第二百三十一話「糸子のお嫁入り編―詫びの代金」
一
ニールは、椅子から立った。
卓の脇へ一歩出て踵を揃え、背を伸ばしたまま上体を前へ倒す。若い頃、ポルトガルとスペインの戦で覚えた礼である。頭を下げているあいだ、目は床に敷かれた敷物の縁にあった。
客殿は静かだった。
卓を挟んで椅子が向かい合い、英国の側にニールとジュリアン、日本の側の椅子にはこの姫が一人坐っている。卓の脇の畳には、刀を置いた侍が三人と商人姿の男が一人、座の端に若い侍が一人。障子越しの光が、卓のカップとジュリアンの手帳の白い頁に落ちていた。
ニールが立ち上がっても、畳の侍たちは誰ひとり動かなかった。目だけが、ニールを追ってきた。
顔を上げると、彼女は坐ったままこちらを見ていた。
客殿に入ってきたときと同じ顔である。膝の上で両の手を重ね、背は椅子の背に触れていない。小袿の袖が膝の上で重なり、その下から長い袴の裾が椅子の脚のあたりまで流れていた。
「お詫びから伺いましょう」と姫君は言った。
お詫びは後ほど、と一旦は止められた詫びである。その後ほどが、いま来た。
ニールは、口を開いた。
"My lady. In December last, you sat at the table with the officers of the Tycoon's government, as envoy of the Imperial Court."
「姫君。昨年の師走、姫君は朝廷の御使者として、大君の政府の役人たちと同じ座につかれた」
"I was unable to attend in person. I sent my secretary in my stead, and conveyed no word of my own in advance."
「わしは出向くことが叶いませんでした。書記官を代わりに出し、前もってわし自身の言葉を届けることもしませんでした」
脇の椅子でジュリアンがペンを止めたのが、目の端に入った。
あの座に出なかったことを、ニールはこれまで誰にも詫びていない。本国へ送った便にも、『協議を始めた』と一行書いただけである。詫びる相手がいるとすれば、この姫一人だった。
"The Imperial Envoy had taken his seat. Yet, the representative of Her Majesty the Queen of the United Kingdom failed to appear. This was a grave discourtesy—not only to you, Princess, but to the Imperial Court in whose name you sat."
「朝廷の御使者が座についておられた。そこに、英国女王陛下の代理を務める者が出なかった。それは、姫君に対しても、姫君がその名において坐っておられた朝廷に対しても、礼を欠くことでございました」
"All the blame lies with me, and me alone. It belongs to no one else. The secretary merely acted in accordance with my commands."
「全ての咎はわしにあります。ほかの誰のものでもございません。書記官は、命じられたとおりにしたまででございます」
ジュリアンのペンが、紙の上でわずかに動いて止まった。何か書きかけて、やめたらしい。
彼女の顔は動かない。
ニールは、一つだけ付け足した。
"At that time, I was in poor health. It is exactly as the secretary told you. I have no intention of offering this as an excuse."
「あのとき、わしは体を悪くしておりました。書記官が申したとおりでございます。言い訳として申すつもりはございません」
病のことは、それきりにした。
病が表向きの理由にすぎないことは、この姫も承知している。それでも、暮れに書記官の口から出た理由を、詫びの座で引っ込めるわけにはいかなかった。そうなれば、代わりに座へ出したジュリアンを嘘つきにする。
それは我が大英帝国の威信の一端を、傷つけることにもなりかねない。
軍にいた頃、上官の前で弁明を重ねた者が、それきり信用されなくなるのを見てきた。一度なら通る。二度目からは言い訳になる。それで、一度だけと決めた。
"I offer you my apology, in my own person."
「わし自身の口から、お詫び申し上げる」
ニールは、もう一度頭を下げた。
今日は、詫びの文を一枚も持ってきていない。書記官に文面を整えさせることもしなかった。暮れに姫君へ渡した手紙は自分の手で書いたし、今度は自分の口で言うと決めて来た。
頭を上げて、姫君の顔を見た。
言葉だけで足りるのか。足りないなら、何を足せと言われるのか。それを顔から読もうとして、読めずに終わった。
彼女は、ニールの言葉を一つずつ受け取り、手元で並べ直しているような顔をしていた。怒りも、和らぎも浮かんでいない。ただ聞いている。
北京で清の役人と向き合ったとき、ニールは相手の顔から多くを読んだ。頬の動き、目の泳ぎ方、茶碗に手を伸ばす間合い。読めないのは、そう鍛えられた老練の役人だけだった。
この姫は、まだ十四か十五である。
畳の上で、誰かが膝を直す音がした。卓の脇の侍の一人だった。言葉は分からぬはずだが、ニールが二度頭を下げたのは見ている。
しばらくして、姫は重ねていた手の一方を膝から上げ、ニールの椅子を示した。
"Please, Mr. Neale. Be seated."
「どうぞ、ニール殿。お掛けくださいませ」
ニールは椅子に戻った。背は預けず、卓との間を拳一つぶん空けた。
二
ニールが坐り直すのを待って、糸子は口を開いた。
"Your apology is received, Mr. Neale. I accept it."
「お詫び、確かに承りました」
ニールは、短く頭を下げた。
軍人の詫び方だった。立って、揃えて、倒して、上げる。言うべきことを順に言い、余計なことは言わない。書記官は命じられたとおりにしたまでだと、部下を庇う一言まで、その順に入っていた。
病のことは、一度だけ口にした。
暮れの書院でジュリアンから代理公使の不在を詫びられたとき、糸子は、病というのは白々しい嘘だろうと考えた。いま目の前にいる男の顔色は悪くない。五十を越えた男の、日に焼けた顔である。三月かけて本復した顔なのか、もともと病などなかった顔なのか、糸子には見分けがつかなかった。
見分けるつもりも、初めからなかった。
当人が、書記官の申したとおりだ、と言ったのだ。嘘だと言い立てたところで得るものはない。詫びは受けた。この座で片がついたのは、師走のあの一件だけである。
本題は、ここからだった。
糸子は卓のカップに目をやった。茶はまだ半分ほど残っている。
この男には、品を約す権限がない。
前世の知識で、それは分かっていた。代理公使は本国の外務大臣の訓令で動き、訓令の外のことを一人の名で約束することはできない。贈り物の一つ二つならともかく、糸子がこれから口にするものは、一人の代理公使の裁量にとても収まらない大きさだった。
この座で約束すると言わせても、中身のない約束になる。
だから、約束は求めない。
この男が本国へ書き送るだけの理由を、ここで持たせて帰す。大臣が報告を読んで、なるほどと頷くだけの理由である。それさえ渡せば、あとはこの男が自分で書く。暮れの手紙を自分の手で書き、今日の詫びを自分の口で言いに来た男なら、きっとそうする。
もう一つ、この男には持って帰らせるものがあった。
詫びの代金である。
英国の代理公使が朝廷の使者に頭を下げた。その事実は、言葉を受けただけでは帳尻が合わない。糸子の側から見ても、英国の側から見ても同じことだった。頭を下げて手ぶらで帰れば、この男は本国に何も書けない。何かを持って帰れば、頭を下げたことにも値が付く。
その何かは、糸子が決める。
あとは、どこから話すかだった。
品から話せば、この男は品の値を量りはじめる。蒸気の船一隻がいくらで、電信の機械がいくらか。量りはじめれば、本国がそれだけの金を出すかどうかを考え、出すまいと考える。代理公使なら、そう考えるのが務めである。
品は、後に回す。
先に、英国が何を得るかを話す。得るものの重さを量らせておけば、後から出る品は、その重さと釣り合うかどうかで量られる。品だけを裸で量られるより、ずっといい。
それに、この男は軍人である。
増徳院での会見を承知した返書は一枚きりで、日時と場所と、体のことが一行書いてあるだけだった。今日の詫びも、言うべきことを順に並べて終わった。長い前置きを好む男ではない。話の筋は一本にしておくほうがいい。
卓の脇では、近藤たちが黙って坐っている。英語の中身が分かるのは、座の端の正木だけである。正木は膝の上で手を握ったまま、糸子のほうではなく、卓の上を見ていた。
糸子は、ニールの目を見た。
"Mr. Neale. A little while ago, you asked how Great Britain might show that she is in earnest."
「ニール殿。先ほど、英国の本気をどうお示しすればよいかと、お尋ねになりましたね」
"I did."
「お訊きしました」
"Your apology was the first proof. I have received it."
「お詫びが、その最初の証でございました。確かに頂戴いたしました」
"The rest, I should like to see shown—not in words, but in trade."
「その先は、お言葉ではなく、商いで見せていただきとうございます」
ニールの眉が上がった。
卓の脇で、ジュリアンのペン先が紙から離れた。
三
「商い」とこの姫は言った。
ニールは、師走の夕方を思い出していた。公使館の二階、南の部屋で、書院での一部始終を報告しに来たジュリアンに、笑いながら言ったのだ。あの姫にも目的があるのだろう。英国と誼を通じたい理由が。それとも、商いか、と。
半分は冗談のつもりだったが、当たっていた。
"Through commerce... is that so?"
「商いで…ですか」
"Yes."
「はい」
姫君は言葉を足した。
"If Britain wishes to be a friend to Japan, let her show it in the manner of trade. And if I am to take pains on Britain's behalf, it shall be in the manner of trade as well."
「英国が日本と誼を結びたいとお望みなら、それは商いの形でお示しくださいませ。わたくしが骨を折るのも、商いの形でございます」
ニールは、卓の上で指を組んだ。
骨を折ろう、と彼女は言っていた。その骨を折る場所を、いま自分で決めたのである。商いの場…と。
ニールは、姫の顔を見ながら頭の中で組み直した。
朝廷の窓口になれと言えば断られ、商いの相手になれと言えば受ける。この姫は、自分の立つ場所を一つしか作らない。その一つの場所でなら、英国と向き合うことを厭わない。
攻め口が一つしかない砦なら、そこへ兵を集める。ほかの壁を叩いて回るのは、時と兵の無駄だった。
ただ、一つ確かめておくことがあった。
"You say trade. Trade, I understand, is conducted between merchants. Is it your intention that the Court should trade with Britain?"
「商い、と言われる。商いは、商人と商人のあいだでするものと心得ておる。朝廷が英国と商いをする、というおつもりか」
"No, Mr. Neale."
「いいえ、ニール殿」
姫君は、すぐに答えた。
"The Court does not trade. There is a house that trades in the Court's name. The house that delivered my letter to your legation."
「朝廷は、商いをいたしませぬ。朝廷の名で商いをする店がございます。ニール殿の公使館へ、わたくしの書状をお届けした店でございます」
『天朝物産会所』
今度の招きの書状は、日本の役所を通さず、あの店から届いた。返書もニールはあの店へ返させた。日本の役人を通すな、とジュリアンに命じて。
あの店について、ニールが知っていることは多くない。日本人町に妙に話の通じる店がある、と居留地の英国商人たちが言っているのを耳にした程度である。店先に値の板を出し、銀の勘定がやかましく、英語の分かる者が応対に出る。そのくらいだった。
その店が、朝廷の名で商いをしている。姫が骨を折るというのは、その店を通して、ということらしかった。
悪くない話だ、とニールは思った。
朝廷と英国が直に結べば、江戸の大君の政府が黙っていない。条約を結んだ相手は大君の政府であり、その頭越しに朝廷と何かを約せば、英国は条約国のなかで厄介な立場に置かれる。ほかの国の代表たちも見逃さないだろう。
商いの店が相手なら話は別だった。英国の商人が日本の店と取引をするのは、条約が認めていることで、誰に咎められる筋もない。
英国が困らずに済む道を、この姫は選んで話している。
"Very well. Then let us speak of commerce."
「いいでしょう。では、商いの話を致しましょう」
ニールは、卓へ少し身を寄せた。
"In this trade of yours—what does Britain gain?"
「その商いで、英国は何を得ますか」
少女はすぐには答えず、カップを取って一口だけ飲み、卓へ戻した。
口を開いたとき、糸子は英国の話から始めなかった。
四
"It was America that opened this country."
「この国を開いたのは、米国でございました」
ニールは黙って聞いた。
ペリーの艦隊が江戸の海へ入ったのは、ニールが北京へ赴任するずっと前のことである。その後、米国の総領事が下田に入り、江戸に上り、最初に通商の条約を結んだ。英国の条約は、その後を追うように結ばれている。
開国の功は米国のものだった。英国人なら誰でも知っているが、好んで口にする者はいない。
"For some years after, it was America that stood at the head of the foreign nations here. The first treaty was hers; the others followed."
「その後しばらくは、この国で異国の先頭に立っておられたのも、米国でございました。最初の条約は米国のもの。ほかの国々は、それに倣いました」
"America is now at war within her own borders. She has no strength to spare for Japan."
「その米国は、いま国の内の戦で手一杯で、日本に割く力がございませぬ」
"And so the seat at the head of the foreign nations in Japan stands empty."
「それゆえ、日本で異国の先頭に坐る椅子が、いま空いております」
ニールは、姫君の顔から目を離さなかった。
師走のあの部屋で、ニールがジュリアンに言ったのと同じことだった。
それを、いま聞かされている。しかも姫の言い方のほうがはっきりしていた。ニールは主導権と言い、この姫は椅子と言った。誰かが坐れば埋まり、誰も坐らなければ空いたまま。そして椅子は一つしかない。
あの部屋にいたのはニールとジュリアンの二人だけで、この姫が聞いたはずはなかった。それでも同じところへ辿り着いている。英国が何を欲しがっているのかを、この姫はニールの口から聞く前に知っていた。
米国の商人たちは、本国の戦で船を減らしていた。横浜の港で星条旗を掲げる船は、二年前よりずっと少ない。
この国の役人たちはそれに気づいているのだろうか、とニールは思ったことがある。気づいている者が、ここにいた。
ニールは、一つ試してみることにした。
"America's war will not last for ever, my lady. When it is over, she will come back."
「米国の戦も、いつまでも続きはせんぞ、姫君。終われば、米国は戻ってくる」
"Yes. I expect she will."
「はい。お戻りになりましょう」
姫はあっさり認めた。
"And when she does, someone will already be sitting in the seat. A seat once taken is not easily given up—is it, Mr. Neale?"
「お戻りになった頃には、椅子にはもう、どなたかがお坐りでございましょう。一度坐った椅子は、そう容易くはお譲りにならぬもの。違いますか、ニール殿」
ニールには、違うと言う材料がなかった。
この国の開国で、英国は米国に先を越された。清では、英国が先に坐った。先に坐った国は、後から来た国に椅子を譲らない。条約の改め、港の取り決め、税の掛け方。先に坐った国が決めたことを、後の国はなぞるしかない。英国はそれを清で、決める側として見てきた。
米国が戻るまでに坐っておけばいい。この姫が気にしているのは、米国の戦がいつ終わるかより、終わる前に誰が坐るかのほうだった。
"I shall not prevent Great Britain from taking that seat."
「その椅子に英国がお坐りになるのを、わたくしは止めませぬ」
ニールは、少しだけ首を傾けた。
止めない、と言った。坐れ、とは言っていない。
"Then you mean to lend us your hand."
「では、手を貸すと言われるか」
"I do not lend a hand, Mr. Neale."
「手をお貸しするのではございません、ニール殿」
彼女は、そこで少し笑った。
"I do trade."
「商いをいたしますの」
ニールの喉の奥で、笑いが鳴った。
声にはしなかった。脇の椅子でジュリアンがペンを動かしていて、その音だけが客殿に残った。
手を貸す者は恩を売る。売られた側はいずれ返さねばならず、いつ、何で返せと言われるかは売った側が決める。商いをする者は値を付ける。値が合えば取引になり、合わなければそれまでである。
この姫君は、恩を売るつもりはないらしい。
ニールにとっては、そのほうが話が早かった。恩の勘定は本国に説明しにくい。日本の姫に恩を受けた、などと書けば、ロンドンの役人は眉をひそめる。値の勘定なら、本国の誰にでも分かる。
"And the price? You said this was the manner in which Britain should show her earnest. You have told me what Britain gains. You have not yet named what it is to cost us."
「して、値は。英国が本気を示す形だと言われた。それが英国に何をもたらすかは聞いた。英国に何を負わせるのかは、まだ聞いておらん」
"I shall come to it, Mr. Neale."
「そこへは、追って参ります、ニール殿」
そう答えてから、彼女は言葉を継いだ。
"Though, of course, Britain need not hurry."
「もっとも、英国がお急ぎになる必要はございませぬ」
五
急ぐ必要はない、と姫君は言った。
急がなくてよいと言う者は、たいてい、相手が急がねばならない理由を握っている。ニールは、そういう言い方を何度も聞いてきた。
"The Tencho Trading House already deals directly with the French Legation."
「天朝物産会所は、すでにフランス公使館と直に取引がございます」
畳の上で衣擦れの音がした。
脇に控えていた商人姿の男が、わずかに身じろいでいた。英語の中に自分の店の名が出たのを聞き取ったらしい。男はすぐに元の姿勢に戻り、膝の上に手を置いた。
ニールは、その男に目を向けなかった。
フランス公使館と直に、と姫は言った。
ベルクールの顔が浮かんだ。この一年、条約国の代表が集まる席で、ニールは数回、あの男と並んで坐ってきた。愛想のよい口髭の下で、自分の手の内を何一つ明かさない男である。その公使館がこの姫君の店と直に取引をしていることを、ニールは今日まで知らなかった。
日本の役所を通さない取引なら、代表どうしの席で話に上ることもない。ベルクールが自分から話すはずもなかった。
"Some of the pictures of this country have gone to Paris by way of that legation. And from Paris, we have had a press in return."
「この国の摺り絵が、あの公使館を通じてパリへ渡りました。パリからは、代わりに印刷の機械が届いております」
自慢する口ぶりではなかった。品書きを読み上げるような声である。
摺り絵と印刷機。物と物の取引だ、とニールは思った。金が動くだけの商いより根が深い。機械は一度据えれば、動かし方を覚えた者が残り、部品を求める先が残る。
"In Europe, the silkworms are falling to disease, and there is not silk enough. France, above all, wants the silk of Japan."
「欧州では蚕が病で倒れ、生糸が足りませぬ。とりわけフランスは、日本の生糸を何より欲しがっております」
それは、ニールも知っていた。
横浜の英国商人たちが、毎月のように公使館へ持ち込む話である。リヨンの織屋は日本の生糸ならいくらでも買う。フランスとイタリアの蚕が病で倒れ、欧州の糸が足りない。だから横浜の生糸の値は、上がりこそすれ下がらない。商人たちはそれを嬉しそうに話し、同じ口で、フランスの商人が値を吊り上げて買っていくと不平を言った。
この姫は、フランスがその生糸を欲しがる理由まで、英国の商人と同じ言葉で言った。
"Should Britain not take the seat, there are other nations that would."
「英国がお坐りにならなければ、その椅子に坐る国は、ほかにもございます」
彼女の声は変わらなかった。
脅す者は、相手の顔色を見ながら言う。この姫はニールの顔を見ず、卓のカップに目を落としたまま、天気の話でもするように言った。ニールは、それを脅しとは受け取らなかった。
並べられたのは三つの事実で、どれもニールには否めなかった。そのうえで、椅子は一つしかないと言われた。
ニールは、卓の上に置いた自分の手を見た。
英国が坐らなければ、フランスが坐る。ベルクールは、空いた椅子を見過ごす男ではない。もう片膝くらい乗せているかもしれなかった。
急がなくてよいのは、この姫のほうだった。英国が坐ろうとフランスが坐ろうと、この姫の店の糸は売れる。
それなら、なぜこの話を英国にするのか。
島国の話は、先ほど聞いた。だが、あれは英国を相手に選ぶ理由だった。フランスより先に糸を回す理由にはならない。
"If France wants your silk so badly, and you already deal with her legation—why bring this to me? You might take it to Monsieur de Bellecourt."
「それほどフランスが姫君方の生糸を欲しがり、すでに向こうの公使館と取引があるのなら、なぜこの話をわしにする。ベルクール殿のもとへ持っていけばよかろう」
姫は、少し首を傾げた。
"After all, Monsieur Bellecourt has not come to visit me, Mr. Neale."
「ベルクール殿は、わたくしの元へおいでになってはおりませぬもの、ニール殿」
ニールは、言葉に詰まった。
"It was Great Britain that arrived first. It is only fitting, then, that the first seat should be offered to Great Britain."
「先においでになったのは、英国でございます。ですから、椅子をお先にお勧めするのも、英国になりましょう」
詫びとはいえ、先に来た者に椅子を勧め、来なかった者は後に回す。理屈としてはそれだけのことだが、その理屈の上でなら、英国がフランスより先に坐る筋が立つ。ベルクールが聞いて文句を言おうにも、付けようがない。フランスは何もしていないのだから。
師走の座に出なかったことが、いまは英国を先頭へ押し出している。ニールはそれを可笑しく思ったが、顔には出さなかった。
"And what would you give to Britain?"
「では、英国には何を」
ニールは、そう問うた。
六
"The silk of our house shall go to British merchants before it goes to any other nation—and in a fixed quantity."
「当会所の生糸を、英国の商い手へ、どの国よりも先に、決まった量だけお回しいたします」
どの国よりも先に。決まった量を。ニールは、彼女の言葉をそのまま頭の中で繰り返した。
"That is the price of your apology, Mr. Neale. Britain shall have the head of the line."
「それが、ニール殿のお詫びの代金でございます。英国には、列の先頭をお渡しいたします」
詫びの代金…とニールは口の中で一度だけ転がした。
詫びた側が代金を受け取る。妙な勘定である。この姫の勘定では、頭を下げた英国はそれで値を得たことになるらしかった。手ぶらで帰れば、英国の代理公使が日本の姫君に詫びただけで終わる。列の先頭を持ち帰れば、取引になる。本国に書けるのは、後のほうだった。
"What I promise is the order and the quantity. The price shall stand as the market stands."
「お約束するのは、順番と量でございます。値は、相場のままに」
"Not the price?"
「値は、約さぬのか」
"Prices move, Mr. Neale. If one promises a thing that moves, one side or the other is certain to lose."
「値は動くものでございます、ニール殿。動くものを約束すれば、どちらかが必ず損をいたします」
ニールは、彼女の顔を見た。
十年、二十年と相場を見てきた商人が言いそうなことだった。
値を約束すれば、相場が上がったときには日本の側が、下がったときには英国の商人が損をする。損をした側は、いずれ約束を破りたくなる。破られる約束なら、初めからしないほうがいい。順番と量なら、相場がどう動こうと守ることができる。
ニールは、横浜の英国商人たちの顔を思い浮かべた。
生糸の値が上がるのを喜ぶ男たちだが、彼らが本当に恐れているのは、糸が手に入らないことのほうである。船を待たせているのに荷が揃わない。揃ったと思えば、フランスの商人が先に買っていった。空で出すわけにもいかず、待たせるほど金が出ていく。そういう愚痴を、ニールは何度も聞かされてきた。
他国より先に、決まった量が手に入る。それが商人にとって何を意味するかは、ロンドンの誰が読んでも分かる。
"How much? You say a fixed quantity."
「量は、いかほどだ。決まった量と言われたが」
"That is a matter for our house and the merchants, Mr. Neale. The silk of each year is not the same. The quantity shall be settled between those who sell and those who buy."
「それは、当会所と商い手のあいだで決めることでございます、ニール殿。糸は年ごとに出来が違います。量は、売る者と買う者とのあいだで定めまする」
ニールは頷いた。
代理公使が量を口にすれば、英国が約束を取りつけたことになる。量を決めるのは店と商人だと、この姫は言った。英国の政府は、その道を開くだけでいい。
"Can you keep such a promise? Do you hold the flow of silk in this country?"
「その約束、守れるのか。この国の生糸の流れを、姫君方が握っておるのか」
少女は、その問いを待っていたようだった。
"Those who bring silk down to the port stand with our house."
「生糸を浜へ出す者たちは、当会所とともにございます」
それ以上は言わなかった。誰が、とも、何人が、とも。
ニールは、その答えで足りると思った。名を挙げられても、それが誰なのか分からない。分かっているのは、この姫が、暮れの書院でも今日の客殿でも、自分の手にないものを一度も差し出していないことだった。
姫君は言葉を継いだ。
"But let me be plain, Mr. Neale."
「ただし、はっきり申し上げておきます、ニール殿」
"Which of the foreign nations stands at the head—that is a matter among foreigners. The trade within Japan shall be held by the Japanese."
「異国の方々のうち、どなたが先頭にお立ちになるかは、異国のあいだのこと。日本の内の商いは、日本の者が握りまする」
ニールは、すぐに頷いた。
条約は、英国の商人に開港場の外での商いを許していない。英国の商人が内地の村へ入って、直に生糸を買い付けることはできない。それを変えろと言う気は、ニールにはなかった。欲しいのは、異国のあいだで英国が先頭に立つことである。
"That is understood."
「承知した」
ニールは、脇の椅子へ目を向けた。
"Elliot. Take that down."
「エリオット。今のを書き取れ」
"Yes, sir."
「はい」
ジュリアンのペンが紙の上を走った。
生糸。天朝物産会所より、英国の商い手へ。どの国よりも先に。決まった量。量は、店と商い手とのあいだで定める。値は相場。日本の内の商いは、日本の者。
ペンは、そこで止まった。
七
ジュリアンは、自分の書いた行を見ていた。
どの国よりも先に。その一行に、ペン先が引っかかっていた。
昨年の霜月、ジュリアンは条約の写しを机に広げ、外国人の身の安全を記した条を一字ずつ書き写した。あの頃、写しは一冊まるごと頭に入っていた。開港場の定めも、居留の範囲も、輸出入の税も、領事の裁判も。
そのなかに、こういう条がある。
日本が他の国に何かの扱いを与えたなら、英国も同じ扱いを受ける。米国にも、フランスにも、オランダにも、ロシアにも、それぞれの条約に同じ定めがある。最恵国の条項である。
日本の側が英国に生糸を先に回すと約束すれば、それは日本が英国に与えた扱いになる。フランスは同じものを寄越せと言い、米国も、オランダも、ロシアも言う。全員が先頭に並べば、先頭はなくなる。
中佐は、それに気づいているだろうか。
ジュリアンは隣の横顔を見た。中佐は姫君のほうを見ている。条文を一字ずつ追うのは書記官の仕事で、中佐がこの条項の働きまで頭に置いているとは限らない。
この姫のほうは、知らないのかもしれなかった。
知らないのなら、ここで突けば話は揺れる。揺れたところで、中佐が条件を詰めればいい。英国の側から詰めておくべき条件はまだある。量も、期限も、何一つ決まっていない。
ジュリアンは、中佐のほうへ身を寄せた。
"Colonel. If I may."
「中佐。よろしいでしょうか」
ニールは、顎だけで頷いた。
ジュリアンは眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、姫のほうへ顔を向けた。
"My lady, forgive me. Under the treaties, whatever favour Japan grants to one nation, the other nations may claim as well. It is called the most-favoured-nation clause."
「姫君、ご無礼をお許しください。条約では、日本が一国に与えた扱いは、他の国々も同じく求めることができます。最恵国の条項と申します」
"Should France and America demand the same, 'before any other nation' would mean nothing at all."
「フランスとアメリカが同じものを求めれば、『どの国よりも先に』は、何の意味も持たなくなります」
彼女は、驚かなかった。
ジュリアンの言葉を最後まで聞いてから、ほんの少し首を傾けた。暮れの書院で、ジュリアンが三枚の紙を並べたときと同じ顔である。あのときもこの姫は、ジュリアンが用意した三つの求めのうち二つを、座の上で消してみせた。
"Then let them claim it, Mr. Elliot."
「では、求めさせればよろしゅうございます、エリオット殿」
ゆっくりとした声だった。
"Japan does not mind in the least. Whichever nation it goes to, the silk will sell."
「日本は、いっこうに構いませぬ。どの国にお回ししようと、生糸は売れますもの」
ジュリアンは、ペンを持ったまま動けなかった。
"It is Britain, surely, that would be troubled. Is it not Britain that wishes to stand ahead of the others?"
「お困りになるのは、英国のほうではございませぬか。他の国を出し抜いて先頭にお立ちになりたいのは、英国でございましょう」
言われてみれば、そのとおりだった。
日本から見れば、生糸を誰に売ろうと売れることに変わりはない。フランスが均しく求めてくれば、フランスにも売ればいい。先頭に立てなくなって困るのは英国である。
日本の弱みを突いたつもりで、ジュリアンは英国の弱みを指で差していた。
"Then do not make it a promise between nations."
「でしたら、国と国の約束にはなさいませぬよう」
"Make it an agreement in trade—between our house and British merchants. Would that not serve Britain well?"
「当会所と英国の商い手どうしの、商いの約定になさいませ。そうしておけば、英国としてもお助かりになるのでは」
ジュリアンは、頭の中で条約の写しを開いた。
最恵国の条項が及ぶのは、日本の政府が他の国に与えた扱いである。国と国の約束なら条約が及び、条項が働く。
商いの店と商人との約定なら、一つの取引にすぎない。一つの店が、どの客に先に糸を売るかを決めただけである。横浜の日本の商人は、毎日、どの異人に先に売るかを決めている。フランスがそれを寄越せと言う筋は、条約のどこにもない。天朝物産会所は朝廷の名で商いをしているが、条約を結んだ日本の政府は、江戸の大君の政府である。
ジュリアンはこの条項を盾にして、姫の話を揺らすつもりだった。その盾を、姫は英国のほうへ向け直した。
英国が自分の商いを守るために入れさせた条項が、いま、先頭に立とうとする英国の足を押さえている。姫は、その外し方まで先に示してみせた。
手帳には、どの国よりも先に、という一行がある。その下に何を書けばいいのか、ジュリアンにはまだ決まらなかった。
"Heh... heh... ha-ha..."
「くっくっくっくっ……」
隣で、低い笑い声がした。
中佐だった。喉の奥で鳴らすいつもの笑いに、今日は肩の揺れが加わっている。
"Did you think to catch her out, Elliot?"
「揚げ足を取れるとでも思ったか、エリオット」
"…I thought it my duty to raise it, sir."
「……申し上げておくのが、務めかと存じまして」
"So it was. And now you have your answer."
「務めではあった。そして、答えも出たな」
中佐は、まだ笑っていた。
"Write it down, Elliot."
「書き取れ、エリオット」
"Sir."
「はい」
ジュリアンは、ペンを取り直した。
商いの約定。天朝物産会所と、英国の商い手とのあいだ。国と国の約束とはしない。
書き終えてから、もう一度読み返した。
昨年の霜月、記録部屋の束から葉月八日の件を見つけたとき、ジュリアンは、日本の政府から譲歩を引き出せば英国の利益になり、自分の履歴にも一行が残ると考えた。
いま手帳にある行は、たしかに英国の利益になる。ただ、それを差し出したのは向こうの側だった。
八
ニールは笑いを収め、姿勢を正した。
ジュリアンが書き終えるのを待って向き直ると、それを待っていたように姫が口を開いた。口を開いた。
"Mr. Neale. I know that you cannot decide this alone."
「ニール殿。このお話を、ニール殿お一人でお決めになれぬことは、存じております」
ニールの指が、卓の上で止まった。
代理公使は本国の外務大臣の訓令で動き、訓令の外のことを自分の名で約束することはできない。この国の役人にも、他国の公使にも、わざわざ説明したことのない話である。説明する必要もなかったし、訊かれもしなかった。
この国の役人たちは、ニールが口にすることはすべて英国の約束だと思っている。だからニールが一言強く言えば、それだけで役人たちは怯えた。この一年、この国で外交をするというのはそういうことだった。
この姫は、訊かずに知っていた。
ニールは、頬がわずかに熱くなるのを感じた。恥ずかしさとは違う熱だった。暮れの座へ出なかったことを詫びたときのほうが、よほど顔が熱かった。
本国に諮らねばならぬと言って、この話を先へ延ばすこともできた。返事は本国から、と言って、何一つ約さずに帰ることもできた。その逃げ道を、姫は先に言い当てて塞いだ。そのうえで、塞いだ先に道を一本だけ残している。
"Write to your country, Mr. Neale."
「本国へ、お書きくださいませ」
"I ask no promise of you today. I ask only that you write."
「今日、ニール殿にお約束はお求めいたしませぬ。お書きいただくことだけを、お願いいたします」
"And if I may—the reasons are three."
「書くべき理由は、三つでございます」
少女は、卓の上で指を一本立てた。
"First. America has stepped back, and the seat at the head of the foreign nations stands empty."
「一つ。米国が退き、異国の先頭の椅子が空いておりますこと」
二本目の指が立った。
"Second. France wants silk, and already deals with our house."
「二つ。フランスが生糸を欲しがっており、すでに当会所と取引がございますこと」
三本目。
"Third. Britain may have silk before any other nation—in the form of an agreement in trade."
「三つ。英国は、商いの約定という形で、どの国よりも先に生糸を得られますこと」
少女は指を下ろした。
ニールは黙っていた。頭の中では、紙が一枚広がっていた。
外務大臣ラッセル伯へ送る報告である。
冒頭に、日本の朝廷の使者と会見したことを書く。あとは、姫が挙げた三つを順に並べればいい。米国の後退は、ロンドンも承知しているから一行で済む。ロンドンが知らないのは、フランスの公使館が日本の商いの店と直に取引していることだった。紙を使うのは、そこである。そして最後に、商いの約定という形。最恵国の条項に触れない形で。
骨組みは、それで足りた。
ニールは、姫君の三本の指が立っていたあたりを見た。
本国へ書くべきことを、この姫はニールより先に並べてみせた。
師走、ニールはジュリアンに、本国への便には一行だけ書けと言った。日本の役所と、開港場外の通行について協議を開始した、と。それ以上は書くな、と。始まったものなら、いつでも止められる。あのときは、それでよかった。
今度の便は一行では済まないし、止めるつもりで書くものでもない。
ロンドンへ便が届き、大臣の目に留まり、返事が横浜へ戻るまでには幾月もかかる。そのあいだに、ベルクールが椅子に手を伸ばすかもしれない。書くなら今月の便だった。ニールは、次の郵船がいつ出るかを頭の中で数えた。
"I shall write."
「本国へ書こう」
ニールは、姫の目を見て言った。
"Under my own name. Not as a matter for my secretary to put into form—as my own opinion, to Earl Russell."
「わしの名でな。書記官に体裁を整えさせるのではない。わし自身の意見として、ラッセル伯へ書く」
隣で、ジュリアンが顔を上げた。
代理公使が自分の意見として外務大臣に書く。本国が首を横に振れば、その首はニールに向けて振られる。
姫君は頷いた。
"I thank you, Mr. Neale."
「ありがとう存じます、ニール殿」
礼の言葉は、それだけだった。
九
ニールは、椅子の上で少し身じろいだ。
英国が何を得るのかは分かった。詫びは済み、詫びの代金も受け取った。
それでも、まだ一つ答えを聞いていないことがあった。
暮れの手紙で、ニールは手土産に望むものを訊いている。三月近く経って届いた返事には、品の名が一つもなかった。
ここまでの話で、英国は列の先頭を得た。英国が受け取るものの話である。英国が贈るものの話は、まだ一言も出ていない。
この姫は、わざと後に回したのかもしれなかった。英国が何を得るかを先に決めておけば、何を贈るかの話はずっと楽になる。得たものの重さを知った後なら、英国は贈るものを値切りにくい。
そう考えて、ニールはそれでも構わないと思った。ここへは、どう求めるかを見に来たのだ。
そしてここまでの求め方は、ニールの見当のどれとも違っていた。
公使館を出るとき、ニールは三つほど見当をつけていた。
一つは金である。詫びの品として銀を求めてくる。詫びの値を量るなら、それがいちばん分かりやすい。二つ目は武器で、銃か大砲か。この国では、どの藩も新しい銃を欲しがっている。三つ目は、何も求めずに詫びを受けて終わりにする、というものだった。朝廷の使者としては、それがいちばん体裁がいい。
この姫は、どれも選ばなかった。品の話をする前に英国に何を渡すかを決め、詫びを受けて終わりにせず、詫びに代金を付けた。金の話は一度も出ていない。
楽しみは、まだ続いている。
ニールは、組んだ指をほどいた。
"Then tell me, my lady—what would you have of us?"
「では、姫君。英国は、何をお贈りすればよい」
ジュリアンのペンが止まった。
客殿の外で、鳥が一声鳴いた。
姫はニールの顔を見て、微笑んだ。
"Then—let us speak of the gifts."
「では――品のお話を、いたしましょう」
ジュリアンは手帳の頁をめくり、新しい頁を開いた。
第二百三十一話 了
【海の向こうの戦争が幕末日本を変えた――南北戦争と列強の思惑】
幕末という時代を考える時、どうしても日本国内の動きに目が向きます。
江戸幕府の権威が揺らぎ、薩摩や長州といった雄藩が力を伸ばし、京都では朝廷と幕府をめぐる政治的な駆け引きが激しくなっていく。
しかし、幕末日本は国内だけで動いていたわけではありません。
19世紀半ばの世界では、すでに国家同士の出来事が互いに影響し合っていました。
遠く離れたアメリカで起きた南北戦争も、その一つです。
1861年から1865年まで続いたこの大戦争は、単なるアメリカ国内の内戦ではありませんでした。
ヨーロッパ列強の外交、日本への武器流入、そして幕末の国際環境にも影響を与える大きな出来事だったのです。
■南北戦争を見つめたイギリスとフランス
南北戦争が始まると、ヨーロッパ諸国はこの戦争の行方を注視しました。
当時のアメリカは、急速に国力を伸ばしていた新興大国でした。
もしアメリカが分裂すれば、世界の勢力バランスにも変化が起こる可能性がある。
特に関心を寄せたのが、イギリスとフランスでした。
ただし、両国が見ていたものは同じではありません。
イギリスにとって大きな問題は、南部の綿花でした。
当時、イギリスの繊維産業はアメリカ南部から輸入される綿花に大きく依存していました。そのため、戦争によって綿花供給が不安定になることは、経済面で大きな懸念となりました。
また、北部が進める保護貿易政策よりも、自由貿易を望むイギリス商業界には、南部に理解を示す声もありました。
一方、フランス皇帝ナポレオン3世は、より広い帝国戦略からアメリカ情勢を見ていました。
フランスは当時、メキシコへ軍を派遣し、自国に有利な政権を作ろうとしていました。
これは、アメリカが掲げていたモンロー主義、つまりヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への干渉を抑えようとする考え方と衝突するものでした。
フランスにとって、アメリカが内戦で動けない状況は、中南米で影響力を広げる機会でもあったのです。
■介入したかったが、踏み切れなかった理由
では、イギリスとフランスは南軍を支持して参戦したのでしょうか。
実際には、両国とも南軍に一定の関心を持ちながらも、正式な軍事介入には踏み切りませんでした。
理由は、単純なものではありません。
イギリスが北軍と戦うことになれば、英領カナダの防衛問題を抱えることになります。さらに、北部との貿易関係や国内経済への影響も無視できませんでした。
フランスも、単独でアメリカと対立すれば、メキシコ政策に大きな負担を抱えることになります。
そして1863年、リンカーン大統領が奴隷解放宣言を発表すると、国際世論にも変化が起きました。
イギリスもフランスも、すでに国内では奴隷制を廃止していました。
そのため、奴隷制度を維持しようとする南部を公然と支援することは、国内政治の面でも難しくなっていきます。
結果として、英仏両国は直接介入を避け、南北戦争はアメリカ自身の戦いとして決着しました。
■戦争が太平洋を越えて流したもの
南北戦争が幕末日本へ与えた影響の一つが、武器の国際的な流通でした。
1865年に戦争が終わると、大量の武器や軍需品が市場へ流れ、その一部は東アジアにも運ばれます。
当時、日本では各藩が西洋式の軍備を整えようとしていました。
特に長州藩は、外国商人を通じて近代的な銃器を入手し、第二次長州征伐では幕府軍に対して大きな抵抗力を示します。
この戦いで長州藩が見せた軍事力は、幕府の威信低下をさらに進める一因となりました。
ただし、長州藩の勝利を南北戦争の武器だけで説明することはできません。
藩内改革、軍制整備、指導者たちの判断。
さまざまな要素が重なった結果であり、海外から流入した武器は、その変化を後押しした一つの要因だったのです。
■日本で繰り広げられた英仏の外交競争
南北戦争によってアメリカが日本外交へ積極的に関与する余力を失うと、日本で存在感を強めたのがイギリスとフランスでした。
両国は、日本をめぐって異なる方向から影響力を広げていきます。
フランスは徳川幕府との関係を深めました。
横須賀製鉄所の建設を支援し、軍事顧問団を派遣するなど、幕府の近代化を後押しします。
一方、イギリスも当初から幕府と対立していたわけではありません。
しかし、幕府だけでは国内政治をまとめきれないという認識が強まるにつれ、薩摩や長州など有力諸藩との関係を深めていきました。
ハリー・パークスやアーネスト・サトウらは、薩摩・長州の政治的力量を評価し、彼らとの接触を増やしていきます。
これは単純な「イギリスが倒幕を支援した」という話ではありません。
変化する日本の中で、どの勢力が将来の日本を担うのかを見極めようとした外交判断でした。
南北戦争と幕末日本。
一見すると、太平洋を隔てた別々の出来事に見えます。
しかし、この時代の世界はすでにつながり始めていました。
アメリカの内戦。
ヨーロッパ列強の思惑。
東アジアでの外交競争。
それらは互いに影響し合い、日本にも変化をもたらしていきました。
幕末の日本人が向き合っていたのは、国内の政治対立だけではありません。
世界規模で動く大国の力関係の中で、どの道を選び、どう生き残るのかという問題でもあったのです。
南北戦争は日本で戦われた戦争ではありません。
しかし、その遠い戦場で生まれた国際情勢の変化は、確実に幕末日本へ流れ込み、日本の未来を左右する一つの力となっていたのです。




