第二百三十二話「糸子のお嫁入り編―目録」
一
ジュリアン・エリオットは、新しい頁の頭にペンを置いたまま、彼女の口もとを見ていた。
この三月近く、この姫が何を求めてくるのか、ジュリアンには読めなかった。見当をつけては外し続けてきた。
銀か、時計か、鏡の類か。並べてみても、この姫がそれを口にする姿は浮かばなかった。
その答えを、いまから聞く。
彼女は膝の上で手を重ねたまま、まず中佐を見て、それからジュリアンの手帳に目をやった。書き取る支度ができているかを確かめたらしかった。
"The first is a set of machinery for reeling silk."
「一つ目は、生糸を繰る機械を一式」
製糸の機械。一式。ジュリアンは、そのまま書いた。
"Silk reeled by machine is even in its quality. And that even silk, by the agreement we have just made, will come to British merchants before any other."
「機械で繰った糸は、質が揃います。その揃った糸を、先ほどの約定のとおり、どの国よりも先に英国の商い手がお受け取りになります」
ペンが止まった。
手帳の前の頁には、自分の字で、どの国よりも先に、決まった量、と書いてある。
手土産の話だと思っていた。詫びの品として、英国から一つ二つ贈るものを決める話である。ところが、一つ目の品が、もう前の頁の約定に結びついていた。英国が贈った機械でこの国の糸の質が揃い、揃った糸を英国の商人が先に買う。贈った品が、そのまま英国の得になって戻ってくる。
ジュリアンは、新しい頁の続きに一行足した。質の揃いし糸、英国の商い手に先回し。
姫は、書き終えるのを待ってから次を口にした。
"The second is a steam engine to drive that machinery, and a set of machine tools."
「二つ目は、その機械を動かす蒸気の機関と、工作の機械を」
"Once English engines stand in Japan, the parts for them, and the engines that come after them, will be sought from England."
「英国の機械がこの国に据われば、その先の部品も、次の機械も、英国からお求めすることになりましょう」
書きながら、ジュリアンはその一文を頭の中でなぞった。
一度据えた機械は、作った国に客を結びつける。歯車が欠ければ、同じ寸法の歯車が要る。それを作れるのは、その機械を作った国の工場である。修理の職人もその国の流儀で仕込まれ、次に入れる機械も、前の機械と噛み合うものが選ばれる。英国の商人たちが、清の港で十年かけて覚えた理屈だった。
"The third is the telegraph."
「三つ目は、電信の機械を」
"If it is an English telegraph that first speaks in this country, then it is the English manner of telegraphy that will take root here."
「この国で最初に言葉を運ぶ電信が英国のものであれば、その仕組みは、英国のものとしてこの国に根を張りましょう」
電信、とジュリアンは書いた。
この国には、まだ電信の線が一本もない。ペリーの艦隊が電信の機械を幕府に献じたという話は聞いているが、それが動いているとは聞かない。最初の一本をどの国の流儀で引くかは、まだ誰も決めていなかった。最初に引いた国の符号が、この国の符号になる。
そこまで考えて、ジュリアンは隣の中佐を見た。
中佐は、ここまで三つ、一言も口を挟んでいない。卓の上で指を組み、眉も口も動かさずに姫君の顔を見ている。
ただ、組んだ指の一本が、卓の上で一度だけ動いた。卓の縁を叩きかけて、やめた指だった。
姫はカップを取り、一口飲んでから卓へ戻した。
二
"The fourth is a merchant ship that runs by steam."
「四つ目は、蒸気で走る商い船を」
ジュリアンのペンが、紙の上で止まった。今度は、すぐには動かなかった。
船である。
ここまでの三つは機械だった。機械なら、大きいといっても荷の嵩で量れる。蒸気船となると、英国の造船所で幾月もかけて造るもので、値も機械の比ではない。
手土産の域を、この品は明らかに超えていた。
"If this country's first merchant steamer is built in Britain, then Japanese shipping will take British shipbuilding for its pattern."
「この国の最初の商い船が英国で造られれば、この国の船の造り方は、英国の造り方を手本にいたしましょう」
姫君の声は、前の三つと同じ調子だった。品が大きいからといって声を落とすことも、遠慮を添えることもしない。
蒸気の商い船。一隻。
ようやく書いたその字が、自分の手で書いたにしてはひどく大きなものに見えた。
手本…と彼女は言った。最初の一隻を英国で造れば、この国が次に船を造るとき、その一隻を見て造る。図面を引くのも釘を打つのも、英国の造り方をなぞる。この国の造船は、英国の造船所の弟子になる。
日本を英国の弟子にする。普通なら英国の側が言い出し、日本の側が渋る話である。それを、日本の姫のほうから、英国の利点として差し出してきた。
弟子はいずれ師を追い越す。そのことを、この姫が知らないとは思えなかった。
"The fifth is the sending of engineers——men who can set up these machines and make them work."
「五つ目は、機械を据えて使えるようにする技師を、お遣わしいただきとうございます」
中佐が、そこで初めて口を開いた。
"Engineers would have to go beyond the treaty limits, my lady. They could not stay within the ten ri. For that, your government's leave would be needed."
「技師となれば、条約の境の外へ出ることになる、姫君。十里の内には収まるまい。それには、貴国の政府の許しが要る」
姫は、顔を変えなかった。
"That, we shall see to."
「それは、こちらで」
答えは、それだけだった。どう許しを取るのか、誰に頼むのか、いつまでにか。彼女は一つも言わず、中佐もそれ以上は訊かなかった。
ジュリアンは、二人の顔を見比べた。
幕府の許しが要る、と中佐は言った。英国の側では請け合えない、という意味でもある。
姫は、それをとうに承知のうえで技師を求めていた。許しのことはこちらで片づけると言い、片づけ方は見せない。そこは英国の話ではないと、線を引いたのである。
技師の派遣、とジュリアンは書き、脇に小さく添えた。十里の外、日本側にて手配。
"The sixth is men who can teach the practice of trade."
「六つ目は、商いの実務を教える者を」
"If the British manner of doing business becomes the pattern for trade in this country, it is British merchants who will find it easiest to trade here."
「英国の商いのやり方がこの国の商いの型になれば、この国で一番商いやすいのは、英国の商人でございましょう」
商いの実務を教える者、とジュリアンは書いた。
帳簿の付け方、為替の組み方、証文の書き方、荷の保険の掛け方。英国の商人が当たり前にしていることを、この国の商人が覚える。覚えた商人は英国と同じ書式で証文を書き、同じ勘定で取引をする。英国の商人にとっては、話の通じる相手が増える。
ジュリアンは、六つ並んだ字を上から見下ろした。
製糸の機械。蒸気の機関と工作の機械。電信。蒸気の商い船。技師。商いの実務を教える者。
一つ一つは、手土産と呼ぶには大きすぎる。ところが並べてみると、余計なものが一つもなかった。糸を繰る機械があり、それを動かす機関があり、機関を直す工作の機械がある。それを据える技師がいて、糸を売る商いの型があり、売れた糸を運ぶ船があり、値を知らせる電信がある。
蚕の繭から英国の商人の手に一本の糸が届くまでの道筋が、六つの品で埋まっていた。
隣で、中佐が組んでいた指を解いた。
"Is that all, my lady?"
「それで全部か、姫君」
三
姫は、すぐには答えなかった。
ニールは、その顔を見ていた。
六つの品を、この姫は一度も言い淀まずに並べ、一つずつ英国の利点を一、二言添えた。添えた利点は、どれもニールが本国へ書くときにそのまま使える言葉になっている。ジュリアンの書き取りを清書すれば、報告書の一頁になるはずだった。
"One more, Mr. Neale. The last.”
「もう一つ、ニール殿。それで最後でございます」
"Go on."
「申されよ」
"When we seek goods from abroad——machines, ships, whatever we may need——let Britain offer them to us first."
「わたくしどもが異国から品を求める折には――機械であれ、船であれ、入り用のものを――英国から、先にお回しいただきとうございます」
"That is a promise I ask of Britain."
「その約束を、英国にお願いいたします」
先に回す。
つい先ほど、この姫は同じ言葉を使った。当会所の生糸を、英国の商い手へ、どの国よりも先に回す。それが詫びの代金だ、と。
今度は逆向きだった。日本は英国に生糸を先に回し、英国は日本に品を先に回す。
ニールの頭の中で、二つの約束が向かい合い、一つの形に組み上がった。
生糸が英国へ流れ、英国の商人が買って、英国の船で欧州へ運ぶ。代わりに、英国の機械と船と人が日本へ流れ、日本の商いの店がそれを求め、英国の工場が売る。生糸を先に受け取る英国が品を先に渡し、品を先に受け取る日本が生糸を先に渡す。
片方だけの約束なら、いずれ片方が損をする。互いに先に回し合えば、どちらも相手を手放せなくなる。
ニールは、自分が何の話をしに来たのかを考えた。
詫びの品の話である。品を決めるのは本来英国の側で、受け取る側は礼を言えば済む。
組み上がったのは、贈り物ではなかった。二つの国のあいだの、商いの道筋だった。
しかも、その道筋の石の一つ一つに、英国の得が刻んである。
喉の奥で笑いが上がりかけたが、ニールは止めた。笑うところではなかった。
"My lady. These are great things you ask."
「姫君。大きなものを求められる」
"They are great, Mr. Neale.”
「大きゅうございます、ニール殿」
姫君は、あっさりと認めた。
"Your answer may come from your country."
「お答えは、本国からで結構でございます」
いつまでに、とは言わなかった。急がなくてよい、とも言わなかった。
この姫は、ニールに約束させようとしていない。今日、お約束はお求めいたしませぬ、お書きいただくことだけをお願いいたします、と先ほど言ったとおりだった。
書くことなら、ニールにできる。
"I shall put all seven in my report."
「七つとも、わしの報告に載せよう」
"And I shall recommend them to Her Majesty's Government."
「そのうえで、女王陛下の政府に推す」
姫君は、椅子に坐ったまま首をわずかに傾けて礼をした。
"I thank you, Mr. Neale.”
「ありがとう存じます、ニール殿」
ニールは、右隣を見た。
"Elliot."
「エリオット」
"Sir."
「はい」
"Make a list of it. All seven, and the agreement on silk."
「目録を作れ。七品と、生糸の約定だ」
四
ジュリアンは、手帳の新しい頁を開いた。
手帳の紙は、目録にするには小さい。だが、ここには手帳しかない。正式な清書は公使館へ戻ってから作ればよく、いま作るのは、姫に見せ、中佐が持ち帰るための一枚である。
表題で少し迷った。手土産の目録と書けば品の大きさに釣り合わず、商いの取り決めと書けば国と国の約束に近くなる。後のほうは、先ほどこの姫自身が避けた形だった。ジュリアンは、中佐の言葉に合わせて、本国へ推す品の目録、とした。
その下に、品を順に書いた。
製糸の機械、一式。
それを動かす蒸気の機関、ならびに工作の機械。
電信の機械。
蒸気の商い船、一隻。
機械を据え、使えるようにする技師の派遣。
商いの実務を教える者。
日本の側が異国の品を求める折、英国より先に回すことの約束。
一行空けて、生糸の約定を書いた。
天朝物産会所より、英国の商い手へ、生糸をどの国よりも先に、決まった量を回す。量は会所と商い手のあいだで定める。値は相場による。国と国の約束とはせず、商いの約定とする。
最後に、受け手の欄を書いた。
Lady Itoko Konoe.
詫びを受けた当人であり、品を求めた当人である。英国の書式なら、そう書くのが当然だった。
ジュリアンは手帳から一枚切り取り、卓の上で姫のほうへ向けて差し出した。
姫は受け取り、上から一行ずつ目を落としていった。英語で書いた紙を姫が読めることは、中佐もジュリアンも承知している。七つの品のところでは、目は止まらなかった。生糸の約定のところで一度だけ止まり、また先へ進んだ。
受け手の欄で、止まった。
"Mr. Elliot."
「エリオット殿」
"Yes, my lady."
「はい、姫君」
"One word, if you would."
「一箇所だけ、お直しいただけますか」
姫は紙をジュリアンのほうへ向け直し、受け手の欄に指を置いた。
"Not Lady Itoko Konoe."
「近衛ではございませぬ」
"The Imperial Court."
「天朝、とお書きくださいませ」
姫の指の先に、Lady Itoko Konoe とある。自分の字だった。
"These are not gifts to me, Mr. Elliot. It is the Court that receives them."
「これは、わたくしへの品ではございませぬ、エリオット殿。お受けするのは、天朝でございます」
ジュリアンは紙を引き取り、Lady Itoko Konoe の上に一本線を引いて、その脇に書き直した。
The Imperial Court.
もう一度向けると、姫は受け手の欄だけを見て、小さく頷いた。
ジュリアンは紙を手もとへ戻し、一語だけ変わった目録を見下ろした。
その一語で、紙の意味が変わっていた。
Lady Itoko Konoe と書いてあれば、これは英国の代理公使が、一人の姫に詫びの品を贈る目録である。姫が受け取り、姫のものになる。私事である。
The Imperial Court と書いてあれば、英国の代理公使が日本の朝廷へ贈り物を推す目録になる。贈るのは英国で、受け取るのは朝廷である。一つの国と、もう一つの国の朝廷のあいだの話になる。
品の名も、生糸の約定も、ジュリアンが書いたとおりに残っている。暮れの書院では三つの求めのうち二つを座の上で消し、今日は一枚の紙のうち一語だけを直した。
ジュリアンは眼鏡のブリッジに指をやりかけて、やめた。
"Colonel."
「中佐」
差し出された紙に目を通し、受け手の欄の一本線と書き直しを見て、ニールは口の端をわずかに動かした。
"I shall take a copy of this back with me, my lady. Elliot will make a fair one for you as well, and send it by the same road as before."
「この写しは、わしが持ち帰る、姫君。エリオットに姫君の分も清書させ、前と同じ道でお届けしよう」
"Through our house, if you would."
「当会所を通して、お願いいたします」
"Through your house."
「その店を通してな」
五
ニールは、椅子から立った。
障子越しの光は、いつのまにか卓の上から畳の上へ移っていた。カップの茶は、とうに冷めている。
ニールは卓の脇へ出て踵を揃え、もう一度頭を下げた。詫びのときと同じ礼だったが、今度は詫びではなかった。
"My lady. I thank you for receiving me, and for this conversation."
「姫君。お迎えいただき、また今日のお話、礼を申す」
顔を上げると、姫は来たときと同じように椅子に坐っていた。膝の上で手を重ね、背は椅子に預けていない。
詫びに来て、詫びに代金を付けられた。手土産の話をしに来て、二つの国の商いの道筋を持たされて帰る。
楽しみは、そのまま満たされた。こういう満たされ方をするとは、思っていなかったが。
"I shall not forget this day, my lady."
「今日のことは、忘れますまい、姫君」
右隣で、ジュリアンが顔を上げた。
暮れの書院の別れ際、この書記官も姫に似た言葉を返している。日本は理由のない求めを何でも受ける国ではない、と言われて、覚えておきます、と。ニールがいま忘れまいと言ったのは、その国の朝廷の内に、こういう姫がいるということだった。
"Nor shall I, Mr. Neale.”
「わたくしも、でございます、ニール殿」
彼女は、坐ったまま答えた。
ニールはもう一度だけ頭を下げ、戸口へ向かった。ジュリアンが手帳を懐に収め、あとに続く。戸口の脇の商人姿の男が戸を引くと、外の光が客殿の中へ差し込んだ。客殿の脇で英国の兵が四人、身を起こすのが見えた。その向こうに、橋のたもとから付いてきた日本の侍が腕を組んで立っていた。
ニールは縁へ出て、乗馬の長靴を履いた。
戸が、閉まった。
*
客殿の中で、誰かが長く息を吐いた。一人ではなかった。畳に坐っていた者たちが、それぞれに肩の力を抜いた。
近藤は膝の上の拳をそのままに、糸殿の顔を見た。糸殿は椅子に坐ったまま、閉じた戸のほうを見ていた。客を送り出したあとの顔で、どこも崩れていない。朝、絵図のとおりにと申し上げたとき、糸殿は同じ言葉で返した。そのとおりに終わった。
座の端で、正木はようやく膝の上の拳を解いた。指が思うように伸びなかった。何か言おうとして口を開いたが、何も出てこないまま、また閉じた。
六
帰りの道は、朝と同じだった。
山門の前で、三人は別当の引いてきた馬に乗った。永倉が先に立ち、背の高い異人の馬、細身の異人の馬、通詞の馬と続いて、四人の兵が二列で最後尾を歩く。旭狼衛の四人は、一行の左右と後ろに散っている。
日本の言葉が分かる通詞が、すぐ前の馬上にいる。日本語でも、余計なことは言えない。
野村彦四郎は、朝と同じように顔を前に向けたまま、耳だけを英国の側へ向けていた。
坂を下りはじめたところで、背の高い異人が口を開いた。声の調子が朝と違う。朝は終わりで上がる声だったのが、いまは終わりで下がる。
(問うてはいない。言い切っている)
"Well, Elliot. You saw her."
「さて、エリオット。見たな」
"I did, sir."
「拝見いたしました」
"Clever. Cleverer than any minister I have sat across from in the East."
「賢い。東洋で向かい合ったどの大臣よりもな」
クレバー。
隣で、小田原の目が丸くなりかけた。冊子の一枚目の終わりのあたりに、賢い、と仮名を添えて書いてある言葉だった。
野村は肘を出さなかった。小田原は、自分で前を向き直していた。朝より戻りが早い。
"We came to take her measure, sir. I think we went away measured."
「量りに参ったつもりが、量られて帰る心持ちでございます」
"So we did."
「そのとおりだ」
背の高い異人が、喉の奥で笑った。朝の道でも聞いた笑いだったが、朝のほうがもっと乾いていた。
坂の途中の辻で、永倉が足を止めて左右の路地を見てから、また歩き出した。英国の兵の目は、朝と同じく永倉の背中にあった。
"I shall write to London by the next mail. The silk first. Then the gifts."
「次の郵船でロンドンへ書く。まず生糸だ。それから品だ」
"Earl Russell will ask who she is, sir."
「ラッセル伯は、その方が何者かとお尋ねになりましょう」
"Then he shall be told. A princess of the house nearest the throne——and the one person in this country worth Britain's trouble."
「なら、教えてやる。帝の座に最も近い家の姫君で――この国で、英国が骨を折るに値する、ただ一人の者だとな」
ロンドン。シルク。プリンセス。
小田原は、拾えた言葉を頭の中の冊子に一つずつ書き付けた。ロンドンは異国の都だと聞いている。シルクは生糸だと、冊子に書いてある。プリンセスは、朝から何度も出てきた。
野村は、言葉よりも文の形を聞いていた。細身の異人の応じる声に、朝の低さはなかった。
中身までは、野村には分からなかった。分かったのは、背の高い異人が姫様のことを言い切るたびに、声が重くなることだけである。軽い相手のことを話す声ではなかった。
坂を下りきると、堀川が見えた。
橋のたもとで、永倉が足を止めた。旭狼衛は、ここから先へは入らない。
英国の通詞が馬を降りて永倉の前へ出て、日本語で礼を述べ、永倉が短く返した。通詞が英語で背の高い異人に何か言うと、背の高い異人は永倉に一度だけ顎を引いた。
一行は、橋を渡っていった。背の高い異人も細身の異人も、振り返らなかった。兵の一人だけが、橋の中ほどで一度こちらを見て、また前を向いた。居留地の通りの角を曲がって、一行の姿が見えなくなった。
小田原が野村の顔を見て、野村も小田原の顔を見た。朝と同じく、二人とも何も言わなかった。
「戻るぞ」
永倉が、四人を振り返った。
本村へ戻る坂の途中で永倉が少し先へ行き、二人の前が空いた。
野村は前を見たまま、小田原にだけ聞こえる声で言った。
「今夜、姫様に」
小田原は、黙って頷いた。
七
日が西へ傾いたころ、糸子は客殿の脇の間へ善次郎を呼んだ。
小袿は、まだ解いていない。
善次郎は、敷居の手前で膝をついた。客殿の座で、この男は英語の中身を一言も分かっていない。
「善次郎。お入りなさいまし」
「失礼いたします」
善次郎は膝で進んで坐り、懐から小さな帳面を出して膝の脇に置いた。
「今日は、ご苦労さまでございました」
「手前は、坐っておっただけにございます」
「坐っていてくれただけで、ずいぶん助かりました。会所の名が出たとき、身じろぎしたでしょう」
善次郎の顔が、少しだけ赤くなった。
「……お気づきでございましたか」
「英国の方々も、気づいておられたと思いますよ。それで、よかったのです。会所の者が、あの座にいたということが、向こうに伝わりましたから」
善次郎は何も返さず、帳面の上に手を置いたまま次の言葉を待った。
「会所に関わる約定を、一つ、取り決めました。善次郎に回してもらわねばなりませぬ」
「伺います」
善次郎の手が、帳面を開いた。
生糸を、英国の商い手へ、どの国よりも先に、決まった量を回す。値は相場のまま。量は会所と商い手とのあいだで定める。糸子が話した順のとおりに、善次郎の筆が動いた。
「これは国と国の約束ではありませぬ。会所と、英国の商い手どうしの、商いの約定です。御公儀の名も、天朝の名も、この約定には出しませぬ」
「承知いたしました」
書き終えると、善次郎は帳面を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。帳面の数字を検めるときの、いつもの顔だった。
「姫様」
「はい」
「英国の商い手と申しますのは、一番館のことでございましょうか」
「それは、英国の側が決めることです。英国の公使館から、どの商い手を立てるかを言ってきましょう。それまでは、こちらからは動かずにおいてくださいまし」
「承知いたしました」
善次郎は、帳面に一行足した。
「先に回す量の糸を、毎年いつ、どこで確かめるか。英国の側から話が来るまでに、手前のほうで支度をしておきとう存じます。原殿と茂木殿にも、話を通しておかねばなりませぬ。産地の割り振りも、今年の出来を見て決めることになります」
「お願いいたしまする」
糸子が頼む前に、善次郎のほうから言い出していた。糸子は、少しだけ口の端を緩めた。
「それと、もう一つ」
「はい」
「英国から、いくつか品をいただくことになるでしょう。受け手は天朝です。英国の本国からの返事を待ちます。いつ来るかは分かりませぬ」
「品…でございますか」
「ええ。来る日が決まりましたら、そのとき善次郎に申しまする」
善次郎は、それ以上は訊かなかった。品が何であるかも、数がどれほどかも尋ねない。必要な時に必要なことだけを聞く。それが、この男のやり方だった。
「承知いたしました」
善次郎は帳面を閉じて懐へ収め、膝で下がった。敷居の外で一礼し、障子を閉める前に一度だけ顔を上げた。
「姫様。椅子は、いかがでございましたか」
糸子は、少し考えた。
「よい椅子でした。一度も、立ちたいと思いませんでしたもの」
善次郎は、今朝の拍子抜けした顔とは違う顔で頭を下げた。
障子が閉まった。外は、もう暗くなりかけていた。
八
夜になって、糸子は寝所の前の縁に出た。小袿は、まだ着ている。今日の座が片づくまでは、と決めていた。二人の話を聞くまでが、今日の座だった。
境内は暗く、山門のほうに提灯が一つ見える。その脇に人の影が二つあった。近藤は、さっき山門のほうへ見回りに出ていった。床板の軋む音が庫裏の角を曲がって遠ざかっていくのを、糸子は聞いている。
縁の下の暗がりで、砂利が小さく鳴った。人影が二つ、縁の下に膝をついた。
「姫様。小田原と野村にございます」
野村の声だった。
「ご苦労さまでございます。顔をお上げなさいまし」
二人が顔を上げると、縁の上の手燭が、丸い顔と切れ長の目の顔を半分ずつ照らした。
小田原は、顔を上げるなり山門のほうを振り返った。
「小田原殿。近藤殿は、いま山門の向こうを回っておられますよ。しばらくは、戻ってまいりませぬ」
「は、はい」
小田原は、それでももう一度振り返った。
「では、聞かせていただけますか」
「はっ」
野村が、膝の上で手を揃えた。
「朝と帰り、橋のたもとから寺までの道で、英国の二人の話を聞きましてございます。拾ったものは、戻ってから二人で突き合わせました」
「はい」
小田原が懐から冊子を出しかけ、野村に目で止められた。
「拾えた言葉と文の形から申しますと、背の高い異人は、姫様が朝廷でどういうお立場か、帝にどれほど近いか、英国の役に立つ方か、それとも、ただ賢い子供か、と問うておりました。答えのほうは、拾えませなんだ。それと、アメリカの戦のことを、声を落として申しておりました」
糸子は、黙って聞いていた。
「帰り道では、背の高い異人の声が変わっておりました。朝は問うておりましたが、帰りは言い切っておりました」
野村が続けた。
「クレバー、と申しました」
小田原の声が、少しだけ弾んだ。
「賢い、でございます。それから、ロンドン。シルク。プリンセス」
「ロンドンとシルクが続けて出ましたので、生糸のことを本国へ何か送る、という話かと存じます。それから、姫様のことを言うたびに、声が重うございました。軽い相手のことを話す声では、ございませなんだ」
野村は、そこで口を閉じた。
「以上にございます」
糸子は、しばらく何も言わなかった。
朝の道で問うていたことは、客殿でニールが問うたことと同じだった。帰り道で言い切っていたことも、客殿で約したことと同じである。
客殿で見たニールと、二人が聞いたニールのあいだに、ずれはなかった。表で言ったことと、裏で言ったことが同じ男だった。
それを確かめて、糸子は少しだけ肩の力を抜いた。
「よく、聞き取ってくださいました」
二人が、頭を下げた。
「小田原殿」
「は、はい」
「クレバー、が聞き取れましたか」
「はいっ。冊子の、一枚目の終わりに書いてございます」
「ずいぶん、聞き取れるようになりましたね」
手燭の明かりの中で、小田原の顔がぱっと明るくなった。
「野村殿も」
「恐れ入ります」
野村は、表情を変えずに頭を下げた。
「このことは、近藤殿には申しませぬ。これからも」
小田原が、大きく息を吐いた。
「……ありがとう存じます」
野村は、もう一度黙って頭を下げた。
「お下がりなさいまし。近藤殿が戻ってこられる前に」
「はっ」
二人の影が縁の下を離れ、砂利を踏む音が庫裏の裏手へ遠ざかっていった。小田原の足音のほうが、少しだけ速かった。
縁には、糸子一人が残った。
九
同じ夜、庫裏の奥の一間に灯が一つ点っていた。
善次郎の前に、正木退蔵と武藤一太郎が並んで坐っている。武藤は今日一日、客殿から離れた間に控えていて、座の内のことは何も見ていない。
障子の脇には井上源三郎がいた。寺の守りの番が、いまはこの棟に回ってきている。
「正木殿。今日の座で何が話されたのか、お聞かせてください。手前には、英語の中身が一言も分かりませんでしたので」
正木は待ちかねていたように膝を進めた。
「松屋殿。わし、まだ手が震えちょります」
開いて見せた両手の指先が、灯の下で揺れていた。
「落ち着け、正木」
「落ち着いちょる。落ち着いちょるけぇ、震えよるんじゃ」
正木は一つ息を吸った。
「代理公使は、まず姫様に頭を下げられました。暮れの座に出なんだことを、軍人の礼で詫びられて。そのあと、朝廷と英国のあいだに立ってくれと頼まれたんです。そしたら姫様は、面倒でございます…と」
「……面倒?」
「英語で、はっきりと断っちょりました」
武藤は口を開けたまま、何も言えずにいた。
「そのあとが、生糸です。どの国よりも先に、英国の商い手へ回す、と。英国の書記官が、条約には他の国も同じ扱いを求められる条がある、それでは先に回す意味がない、と突いてきました。そしたら姫様は、求めさせればよろしい、困るのは英国のほうでございましょう、と。そのうえで、国と国の約束にせず、会所と英国の商い手の約定にすればよい、と、英国の逃げ道まで先に出してしまわれた」
話すほどに、正木の声は速くなった。
「それから、品を七つ。製糸の機械、蒸気の機関、電信、蒸気の商い船、技師、商いを教える者、英国から品を先に回す約束。書記官が目録を書いて、受け手の欄に近衛と書いたら、姫様が、天朝とお書きくださいませ、と直させて」
そこで息を継いだ。
「代理公使は、最後に、今日のことは忘れまい…と言うて帰りました。笑うちょりました。ずっと、笑うちょりました」
灯の芯が、小さく鳴った。
「正木。姫様は、一度でも声を上げられたか」
「いや。一度も」
「代理公使を、言い負かされたか」
正木は少し考えた。
「……言い負かしては、おられん。代理公使は、ずっと笑うちょった」
「ほうじゃろう」
武藤は灯に目をやった。
「昨日の衝立の内でも、そうじゃった。フランスの通詞の取り違えを、そうとは言わずに、騒がしかったせいにして収めなさった。相手の顔は潰さんまま、こっちの取り分だけは、きっちり取る」
膝の上で、武藤の指が組まれた。
「わしらは語学所で英語を習うて、取扱所で値の話をしよる。ほいじゃが、相手に自分の口で言わせて、それで相手が笑うて帰る、いうような話の運び方は、誰にも教わっちょらん。教えられる者も、おらん」
「姫様は、わしらより年下のはずじゃ」
正木が言った。
「年下のはずが、わしらの知っちょる誰よりも、談判が巧い」
頷いてから、武藤は善次郎の顔を見て首をすくめた。
「……松屋殿の前で、ご無礼を」
「いえ。手前も、そう思っております」
善次郎は膝の上で手を揃えた。
「正木殿。武藤殿」
「はい」
「今日、客殿で聞いたことも、いまここで話したことも、他言無用に願います。語学所の方々にも、取扱所の者にも、国許にも」
「もちろんで――」
「もし、どなたかに話されれば」
善次郎は言いさして、障子の脇を見た。
二人の目がそちらへ動く。
井上源三郎が、坐ったままこちらを見ていた。目が合うと、にこりと笑い、笑ったまま脇の刀の柄に右手を置いた。
正木と武藤の顔から、血の気が引いた。
二人は揃って首を縦に全力で振った。二度、三度と振った。
「……よろしゅうございます」
善次郎は膝を立てた。
井上は柄から手を離し、障子のほうへ向き直った。顔は、まだ笑っていた。
十
糸子が寝所に戻ると、葵と小夜が支度をして待っていた。
葵が小袿の襟に手を掛けた。今朝と逆の順に、小袿を外し、袿を一枚ずつ外し、単を外して、長袴の紐を解く。外した衣を小夜が受け取り、畳紙の上で順に畳んでいく。
小夜の手は、一度も止まらなかった。朝と逆の順を、取り違えずにこなしていく。
最後の長袴を渡してから、葵は一度だけ小夜を見た。小夜はそれに気づかず、袴の裾を揃えていた。
寝間着に着替え、髪の元結を解いてもらうと、糸子はもう一度縁へ出た。
境内は、昨夜と同じだった。山門のほうに提灯が一つ、その脇に人の影が二つ。海は見えないが、波の音が、木立の向こうから昨夜と同じ間で届いてくる。
糸子は縁に坐り、目を閉じた。
江戸の抽斗に置いてきた三枚の紙を、頭の中で上から辿る。
一枚目。製糸の機械。蒸気の機関と工作の機械。電信。蒸気の商い船。技師。商いの実務を教える者。先回しの約束。
今日口にした順と、同じだった。一つも落としていない。
二枚目と三枚目には、まだ書いたものが残っている。あの夜に思いつくまま書き散らしたもので、今日口にしなかったのは、初めから口にするつもりのなかったものである。
英国の件は、これで一段落した。あとは、ニールが本国へ書き、本国が返事をよこすのを待つだけである。待つあいだに、こちらでしておくことはある。技師が十里の外へ出る許しも、その一つだった。
ただ、それは英国の話ではない。英国の手土産と、幕府からの取り立ては、別の帳面である。
糸子は、目を開けた。口の端が、上がっていた。
客殿でニールの前に坐っているあいだ、ずっと押さえていたものだった。ニールが頭を下げたときも、自分が面倒だと言ったときも、七つの品を並べたときも、ジュリアンが受け手の欄を書き直したときも、押さえていた。
もう、押さえる相手は誰もいない。
糸子は、膝の上で拳を握った。
「うけっけっけっけっけっーーーーーーー」
廊下の角で、床板が軋んだ。
近藤の、重さの音だった。
笑いが、ぴたりと止まった。
第二百三十二話 了
【設定資料集に解説記事を追加しました】
第二百二十九話から第二百三十二話までの、近衛糸子と英国代理公使エドワード・セント・ジョン・ニールによる増徳院談判について、設定資料集に解説記事を追加しました。
【解説】「面倒でございます」の交渉術――増徳院のニール談判を読み解く
本編では描ききれなかった、糸子がどのように交渉の流れを作り、ニールがなぜその条件を受け入れるに至ったのか、その裏側を解説しています。
本編を読み終えた後にあわせて読んでいただくと、糸子とニールの駆け引きがより深く楽しめる内容になっています。
興味を持っていただけましたら、ぜひ設定資料集ものぞいてみてください。




