第二百三十三話「糸子のお嫁入り編―盤面」
一
弥生も下旬に入り、近衛邸の庭の糸桜はすっかり葉桜になっていた。
ひと月前には枝の先まで薄紅に煙っていた木が、いまは細い若葉を垂らしている。根元の苔は夜露を含んで黒く沈み、枝のあいだから朝日が届くと、ところどころが小さく光った。築地塀の向こうを、御所へ向かう乗物の担ぎ手が通っていく。その低い足音が、公家町の朝の始まりだった。
忠房は障子を半分開けて、文机に向かっていた。
膝の脇に桐の文箱がある。蓋を取ると歌の反故が重ねてあり、角はわざと揃えていない。古い紙を一枚ずつ除けていくと、底から厚い書状が出てきた。娘が東海道を歩く者に託して寄越したものだ。その下に、御門から返していただいた英国の別紙が薄く挟まっている。
厚いほうだけを取り出して、膝に置いた。開く必要はない。中身はすべて頭に入っている。
宸翰を包みにして壬生へ渡したのが、如月の半ば。あの若者は鷲尾と二人で伏見を発ち、東海道を下った。人の足で半月ほどの道のりだから、江戸にはとうに着いて、娘の手にも渡っているはずだった。
御公儀へ明かすのは宸翰が下ってのち、御三方に限りたい――娘は書状にそう書いていた。いつ渡すかは娘が決める。もう渡したのか、まだ手元に置いているのか、忠房に分かるのはそこまでだった。どちらにせよ、その日は遠くない。
宸翰を賜ったのは、五日を置いて二度目に参内した日である。御門は包みを忠房の手へ押し出し、最後にこう仰せになった。
宸翰が江戸に着けば、三人に限るとはいえ、幕府の者が糸子の行く末を知る。知る者が増えれば、漏れる道も増える。くれぐれも、と。
その御言葉は、返書の末尾にそのまま書き添えた。娘にそう言った以上、京の側も同じだけ用心しなければならない。
返書にはほかのことも書いている。外語御用掛についての御言葉を、一字も違えずに記した。英国の品の受け手を天朝とすることを、御門がお許しになったことも書いた。
どれも、娘が江戸で幕府と向き合うときの手札になる。
同じ返書に、もう一行書いている。
家々のことは、父が引き受ける。
娘の頼みにそのまま応えた一行だった。朝廷の内で后の座に目を向けるであろう家々への備えは、父に任せたい。娘はそう書いてきた。
引き受けると書いておきながら、后の件に向けた備えには、忠房はまだ何一つ手をつけていなかった。
御門と娘のあいだで決まったことは、いまはまだ内々の秘め事である。京で知っているのは御門と自分の二人きり。それが幕府の三人に開かれれば、秘め事は初めて外へ一歩出る。
いずれは誰かの耳に入る。そうなってから慌てて手を打っても遅い。
娘は、受けると決めた。
あの書状を書くのに半年あまりかけ、そのあいだ誰にも言わず一人で抱えていた。そうして決めたことを、どこかの家に横から崩されるのだけは、忠房には承服できなかった。
書状を元に戻し、反故を重ね、角をずらして蓋を閉じた。
障子の外で、苔の露がまた一つ光った。
二
「藤右衛門」
廊下の先へ声をかけると、ほどなく足音が来て障子の外で止まった。
「はい」
「入れ」
藤右衛門は膝で敷居を越えて坐った。
近衛の家政を長く預かってきた老人で、背は少し丸くなったが坐り方は崩れない。忠房が幼いころから、同じ間合いで障子の外に控え、同じ声で返事をしてきた男である。
「一つ、調べてもらいたいことがある」
「承ります」
「五摂家と宮家で、姫君のおられる家を洗い出してくれ。年回りは十を過ぎて十七、八まで。どの姫に、どこからどういう縁談が来ておるか。来ておらぬなら、それもじゃ」
藤右衛門は黙って頷いた。
縁組を考える当主が、家司に姫君の年回りを調べさせる。それ自体はよくある話だ。ただ、その年回りが儲君と重なることに、この老人が気づかないはずはない。それでも顔つきは、いつもの朝のままだった。
「調べ方について言うておく」
「はい」
「紙には書くな。聞いたことは覚えて、口で持ち帰れ」
「心得ました」
「近衛の名で訊いてもならぬ。わたしが知りたがっておると、相手に思わせるな。家司どうしの付き合いでも、里へ下がっておる女房の口でも、出入りの呉服屋や菓子屋の世間話でもよい。向こうが勝手に話したことだけを拾うてくれ」
藤右衛門はもう一度頷いた。
「年頃の姫君のお話なら、呉服屋がいちばんよう存じております。仕立ての注文は、嫁ぎ先が決まるより先に入りますゆえ」
「そうか」
「菓子屋も存外に耳が早うございます。祝いの干菓子の注文は、ひと月前には参りますので」
忠房の口の端が、わずかに動いた。何を調べるのかは問わず、どこを当たれば早いかを先に言う。昔からそういう男だった。
「急がずともよい」と、忠房は言い添えた。
「急げば、そのこと自体が伝わる。何を急いでおるのかと考える者が出てくる。どの家にも同じだけの手間をかけよ。一つの家だけ念入りに訊けば、その家を気にしておると知れる」
「すべて並みに、ということでございますな」
「そうじゃ」
藤右衛門は、口の中で一度繰り返すように小さく頷いた。
「承知いたしました。いつもの付き合いの合間に、ということで」
「それでよい」
一礼して藤右衛門が下がり、足音が廊下の先へ遠ざかっていった。
訊いて回る以上、噂の種になるのは避けられない。近衛の家司が年頃の姫君の話を集めていると知れれば、近衛は何を考えているのかと言い出す者が出る。
そういう者は、近衛の当主に年頃の娘が江戸にいることを思い出すだろう。江戸の姫の縁組を探しているのか、と考える者もいるかもしれない。
そう思われるなら、それで構わなかった。
娘の縁組を案じる父が、よその姫の行き先を気にしている。京の公家なら誰でも思いつく筋で、不審を招くことはない。困るのは、その先まで考える者が出ることだ。
藤右衛門は、そこの加減を心得ている。この家の台所が傾いていたころ、出入りの商人にどこまで話し、どこから先を伏せておくか、あの者は二十年それをやってきたのである。
三
藤右衛門が報告に来たのは、六日後の夕刻だった。
西日が障子を淡い橙に染め、庭では下働きが打ち水をしている。藤右衛門は前と同じく膝で入り、同じ位置に坐った。懐からは何も出さず、両手を膝に置く。
「申し上げます」
「うむ」
「まず、どこで聞いたかから申し上げたほうがよろしゅうございましょうか」
「そうしてくれ」
藤右衛門は少し目を伏せてから話しはじめた。
「三日前、さる家の家司と碁を打ちました。この者とは、もう十年ほど月に一度打っております。先方の姫君の噂は、この者から出ました。碁の最中に、近ごろ奥が騒がしいと申しますので、何事かと問いましたら、姫君の琴の師匠が替わったのだと。替わった理由を訊くまでもなく、向こうから、嫁ぎ先の家の流儀に合わせるためだと申しました」
「嫁ぎ先は、決まっておるのか」
「内々には、と」
忠房は頷いた。
「次は、女房の里でございます。御所に上がっておる者の母親が、手前どもの台所の者と同じ村の出でございまして、里下がりの折に寄ってまいります。この母親が、娘から聞いたという話をいたしました。どこそこの姫君は御所の女房衆の間でも評判がよい、どこそこの姫君は少々お身体が弱い、と。娘の話の受け売りでございますから、確かかどうかは分かりませぬ。ただ、御所の内で誰が誰をどう言うておるかは、よう分かります」
「どう言うておる」
「それは、のちほどまとめて申し上げます」
藤右衛門は、膝の上で指を一本折った。
「それから、呉服屋でございます。出入りの手代が反物を持ってまいりましたので、近ごろの注文の具合を訊きましたら、さる宮家から、地の厚い打掛の注文が入っておるとのことでございました。冬の物を春に頼むのは、嫁入りの支度のほかにはまずございませぬ」
話はそれからも続いた。菓子屋の主人が、ある家から祝いの干菓子の数を問い合わせられたこと。ある家の青侍が、主家の姫君の歌が准后のお目に留まったと酒の席で自慢していたこと。ある家の老女が姫君の縁組をめぐって当主と言い争った話が、別の家の下働きを経て、二日後には三軒先の台所まで届いていたこと。
藤右衛門はどの話にも自分の見立てを挟まず、誰から、どこで、何を聞いたかだけを順に並べていった。
忠房は黙って聞いた。
話が増えるにつれ、京という町の形が少しずつ見えてくる。築地塀に囲まれた屋敷が百も二百も並び、どれも表門を閉じている。それでいて中のことは、碁盤の上や台所の土間、反物の包みのあいだを通って外へ出ていく。家司ひとりが、いつもの付き合いの合間に六日聞き集めただけで、これだけのものが手元に届いた。
ほかの家も、同じことをしているはずだった。
「それで」
促されて、藤右衛門は初めて結論を口にした。
「五摂家と宮家とで、殿の仰せの年回りの姫君は、幾人かおられます。おられますが、多くは年が一回りほど上か、すでに内々に縁組のお約束がおありです。そうでなければ、家の格のほうが、と申す方々でございます」
家の名は出さなかった。忠房も訊かなかった。
「残りますのは、お一方でございます」
「一条か」
藤右衛門の目が、わずかに上がった。
「はい。右府様の末の姫君。寿栄君と申される方でございます」
予想していた名だった。娘の書状を初めて読んだ晩、一条には糸子より一つ年下の姫がいると、忠房は自分で思い浮かべていた。藤右衛門の持ち帰った答えは、あの晩、頭の隅に置いた名と同じだった。
「そうか」
それだけを言った。
「評判は、のちほどまとめてと申したな」
「はい。寿栄君のことは、どこで訊きましても、悪い話が一つも出てまいりませなんだ」
藤右衛門はそう言って、少し間を置いた。
「ほかに、何かあるか」
「いえ。……ああ、碁の折に、もう一つ耳に入ったことがございました。中山様の御末子が、このところお屋敷を空けがちだそうでございます。先方の家司が、中山様のところの者と懇意で、その者がこぼしておったとか」
「中山の…?」
「はい。それだけのことでございますが」
忠房は軽く頷いただけだった。若い公家が屋敷を空けがちだという話なら、京にはいくらでも転がっている。藤右衛門も、ついでに口にしただけという顔をしていた。
四
藤右衛門が下がると、忠房は灯を入れさせ、夕餉の膳は手をつけずに下げさせた。
寿栄君について聞き集めたことを、藤右衛門は下がる前にすべて置いていった。それを頭のなかで並べ直していく。
三つか四つで古今和歌集を口ずさみ、五つで自ら歌を詠んだ。七つで漢籍の素読を終え、それから書を習い、手はもう大人の手だと評されている。
六で琴を始め、ほどなく笙も吹くようになった。茶も花も香も、それぞれ師について修めている。御所言葉の受け答えも、重い衣を着たままの立ち居振る舞いも、一つずつ身につけさせているという。
それだけ詰め込まれて、大病1つしていない。八つのときには種痘まで受けさせている。
血筋のことも聞いてきていた。生母は右府の側室。寿栄君は、伏見宮家から入った北の方の娘として育てられている。
五摂家の当主が側室の子を正室の子として育てるのは、珍しいことではない。表に出すときは北の方の娘として出す。そうなれば寿栄君は、母方に伏見宮の血を引く姫になる。家格を量る者は、まずそこを見るだろう。
年は儲君より三つ上。三つ違いは数えて四つ目にあたり、四つ目の女房を嫌う言い習わしがあることは、忠房も知っている。縁起を担ぐ者なら、そこを突くかもしれない。
だが、生まれ年など届け一つで一年くらいは動かせる。動かせば四つ目ではなくなり、それで済む。一条が本気で后の座を取りにくるなら、その程度の手直しはためらわないだろう。手直しの済んだ傷をこちらから指して騒げば、騒いだほうが卑しく見える。傷としては数えられなかった。
糸子は四つ上で、数えれば五つ目になる。五つ目を嫌う言い習わしは聞いたことがない。年回りだけなら、こちらに一つ分がある。
忠房はその分を勘定から外した。分があると構えた者は、そこで足を止める。一年動かせば消えるほどの差を、頼みにするわけにはいかなかった。
女房の里の母親から聞いたという話を、もう一度思い返す。御所の女房衆のあいだで、一条の末の姫君はおっとりしたお方だと言われている。声を荒らげたことがなく、それでいて学ぶことには、大人が音を上げるほど根気が続く。
女房衆の口は、褒めるより貶すときのほうが滑らかになる。その口が、この姫については褒めることしかしていない。遠くから聞いた評判ですらこうなら、家の内ではなおのこと大事にされているだろう。
家格は五摂家の一条。筆頭の近衛には一段劣るが、后を出すのに不足はない。年回りは儲君と釣り合い、教養はおそらく京の公家の娘のなかで一番よく仕込まれている。評判も申し分ない。
「……傷と呼べるほどの傷が、ない」
口に出してから、忠房は灯を見た。
公家の古い目で量れば、糸子のほうはどうか。五摂家の姫でありながら江戸の武家屋敷に長く住み、異国の者と言葉を交わし、幕府の重職と同じ座に着いてきた。
姫は御簾の内から出ぬものと考える家々には、そのどれもが傷に映る。御門の御用を務めた結果で、忠房はそれを恥じていない。虎の間で右府の口ぶりを聞いたときから、それは分かっていた。
家格、年回り、教養、評判。どれを取っても、儲君の后にいちばん近いのは一条の末の姫だった。
忠房は膝の上で手を組んだ。
五
右府はいま、儲君の后のことまでは考えていないだろう。
江戸の姫を、后の座を争う相手として見てもいない。虎の間で娘の行く末を問うたときも、こちらの手の内を探る顔ではなかった。儲君はまだお若い。后の話が朝廷で出るのはもっと先だと、京の誰もが思っている。
だが、その話が出れば、あの家は必ず手を伸ばしてくる。家の仕事として備えてきたものを、いちばん大きな座が見えたときに出さない家はない。末の姫があれほど出来がよいなら、なおさらだ。
それも、世が平らかであれば、の話である。
忠房は、家格、年回り、教養、評判という四つの物差しを見直した。どれも、御所の奥が静かであることを前提にした物差しだった。歌と書と立ち居振る舞いで、家の格を映す。泰平の世の后なら、それで足りる。一条の家は、その物差しで量って欠けるところのない姫を育ててきた。
黒船が浦賀に来てから、もう十年になる。
そのあいだに異国の船が港に入り、条約が結ばれ、江戸でも京でも血が流れた。御門は異国の脅威から神国を守ろうと、その十年、日々身を削ってこられた。
今の御門のような思いを、儲君にはさせたくない。娘への書状に、忠房はその御言葉を書き送っている。
儲君の御代が、この十年より穏やかになるとは思えなかった。その御代に后として立つ者には、異国の使いの前でも、幕府の重職の前でも、御門の御名を背負って立つことが求められる。
あの姫は、朕の名を背負うて江戸に立っておる――宸翰を賜った日、御門はそう仰せになった。
それができる姫を、忠房はほかに知らない。
一条の末の姫は、泰平の后としてなら申し分がない。ただ、これからの御代の后としては、荷が重かろう。一条が長年かけて合わせてきた物差しのほうが、もう世に合わなくなっている。
御門が娘を才女と評し、その才で儲君を支えてほしいと仰せになったのは、親心とともに、この先の御代に何が要るかを量ってのことだったのだろう。忠房には、いまそれがはっきりと分かった。
ただ、京の公家衆が手にしているのは、いまも泰平の物差しだった。右府もあの朝、虎の間で、その物差しで娘を量った。
娘の座は、御門の思し召しで定まっている。ただしそれは、御門と忠房と娘のあいだでのことだ。表に出るのは儲君が御位にお即きになるときで、それが何年先かは誰にも分からない。
そのあいだに一条の姫が、泰平の物差しで量ってこれ以上ない后として京じゅうに知られていけば、表に出たその日、なぜ一条ではないのかと言い出す者が必ず出る。その声を拾い上げる者も出るだろう。
秘め事である以上、物差しが違うのだと先に言って回ることもできない。
六
一条の手に何があるか、忠房は数えはじめた。
一つは一橋家との縁。養女を嫁がせたその家の当主が、いまは将軍後見職として幕府の中枢に坐っている。一条はその気になれば、幕府の奥へ一本の道を持っている。
二つ目は、先に数えた伏見宮の血である。
三つ目は、一条の家そのものが持つ人のつながりだった。右府は長く朝廷の中ほどに坐り、幕府とも朝廷とも事を構えずにきた人である。
敵を作らない分、顔のつながる相手は多い。嫡男の実良は国事御用掛に就いている。家司の数も出入りの者の数も近衛と大差なく、藤右衛門が六日で集めた話なら、一条の家司も六日で集められる。
右府にはもう一つ、ほかの家にない付き合いがある。歌を詠み、絵を描き、煎茶を好む人で、絵は土佐の流れを汲み、鹿背山で焼かせる煎茶の器にまで口を出すと聞く。
そういう人の周りには歌の会があり、茶の席があり、絵の見せ合いがある。そこに家格は問われない。歌がうまければ、塀の低い家の者でも席に着ける。朝議の座とは別のところで結ばれたその繋がりは、上の家々よりむしろ下のほうへ広く伸びているはずだった。
そこまで数えて、指が止まった。
一つ目に戻る。一橋の当主は将軍後見職。御門が御手ずから書かれた宸翰の、宛所の一人目がその後見職だった。娘がそう願い出て、御門がそのとおりにお書きになった。後見職、政事総裁職、老中首座。宸翰を開いた三人は、娘の行く末を知る。
その一人が、一条の婿にあたる。
いま初めて気づいたわけではない。宛所を書いた娘の書状を読んだ晩にも、頭のどこかで気づいてはいた。ただあのときは、宸翰を賜れるかどうかも分からず、目の前のことを片付けるので手一杯で、その先まで考えを進めなかった。
いま、その道が一本はっきりと見えている。
後見職が宸翰の中身を妻に話し、妻が里へ文を書く。その筋を順に辿ってみて、忠房は途中でやめた。
あの御方は口を開かないだろう。
娘の書状には、後見職について書いた数行があった。英国との談判の座に、後見職が娘を呼んだ一件である。娘はそれを幕府への手札にすると書いていた。
御門の御用掛を勝手に談判の座へ引き出したことを幕府に気づかせ、取るものを取る。そのうえで、二度と同じことをさせない釘にもする。
その手札を握られている後見職が、宸翰の中身を妻の里へ漏らすとは考えにくい。漏らせば娘の手札が表に出る。そういう損得の勘定を誤る人ではないことは、娘の書きぶりからも察せられた。
それでも、道が通っていることに変わりはない。後見職本人が口を閉じていても、周りには用人がいて、奥がある。御門の御筆による宸翰を受け取ったという事実は、屋敷の内に残る。何が書かれていたかまでは知らずとも、京から何かが届いたことに気づく者は出るかもしれない。
一条の家は、まだ何も知らない。
知らないうちに足場を固め終えておく。一条が何かに気づいて動き出したとき、その先にもうこちらの手が置いてある。そういう形にしておかなければならなかった。
灯が細くなっていた。忠房は自分で芯を少し上げた。
七
朝議は、それから三日後に開かれた。
関白が鷹司殿に替わって、ふた月になる。替わってしばらくは、どの座にも新しい関白の顔色を量る気配があったが、このところそれも薄れてきた。量り終えた者から、元の坐り方に戻っていったのだろう。
忠房は左大臣の座に着いた。
障子越しの朝の光が白い。上座に関白、その左右に大臣の座が並び、そこから官位の順に公卿の座が続く。一番下の座からだと、首を少し伸ばさなければ関白の顔は見えない。
右大臣の座には一条忠香がいた。忠房が着座すると、右府は軽く会釈をした。虎の間で交わしたのと同じ深さで、忠房も同じだけ返した。右府の顔には、あのときと同じどちらとも取れる薄い笑みが浮かんでいる。
少し下の座には、国事御用掛として嫡男の実良が坐っていた。父親に似て整った面差しの若い公卿で、膝に置いた手を一度も動かさない。
議奏が議題を読み上げはじめた。
寺社から上がった願いの扱い、年中行事の日取り、ある家の官位昇進の伺い。読み上げられるたびに関白が座を見渡し、誰かが一言述べ、別の誰かが一言足す。足された言葉がまた別の言葉を呼び、話は少しずつ横へずれていく。ずれたところで関白が何か言いかけ、言いかけたまま隣の者の顔を見た。
一つ目の議題は、追って沙汰あるべし、で次へ回された。二つ目もほぼ同じ形で流れた。
忠房は議題の中身より、座の顔を見ていた。関白が誰の顔を見てから口を開くか。誰が話しはじめると誰が扇を閉じるか。誰が誰の言葉に頷き、頷いたあとで誰を窺うか。
右府はほとんど口を開かなかった。一度だけ、前の者の言葉を短く受けて、もっともにおじゃる、と添えた。それだけで、座のいくつかの顔が一斉にそちらを向いた。
九条の座は、准后の御実家として、今日も一段重い。去年の夏にはまだ関白の座にあった家である。いまの関白は議題を回すたびに、九条の座へ一度目をやってから先へ進めていた。
三つ目の議題が読み上げられている途中で、別の議奏が口を挟んだ。
五十を過ぎた、目の強い公卿だった。言葉を足し、自分の勢いに押されるようにもう一言重ねる。関白がそれを受けかけたときには、もう次のことを言いはじめていた。隣の議奏が、袖の陰で小さく咳払いをした。
中山忠能である。
儲君の御生母はこの人の娘で、儲君は中山の屋敷でお生まれになり、幼いうちはそこでお育ちになった。いまも儲君の養育には、この人が深く関わっている。
三つ目の議題も、結局は追って沙汰あるべしで流れた。
*
朝議が退けると、忠房は虎の間で乗物の支度を待った。
襖の虎は、右府と並んで坐ったあの朝と同じ顔で座敷を見下ろしている。日はいっそう高くなり、障子の白さが目に痛い。
虎の間には、もう幾人かの公卿が坐っていた。退出の順を待つあいだに、誰からともなく話がはじまる。朝議では口を開かなかった者が、ここでは膝を崩して喋っていた。
その輪の中心に、中山がいた。
「儲君は、此頃、雷が鳴っても御座をお立ちにならぬ」
中山は膝の上で扇を握り直した。
「ついこの間までは、遠くで鳴っただけで、御座を立って奥へお入りになろうとなされた。それを主上が、やがて御位を継ぐ身が雷を怖がってなんとすると、厳しゅうお諭しになった。それ以来、儲君は、御自分で御座に坐り直されるのじゃ。先だっても、御所の上を雷が渡ったが、儲君は筆をお持ちになったまま、一度も顔をお上げにならなんだ」
中山の目には熱がこもっていた。
話しはじめると止まらない人だということは、朝議の座でも見て取れた。ここではそれがもっとはっきり出ている。儲君が雷のあいだに何を書いておられたか、そのお手がどれほど上達なされたか、それが主上の御指南の賜物であること。中山は御指南の言葉を、一つ一つ口にしていった。
「主上の仰せのとおりにおじゃる。儲君は、主上の御言葉を、そのまま胸に置いておられる」
輪の何人かが頷き、何人かは頷きながら目を見交わしていた。
輪の端にいた若い公卿が口を開いた。
「外祖父殿は、儲君の御事となると、話が長うおじゃるな」
笑いを含んだ声だった。座をほぐすつもりだったのかもしれない。何人かがつられて口元をゆるめた。
中山の顔に血がのぼった。
「儲君の御事を、軽う申すな」
大きな声ではなかった。それで座の空気が止まった。若い公卿の口元から笑いが消え、ほかの者も扇を持つ手を止めた。
中山はしばらく若い公卿を見据え、それから黙って膝を立てた。扇を握ったまま、敷居のほうへ歩いていく。乗物の支度が整ったという取次の声は、まだかかっていなかった。
敷居の手前で、中山の目が忠房に向いた。
「左府殿」
「中山殿」
忠房が軽く頭を下げると、中山も型どおりの深さで返した。言葉はそれだけで、中山は忠房の横を通り過ぎ、廊下へ出ていった。
ばつの悪い静けさが残った。軽口をたたいた若い公卿は、膝の上で扇をいじっている。誰かが小声で「まあ、中山殿はいつものことにおじゃる」と言い、それでようやく座がほどけた。
廊下の先から、もう足音は聞こえない。
儲君にいちばん近く、いちばん熱い人だ。その御事となれば、朝議でも虎の間でも言葉が止まらない。后の話が朝廷で出る日が来れば、この人は必ず口を挟む。挟めるだけの立場があり、挟まずにいられない人柄でもある。
嘘のない人だ…と忠房は思った。
儲君を軽く言われて顔を赤くしたのも、そのまま座を立ったのも、思ったことが外に出ただけのことだ。腹の内を隠して笑っておくということが、この人にはできない。
銭では動かないだろう。こういう人は、銭を差し出されたことそのものに怒る。怒ったことを黙っていられる人でもない。かといって理を説いても、どこで気が変わるかが読めない。若い公卿のたった一言で、あれだけ動いた人である。こちらの思わぬ一言で、思わぬほうへ動くこともあるだろう。
味方につけられれば、これほど強い人もいない。儲君の外祖父が后の座について口を開けば、それだけで朝廷の風向きが変わる。ただ、思うとおりに動かせる相手ではない。
今は触れずに置く、と忠房は決めた。
取次の者が敷居際に膝をつき、左府様、御乗物の支度が、と告げた。
八
乗物は宜秋門を出て、公家町の築地のあいだを北へ進んだ。
担ぎ手の足音が一定の間で石を踏み、小窓の外を白い築地塀が流れていく。どの屋敷も門を閉じていた。その内側では、今朝の朝議のことがもう話されているはずだった。
忠房は、今朝見た座の顔を並べ直した。
関白は、周りの流れに引きずられる人だ。今朝も、強く言う者がいればそちらへ傾き、言い足す者がいればまたそちらへ傾いた。自分から決めるのを好まない人の座は、周りが決めた形に収まる。形を先に整えておけば、関白はそれに従う。
九条家の重みは、准后にある。准后は儲君の御母君とされる方で、儲君の后を定める日が来れば、そのお考えは重い。そこに九条がどれほど口を添えるか。九条の当主は、関白を退いてから表立って事を動かしていない。動かさずとも、今朝のように関白のほうが目を向けてくる。
あの家は、いま自分の家の姫を后に出す手札を持っていない。持っていない家は、ほかの家が后の座を取りにいくのを黙って見てはいないだろう。どちらにつくかを考えるはずで、考える家には材料を先に渡しておけばいい。
中山は、当面動かさない。
上の家々の当主とは、朝議の座でも歌会でも年中行事でも顔を合わせる。顔を合わせる相手になら、こちらの言葉が届く。言葉の届く相手の勘定なら、忠房は長年やってきた。
上は、自分で抑えられる。
小窓の外へ目をやると、乗物は築地塀の低い一角に差しかかっていた。塀の上に松の枝が出ている。門は小さく、屋根を載せただけのものも混じる。このあたりから先は、堂上といっても家格の低い家々が並んでいた。
上の家々は、数えれば片手で足りる。堂上の公家の大半は、この低い塀の内側にいる。朝議の座に連なることすらまれな家々だ。一軒一軒の声は小さいが、数が多い。噂はここで生まれ、ここを通って広がっていく。
奥に仕える女房衆も、多くはこのあたりの家の娘たちだった。
儲君の后の話が出るなら、表の朝議より先にまず奥で囁かれる。囁かれたことは、女房が里へ下がる日に、この低い塀の内側へ運ばれる。藤右衛門が六日で持ち帰った話も、半分はその道を通ってきていた。
里へ下がった娘は母親に御所の話をし、母親はそれを近所の女たちに話す。その女たちの夫も、同じ低い塀の内側の当主である。話はそうやって一晩のうちに、娘から母へ、母から隣家へ、隣家の主人へと渡っていく。娘は母に会えて嬉しく、母は娘の勤めが誇らしい。誰に悪意がなくとも、奥の話は外へ出ていく。
一条がもしこの層に網を張れば、こちらからは見えない。右府の歌の会や茶の席は、この層に通じている。その気があれば、網はもう半ば張れている。
上の家々の動きは、朝議の座で顔を見ていれば分かる。下の家々の動きは、そこからは見えない。見えないところで噂が育ち、奥へ上がり、表へ出てきたときには、もう誰が言い出したのか分からなくなっている。
そして忠房自身は、この層に手を出せない。五摂家の当主が低い塀の小さな門をくぐれば、その日のうちに近所の家々が見る。三日もすれば、近衛の左府が何某の家へ足を運んだと、京じゅうの台所で話される。何のために、と考える者が出てくる。
忠房は乗物の中で膝を組み直した。
上は自分が抑える。下には手が届かない。
届く手が要る。
九
近衛邸へ戻ると、忠房はそのまま私室へ入った。装束を改め、誰も近づけるなと藤右衛門に命じる。文机の前で考えているうちに日は傾き、障子の外が薄暗くなったころ、灯を入れさせた。
手の届かない層へ、どう手を伸ばすか。
会所の金なら、すでにその層へも流れている。
娘が作った会所だ。京の名産を売るところから始まり、いまでは江戸、長崎、萩、横浜にも店を持ち、日ごとに大きな銭が動いている。その儲けの一部を、忠房はこの数年、朝廷へ入れてきた。御所の傷んだところは待たずに直し、その折には大臣の家々にも修理の料が下るよう取り計らった。
会所が品に添える短冊や箱書き、異国へ出す品の装いの見立て、由緒の調べも、家格を問わず方々の家に頼んでいる。公家の家々には、それぞれ家に伝わる仕事がある。
和歌の家、書の家、装束の家、有職の家。家の技を求められて相応の礼を受けるのは昔からの習いで、受ける側は家の名を落とさずに済む。外から見れば、ただの商いである。
会所が近衛の差配であることは、京の公家の中でも知る者は知っている。知っている家は、近衛には逆らわずにおこうと考える。知らぬ家は、ありがたいことだと言うだけで済む。
それで、近衛に楯突く家は減った。朝議の座で近衛が何かを言い出しても、表立って異を唱える声は細くなり、噂話のように耳打ちしてくる者も出てきた。
ただ、そこまでだった。
広く浅く撒いたものでは、静観は買えても、味方は買えない。ありがたいと言っている家も、近衛と一条のどちらにつくかと迫られれば、損のないほうを見て黙るだろう。后の座をめぐって声が上がる日に要るのは、黙って見ていてくれる家ではない。こちらの代わりに口を開き、奥で囁かれたことを持ってきてくれる者だ。
そういう者は、撒く数を増やしても出てこない。家を選び、深く入るしかない。
深く入るなら、銭を握らせるのがいちばん早い。
そこで、去年の噂が頭をよぎった。
去年の夏から秋にかけて、市中で四奸と呼ばれた者たちがいた。その一人、久我内府については、江戸の御老中と繋がっていた、銭が動いた、という噂が回った。出どころの分からない噂で、だから誰にも止められなかった。あの噂が、久我の名を、天に代わって誅すべき者の一人に数えさせた。
銭を握らせれば、いつかどこかで口が滑る。急に暮らし向きが良くなった家は、周囲の目を引く。銭の出どころを探られ、その先に近衛の名があれば、こう言われる。近衛は、銭で公家を買っているのだ、と。
御門のお側にいて、御門の御意を私しようとしている者。そう呼ばれる材料を、自分の手で差し出すことになる。
后の座に着くことが、娘を君側の奸の名から守ることにもなる。御門はそうお考えになって、この話を望まれた。その娘の父が、自分から君側の奸の名を呼び込むわけにはいかない。
銭は配らない。
深く入るにも、手立ては会所の仕事でよい。ただ、頼み方を変える。
選んだ家には、一度きりの短冊ではなく、定まった仕事を長く任せる。家の暮らしがその仕事に寄りかかるようになれば、その家は仕事を失うまいとする。それでいて、外から見れば、会所の得意先が一軒増えただけのことだ。
后の件に触れる書状は、会所の飛脚には載せられない。人が歩いて運べば、問うて答えが返るまでにひと月かかる。今度ばかりは、娘の手を待ってはいられなかった。家々のことは父が引き受けると、自分で書いたのである。
では、どの家の、誰に深く入るか。
そこで考えが止まった。
上の家々のことなら分かる。どの当主が何を好み、どの家とどの家が縁続きで、どの家がどこに借りがあるか。長年朝議の座で顔を合わせてきた相手だ。
低い塀の内側のことは分からない。どの家の内証がどれほど苦しいか。どの家の娘が奥のどこに仕えているか。どの当主の口が軽く、どの当主の口が固いか。家の中で物を決めるのは当主か、隠居か、それとも奥の老女か。下の家々の寄合で、誰が口を開けば皆が耳を貸すのか。どの家とどの家の仲が悪く、どの家が一条と付き合いがあるか。
それを知らずに深く入れば、入った先から話が漏れる。知らせてはならぬ家へ伝わり、本来繋ぐべき家との線を失う。それでは、網にはならない。
下の層を知り尽くした者でなければ、選べない。
十
灯芯が、また鳴った。
頭のなかで探すうちに、一人の顔が浮かんだ。
公家らしい線の細さのない、ごつごつとした顔。肩に厚みがあり、袖から出た手首は藩士より武張って見える。二十年、朝廷の隅に坐り、寄合では末席で黙って茶を飲んでいた。家格は堂上でも下のほうで、屋敷は公家町のはずれ、塀の低い一角にあった。
岩倉具視。
中にいる者には、自分のいる場所しか見えぬ。外から見てきた者なら、内がどう動いておるかまで見える。去年の長月の夜、忠房は本人に向かってそう言った。
あの夜はほかにも言っている。家格が低いゆえに失うものが少なく、五摂家の者には踏み込めないところまで行ける。古い仕組みに縛られきっておらず、身分を問わず人と会う。そして、自分から動く。
あのとき並べた理由は、どれもいま欲しいものにそのまま当てはまる。
帰りぎわ、あの男は膝を起こしかけて止まった。
『――わたくしの出る場は、本当に来ましょうか』
忠房は間を置かずに答えた。
『――来る。必ずな』
それから五日後に御役御免の沙汰が下り、その二日後、あの男は京を出て洛北の岩倉村へ移った。忠房に文の一通も寄越さず、忠房のほうからも出さなかった。文が残れば、近衛の家とあの男の退き際が一本の線で結ばれる。あの男はそれを承知で、黙って京を出ていった。
それから半年あまりが経つ。
如月の末、藤右衛門から市中の噂を一つ聞いていた。岩倉村に退いた岩倉具視を、まだ狙っている浪人がいるという。どこの者かは分からず、噂の域を出ない話だった。
あの男を京へ呼べば、また危うい場所に立たせることになる。
立つかどうかは、あの男が決めることだ。去年の春、旗を持つかと問うたとき、あの男は、持たせていただけるのなら、と答えた。あの夜、旗を持つか下ろすかより先に生きておれと言ったときには、承知、とだけ言った。
今度は旗を持たせない。表に立たせず、名も出さない。低い塀の内側を知っている頭だけを借りる。
忠房は障子の外へ声をかけた。
「藤右衛門」
足音が来て、障子の外で止まった。
「はい」
「洛北へ、使いを出してもらいたい」
障子の向こうで、藤右衛門が一拍だけ黙った。
「洛北、と申されますと」
「岩倉村じゃ」
「……承知いたしました」
「文は持たせぬ。口上だけでよい。左府が会いたいと申しておる、それだけ伝えよ。迎えの日取りは、向こうの返事を聞いてから決める」
「誰を遣りましょう」
「そちに任せる。人目に立たぬ者を選べ。……いや」
忠房は一度言葉を切った。
「そちが行け。あの男は、口上を運んできた者の顔を見て、こちらの本気を量る」
「承知いたしました。明日の朝、発ちます」
藤右衛門の足音が廊下を遠ざかっていった。
忠房は文箱を引き寄せ、蓋を取った。反故の下に娘の書状があるのを確かめ、いちばん上の一枚の角を、もう一度わざと少しずらす。誰が開けても、古い紙の山にしか見えない。
蓋を閉じた。
夜風が庭を渡り、糸桜の葉が暗がりのなかで細かく鳴った。
第二百三十三話 了
【朝廷の未来を背負った公卿――中山忠能、その苦悩の幕末】
幕末という時代を語る時、多くの人は武士たちの戦いに目を向けます。
しかし、その裏側では京都の朝廷でも、日本の未来をめぐる激しい政治の駆け引きが続いていました。
今回登場する中山忠能は、そんな幕末朝廷を支えた公卿の一人です。
史実では、後の明治天皇の母・中山慶子の父、つまり明治天皇の外祖父にあたる人物です。
ただし、中山忠能という人物を「明治天皇の祖父」とだけ見ると、その本質は見えてきません。
彼は、朝廷の権威が再び政治の中心へ戻っていく激動の時代において、幕府、朝廷、諸藩の間で難しい判断を迫られ続けた政治家でした。
中山忠能は文化6年(1809年)に生まれ、文久3年(1863年)の時点では五十代前半でした。
長く公家社会で経験を積んだ人物として朝廷内でも重要な位置を占め、議奏などの役職を務めながら、天皇の意向を幕府へ伝える役割を担いました。
幕末になると、朝廷の存在感は急速に高まっていきます。それまで政治の中心から離れていた朝廷が、外交や国政について意見を求められるようになったからです。
しかし、朝廷の政治に関わるということは、決して単純な仕事ではありませんでした。
幕府は外国との条約を結び、国内統治を続けている。
一方で、京都では朝廷の権威を重視する声が高まっている。
さらに全国の諸藩も、それぞれ異なる思惑で動いている。
中山忠能は、その複雑な状況の中で、朝廷の立場を守りながら現実的な判断を求められていたのです。
忠能の政治姿勢の根底にあったのは、朝廷への強い忠誠心でした。
幕府が外国と結んだ条約をめぐる問題では、朝廷の関与を重視し、条約勅許に反対する公卿の一人となります。
しかし、彼は単純に外国を排斥し、幕府を否定するだけの人物ではありませんでした。
幕府との対立を深めれば、国内の混乱はさらに大きくなる。
外国との関係も考えなければならない。
そのため、時には公武合体の立場から幕府との協調を図ることもありました。
これは思想を変えたというより、「朝廷の権威を守るために、その時々で最も現実的な道を選ぼうとした」と見るほうが近いでしょう。
中山忠能にとって重要だったのは、一つの政治理念を貫くことではなく、朝廷という存在を未来へ残すことだったのです。
しかし、文久3年(1863年)は、中山忠能にとって政治家としても父親としても苦しい年でした。
その大きな原因となったのが、五男・中山忠光です。
忠光は父とは異なる形で尊王攘夷思想に深く傾倒し、長州藩と関係を深めていきます。
そして同年、天誅組の変で中心人物の一人となりました。
天誅組の変は、尊王攘夷派が大和国五條で起こした挙兵です。幕府に対する反乱という形になったこの事件は、最終的に失敗に終わります。
その影響は、忠光本人だけでは終わりませんでした。
父である中山忠能にも政治的な責任が及び、朝廷内での立場は次第に厳しくなっていきます。
ただし、忠能の苦境を「息子が反乱を起こしたため」と単純に説明することはできません。
当時の朝廷内部の対立、長州との関係、幕府との距離感など、さまざまな政治的要因が重なっていました。
幕末という時代では、家族の行動さえ政治問題になってしまう。
忠能は、そんな時代の厳しさを身をもって経験した人物でした。
中山忠能には、政治家とは別の重要な顔があります。
それが、明治天皇の外祖父としての姿です。
娘の中山慶子は、後に明治天皇の母となります。
そして、祐宮(のちの明治天皇)は京都御苑内にあった中山邸で誕生しました。
幕末の政治では朝廷の未来をめぐって苦悩した忠能でしたが、家庭では一人の祖父として、皇子の成長を見守る立場にもありました。
やがて時代は大きく変わります。
江戸幕府が終わり、明治という新しい国家が始まる。
その中心に立つことになる少年が、かつて中山家の屋敷で育った祐宮だったのです。
中山忠能の人生は、古い朝廷の時代と、新しい皇室国家の時代をつなぐ橋渡しでもありました。
中山忠能は、幕末史の中で最も目立つ人物ではありません。
軍勢を率いて戦った武将でもなく、天下を変える構想を掲げた革命家でもありません。
しかし、激動する政治の中心で、朝廷という存在を守るために判断を続けた重要人物でした。
尊王の志を持ちながら、現実との折り合いを探る。
幕府との関係を考えながら、新しい時代の到来にも向き合う。
そして、自分の息子が時代の激流に飲み込まれていく姿を見届ける。
中山忠能の人生は、幕末の公家が置かれていた難しい立場そのものを映しています。
幕末という時代は、刀を持った武士だけが戦っていたわけではありません。
京都の朝廷でもまた、政治という名の戦いが繰り広げられていました。
中山忠能は、その中心で苦悩しながらも、最後まで朝廷という存在を未来へつないだ人物だったのです。




