二百三十五話「糸子のお嫁入り編―退き際」
一
弥生十四日の朝、江戸城の御用部屋にはまだ夜の冷えが残っていた。
庭の桜はもう葉ばかりで、風が渡るたびに白砂の上へ赤い蘂を落としていく。坊主が夜明けに掃き清めた砂目のあいだに、もう同じだけ溜まっていた。
火鉢には炭が足されている。老中たちは膝の前に書付を置いてめいめいの用を片づけており、紙をめくる音と筆を硯へ戻す音のほかには、ほとんど何も聞こえない。
堀田正睦も自分の座で書付を読んでいた。昨年の暮れからまた痩せて、袴の腰の余りは坐っているだけで分かる。それでも読む速さは変わらず、読み終えたものから順に脇へ回していく。
敷居の外で、坊主が膝をついた。
「外国奉行、一色山城守様、お見えにございます」
「通せ」
一色直温は膝で進んで堀田の前で頭を下げ、懐から畳んだ紙を一枚出した。
「昨夕、某の役宅へ届きました書付の写しにございます。近衛様より」
「近衛様からじゃと?」
「はい。筑後守殿とも検めましてございます。御一覧を」
堀田は紙を受け取って開いた。
『弥生十五日、横浜本村増徳院にて、英国代理公使ニールと面談。先の談判の折に申し入れし詫びの儀につき。江戸を発つのは十四日。』
差出には、朝廷御使者、近衛糸子とある。堀田の目が、日付のところで止まった。
「届いたのは、昨夕と申したな」
「はい。暮れ方に町人の身なりの使いが門番に預けて参りました。返事は要らぬと申して、そのまま帰ったそうにございます」
「江戸を発つのは、十四日」
「……今朝にございます」
一色はそう答えて口をつぐんだ。
堀田は写しを膝の上へ下ろした。今から人をやっても、姫君はもう一橋の門を出ている。横浜へ向かう道の途中で呼び止める筋も、こちらにはない。
師走の談判の座で、姫君が英国の書記官に、代理公使の詫びを約させたことは、一色と水野から聞いていた。そのときは、言葉の上だけで済む約束だろうと思った。三月近く経って、英国の代理公使が本当に詫びに来る。その座まで、姫君が自分で決めている。
(まさか、本当に英国の代理公使に詫びを入れさせるとは……)
霜月の末、この同じ御用部屋で、堀田は姫君を談判の座に出すことに反対した。あの御方が口を開かれるのは、こちらが負ける筋になったときだけだ。開かれれば必ず勝たれる。勝った談判の始末は、そのあとに残る者が付けるものだ――そう申し上げて、反対したことを平岡の筆に書き留めさせた。
その始末を、姫君は自分で付けに出向いている。
届けが前の晩に着き、出立は翌朝。評議を開く間はない。それでいて外国奉行が承っている以上、御公儀は知らなかったとは言えない。後で誰に問われても、英国に向かっても諸藩に向かっても、初めから承知していたという姿勢を貫くほかなかった。
御公儀の面目まで、先に勘定へ入れてあるのだった。
(相変わらず、やり方がうまいというか……小ズルいというか……)
乾いた笑いが一つ、堀田の口から漏れた。一色が顔を上げ、隣の座で書付を読んでいた板倉勝静が、細い目を一度だけこちらへ向けた。
笑いの終わりが咳に変わった。堀田は袖で口元を押さえてしばらく動かず、それから懐紙で口を拭って、畳んで懐へ戻した。白い紙の端に色が残っている。この一年、何度も見てきた程度の色だった。
座敷の誰も、そちらを見なかった。それが、この御用部屋の作法になっていた。
「山城守」
「はっ」
「承った。追って沙汰すべきことがあれば、こちらから申す」
一色が頭を下げて膝で下がっていくと、堀田は写しをもう一度読み、書付の束の上に重ねた。
二
下城したのは、八つを過ぎたころだった。
西の丸下の役宅へ戻ると、堀田は着替えだけ済ませて書院の文机に向かった。城から持ち帰った書付が三つと、佐倉の藩から回ってきた伺いがいくつかある。日の落ちる前に灯を入れさせ、一枚ずつ片づけていった。
庭の桜も葉ばかりになって、若葉が暮れていく空の下で黒く沈んでいた。去年の夏、この庭には百日紅が咲いていた。葉月の初めに勝麟太郎が縁側から顔を出して、長州を列座に加えてくれと言ってきたのも、あの花の下だった。
四つ目の書付を読んでいるとき、咳が出た。
「ゲホッ! ゴホッ、オホッ、ゲホッ、ゲホッッ!! 」
いつものように袖で押さえても収まらない。一つ吐き出すと、次の咳が胸の奥から上がってくる。朝、御用部屋で笑ったときの咳が、そのまま続いているようだった。懐紙を出す間もなかった。
「カハッ、ゴッ、ホ、ゴホッ!!! ……げほっ!」
口元を押さえた指のあいだから熱いものが溢れ、袖を濡らし、膝の前の書付に赤い斑点を散らした。この一年で見てきたどの色より濃く、どの量より多かった。
「カッ、ゴホッ、 ……はっ、ひゅ…」
文机の縁に手をついた。灯が、急に遠くなった。
*
平野縫殿が書院へ来たのは、それから四半刻ほどあとのことである。
佐倉藩の家老で、江戸の藩邸を預かっている。藩主が老中首座にある以上、藩の用は役宅へ持ち込んで裁可を仰ぐほかなく、この夜も国元から届いた伺いを携えていた。
「殿。平野にございます」
障子の外から声をかけても返事がない。もう一度呼んでも同じだった。灯は点いている。
平野は障子を開けた。
堀田が、文机にうつ伏せていた。片方の腕が机の縁から垂れて、袖の先が畳に届いている。机の上の書付は赤く濡れ、その赤が紙の端から畳へ落ちて、小さな溜まりになっていた。
「殿!」
書付の束を放り出して駆け寄り、肩に手をかけると、体が軽かった。顔を横へ向けさせる。唇の端に血がこびりつき、灯の下でも分かるほど顔色が白い。浅い息が、まだ通っていた。
「誰か! 誰かある!」
廊下の奥で、足音がいくつも起こった。
「殿を寝所へお運び申せ。静かにだ。それから医者を呼べ。今すぐだ」
近習たちが堀田を抱え上げて寝所へ運んでいく。平野はあとについて歩き、寝所の前まで来て、自分の手が血で汚れていることに気づいた。手水を持ってこさせて洗いながら、書院の始末を言いつけた。濡れた書付は捨てずに乾かしておくこと。畳の血は今夜のうちに拭っておくこと。書院には誰も入れぬこと。
医者が来たのは、半刻ほどしてからだった。藩邸から駆けつけてきたらしく、羽織の紐が片方解けたままになっている。寝所に入るなり脈を取り、まぶたを指で上げ、枕元の盥に吐かれたものを長いこと見ていた。何も言わずに薬箱を開けて煎じ薬を整えさせると、
「今夜は、とにかく動かさぬように」
と言い置いて、別室へ下がった。
平野は枕元に坐った。堀田は目を開けなかった。
夜半を過ぎても平野はそこを動かず、灯の芯を何度か自分で切った。寝息が乱れるたびに身を乗り出し、収まるとまた坐り直す。近習が交代を申し出ても、首を横に振った。
三
障子が、白んでいた。
天井が見える。見覚えのある木目で、役宅の寝所のものだった。いつ横になったのかは思い出せない。
「……わしは」
掠れた声が出た。枕元で、誰かが身を起こした。
「殿!」
平野だった。堀田の顔を覗き込んだかと思うと、急に目を伏せた。
「殿が……殿が、気づかれた……」
袖で顔を押さえ、押さえたまま障子の外へ声を張った。
「殿が気づかれた。すぐに医者を呼んで参れ」
廊下を走っていく足音がした。平野は袖を下ろして膝を正した。目が赤い。一晩、眠らずにいた顔だった。
「縫殿」
「はっ」
「わしは、どうしておった」
「昨夜、書院の文机にうつ伏せになっておられました。血を吐かれて、気を失うておられたのでございます。手前が伺いの書付を持って参りまして、見つけました」
平野はそこで一度息を整えた。
「すぐに寝所へお運びし、医者に診せました。殿は、今朝まで目を開けられませなんだ」
文机の上の書付が赤く濡れていたところまでは覚えている。そこから先がない。
*
別室に控えていた医者が入ってきた。
佐倉の藩医で、この一年、堀田の咳を診てきた男である。脈を取り、胸に耳を当て、舌を見る。長い時間をかけ、そのあいだ誰も口をきかなかった。
医者は、手を膝の上へ戻した。
「殿」
「うむ」
「もうこれ以上の政務は、おやめくださいませ。さもなければ、早晩、御命が持ちませぬ」
堀田は黙っていた。平野が膝を進めた。
「殿は、どれほどお悪いので」
「今までだましだましやってこられたのでございましょうが、もはや限界にございます」
江戸の水が合わぬのだと、この医者には何度も言ってきた。医者もそれ以上は問わずに薬を出してきた。堀田自身は、それが気休めだと分かっていた。
「今、わしは職務を離れるわけにはいかんのだ」
低く、はっきりした声だった。
「幕府は、日に日に弱っておる。わしが……わしが……」
その先が咳になった。平野が背をさすると咳は短く収まり、懐紙には昨夜ほどではない色が残った。医者はその懐紙を見ていた。
「殿。明日には、御命が尽きているやもしれませぬぞ」
平野の手が、堀田の背の上で止まった。
「……殿は、それほどまでに、お悪いのですか」
「はい」
寝所が静かになった。障子の外で雀が鳴いている。
去年の文月、勝麟太郎はこの役宅で言った。あなた方は潰されようとしているのではない、畳まれようとしているのだ、と。幕府を生かしたまま、幕府の役所のほうだけを少しずつ別のものへ移し替えていく。移し替え終わっても、御公儀はまだそこにある。ただ、動かすものはもう何も残っていない。
畳むことができるのは一人しかいない、とも勝は言った。その一人は、いま将軍後見職に坐っている。畳み終えるまでには、まだ幾年もかかる。そのあいだ御用部屋が崩れずに回っていなければ、畳む前に器のほうが割れる。だから自分が坐っておらねばならぬと、堀田は思ってきた。
「そうか」
長い間を置いて、堀田は言った。
「薄々は、感じておった」
この一年、懐紙の色が濃くなっていくのを一枚ずつ見てきた。袴の腰が余っていくのも、登城の足が遅くなっていくのも、自分で数えてきた。
「……しかし、もう限界か」
「はい」
医者は同じ答えを繰り返した。
御用部屋に積まれた書付のことを思った。英国のこと、京のこと、後見職と総裁職のこと。それから、昨日の朝に読んだ写しのこと。あの姫君は今日、横浜で英国の代理公使と会う。何を話し、何を求めるのか、堀田には分からない。分からないまま、こうして床に就いている。
「もう少し……」
声が、少し緩んだ。
「もう少し、あと少しだけ、見てみたかったんじゃがなあ」
平野が顔を上げた。医者は目を伏せていた。
(あの姫君の、この国の行く末を……)
霜月の終わり、御用部屋の廊下で後見職様に、あの姫君を恐れておられるかと問われ、恐れておりますと答えた。その姫君が横浜から何を持ち帰るのかを、自分はこの床の上で聞くことになる。
「相分かった」
堀田は、そう言った。
「首座を、辞する」
平野が息を詰めた。
「殿……」
「縫殿。今日は登城せぬ。所労にて、と城へ届けよ」
「……はっ」
「それから、紙と筆を枕元へ」
「殿、今は」
「考えを並べるだけじゃ。並べておかねば、辞することもできぬ」
平野は口を開きかけて閉じ、深く頭を下げて立ち上がった。医者も薬の加減を言い置いて下がっていった。
障子が閉まると、寝所には堀田一人が残った。雀の声は、まだ続いていた。
四
日が高くなるころ、薬が効いてきたのか、胸が少し楽になった。
枕元に紙と筆は置かれていた。堀田は手を伸ばさず、目を閉じたまま、御用部屋の座を一つずつ思い浮かべていった。
自分のあとの首座には、板倉勝静を据える。
備中松山の財を立て直した山田方谷のもとで、数の見方を身につけた男である。小栗がメリケンから持ち帰った鋼の量の話を、あの評定の場でまず数字として呑み込んだのも板倉だった。
勘定の分かる者が首座にいなければ、これからの御公儀は回らない。財と、異国の仕組みを取り入れる仕事は、板倉に任せる。
海防と海軍は、松平和泉守がそのまま担えばいい。小栗がワシントンの海軍工廠の話をし、ネジの寸法を揃えることの重さを説いたとき、和泉守は他の老中のように聞き流さなかった。海軍を起こす話を誰より真剣に受け止めてきたのは、あの人である。
そこへ、新たに二人を加える。
一人は、いま京都所司代として京にいる牧野備前守忠恭。もう一人は、唐津の世子の小笠原長行。世子の身では老中にそのまま上げられないから、老中格として推すことになる。
酒井雅楽頭は、今のまま置く。国の勝ち負けが鉄の量で決まるのか、と小栗を笑った人である。その人が、去年の水無月には、率兵上洛を禁じた一条を読んで膝を打った。
板倉が首座で、財と近代化。和泉守が海防と海軍。牧野が諸藩と国の内の政。小笠原が外交と軍制。酒井が門閥。
並べ終えてから、堀田はもう一度頭から順に辿った。穴は見当たらなかった。
(この布陣ならば……あの姫様の助けにもなろう)
目を開けると、障子の外はもう昼の明るさだった。横浜では、そろそろ正午になる。
五
弥生十五日、老中首座は登城しなかった。
所労につき、という届けが、朝のうちに御用部屋へ回った。堀田が咳で一日休んだことは、この一年に何度かある。この日、届けを持ってきたのは佐倉藩邸の者で、その顔色が悪かったことを、取り次いだ坊主は見ていた。
昼前には、廊下の隅で坊主どうしがささやきはじめていた。
「備中守様が、昨夜」
「血を、たいそう吐かれたそうな」
「医者が、朝まで枕元を離れなんだとか」
「役宅の書院の畳を、夜のうちに替えさせたとも聞いた」
「拭わせただけじゃと聞いたぞ」
話は次の詰所へ、また次の詰所へと伝わり、伝わるたびに、吐いた血の量が少しずつ増えていった。
*
奥右筆の詰所では、書付が積まれていった。首座の目を通して印を受けるはずのものが、その日は一枚も下りてこない。届いた順に重ねていくと、夕刻には膝の高さになった。
一日なら、どうということはない。明日も同じなら、どうするか。右筆は筆を置き、束の厚さを指で測った。隣の机の右筆が、それを横目で見た。
「備中守様は、この一年、休まれても翌日には必ず出てこられた」
「そうでしたな」
「休みの明けた日には、溜まった分を昼までに全部片づけていかれた」
言った右筆は、それきり自分の書付に目を戻した。束は、どちらの机の脇でも減らなかった。
*
御用部屋では、酒井雅楽頭忠績が、空いた首座の座へ一度だけ目をやった。
「首座の御用を、滞らせるわけには参らぬ。御本復までは、月番にて回すほかござるまい。前にも、そうした例はござる」
誰に言うともなくそう言って、自分の書付へ目を戻した。
松平和泉守乗全の手元には、海防の掛から上がってきた伺いが三つあった。いずれも、首座の決裁を仰いでから上様へ言上する段取りになっている。
「……これは、どなたへ回せばよろしいか」
低く尋ねられた板倉は、細い目で表書きを見て少し考え、
「明日まで、お待ちなされ」
とだけ答えた。
*
外国奉行の詰所で、一色直温は筆を止めていた。
「昨日の朝、あの届けを差し上げたばかりで」
向かいの水野忠徳は、書付から目を上げなかった。
「御様子は、どうであった」
「いつもどおりでござった。咳を一つ、なされただけで」
一色はそこで言葉を切った。首座が乾いた笑いを漏らしたことは、口にしなかった。
水野はしばらく黙ってから、
「あの御方は、とうに無理をしておられた」
と、短く言った。
一色は窓の外へ目をやった。昼を過ぎた空は晴れている。今日の正午、横浜の寺で、あの姫君は英国の代理公使と向かい合っているはずだった。そのことを口にする者は、この詰所にはいなかった。
*
十六日になっても、首座は登城しなかった。
噂は城の外へも出ていった。大名屋敷の留守居たちが、詰所で聞いた話を屋敷へ持ち帰る。ある屋敷の留守居は、首座が退かれればどなたが上がられるのか、と同輩に尋ね、そこまではまだ誰も申しておらぬ、と返された。
一橋家の表にも、その日のうちに届いた。
「備中守殿が、血を吐かれて倒れられた由にございます」
平岡円四郎が書院で告げると、慶喜は、手にしていた書付をしばらく下ろさなかった。
「……そうか」
口にしたのは、それだけだった。
奥御殿へは、誰もその話を運ばなかった。奥の主は、まだ横浜からの帰り道にあった。
六
十六日の夕刻、板倉勝静は西の丸下の役宅を訪ねた。
使いが来たのは昼過ぎで、「首座がお会いしたいと申しております」とだけあった。板倉はその日の用を早めに片づけ、下城した足で役宅へ向かった。乗全から預かった海防の伺いは、まだ懐にある。
玄関では、平野縫殿が迎えた。
「わざわざのお運び、痛み入りまする」
「御様子は」
「今朝より、いくらか持ち直しておられます。ただ、長くはお話しになれませぬゆえ」
「心得た」
奥の寝所へ案内される途中、書院の前を通った。障子は閉まっていて、平野はそこで足を速めた。
堀田は床の上に身を起こし、丸めた夜着を背に当てて、膝に薄い掛けを載せていた。平野は板倉を枕元へ通すと、一礼して下がり、障子を閉めた。
床の脇に坐って、板倉は堀田の顔を見た。一昨日の朝、御用部屋の隣の座で見た顔が、二日で一回り小さくなっている。頬の肉が落ち、目のまわりが黒ずんでいた。板倉は口を開きかけて、何も言えずに閉じた。
「よう来てくれた」
先に口を開いたのは、堀田だった。
「……備中守殿」
「坐ったままで、相済まぬ」
「いえ」
堀田は膝の上の掛けに手を置いた。
「医者に、これ以上の政務はならぬと言われた」
板倉の細い目が、わずかに見開かれた。
「……左様な」
「だましだまし来たが、もう限界だそうな。わしも、薄々は分かっておった」
堀田は小さく息を吐いた。
「それでな、周防守殿」
「はい」
「わしは、首座を辞する」
板倉は黙っていた。
「わしのあとを……首座を、そなたに頼みたい」
障子の外で、風が庭木を鳴らした。板倉は膝の上で手を握った。堀田はその手を見ながら続けた。
「御用部屋で、数の分かる者はそなたじゃ。去年の水無月、京から覚が下ってきた朝を覚えておるか。皆が文言の良し悪しを言うておるあいだ、そなただけは黙って銭の勘定をしておった。京の警衛に新しい役を立てずに済む、二万両が浮く、とな」
板倉は、細い目を伏せた。
「……口には出しませなんだ」
「出さずとも、顔に出ておった。あの朝、あの座で銭を数えておったのは、そなた一人じゃった」
掛けの上で、堀田の指が一本動いた。
「これからの御公儀は、算盤の合わぬことは何一つ通らぬ。異国の器械を買うにも、船を造るにも、まず銭の出どころが要る。首座には、それの分かる者が坐らねばならぬ」
「備中守殿……」
「それとな。牧野備前守と、唐津の世子の小笠原を、御用部屋へ推すつもりでおる。牧野は老中に、小笠原は老中格にじゃ。理由は、後見職様と総裁職様の前で申し上げる。二人とも、そなたの手を助けられる者と見ておる」
板倉は、しばらく何も言わなかった。障子の向こうの廊下を誰かが通り過ぎ、足音はすぐに遠ざかった。
やがて、その細い目から涙が落ちた。板倉は拭わず、膝の上の手に一つ、また一つと落ちるにまかせた。
「……ご苦労でござった」
かすれた声だった。
「あとは、任せられよ」
堀田は、板倉の顔を見ていた。
「頼む」
板倉は深く頭を下げ、そのまましばらく上げなかった。堀田も、もう何も言わなかった。灯が細く揺れ、障子の外が暗くなっていく。庭の桜の枝が、風のたびにかすかに鳴った。
顔を上げた板倉の目はまだ赤く、声はもう元に戻っていた。板倉は懐から書付を出した。
「和泉守殿から預かった海防の伺いでござる。首座の御決裁を仰ぐはずのものが三つ」
「ここで見よう」
「いえ」
板倉は書付を懐へ戻した。
「これは、某が見ておきまする」
堀田は、それ以上言わなかった。
「明日、某から後見職様にお伺いを立てておきまする。備中守殿が、お会いしたいと申しておられると」
「頼む。……登城は、明後日にしたい」
「明後日、でござるか」
「それまでには、立って歩けるようにしておく」
板倉は何か言いかけてやめ、
「承知いたしました」
と一礼して立ち上がった。障子に手をかけたところで一度だけ振り返ると、堀田は目を閉じていた。板倉は、静かに障子を閉めた。
玄関では、平野が見送りに出ていた。板倉は草履を履きながら、平野のほうを見ずに言った。
「明後日、備中守殿が登城なさる。下乗まで、必ず付いて参られよ」
「はっ」
平野は、深く頭を下げた。
七
弥生十八日、堀田は登城した。
平野は朝のうちに何度も止め、堀田はそのたびに首を横に振った。支度のあいだに咳が二度出て、どちらも短く収まった。乗物で役宅を出て、下乗の前で降りる。平野が付き添えるのは、ここまでだった。
「殿」
「案ずるな。昼過ぎには戻る」
平野は、堀田の背が門の内へ消えるまで、その場に立っていた。
*
城の廊下は長かった。
毎日歩いてきた廊下で、どこで板が鳴り、どこで曲がり、どこで日が差し込むかは、目を閉じていても分かる。その廊下を、今日は角を一つ曲がるたびに足を止めたくなった。堀田は止めずに歩いた。すれ違う坊主が、壁際へ身を寄せて頭を下げていく。
通されたのは、松平春嶽が日ごろ書き物に使っている小部屋だった。四間ほどの座敷で、床の間には何も掛かっていない。障子は閉てられ、火鉢が一つ置かれている。書役の文机はなかった。
上座に慶喜、その脇に春嶽が坐っていた。
堀田は敷居の手前で膝をつき、膝で進んで二人の前に坐った。それだけで、息が少し上がった。
「備中守殿」
先に口を開いたのは、春嶽だった。
「無理を押して来られたのではないか。話なら、役宅へこちらから伺ってもよかった」
「勿体のうござる。総裁職様に、役宅までお運びいただくわけには参りませぬ」
堀田は懐から書付を一通出して、膝の前に置いた。
「本日は、これをお願いに上がりました」
慶喜が、表書きに目をやった。
「御役御免の願いか」
「はっ。所労にて、これ以上御用を相勤めること叶いませぬ。医者にも、そう申し渡されました」
慶喜は書付を手に取らず、堀田の顔を見ていた。
「医者は、何と申した」
「早晩、命が持たぬと。明日には尽きておるやもしれぬと」
春嶽の手が、膝の上で止まった。慶喜の顔は動かなかった。
慶喜は、そこで初めて書付を取り上げた。表書きを確かめただけで、開かずに膝の脇へ置いた。
「受け取った」
「ありがたく存じまする」
堀田は頭を下げ、下げたまま続けた。
「あわせて、あとのことを申し上げとうございます」
「申せ」
堀田は顔を上げた。
「首座には、板倉周防守を推しまする」
慶喜は黙って聞いている。
「周防守は、御用部屋で数のいちばん分かる者でござる。これからの御公儀は、財の勘定が合わねば何一つ動きませぬ。異国の器械を入れるにも、船を造るにも、まず銭の出どころを詰めねばなりませぬ。その勘定を、首座が自分の目でできることが何よりの要にござります。周防守には一昨日、わしから頼みました。引き受けてくれましてござる」
堀田は、そのまま次へ進んだ。
「新たに二人を、御用部屋へ加えていただきとうござる」
「誰じゃ」
「一人は、牧野備前守。いま京都所司代を務めております。京の朝廷の御様子も、京に集まる諸藩の様子も、この数年、江戸の誰より近くで見てまいった者でござる。諸藩のあいだを取り持ち、国の内の政を回すには、京を知る者が御用部屋に要りまする」
春嶽が、小さく頷いた。
「もう一人は、小笠原長行。唐津の世子でござる」
慶喜の眉が、わずかに動いた。
「世子の身で、か」
「はっ。それゆえ、老中格として推しまする。異国の事情に明るく、物を申すのに遠慮のない男でござる。異国との掛け合いも軍制も、御公儀が先に立って進めねばならぬと考えております。外交と軍制は、この者に任せられまする」
堀田は、そこで一度息を整えた。
「海防は、和泉守が今のまま担いまする。雅楽頭殿も、今のまま」
言い終えて、膝の上に手を戻した。慶喜はしばらく黙ってから、口を開いた。
「相分かった。牧野を江戸へ呼べば、京の所司代が空く。そちらの手当ては、追って詮議いたそう」
「恐れ入りまする」
「上意は、追って余から取り次ぐ。それまでは、備中守殿は首座のままじゃ」
「はっ」
堀田は、そこで一つ言い添えた。
「上様へは……わしの口から言上いたしとうござる」
慶喜は堀田の顔を見た。上様が政を執れぬ身となられてからも、堀田は奥へ上がり、几帳の前で言上を続けてきた。返事のない相手に向かって一つも省かずに述べてきたことを、慶喜も聞き知っている。
「それは、備中守殿にしか出来ぬことであろう。頼む」
「ありがたく」
堀田は深く頭を下げた。春嶽が、膝を少し進めた。
「備中守殿」
「はっ」
「長いあいだ、ご苦労でござった」
穏やかな声だった。
「四年お呼びのなかった某を、城へ呼んでくださったのは備中守殿でござる。あの折のことは忘れておりませぬ。……どうか、御身を大事になされよ」
堀田は顔を上げなかった。
「……勿体のうござる」
声が、少し揺れた。慶喜は何も言わず、堀田が顔を上げるのを待っていた。顔が上がると、短く頷いた。
「下がって、休まれよ」
「はっ」
堀田は膝で下がり、敷居の外で一礼した。障子が閉まった。廊下を戻る足取りは、来たときより遅かった。
下乗の前には、平野が朝と同じ場所に立っていた。門から出てくる堀田の姿を見ると、駆け寄りかけて途中で足を緩め、いつもの歩幅で近づいてきた。
「殿」
「済んだ」
それだけ言って、堀田は乗物に乗り込んだ。
上意は、まだ下りていない。御用部屋の首座の座は、この日もまだ堀田のものだった。
八
その夜、一橋上屋敷の奥御殿には灯が二つ入っていた。
糸子が横浜から戻って、二日になる。増徳院での会見の翌日に駕籠で江戸へ戻り、留守のあいだに溜まった語学所と会所の書付を片づけてきた。それもあらかた済んで、今日の昼過ぎには文机の上が空いた。
英国の件は、ひとまず片がついた。あとはニールが本国へ書き、本国が返事を寄越すのを待つだけである。
糸子は文机の脇の文箱を引き寄せて蓋を取り、底のほうから、濃い紫の袱紗の包みを取り出した。
如月の末に壬生の手から受け取って、二十日あまり、ここに寝かせてあった。英国の件を先に片づけると決めたのは、自分である。包みを膝の脇に置く。封は、受け取ったときのままだった。
正月に父へ書き送った、御公儀へ伝える順を、頭のなかで辿る。まず内定を伝える。次に、英国との談判の件を持ち出す。最後に、取り立ての話をする。その一つ目の内定を伝えるのが、この宸翰である。
如月の末に届いた父の返書には、要るものがすべて書いてあった。御門の内々の御言葉は文案のとおり一字も違えずに記され、英国の品の受け手を天朝とすることにもお許しが出ていた。家々のことは父が引き受けるという。最後に御門の仰せが一行、くれぐれも慎重に動け、と添えてあった。壬生の口からも、同じ言葉を聞いている。
「葵」
「はい」
障子の外で、すぐに返事があった。
「水無瀬殿を、お呼びしてくださいまし」
「はい」
「水無瀬殿がお見えになったら、しばらく人を近づけないで。葵も、廊下の先で控えてくださいまし」
障子の向こうで、葵が一拍置いた。
「……承知いたしました」
足音が遠ざかっていった。
江戸でこの件を知っているのは、いまも糸子一人である。父への書状にそう書いたとき、葵の名のところで一度筆が止まった。その葵にも、今は話さない。父への書状には、宸翰は水無瀬実光に持たせると書いてある。話すのは、この包みを城へ運ぶその人だけだった。
やがて、廊下に二人ぶんの足音がした。
九
奥御殿へ呼ばれること自体は、珍しくない。有職の照会があれば、水無瀬実光は日に一度は奥へ上がる。夜になってから、それも葵殿が自ら離れまで迎えに来たのは、この数年で初めてだった。
葵殿は座敷の手前で膝をついて障子を開け、実光が入ると外から閉めた。足音が、廊下のずっと先まで遠ざかっていく。
姫様は文机を背にして坐っておられた。膝の脇に、濃い紫の袱紗の包みがある。実光はそれに一度だけ目をやって、姫様の前に坐った。
「夜分に、お呼び立てして相済みませぬ」
「いえ」
「横浜へ参っておりますあいだ、留守を守っていただきました」
「わたくしは、何もいたしておりませぬ」
姫様は少しだけ笑われ、すぐに笑みを収められた。
「水無瀬殿。今夜はお願いがあってお呼びいたしました。その前に、お話ししておかねばならぬことがございます」
「伺います」
姫様は、膝の上で手を重ねられた。
「去年の皐月、沖田殿が京から父上の書状を持ち帰ってくれました」
その書状のことは、実光も覚えている。山南殿から託され、沖田殿が東海道を歩いて持ち帰ったもので、式目の清書もそのなかにあった。実光はその清書を受け取り、関白様の御決裁を経た正式な式目という体裁を整えて、麻布の勅使宿舎へ届けたのだった。
「その書状のなかに、御門の内々の御意がございました」
いつもの照会に答えるときと変わらない声だった。
「儲君、祐宮様の后に、と」
実光は、すぐには何も言えなかった。
儲君の后。
有職の家に生まれ、入内の儀の次第は幼いころから幾度も書き写してきた。女御の宣下も、入内の日取りも、行列の順も、前例を引いて組むものである。その前例の、まだ書かれていない次の一行に、いま目の前に坐っている姫様の名が入る。
「……姫様が」
思ったより低い声が出た。
「お受けいたしました。この正月に、父上を通じて御門へお返事を差し上げておりまする」
実光は両手を畳についた。何か申し上げようとして、言葉が出てこない。姫様は、それを待っておられた。
去年の葉月、一橋殿と姫様が半日向かい合った座敷の隅で、実光は、聞いてはならぬものを聞いているという気がしていた。あのとき姫様は、中身を別の器へ移すという話をなさった。そういうことをしてはならぬというところから、有職の学問は始まっている。
その姫様が、いま、御所のいちばん奥の器に坐ると仰せになっている。
「水無瀬殿」
「……はっ」
「このことは、披露のときまで、決して他言なさいませぬよう」
実光は顔を上げた。
「披露は、儲君が御位に即かれるときとなります。それまでは、どなたにも。京でこのことを知るのは、御門と父上のほか、ごく限られた方々だけ。江戸では、わたくしと、今夜からは水無瀬殿だけでございます」
挙げられた名のなかに、侍女の名がなかった。
「侍女の二人にも、でございますか」
「はい。誰にも、申しておりませぬ」
実光は、もう一度頭を下げた。
「承知仕りました。この実光、決して」
姫様は小さく頷かれ、膝の脇の袱紗の包みに手を置かれた。
「お願いというのは、これでございます」
包みが両手で持ち上げられ、二人のあいだの畳の上へ置かれた。
「御門の御宸翰でございます」
濃い紫の袱紗の合わせ目から、白い紙の端がわずかに覗いている。その端に、封がしてあった。
「御宛所は、将軍後見職、政事総裁職、老中首座の御三方。水無瀬殿には、御門の御使いとして、これを御三方へお届けいただきたいのです」
実光は、袱紗から目を上げられなかった。宸翰を、幕府の要の三人へ。
「……伝奏衆も、所司代も…介さず、直接に御三方へ?」
「はい」
姫様は、それ以上の説明をなさらなかった。安政の年に関白の手を経ずに水戸へ降りた勅が何と呼ばれ、そのあとに何が起きたか。有職を学ぶ者で、知らぬ者はいない。実光も、それ以上は訊かなかった。
「御文の中身は、封のままゆえ、わたくしも拝見しておりませぬ」
姫様は言葉を継がれた。
「ただ、父上を通じて願い上げましたのは、わたくしの后の件を御三方へお知らせいただくこと。そして御文の中には『仔細は左大臣忠房に問え』とあるはずです。御三方が念を押そうとなされば、その問いはすべて父上のもとへ参ります」
「……幕府が后となるべき姫を異人との談判の席へ引き出し、後始末をさせたなどと、父上のお耳へ入ることになれば、御公儀にもお考えいただくことが増えましょう?」
「ですから——此度の件を穏便に収めるためにも、御公儀には、わたくしが進めるこれからの御用に、存分に力を尽くしていただきたく存じます」
仔細は左大臣忠房に問え。実光は、その一句を胸の内で繰り返した。
それから、袱紗の包みに両手を伸ばした。持ち上げると軽かった。中にあるのは、御門のお筆によるものである。実光は包みを額の高さまで押し戴き、胸の前に下ろした。
「確かに、お預かりいたしました」
「お願いいたします」
「日取りは、いかがいたしましょう」
「水無瀬殿にお任せいたします。こうした作法は、わたくしよりあなたのほうがよくご存じでしょうから」
実光は、胸の前の包みに目を落とした。
御城へ上がれば、取次の坊主が名を聞き、右筆が筆を執る。御門の御使いの公家が、伝奏衆も所司代も通さずに登城したという一行が、城の帳面に残る。
「姫様。御城へは、上がらぬほうがよろしゅうございましょう」
「……と、申されますと」
「御宛所のお一人は、この御屋敷の主にございます。まず一橋殿にお目通りを願い、残るお二方を、こちらへお招きいただきとう存じます」
姫様は、しばらく実光の顔を見ておられた。それから、少しだけ笑われた。
「灯台下暗し、でございますね」
「はっ」
「一橋殿へは、何と」
「有職の照会につき、と申し上げまする」
去年の葉月、一橋殿とのお目通りを整えたときと同じ名目である。照会は、いまも実光の役目のうちにあった。
「お二方をお招きになる名目は、一橋殿にお任せいたしまする。座は表の書院にて、書役は置かず、封は御三方がお揃いの座で切っていただく。それだけは、手前から願い出ておきまする」
「はい。それでお願いいたします」
「明日にも、平岡殿を通じて、一橋殿へお目通りを願い出まする」
「はい」
姫様の肩から、少し力が抜けたように見えた。
「水無瀬殿」
「はっ」
「よろしゅうお頼み申し上げます」
実光は包みを胸に抱いたまま、深く頭を下げた。
十
離れへ戻ると、実光は灯を一つだけ入れた。文机の上を片づけ、袱紗の包みを真ん中に置いて、しばらくその前に坐っていた。
去年の葉月の末、一橋殿と姫様が半日向かい合った座敷から戻った夜、実光はこの文机で一行だけを書いた。公議式目の作法につき、有職の照会これあり。滞りなく相済み候。嘘は一つもなく、それ以上のことも何も書かなかった。
あの一行は翌日麻布へ届け、誰かが綴じて蔵へ納めたはずである。十年経てば、誰も開かない。
今夜は、筆を執らなかった。硯の蓋も開けなかった。
明日の朝には、平岡殿へ取り次ぎを頼まねばならない。口上は、有職の照会につきお目通りを願いたい、の一つだけである。去年の葉月と同じ口上で、嘘は一つもない。
夜が更けていく。障子の外で、庭の桜の枝がときおり鳴った。
実光は包みを文箱に納めて蓋をし、灯を吹き消した。
第二百三十五話 了
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