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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百三十九話「糸子のお嫁入り編―御用の間①」

一

 弥生二十三日、昼四つを少し過ぎたころ、平岡円四郎は御用の間の支度を終えて詰所へ戻った。


 座敷には、円座を六つ置いた。


 正面には、姫君のための御簾を立てた。その御前に幕府方の席を並べる。中央に殿の座、その脇に一つ、下手に二つ。御使者の座は、殿の座とは別に、御簾に近い側へ設けた。


 二十日には、姫君の座を隔てていたのは几帳だった。今日は違う。御簾を立てよと、殿から直々に御指図があった。


 襖の際には、平岡自身が坐る場所を設けた。そこに円座はない。書役の文机も、今日ばかりは置かれていなかった。


 支度は半刻もかからなかった。円座を運ばせ、御簾を立てさせる。障子の桟に埃が残っていないか、自分の目でも確かめた。殿の座の脇には、硯箱を一つ置いた。何に使うのかは聞かされていない。ただ、置いておけと命じられただけである。


 二十日の支度も平岡がした。だが、あの日とは座の数も違えば、御簾の内に姫君がおられることも違う。そして今日は、自分もこの場に残る。


 座敷を出る前に、平岡は襖の際に立ち、もう一度部屋を見渡した。


 正面には御簾がある。その御前に、殿を首座とする幕府方の席が並んでいる。


 ここからなら、御簾の正面がよく見える。殿のお顔は横から見ることになる。


 平岡はそれだけ確かめて、座敷を出た。


 殿がなぜこの位置を選ばれたのかも、平岡には分からなかった。


 詰所の文机には、朝からの書付が少しずつ溜まりはじめていた。平岡はそれに手を付けず、膝の上で手を揃えたまま、奥のほうへ耳を向けていた。


 書院から、声がかかった。


「平岡」


「はっ」


 平岡は立ち上がり、廊下へ出た。


  *


 慶喜は書院の上座に坐っていた。肩衣はもう着けている。膝の前には、今日も何も置かれていなかった。


「障子を閉めよ」


 平岡は敷居の内へ入り、障子を閉めた。


「廊下に、誰か置いたか」


「いえ。御用の間の支度のほかは、表の者に用を言いつけておりませぬ」


「誰も置くな。表の者が来たら、余が呼ぶまで待たせよと、詰所の者に申しておけ」


「……はっ。のちほど申しつけまする」


 慶喜は、平岡が坐り直すのを待った。


「平岡」


「はっ」


「先日の御用の中身を、そなたに話しておく」


 平岡は、顔を上げた。


「近衛様が、儲君の御后に内定なされた」


 慶喜の声は、低かった。


「御門御自らの叡慮である。二十日に水無瀬様が運んでこられた御文に、そう書かれていた」


 平岡は、すぐには何も言えなかった。


 儲君。御后。近衛様。


 一つ一つは知っている言葉である。並べた形が、頭の中で一つの絵にならなかった。


 儲君は、祐宮様である。いまの御門の御子で、いずれ御位を継がれる御方である。その御方の后に、あの姫君が内定なされた。


 この屋敷の奥に住み、横浜の店へ出かけ、英国の代理公使と会ってこられた、あの姫君が…である。


 平岡は、奥御殿の方角へ目をやりかけて、やめた。障子は閉まっている。見たところで、何も見えはしない。


「本日の座で、この話が出る」


 慶喜は続けた。


「この先、この御用の雑務を捌くのはそなたじゃ。中身を知らぬ者には、捌けぬ。ゆえに話した」


「……はっ」


 ようやく、それだけが出た。


 慶喜は、平岡の顔から目を離さなかった。


「他言無用ぞ」


 声の高さは変わらない。ただ、目が違った。


「そなたが洩らせば、余が腹を切るばかりか、一橋が処断される恐れがあると知れ」


 平岡は、主の目を見たまま動けなかった。


 この御方に仕えて、もう長い。叱られたこともある。笑われたこともある。考え事の邪魔をして、一言で黙らされたこともある。どの折にも、主の目にはどこか余裕が残っていた。人を量り、そのうえで相手をしてやる、という余裕である。


 いまの目には、それがなかった。


 平岡は、自分の背中を汗が一筋伝うのを感じた。


 「腹を切る」と主は言われた。「一橋が処断される」とも言われた。


 御三卿の当主が腹を切る。御三卿の家が処断される。そういうことが起こり得る話を、いま自分は聞かされた。起こすかどうかは、自分の口一つにかかっている。


「……心得ましてございます」


 声が、わずかに上ずった。


 慶喜は、それを咎めなかった。


  *


 頭を下げたまま、平岡は二十日からの主の背中を思い返していた。


 書院の同じところに坐り、手も動かさずにいた背中。


 「首座のうちでなければならぬ」とだけ言った声。


 「そなたも控えよ」と言った声。


 御宸翰が届き、そこに后の名があった。宛所の一つは老中首座で、備中守殿はもうすぐ首座を退かれる。


 だから首座のうちに。


 筋が、一本に通った。そして、別のことにも思い当たった。


 霜月の夜である。


 英国の書面の扱いを御用部屋で談じたその晩、平岡は主と二人、控えの間に残って算盤を弾いた。いちばん勝てる者を、いちばん負けられぬ場所へ出す。主がそう言いながら珠を弾く傍らで、平岡も同じ珠を弾いていた。


 あのとき二人が盤に置いた札が、儲君の御后だった。


 平岡は、あの算盤を弾いた自分の手を思い出していた。


 霜月の御用部屋で、備中守殿は反対された。平岡は書役を務めながら、慎重な御方だと思っていた。


 ――「御公儀の始末は御公儀で負え」。


 あの一行を記したのも、平岡だった。


「平岡」


「……はっ」


 慶喜は、しばらく黙っていた。平岡が頭を上げるのを待っているようでもあり、待っていないようでもあった。


「本日の座で、そなたは何も申さずともよい。書くこともない。見ておれ」


「はっ」


「座が退けたあと、余が申しつけることを、そのとおりに捌け。誰に何を下ろし、何を下ろさぬか。それは、その折に申す」


「……承りまする」


「平岡」


「はっ」


「御門の御用じゃ」


 慶喜は、それだけ言った。それ以上は、何も足さなかった。


 御門の御用だから、仕損じてはならぬということか。それとも、御門のためなら余の身などどうでもよいということか。


 平岡には、どちらとも取れた。そして、おそらくどちらも間違いではないのだろうと思った。


 主は水戸の家に生まれ、朝廷に弓を引いてはならぬと教えられて育った御方である。


「承りましてございます」


 平岡は、畳に額が付くまで平伏した。


「下がってよい。支度が済んだら、玄関で備中守殿をお待ちせよ」


「はっ」


 平岡は膝で下がり、敷居の外で一礼して障子を閉めた。


 廊下を詰所のほうへ歩きながら、両の掌が湿っているのに気づいた。平岡は歩みを止めずに、手のひらを袴で拭った。一度では足りず、もう一度拭った。


 詰所の者に、表の者を書院へ近づけるなと申しつけた。申しつける声は、いつもと同じに出た。


 文机の前に坐り、溜まった書付の一番上を取った。勘定所からの照会である。文字は目に入ったが、何が書いてあるのかが頭に入ってこなかった。平岡は書付を元の束へ戻した。


 備中守殿の乗物が着くまでには、まだ一刻ほどある。


 その一刻のあいだに、平岡は、自分の顔を元に戻しておかねばならなかった。座には、備中守様も、周防守様も、総裁職様も来られる。殿の家臣が青い顔で襖の際に坐っていれば、何かあったと見る御方ばかりである。


 平岡は、文机の上の硯に水を差し、ゆっくりと墨を磨りはじめた。書くものはない。手を動かしているあいだだけ、頭が静かになった。


二

 九つ半を少し過ぎたころ、西の丸下のほうから乗物が一挺、表門をくぐってきた。


 平岡は、その前から玄関の式台に膝をついて待っていた。


 表門のあたりで、供の者の声がした。乗物が止まり、供の者が草履を揃える。脇に付いて歩いてきた男が、乗物の戸に手を掛けた。佐倉の家老、平野殿である。二十日にも同じように戸を開けていた。


 戸が開いた。


 堀田正睦が、平野の手を借りて乗物から出てきた。


 平岡は頭を下げた。


 二十日に見たときより、また痩せておられた。裃の肩が、骨の形のまま角張って見える。足を式台に掛けるとき、平野が肘を支えた。堀田はそれを払わず、支えられたまま上がってきた。


「備中守様。お運び、痛み入りまする」


「平岡殿。……世話をかける」


 声は、二十日より掠れていた。


 平野が、式台の下で頭を下げた。


「手前は、供待ちにて控えまする」


「うむ」


 平野の懐のあたりが、少し膨らんでいた。煎じ薬の包みだろう、と平岡は思った。


「平野殿。供待ちには、白湯を絶やさぬよう申しつけてございます。何かあれば、表の者に」


「かたじけのうござる」


 平野は、それ以上何も言わず、供待ちのほうへ下がっていった。一度だけ、主の背中を振り返った。


 座敷の中で何が話されるのか、平野殿は知らない。今朝までは、自分も知らなかった。平岡はそう思いながら、堀田の前に立った。


「御用の間へ、ご案内申し上げます」


「頼む」


  *


 平岡が先に立ち、表の廊下を奥へ進んだ。


 堀田の足音は、平岡の足音の半分ほどの間でしか続かなかった。平岡は歩みを緩めた。緩めすぎると、堀田に気を遣わせる。三歩ごとに一度、背後の足音を確かめた。


 一つ目の角を折れたところで、足音が止まった。


 振り返ると、堀田は柱に手を添えて立っていた。目を閉じ、浅い息を何度か繰り返している。


 平岡は、何も言わずに待った。


 やがて堀田が目を開け、柱から手を離した。


「相済まぬ」


「いえ」


 平岡はまた歩き出した。


 二つ目の角の手前で、堀田が平岡のほうを見た。


 何かを確かめるような目だった。二十日、平岡は人払いされて廊下の先にいた。今日は、こうして案内に立っている。堀田は、それに気づいたのかもしれなかった。


 平岡は、目を伏せた。


 今朝、平岡が何を聞かされたのかを、堀田はまだ知らない。


 平岡は目を伏せたまま、二つ目の角を折れた。


  *


 御用の間には、まだ誰もいなかった。


 堀田は敷居の手前で一度立ち止まり、座敷の中を見渡した。


 堀田の目が、襖の際の、円座のない席で少し長く止まった。


 平岡は、何も申し上げなかった。


 障子越しの昼の光が、畳の上に白く落ちている。殿の座の脇に置かれた硯箱が、その光の端に入っていた。


 堀田は下手の円座の前まで来ると、手を畳について、ゆっくりと坐った。坐り終えてから、一度大きく息を吐いた。


 平岡は堀田が坐るのを見届けて、襖の際の自分の席へ退いた。


 ほどなく、廊下に足音がした。


 松平春嶽が入ってきて、堀田に軽く会釈をし、幕府方の首座の脇に設けられた円座に着いた。


「備中守殿。お加減は」


「ごらんのとおりでござる」


 春嶽は、それ以上は問わなかった。


 続いて、板倉勝静が入ってきた。


 板倉は敷居を越えたところで、堀田の姿を目に入れた。足が、半歩だけ止まった。


 それから何も言わずに堀田の隣の円座まで進み、腰を下ろした。堀田のほうへは顔を向けず、膝の上に手を置いた。二人の肩の間は、二十日よりも狭かった。


 最後に、慶喜が入ってきた。


 慶喜は御簾の前に設けられた幕府方の首座に着き、座を見渡した。


 今朝の書院で見た目とは、もう違っていた。いつもの、人を量る目である。どちらが本当の主なのかを、平岡は考えかけて、やめた。どちらも本当なのだろう。


 慶喜の目が、下手の堀田のところで少し長く止まった。堀田が頭を下げると、慶喜も軽く頷いて返した。


 その目が襖の際で止まった。平岡は頭を下げた。


 堀田が、平岡の席に目をやった。それから上座の慶喜を見た。


 慶喜は、小さく頷いた。


 堀田は、それで分かったらしかった。何も言わず、膝の上の手を重ね直した。


 座敷の誰も、口を開かなかった。


 春嶽は扇を膝に置き、障子のほうを見ていた。板倉は膝の上に手を置いたまま、目を伏せている。堀田は浅い息を整えていた。慶喜は、向かいの空いた座を見ていた。


 向かいには、御使者の座と、御簾を立てた姫君の座が、まだ空いていた。


 廊下の奥から、衣擦れの音が近づいてきた。


三

 奥御殿から表へ出る渡り廊下を、糸子は葵と二人で歩いた。


 水無瀬殿は、先に表へ回っている。御使者として座に入る者が、姫君の後ろから入るわけにはいかない。昨夜、水無瀬殿がそう言って段取りを組んだ。


 廊下の板は、朝のうちに拭き上げられていた。庭の藤は、昨日より少し下まで咲き降りている。


 糸子は、懐に手を当てた。書付と、父の返書が入っている。返書を出すかどうかは、座で決める。昨夜そう決めて、文箱の手前へ移しておいたものである。


「姫様」


 後ろから、葵が小さく呼んだ。


「はい」


「お召しの襟が、少し」


 葵は糸子の前へ回り、襟元を指先で一度だけ整えた。それから、また後ろへ下がった。


 葵は、今日の座が何の座なのかを知らない。一橋殿の御用の間へ、姫様が呼ばれた。分かっているのはそれだけのはずである。それでも、襟を直す指はいつもより丁寧だった。


「葵」


「はい」


「今日は、少し長くなります。次の間で、退屈でしょうけれど」


「退屈いたしませぬ。お待ち申し上げております」


 葵は、それだけ答えた。何があるのかを、やはり訊かなかった。


 表の廊下へ入ると、空気が変わった。奥の廊下には香の匂いがわずかに残っているが、表にはそれがない。墨と、古い畳の匂いがする。


 次の間の敷居の手前で、葵が膝をついた。


 その間には、ほかに誰もいなかった。表の者は、廊下の角から先へは来ないよう言いつけられているのだろう。


「わたくしは、こちらに」


「ええ」


 葵はそれ以上前へは出ない。糸子が奥の座に着くときは、いつもそうしてきた。


 水無瀬実光が先に立って御用の間へ入り、御使者の座に着いた。糸子はそのあとに続き、御簾の内の円座に坐った。


 御簾越しに、幕府方の座が見える。


 顔までは、簾の目に紛れてはっきりとは見えない。


 御簾を境にして、こちらに朝廷の御使者が坐り、その御前に幕府方が並んでいる。その幕府方のいちばん上に、一橋殿がいる。


 御簾を立てたのは、一橋殿の御指図だと水無瀬殿から聞いている。


 五摂家の姫が朝廷の御使者として武家の座に出る。ならば、御簾を立てて隔てるのが本来の形である。その形を整えておくのは、座を設ける側の礼だった。


 巻き上げるかどうかは、こちらが決めてよい。


 御簾の内に坐ったまま話せば、こちらの顔は向こうに見えない。見えないまま話すのは、楽である。その代わり、向こうの顔もこちらからよく見えない。


 今日は、顔を見て話す座だった。


「水無瀬殿」


「はっ」


「御簾を、上げてくださいまし」


 実光は膝で進み、御簾の脇へ寄った。巻き上げる手つきは、急がない。下の端から少しずつ巻き、上まで巻き上げたところで紐を取り、柱の掛け金に掛けた。


 去年の葉月、この屋敷の奥の座敷で、実光は同じように御簾を巻き上げた。あのときも、一橋殿は同じ座におられた。


 簾の目が消えて、座の顔ぶれがはっきりと見えた。


 一橋殿。総裁職殿。周防守殿。襖の際に、平岡殿。


 そして、備中守殿。


 糸子は、そこで目が止まった。


 水無瀬殿から、お加減の様子は聞いていた。


 聞いて、分かったつもりでいた。


 目の前にいる御方は、その話よりもずっと小さかった。


 頬の肉が削げて、骨の形がそのまま顔に出ている。目のまわりは黒ずみ、目だけが、前と同じ光を残していた。膝の上に重ねた手は、指の節ばかりが目立った。裃の肩が、からだの線から浮いていた。


 以前にお会いした折の備中守殿を、糸子は覚えている。暮れの談判のあと、一橋殿の座敷でお見かけしたときである。あのころも痩せてはおられ、時折、袖で口元を押さえておられた。それでも、肩は今日ほど細くはなかった。


 病が重くなられてから、自分の目でこの御方を見るのは、今日が初めてだった。


 糸子は、すぐには口を開かなかった。


 昨夜、書付の一行も消さなかった。この座は短くはならない。


 その座に、いま目の前にあるお身体で、始めから終わりまで坐っておられる。


 本題は、まだ出さない。御返事を受けるのも、少しだけ待っていただく。先に言っておかねばならないことがあった。


「備中守殿」


「……はっ」


「もしお辛くなりましたら、いつでもお申し付けくださいまし。休みも挟みます」


 座の誰も、口を挟まなかった。


「座が中断いたしましても、やり直しはいくらでもききまする」


 糸子は、少しだけ言葉を置いた。


「なれど、備中守殿のお身体は、一つにございます」


 備中守殿は、すぐには答えなかった。


 糸子のほうを、まっすぐに見ていた。


「かたじけのう存ずる」


「……それがし、まだ大丈夫でござる」


 声は掠れていた。目は、少しも揺れていなかった。


 総裁職殿が、小さく息を吐いた。一橋殿は、黙っておられた。周防守殿は、膝の上の手を一度だけ握り直した。


 首座としての最初の御用を周防守殿に、と伝言をくださった御方である。首座を退かれる前に、この座へ出てこられた。止めたところで、お止まりにはならないだろう。


 糸子は、頷いた。


「承知いたしました。ただ、お辛くなりましたら、そのときは、わたくしのほうから止めさせていただきまする」


 備中守殿は、何も言わずに頭を下げた。


  *


 糸子の目が、襖の際へ移った。


 平岡殿は、膝の上に手を揃えて坐っていた。顔色が、少し白い。


 糸子が口を開くより先に、一橋殿が言った。


「平岡には、話してある」


 短い声だった。


 糸子は、一橋殿の顔を見た。こちらを見据えていた。


 江戸で知る者が、また一人増えた。


「承知いたしました」


 糸子は、それだけを返した。


 一橋殿は、なぜ話されたのか。訊けば、答えてくださるだろう。座の雑務を捌く者が中身を知らなければ、この先の御用が回らない。そういう答えになるはずである。


 筋は、通っている。


 それに、知る者を増やしたのは一橋殿で、その重さを負われるのも一橋殿だった。糸子が重ねて念を押せば、一橋殿の家臣を信じていないと言うのと同じになる。


 襖の際で、平岡殿が深く頭を下げた。


 頭を上げた平岡殿の顔は、まだ少し白かった。今朝、聞かされたばかりなのだろう。座に入ってくる前に何をどう言われたのか、そこまでは糸子の知るところではなかった。


 糸子は、御使者の座の水無瀬殿へ目を移した。


 水無瀬殿が、小さく頷いた。


 座は整った。


四

 堀田は、姫君の言葉を胸のうちで繰り返していた。


 『お身体は、一つにございます』


 あの姫君が、座の初めに、本題を出す前にそう言われた。


(それがしを気遣って……)


 堀田は、膝の上の手を見た。指の節が、自分の目にも尖って見えた。


 姫君の目にも、そう見えたのだろう。


 御簾が上がったとき、姫君の目は、座の顔ぶれを順に追っていた。後見職様、総裁職様、周防守。そこで止まった。


 堀田のところだった。


 ほんの一瞬、姫君の目が大きくなった。すぐに元に戻った。


 あの姫君が、驚かれた。


 暮れの談判のあと、後見職様の座敷で同じ座に着いたときも、堀田は姫君が驚く顔を見なかった。人づてに聞く話の中でも、そういう姫君はいなかった。


 驚かせたのが自分の痩せた身体だというのは、少しも誇らしいことではない。それでも堀田は、姫君の顔に一瞬浮かんだものを、胸の中にしまっておいた。


「では」


 春嶽が、懐に手を入れた。


 取り出したのは、白い紙を折り包んだ書状だった。御返事の文を整えたのは、春嶽だった。


 昨日の午後、西の丸下の役宅にその写しが届いた。堀田は床の上でそれを読んだ。


 読み終えて、筆を取ることはなかった。


 直すほどの文ではない。御宸翰に記された二つの条に対して、御公儀から申し上げられることは限られている。余計な言葉を重ねれば、それだけ先方の意を測ろうとする文になる。


 二十日の座で、水無瀬は言っていた。


 問いがあれば、左大臣様へ。ならば、こちらから余計なことを申す必要はない。堀田は、書状をもう一度読み返した。


 短いほうがよい、と総裁職殿も考えられたのだろう。


 春嶽は書状を膝の前で開き、座の皆に見えるよう、少し向きを変えた。


 文は短かった。


『御宸翰の御趣、謹んで承り候。御公儀においては、その御用に障りなきよう相勤め申すべく候。』


 それだけである。宛は、御門。差出の名は、御職の名で三つ並んでいる。将軍後見職、政事総裁職、老中首座。


 後見職と総裁職の名の下には、すでに花押が据えてあった。


 老中首座の名の下だけが、空いていた。


 この硯箱が上座の脇に置かれていたのは、そのためだったのか、と堀田は思った。座に入ったときから目に入っていた。


 春嶽が、硯箱を堀田の前へ進めた。墨は、もう磨ってある。


「備中守殿」


「……うむ」


 堀田は、筆を取った。


 穂先に墨を含ませ、紙の上へ運ぶ。


 手が、震えた。


 堀田は筆を宙で止めた。穂先から墨が落ちないうちに、紙から少し離す。一度、息を吐いた。それから、もう一度紙の上へ下ろした。


 筆が紙に触れた。


 花押は、何千と据えてきた形である。手が覚えていた。震えは、紙に触れた途端に収まった。


 最後の払いまで引いて、筆を上げた。


 首座の名で据える花押は、これが最後になるのかもしれない。


 堀田はそれ以上を考えずに、筆を硯箱へ戻した。


 首座に就いてから、この花押を幾度据えたかわからない。異国との条約の写し、諸藩への達し、勘定所の伺い――


 そのたびに、御公儀の名で何かを約してきた。その多くは守られたが、果たされなかったものもある。


 今日据えた一つは、御門に対して、御公儀がこの姫君の御用に障りをなさぬと約したものである。


 守るのは、周防守の代になる。


 春嶽が書状を取り上げ、墨の乾くのを確かめてから畳んだ。


「水無瀬様。御門への御返事にござる。お納めくだされ」


 春嶽は膝を進め、書状を両手で差し出した。


 水無瀬は膝で進んで、両手で受けた。額の高さまで押し戴き、膝の前で袱紗を開いて包み、懐へ納めた。


「確かに、お預かり申し上げまする」


 座の皆が、頭を下げた。


 水無瀬は、この御返事を京へ運ぶ手立てを、もう決めているのだろう。堀田は問わなかった。御宸翰が伝奏も所司代も通らずに届いた以上、御返事も同じ道を戻るのが筋である。


 御公儀の帳面には、今日、御返事を出したという一行だけが残る。中身は、残らない。


  *


 これで、御宸翰の件には片がついた。


「首座のうちでなければ出せぬ」と平野には伝えておいたが、なんとか間に合った。これで周防守殿には、けじめのついた一件として引き渡せる。


 だが、この座はここで終わらない。


 堀田は、御簾の上がった座のほうへ目をやった。


 姫君は、まだ何も出しておられない。膝の上で手を重ね、水無瀬が御返事を懐へ納めるのを見ておられた。顔つきは、座に入ってこられたときと変わらない。


 襖の際の平岡殿が、膝の上の手を握り直したのが見えた。


 後見職様が平岡殿をこの座に置かれた訳は、堀田にもおおよそ読めた。


 帳面は、これから開かれる。


 胸の奥で、咳がせり上がってきた。


 堀田は口を閉じたまま、鼻からゆっくりと息を吐いた。吐き切ってから、浅く吸う。もう一度吐く。


 咳は、喉の奥で止まった。


 隣で、周防守殿がわずかに身じろいだ。堀田は、そちらを見なかった。


五

 水無瀬殿が懐に手を当て、御使者の座へ戻った。


 糸子は、そこで初めて口を開いた。


「御返事、確かに」


 それから、座の皆を見渡した。


「いま一つ、御公儀のお耳に入れておきたいことがございまする」


 一橋殿の目が、糸子に向いた。


「弥生の十五日、わたくしは横浜の増徳院にて、英国の代理公使ニール殿とお会いいたしました。横浜へ出ますことは、江戸を発ちます前の晩に、外国奉行の一色殿へお届けしてございます」


 周防守殿が、小さく頷いた。届けのことは、御用部屋に上がっているのだろう。


「お会いしたのは、天朝の座にてでございます。増徳院の客殿を、天朝の名でお借りいたしました。ニール殿は、その座で、わたくしに詫びを入れてくださいました」


「寺を、でござるか」


 総裁職殿が、少し首を傾けた。


「はい。横浜で座敷のある屋敷を借りれば、たいていは御公儀のお役所か、御役人の御屋敷になります。そこでお会いすれば、その座は御公儀の座になりましょう。英国の公使館へ参れば、英国の座になります」


 糸子は、言葉を区切った。


「どちらの座でもない場所を、天朝の名でお借りいたしました。増徳院は、横浜村に古くからある寺でございまする」


「なるほど」


 総裁職殿は、それで頷いた。


 周防守殿は、何も言わなかった。ただ、細い目がわずかに動いた。御公儀の座にしなかった、という一言を、聞き流さなかった顔だった。


「詫びとは?」


 総裁職殿が問うた。


「暮れの談判の座に、御自身がお出にならなかったことへの詫びでございます。書記官を代わりに出し、前もって御自身のお言葉も届けなかった、と。軍人の礼で、御自身のお口から申されました」


「代理公使が、自ら」


「はい」


 総裁職殿は、しばらく黙っていた。


 暮れの談判の座に代理公使が出てこなかったことは、御公儀の者なら皆知っている。


「詫びの文は」


「ございませぬ。お言葉だけでございます。わたくしも、文は求めませなんだ」


「……さようか」


 総裁職殿は、それ以上は問わなかった。


 文が残らなければ、御公儀が詫びの中身を問われることもない。総裁職殿は、それを量っておられるようだった。


 糸子は、次へ進んだ。


「詫びのしるしとして、英国から品をいただくことになりました。機械と、その機械を据えて動かせるようにする技師などでございます。もっとも、ニール殿お一人でお決めになれることではございませぬゆえ、英国本国の了解しだいとなりまする」


「受け手は」


 周防守殿だった。細い目が、糸子を見ていた。


「天朝でございます」


 糸子は、すぐに答えた。


「品をお受けいたしますのは、わたくしではなく、天朝でございます。このことは、御門の御内諾を賜っておりまする」


「目録の受け手も、天朝と…?」


「はい。初め、英国の書記官はわたくしの名を書きましたので、天朝と書き直していただきました」


 周防守殿は、それ以上は問わなかった。何かを頭の中で書き留めたような顔をした。


「品の数は、いかほどでござろうか」


 今度は、備中守殿だった。


「いまはまだ、本国の返事しだいでございます。返事が参りまして、品が定まりましたら、荷が横浜へ着きます前に、改めてお届けいたしまする」


 備中守殿は、短く頷いた。荷が横浜に着けば、いずれ運上所の帳面に載る。備中守殿は、短く頷いた。荷が横浜に着けば、いずれ運上所の帳面に載る。そのときに御公儀が初めて知るのでは困る。備中守殿の問いは、そこを確かめるものだった。


「それから、その技師のことでございます」


 糸子は、言葉を区切った。


「技師が機械を据えますには、居留地の十里の外へ出ねばなりませぬ。そのためには、御公儀のお許しが要ります。ニール殿にも、そのように言われました。わたくしは、その許しのことはこちらで…とお答えしてございます」


 座が、少し静かになった。


 御公儀の許しを、御公儀に断りなく、こちらで、と答えた。それが座の皆に聞こえたのが分かった。


 糸子は、そのまま四つ目へ進んだ。


「最後に、もう一つ。ニール殿より、朝廷と英国とのあいだの窓口になってはくれぬか、と持ちかけられました」


 一橋殿の眉が、わずかに動いた。


「当然、お断りいたしました」


 総裁職殿が、膝の上の扇を持ち直した。


「近衛様。そのわけを、伺うてもよろしいか」


「はい」


 糸子は、少しも間を置かなかった。


「わたくしが、面倒でございますゆえ」


 総裁職殿が、咳払いをした。思わず出たらしい咳払いだった。


 周防守殿の細い目が、わずかに開いた。


 一橋殿の眉が、もう一度動いた。今度は、少し高く上がった。


 襖の際で、平岡殿が膝の上の手を握ったのが見えた。笑いをこらえたのか、驚いたのか、糸子には分からなかった。


「……面倒、と」


 総裁職殿が、扇を持ったまま言った。


「代理公使に、そう申されたか」


「はい。英語で、そのままに」


「ニール殿は、何と」


「しばらく、何もおっしゃいませなんだ」


 総裁職殿は、もう一度咳払いをしかけて、やめた。


 英国の代理公使が、朝廷の使者に窓口を頼み、面倒だと断られて黙った。御公儀の座で語るには、妙な話である。総裁職殿の顔には、その妙さをどう受け取ればよいのか迷っている色があった。


 糸子は、そこで言葉を継いだ。


「ただ、英国が日本と本気で誼を結ぶおつもりなら、骨を折らぬでもない、とは申し上げました。骨を折るのは、商いの形に限ります、とも」


「商いの?」


「はい。天朝物産会所が、英国の商い手と商いをいたします。それならば、条約の内のことでございます。朝廷が御公儀の頭越しに異国と何かを約すことは、いたしませぬ。ニール殿にも、それは申し上げてございまする」


 総裁職殿は、扇の先を膝の上で軽く当てた。


「近衛様。英国は、朝廷に何を望んでおると見られた」


「異国のあいだで、先に立ちたいお考えと見受けました」


 糸子は、それだけを答えた。


「米国が国の内の戦で手一杯で、日本に力を割けずにおります。そのあいだに、ほかの国より先に立っておきたい。英国のお考えは、そのあたりでございましょう」


「異国のあいだで…のう」


「はい。日本の内の商いは、日本の者が握ります。そのことも、ニール殿にはっきり申し上げ、承知していただきました」


 総裁職殿は、ゆっくりと頷いた。


 一橋殿は、まだ何も仰せにならなかった。扇を閉じたまま膝の上に置き、糸子の顔を見ておられた。何を量っておられるのかは、その顔からは読めなかった。


 糸子がそこまで言ったとき、下手の座で咳が上がった。


 備中守殿だった。


 袖で口元を押さえ、身を前へ屈めておられる。一つ、二つ、三つ。咳は止まらなかった。周防守殿が、膝を半分だけ備中守殿のほうへ向けた。


 糸子は、言葉を切った。


 しばらく、座の誰も口を開かなかった。


 咳が、少しずつ間遠になっていった。備中守殿は懐紙を出し、口元を拭って畳み、懐へ戻された。


「備中守殿。休みを挟みましょうか」


 備中守殿は、空いているほうの手を軽く上げた。


「……続けられよ」


 糸子は、すぐには続けなかった。


 備中守殿の息が整うのを、待った。肩の上下が小さくなり、膝の上の手が元の位置に戻るのを見届けた。


 座敷が、また静かになった。


 障子の外で、表の者が廊下を通っていく足音がした。足音は御用の間の前で一度遅くなり、それから遠ざかっていった。


 それから、糸子は口を開いた。


「英国の件で、御公儀に申し上げておくことは、以上でございます」


  *


 最初に口を開いたのは、周防守殿だった。


「十里の外の件、確かめさせていただきとうござる」


「はい」


「居留地の外への異人の通行となれば、外国奉行と、神奈川奉行の掛かりになりまする。どちらにも、話を下ろさねばなりませぬ」


 周防守殿は、膝の上で指を一本立てた。


「技師は、幾人ほどになりましょうか」


「いまはまだ、数は分かりませぬ。英国本国の返事しだいでございます」


「行き先は」


「生糸の産地の村々でございます」


 糸子は、それだけ答えた。


 周防守殿は、少し待っていた。続きがあるのかを、確かめるような間だった。続きはなかった。


「相分かり申した。数と行き先が決まりましたら、改めて伺いまする」


 周防守殿は、指を下ろした。


 生糸の産地へ機械を据えて、その先に何があるのか。周防守殿は、そこまでは問わなかった。


 この御方は、首座を継がれる。上意はまだ下りていない。それでも、話を下ろす先を、もう自分で数えておられた。


 次に口を開いたのは、備中守殿だった。


「近衛様」


「はい」


「英国の口から先に聞かずに済み申した」


 短い一言だった。


「御公儀が、英国の書記官あたりの口から、朝廷の御使者が代理公使に会うたと聞かされておれば、何も知らぬ顔で受け答えをせねばならぬところでござった」


 声は掠れていたが、言葉は途切れなかった。


 糸子は、頭を下げた。


「それから、窓口の件でござる」


 備中守殿は、少し息を継いだ。


「朝廷の御使者が英国の窓口になっておれば、条約を結んだ御公儀の立つ瀬がござらぬ。英国はいずれ、御公儀を飛び越えて朝廷と話そうとするでござろう。……それを、姫君のほうから断ってくださった」


 声が、そこで一度途切れた。


「御公儀としては、礼を申さねばならぬところでござる」


「恐れ入ります」


 糸子は、もう一度頭を下げた。


 頭を下げながら、糸子は備中守殿の言葉を胸の中で並べ直した。


 御公儀の立つ瀬。

 御公儀としては。


 この御方は、病の身体でも、御公儀の身体面を量る物差しを手放しておられない。御返事に花押を据えた手で、いまもその物差しを持っておられる。


 一橋殿は、まだ口を開いておられなかった。


六

 平岡は、襖の際から座を見ていた。


 姫君の話は、四つで終わった。


 どの話にも、余計な言葉がなかった。英国から何がいくつ来るのか、姫君は言わなかった。生糸の産地の村々で何をするのかも、言わなかった。周防守殿が問えば答え、問わなければ足さない。


 話す前から、何を言い、何を言わないかを決めて、この座へ来ておられる。


 平岡には、それが分かった。だで、背中がまた冷たくなった。


 平岡は、いつもなら筆を持って座の端にいる。書役が置かれる座では、誰が何を言ったかを書き取り、あとで殿に差し出す。今日は、筆を持たずにいる。持っていなくても、手が勝手に動きそうになった。書いておけば、あとで殿にお見せできる。


 殿は「書くな、見ておれ」と言われた。


 書かずに覚えておくことにした。姫君が話した四つのこと。総裁職様の問い。周防守様の問い。備中守様の一言。そして、殿が、自分のことを告げられたほかは、まだ何も口にしておられないこと。


 霜月の御用部屋の座でも、殿はしばらく黙っておられた。霜月の御用部屋の座でも、殿はしばらく黙っておられた。黙ったまま皆の言い分を聞き、最後に一言で座をまとめられた。


 今日の殿の沈黙は、あのときの沈黙とは違って見えた。


 今朝、書院で主から聞かされたことを、この座の姫君は、いつからか、ずっと胸に抱えておられたのだろう。抱えたまま、英国の代理公使と向かい合い、詫びを入れさせ、面倒だと窓口を断った。


 総裁職様が、口を開いた。


「近衛様。よう知らせてくださった」


「恐れ入りまする」


 総裁職様は、穏やかな顔で頷いた。


「英国のことは、御公儀にとっても、知っておかねばならぬことばかりでござった。備中守殿の申されたとおりでござる」


 総裁職様は、下手の堀田のほうへ一度顔を向けた。堀田は、軽く頭を下げて返した。


 座が、少しだけ緩んだ。


 周防守様が、膝の上の手を一度ほどいた。備中守様の肩の上下も、さっきより小さくなっていた。総裁職様は扇を開きかけて、また閉じた。


 御返事が済み、英国の件の報告が済んだ。今日の座はこれで終わる、と思っている者がいても、おかしくはなかった。


 平岡自身、少しそう思いかけていた。


 今朝、書院で聞かされたのは、近衛様の内定のことだけである。この座でその話が出る、と主は言われた。御返事を渡すことで、その話は済んだように見える。


 姫君は、まだ膝の上の手を動かしておられなかった。


 座の皆が緩んでも、姫君の背は、座に入ってこられたときのまま伸びていた。御簾が上がったときに見た背と、少しも変わらない。


 平岡は、緩みかけた自分の膝を、座り直して締めた。


 そのとき、幕府側の座で扇が鳴った。


 殿が、閉じていた扇を膝の上で一度だけ返した音だった。


「技師の件は」


 この座で読者がまとまった言葉を出したのは、初めてだった。


「追って、外国奉行に申し付けよう。数と行き先が決まれば、周防守から神奈川奉行へも下ろさせる」


 周防守様が、小さく頭を下げた。


「英国が本国の返事を寄越すまでに、こちらの支度を済ませておく。御公儀が許しを渋って、英国の技師を居留地で待たせるようなことがあっては、御公儀の顔が立たぬ」


 平岡は、主の言葉を一つずつ聞いていた。


 御公儀の顔が立たぬ。主は、そう言われた。英国の手前のことを言っておられるのか、姫君の手前のことを言っておられるのか、平岡には分からなかった。


「ありがとう存じまする」


 姫君は、殿に向かって頭を下げた。


 頭を上げた姫君は、すぐには何も言わなかった。


 膝の上で、重ねていた手を一度ほどき、また重ねた。


 平岡は、その間を見ていた。


 短い間だった。座の誰も、口を挟まなかった。総裁職様は扇を持ったまま、周防守様は膝の上に手を置いたまま、姫君の次の言葉を待っていた。


「ついては」


 姫君が言った。


 声の高さは、それまでと変わらなかった。


「その許しのことも含めまして、本日、もう一つ申し上げねばならぬことがございます」


 姫君は、幕府側中央の座の殿を見た。


 その目を、平岡は奥際から見ていた。


 怒っている目ではなかった。責める目でもなかった。英国の件を話していたときと、同じ目だった。何が起きたかを、順に申し上げる。それだけの目である。


 それが、かえって恐ろしかった。


「暮れの、英国との談判のことにございまする」


  *


 平岡の目に、座の皆が一度に映った。


 殿の手の中で、扇が止まった。返しかけたまま、扇の先が膝から少し浮いていた。


 備中守様が、目を閉じた。


 周防守様が、背を伸ばした。細い目が、まっすぐ姫君のほうへ向いていた。


 総裁職様が、殿の横顔を見た。


 平岡は、膝の上で手を握った。掌が、また湿っていた。


 技師の件は外国奉行に申し付けよう、と殿は言われたばかりである。姫君は、その一言に礼を述べた。礼を述べたうえで、その許しのことも含めて、と言われた。


 殿が申し付けると言われた許しも、これから姫君が並べられる勘定の中に入る。そう言われたのだ。


 今朝、書院で主の目に余裕がなかったわけが、ここでもう一つ分かった。


 主が恐れていたのは、この一言だった。


 姫君が英国の件で並べたのは、どれも暮れの談判のあとに起きたことである。


 暮れの談判そのものには、まだ一言も触れておられなかった。


 霜月の夜、控えの間で弾いた算盤の珠が、いま、姫君の口から一つずつ数え直されようとしている。


 第二百三十九話 了

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