第二百三十六話「糸子のお嫁入り編―御宸翰」
一
弥生十九日の朝、水無瀬実光は離れを出て、表御殿へ向かった。
庭の桜は、もう葉ばかりになっていた。夜のうちに落ちた赤い蘂が、飛び石のあいだに溜まっている。実光はその脇を抜けて、表の廊下へ上がった。
この離れは、表とも奥ともつかぬ場所に建っている。朝廷から遣わされた姫君の側に有職の者を一人置く、という名目で与えられた部屋である。表へ出るにも奥へ上がるにも、実光は毎日、同じ廊下を歩いてきた。
今朝は、表のほうへ折れた。
袱紗の包みは、離れの文箱に納めてある。今朝はそれを持ち出さなかった。今日申し上げるのは口上だけである。
詰所では、平岡円四郎がもう文机に向かっていた。主の登城の支度が整うまでに、片づけておく書付があるのだろう。実光が敷居の外で膝をつくと、平岡は筆を置いた。
「水無瀬様。お早うございます」
「朝のうちから、相済みませぬ。一橋殿へ、お取り次ぎを願いとうございます」
「御用向きは」
「有職の照会につき、お目通りを願いたい…と」
平岡は、すぐには返事をしなかった。
去年の葉月にも、平岡はこの口上を聞いている。
平岡は何も問わなかった。
「しばらく、お待ちを」
平岡は立ち上がり、廊下の奥へ消えた。
実光は詰所の外で待った。表の者たちが行き交い、登城の支度をする声が遠くでしている。乗物を門へ回すよう言いつける声もした。
ほどなく、平岡が戻ってきた。
「お会いになるそうにございます。書院へ」
*
慶喜は、書院で書付を膝に置いていた。肩衣を着け、登城の支度はもう済んでいる。
実光は敷居の手前で膝をつき、頭を下げた。平岡は実光を通すと、自分は廊下に残り、障子を閉めた。
「照会とお聞きしました」
慶喜は書付から目を上げずに言った。
「はい。御宸翰をお渡し申し上げる作法につき、御相談申し上げたく参りました」
そこで実光は、静かに頭を下げた。
「その前に——本日は、先触れも十分ならぬまま参りましたところ、こうしてお目通りをお許しいただき、まずは御礼申し上げます」
慶喜の目が、書付から上がった。
「また、本来なれば相応の筋を経て申し入れるべきところを、直に参りましたこと、お詫び申し上げます」
実光はもう一度、浅く頭を下げた。
「されど、此度ばかりは、かようにいたすのがよろしかろうと存じました」
その視線を真正面から受け止め、実光は静かに言葉を継いだ。
「わたくしは、御門の御使いとして参りました。御宸翰を奉じております。御宛所は、将軍後見職、政事総裁職、老中首座の御三方でございます」
一呼吸置いた。
「されば、御三方お揃いの座にて、お渡し申し上げとう存じます」
慶喜は、しばらく何も言わなかった。
書院の障子の外で、雀が鳴いていた。
「御宛所は、その三氏でございますか」
「はい。御職に宛てられてございます」
慶喜は書付を膝の脇へ置いた。
「……して、御宸翰は、いま、いずれにございましょう」
「わたくしがお預かりしております」
それ以上は言わなかった。慶喜も、それ以上は訊かなかった。
実光は、昨夜姫様に申し上げたとおりの座を願い出た。表で、書役は置かず、封は御三方お揃いの座で切る。
「相分かり申した」
慶喜はすぐに答えた。
「御両人には、当家からお声掛け申し上げましょう。日は追って、お届けに上がらせます」
「恐れ入りまする」
実光は頭を下げ、膝で下がった。
慶喜は、中身については一言も問わなかった。誰から預かったのかも問わなかった。実光は廊下へ出て、障子を閉めてから、それに気づいた。
昼過ぎ、平岡が離れへ来た。
「明二十日、昼八つ。表の御用の間にて、と仰せにございます。お使いは、すでに出しておられます」
「承りました」
「書役は置かぬと、殿から承っております。手前も、廊下の先に控えます」
平岡はそれだけ伝えて、帰っていった。
実光は奥へ上がり、それを姫様に申し上げた。姫様は「明日の昼八つ」と一度繰り返され、「お頼みいたしまする」と仰せになった。
二
同じ日の昼過ぎ、西の丸下の役宅の寝所で、堀田正睦は天井を見ていた。
十八日に登城したあと、役宅へ戻ってから、床を離れていない。帰りの乗物のなかで、咳が三度出た。
上意が下りる前に、奥へ上がって上様に言上せねばならない。その一度のぶんの力は、残しておかねばならなかった。
その一度のぶんの力は、残しておかねばならなかった。
障子の外で、平野縫殿の声がした。
「殿。一橋様より、お使いが参っております」
「通せ」
「お通しするには及ばぬとのことで、口上だけ預かりました」
平野は障子を開けて膝をつき、口上をそのまま述べた。
「首座の儀につき、内々に談じたし。明二十日、昼八つ、一橋上屋敷へお越し願いたし。同じ儀にて、総裁職殿、周防守殿にもお声を掛けておる、とのことにございます」
堀田は、天井から目を下ろした。
首座の儀。上意のことであろう。周防守が呼ばれているのも、それで分かる。首座を継ぐ者に、引継ぎの段取りを聞かせておくのである。
城の御用部屋で話せば、坊主の耳に入る。わざわざ屋敷へ呼ぶのは、そのためであろう。
「参る、と申し上げよ」
平野が、顔を上げた。
「殿。昨日、御城から戻られてから、まだ」
「一橋様の御屋敷ならば、近い」
「それは、そうでございますが」
「上意を取り次がれるのは、後見職殿じゃ。その御方のお呼びを、首座が断るわけには参らぬ」
平野は、しばらく黙っていた。
「医者は、何と申しましょう」
「止めるであろうな」
「では」
「止められても、参る」
平野は、それ以上は言わなかった。深く頭を下げた。
「では、供待ちまで、付いて参ります」
「頼む」
平野が使いのもとへ下がっていった。
堀田は、もう一度天井を見た。
枕元の懐紙を一枚取って、口元に当てた。咳は出なかった。堀田は懐紙を畳み、元の場所へ戻した。
*
翌二十日の昼前、平野は乗物を玄関へ回させた。
堀田は、肩衣を着けるのに、平野の手を借りた。袴の紐を締めると、腰の余りがまた少し増えていた。平野はそれを見て、何も言わずに紐を締め直した。
「殿。薬を、お持ちいたしました」
「苦労をかけるな。平野」
「いえ……」
堀田は煎じ薬を飲み干し、懐紙を二枚、懐へ入れた。
乗物が西の丸下を出た。一橋殿の御屋敷までは、乗物ならばすぐである。平野は、乗物の脇を歩いた。
途中で一度、乗物のなかで咳が出た。短く収まった。平野の足音が、そのあいだだけ乗物に寄った。
三
弥生二十日、昼八つの少し前に、板倉勝静は一橋上屋敷の表門をくぐった。
一橋様の御屋敷へ、首座の儀で呼ばれる。昨日、使いの口上を聞いたとき、板倉はそれを当然のことと受け取った。上意を取り次ぐのは後見職様である。首座を継ぐ者が、その前に一度呼ばれる。
ただ、総裁職様まで呼ばれていることが、少しだけ引っかかっていた。
玄関で案内の者が出てきて、表御殿の奥へ通された。御用の間は、用人の詰所に近く、廊下を二度折れた先にあった。案内の者は障子の前で膝をつき、板倉を通すと、廊下を戻っていった。
八畳ほどの座敷である。床の間には何も掛かっていない。障子は閉てられ、庭は見えなかった。円座が四つ。書役の文机は、置かれていなかった。
板倉は下座の円座に坐った。
懐には、和泉守から預かった海防の伺いがまだ入っている。上意が下りるまでは、板倉の手では決裁できない。京の所司代の手当ても、首座を継げば板倉の机に載る。
ほどなく、廊下に足音がした。ゆっくりした足音で、途中で一度止まり、また動いた。
障子が開いて、堀田が入ってきた。
板倉は、その顔を見た。
十六日の夕刻、西の丸下の寝所で見たときより、また一回り小さくなっていた。堀田は円座の前で膝をつき、手を畳について、ゆっくりと坐った。
「周防守殿」
「備中守殿。……お運びになって、よろしかったのでござるか」
「近いゆえな」
そのとき、襖の向こうに人の気配がした。
板倉が顔を向けると、襖が開いて春嶽が姿を見せた。
「これは、お揃いでござったか」
二人に軽く会釈をし、空いている円座に腰を下ろす。
「備中守殿。お加減は」
「ごらんの通りでござる」
「十八日は、無理をなされた」
「無理をせねば、辞することもできませぬゆえ」
春嶽は、それ以上は問わなかった。
最後に、慶喜が入ってきた。
平岡が障子の外まで付いてきて、そこで膝をついた。障子が閉まり、平岡の足音が廊下の先へ遠ざかっていった。人払いをしてあるのだろう。廊下の気配は、それきり絶えた。
慶喜は上座に坐った。
「備中守殿、無理を言うた」
「勿体のうござる」
「首座の儀から申す」
慶喜は、膝の上に手を置いた。
「上意は、近く取り次ぐ。周防守、そのつもりでおれ」
「はっ」
板倉は頭を下げた。
「備中守殿。上様への言上は」
「明日にも、奥へ上がりとうござる」
「相分かった。言上が済んでから、上意を取り次ぐ」
「ありがたく」
堀田は頭を下げたまま、しばらくじっと動かなかった。
話は、それで済んだ。
板倉は、それを不思議に思った。
そのことなら、城の小部屋で足りる。総裁職様まで、屋敷へ呼ぶ話ではない。
「今日は、もう一つ用がある」
慶喜が言った。
「御門の御使いが参っておられる」
春嶽が、顔を上げた。
堀田も、顔を上げた。
板倉は、慶喜の顔を見た。後見職様の顔は、いつもと変わらなかった。何を知っておられるのか、板倉には読めなかった。
御門の御使いが、定められた手順を省いて後見職様の御屋敷を訪れている。首座の儀を名目にして、総裁職と首座と、次の首座が揃えられている。
板倉は、それを数えて、口には出さなかった。
「平岡」
慶喜が障子の外へ声をかけた。廊下の先で、返事があった。
「水無瀬様を、これへ」
四
水無瀬実光は、袱紗の包みを両手で捧げ持って、御用の間の敷居の前で膝をついた。
昼八つの鐘が鳴る前から、実光は詰所の脇の控えで待っていた。包みは、膝の上に置かず、ずっと両手で持っていた。
去年の葉月の末、実光はこの表御殿の玄関脇で、一橋殿を奥へご案内するために待っていた。一橋殿の足は速く、先導しているはずの実光が、二度、背後まで間合いを詰められた。あの日、奥の座敷で、実光は膝の向きを気にした。御簾のほうへ向けば奥の者になり、上座のほうへ向けば表の者になる。自分は、どちらの側に立っておるのか。その問いは、あの日、消えずに残った。
今日は、膝の向きを気にしなかった。
御門の使いである。
この座にいるあいだ、実光が背負っているのは水無瀬の家ではなかった。
障子は、平岡が開けた。
実光が中へ入ると、上座寄りに一つ、円座が置かれていた。御使者の座である。その向かいに一橋殿、その脇に一人。下手に二人が坐している。
四人である。
御宛所は、三つであった。
「総裁職、首座の備中守、周防守じゃ」
慶喜が、そう言った。
実光は、名を聞いた順に、一人ずつ頭を下げた。
実光の目は、下手の二人のうち、細い目をした男のところで止まった。周防守殿と名を聞いた。老中の一人である。老中首座は、その隣の備中守殿である。
御宛所に、周防守殿の御職はない。
有職の家柄では、宛所を動かすことは固く禁じられている。書状を賜るべき者は、表書きの記名がすべてである。そこにない者が開封の座に即しておれば、使者は即座に正さねばならぬ。黙認して手渡せば、使者が意図を捏造したと同義であった。
実光は、御使者の座にはまだ着かなかった。
包みを捧げ持ったまま、言った。
「御宛所は、御三方と承っておりまする」
座敷が、静かになった。
答えたのは、上座ではなかった。
「御宛所は、老中首座でござったな」
備中守殿の声だった。低く、少し掠れていた。
「はい」
「わしは、首座を辞しまする」
実光は、備中守殿の顔を見た。
「上意はまだ下りておりませぬゆえ、今日のところは、わしが首座でござる。周防守は、わしのあとを継ぐ者。御職に宛てられた御文ならば、職を継ぐ者にも聞かせておきとうござる」
備中守殿は、膝の脇に手をついた。
「水無瀬様。どうか、お頼み申す」
そう言って、頭を下げた。
実光は、すぐには答えなかった。
御宛所は、人の名で書かれていない。将軍後見職、政事総裁職、老中首座。御職の名で書かれている。姫様がそう願い出て、御門がそのとおりにお書きになった。
その御職の一つが、いま、一人から一人へ移ろうとしている。
宛所は、曲がっていなかった。
実光は、包みを捧げ持ったまま、頭を下げた。
「……承りました」
周防守殿が、膝の上で手を置き直した。
総裁職殿が、小さく頷いた。
実光は御使者の座へ進み、そこで初めて腰を下ろした。
袱紗の包みを胸の高さに捧げ直す。
「御宛所の御職、お揃いと拝しまする」
三人の姿勢が改まった。
「御門より、御三職へ賜りました御宸翰にございます」
一橋殿が両手を畳についた。
総裁職殿、備中守殿も、それに倣った。周防守殿も頭を下げる。
実光は、三人が頭を上げるのを待った。
「封は、この座にてお切りくださいますよう」
そう申し渡してから、包みを一橋殿の前へ進めた。
一橋殿は膝を進め、両手で受けた。
そのまま額の高さまで押し戴く。
総裁職殿と備中守殿が、もう一度頭を下げた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
一橋殿は包みを膝前へ静かに下ろしたが、すぐには手をつけようとはしなかった。
一礼を捧げてから、ゆっくりと袱紗の結び目を解く。濃紫の絹が滑るように開くと、中に封じられた白紙が姿を現した。
それを両手で押し戴き、再び膝前へと下ろして表書きに目を走らせる。
やがて、封へ指がかけられた。
乾いた紙の擦れ合う音が、静寂に包まれた座敷に小さく響く。
御使者の座にある実光は、その音を合図のように聞き届けると、静かに膝の上へ手を戻した。
五
慶喜は、切った封を脇へ置いた。
御文を広げる。
御門の御筆であった。
二つの条が書かれていた。
一、儲君の御方の事、近衛糸子を以て内定せらるべき段、朕が厳然たる叡慮に候。
一、右の仔細の儀は、左大臣忠房へ相問うべき事。
文久三年二月十四日
将軍後見職
政事総裁職
老中首座
それで終わっていた。
短い御文であった。二つの条と、日付と、宛所のほかには何も書かれていない。
儲君の御方とは、祐宮様の后である。
慶喜は、最後の一行まで読んだ。
読み終えて、宛所まで目を下ろした。
将軍後見職、政事総裁職、老中首座。
それから初めの一行に戻り、もう一度、頭から読んだ。
二度目も、書かれていることは同じだった。
*
実光は、座敷の端から、それを見ていた。
一橋殿の目が、紙の初めへ戻るのが見えた。二度読んで、一橋殿は何も言わなかった。
紙を、隣の政事総裁職のほうへ無言で差し出した。
春嶽は両手で受け取って一礼し、目を通す。読み終えて顔を上げた春嶽の視線は、一橋殿に向けられていた。
しかし一橋殿は彼を見ようとはせず、ただ膝前の何もない畳を見つめていた。
差し出された書状を、春嶽はそのまま備中守殿へ回した。
備中守殿も、受け取った紙に一礼し、顔の近くまで寄せて読んだ。ゆっくりと読んだ。途中で一度、紙を持つ手を膝に下ろし、また持ち上げた。
最後まで読んで、備中守殿の口から、乾いた笑いが一つ漏れた。
笑いの終わりが、咳になった。
備中守殿は袖で口元を押さえ、しばらく動かなかった。それから懐紙を出して口を拭い、畳んで懐へ戻した。実光の坐っているところからは、懐紙の色までは見えなかった。
誰も、そちらを見なかった。
備中守殿は、紙を周防守殿へ回した。
周防守殿は、一礼し紙を膝の上で広げ、一行ずつ読んでいった。読み終えると、細い目を閉じた。そして、しばらく開かなかった。
実光は、膝の上で手を重ねていた。
御文の文言を、実光は知らない。姫様も、封のままゆえ拝見しておらぬと仰せであった。
いま、この座で、姫様の行く末を知る者が四人増えた。
四人のうち、誰一人、念を押そうとはしなかった。
周防守殿が、目を開けた。紙を元の畳み目に戻し、袱紗の上へ置いた。
座敷は静かだった。廊下の先にも、人の気配はなかった。
六
誰も、口を開かなかった。
実光は、周りを見渡した。御文を受けた座で、最初に言葉を返すのは後見職の御方である。一橋殿は、まだ膝の前の畳を見ておられた。
沈黙が長くなった。
実光は、使者として待っていた。御返事を賜らずに下がることは、できない。賜るまでは、この座の端に坐っているほかなかった。
口を開いたのは、総裁職殿だった。
「水無瀬様」
「はっ」
「御趣、確かに承った」
総裁職殿は、穏やかな声で言った。
「御返事は、こちらで談じたうえ、追ってお知らせいたします。御使いの御役目、御苦労でござった」
「恐れ入りまする」
実光は頭を下げ、なおも言葉を続けた。
「なお、此度の御文の趣、公表の日に至るまでは一切他言無用に願いたく存じます。正式なお披露目の時節までは、この場におわす方々の胸一つにお収めくださりませ」
「はっ、かしこまりました。重々含みおき、決して漏らさぬよう申し付けまする」
総裁職殿が謹んで平伏するのを確かめ、実光は重ねて口上を述べた。
「また、本件の委細につきましては、後日あらためて姫君よりお沙汰があるかと存じます。その旨、お含みおきくださりませ」
「謹んで承知仕りました」
一橋殿は、その間も何も仰せにならなかった。
実光は膝で下がりはじめた。敷居の手前まで来たところで、声がかかった。
「水無瀬様」
備中守殿だった。
実光は膝を止め、向き直った。
「姫君に、お伝え願いたい」
「はい」
備中守殿は、少しのあいだ、言葉を整えるように黙っていた。
「この一件は、わしが首座として務める最後の御用。周防守には、首座として最初の御用とさせていただきたい、と」
周防守殿の手が、膝の上で握られた。
「わしが職を辞したのちも、御披露の日まで、このことは誰にも申さぬ。あの世まで持って参る。どうか御安心召されよ、と」
実光は、備中守殿の顔を見た。
座敷に入ったときから見ていた。いま、敷居の手前から、まっすぐに見ている。
袴の腰が、坐っているだけで分かるほど余っていた。頬の肉が落ち、目のまわりが黒ずんでいる。声は低く、言葉の終わりが掠れて消えた。懐のあたりに、さっきの懐紙が入っている。
あの世まで……と備中守殿は仰せになった。
総裁職殿が、備中守殿のほうへ顔を向けていた。周防守殿は、握った手を膝の上から動かさなかった。一橋殿だけが、まだ畳を見ておられた。
実光は、口を開いた。言葉が出てこなかった。
有職の家に生まれ、口上を運ぶことは幼いころから仕込まれてきた。一字も違えずに覚え、一字も違えずに申し上げる。運ぶ者が口上に何かを足してはならない。何かを引いてもならない。
いま預かった口上を、実光は一字も違えずに覚えた。覚えたうえで、返事の言葉が出てこなかった。
口を閉じ、もう一度開いた。
「……確かに、お伝え申し上げまする」
備中守殿は頷いた。
「もう一つ」
「はっ」
「姫君は、いつから、この御内意を」
実光は、答えを知っていた。
去年の皐月である。沖田殿が京から持ち帰った左大臣様の書状のなかに、御内意があったと、姫様の口から聞いている。
それは、姫様が手前一人に打ち明けられたことであった。
御文には、仔細は左大臣忠房に問え、とあるはずだった。
「仔細は、左大臣様にお問い合わせくださいますよう…と承っております」
備中守殿は、実光の顔を見ていた。
長くは見ていなかった。
「……左様か」
それから、小さく笑った。
実光は、もう一度頭を下げた。膝で下がり、敷居を越えて、廊下へ出た。
障子を閉めた。
閉める前に、座敷のなかが一度だけ見えた。一橋殿は、まだ畳を見ていた。
廊下を一つ折れたところに、平岡が控えていた。
「お済みにございますか」
「はい。御用は、済みました」
平岡は頷き、それ以上は訊かなかった。御用の間のほうへは目を向けず、実光を詰所の脇まで送ると、また廊下の先の元の場所へ戻っていった。
実光は、詰所の脇で一度足を止めた。
手が空いていた。昨日まで文箱にあり、今朝から両手で捧げ持っていた包みが、もう手のなかにない。
頭のなかには、口上が一つ残っている。備中守殿の御伝言である。実光はそれを、歩きながらもう一度、頭から終わりまで辿った。一字も落ちていなかった。
それから、離れへの廊下を歩きはじめた。
七
水無瀬様の足音が、廊下を遠ざかっていった。
角を一つ折れたところで、聞こえなくなった。
座敷には、四人が残った。
最初に口を開いたのは、板倉だった。
「……念のため、申し上げまする」
細い目が、袱紗の上の御文に向いていた。
「近衛様が、儲君の御后に内定なされた。これは御門御自らの叡慮であって、御公儀が口を挟む余地はない。仔細を問うなら、左大臣様へ問え…と」
帳面の数を読み上げるときと、同じ声だった。
「御文に書かれておるのは、それで全てにござる」
誰も、それに異を唱えなかった。異を唱えるところが、一つもなかった。
板倉は、それだけ言って口を閉じた。
堀田は、膝の上で手を重ねていた。
姫君は、いつから。
水無瀬様は、答えなかった。左大臣様に…と答えた。
知らぬのであれば、そう言えばよい。あの男は、知らぬとは言わなかった。仔細は左大臣様に、と言った。御文のなかの一句と、同じ言い方である。
知っていて、言わなかったのである。
ならば、言えば障りのある答えであろう。
堀田は、師走のことを思い出していた。
師走七日、姫君は朝廷の御使者として、英国の書記官との談判の座に着かれた。
后の御内意は、一日で決まるものではない。京で話がまとまり、江戸の姫君へ届き、姫君が返事をなさり、その返事が京へ戻って、御門がこの御文をお書きになった。東海道を、少なくとも二度往き来している。
師走の座に着かれたとき、姫君は、もうこの御内意を承っておられたのか。
水無瀬様は、そうだとは言わなかった。違うとも言わなかった。
堀田は、上座を見た。
一橋様は、まだ畳を見ておられた。
「……後見職様」
呼びかけても、顔を上げなかった。
「霜月の御用部屋で、わしは反対いたしましたな」
返事はなかった。
「英国との談判ならば、外国奉行が処せばよろしい、と申し上げました。御公儀の始末は御公儀で負えと、申し上げました」
堀田は、そこで一度息を整えた。
「平岡殿に、書いておかれよと申し上げたはずでござる」
慶喜の肩が、わずかに動いた。
「恐れておりますと、廊下でも申し上げました」
あのとき、後見職様は、何を恐れているのかとは問われなかった。
問われても、答えようがなかった。あの日の堀田は、勝たれたあとが読めぬ、と思っていただけである。勝たれたあとに、こういう紙が出てくるとは、思ってもいなかった。
「ひとつだけ、申し上げておきまする」
堀田は、膝の上の手を握った。
「これは、始まりにすぎませぬ。御公儀はこの先、悔やむほど、あの御方に振り回されましょう」
春嶽が、後見職様を見ていた。
板倉は、目を伏せていた。
「しかも、こうなっては、もはやお断りもなりますまい」
御文には「朕が厳然たる叡慮に候」とある。御門が御手ずから、そう書いておられる。宛所は、御公儀の要の三つである。御公儀がこの先、あの姫君の申し出に否と言えば、それは叡慮に定まった御方に否と言うことになる。
堀田は、そこまでは言わなかった。言わずとも、この座の誰もが分かっている。
御公儀が、のちの后を英国の談判の座へ引き出した。それも、后の御内意を承っておられた御方を…である。そのことを御公儀が知ったのは、今日である。
あの姫君は、去年の暮れから知っておられたかもしれない。
その差が、この先、どういう形で御公儀の前に出てくるのか。堀田には、そこまでは読めなかった。そして、そのことを…恐ろしいと思った。
もう少し見てみたかった、と十五日の朝に言った。
今日、その行く末の一つを、紙で見た。
儲君の后。践祚の折には、あの姫君が御所のいちばん奥に坐られる。御公儀は、その御方に、もう借りを作ってしまっている。勘定は、あの御方の帳面に付いている。
その帳面が開かれる日を、自分は首座として見ることはあるのだろうか。見るのは、隣に坐っている周防守であろう。
咳が一つ出た。堀田は袖で押さえ、すぐに下ろした。
それから、誰に言うともなく、半ば独り言のように呟いた。
「いやはや……恐ろしや、おそろしや」
声に、乾いた笑いが混じっていた。
八
春嶽は、後見職様を見ていた。
何も言わなかった。
霜月の御用部屋で、後見職様が近衛様の同席を言い出されたとき、春嶽は黙っていた。黙っていたところを問われて、一言だけ申し上げた。
ただ、近衛様が座に着かれれば、英国側が何を言うかより、こちらが何を言わせるかのほうが難しくなるでしょうな、と。
後見職様は、それに何もお答えにならなかった。
あの日、春嶽が案じていたのは、談判の座のことだけであった。この紙のことまでは、案じていなかった。
春嶽は、そのときと同じ目で、後見職様を見ていた。
後見職様は、その目を受けなかった。
板倉も、黙っていた。堀田は咳を収め、手を膝に戻していた。
やがて春嶽は、袱紗の上の御文に目をやった。
畳まれた紙が、濃い紫の布の上に置かれている。この座で封を切られ、四人の手を通った。この先、どこに置かれるかで、知る者の数が変わる。
「この御文は、どなたがお預かりなさる」
誰も、すぐには答えなかった。
御宛所は三つ。宛所の誰が預かっても、筋は通る。上座の御方が預かるのが、順当でもある。
春嶽は、上座のほうへ向き直った。
「後見職様」
「……うむ」
御文を読まれてから、後見職様の声を聞いたのは、これが初めてであった。
「奥方様は、一条様の御養女であられましたな」
後見職殿は、すぐには答えなかった。
「……左様」
短い声だった。
春嶽は、それ以上は言わなかった。
一条家は、京の摂家である。御文のなかの姫君の家と、同じ五摂家に連なる。奥方様の里が、京のどの家々と行き来しておられるか、春嶽は知らない。だから、問うたのである。
堀田が、口を開いた。
「総裁職様に、お預かり願いとうござる」
春嶽は、堀田を見た。
「わしは、もう幾日もせずに首座を退く身。周防守は、まだ首座でござらぬ。後見職様の御屋敷には、奥がござる。総裁職様にお預かりいただくのが、障りが少のうござろう」
板倉が頷いた。
春嶽は、上座を見た。
後見職様は、すぐにはお答えにならなかった。
「……任せる」
春嶽は膝を進め、御文を手に取った。畳み目のとおりに畳み、袱紗に包み直した。結び目を作り、懐へ納めた。
懐に、薄い重みが入った。
屋敷へ戻れば、手文庫に納める。鍵は、自分で持つ。誰かに預けて仕舞わせることはしない。御文が懐から手文庫へ移るあいだ、誰の目にも触れさせない。
春嶽は、懐の上に一度だけ手を置き、それから膝へ戻した。
九
慶喜は、ずっと畳を見ていた。
霜月の御用部屋で、「近衛様に、同席していただいてはどうか」と言ったのは、自分である。
あのとき、平岡の筆が止まった。春嶽が眉を動かした。堀田が顔を上げて、反対だと言った。慶喜は、それを押した。英国の書面は日本の政府に宛ててある。御公儀だけで答えれば、その答えは御公儀の疵になる。御公儀の外に、もう一つ口を置く。朝廷の御使者が座におられれば、答えたのは御公儀だけではなくなる。
差し出せる札のうち、いちばん目方の重いものを出した。
その晩、平岡と二人で控えの間に残り、算盤を弾いた。いちばん勝てる者を、いちばん負けられぬ場所へ出す。勝てば、この国は何も失わずに済む。
算盤に入っていないものが、一つだけあった。
その札を出される者が、何を思うか。
師走の談判のあと、慶喜は、あの姫君に「助かった」と言った。
本当に、助かったのである。
六日前の朝には、あの姫君の書状を読んで、声を上げた。内容は、ちょっとそこまで…と、ふざけた書状だった。
あの朝、あの姫君は、もう儲君の后と定まっていた。
その札が、何であったのか。
御文の一行が、頭のなかで動かなかった。
『儲君の御方の事、近衛糸子を以て内定せらるべき段』
(……余は、儲君の御方を、英国の書記官の前に坐らせたのか)
霜月の廊下で「あの姫君を恐れておられるか」と問うたのも自分である。堀田は「恐れております」と答えた。
春嶽の視線がこちらへ向けられたのを感じた。堀田は口を閉ざし、板倉は伏したまま動かない。座敷の誰もが、言葉を失っていた。
膝の上の指先が、かすかに震えはじめる。その震えは指から手へ、手から腕へ、そして肩へとせり上がっていった。
慶喜は、ただ身を震わせるしかなかった。
「謀ったな……あの姫君!」
十
その日の夕刻、一橋上屋敷の奥御殿に、灯が一つ入った。
昼八つの鐘が鳴ったとき、糸子は文机で語学所の書付を見ていた。鐘を聞いて、一度だけ筆を止めた。それから筆を戻して、書付を最後まで片づけた。
葵が茶を替えに来て、文机の上が片づいているのを見て、何も言わずに下がっていった。
糸子は次の書付を手に取った。会所から回ってきた横浜の値の写しである。糸子はそれを読み、印を付けて、脇へ置いた。
日が傾いたころ、葵が障子の外で膝をついた。
「姫様。水無瀬様が、お見えにございます」
「お通ししてくださいまし。それから、しばらく人を近づけないで」
「はい」
葵は実光を通すと、障子を閉め、廊下の先まで下がっていった。
実光は、糸子の前に坐った。昨日、一橋殿のお返事を申し上げに上がったときと、同じ顔をしていた。
「ご苦労さまでございました」
「恐れ入りまする」
実光は手をついて頭を下げ、それから顔を上げた。
「本日、昼八つ、表の御用の間にて、御宸翰をお渡し申し上げました」
「はい」
「座には、一橋殿、総裁職様、備中守殿、それに周防守殿がおられました」
糸子は、少し首を傾けた。
「周防守殿も」
「はっ。備中守殿が首座をお辞しになるゆえ、あとを継がれる周防守殿にも聞かせておきたい、と仰せになりました」
糸子は、すぐには何も言わなかった。
「……備中守殿が」
「はい」
「首座を、お辞しに……」
「はい」
糸子は、膝の上で手を重ねた。
「続けてくださいまし」
「一橋殿が封をお切りになり、二度お読みになって、何も仰せにならずに総裁職殿へお回しになりました」
「一橋殿は、何も」
「はっ。手前が座におりますあいだ、一言も」
糸子の目が、少しだけ動いた。
「御返事は追って知らせる、と総裁職殿から賜りました」
「そうでございますか」
「わたくしが下がろうといたしましたところ、備中守殿に呼び止められました。姫様へ、御伝言がございます」
実光は、膝の上で手をついた。
実光は、備中守殿の御伝言を、預かったとおり一字も違えずに申し上げた。
糸子は、黙って聞いていた。
「それから、もう一つ、お尋ねがございました。姫様は、いつからこの御内意を…と」
「何と、お答えになりました」
「仔細は、左大臣様にお問い合わせくださいますよう…とお伝えいたしました」
「……そうですか」
「備中守殿は、左様か、と仰せになって、少しお笑いになりました」
糸子は、灯のほうへ目をやった。
それから、実光のほうへ目を戻した。
「水無瀬殿」
「はっ」
「備中守殿のお加減は、いかがでございましたか」
実光は、すぐには答えなかった。
「手がわたくしは医者ではございませぬゆえ、見たままを申し上げます」
「はい」
「お痩せになっておられました。坐っておられるだけで、袴の腰が余っているのが分かりました。お声も、掠れておられました。御文をお読みになったあと、咳をなされて、懐紙をお使いになるのも、お見受けいたしました」
実光は、そこで一度言葉を切った。
「わたくしの見立てでは、長くお勤めになれるお体とは、見えませなんだ」
糸子は、何も言わなかった。
灯の芯が、小さく鳴った。
「……あの世まで、と仰せになりましたのね」
「はい」
「お伝え、確かに承りました」
糸子は、そう言って頭を下げた。
実光も、頭を下げた。
「本日のことは、以上にございます」
「お骨折りでございました。水無瀬殿、かたじけなく存じます」
実光は膝で下がり、敷居の外で一礼した。障子が閉まり、足音が廊下を遠ざかっていった。
*
座敷に、糸子一人が残った。
糸子は、膝の上で重ねた手を見ていた。
備中守殿が、首座をお辞しになる。周防守殿が、そのあとを継がれる。最後の御用と、最初の御用。
あの世まで。
糸子はしばらく、そのまま動かなかった。
御宸翰が、御三方に届いた。御三方に限りとう存じまする、と父への書状に書いた。届いた座には、四人目がいた。その四人目は、首座を継ぐ方で、今日の御用を首座として最初の御用にすると、去っていく方が言い残した。
知る者は、四人になった。その四人目を座に入れたのは、備中守殿である。
備中守殿は、勝殿を通じて、糸子がこれまで幾度も話を通してきた御方であった。
その御方が、首座を退かれる。
あとを継がれるのは、周防守殿である。御用部屋でいちばん数の分かる御方だと聞いている。
正月に父へ書き送った、御公儀へ伝える順は、首座が誰であっても変わらない。
変わるのは、取り立ての座で向かい合う相手である。備中守殿は、最初の御用を周防守殿に、と言い残された。取り立ての座に坐るのも、周防守殿になる。
糸子は、膝の上の手を解いた。
備中守殿の御伝言は、一字も違えずに水無瀬殿が運んでくださった。あの世まで、と仰せになった方に、こちらから返せるものは、いまは何もない。
(……一橋殿、二度、お読みになりましたのね)
まず、内定を伝える。
一つ目は、済んだ。
糸子は、にやりと笑った。
「ちょっとだけ、計画どおーり……」
障子の外では、日が落ちていた。庭の桜の枝が、暗くなっていく空の下で、葉の影を重ねていた。
第二百三十六話 了
「謀ったな……あの姫君!」
と言った慶喜が特攻を仕掛け、「徳川幕府に栄光あれーっ!!」と叫んで爆死するような展開は、この物語には一切ございませんので、どうぞご安心ください(;´Д`A




