第二百四十八話「糸子のお嫁入り編―途方もなき算盤」
一
西の丸下の通りは、昼前でも人の声が少なかった。
堀に沿って、大名屋敷の長い塀が続いている。塀の上から松の枝がのぞき、白い道にその影を落としていた。皐月の日はもう高い。堀の水面が光を返して、近藤勇の目の端をときおり刺した。どこかの屋敷の門前では、供待ちの中間が三人しゃがみこんで煙管を回していたが、近藤が通りかかると口を閉じ、通り過ぎるまで黙っていた。
近藤は一人だった。
試衛館を出たのは、朝五つを過ぎた頃である。神田の町筋を抜けて堀端に出るまでは、棒手振りの声や荷車の音がついてきた。堀端に出たとたん、それが途切れた。大名屋敷の塀が続くこのあたりで、町の者はあまり足を止めない。用のない者の歩く道ではないのだろう。
羽織は黒の紋付。袴の襞は、出がけに自分で伸ばした。供は連れてこなかった。御用の儀これあり、と呼び出された先は、首座の役宅である。隊士を引き連れて出向くような場所ではない。
周防守の役宅は、西の丸下の一画にあった。
このあたりには、老中のために御公儀が用意した役宅が並んでいる。藩邸とは別の、御用のための住まいで、役を退けば次の者に明け渡す。城にも近く、何かあれば夜中でもすぐに登城できる場所だった。
表には、両脇に長屋を連ねた門が構えている。脇の腰掛には、取次を待っているらしい武家が二人、黙って坐っていた。朝から晩まで、こうして用向きを抱えた者が出入りしているのだろう。
門は開いていた。
内側には、門番が二人立っている。近藤が手前で足を止めると、年かさの男が一歩前へ出た。近藤の顔を見て、それから腰の大小へ目を落とし、もう一度顔を見る。
「いずれの御方で」
「天朝外語御用掛の守りを務めまする、近藤勇と申します。周防守様より、本日罷り出るよう御沙汰をいただいております」
近藤は懐から呼出状を取り出し、上書きが見えるように差し出した。
門番はそれに目を通すと、傍らの若い者へ目配せした。若い門番がすぐに奥へ走っていく。
「しばし、お待ちを」
門の内には玉砂利が敷きつめられていた。先ほどの門番がそれを踏んで遠ざかっていき、やがて同じ音を立てながら戻ってきた。
「どうぞ、お通りくだされ」
近藤は一礼して門をくぐった。
玉砂利を踏むたび、ざり、ざり、と音がする。
玄関までは十数歩ほどしかないはずなのに、今日はその一歩一歩が妙にはっきり耳に届いた。試衛館の土の庭とも、一橋上屋敷の表に敷かれた石とも違い、足の裏に伝わる砂利の感触まで、いつになく気にかかる。
前を向いたまま歩いているうち、自分の歩幅が普段より狭くなっていることに気づいた。
近藤は意識して、いつものように足を出した。
何を言われるのか、まだ分からない。
玄関が近づくにつれて、知らず背筋が伸びていた。
玉砂利を抜けて玄関へ上がると、取次の者がすでに膝をついて待っていた。近藤の名をもう一度確かめ、大刀を預かる。
そのあとについて廊下へ上がったところで、今度は板を踏む自分の足音が耳についた。
妙に、その音が耳につく。
いくつか廊下を曲がった先で、六畳ほどの控えの間へ通された。
「こちらにて、しばらくお待ちくださりませ」
近藤は頭を下げて座敷へ入り、取次の者が下がるのを待って膝を揃えた。
床の間はない。障子の向こうは中庭らしく、紙越しに淡い光が差している。どこかで人の話す声もしていたが、何を話しているのかまでは聞き取れなかった。
背筋を伸ばし、両の拳を膝に置いて待つ。
やがて茶が運ばれてきた。近藤は一礼して受けたものの、手をつける気にはなれなかった。
懐には、あの呼出状が入っている。受け取った晩から何度読み返したか分からず、今朝などは着付けを終えてから袴の襞まで確かめた。
それほど気を張って来たというのに、呼ばれる気配はない。
待つうちに、障子を透かす明るさが少しずつ変わっていった。廊下を人が二度通り、一度目は足早に、二度目はゆっくりと過ぎていったが、どちらもこの部屋の前では止まらなかった。
首座のもとには、朝から晩までさまざまな用が持ち込まれるのだろう。
自分の用も、その中の一つにすぎない。
どれほど待ったのか、近藤には分からなかった。茶が冷めきった頃、廊下に足音がした。
「近藤殿。こちらへ」
取次の者について、廊下を奥へ進んだ。
角を一つ曲がったところで、取次の者が膝をつき、襖の向こうへ声をかけた。
「近藤勇殿、お連れいたしました」
「通せ」
低い声だった。
襖が開いた。
十畳ほどの座敷の、正面の上座に武家が一人坐っている。四十がらみで、細い目が敷居の外の近藤をまっすぐに見ていた。
板倉周防守勝静である。
一橋上屋敷の表で、遠目に見たことがあるだけの顔だった。
上座から少し下がった脇に、もう一人いる。こちらは三十半ばほどで、膝の前に書付を一通、きちんと揃えて置いていた。
近藤は敷居の外で平伏した。
「近藤勇にございます」
「入られよ」
膝で進み、座敷の中ほどで止まって、もう一度手をついた。
板倉は何も言わない。脇の男が書付を手に取り、膝で少し前へ出た。開いて、両手で捧げるように持つ。
「近藤勇」
高くも低くもない声だった。
「これまで京都所司代預りとして相勤め候ところ、このたび所司代預りを解き、天朝外語御用掛守護組組頭、申し付く」
読み上げは、それで終わった。
座敷が静まった。
近藤は畳に額をつけた。目の詰んだ畳から、新しい藺草の匂いがした。
「謹んで、承り奉ります」
思っていたより低い声が出た。
男が膝で進み、書付を畳み直して近藤の前に置いた。顔を上げ、両手で受け、押し戴いてから膝の前に置く。
薄い紙だった。
書かれているのは、いま読み上げられた行だけである。近藤はその文字を、もう一度目で追った。
『近藤勇。所司代預りを解き。守護組組頭。』
男が、膝の前の別の紙に目を落とした。
「いくつか、申し伝える」
「はっ」
「一つ。組の姓名書上を、組の発足に合わせて一度、差し出されたい。以後は、毎年正月に差し出すこと」
「承りました」
「一つ。書上は、江戸の分と京の分を、同じ形で書かれたし。京の分は、こちらから所司代へ写しを回す」
「同じ形?」
「名の書き方、役の書き方、並べる順。江戸と京で違うておれば、所司代の帳面と突き合わせるときに手間がかかり申す」
「心得ました」
「一つ。所司代預りとなっておる者は、近藤殿のほかに五名。土方歳三以下、いずれも同じく所司代預りを解き、守護組へ移す。所司代の帳面の始末は、京からの返事を待って、こちらで合わるものと致す。近藤殿のほうで、何かなさる要はござらぬ」
「はっ」
「一つ」
男はそこで紙から目を上げた。
「守護組の者は、幕臣の列には加えませぬ。守護組に属する、公認の士分として扱いまする。士分は、一代限りでござる」
「なお、もとより士分の家に生まれた者は、その身分のまま組に属するものとし、この一代限りには当たらぬ」
「承りました」
近藤はもう一度頭を下げ、そのまま膝の前の書付を見ていた。所司代預りの頃も、自分たちは士分として扱われてきた。それが今日からは、別の帳面の上で、別の名で扱われる。
男が紙を畳み、膝で元の場所へ下がった。
板倉が口を開いた。
「近藤」
「はっ」
「御用掛の守りを、頼むぞ」
それだけだった。
近藤は板倉の顔を見た。細い目は、さっきと変わらずこちらを見ている。
この人は知っている…と近藤は思った。皐月の初め、奥御殿の座敷で、姫様は言われた。御公儀で知っておられるのは、後見職様と総裁職様と首座だけだと。その首座が、いま目の前に坐っている。
板倉はそれ以上何も言わなかった。御用掛の守り、とだけ言った。近藤も、それ以上は何も言わなかった。
「身命を賭して、相務めまする」
手をつき、深く頭を下げた。
*
役宅の門を出たのは、昼を少し過ぎた頃だった。
門番が、来たときと同じように近藤の顔を見て頭を下げた。近藤も頭を下げ、通りへ出た。
堀の水が、さっきより強く光っていた。
数歩歩いて、足を止めた。
懐に手を当てる。呼出状の上に、もう一枚、紙が重なっている。
手を下ろし、試衛館のほうへ歩き出した。
堀端を離れて町筋に入ると、人の声が戻ってきた。昼餉どきで、煮売り屋の前に人が並んでいる。荷を担いだ男が、近藤の脇をすり抜けていった。誰も、近藤の懐に何が入っているかを知らない。知らないまま、それぞれの昼を過ごしている。
近藤は歩く速さを変えなかった。
二
試衛館の門をくぐったのは、八つを少し過ぎた頃だった。
昼のうちに強くなった日差しで、庭の土は白く乾いている。塀際の柿は若葉を茂らせ、その下に濃い影を落としていた。軒先では燕が巣と空のあいだを忙しく行き来し、風を通すために開け放たれた道場の格子窓からは、奥の板の間まで明るく見えている。
庭先に、永倉新八がいた。近藤を待っていたらしい。
柿の木陰で木刀を振っては、額に浮いた汗を袖で拭い、また構え直していた。
近藤が門を入ってきたことに気づくと、永倉は振りかけた木刀を止め、そのまま下ろした。
「どうでした」
「皆を集めてくれ」
近藤はそれだけ言った。
永倉はもう一度近藤の顔を見てから頷き、庭の端で薪を運んでいた隊士を呼んで何か言いつけた。隊士は薪を下ろし、門の外へ走っていった。
「見回りの者は、夕刻の交代で戻します。語学所の守りは、外せませんが」
「それでいい。外せん者には、あとで俺から話す」
近藤は草履を脱いで縁に上がった。羽織は脱がなかった。
土方は、いま吉田松陰殿に付いて東北を回っている。
*
道場に灯が入った。
格子窓の外はまだ明るいが、板の間の奥までは日が届かない。壁の燭台の火が、竹刀を並べた掛け台の影を揺らしていた。
見回りに出ていた者も、語学所の守りに付いていた者も、夜番の交代に合わせて呼び戻された。外せない持ち場の者だけは残したが、それでも板の間は端から端まで人で埋まった。
近藤は上座に立っていた。
前列には沖田総司、永倉新八が並んでいる。二列目に鷲尾官兵衛、その隣に鳴海次郎。あとは隊士たちの顔が、奥まで続いていた。
誰も何も訊かなかった。
近藤が朝から羽織を着て出ていったのを、隊士たちは見ている。戻ってきて、羽織も脱がずに皆を集めたのも見ている。ただの割り振りの話ではないことくらい、それで分かるのだろう。道場の中は、竹刀を構える前のような静けさだった。
近藤は懐から書付を出した。
「御公儀より、正式に御沙汰があった」
声が、板の間の奥まで通った。
「本日より旭狼衛は、天朝外語御用掛守護組として、公儀に認められた組となる」
道場が静まった。
さっきまでの静けさとは、質が違った。誰かが息を吸いかけて、止めた。
永倉は黙って近藤を見ていた。
沖田は笑っていた。口の端が上がり、目が細くなっている。声は立てない。
鷲尾は黙っていた。
近藤は書付を開いて皆に向けた。遠くの者には字までは読めないだろう。それでも、紙があることは見える。
「本日、周防守様の役宅で、この書付をいただいた。近藤勇、京都所司代預りを解き、天朝外語御用掛守護組組頭、申し付く。書いてあるのは、それだけだ」
書付を畳み、懐へ戻した。
「中身を、順に話す。一度で覚えろとは言わん。だが、よく聞いておけ」
前列の永倉が、膝の上で拳を握り直した。
「まず、名だ。表の名は、天朝外語御用掛守護組。御公儀の帳面には、この名で載る。だが、俺たちの呼び名は変わらん。旭狼衛は旭狼衛だ。隊服の羽織も、そのままでよい」
後ろのほうで、誰かが小さく息を吐いた。
「この組は、姫様の御用掛に付く。俺たちが守るのは、御用掛の職と、その職にある姫様だ」
近藤は隊士たちの顔を見渡した。
「次に、身分だ」
前列の何人かの背が、わずかに伸びた。
「これまで、俺を含めて何人かは、京都所司代の預りとして士分に扱われてきた。今日、それが解かれた。そして、新たに守護組へ移る。御公儀の家臣、幕臣になるのではない。守護組に属する、公認の士分だ」
「公認の…士分」
永倉が口の中で繰り返した。
「そうだ。御公儀が帳面に名を載せて、士分と認める。どこへ行っても、誰に問われても、その名で通る」
少し間を置いた。
「ただし、一代限りだ。お前たちの子が、そのまま士分を継ぐことはない。それは、俺も同じだ」
小さなざわめきが起きかけて、すぐに止んだ。
近藤はそれには触れなかった。
「これから組に入る者のことだ。人数は、江戸と京を合わせて三百まで増やす。京に七十。江戸に二百三十。いまの倍よりも多い」
奥の隊士たちが顔を見合わせた。
「入ってくる者は、まず見習だ。腕と人物を見て、姫様が士分に取り立て、名を御公儀へ届ける。伺いではない。届けだ」
「届けるだけで、通るんですか」
沖田が言った。
「通る。そういう取り決めになった」
「見習は、誰が見るんです」
二列目から、鳴海が少し身を乗り出していた。
「組頭と、各隊の頭だ。腕は稽古で見る。人物は務めで見る。見習のあいだは、隊士と同じ持ち場に付ける。ただし、一人で持ち場を任せることはしない」
「では、見習の間に、こいつは駄目だとなったら」
「組を出てもらう。それは、これまでと同じだ」
鳴海は頷いて、身を引いた。
「それから、組頭らの推薦があれば、試しの間はその限りではない。腕の立つ者を、見習のまま遊ばせておく道理はない」
鳴海が、隣の沖田へ少しだけ顔を向けた。沖田はにっこり微笑んだ。
「京の者は、どうなるんです」
永倉が言った。
「山南さんのところも、同じ扱いですか」
「同じだ。京の七十も、江戸の二百三十も、同じ組だ。名の書き方も、取り立ての仕方も、御手当も同じにする。京の分の名は、所司代にも回る」
永倉はそれで黙った。
「帳場の仕事をする者も、文を書く者も、組の者であるかぎりは、腕を持っておることが基本だ。俺たちは、守護をお役目とする組だ。それを忘れるな」
もう一度、隊士たちの顔を見渡した。
「最後に、御手当のことだ」
道場の空気が、少し変わった。
近藤は懐から別の紙を出した。卯月のうちに姫様と詰めた額の控えである。何度も読んで覚えているので、紙には目を落とさなかった。
「月々の御手当は、こうなる。見習は、月二両。士分の平の者は、月三両。小頭は五両。組頭の格の者は八両。副長は十二両。組頭は十五両」
道場がどよめいた。
一度きりだった。奥から上がった声が、波のように前の列まで来て、すぐに止んだ。誰かが「三両」と呟き、誰かが隣の肘をつついた。
どよめきが引くのを待って、近藤は続けた。
「これとは別に、長屋、飯、着るもの、刀のほかの道具は、組で持つ。浜町の屋敷に移れば、長屋もそこになる。三両は、まるまる自分の懐に入ると思っておけ」
奥でまた誰かが息を吐いた。今度は、声にはならなかった。
「出どころは、天朝外語御用掛の御用金だ。御公儀からは一文も出ん。姫様の御用掛が、俺たちを養う」
近藤はそこで言葉を切った。
隊士たちの顔を、一人ずつ見た。多摩の百姓の倅がいる。浪人の子がいる。剣術修行で江戸に出てきて、食い詰めかけていた者もいる。生まれを問われれば答えに詰まる者が、この板の間にいくらでも坐っている。
近藤も、その一人だった。
「組の内のことは、これまでと変わらん。御公儀が決めたのは、組を置くことと、組頭が誰かということだけだ。組の内の役は、俺たちで決める。副長は土方。いまは東北に出ているが、戻れば同じ役だ。ほかの者も、しばらくはいまの役のまま動いてもらう」
「ただ、人が増えれば隊も増える。その分、頭も要る。そのときどきで組み替えていくから、そのつもりでいてくれ。俺のことも、これまでどおりで呼べばよい」
「以上だ。明日からも、務めは変わらん。今夜の夜番の者は、持ち場に戻れ。ほかの者は、休め」
隊士たちは、すぐには立たなかった。
誰からともなく、前の列から順に手をついて頭を下げた。奥の者たちも続いた。
その頭の並びを、近藤は上座から見ていた。
*
隊士たちが出ていくと、板の間は急に広くなった。
燭台の火が一つ、油が尽きかけて細くなっている。外はもうすっかり暗い。
残ったのは、近藤と永倉だけだった。
近藤は上座から下りて永倉の前に坐り、懐から申付の書付を出した。
「これだ」
永倉は受け取り、灯の近くへ寄せて読んだ。すぐに読み終えて、近藤へ返した。
「これだけですか」
「ああ」
「御公儀の書付ってのは、もっと長いもんだと思ってました」
「俺もだ」
永倉は、道場の隅の文机に目をやった。稽古の日誌を付けるのに使っている、古い机である。
「名を書き出すんですか」
「今夜のうちに、下書きだけでもしておきたい。発足に合わせて一度出せと言われた。今日が発足だ」
永倉が文机を灯の下まで運び、硯と筆と、反古ではない紙を何枚か並べた。近藤が燭台の火を継ぐあいだに、墨を磨りはじめる。
「江戸と京で、同じ形に書けと言われた。載せるのは士分の者だけだ」
「京の分は、どうします」
「山南に書いてもらう。こちらで形を決めて、一枚手本を作って送る。そのとおりに書いてもらえば、形は揃う」
「山南さんなら、間違えませんね」
「そうだ」
筆を取ったのは、近藤だった。
紙の一行目に、天朝外語御用掛守護組。その下に、江戸。さらにその下に、組頭、近藤勇。
二行目に移った。
副長、土方歳三。
近藤はそこで、筆を止めた。
土方がいれば、この書上は土方が書いていた。帳面も、名簿も、割り振りの紙も、これまではたいていそうだった。
「並べる順は、どうします」
永倉が訊いた。
「役の順だ。組頭、副長、それから各隊。隊の中は、頭から順に」
「隊の中の平の者は」
「入った順でいい」
「入った順なら、帳面がありますね」
永倉が、文机の脇の棚から古い帳面を取ってきた。隊士が入るたび、名と生国、それに入隊の日を土方が書きつけてきたものである。何度も開かれた紙の端は擦り切れ、初めの頃の墨はもう薄くなっていた。
周防守の役宅で渡されたのは、紙一枚だった。
そこに、この帳面から名を拾っていく。役を定め、江戸と京で形を揃えれば、それが旭狼衛の名簿になる。
永倉が帳面を開き、一枚目から名を読み上げはじめた。
近藤は燭台の火を少し寄せ、読み上げられる名を、一つずつ紙に移していった。
三
西の丸下の役宅の書院に、紙が積まれていた。
守護組の申付から、幾日かが過ぎている。その間に、紙は増えた。
朝のうちに、書付を起こす役人が三つの束を持ってきた。役宅で近藤に申付を読み上げた、あの者である。膝の前に並べ、一つずつ板倉の前へ押し出した。
「まず、京の所司代より、照会の返事が届きましてございます」
板倉は一つ目の束を手に取った。
稲葉正邦の名の書状に、所司代の帳面の写しが一枚添えてある。写しのほうから読んだ。
京都所司代預り、京都警衛補佐。近藤勇、土方歳三、沖田総司、原田左之助、井上源三郎、秋山恒一。
照会状に載せた名と、一人も違っていない。
「名と役目は、こちらの控えと合うておりました。扶持は、所司代からは出ておらなんだとのことにございます。所司代の帳面からは、この六名を預りより外す旨、記したと」
「組のことには、触れておるか」
「触れておりませぬ。問うておりませぬゆえ」
板倉は書状の本文にも目を通した。所司代の返事は、問われたことにだけ答えていた。名と役目と扶持と、帳面の始末。それ以上は一行もない。
稲葉殿もこういう書状を書く人であったか、と板倉は思った。所司代に就いたばかりで、何を問われているかを読み違えなかった。
「次に」
男が二つ目の束を押し出した。
「天朝外語御用掛より、守護組の姓名書上が届きましてございます」
こちらは厚かった。
表紙には天朝外語御用掛の名があり、その下に姫君の名が記されている。御用掛から御公儀へ差し出す形である。
表紙をめくる前に、板倉は厚みを手で確かめた。江戸と京を合わせても、まだ三百には届いていないと聞いている。それでも、一枚の御書付から始まった話が、もうこれだけの厚みになっていた。
表紙をめくった。
江戸の分が先に綴じてある。一枚目の一行目に、天朝外語御用掛守護組、江戸。その下に、組頭、近藤勇。次の行に、副長、土方歳三。そこから役ごとに名が並ぶ。
太い字だった。一行に一人。役の名を上に、姓名を下に。字の大きさは揃っていないところもあるが、行の頭はきちんと揃えてある。
何枚かめくると、紙の色がわずかに変わった。京の分である。
一行目に、天朝外語御用掛守護組、京。その下に山南敬助の名と役があり、そこから先は江戸の分と同じ形で名が並んでいた。
字の癖は違う。江戸の分より細く、几帳面だった。それでも役の名の置き方、姓名の置き方、行の揃え方は、江戸の分とまったく同じである。
「京の分は」
「御用掛の側より、山南敬助なる者が京で書き、江戸へ送ったものとのことにございます。江戸の側で形を決めた手本を京へ送り、そのとおりに書かせたと、添え状にございました」
「京から江戸まで、何日で着いた」
「御用掛の側の文の便で、三日ほどと」
板倉は京の分の一枚目を、しばらく見ていた。
形を揃えよと役宅で申し伝えてから、幾日も経っていない。その間に江戸で形を決め、京へ送り、京で書かせ、江戸へ戻させて、綴じて出してきた。
「書上に載っておるのは、士分の者だけか」
「士分の者だけにございます。見習の者は載っておりませぬ。人数の合計は、末尾に別に記してございます」
最後の紙をめくった。
江戸と京それぞれの、士分の数、見習の数、合わせた数が一行ずつ書いてある。合わせても、三百に届いていない。これから増やしていくのだろう。
「三つ目は」
「京の分の写しを、所司代へ回す手配にございます」
男が三つ目の薄い束を押し出した。
「写しは、こちらで作らせました。送り状の文案と合わせて、御覧くださいますよう」
写しは、京の分を一字も違えずに写してあった。送り状は短い。照会の返事を受け取ったこと、組の姓名書上の京の分を写して送ること。それだけである。
「これでよい」
「では、本日中に」
男は三つの束をまとめ直そうとして、手を止めた。
「周防守様。申し上げてよろしゅうございますか」
「申せ」
「先日、先例がございませぬと申し上げました」
男は膝の前の束を見ていた。
「この書付の形は、控えとして残しておきとう存じます。いずれまた、似たような組を置くことがございましたら、これを型にいたします」
「そうせよ。先例がなかったのなら、これが先例になる」
男は頭を下げ、束を抱えて下がっていった。
*
書院には、板倉一人が残った。
文机の脇に、手元に残した控えが積まれている。御用部屋の評議の書付。御用掛宛ての御書付の控え。近藤への申付の控え。所司代への照会状の控えと、その返事。姓名書上の写し。所司代への送り状の控え。
弥生の二十三日、一橋上屋敷の御用の間で、後見職様は「三百ならば、認めよう」と言われた。
一言だった。
その一言が、勘定方の見立てになり、評議の書付になり、御書付になり、照会状になり、申付になり、所司代の帳面の書き直しになり、御用掛の姓名書上になった。どれか一枚が欠けても、組は宙に浮く。
板倉は、積まれた紙の上に手を置いた。
それから、帳面の間に挟んでおいた一枚を抜き出した。
勘定方の見立てである。御用部屋で回したとき、小笠原図書頭は「それを、毎年」と言ったきり黙った。
末尾の数は、変わっていない。
しばらく、その数を見ていた。
この数は、御公儀の帳面には載らない。御公儀の掛かりではないからである。払うのは御用掛で、その御用掛を差配しているのは、あの姫君である。
月々の額は、姫君の側から出てきた。だが、それを年に直し、衣食住と道具の掛かりまで足して一つにした数は、まだ姫君の手元にはないはずだった。
板倉は筆を取り、添え状を一枚書いた。
『勘定方の見立ての写し、参考までに差し上げ候』
それだけにした。
決めたことには、数が付いてくる。数を出すのが御公儀の勘定方でも、払うのは御用掛である。払う側には、数を見せておかねばならない。
廊下の者に、勘定方の見立てを写させるよう申し付けた。写しが届くと、添え状と一緒に包み、一橋上屋敷の奥へ届けさせた。
四
一橋上屋敷の奥御殿は、夜になると静かになる。
表の詰所から聞こえていた隊士たちの声も、暮れ六つを過ぎる頃には途絶えた。廊下を行き来する女中の足音も次第にまばらになり、やがて人の気配そのものが遠のいていく。
昼過ぎから降りはじめた細い雨だけが、夜になっても止まず、庭の植え込みを濡らしていた。
糸子は、文机に向かっていた。
灯は一つ。机の上には、昼に周防守殿の使いが置いていった包みがある。
その脇には、もう一枚、畳んだ紙が置いてあった。幾日か前の晩、同じく周防守殿の使いが届けてきた御書付である。
それを今夜、もう一度出してきたのは、昨日、近藤殿から姓名書上を周防守殿へ出し終えたとの知らせが届いたからだった。
江戸の分は近藤殿が自ら筆を取り、京の分は山南殿が書いたという。控えを二つ並べて見たとき、糸子は思わず笑ってしまった。
葵が茶を運んできた。
「お茶でございます」
「おおきに。置いておいて」
湯呑みを文机の端へ置くと、葵は一礼して障子の外へ下がった。
糸子は、昼に届いた包みを解いた。
添え状が一枚。その下に、何枚かの紙が重ねてある。
まず添え状を開く。周防守殿の字だった。
『勘定方の見立ての写し、参考までに差し上げ候』
それだけである。
糸子は少し首を傾げた。
いかにも周防守殿らしい。用のないことは一つも書かない。
(参考までに、ね)
つまり、よく見ておけということだろう。
添え状を脇へ置き、重ねられた紙を手に取った。
一枚目の表題には、
『天朝外語御用掛守護組御入用見立』
とある。
上から目を通していった。
まずは月々の御手当である。
見習二両。士分の平の者三両。小頭五両。組頭級八両。副長十二両。組頭十五両。
知っている数だった。
卯月に近藤殿と相談して決め、周防守殿へ出したものである。
その下には人数の見込みが記されていた。三百人を役ごとに割り振り、それぞれの月の額を掛け、さらに十二月分を足してある。
御手当だけで、一年にいくら。
(……うん。そのくらいよね)
自分でもざっと勘定したことがある。驚くほどの数ではなかった。
紙をめくった。
二枚目からは、御手当以外の掛かりだった。
長屋の修繕と維持。
三百人分の飯。米、味噌、塩、醤油、青物、魚。
薪炭。灯の油。
夏冬の装束、羽織、袴、草鞋。刀以外の道具。鉄砲の弾、雷管、火薬、それに手入れの道具。医者と薬。江戸と京を往来する路銀。飛脚の賃。
その一つ一つに、きちんと数が付いている。
草鞋まであった。
一人がひと月に何足履きつぶすか。見回りに出る者は多めに、屋敷を守る者は少なめに。その違いまで見込んである。
(……草鞋か。まぁ、そうよね)
勘定方の役人が、三百人分の草鞋を真顔で数えている姿が浮かび、少し笑いそうになった。
だが、その下に書かれた数を見て、やめた。
三百人が一年に履きつぶす草鞋だけで、平の隊士一人に払う一年分の御手当に近い。
(…………)
勘定方の役人は、どうやら相当に几帳面な人らしい。
米は一人一日何合。三百人なら一年で何石。それを江戸の相場ならいくら、京ならいくら。京の分は銀から両へ直してある。灯の油まで、一晩にどれほど要るか見積もられていた。
糸子は、一枚ずつ紙をめくっていった。
めくるたびに、数が増える。
最後の一枚には、それまでのすべてを足した額が、一行で記されていた。
一年分の、守護組の入用。
糸子の目が止まった。
もう一度読む。
読み違えてはいない。
(……え。いや、待って)
紙をいったん文机に戻したものの、すぐにまた手に取った。
やはり、同じだった。
(御手当だけなら分かるのよ。そこは分かってたのよ。でも、その上に、これ?)
もう一度、数字を見る。
(い、いや。まだこれくらいなら許容範囲内よ。糸子……)
三百人いれば、三百人が飯を食べる。着るものも要る。住まいも直さなければならない。鉄砲を撃てば弾が減り、病めば薬が要る。江戸と京を行き来させれば、当然、路銀もかかる。
どれも当たり前のことだった。
その当たり前を全部足すと、目の前の数になる。
(……人を雇うって、こういうことだものね)
前の世でも同じだった。
人件費は給料だけではない。社会保険、交通費、制服、研修費、休憩室の電気代。給料の額面だけを見て人を増やし、あとで決算の数字を見て青くなる。そんな光景を、何度も見てきた。
見てきたはずなのに。
今、自分でやっていた。
糸子は文机の脇から算盤を引き寄せ、まず勘定方の出した数を珠に置いた。
(……ここに、浜町の御屋敷。うっ)
一万五千坪。
長屋が八棟。蔵が十。井戸が五つ。屋根の修繕、塀の修繕、庭の手入れ。御公儀が手を入れてから引き渡すとはいえ、その後の維持はこちらの掛かりになる。
珠を弾いた。
(それから、京から来る近衛の家の人たち。うぐっ)
父上への書状に、自分で書いた。おおよそ三十人。
当然、この人たちにも給金が要る。飯も、着るものも、住まいも要る。
珠を弾く。
(語学所を広げる分。ぐげっ)
新しい屋敷には教場を取る。書物を買い、写方を洋書調所へ通わせ、教える者には謝礼を出す。
また珠を弾いた。
算盤の珠が、どんどん上がっていく。
一の位から十の位へ、十の位から百の位へ。さらに百を越え、千の位の珠まで、一つ、また一つと上がっていく。
そこで、手が止まった。
(……え、ちょっと待って。ちょっと待ってよ)
端から珠を読む。
もう一度、読む。
(これ、もしかして毎年?)
――毎年だった。
浜町の屋敷は来年もそこにあるし、三百人いれば、三百人が来年も飯を食べる。京から来る者たちには給金を払い続けなければならないし、語学所だって今年かぎりでなくなるわけではない。
(ぐぎぎっ)
いま目の前にあるのは、今年一度払えば済む銭ではなかった。
来年もいる。
再来年もいる。
その次も、そのまた次も――。
(ぐぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎっ)
糸子はたまらず、頭の中で会所の帳面を開いた。
横浜の取扱所の上がりに、長崎の上がり。生糸と茶の口銭があり、御公儀から回ってくる横浜の運上の掛かりもある。
そこから、いまの御用掛にかかる分を引いていく。語学所にかかる銭、京の御所の修繕へ回している分、それに公家衆への寄附――。
残る銭を出し、目の前の算盤の珠と比べてみた。
糸子は、そっと文机の縁に手をついた。
冷や汗が出てきた。
(分かってた。分かってたけど……こうして現実に数字を見ちゃうと……)
目の前が、少し揺れた。
(あ。だめだ、これ)
算盤から手を離したかと思うと、そのまま、ころりと後ろへ倒れた。
五摂家筆頭、近衛家の姫君が、畳の上で仰向けになっている。
袴の裾は乱れ、袖は左右に広がったまま。灯に照らされた天井の木目だけが、ゆらゆらと揺れて見えた。
(……きっと)
糸子は天井を見つめた。
(きっと、どこかのお金持ちの足長大名が現れて、わたくしを援助してくださるんだわ。名乗りもせず、見返りも求めず、毎年きちんと為替を送ってくださる、そんな御方が。きっと)
聞こえるのは、雨の音ばかりだった。
(嗚呼。なんて世間は世知辛いのかしら)
雨音が、さっきより大きくなった気がした。
*
障子の外で、人が膝をつく気配がした。
「姫様。お茶を替えに参りました」
返事がない。
少し間を置いて、障子が細く開く。
「姫様?」
葵は文机の前へ目をやり、そこに誰もいないことに首を傾げた。だが、視線を下へ落としたところで動きが止まる。
畳の上に、姫様が転がっていた。
「ひ、姫様……! 一体、どうなされたのですか」
盆を抱えたまま固まる葵に、糸子は寝転がったまま首だけを向けた。
「……んっ? ちょっと、現実逃避」
「げんじつ……?」
「あとは、世の厳しさを実感していたの」
「は、はぁ……?」
「しばらく放っておいて」
葵は畳に転がる主を見て、それから文机の上へ目を移した。算盤に、散らばった紙。何やら勘定をしていたらしいことまでは分かるが、どうしてそれで姫様が畳に転がることになるのかは分からない。
糸子は再び天井を向いた。
しばらく雨音を聞いていたが、やがてぽつりと口を開く。
「葵」
「はい」
「わたくし、三百人も雇うって、自分で言ったのよね」
「は、はい。そう伺っております」
「最初は五百って言ったのよね」
「……そうとも、伺っております」
糸子は黙ったまま天井を見つめた。
(五百だったら、どうなってたのよ……)
さすがに、それは口に出さなかった。
雨は相変わらず降りつづいている。
葵もそれ以上は何も訊かず、しばらく主の横顔を眺めていた。
「……お茶を、置いておきますね」
冷めた湯呑みを下げ、新しいものを文机の端へ置く。
そのとき、糸子の目が動いた。
天井を見ていた目が文机へ向き、勘定方の見立てから算盤、散らばった紙へと移っていく。
やがて、ぴたりと止まった。
葵は、その目を知っていた。
周防守様と鉄砲の数を詰めていたときも、八十と七十を並べてどちらを取るか考えていたときも、商いの帳面を前にしたときも、姫様は同じ目をしていた。
さっきまで畳の上で世の無情を嘆いていた姫様の顔は、もうどこにもない。
糸子はむくりと身を起こすと、乱れた袴の裾にも構わず、そのまま文机の前へ坐り直した。
「葵」
「は、はい」
「稼がねば」
「……稼ぐ、でございますか」
「……お金を」
葵が瞬きをした。
「お金を?」
糸子は勘定方の見立てを左へ、算盤を右へ寄せ、その真ん中に新しい紙を一枚広げた。
筆を取る。
「稼ぎ出さなければ!」
筆先を硯に浸した。
「新たなお金を稼ぎまくらなければぁっ!!」
「ひ、姫様?」
「また、あの質素でひもじいビンボー生活に戻ってしまうーーーっ!」
「そんなの絶対にイヤーっ! 今さらムリーーーっ!!」
葵はしばらく姫様を見つめていたが、何も訊かなかった。盆を手にしたまま膝で静かに下がり、障子の外へ出ると、音を立てぬようそっと閉める。
ほどなくして、その向こうから算盤の珠を弾く音が聞こえてきた。
さっきまでの悠長な音ではない。パチパチパチパチと、ほとんど間を置かずに珠が弾かれている。
「時は金なり、〝Time is money.〟でござりますーーーっ!」
その声を背中に聞きながら、葵は何事もなかったように廊下を下がっていった。
庭では相変わらず雨が降りつづき、軒から落ちる雨音に交じって、植え込みの奥から蛙が一声鳴いた。
こうして、守銭奴姫が爆誕したのであった。
五
京は、梅雨の晴れ間だった。
朝まで降っていた雨は上がったものの、御所の奥庭にはまだ水気が残っている。白砂は雨を含んで色を濃くし、竹箒の目もところどころ崩れていた。庭石の根方には青々と苔が張りつき、軒先からは、忘れたころに雫が落ちる。
御所の外の京は、このところ静かだった。
もっとも、それは表向きのことである。昼の町を見れば、物売りが声を上げ、荷を担いだ者が行き交い、何事もないように一日が過ぎていく。
けれど、その裏では、ときおり天誅の噂が流れ、それが人づてに御所の奥まで届くことがあった。
どこそこの屋敷の門に、誰それの名を書いた紙が貼られた。夜道で斬られた者がいる――。
そんな話だけが、声を潜めて伝わってくる。
そんな話が入るたび、女官たちは声を潜め、祐宮の御身を案じた。
祐宮が御所の外へ出ることはない。
庭があり、縁側があり、いくつかの座敷がある。十になる皇子の日々は、その内側だけで巡っていた。
御門は廊下の角で足を止めた。
縁側に、祐やがいる。
膝をつき、身を乗り出すようにして、板の上へ何かを並べていた。
泥の面子だった。
焼いた土には、武者や舟の形が押してある。そのうちのいくつかが、縁の端から庭へ向けて並べられていた。
「これが、異国の船じゃ」
祐やは一つを指で押し出した。
「こちらが、日ノ本の守りじゃ。ここで、こう、追い返す」
そう言って、もう一つを勢いよく打ち当てる。乾いた音とともに異国の船が縁から落ち、濡れた白砂の上をころりと転がった。
それを見て、祐やが声を上げて笑う。
御門はその姿を眺めながら、去年の初春にも同じ遊びを見たことを思い出していた。あのときも、この子は面子を並べて異国の船を追い返し、得意そうに胸を張ったものだった。
『――おもうさまが日ノ本をお守りくださっているように』
あの言葉も、まだ覚えている。
その祐やのそばには、女官が二人控えていた。やがて年かさの女官が膝で進み出て、柔らかな声をかける。
「宮さん。そのような荒いお遊びは、おやめあそばしませ」
祐宮の手が止まった。
「荒いことは、下々の者にお任せになればよろしゅうござります。宮さんがお手ずからなさることではござりませぬ」
もう一人が白砂に落ちた面子を拾い、袖で泥を拭った。
祐宮には返さず、自分の膝へ置く。
「宮さんは、お心の優しい御方におなりあそばせば、それでよろしいのでござります。お歌をお詠みになり、お手をお習いになり、民を思うお心をお持ちになる。それが、御所の御方のなさりようでござりますえ」
祐宮は膝の前に残った面子を見下ろし、やがて小さく頷いた。
それから一つずつ拾い集め、女官の差し出した小箱へ黙って納めていく。つい先ほどまで声を立てて笑っていた顔からは、すっかり色が消えていた。
御門は廊下の角に立ったまま、その様子を見ていた。
女官たちの言うことは間違っていない。御門は武を執らず、武のことは武家に任せる。御所の内で刃を手にすることなく、歌と文と礼をもって国の上に坐る――それが古くから続いてきた朝廷のありようであり、女官たちもまた、その習いに従って祐宮を育てているだけだった。
甘やかしているのではない。御所の御方とはそういうものだと信じ、それが祐やのためになると思って仕えている。
朕も、そうして育てられた。
そして御門になったのち、異国の船が来た。
以来、御所の奥から書状を書き、勅を下し、できるかぎり言葉を尽くしてきたが、御所の外で何が起ころうと、朕自身がここを出て動くことはできなかった。何かを命じるにも、誰かを動かすにも、朕の手にあるのは言葉だけだった。
だが、その言葉だけで国を守れるとは、もう思えぬ。
まして、祐やがこの座に就くころには、世がどうなっているか分からない。
朕の御代より、さらに荒れるやもしれぬ。
「待て」
御門は縁側へ出た。
女官二人が、はっと平伏する。
祐やも小箱へ面子を納めかけた手を止め、慌てて膝を揃えた。
「おもうさま」
御門は女官たちの前に立った。
「そなたらの申すことは、御所の習いとしては正しい」
年かさの女官が、額を板につけたまま身を固くした。
「なれど、この子はいずれ、この国の上に坐る」
御門は祐やを見た。
「そのとき、心が優しいだけでは足りぬ」
「……畏れながら」
女官が顔を伏せたまま口を開いた。
「宮さんは、まだ十二にあらせられます。荒々しいことをお覚えになっては――」
「荒々しいことを覚えよとは申しておらぬ」
御門は静かに遮った。
「荒々しいものを前にしても、退かぬことを覚えよと申しておる」
女官は、それ以上何も言わなかった。
御門は廊下の奥に控える近習へ目をやった。
「太刀を」
近習の顔から、さっと血の気が引いた。御所の奥で御門が太刀を求めるなど、まずないことである。
だが、何も問わなかった。一礼して下がると、ほどなく白鞘の太刀を捧げ持って戻ってきた。
御門はそれを受け取り、縁側に坐る祐やの前へ膝をついた。
「祐や」
「……はい、おもうさま」
「よう見ておれ」
鯉口を切る。
刃を、ゆっくり抜いた。
雨上がりの光が、鞘から現れた刃の上を走った。濡れた白砂の照り返しを受け、鋼に細い白線が浮かぶ。
女官の一人が息を呑んだ。
祐宮の顔からも、さっと血の気が引いた。膝の上の手が袴を強くつかみ、身体がわずかに後ろへ退く。やがて唇が震えはじめ、刃を見つめる目の縁が赤くなった。
つい先ほどまで異国の船を打ち落として笑っていた子が、本物の刃を前にして、いまにも目を逸らそうとしていた。
「目を逸らすな」
祐宮の肩が、びくりと跳ねた。
「泣いてもよい。恐ろしいと思うてもよい」
御門は刃を動かさなかった。
「なれど、目は逸らすな」
祐宮の目から、涙が一粒こぼれた。
それでも、目は逸れなかった。
祐宮は赤く潤んだ目で刃を見つめていた。唇を固く結び、袴を握ったまま、それ以上は後ろへ退こうとしない。
御門も何も言わず、その姿を見ていた。
軒先から落ちた雫が、縁の下の石を打つ。その音をいくつか聞くうちに、祐宮の唇の震えが少しずつ収まっていった。
それを見届けてから、御門は刃を鞘へ納めた。鍔の触れる小さな音が響くと、張りつめていた祐宮の肩から、ようやく力が抜けた。
「男子とは、刃を振るう者のことではない」
太刀を膝の脇へ置き、御門は祐宮を見た。
「恐ろしいものを前にしても、目を逸らさぬ者のことじゃ」
祐宮は黙って聞いている。
「そなたは、いずれ多くのものと向き合わねばならぬ。異国の者も来よう。耳を塞ぎたくなるようなことを申す者もあろう。朕でさえ見たことのないものが、そなたの前に現れるやもしれぬ」
御門は祐宮の目を見た。
「そのとき、目を逸らしてはならぬ」
祐宮は袖で目元を拭った。
「……はい」
まだ声はかすれていたが、返事はしっかりしていた。
「今日は、よう見た」
その言葉に、祐やの顔がくしゃりと崩れた。泣くのを堪えているのか、それとも褒められたことが嬉しいのか、当人にも分からぬような顔だった。
御門は何も言わず、その頭に一度だけ手を置いた。
「下がってよい」
女官たちに連れられ、祐宮は奥へ下がっていった。年かさの女官は廊下へ入るところで一度振り返り、御門を見て、何も言わずに深く頭を下げた。
やがて祐やの小さな背も、廊下の角を曲がって見えなくなった。
*
縁側には、御門一人が残った。
ふと見ると、板の上に泥の面子が一つ残されていた。女官が膝に置いたまま、小箱へ納め忘れたのだろう。異国の船の形が押された、先ほど白砂へ落ちた面子で、拭いきれなかった泥が縁にわずかについている。
御門はそれを拾い上げ、掌に載せた。
数え十二。満で言えば十一になったばかりの子が、ほんものの刃を前にして泣いた。それでも逃げず、最後まで目を逸らさなかった。
今日は、それでよい。
掌の面子を見ているうちに、御門は江戸にいる姫のことを思った。
祐やより少し年上の娘は、すでに異国の使いとも、幕府の重職とも向き合っている。もちろん、あの姫とて刃を手にして戦ったわけではない。朕の言葉を懐に入れて東海道を下り、ただ己の言葉をもって江戸の座に臨み、渡り合ってきたのだ。
数日前、忠房が読み上げた文を聞きながら、御門は思ったものだ。
あの姫は、ただ大胆なのではない。
慎重に運び、機を見て、取るべきものは取る。
そういう娘なのだと。
八十挺の鉄砲も、その守りについた者たちも、ただ転がり込んできたわけではあるまい。
あの姫は、退かぬ。
異国の者を前にしても、幕府の者を前にしても、恐れなかったわけではあるまい。それでも、あの姫は目を逸らさなかった。
御門は掌の面子に目を落とした。
(――祐や。そなたはいま、刃を見て泣く。それでよい。泣いてもよいから、目を逸らさぬことだけは覚えておけ)
指先で、面子の縁に残った泥をなぞる。
(――いずれ、そなたの隣には、そなたより先に恐ろしいものと向き合ってきた者が立つ。きっと、そなたの助けとなろう)
そこで指が止まった。
(――なれど、その者に助けられてばかりではならぬ。隣に立つ者が退かぬのなら、そなたも退くな。その者が前を見るのなら、そなたも同じものを見よ)
御門は面子を縁の上へ戻した。
今日、祐やを泣かせたのは朕である。奥では今ごろ、女官たちが慰めているだろう。おもうさまはお厳しいと、そんなことを言われているかもしれない。
それでもよかった。
教えられるうちに、教えておかねばならない。いつまでも、あの子のそばにいてやれるわけではないのだから。
朕がいなくなったあと、祐やの傍らにはあの姫が立つ。そうなるように整えたからこそ、祐やにも己の足で立つことを覚えてもらわねばならぬ。
一方が支えるのではない。二人で、支え合うのだ。
御門はしばらく庭を眺めていた。
軒先から落ちた雫が、縁の下の石を打つ。雲の切れ間から差し込んだ日が濡れた白砂を明るく照らし、庭の奥では、雫を載せた青葉がかすかに揺れていた。
御門は膝の脇に置いた太刀を取り、近習を呼んだ。
そのあとも縁側には、泥の面子が一つだけ残されていた。
異国の船の形を上にして。
第二百四十八話 了
『糸子のお嫁入り編』は、これにておしまいです ヽ(;▽;)ノ
「やっと終えることが出来たーーー囧rz」
書き始めた当初は、漠然とした道筋があるだけで、実はそこまできっちり先を決めずにスタートしました。ですので、最後にどう着地するのか、作者の私にもまったく分からないまま書き進めていたのですが……なんとかここまで辿り着くことができ、ひとまず安心しております (;´Д`A
あとは、読者の皆様に楽しんでいただけたかどうか。それが一番気になるところです。
さて、この先ですが、いくつかの編を挟んだあと、本作オリジナルの大きな事件が起こる予定です。年内には始めたいと思っております。多分、やれるはず……? (^^;
旭日隊、初出兵。
薩摩に、幕府に、激震が走ります。
そして――糸子さんは……?
この先がどう転がっていくのか、まだ作者自身にも見えていないところがあります。ただ、物語はまだまだ続きます。
引き続き、糸子たちの行く末にお付き合いいただければ嬉しいです。
この後の「守銭奴姫の商い」編も、ぜひお楽しみください。
それでは、今後とも『近衛姫』をよろしくお願いいたします m(_ _)m




