで、次のことが胸に浮かんだ。
では、姫君は勝ったのか。
五百は、三百になった。召し抱える者すべては、職を守る者に絞られた。当初の求めには、届いていない。観光丸は、退けられた。
御公儀は、守ったのか。
観光丸は守った。五百も守った。召し抱える者すべてを武士とすることも守った。御公儀の根は、揺らいでいない。
それとも、引き分けか。
御公儀は、言うべきことを言い、返すべきものを返した。総裁職様がそう言った。姫君は、求めたものの多くを持ち帰る。観光丸と、五百のうちの二百と、召し抱える者すべてを置いていく。
堀田は、どれとも決められなかった。
今日の座で、自分は何かを取られたのだろうか。
自分の手を見つめてみても、取られたものは思い当たらなかった。御公儀の名で出せぬものは、出さなかった。
勝ったのか、負けたのか。
問いを立てたまま、堀田は答えを置けずにいた。
これを周防守に渡すのだ、と堀田は思った。
今日の座で決まったことは、みな周防守の帳面に載る。周防守は、それを一つずつ勘定していく。そうして帳面を埋めていけば、今日の座で何が動き、誰がどこまで譲ったのか、その勘定もやがて見えてくる。
知るのは、自分ではなく、周防守である。
五
「よろしいか」
後見職様が、扇を膝の上に立てた。
「本日、認めたものを改めて申す」
後見職様の声は、座に入ってきたときの声に戻っていた。
「旭狼衛は、組として認める。江戸と京を合わせて三百。武士の任命は、天朝外語御用掛の職を守護する者に限り、名を御公儀へ届け出ることとして認める。屋敷は、職に付く屋敷として認める。浜町は周防守が当たる」
後見職様は、そこで少し息を継いだ。
「御沙汰の行は、承った。商務語学所、技師の許し、洋書調所の写し、長崎製鉄所、関所、会所の商い。掛かりと費え。いずれも認める。数の要るものは、周防守と詰められよ」
「承り申した」
周防守の声が、すぐ後ろから届いた。
「ただし、観光丸だけはならぬ」
後見職様は、最後にそれだけ言った。
姫君は、頭を下げなかった。黙って聞いていた。
後見職様の顔が、わずかに左へ動いた。背後の襖の際のほうへ、声を向けたのだろう。
「平岡」
「はっ」
入口のほうから、平岡殿の声がした。
「座が退けたら、周防守へ回すものと、外国奉行へ下ろすもの、神奈川奉行へ下ろすものを、分けておけ。屋敷のことは、まだ誰にも下ろすな」
「はっ」
平岡殿の声は、少しだけ掠れていた。
後見職様が、正面へ向き直った。
「近衛様。以上でよろしいか」
「はい」
姫君は、手をついて、深く頭を下げた。
「今日は、まことにありがたく、かたじけなく存じ奉りました」
頭を上げた姫君の顔を、堀田は見ていた。
勝ち誇る色は、どこにもなかった。くやしさを吐いた顔と、ほとんど変わらない。目元に少し影があり、口元は結ばれている。当初の要求からすれば、少なからずは通った座の終わりに、姫君の表情には、変化は見られなかった。
水無瀬が、御使者の座で頭を下げた。
総裁職様が、扇を膝から取り上げた。周防守が、膝を立てる気配がした。
座が、退けた。
巻き上げた御簾は、紐を掛け金に掛けたまま、柱の脇で動かずにいた。その下の円座には、まだ姫君の坐った跡が残っている。障子越しの光は赤みを帯びはじめ、座に入ったときには白かった畳の目を、斜めに長く染めていた。
堀田は、膝の前に手をついた。
坐ったまま、しばらく動けなかった。
手をついて、腰を上げようとする。足に力が入らない。座に入ってから、どれほど経ったのか。障子越しの光は、もう畳の上でだいぶ傾いている。
「備中守殿」
すぐ後ろで、周防守の声がした。周防守の手が、堀田の肘を下から支えた。
「かたじけない」
堀田は、支えられて、片膝を立てた。
そのとき、正面から声がした。
「堀田殿」
姫君だった。
姫君は、まだ座に坐ったまま、堀田のほうを見ていた。
「のちほど、少しだけお時間をいただけまするか」
堀田は、姫君の顔を見た。
姫君の顔は、さっきと同じだった。ただ、目が、まっすぐこちらを見ていた。
「……承った」
そう答えた途端、胸の奥に張っていたものが、ふっと緩んだ。
座に入ってからずっと、気づかぬうちに力が入っていたのだろう。「承った」と口にしたところで、その力が抜けた。
咳が、出た。
押し戻す間もなかった。一つ、二つ、三つ。袖で口元を押さえ、身を前へ屈めた。周防守の手が、肘から背へ移った。
咳は、止まらなかった。
四つ、五つ。胸の奥がざわつき、息が吸えない。吸おうとすると、また咳が来る。堀田は片膝を立てたまま、畳に片手をついた。
「備中守殿」
周防守の声が、すぐ耳もとで聞こえた。
咳が、少しずつ間遠になった。
堀田は懐紙で口元を拭い、すぐに畳もうとした。その端に、わずかに色が見えた。
周防守の目にも、入ったかもしれない。
「……相済まぬ」
声が、ほとんど出なかった。
正面で、姫君が膝を進めかけていた。総裁職様が、扇を握ったまま、こちらを見ていた。
「備中守」
後見職様の声だった。
堀田は、顔を上げた。後見職様は、半ばこちらへ向き直っておられた。
「今宵は、この屋敷にて休まれよ。乗物で揺られて帰るのは、障りになる」
「……いえ、それには」
「平岡」
後見職様は、堀田の言葉を待たずに、背後へ声を向けた。
「表の奥に、床を延べさせよ。供待ちの平野殿を呼べ。西の丸下へは、こちらから使いを出す」
「はっ」
平岡殿の足音が、廊下へ出ていった。
堀田は、それ以上は申し上げなかった。言葉を続ける力も、もう残っていなかった。
首座が、後見職様の屋敷に泊まる。御公儀の作法から言えば、あまり聞かぬことである。だが、乗物に揺られて西の丸下まで戻れるかと問われれば、堀田にも、戻れるとは言えなかった。
ほどなく、廊下を急ぐ足音が近づいてきた。
敷居の外で、足音が止まった。平野縫殿だった。御用の間の敷居の内へは入らず、外で膝をついている。その目が、周防守に支えられた主の姿を見て、一度だけ大きく開いた。
「殿」
「……縫殿か」
平野は、それ以上何も言わなかった。懐から煎じ薬の包みを出そうとして、ふと手を止めた。
ここは一橋様の御用の間である。主の許しなく、懐の包みを開くことはできない。
堀田は、周防守の手に支えられたまま、畳を見下ろしていた。
まだ、答えは出ていなかった。「のちほど少しだけ」と言われた、その「のちほど」が今日のうちに来るのかどうかも分からない。
だが、それより堀田の胸を占めていたのは、姫君の前で他人の手に支えられている自分の姿だった。
首座として座に着いた身が、いまは周防守の腕にすがり、片膝を立てるのがやっとである。
顔を上げると、姫君の顔が見えた。
姫君は、膝を進めかけたところで止まり、こちらを見ていた。今日、見た姫君の中で、全く違う顔だった。眉が寄り、唇が少し開いている。
この御方が、自分の体を案じている。
交渉の策を取り払った、座の初めに見せたあの生身の顔だった。
六
座が退けて、半刻ほど経った。
慶喜は、書院の上座に一人で坐っていた。
障子は閉めてある。表の御用の間からは、もう何の音も聞こえない。備中守は表の奥の一間に床を延べて休ませ、供待ちにいた平野縫殿をそちらへ通した。
西の丸下へは使いを走らせた。越前殿と周防守は、備中守の様子を見届けてから、それぞれの乗物で帰った。姫君は、水無瀬を伴って奥へ戻っている。
平岡には、下ろす先の仕分けを申しつけてある。指示を終えて戻ってきた平岡が、敷居の外で息を殺して控えている気配だけがあった。
膝の前には、何も置かれていなかった。
日は、もう西の塀の向こうへ落ちかけていた。障子の白さが少しずつ灰色に沈み、床の間の掛物も、どこからどこまでが墨なのか分からなくなっている。灯を入れよと命じれば、すぐに誰かが来るだろう。慶喜は、命じなかった。いまは、明るいところで顔を見られたくなかった。
膝の上の扇を撫でながら、慶喜は暗がりの中で、今日の座の盤面をもう一度なぞり直していた。
「三百」と姫君の口から出たときの、あの無駄のない間隔。
五百を退けられてから観光丸を退けられるまで、姫君は一度も旭狼衛の話をしなかった。「改めて」と言って次の行へ進み、代わりに、と口にしたところで三百を出した。迷いも、言葉の淀みもなかった。
(最初から、あの数を置いていたのだ……)
慶喜は指先を止め、膝の上でそっと拳を握り直した。
五百と言われたとき、自分は迷わず「呑めぬ」と答えた。五百という過剰な数であったからこそ、退けることに何の躊躇もなかった。姫君は、そのこちらの反応すら計算に入れた上で、初手に大きな数を置いたのだ。
退けさせておいてから出された三百は、こちらの手で削り取った数に見えた。削ったという満足感があるからこそ、こちらもその形を返しやすい。そう思い込まされて、そのまま呑んだ。
任命の件も、まったく同じ手口だった。
近衛の家が召し抱える者を、と広く求めて退けさせ、「職を守る者に限り、名を届ける」と条件を絞ってみせた。条件を譲歩されたように見せかけ、その実、最初から欲していた本丸だけを綺麗に切り取っていったのだ。
屋敷の件では備中守に前例を語らせ、御沙汰の行では御公儀の理屈が出揃うのを待って、御門の御言葉を静かに重ねてきた。
「申されよ」と鷹揚に返したとき、自分は勝負の主導権を握っているつもりでいた。返す幅はこちらで決められると高をくくっていた。
だが、その幅の枠組みすら、はじめから向こうの敷いた線の上にあったのだ。
今朝、謀られぬと決めた。出てくる札を一枚ずつ自分の目で確かめ、珠を弾いた。その弾いた珠の数まで、あの姫君には見透かされていた。
「くっ……」
声が、漏れた。
誰もいない暗い書院である。
「あの姫君……」
閉めた障子の向こう、奥御殿の方角へ顔を向ける。
「ようやってくれる」
握りしめた拳が、膝の上で微かに震えた。
二十日の座で震えたときとは違う。あのときは敗北の冷たさが肩までせり上がってきた。いまは、激しい熱が拳の中だけで渦を巻いている。
「……また、謀りおって」
声は低く、暗闇に沈んだ。
慶喜には、自分の顔がどんな形になっているのか分からなかった。
悔しさに胸が焼けるようだった。自分では見抜いたつもりでいながら、相手の手の内で踊らされていたのだから当然だった。
だが、その悔しさの底から突き上げてくるのは、決して暗い屈辱だけではなかった。
これほどの盤面を組み上げ、息もさせずに通してみせたあの手際に対する、狂おしいほどの感嘆。そして何より、そのすべてを呑み込んだ上で「では、次はどうやってこの盤面をひっくり返してやろうか」と、すでに次の手を求め始めている己の血の騒ぎだった。
相手の腹を読み切れば、それで終わるような生易しい相手ではない。どれほど引き剥がしても、その奥にまた別の手が隠されている。だからこそ、もう一度あの正面の座で向き合ってみたいと、心が激しく求めていた。
あの姫君は、いずれ儲君の御方として、御所のいちばん奥に坐る。御公儀はこの先何年も、あるいは何十年も、あの意志と知性に向き合っていかねばならない。
慶喜は、己の胸の底に芽生えたものが、ただの恐れや対抗心にとどまらない、未知の重みを持っていることに気づいていた。
*
平岡は、書院の敷居の外で膝をついていた。
備中守殿の床も、下ろす先の仕分けも済んだ。それを申し上げに来たのである。
障子に手を掛けかけたところで、中から声が聞こえた。
「くっ」
平岡は、手を止めた。
「あの姫君……ようやってくれる」
殿は言われた。
「……また、謀りおって」
障子には、わずかに隙間が空いていた。平岡はそこから殿の横顔を見た。
見たことのない顔だった。
人を量るときの冷ややかな目も、量り終えたときの満足気な目も、今朝の余裕のないお顔も、平岡は知っている。いまの顔は、そのどれとも違っていた。
口の端がわずかに上がり、笑みを湛えているようでありながら、眉は深く寄っている。目は奥御殿の方角を射抜き、膝の上で握りしめた拳には凄まじい力がこもっていた。
悔しがっておられるのは間違いない。だが、それ以上に、何か恐ろしいほどに手応えのある強敵を得た悦びと、次に訪れる勝負を待ち望むような熱が、その側顔から立ち昇っていた。
平岡は、障子に掛けかけた手を膝へ戻した。
廊下は、もう薄暗い。書院の中にも灯は入っていない。殿が灯を呼ばれないのは、いま胸の中で渦巻いているその熱を、誰にも邪魔されたくないからなのだろう。
平岡は息を殺した。膝の下の板が鳴らぬよう、重みを少しずつ踵へ移す。
中から、殿の息が聞こえた。深く吸い、ゆっくりと吐き出している。
霜月の夜、控えの間で殿と二人、算盤を弾いたときの冷徹な姿を平岡は思い出していた。あのときの殿には迷いがなかったが、どこか底の知れない冷たさがあった。
いまの殿には、剥き出しの執念と人間らしい熱があった。
(殿は、この姫君と巡り会ったことで、一皮も二皮もむけていかれるかもしれぬ)
平岡は、そう思った。
思ってから、少しだけ首をすくめた。仕える者が主の器を推し量るような不敬である。
それでも平岡は、障子を開けず、その静かな熱が収まるまで静かに待つことにした。
*
慶喜は、握っていた拳をゆっくりとほどいた。
指の節に残る痛みが、いましがたの座の生々しさを物語っている。
膝の上の扇を取り上げ、暗闇の中でそっと開いた。
観光丸。
それだけは、あの計算し尽くされた姫君の手から、本当に零れ落ちたものだった。「諦めまする」と言いかけたときの、伏せられた目元と、袖をつかんで微かに震えていた指先。
あの一瞬の揺らぎだけは、いかに策を弄する姫君とて、作れるものではなかった。
慶喜は、開いた扇の骨を指先でじっと確かめた。
すべてを謀られ、持っていかれた座の中で、あの姫君の「敗北」という真実の一幕だけが、己の手元に鮮明に残っている。
(……あれだけは、偽りではなかった)
慶喜は静かに扇を閉じ、膝の上に置いた。
胸の底に引っかかっていた小さな棘が、いまは別の確かな手応えへと変わっていた。
慶喜は暗闇の深まった書院で、一つ深く息を吐き出すと、静かに次の刻を待った。
第二百四十二話 了
【今回の第二百三十九話~第二百四十二話、糸子と慶喜の幕府談判について】
「幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【設定資料集】」に、
『【解説】第二百三十九話~第二百四十二話――糸子と慶喜、幕府談判の勝者は誰だったのか?』
を書きました。
旭狼衛の「五百」と「三百」。糸子はなぜ、最初から必要と考えていた三百ではなく、あえて五百を要求したのか。そして慶喜は、どこまで糸子の思惑どおりに動き、どこで踏みとどまったのか。
「借り」の使い方や要求を出す順番、談判を終えた慶喜が何に気づいたのか、そして最後まで譲らなかった観光丸についても、今回の談判で二人が何を考え、どう相手を動かそうとしていたのかを掘り下げています。
本編だけでも話は分かるようにしていますが、解説を読んでから第二百三十九話に戻ってみると、最初に読んだときには何気なく通り過ぎた言葉や間にも、別の意味が見えてくるかもしれません。
糸子が勝ったのか。慶喜が守り切ったのか。それとも、二人とも相手から一つずつ取ったのか。
興味がありましたら、ぜひ【設定資料集】ものぞいてみてください。
今回の四話を読み返すときに、また違った楽しみ方ができると思います ヽ(´∇` )ノ




