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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百三十四話「糸子のお嫁入り編―旗なき網」

一

 朝の光のなかで、比叡の稜線が青く浮いていた。


 岩倉村の家は、山裾の緩い坂の途中にある。縁に出ると、東に比叡の峰が長く横たわり、その手前に田が段をなして下っている。


 苗代にはもう水が張ってあり、ほかの田にも水が引かれはじめていた。田植えはまだ先で、水の面には空と山がそのまま映っている。畦では蛙が鳴き、家の裏からは、薪を割る乾いた音が間を置いて響いてきた。


 割っているのは雑色の若い男である。京にいたころは、薪は買うものだった。こちらへ来てから、村の者に頼んで割り方を教わった。初めのうちは斧が木の目に噛んで抜けなくなり、そのたびに隣の家の年寄りが笑いながら手を貸しに来た。いまは、音の間がだいぶ揃っている。


 岩倉具視は縁に坐り、膝の上に一冊の書物を開いていた。


 御役御免の沙汰を受けた日の夕方、壁際に積んだ書物のなかから一冊だけ抜いて、長持の底へ入れてきたものである。こちらへ来てから、何度読み返したか分からない。頁の端が、指の脂で少し黒ずんでいた。


 去年の長月にこの村へ移ってきて、半年あまりになる。


 来た当初、村の者は都から来た公家を遠巻きに見ていた。以前にもこの村に暮らしていた男だと覚えている者がいて、その者たちだけが軽く頭を下げていった。いまでは、道で行き会えば向こうから会釈をしてくる。岩倉も同じだけ返す。それ以上の付き合いは、互いにしない。


 御役料は、退いた日から止まっている。暮らしは京にいたころより苦しい。家の者は三人とも、それを口に出さなかった。


 久助の額のこぶは、とうに引いている。京の道で浪人に囲まれたとき、この年寄りは主の前へ出て額を打たれた。いまは跡を探しても見つからない。朝は誰より早く起き、門の前を掃いている。


 夜は、朝まで眠れた。こちらへ移った最初の晩に一度も目を覚まさず、それからずっとそうである。


 冬のあいだ、文は一通も届かなかった。京にいたころなら、誰が文を寄越し、誰が寄越さなかったかを数えて日を送っただろう。こちらでは、数える相手がいない。届かないことにも、すぐに慣れた。


 命があれば、やり直しはいくらでもきく。


 去年の長月の夜、左府にそう言われた。御役御免の沙汰を受けた日、岩倉はその言葉を、まず命を残す、と言い直した。やり直す日がいつ来るのかは、考えないことにしていた。こちらから決められることではない。


 昼餉のあと、久助が茶を運んできた。


「旦那様」


「何じゃ」


「今朝、下の家の者が申しておりましたが」


 久助は湯呑みを縁に置き、少し言い淀んだ。


「京へ菜を売りに出た者が、町で聞いてきたそうで。……旦那様を、まだ狙うておる浪人がおると」


 岩倉は、書物から目を上げなかった。


「そうか」


「どこの者かまでは、分からぬそうで」


「分かるまい。噂じゃ」


 頁を一枚めくった。


 久助は、主の顔をしばらく見ていた。それから黙って下がりかけ、縁の端で足を止めた。


「旦那様。どなたか、上がってまいります」


 岩倉は顔を上げた。


 坂の下から、人が一人上ってくる。地味な羽織に菅笠をかぶった老人だった。供は連れていない。荷も持っていなかった。足取りは確かで、坂にかかっても歩く速さが変わらない。


 門の前まで来て、老人は笠を取った。


 その顔に、岩倉は見覚えがあった。近衛家の家司である。去年、近衛の屋敷へ通ったときに見た顔だった。


 岩倉は書物を閉じ、膝の脇へ置いた。


 老人は門の内へ入ると、庭先で膝をついた。


「岩倉様。近衛の家の者、藤右衛門にございます」


「遠いところを、ようおいでになった」


「左府様より、口上を預かってまいりました」


 藤右衛門は、そこで一度、背を正した。


「左府様が、岩倉様にお会いしたいと申しております」


 口上は、それだけだった。


 岩倉は、老人の手元を見た。懐にも袖にも、文を入れているふくらみはない。


「御用の向きは」


「手前は、それだけをお伝えせよと申しつかりました」


 岩倉は、膝の上で指を組んだ。


 文を持たせていない。それが、左府の答えだった。


 紙が残れば、近衛の家とこの家とが一本の線で結ばれる。去年の秋、京を出るとき、岩倉は左府へ一通の文も出さなかった。同じ理屈を、向こうも守っている。家司の口に用件まで持たせなかったのは、その念押しだろう。


 そこまでして呼ぶのなら、軽い用ではない。


「お迎えの日取りは、岩倉様のお返事を伺ってから決めよと申しつかっております」


「今宵でよい」


 藤右衛門の目が、わずかに上がった。


「では、今宵、お迎えを差し向けまする」


 藤右衛門は一礼して立ち、笠をかぶり直すと、来たときと同じ速さで坂を下りていった。


 坂の途中で、田の畦にいた村の者が藤右衛門に会釈をした。藤右衛門も会釈を返した。どこかの家の年寄りが、知り合いを訪ねて帰っていく。村の者には、そうとしか見えない。


 久助が、縁の端に立ったままだった。


「旦那様」


 呼んだきり、続きを口にしなかった。顔を見れば分かる。京の道で囲まれた日のことを、この年寄りは額で覚えている。


「参る」


 岩倉はそれだけ言って、閉じた書物をもう一度開いた。


  *


 同じ日の昼下がり、一条邸の奥の居間に、御所から里へ下がってきた女房が一人、挨拶に上がっていた。


 一条の家から御所へ上げた者である。奥向きのことは、この女房を通して折々に忠香の耳へ入る。


 ひととおりの挨拶が済むと、女房は少し声を落とした。


「先月のことにござりますが、左府様が御門へ、内々のお目通りを願われました」


「左府殿が」


「はい。御用向きは、私事とのみ。それから五日のちには、御門のほうから左府様をお召しになりました」


「二度か」


「二度にござります。どちらも奥の御一間にて、内々にお話しになりました。何を申し上げられたのかは、奥の誰も存じませぬ」


 忠香は、膝の上の扇を軽く返した。


 御門への内々のお目通りは、願えばすぐに叶うものではない。そのうえ二度目は、御門のほうからお召し返しになっている。奥の者の耳にも入らぬほど内々に、二度。


「私事で、のう」


 それだけに、軽い話とは思えなかった。


 左府の私事と聞いて、忠香に思い当たるものは一つしかない。


「江戸の姫君のことにおじゃろう」


「姫君の…にござりますか」


「御役目を退かせたいと、願い出られたのではおじゃらぬか」


 女房は、黙って次の言葉を待った。


「あの姫君も、もうよい年回りにおじゃる。確か、寿栄君の一つ上であったか」


 縁組の話がまとまっていても、おかしくない年である。その娘を江戸の武家屋敷に置き、異人と言を交わさせている。虎の間で、娘の行く末は自分が考えることだと左府は言った。あれは、意地ばかりではなかったらしい。


 御門の御用掛を退かせるには、御門のお許しが要る。御門は、あの姫君をことのほか重く用いておられると聞く。一度では、お許しが出なかったのだろう。二度目のお召しは、お許しか、お引き留めか。


 どちらにしても、左府は娘一人のために、二度も御前へ出たことになる。


「左府殿も、御苦労の絶えぬことでおじゃるのう」


 忠香は、声を上げて笑った。


 女房は目を伏せ、笑いが収まるのを待っていた。


 笑い終えると、忠香は鹿背山の茶碗を取り上げた。煎茶は、もうぬるくなっていた。


二

 日が西の山に入るころ、迎えが来た。


 近衛家の供が二人、提灯を提げて門の前に立った。乗物は伴っていない。洛北の村から公家の乗物が出ていけば、それだけで人目に立つ。


 岩倉は頭巾をかぶり、着古した羽織に袴という身なりで門を出た。在所の郷士が夜道を急いでいる、といった風体である。髷は、そのままにしてあった。去年、門の柱に貼られた紙は、髪を下ろして京を出よと言っていた。京は出たが、髪は下ろしていない。頭巾の下までは、誰も覗かない。


 久助と雑色が、門まで見送りに出た。雑色は何か言いたげに口を開きかけ、そのまま閉じた。久助は、主の背に向かって黙って頭を下げた。


 供の一人が前に立ち、一人が後ろについた。去年の長月、近衛邸から帰った夜と同じ並びである。


 村を出ると、道は田のあいだを南へ下っていく。水を張った田に、暮れ残りの空が映っていた。提灯の明かりが近づくと、畦の蛙がそこだけ鳴きやみ、通り過ぎるとまた鳴き出す。


 半年前、この道を逆に上ってきた。長持を人足に担がせ、一度も振り返らずに歩いた道である。


 今夜は、それを下っている。


 田が尽き、道の両側に家が増えてくる。鴨川の岸に出るころには、すっかり夜になっていた。


 洛中へ入ると、町家の戸はどこも閉まっていた。格子のところどころから灯がもれ、遅くまで開けている店の前だけが明るい。


 どの辻にも、人はいなかった。


 遠くで、犬が一度吠えた。前の供は振り返らず、提灯の高さも変えなかった。後ろの供の足音も、間が乱れない。


 公家町に入ると、塀が高くなった。御所の築地が、闇のなかに白く長く続いている。岩倉の住んでいた公家町のはずれとは、塀の高さも門の屋根も違う。同じ堂上の家々でありながら、道一本で別の町のように見える。


 近衛邸の表門の前は通らなかった。供は塀に沿って裏手へ回り、潜り戸の前で足を止めた。前の供が戸を二度叩くと、内から閂の外れる音がして、戸が開いた。


 岩倉は頭巾を取らずに身をかがめ、潜り戸を抜けた。


 通されたのは、奥の一間だった。


 燭台が一つ。文机が一つ。


 去年の長月、同じこの部屋に通されている。客間ではなく、左府の私室である。燭台の位置も、文机の向きも、あの夜と変わっていなかった。


 岩倉は頭巾を取り、膝を折って待った。


 障子の外で、庭木が一度だけ風に鳴った。


三

 障子が開き、忠房が入ってきた。


 岩倉は手をついた。


 忠房は文机の前に坐り、しばらく岩倉の顔を見ていた。


「生きておったな」


「生きておれと仰せでござりましたゆえ」


 忠房の口の端が、わずかに動いた。


「面を上げよ」


 岩倉は顔を上げた。燭台の火が、左府の顔の片側を照らしている。半年前と同じ、穏やかな顔だった。


「村の暮らしは、どうじゃ」


「静かにござります。夜は、朝まで眠れまする」


「京では眠れなんだか」


「門の前を通る足音を、数えておりましたゆえ」


 忠房は頷いた。


「まだ、そちを狙う者がおると聞いた」


「村の者も、同じ噂を拾うてまいります。今日の昼にも聞きました」


「気にはならぬか」


「わたくしの名を覚えておる者がおる…というだけのことにござります」


「家の者は、変わりないか」


「三人とも、おりまする。久助は、村へ来てまた門の前を掃きはじめました」


「掃かずともよいと、そちは言うたのではなかったか」


「京では申しました。村では、止めませなんだ」


 忠房は、膝の上で扇を持ち直した。


 訊かれたことに答え、その先へは話を広げない。この男の答え方は、以前と少しも変わっていなかった。今夜は在所の羽織を着て、顔の色は半年前よりいい。


「岩倉」


「はい」


「網を張りたい」


 岩倉の目が、わずかに細くなった。


「広う撒く網ではない。家を選んで、深う張る網じゃ。堂上の、下の家々にな。それから、奥の噂を拾う道。女房衆が里へ下がるたびに運んでくる話を、こちらで拾えるようにしておきたい」


「上の御家々は」


「上は、わたしが見る。朝議の座でも、歌会でも、顔を合わせる相手じゃ。下は、わたしには見えぬ。わたしが塀の低い家の門をくぐれば、その日のうちに近所じゅうが知る」


 岩倉は、黙って聞いていた。


 下の家々のことなら、岩倉は誰より知っている。どの家の屋根が傷み、どの家の娘が奥のどこに仕えているか。二十年、その塀の内側で暮らしてきた。呼ばれた用がそこにあることは、迎えが来る前から見当がついていた。


 忠房は、岩倉の顔を見たまま続けた。


「噂は、いつも遅れて届く。届いたときには、もう誰が言い出したのか分からなくなっておる」


「下の家々の噂は、下の家々で生まれまする」


「そうであろうな」


「生まれた家の内で拾わねば、耳には入りませぬ」


 忠房は頷いた。


「此度は、旗は立てぬ」


「そちを表には出さぬ。名も出さぬ。誰が網を張っておるのか、張られた側にも分からぬようにしておきたい」


 岩倉は、膝の上で組んでいた指を一度ほどいた。


 それから、また組んだ。


 去年の春、この屋敷で旗を渡された。今夜は、初めから旗がない。


 岩倉は、旗のことには触れなかった。


「網を張るには、餌が要りまするな」


四

「餌は、ある」


 忠房は言った。


「天朝物産会所を、知っておろう」


「京の名産を扱う、あの会所にござりますか」


「そうじゃ。会所の差配が近衛であることも、知っておろう」


 岩倉は頷いた。公家町で耳を澄ましていれば、その程度の話は入ってくる。


「会所の金は、この数年、朝廷へ入れてきた。御所の御手入れにも、大臣の家々の修理の料にもなっておる。会所が品に添える短冊や箱書きも、家格を問わず方々の家に頼んできた」


「村におりましても、短冊を頼まれる家が増えたという噂くらいは、届いてまいりまする」


「あれで、近衛に楯突く家は減った。耳打ちしてくれる者も、少しは出てきた。なれど、近衛のために口を開いてくれる家が増えたわけではない。ありがたいと言うて、いざとなれば黙って見ておる」


「浅う広う撒いたものでは、静観しか買えませぬな」


「そうじゃ。此度は、家を選んで深う入る」


 岩倉は、左府の顔を見た。


「深う入るとなれば、銭を握らせるのが早うござりましょう」


「銭は配らぬ」


 忠房は、扇を膝の上で横たえた。


「去年、久我内府殿の名が、どういう噂で回ったか覚えておろう」


「……銭が動いた、と」


 四奸と、市中は四つの名を数えた。久我の名には銭の噂がつき、自分の名には紙の噂がついた。どちらも出どころは分からず、自分の名の噂は、最後には天に代わって誅すという貼り紙になった。


「銭を握らせれば、握らせた先で必ず漏れる。急に暮らし向きの楽になった家を、隣の家は見ておる。出どころを辿られて近衛の名が出れば、銭で公家を買う家じゃと言われる」


「君側の奸、にござりますな」


 忠房は、それには頷いただけだった。


「深う入るにも、手立ては会所の仕事でよい。ただ、頼み方を変える。選んだ家には、一度きりの短冊ではのうて、定まった仕事を長く任せる。外から見れば、会所の得意先が一軒増えただけじゃ」


 岩倉は、少しのあいだ黙っていた。


 悪くない、と思った。


 一度きりの仕事なら、礼を受けて終わる。定まった仕事となれば、家の暮らしがそこに寄りかかる。寄りかかった家は、その仕事を失うまいとする。


 銭を握らされたのと違って、受ける側は家の名を落とさずに済む。屋根の修繕ひとつに難儀している家なら、まず断らない。


「わたくしは、何をいたしまする」


「どの家の、誰に深う入るかを選んでほしい。選んだ相手には、そちが会うて、人を見てくれ」


「銭には」


「触れずともよい。銭の出し入れは会所がする」


 岩倉は、膝の上の指を組み直した。


「左府様。一つ、詰めさせていただきとうござります」


「申せ」


「会所の帳面には、何が残りまする」


「どの家に何を頼み、いくら払うたか」


「それだけにしていただきとうござります。帳面に残してよいのは、商いの記録だけ。誰がその家を選んだかは、帳面にも、会所の者の口にも、残してはなりませぬ」


 忠房は、岩倉の顔を見た。


「紙に残れば、いずれ誰かが読みまする。読んだ者が、なぜこの家なのかと考えれば、その先にわたくしの名が出ましょう。わたくしの名が出れば、その先は左府様の御名に繋がりまする」


「分かった。選んだ者の名は、どこにも書かせぬ」


「もう一つ」


「まだあるか」


「深う入る家の仕事が、目に見えて厚うなってはなりませぬ」


 忠房は、扇を持つ手を止めた。


「会所の差配が近衛であることを、知る者は知っておりまする。その者たちが、どうしたわけかあの家にばかり仕事が回っておると気づけば、網の目がそのまま見えてしまいまする。いま広う回っておる仕事の中に紛れさせ、外から見れば、どの家もおおよそ並みに見えるようにしておかねばなりませぬ」



 忠房は、藤右衛門に命じた朝のことを思い出していた。どの家にも同じだけの手間をかけよ。一つの家だけ念入りに訊けば、その家を気にしておると知れる。


 同じことを、この男は銭の流れについて言っている。誰にも教わらず、話を聞いたその場で。


「呑もう。どちらもじゃ」


「ありがたく存じまする」


「段取りは、藤右衛門につけさせる。会所の京の者とそちのあいだは、あれが繋ぐ」


「会所の者は、何と心得ておりまする」


「商いじゃと心得ておる。品に添える短冊を、どこの家に長う任せればよいか。それを、近衛の家の者が口添えする。会所の者が知っておるのは、そこまでじゃ」


「口添えの先に、わたくしがおることは」


「藤右衛門のほかは、誰も知らぬ」


 岩倉は、黙って頭を下げた。


五

 頭を上げてから、岩倉は燭台の火に一度目をやり、それから左府の顔へ戻した。


 まだ聞いていないのは、網で何を拾うのかである。去年の春、旗を渡されたときには、左府は理由を順を追って話した。今夜は、何を守るための網なのかを言わない。


「左府様」


「何じゃ」


「それは、どなたの御為にござりまするか」


 去年の皐月、薩摩の男に投げたのと同じ問いだった。


 あのとき大久保一蔵は、一度だけ目を止めてから、日ノ本の為にごわすと答えた。よい答えではないが、嘘でもない、と岩倉は返した。答えの中身より、目が止まった一瞬のほうが多くを教えてくれた。


 忠房は、すぐには答えなかった。


 扇を膝の上に横たえ、その骨の先を指でなぞった。


 この問いが来ることは、分かっていた。だが、答えの形は決めてこなかった。


 知る者が増えれば、それだけ漏れる道も増える。宸翰を賜った日、御門はそう仰せになった。京で知っているのは、いまも御門と自分の二人きりである。三人目を、自分の口で作るわけにはいかなかった。


 それでも、この男には網を張らせる。ただ、何のために張る網なのかを知らなければ、いずれ判断を誤る。必要な噂を取り逃がし、意味のない話ばかりを持ち帰ることになる。


 言わずに、伝えねばならなかった。


 忠房は、扇の骨をなぞる指を止めた。


「江戸の娘の御役目を、知っておるか」


 岩倉は、少し考えてから答えた。


「外語御用掛と伺っておりまする。御門の御言葉を、異国の者へ伝える御役目と」


「そうじゃ。御門の御言葉を、そのまま異国へ伝える。それが娘の役目じゃ」


 忠房は、そこで口を閉じた。


 岩倉は待った。続きはなかった。忠房は扇を持ち直し、まったく別のことを言った。


「奥の噂が、いずれ要る」


「いずれ…と仰せになりますと」


「いずれ、じゃ」


 燭台の火が、少しだけ伸びた。


 忠房は、障子のほうへ目をやった。外は暗く、庭木の影も見えない。


「岩倉」


「はい」


「一条の右府殿の姫君方の御評判は、聞いておるか」


 岩倉の眉が、わずかに動いた。


「歌にも書にもよう通じておられると、噂には聞いておりまする」


「末の姫君のことは」


「お出来がよいと。……わたくしが存じておるのは、そこまでにござります」


「そうか」


 忠房は頷いた。その話をそこから先へは進めなかった。


 しばらく、どちらも口を開かなかった。


 左府の話には、筋が見えない。どれもそれだけで切れていて、一つも結ばれていない。


 岩倉は、この御方の話を何度か聞いてきた。


 数年前に一度。

 去年の春に一度。

 長月の夜に一度。


 どの座でも、言葉と言葉のあいだが途切れたことはなかった。


 筋が見えないのなら、筋を言わずに置いているのだ。


 忠房が、もう一言だけ足した。


「次の御代のことを、考えておる」


 それきり、口を閉じた。


六

 岩倉は、膝の上の指を見ていた。


 左府が置いていった言葉を、一つずつ拾い直す。


 奥の噂が、いずれ要る。


 奥の噂を欲しがるのは、奥に関わりを持つ者である。何の用もない家なら、女房衆の話など拾わずともよい。いずれ要る、と左府は言った。いまはまだ要らないが、先で要る。先で、奥に誰かが入るのか。それとも、入れたい者がいるのか。


 一条の姫君方の評判。


 五摂家の姫の評判を気にするのは、縁組を考えている者である。ただ、縁組の口利きなら、評判を訊くより先に右府のところへ話を持っていく。左府の訊き方は違った。あれは、相手の札を確かめる者の訊き方だった。


 一条の姫と並べて量られる誰かが、近衛の側にいる。同じ座を、争うかもしれない誰かが。


 次の御代。


 今上の次は、儲君である。その御代に、奥へ入る者がいる。


 岩倉の頭に、座の名が一つ浮かんだ。


 浮かんだものを、岩倉は一度脇へ除けた。あまりに大きい。


 除けたものが、ほかの言葉に引かれて戻ってきた。


 江戸の娘。御門の御言葉を、そのまま異国へ伝える御役目。左府はなぜ、網の話の途中で、いまその話をしたのか。


 江戸の近衛の姫の噂は、京にいたころ岩倉の耳にも届いていた。メリケンの者どもと膝を突き合わせ、御門の御意を向こうに呑ませた。江戸に下り、御名代として幕府の重職と渡り合っている。異国の言葉まで操るという。公家町では、変わった姫君だと笑う者も少なくなかった。尾ひれがついておるのだろう、と言う者もいた。


 岩倉は、笑わなかった。


 近衛の姫は、五摂家筆頭の姫である。家格で一条に劣るところはない。年回りも、儲君と離れすぎてはいない。御門がそれほどの信を置いている姫を、岩倉はほかに知らない。


 奥に入る者。一条の姫と同じ座を争う者。次の御代。御門が信を置く、近衛の姫。


 四つが、一つにつながった。


 岩倉の手が、膝の上で止まった。


「まさか……」


 声が、思っていたより低く出た。


「まさか、御門は、そのような御決断を……」


 忠房は、閉じた扇の先を口元に当てた。


 何も言わなかった。


 長い沈黙だった。


 燭台の火が一度揺れ、障子に映った二人の影が、それにつれて揺れた。火はすぐに元の細さに戻った。


 岩倉は、左府の扇の先を見ていた。


 口にしてはならないことを、自分はいま口にしかけた。


 そして、気づいた。


 左府は、一言もそれを言っていない。后という語も、儲君の御名も、江戸の姫の行く末も、この御方の口からは一度も出ていない。


 答えを組み立てたのは、自分だった。


 扇の先が、口元から離れた。


 忠房は、何事もなかったように扇を膝の上へ戻した。


「夜も更けたの」


 それだけ言った。


 岩倉は手をつき、頭を下げた。そのまま、しばらく上げなかった。


 頭を下げているあいだ、岩倉が考えていたのは一つだけだった。


 この御方は、娘の行く末を、自分の口からは誰にも言わずに守るつもりでいる。


七

 岩倉が顔を上げるのを待って、忠房は口を開いた。


「先ほど、そちを表には出さぬと言うた」


「はい」


「いまは…じゃ」


 岩倉の目が動いた。


「事が成れば、そちは自然と表へ出ることになる。次の御代には、人が要る。御門のお側で物を決める者も、決めたことを形にする者も、いまの朝廷の顔ぶれだけでは足りぬ」


 忠房は、そこで一度、障子のほうを見た。


「いまの朝廷で、物が決まるところを見たことがあるか」


「隅から、ずっと見てまいりました」


「ならば分かろう。議題が出る。誰かが一言述べ、誰かが一言足す。足された言葉がまた別の言葉を呼んで、話は横へずれていく。最後には、追って沙汰あるべしで流れる。今月の朝議も、そうであった」


 岩倉は、黙って聞いていた。


「泰平の世なら、それで回る。流れても、誰も困らぬ。次の御代は、そうはいくまい」


「……いつ、とは」


「言えぬ。何の役で、とも言えぬ。それは、わたしにも決められぬことじゃ」


 忠房は、言葉を切った。


 時期を約せば、この男はその日を数えて待つ。役を約せば、その役に合わせて動く。どちらも、約した側の読み違いがそのまま相手の命取りになる。


 だから、約せるものしか約さない。


「ただ、来る。去年の長月にも、そう言うた」


「来る、必ずな、と仰せになりました」


「覚えておったか」


「忘れようがござりませぬ」


 あの夜、膝を起こしかけたところで、自分は訊いた。わたくしの出る場は、本当に来ましょうか、と。訊くべきことではないと思いながら訊いた。左府は、間を置かずに答えた。


 今夜も、同じ速さだった。


 忠房は、膝の上で扇を握った。


「その代わり、と言うておく」


「はい」


「そちのすべてを、こちらへ差し出してもらう。知っておること、考えること、これから拾うてくるもの。口から出すものも、出さずにおくものも、すべてじゃ」


 岩倉は、黙っていた。


「それと、命もじゃ」


 燭台の火が、細く立った。


「その命、わたしが預かる。ゆえに、勝手に捨てることは許さぬ」


 岩倉は、左府の顔を見た。


 半年前、この部屋で言われている。塀と塀のあいだの道で、名も知れぬ浪人の刃にかかって終わられては、わたしが困る、と。


 あの夜は、困る、だった。今夜は、許さぬ、と言った。


 困ると言われたときは、聞くかどうかをこちらで決められた。許さぬと言われた命は、もう自分一人のものではない。


「先ほど、浪人の噂を申し上げました」


「聞いた」


「京にはまだ、わたくしを狙う者がおりまする。それでも、でござりますか」


「それでも、じゃ。狙われておる命なら、なおさら預かっておく。村の道でも、京の辻でも、そちが勝手に倒れることは許さぬ」


 岩倉は、しばらく何も言わなかった。


 長月九日の夜、薩摩の男は、この身に兵と銭と供を付けると言った。家に薩摩の者を置き、道を歩くときは供を付け、危うくなれば国元へ移す。そのうえで、家格を上げる話を三年、五年で出してみせると言った。差し出されたものは多く、どれも目に見えた。


 左府が今夜差し出したものは、来る、という一言だけである。いつかも、何の役かも言わない。そのかわりに、命まで差し出せと言う。


 岩倉は、二つの勘定を頭のなかで一度だけ並べて、脇へ置いた。薩摩の申し出には、薩摩が困らなくなった日の答えがなかった。左府は、自分の都合が変わる日の話をせずに、命を預かると言った。


 膝の上の指が、一度だけ強く組まれた。


八

 すべてを差し出せ、命まで、と言われた。その値を、岩倉はまだ聞いていない。


 二十年、自分の値を量りに来る者はいなかった。家格は上がらず、才だけがあって使い道がない。狡いと言われ、ヤモリと呼ばれ、それでも誰も、こちらを見はしなかった。


 差し出すものの値を、岩倉はまだ聞いていない。


 今夜の左府は、その先を言っている。何を買うのかを、聞いておかねばならない。


「左府様」


「何じゃ」


「左府様は、わたくしの何に値をお付けになりますか」


 忠房は、扇を膝に置いた。


「大局を見極める先見。状況を一変させる策略を組み立てる力。それを最後までやり抜く実行の力。そこを買うておる」


 岩倉は、すぐには返さなかった。


「先だっては、わたくしの家の低さを買うと仰せでござりました」


 あの夜、左府は最初にそれを言った。そちの家は家格が低い。身分が低いゆえに、失うものも少ない。だからこそ、我らには踏み込めぬところまで行ける、と。


「あれは、そちの置き場所の話じゃ」


 忠房は言った。


「今宵は、そち自身の話をしておる」


 岩倉は、膝の上の指を動かさなかった。


 二十年のあいだに、岩倉具視を褒めた公家はいた。才がある、弁が立つ、学がある。そういう言葉は、たいてい、家格さえあれば、という一句のあとに続いた。


 今夜の左府の言葉には、その一句がついていない。


 忠房は、この男を見てきた年月を思い返していた。


 数年前、この屋敷で、内戦なき近代化とだけ告げた。手立ても企ての中身も言わずに帰した。この男がそれをどう抱えて待つかを、忠房は見ていた。この男は、待った。誰にも話さず、何も急がずに。


 去年の春、旗を渡した。この男は、持たせていただけるのならと答えた。それから朝議の真ん中で紙を読んだ。その紙の文言は、この男が自分の言葉に直したものだった。読めとは誰も命じていない。自分から申し出た。


 長月の夜、刃を向けられた翌日にこの部屋へ呼んだ。悔いておるかと問うと、いいえと答えた。悔いる筋がない、と。


 どの座でも、忠房は自分の目でこの男を量ってきた。


 もとをたどれば、この男の使い道を最初に書いてよこしたのは、江戸の娘だった。そのことを、忠房は口にしなかった。


 岩倉の口の端が、わずかに動いた。


「左府様は、相変わらず、人を褒めるのがお下手にござりますな」


 半年前のあの夜は、人を慰めるのがお下手だと言った男である。


「褒めてはおらぬ。値を付けておる」


「……左様でござりますな」


九

 岩倉は、組んでいた指をほどいた。


 退いてから、半年が経った。そのあいだに、京では関白が替わっている。


 岩倉具視の名は、いまも市中に残っている。ただし、終わった者の名として残っている。去年の秋、退いたという話が回ったとき、御所では前へ出すぎた男が落ちていったと囁かれた。そう伝えに来た者がいた。気の毒そうな顔をして、困った顔を見に来た者だった。


 終わった者の動きを、わざわざ見張る者はいない。下の家々を訪ね歩いても、昔の付き合いを辿っているとしか見えないだろう。


 そして、薩摩とも切れている。


 あの九日の夜、薩摩の男の申し出を断った。あのとき受けていれば、いまごろこの身には薩摩の旗がついている。四奸の一人に薩摩がついた、と市中は言っただろう。左府も、その旗のついた男を、今夜この部屋には呼ばなかったはずである。


 旗を持たず、役を持たず、どこの家とも結ばれていない。


 今夜の網を張るには、そういう者が要る。


 岩倉は、左府の顔を見た。


「左府様」


「何じゃ」


「これを見越して、わたくしを一時、朝廷から退かせられたのでござりますか」


 忠房は、岩倉の顔を見返した。


「まさか」


 扇を、膝の上で軽く返した。


「それは、そちの強運よ」


 嘘ではない。退くと決めたのは岩倉自身である。願いの書付も、自分で書いて出した。


 ただ、去年の春、この男を的として前へ出したのは忠房だった。旗を持つ者は憎まれる。憎しみは旗へ向かい、後ろにいる近衛には向かわない。そう告げたうえで、この男に旗を渡した。長月の夜、塀と塀のあいだで四人に囲まれたのは、その結果である。


 忠房は、そのことを口にしなかった。


 岩倉は、左府の顔を見ていた。


 強運、と言われた。


 半年前のあの夜、左府は別のことも言っている。旗を持つも下ろすも、そちを咎めぬ。旗を渡したのは、わたしじゃからの、と。


 旗を渡したのは左府である。前へ出ると決めたのは自分である。退くと決めたのも自分である。どちらの言い分も、半分ずつ正しい。正しい半分だけを、左府はいま口にした。


 岩倉は、笑った。


 口の端だけが上がった。目は、少しも笑っていなかった。燭台の火が、その目の奥に映ったまま動かなかった。


 半年前、この部屋で笑ったときには、声が少しだけ出た。今夜は、声が出なかった。


「強運、にござりますか」


「そうじゃ」


「左様にござりますか」


 岩倉は、それ以上は訊かなかった。


 膝を少し退いた。


 両手を畳につき、額が畳に触れるところまで頭を下げた。


 去年の春、この屋敷で旗を受けたとき、岩倉は頭を下げた。長月の夜、生きておれと言われたときには、それよりわずかに深く下げた。


 今夜は、そのどちらよりも深かった。


「存分にお使いくだされ、左府様」


 忠房は、その背を見下ろしていた。


「頼む」


 短く、それだけ言った。


十

 帰りも、供は二人だった。


 提灯が前と後ろに一つずつ。来た道を逆に、北へ上っていく。


 近衛邸の裏の潜り戸を出たとき、夜はいちばん深いところにあった。公家町の塀のあいだを抜け、洛中を出るまで、行き会った者はいなかった。


 頭巾の下で、岩倉は最初の勘定を始めていた。


 下の家々の顔ぶれを、頭のなかで一軒ずつ並べる。


 会所の仕事を受けている家なら、もういくつもある。網に要るのは、その中のひと握りだった。


 家の中で物を決める者の口が重く、受けた恩を忘れない家。下の家々の寄合で、その家の当主が口を開けば皆が耳を貸す家。娘が奥に上がっていて、誰の近くに仕えているかがはっきりしている家。


 そういう家を、片手で数えるほどに絞る。十軒を浅く撫でるより、三軒に深く入るほうが、いざというときに声になる。


 口の軽い当主の家は、どれほど顔が広くても外す。一条の家と行き来のある家も、初めのうちは外しておく。


 選んだ家の仕事が、ほかの家より目に見えて厚くなってはならない。広く回っている仕事の中に、紛れさせておく。その加減は、藤右衛門を通じて会所に伝えればいい。


 それから、女房たちの実家である。


 奥に上がっている娘が、里下がりの日に帰る家。その家の母親が、近所のどの家の女たちと顔を合わせるか。どの家の娘が、奥のどこで、誰の近くに仕えているか。


 選んだ名は、頭のなかにだけ置いておく。


 妹の紀子は、奥を退いて半年あまりになる。それでも奥には、あの妹と縁のあった者がまだ幾人か残っているはずだった。


 網の先に誰がいるのかは、今夜、口に出さずに知った。


 一条の家である。右府は歌の会や茶の席に、家格を問わず人を呼ぶと聞く。下の家々にも、右府の座に出入りする者がいるだろう。その者たちがそこで何を聞き、何を話して帰ってくるか。網が最初に拾うべきなのは、そこだった。


 ただし、一条の名は誰にも出さない。伏せたまま拾い、得たものだけを左府へ渡す。


 田のあいだの道をしばらく上ったころ、東の空の端が、わずかに白みはじめていた。


 岩倉は、振り返らなかった。


  *


 近衛邸の奥の一間で、忠房は一人で坐っていた。


 燭台の蝋燭は、もう短くなっている。


 忠房は、岩倉の坐っていたあたりに目をやった。


 今夜この部屋で口にしたことを、忠房は一つずつ辿り直した。あの男が言い当てたとき、自分は扇を口に当てただけである。


 それでも、あの男は知った。そのうえで、頭を下げた。京で知る者は、御門と自分のほかに一人増えた。その一人は、自分で組み立てた答えを胸に持って、北へ帰っていく。


 くれぐれも、と御門は仰せになった。


 忠房は、その御言葉を胸のなかで一度だけ繰り返した。


 障子の外が、少しずつ青みを帯びてきた。


「藤右衛門」


 廊下の先から、足音が来た。障子の外で止まる。


「はい」


 この者は、昨日の朝に洛北まで歩いて往き来し、日が暮れると迎えの供を出した。それから今まで、廊下の先で起きていたのだろう。声には、それが少しも出ていなかった。


「夜が明けたら、会所の京の店を預かる者を呼んでくれ。表からではなく、裏手の潜り戸からじゃ」


「承知いたしました」


「岩倉殿と会所のあいだは、そちが繋げ。紙には何も書かぬように」


「心得ております」


「それから」


 忠房は、少しだけ言葉を切った。


「そちは、少し休め」


 障子の向こうで、藤右衛門が一拍だけ黙った。


「……ありがたく存じます」


 足音が、廊下を遠ざかっていった。


 忠房は、文机の脇の文箱を引き寄せた。


 蓋を取る。歌の反故が重なっていて、いちばん上の一枚の角が少しずれている。一昨日の晩、自分でずらしたままの形だった。


 その下に、娘の書状がある。


 忠房は、何も取り出さなかった。蓋を閉めた。


 障子を開けると、庭は明け方の薄い光のなかにあった。


 糸桜の葉が、朝の風に細かく揺れていた。葉の先で、夜露が一つ光った。


 第二百三十四話 了

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