第二百三十七話「糸子のお嫁入り編―もう一人の五摂家の姫君」
一
雨の音で目が覚めた。
まだ暗い。寿栄君は夜具の中でじっと耳を澄ませた。細かい雨が、広い屋根に一様に降りかかっている。強い降りではないが、切れ目もない。
音は、上からしか聞こえてこなかった。
去年までの雨の夜には、音が二つあった。屋根を打つ音と、部屋の内で何かに落ちる音である。
この居間の北の隅、天井板に茶色い染みが広がっているあたりから、降りはじめてしばらくすると滴が落ちてきた。下には桶が置かれ、夜じゅう間を置いて底を打つ。南の廊下寄りにももう一箇所あって、そちらには盆を置いた。長雨の夜には桶が満ちて、侍女が起きてきては水を捨て、また同じところに据えていった。
梅雨どきは匂いもした。日の当たらない几帳の裏の壁ぎわから黴が匂い、文箱に入れておいた古い紙は端から波を打った。十の年の五月雨では新しいところから漏りだして、それがちょうど夜具の上だった。夜中に起こされて隣の間へ寝所を移したことを、寿栄君はいまも覚えている。
雨が上がった朝には、侍女の藤波が濡れたものを縁へ運ばせた。紙は一枚ずつ広げて風に当て、湿った几帳の帷子は外して竿に掛ける。晴れが続けばそれで乾くが、乾ききらないうちに次の雨が来ることもあった。藤波はそのたびに天井を見上げ、黙って桶の位置を確かめていた。
雨というのはそういうものだと思って、寿栄君は育った。屋根に降り、そのいくらかは部屋の内にも降る。どこの家でも同じだろうと思っていた。
弥生の半ば、屋根と天井に職人が入った。
十日あまり、朝から夕まで頭の上で槌が鳴った。そのあいだ奥の女たちは西の一間に寄せられ、寿栄君の文机もそちらへ運ばれた。人が屋根を歩く音を聞きながら古今を写すのは、どうにも落ち着かなかった。職人が引き上げてからは晴れが続き、今朝がそれから初めての雨になる。
寿栄君は夜具を抜け出し、北の隅まで膝で進んだ。
染みのあった天井板は、新しいものに替わっている。ほかの板より木の色が白い。その下の畳に手を当てると、乾いていた。南の廊下寄りも同じだった。
障子を細く開けてみた。外はようやく白みはじめたところで、濡れた庭木が黒く見える。縁の板は庇の内まで乾いていて、軒からの雨だれが縁の外の石を同じ間合いで打っていた。
障子を閉め、畳の上に坐り直す。
屋根の音が、今朝は耳に障らなかった。
「姫様。お目覚めにござりますか」
襖の向こうで低い声がした。
「起きておりまする」
襖が開いて、藤波が入ってきた。
寿栄君がものごころつく前から身の回りを預かってきた老女である。背はいくらか丸くなったが、坐るにも立つにも膝の運びに乱れがない。寿栄君の起き伏しから食の進み具合、言葉づかい、筆の持ち方の癖まで、この屋敷でいちばんよく見ているのがこの人だった。
藤波は敷居の内で手をつき、顔を上げると、まず北の隅を見た。寿栄君がいま見上げたのと同じ天井板である。目が天井から畳へ下り、もう一度天井へ戻った。
「降っておりまするな」
「はい。夜明け前から」
「さようで」
それきり藤波は膝を起こし、廊下へ声をかけた。
「楓。お手水を」
ほどなく、楓が角桶を捧げて入ってきた。
十八になる若い侍女で、着替えや髪の世話、茶の支度など、寿栄君の身の回りを日々受け持っている。顔立ちのやわらかい、よく笑う娘だ。藤波の前ではその笑いを引っ込めているつもりらしいが、たいてい引っ込めきれていない。
楓は角桶を寿栄君の前に置き、湯の加減を手で確かめてから、一度だけ北の隅に目をやった。去年までの雨の朝には、この桶とは別の桶がそこに据えてあった。
顔と手を清めると、身支度に移る。
楓が背に回って髪を梳いた。寿栄君の髪は、坐ると畳の上で長く折れるほどある。櫛を何度も通し、毛先のもつれを指で一つずつほどいていく。雨の朝は髪が重いが、楓の手は急がなかった。
髪が済むと眉である。剃った跡に、藤波が筆で薄く墨を置いていく。額の高いところに、ぼうとした殿上眉が二つ並んだ。藤波はいつも息を止めて筆を運び、描き終えると少し身を引いて左右を見比べる。今朝もそうした。
お歯黒を整え、着替えに移る。卯月の朔日に夏の衣に替えたばかりで、袖を通すとまだ布の手触りが新しい。楓が袴の紐を結び、藤波が襟元を直した。
十二の年から、毎朝この順で身支度をしてきた。顔を清め、髪を梳き、眉を描き、歯を整え、衣を着る。雨の朝も雪の朝も、一日も欠けたことがない。
藤波が襟から手を離した。
「姫様」
「はい」
「今朝は、桶を据えずに済みましてござります」
いつもより少しだけ高い声だった。楓が、ちらりと藤波の顔を見た。この侍女が嬉しそうな声を出すのを、楓も寿栄君も、そう度々は聞いたことがない。
寿栄君は北の隅の白い板をもう一度見上げた。
「快うござりまするな」
「はい。まことに」
藤波は頭を下げた。下げた頭は、しばらく上がらなかった。
二
身支度が済むと、仏間へ行った。
朝の礼拝はどんな日でも欠かさない。灯明の前で手を合わせ、それから神棚の前でも同じようにする。行き帰りの廊下でも雨の音はしていたが、板に滴の跡は一つもなかった。
朝餉は居間に運ばれてきた。膳の品数は多くない。寿栄君はいつもの速さで箸を運び、いつもどおり残さずに食べた。藤波が脇でそれを見ていた。
膳が下がると文机に向かう。
脇には古今和歌集の写本が置いてある。如月に春の部を頭から写しはじめ、弥生のうちに写し終えた。いまは夏の部に入っている。
新しい紙を延べ、夏の部の初めの歌を、写本を見ずに口の中で一度唱えてから筆に墨を含ませた。
『わが宿の池の藤波咲きにけり山郭公いつか来鳴かむ』
(わがやどの いけのふじなみ さきにけり やまほととぎす いつかきなかむ)
書き終えて筆を置いたとき、背後で楓が小さく声をもらした。
「藤波さまの」
すかさず、藤波の咳払いが一つ。
楓は口をつぐんで膝の上に手を揃えた。寿栄君は振り返らなかった。紙の上の藤波が池のほとりの藤の花のことだとは、楓も承知している。承知していて、つい口から出たのだろう。
次の歌に移った。
夏の部は春の部より歌が少ないので、そのぶん一首ずつ丁寧に写すことにしている。時鳥の歌が多い。
鳴くのを待つ歌、鳴いたのを聞いた歌、鳴かずに過ぎた歌。どれも、声ばかりで姿の見えない鳥を詠んでいる。
ときおり筆を止めて、写した歌を口の中で唱えた。目で追った字を声に乗せると、歌が自分のものとして口に馴染む。毎日口にしているから、写本を見なくても次の歌は分かっている。
それでも写本は開いたままにしておく。一字でも違えて写せば、それは古今ではなく、自分の覚え違いになってしまう。
卯の花を詠み込んだ歌もある。時鳥と取り合わせた歌である。一条の庭の垣にも卯の花が植わっていて、この二、三日で白いものが見えはじめた。咲けば藤波が一枝切らせて床に挿すのが、毎年のことだった。
雨は屋根の上で同じ調子で降り続けている。強くも弱くもならない音で、聞いているうちに耳がそれを数えなくなる。筆を運ぶ手も、音に引かれて速まりも遅れもしなかった。
一枚写すごとに紙を脇へ除け、三枚目を除けたところで写本を閉じた。
次は漢籍である。
素読は七つの年に一通り終えた。いまはそのとき読んだ書を、頭から声に出して読み返している。七つのときは音を追うだけだったものが、いまは一句ごとに中身を伴って口から出てくる。
今朝は『大学』を開いた。七つの年、素読のいちばん初めに習った書である。
『大学の道は、明徳を明らかにするに在り。民を親しむに在り。至善に止まるに在り。』
『止まるを知りて后定まる有り。定まりて后能く静かなり。静かにして后能く安し。安くして后能く慮る。慮りて后能く得。』
『物に本末有り、事に終始有り。先後する所を知れば、則ち道に近し。』
一句読むごとに、雨の音の上に自分の声が重なっていく。
読んでいるあいだ、藤波は部屋の隅に控えている。
声が詰まったり読み違えたりすれば、黙って顔を上げる。今日は一度も上げなかった。
この書には、人の上に立つ者の心得を説いたくだりが多い。家を治め国を治める者が、何を先にし、何を後にするか。七つのときには自分に関わる話とは思わなかったし、いまもそれほど思ってはいない。
ただ、父がこれを読ませるわけは、なんとなく分かる気がしていた。いずれどこかの家へ嫁いで、その家の奥を預かる日が来る。そのときに要るものを、父は一つずつ持たせようとしているのだろう。
漢籍を閉じると手習いに移った。
手本は父が選んだもので、古い能書の仮名を写した帖である。一字ずつの形よりも、字と字のつながり、行の流れを習うためのものだった。父はときおり手習いの紙を自分で見る。何も言わずに返す日もあれば、一字だけ指で示して返す日もある。示された字は、翌日から二十枚書き直す。
手本を前に、同じ字を幾度も書く。墨を磨り直し、筆を替えて、また書く。この年になると、字が手本に寄っていくのはほんの少しずつで、昨日の一枚と今日の一枚を並べても違いはわずかしか見えない。それでも書く。
手習いが十枚を越えたころ、藤波が膝を起こした。
「姫様。そろそろ、お手をお休めなされませ」
「はい」
筆を洗わせ、硯に蓋をすると、楓が小さな皿を運んできた。
「本日のお菓子にござります」
若葉の色に染めた干菓子が三つ。卯月らしく、葉の形に押してある。一つ口に入れると、すぐにほどけて甘さが広がった。
楓がこちらの顔を見ている。
「お気に召しましたか」
「はい。美味しゅうござりまする」
楓はほっとしたように笑った。藤波はそれを咎めなかった。
「この雨では、橘も今朝は摘めませなんだ」
楓が床の間を見て言った。花入れには、三日前に楓が摘んできた橘の枝が挿してある。白い花がいくつか開いて、甘い香りが部屋の隅まで届いていた。
「まだ香っておりまする。明日でよろしゅうござりましょう」
「はい。晴れましたら、また」
二つ目の干菓子をつまみながら、寿栄君は写し終えた紙の束に目をやった。
朝に起きて身を整え、礼拝をして膳につき、写し、読み、書く。昼からは琴か香か、花か茶の稽古。日が暮れれば早めに夕餉をとり、夜は灯の下で少し読んで眠る。昨日もそうだったし、明日もそうだろう。
公家の娘とはこういうものだと、父は言う。寿栄君もそう思っている。塀の向こうの家々にも、同じように朝に髪を梳かれ、眉を描かれ、古今を写している姫君がいるはずだった。
三
昼餉のあと文机の上を片づけていると、楓が茶を運んできた。
茶碗を置いても下がらない。膝の上で手を組み直し、ちらりと藤波のほうを見る。藤波は部屋の隅で、寿栄君の衣の綻びを繕っていた。
「楓。何か」
訊くと、楓は少し身を乗り出した。
「姫様。昨日、里下がりから戻った者が申しておりましたが」
「楓」
藤波だった。針を持つ手は止めていない。
「姫様のお耳に、外の噂を入れるものではありませぬ」
楓は肩をすくめて口を閉じた。
寿栄君は藤波のほうへ向き直った。
「藤波。わたくしが訊きました。楓を叱らずにいてたもれ」
針が止まった。藤波はしばらく寿栄君の顔を見て、それから繕い物に目を戻した。
「……障りのないところまでになされませ」
「続けてたもれ」
「はい」
楓は藤波の背を気にしながら声を落とした。
「その者の里は、塀の低い御家々の並ぶあたりにござります。この頃、そのあたりの御家に、仕事を頼まれるところが増えておるそうで」
「仕事を?」
「はい。歌を書いた短冊ですとか、箱の書付ですとか。それに見合うお礼が出るので、暮らし向きが楽になった御家があると申しておりました」
楓は指を一つ折った。
「それから、御所の御手入れのこと。この頃は傷んだところを待たずに直しておるそうで、それにも出入りの者が呼ばれておると。寄附をなさる方もおられるとか」
「どなたが」
楓はもう一度藤波の背を見た。針は動いている。
「近衛様の…」
茶碗に伸ばしかけた寿栄君の手が止まった。
「近衛様の、おかげで……と?」
「はい。その者の里のあたりでは、皆そう申しておるそうにござります。近衛様の姫君が始められた商いの店から、銭が回ってくるのだと。おかげで、雨の漏らぬ家で寝られるようになった御家もあるとか」
楓は北の隅の天井へ目をやりかけて、やめた。
「それで、皆、ありがたいことじゃと申しておるそうにござります」
「楓」
藤波が針を置いた。
「障りのないところまで、と申しましたよ」
「はい。……もう、ござりませぬ」
楓は膝の上で手を揃え直した。
寿栄君は茶碗を取り上げた。茶はまだ温かかった。
楓の話は、里下がりの者から聞いたことを聞いたとおりに並べただけで、自分の目で見たものではない。それでも話しぶりには、聞いた先の人たちが本当に喜んでいたらしい様子が残っていた。
塀の低い家々のことは、寿栄君はほとんど知らない。乗物で前を通っても、小窓の外を白い塀が流れていくだけだ。その塀の内にも、雨が降れば桶が置かれていたのだろう。この居間と同じように。
近衛の姫君が江戸におられることくらいは、寿栄君も知っていた。その姫君のおかげだと塀の低い家々で言われている、というのは初めて聞いた。
茶を飲み終えたころ、廊下に足音がして、取次の女房が膝をついた。
「冷泉様の御方より、姫様へ御文が届いてござります」
楓が受け取り、寿栄君の前に置く。
冷泉家の千草君からだった。寿栄君より一つ年下で、歌の家の姫らしく季節ごとに歌を添えた文を寄越し、寿栄君もそのたびに返しを書く。顔を合わせることは滅多にないが、文の上では長い付き合いである。
薄様の紙に、細い仮名が散らしてあった。卯月に入って衣を替えたこと、庭の卯の花がほころびはじめたことが書かれ、季の歌が一首添えてある。
千草君の手は、去年より筆の運びが落ち着いてきた。歌はいつもどおり題の詠み方を外さず、今度も卯の花の白さを垣根の雪に見立てた、昔から詠み継がれてきた型に沿うものだった。寿栄君は二度読んで、返しに使えそうな言葉を頭の隅に置いた。
その先で話が変わる。父君のもとへ出入りする人から聞いた話だと、断り書きがあった。
『昨今、耳にいたしましたる風聞に、まことに驚き入るばかりのことがございます。』
『近衛の姫君におかせられては、異国の言葉をいとなめらかに操られるとの由にございます。 御門より直々に御役目を賜り、東の江戸へと下向されておられるとか。いつぞやは、メリケンより参りし異人を相手に少しも気後れなされず、見事に論じ負かしてしまわれたとも仄聞いたしました。』
『また、高貴なるお家柄に生まれながら、世俗の商いにも深く関わっておいでとか。京の麗しき名産を調える店を始められ、それが江戸の地にてたいそう繁盛しているとの噂、まことに世にも稀なる才覚にございますこと。』
読み進めると、筆が少し乱れていた。急いで書いたのか、仮名の続け方がほかの行より粗い。
『――その姫君は、寿栄君様より一つお上の御年だそうでございます。』
寿栄君の目がその行で止まった。
一つ上なら、十五である。
文から目を上げて、文机の脇に積んだ紙の束を見た。今朝、夏の部の頭から写した三枚。それから自分の手を見た。今朝、筆を持ち、干菓子をつまんだ手である。
その姫君は江戸にいて、異国の言葉を話し、異国の者と向かい合い、商いの店を持っている。同じ五摂家の姫で年もほとんど変わらないのに、毎日していることがまるで違う。それがどういうことなのか、寿栄君には見当がつかなかった。
その姫君も、幼いころには古今を写し、眉を描かれ、琴を習ったのだろうか。
千草君の文には、そこまでは書いていない。千草君も知らないのだろう。
文の終わりはまた季節の話に戻って、時鳥の初音はまだ聞きませぬ、と結んであった。
寿栄君は文を巻き戻し、文机に置いた。
「楓。硯を」
「はい」
返しを書くつもりで紙を延べた。
まず季の歌に応える一首が要る。卯の花のこと、衣を替えたこと。千草君の歌の言葉を受けて、こちらの庭を返す。いつもなら、さほど時をかけずに出てくる。
墨を含ませた筆を持ったまま、しばらく動けなかった。言葉が出てこない。頭に浮かぶのは、千草君の乱れた仮名の一行ばかりだった。
筆を硯に戻した。
「今日は、やめておきまする」
楓が硯を見て、それから寿栄君の顔を見た。
「御気分が、すぐれませぬか」
「いいえ。歌が、まだ整いませぬゆえ」
延べた紙を畳み、千草君の文と一緒に文箱へ納めた。
四
昼過ぎから、雨は小降りになった。
屋根の音が細くなり、軒の雨だれの間が延びていく。寿栄君は琴の前に坐った。
六の年から習っている琴である。爪をはめ、柱の位置を確かめてから、師について習った曲を頭から一つずつ浚っていく。
藤波は少し離れて聴いていた。自分では弾けないが、寿栄君の手が迷えば耳で分かる。
二曲目に移ったところで、指が一度止まった。すぐに続きを弾く。藤波は顔を上げなかった。
弾きながら、千草君の文を思い返していた。
異国の言葉をお話しになる。
寿栄君が知っている言葉は三つある。
一つは歌の言葉。古今を写し、毎日口ずさんでいる言葉で、千年前の人の詠んだ歌がいまもそのまま口に乗る。
一つは漢籍の言葉。唐土の書を返り点に従って読み下せば、向こうの字がこちらの言葉になって口から出る。
それから御所の言葉。父を「おもうさま」と呼ぶような言葉で、この屋敷の内でも、御所に上がる人たちのあいだでも使われる。
寿栄君が口にするのは、そのどれかだった。
異国の言葉はそのどれとも違う。漢籍のように読み下すこともできず、耳に聞こえる音も字の形もまるで別のものなのだろうか。それを口にして、向こうの者と話をする。
どういうものか思い浮かべようとしたが、メリケンの者の顔も声も、どんな衣を着ているのかも、寿栄君は知らなかった。
二曲目を弾き終えた。
「よろしゅうござりました」
藤波は、指が一度止まったことには触れなかった。
三曲目の途中で、雨の音が聞こえなくなった。
弾き終えて爪を外すと、軒から雨だれが一つ落ちた。しばらく待っても、次は落ちなかった。
「上がりましたな」
藤波が障子のほうを見て言った。
寿栄君は琴の前を離れて北の隅へ行き、白い天井板を見上げた。染みはどこにもない。畳に手を当てると乾いている。南の廊下寄りへ行って同じことをすると、そちらも乾いていた。
藤波は黙ってそれを見ていた。
朝から降り通した雨の跡は、どこにも残っていなかった。
夕刻までには、まだ間がある。琴を片づけさせ、香の支度を頼んだ。
楓が香炉を運び、灰を整えて、火を入れた炭を埋める。寿栄君は香包みを一つ開け、銀葉の上に小さな香木の欠片を載せた。
雨のあとは香がよく立つ。湿った空気の中を香りがゆっくり広がっていき、床の橘の香りと混じって、すぐに香木のほうが勝った。
香炉を手に取り、目を閉じて香を聞いた。
去年までなら、雨のあとの部屋で香を聞くと、奥に黴の匂いが混じった。今日は香木の香りしかしない。
香炉を置いて目を開けると、楓がこちらの顔を見ていた。
「よい香りにござりますな」
「はい」
それだけ答えた。黴の匂いがしないと口にすれば、楓はまた北の隅を見るだろう。言わなくても、楓には分かっているはずだった。
五
月次の歌会は、それから四日のちに開かれた。
一条邸の奥では月に一度、奥の女たちが集まって歌を詠む。顔ぶれは寿栄君と、奥に仕える上の女房たち。表の歌会のように客は招かない、身内だけの小さな席で、題を出すのは藤波である。
その朝はよく晴れていた。
支度は朝のうちから始まった。奥の一間の襖を取り払って二間続きにし、床には藤波の選んだ軸を掛け、その前に硯と短冊を載せた文台を据える。女房たちは常より一枚上の衣を重ね、寿栄君も楓に髪をもう一度梳かせ、藤波に眉を描き直してもらった。
身内だけの席でも、歌会は歌会である。題を受け、詠み、披講する。その次第を崩すことを藤波は許さない。寿栄君が初めてこの席に加わったのは八つの年だったが、そのときも藤波は、八つの姫のために次第を一つも省かなかった。
昼を過ぎるころから、障子の外が薄暗くなってきた。
奥の一間に女房たちが集まった。年配の者が三人、若い者が二人。どれも寿栄君が幼いころからこの屋敷にいる顔である。寿栄君は上座に、藤波はその脇に坐った。
藤波が題を書いた紙を広げた。
「本日の題は、時鳥にござります」
卯月の題である。女房たちがそれぞれ短冊を手元に引き寄せた。
寿栄君は筆を執る前に、しばらく目を閉じていた。
この四日、写しながら何度も口にしてきた時鳥の歌が、頭の中に並んでいる。時鳥は雲の上を鳴いて渡っていき、どこから来てどこへ行くのかも分からない。
目を開けて、筆を取った。
『雲をわけ遥かに鳴きぬ時鳥心のみこそそなたへ向かへ』
(くもをわけ はるかになきぬ ほととぎす こころのみこそ そなたへむかえ)
皆が詠み終えるのを待って、藤波が短冊を集め、一枚ずつ読み上げていく。読み上げられるたびに、座の者がその歌のよいところを言い合った。
年配の女房の一首は、夜更けに一声だけ鳴いて過ぎた時鳥の歌だった。待ちくたびれて床に就こうとしたところで声を聞いた、という詠みぶりで、皆はその待つ心の深さを褒めた。
もう一人の年配の女房は卯の花の垣根に時鳥を取り合わせ、白い花の上を声が渡っていく景色を詠んだ。取り合わせが古今のとおりで無理がない、と別の者が言った。
若い女房の一人は、まだ時鳥の声を聞いていないと正直に詠んでいた。聞かぬ鳥を聞いたように詠むよりはよい、と藤波が言うと、その女房は顔を赤くして頭を下げた。
この席では、どの歌にも一言ずつよいところを見つける。悪いところを言い立てる者はいない。直すべきところがあれば、あとで藤波が一人ずつに伝える。それが奥の歌会のやり方だった。
寿栄君の短冊は最後に読み上げられた。
藤波が読み終えると、年配の女房の一人が膝を進めた。
「雲をわけ、と始められて、心のみこそ、と結ばれる。姿は見えずとも、声を追うて心がそちらへ向かう。時鳥の題の詠み方として、まことに素直で、よう整うてござりまする」
ほかの女房たちも頷き、若い女房の一人が、心のみこそ、と口の中で繰り返した。
寿栄君は手をついて礼を言った。
藤波はしばらく短冊を手にしていた。
「姫様」
「はい」
「よいお歌にござります。……なれど」
短冊を膝の前に置く。
「あまり、お心を外へ向けられてはなりませぬ」
女房たちが少し笑った。この席での藤波の小言は、いつものことである。
寿栄君は藤波の顔を見た。
「題の鳥が、外を飛んでおりましたゆえ」
藤波はそれには答えなかった。年配の女房が、袖で口元を押さえた。
披講が一通り済むと、茶と菓子が運ばれてきた。
座が少しほどける。膝を崩しこそしないが、皆の声が柔らかくなり、題と関わりのない話が始まる。寿栄君はその話を聞いているのが好きだった。屋敷の外のことは、こういう席で少しずつ耳に入ってくる。
話が江戸のことになった。誰が言い出したのかは分からない。気がつくと、年配の女房の一人が近衛の姫君のことを口にしていた。
「異国の言葉をお使いになるとか。ほんに、変わった姫君でござりますなあ」
何人かが声を合わせて笑った。
「五摂家の姫君が、武家の屋敷にお住まいで」
「異人と、同じ座にお着きになるそうな」
「御簾も立てずに、でござりましょうか」
「さあ。それは存じませぬが」
また笑いが起きた。
それが収まるのを待って、若い女房の一人が遠慮がちに口を開いた。
「わたくしの里の隣の御家では、去年の暮れから、会所に歌の短冊を頼まれておりまする」
皆の目がその女房に集まった。この女房の里は、塀の低い堂上の御家々が並ぶあたりにある。寿栄君もそれは知っていた。
「京の名産の箱に添える短冊だそうで、一枚書くごとに、それに見合うお礼が届くそうにござりまする。御当主は、歌の家の端くれとして恥ずかしくない仕事だと申されておるとか」
女房は湯呑みを膝の前に置いた。
「そのお礼が貯まって、この春、屋根を直されました。長年、雨が漏って難儀しておられましたゆえ。……その会所は、近衛様の姫君が始められたものと聞いておりまする」
座が少し静かになった。
寿栄君は湯呑みを持ったまま、その女房の顔を見ていた。
この奥の天井も、つい先月新しい板に替わったばかりで、座の誰もがそれを知っている。それでも口にする者はいなかったし、寿栄君も口にしなかった。一条の屋根が直った出どころをこの座で話せば、施しを受けたように聞こえる。寿栄君はそう考えた。
年配の女房が湯呑みを置いた。
「そのお話は、わたくしも耳にいたしまする。……なれど、江戸での御役目のことは、どこまでが本当でござりましょうなあ。姫君がお一人で異人と渡り合われたとは、どうにも」
何人かが頷いた。若い女房は黙っていた。
「会所のことは、本当でござりましょう」
別の年配の女房が穏やかに言った。
「短冊のお礼が届いておるのですから」
「それは、そうでござりますな」
座にまた少し笑いが戻った。
藤波が膝を進めた。
「さて。歌会の席で、余所の御家の姫君のお噂は、このくらいになされませ」
女房たちが口をつぐんで頭を下げた。藤波は、寿栄君のほうを一度だけ見た。
寿栄君が湯呑みを膝の前に戻したとき、屋根の上で音がしはじめた。
ぽつり、ぽつりと間を置いて落ちていた音が、すぐに細かくなり、屋根一面を打つ音に変わった。
「また、降り出しましたな」
年配の女房が言い、何人かが天井を見上げた。寿栄君もつられて見上げていた。白い板が並んでいるだけで、どこからも何も落ちてこない。
見上げた者どうしが顔を見合わせて、小さく笑った。長年この奥で暮らしてきた者は、雨の音がすればまず天井を見る。今日もそうしたのである。
藤波だけは天井を見ず、湯呑みを手にしたまま障子のほうを向いていた。
六
父が御所から戻ったのは、日の暮れる少し前だった。
雨はまだ降っていた。寿栄君は表に近い廊下まで迎えに出た。家司が冠と装束の世話をし、父はくつろいだ姿に改めてから奥へ入ってきた。
「おもうさま。お帰りなされませ」
「うむ」
いつもより声が軽い。何があったのかは分からなかった。父は御所のことを、家の内ではあまり話さない。
「茶を淹れさせる。寿栄、付き合いなされ」
「はい」
父の居間へ向かう廊下を、寿栄君は少し後ろからついていった。
板はどこも乾いている。去年までの雨の日には、父はこの廊下の南の端の一枚を避けて歩いた。そこだけ湿って黒ずみ、踏むと鳴ったからだ。今日の父は、その板を、ほかの板と同じ歩幅で踏んで通り過ぎた。
居間にはもう灯が入っていた。
家司が鹿背山の茶器を運んできた。父が窯に口を出して焼かせたもので、急須も茶碗も、手に取るとどれも薄い。父はそれを前に並べ、湯の冷めるのを待って、自分で茶を淹れた。
寿栄君は両手で茶碗を受けた。一口含むと、香りが鼻に抜けた。
障子の外で雨が降っている。その音が父の居間にも満ちていた。
寿栄君は茶碗を膝の前に置いた。
「おもうさま」
「何じゃ」
「雨の音を、家の内で落ち着いて聞いたのは、初めてにござりまする」
茶碗を口元へ運びかけていた父の手が止まった。
「そうか」
「去年までは、雨の音がすると、次に滴の落ちる音を待っておりました。四日前の雨も、今日の雨も、待つものがござりませぬ」
父は茶を一口飲んで、茶碗を置いた。
「この家の屋根は、そなたの生まれる前から漏っておじゃった」
天井を見上げる。
「麿の父の代にも、直そうと言うてはおったのじゃ。なれど、屋根を直すとなれば、大きな銭が要る。家禄の内からは、なかなかそこまで回らぬ。漏る度に、そこだけを繕うて、それで済ませてきたのでおじゃる」
「はい」
「此度は、朝廷から修理の料が下された」
父は茶器に湯を足した。
「御所の御手入れの折に、それに合わせて、大臣の家にも修理の料を、ということになったのじゃ。それで、屋根を葺き直し、天井を張り替えた」
そこで、父は少し笑った。
「職人の棟梁が、屋根に上がって初めに言うたことを、家司から聞いた。よくぞこれまで、と言うたそうな。垂木が三本、腐っておじゃった。あと一冬遅れておれば、北の隅は天井ごと落ちておったかもしれぬと」
寿栄君は北の隅の白い板を思い浮かべた。
「そなたの寝所を移した夜のことは、覚えておじゃるか」
「はい。十の年の五月雨にござりました」
「あの夜、麿は、屋根を直す銭の勘定をした。夜明けまでかかって、どこからも出てこなんだ」
父はそれを笑いながら言い、急須に湯が満ちるのを見ていた。
「その料の出どころはな」
急須を置く。
「近衛の家の商いにおじゃるよ」
寿栄君はすぐには何も言えなかった。
「天朝物産会所というてな。近衛が差配しておじゃる。あの店の儲けが、御所の御手入れに入り、そこから此度の修理の料が回ってきたのでおじゃる」
父はそう言って茶碗を取り上げた。
「公家が商いとは、如何なものでおじゃろうかの」
一口飲む。
「まあ、多少は役に立っておじゃるゆえ、近衛ならば、認めんわけではない」
茶碗を置き、急須を取って、自分の茶碗に二杯目を注いだ。
「一条の家では、そのような卑しいことはせぬがな」
そう言う父の口元は緩んでいた。二杯目は、一杯目よりもゆっくり飲んだ。
寿栄君は父の横顔を見ていた。卑しいことと言いながら、その卑しいことで直った屋根の下で、父は茶を二杯飲んでいる。口ぶりと顔つきが、寿栄君には別々のものに見えた。それを父に言うつもりはなかった。
「おもうさま」
「何じゃ」
「近衛様の姫君とは、どのようなお方におじゃりますか」
父は茶碗を置いた。
「どのような…とは?」
「千草君の文に、異国の言葉をお話しになると書いてござりました。御門の御役目で江戸におられるとも、メリケンの者を言い負かされたとも」
「千草君……冷泉のか」
「はい」
父はしばらく黙った。灯の芯が小さく鳴った。
「その話は、麿も聞いておじゃる」
扇を手に取り、膝の上で軽く返す。
「なれど、どこまでが本当かは分からぬ」
「仮にすべてが本当だとしても、じゃ」
父の声が少し低くなった。
「五摂家の姫が、武家の町に長く置かれ、異人と言葉を交わし、御公儀の重職と同じ座に着く。そのような姫を、どの家が正室に迎えるか。才があればあるほど、嫁ぐ先は狭うなる」
扇を閉じた。
「異端にすぎて、不憫でならぬ」
寿栄君は黙って聞いていた。
扇を閉じたまま、父は寿栄君の顔を見た。
「寿栄」
「はい」
「ああなってはならぬぞ」
穏やかな声だった。
「そなたは、今のまま、よう励みなされ」
「はい」
寿栄君は手をついた。
父の言葉にも、楓や千草君の話にも、嘘は一つもなかった。
父は扇を膝に置いて、手習いのことを訊いた。寿栄君は今日写した夏の部の歌と、手習いの枚数を答えた。父は明朝その紙を持ってくるように言った。いつもと同じ問いに、いつもと同じ答えを返した。
千草君の文にもう返しは書いたのか、と父が訊いた。
「まだにござりまする。歌が、整いませなんだゆえ」
「そなたが歌に詰まるとは、珍しゅうおじゃるな」
「卯の花の歌に応える言葉が、出てまいりませなんだ」
父はそれ以上は訊かず、二杯目の茶を飲み干して茶碗を置いた。
「よい雨じゃ」
障子の外を見ながら、父はそう言った。
七
夜になっても雨はやまなかった。
寝間着に着替え、楓に髪を解かせてから、灯を一つ残して二人を下がらせた。藤波は何か言いたげな顔で襖の前に膝をついたが、お休みなされませ、とだけ言って襖を閉めた。
寿栄君は灯のそばに坐った。
屋根の上で雨が鳴っている。四日前の朝と同じ、細かい粒が広い屋根に一様に落ちる音である。部屋の内では何の音もしない。
北の隅に目をやった。灯の明かりが届かず天井は暗いが、そこから何も落ちてこないことは分かる。
文箱を引き寄せて蓋を取った。四日前に納めた千草君の文がいちばん上にあり、その下に、畳んだままの白い紙がある。
千草君の文をもう一度広げた。
寿栄君様より、一つお上の御年。
寿栄君は天井を見上げた。
ああなってはならぬ、と父は言った。この屋根は、その姫君の商いで直ったのである。
その姫君は、いま江戸にいる。
寿栄君は江戸を知らない。この屋敷の門を出て遠くへ行ったことがなく、江戸がどれほど遠いのか、道中に何日かかるのかも、人から聞いて知っているだけだ。
寿栄君の知っている外といえば、乗物の小窓から見た築地塀と、親類の家の庭と、年に幾度か詣でる寺社の境内くらいのものだった。それより遠くは歌の中で知っている。東の国の歌枕ならいくつでも挙げられる。武蔵野の草も、隅田川の都鳥も、古今に詠まれている。
千年前の人が都鳥に、都に残した人の安否を問うたその川の近くに、いま近衛の姫君が住んでいる。
寿栄君は千草君の文を巻き戻した。
畳んだままの紙を広げ、硯の蓋を取る。朝の手習いで磨った墨が、少し残っていた。水を足して、もう一度磨る。
千草君の歌に応える一首を、まず。
四日前にはどうしても出てこなかった言葉が、いまは浮かんだ。卯月の朔日に衣を替えたこと。庭の木々が若葉になったこと。その風が奥の部屋まで入ってくること。
筆に墨を含ませ、紙に置いた。
『吹きおくる翠の風に誘はれて衣がへする奥のすまひは』
(ふきおくる みどりのかぜに さそはれて ころもがへする おくのすまひは)
灯を近づけて読み直した。字に乱れはなく、千草君の卯の花の歌に応えるのにも障りはない。四日前に一つも出てこなかったのが不思議なほど、すんなりと紙の上に収まっていた。
奥のすまひ、と書いた。寿栄君が暮らしているのは、ここである。
その先の文を少し考えた。時鳥の初音はまだ聞きませぬ、と千草君は書いてきた。こちらもまだなので、それを書き、今日の歌会で時鳥の題を詠んだことを書いた。藤波に小言を言われたことは書かずにおいた。
近衛の姫君のことは、何も書かなかった。
書き上げた文を畳んで文箱に納めた。明朝、冷泉家へ届けさせればいい。
蓋を閉じて、灯のそばに坐り直した。
「近衛の糸子姫は、如何なるお方におじゃりましょうや」
どのようなお顔で、どのような声で話されるのか。異国の言葉を話すときには、どんな顔をなさるのか。メリケンの者と向かい合って、怖くはなかったのか。商いの店で、何をしておられるのか。
雨の漏らない家で眠る夜を、その姫君はいつから知っているのだろう。近衛の屋敷も昔は漏っていて、その姫君も桶の音を聞いて育ったのだろうか。それとも、その音を聞いていたからこそ、商いなど始めたのだろうか。
一つ思うたびに、分からないことが一つ増えた。
父に、はいと答えたことに変わりはない。ただ、そのお方がどのようなお方なのかは、知りたかった。
「もし叶うならば、一度お会いしてみとうござります」
口に出してから、寿栄君は少し驚いた。誰もいない部屋で自分の声を聞くのは、久しぶりだった。
襖の向こうは静かだった。藤波には聞こえていないはずである。
灯を吹き消して横になると、屋根を打つ雨の音だけが聞こえた。
部屋の内には、一滴も落ちてこない。
寿栄君は目を閉じた。
第二百三十七話 了
【御簾の向こうの姫君たち】
一条寿栄君――のちの昭憲皇太后が生まれたのは、嘉永三年(一八五〇)の京都でした。
黒船が浦賀に現れる三年前のことです。
寿栄君の生家、一条家は五摂家のひとつでした。近衛、九条、二条、鷹司と並び、摂政・関白を出すことのできる、公家社会では最上位の家柄です。
「一条家のお姫様」と聞けば、さぞ華やかな暮らしだったのだろうと思われるかもしれません。
ところが、幕末の公家の暮らしは、私たちが想像する「お姫様暮らし」とはずいぶん違います。
身分は高い。格式も高い。
けれど、お金があるとは限らない。
一条家の家領は二千石余りでした。何万石、何十万石という大名たちと比べれば、経済力には大きな隔たりがあります。それでも摂関家には摂関家の体面があります。屋敷を構え、人を抱え、年中行事を行い、贈答を欠かさず、代々伝わるものを守らなければならない。
つまり、裕福だから立派に暮らしていたのではありません。
立派に暮らさなければならない家だったのです。
これは、一条家のような家に生まれた娘の人生を考えるうえで、案外大切なことだと思います。
朝、目を覚ませば、そこには自分一人の生活というものがありません。
身支度を手伝う女房たちがいる。
食事を運ぶ者がいる。
父母や兄弟姉妹がいて、家臣がおり、出入りする人々がいる。
襖の向こうにも人がいる。
庭の向こうにも人がいる。
誰かが見ているから窮屈だった、というだけではありません。そもそも「一人きりで好きなように過ごす」という現代的な感覚そのものが、彼女たちの生活にはあまり馴染まなかったでしょう。
そして、幼いころから筆を持ちます。
文字を習い、歌を習い、古典に親しむ。
季節の花を見れば、その花について昔の人がどんな歌を詠んだのかを知っている。雨が降れば雨の歌があり、月を見れば月の歌があり、別れにも、祝いにも、恋にも、悲しみにも、それぞれふさわしい言葉がある。
公家の娘にとって、和歌や書は「上品な趣味」ではありませんでした。
それは、ものを見るための目であり、人と付き合うための言葉であり、自分が何者であるかを示すものでもありました。
寿栄君は、その中でもことに学問に恵まれた少女でした。
後年の教育には、和漢の学に通じた若江薫子のような女性も関わっています。
寿栄君はやがて、生涯におよそ三万首もの歌を残す女性になります。
その彼女が、東京女子師範学校に贈った歌があります。
「みがかずば 玉も鏡も なにかせむ
学びの道も かくこそありけれ」
人もまた、学ばなければ磨かれない。
明治の皇后となってから彼女が女子教育に心を寄せたことを思うと、この歌は単なる美辞麗句には聞こえません。
寿栄君自身が、学ぶことによって育てられた女性だったからです。
もっとも、ここでひとつ、現代の私たちが思い浮かべがちな公家の姫君像は捨てた方がよいでしょう。
毎日、十二単のような衣を幾重にもまとい、御簾の陰で琴ばかり弾いていた――という姿です。
幕末は平安時代ではありません。
宮廷には古い装束や儀礼が残っていましたが、日常生活まで千年前と同じだったわけではありません。江戸時代の公家女性には公家女性なりの小袖の文化があり、儀式の日と普段の日では、当然ながら装いも違いました。
それでも町人の娘や武家の娘が暮らす世界とは、ずいぶん空気が違ったはずです。
彼女たちが誇ったものは、領地の広さでも、蔵に積まれた小判でもありません。
家の名前でした。
官位でした。
先祖でした。
そして、何代にもわたって受け継がれてきた文化でした。
たとえ目の前の大名の方がはるかに裕福でも、それだけで自分たちの方が劣るとは考えない。
こちらにはこちらの「ものさし」がある。
その感覚を抜きにして、当時の公家社会を理解するのは難しいと思います。
とはいえ、公家と武家が互いに背を向けて暮らしていたわけでもありません。
婚姻もあれば、政治的な付き合いもあり、経済的な結びつきもある。
寿栄君の姉、美賀君が徳川慶喜の正室となったことなどは、そのもっとも分かりやすい例でしょう。
異なる世界でありながら、深くつながっている。
その複雑さこそ、幕末という時代の面白さでもあります。
では、そんな家に生まれた少女は、外の世界をどのくらい知っていたのでしょう。
自由に町へ出て、四条や寺町を歩き、気になる店を覗いて帰ってくる――もちろん、そんな生活ではありません。
身分の高い女性の外出には、行き先も、供も、作法もありました。
けれど、屋敷の中に閉じ込められ、世間のことを何ひとつ知らなかった、と考えるのも違います。
手紙が届きます。
親族が来ます。
女房たちが話します。
家臣が出入りします。
商人が品物を持ってきます。
学問を教える人間もやってきます。
宮中で何かがあれば、その話も伝わってくる。
誰それが嫁ぐらしい。
あの家では何かあったらしい。
御所ではこんなことがあった。
世間では妙な噂が流れている。
そうした話は、人から人へ、屋敷から屋敷へと伝わっていったでしょう。
現代のように、自分から情報を探しに行くのではありません。
世界の方が、人の口と手紙に乗って屋敷の中へ入ってくるのです。
私は、この感覚がとても好きです。
御簾や襖の向こうに、何もないわけではない。
むしろ見えないからこそ、届いた一通の手紙や、ふと耳にした一言が大きな意味を持つ。
少女たちはその断片から、まだ見たことのない世界を想像したのではないでしょうか。
そして寿栄君の少女時代には、その「外の世界」が猛烈な勢いで騒がしくなっていきます。
寿栄君が三歳のころ、黒船が来航します。
やがて開国をめぐって国中が揺れ、京都には諸藩の武士が集まり、朝廷と幕府の関係も大きく変わっていく。
尊王。
攘夷。
公武合体。
倒幕。
現代の私たちは、それらを歴史用語として覚えます。
しかし、寿栄君たちにとっては違いました。
大人たちの表情が変わる。
屋敷へやってくる人が変わる。
交わされる手紙が変わる。
昨日まで聞かなかった藩の名を、今日は何度も耳にする。
町が騒がしくなる。
御所の周囲に武士が増える。
遠くで起きていたはずの「政治」が、少しずつ自分たちの暮らしのすぐそばまで近づいてくる。
少女たちは、そんなふうに幕末を経験したのではないかと思います。
だからといって、公家の姫君がみな熱烈な尊王攘夷論者だった、とするのは乱暴でしょう。
政治への関心も考え方も、人によって違います。
寿栄君についても、のちの昭憲皇太后の姿から逆算して、幼いころから国家の行く末を憂える「未来の皇后」だったかのように描いてしまえば、一人の少女としての彼女を見失います。
彼女はまだ、自分が皇后になることを知らない少女でした。
庭を眺め、筆を持ち、歌を覚え、家族と暮らしていた。
嬉しい日もあれば、退屈な日もあったでしょう。
叱られることもあったでしょうし、腹の立つことも、笑いをこらえたことも、誰にも言いたくないこともあったはずです。
公家の姫だからといって、いつも穏やかな微笑を浮かべ、感情を完全に押し殺して生きていたわけではありません。
彼女たちも人間です。
ただ、その感情をどのような言葉で表し、どのような振る舞いに包むのかについて、私たちとは違う作法を持っていた。
私は、そのくらいに考えるのが一番自然だと思っています。
そして、もう一つ。
幕末の公家女性を「かわいそうな籠の鳥」とだけ見ることにも、私はためらいがあります。
たしかに自由は少ない。
結婚を自分一人で決めることも難しい。
生まれた家によって、人生の多くが決まってしまう。
けれど、彼女たちは自分たちの人生を、二十一世紀の価値観で採点しながら生きていたわけではありません。
家を大切にすること。
美しい文字を書くこと。
よい歌を詠むこと。
先祖から受け継いだものを次へ渡すこと。
自分の立場にふさわしく振る舞うこと。
そこには窮屈さだけではなく、誇りもあったはずです。
その誇りまで「古い時代の女性は自由がなくて気の毒だった」の一言で消してしまうと、彼女たちが見ていた世界から、かえって遠ざかってしまいます。
寿栄君の人生が面白いのは、その世界が彼女の目の前で終わってしまったことです。
嘉永三年に京都の摂関家の娘として生まれた少女は、十八年後、明治というまったく新しい時代を迎えます。
やがて皇后となり、京都を離れ、東京へ移る。
西洋の衣服を身につける。
外国人と会う。
学校や病院に関わる。
女子教育を奨励する。
養蚕を行い、慈善事業にも力を注ぐ。
少女時代には想像することさえ難しかった世界へ、自分自身が歩いていくことになります。
それでも彼女は、京都で身につけたものを捨てて別人になったわけではありません。
筆を持ち、歌を詠み続けました。
古いものを抱えたまま、新しいものを受け入れていった。
私はそこに、寿栄君という女性の面白さがあると思っています。
幕末という時代も、案外そういうものだったのかもしれません。
昨日までの世界が一夜にして消え、翌朝から突然「近代」になったわけではない。
古い屋敷の襖の向こうへ、新しい時代の音が少しずつ聞こえてきた。
最初は噂として。
次には手紙として。
やがて、御所を取り巻く武士たちの足音として。
そしてとうとう、その変化は屋敷の中にまで入り込み、そこで暮らしていた少女たち自身を、新しい時代へ連れていった。
本作の姫君たちを思い浮かべるとき、私はいつもその光景を想像しています。
京都の古い屋敷。
庭には季節の花が咲いている。
部屋では少女が硯に水を落とし、墨をする。
女房たちの話し声がする。
どこかで衣擦れの音がする。
そこへ、一通の手紙が届く。
少女はそれを開く。
そのとき彼女はまだ知らない。
自分が生きてきた世界が、まもなく大きく姿を変えることを。
けれど、その世界の外では、もう幕末が始まっている。
一条寿栄君と同じ時代を生きた姫君たちは、そんな時間の中にいたのだと思います。




