第二百二十九話「糸子のお嫁入り編―椅子の座」
一
弥生も半ばの、夜明け前である。
堀川の向こうの居留地には、灯の消えた窓が白い壁に並んでいる。橋を渡ったこちら側、本村の家並みは低く、どの戸もまだ閉じていた。
その家並みの奥に、増徳院の屋根がある。
境内の木立は、まだ黒い塊にしか見えない。山門の脇に提灯が一つだけ灯り、その下に人の影が二つ立っていた。参道の途中にも、同じように二つ。
客殿の雨戸は、すべて閉てたままだった。中に何が据えてあるのか、糸子はまだ知らない。
目が覚めたとき、障子はまだ暗かった。
波の音が、夜半に縁で聞いたのと同じ間合いで、木立の向こうから届いてくる。その手前で砂利を踏む足音が二つ、山門のほうへ遠ざかり、入れ替わりに別の二つが参道を上がってきた。一刻ごとに入れ替える、と近藤は言っていた。
本堂で鉦が一つ鳴り、少し間を置いて、経を読む声が低く起こった。
「某は、起きております」
昨夜そう言った近藤の重さで、廊下の床板が軋んだ。その音を、糸子は寝入る前に一度聞いている。そこから先は覚えていない。
いよいよ、ニールと対面する。
目覚めて最初に浮かんだのは、それだった。日も刻限も場所も、先方はこちらの書いたとおりに受けている。
障子が、薄く白みはじめた。
「姫様。お目覚めでございますか」
次の間から、葵の声がした。
「はい。起きております」
葵が手燭を持って入ってきた。後ろに、角盥を捧げた小夜が続く。小夜は敷居の手前で一度止まり、水をこぼさぬよう、そろそろと足を運んだ。
寺の井戸の水は、江戸の屋敷より冷たかった。
朝餉は昨夜と同じ寺の膳で、軽く済ませた。糸子が箸を置くと、葵は膳を下げさせ、次の間の襖を開け放った。
畳の上に、挟箱から出した衣が畳紙に包まれたまま、昨夜の順に並んでいる。その列の端で、小夜が膝を揃えて坐り、唇だけを小さく動かしていた。順を口の中で唱えているのだ。葵は止めなかった。
「では、始めさせていただきます」
「お願いね」
糸子は、次の間の中央に立った。
葵が旅の小袖を肩から落とし、白の小袖だけになったところで、後ろへ手を出した。
小夜が畳紙を一つ開き、中のものを葵の手に載せる。長袴だった。
葵は黙って受け取り、糸子の足もとへ膝をついた。腰紐を回して前で結び、結び目を指で押さえてから、また後ろへ手を出す。
次は単。小夜が渡した。
その次は袿で、幾重かあるうちの一枚目から、二枚目、三枚目と続く。昨夜、小夜が三度目に取り違えたのは、このあたりだった。
小夜の手は止まらなかった。葵が手を出すより先に、もう次の畳紙を開き、手が来るところへ差し出している。
糸子は、重なっていく衣の重さを肩で数えた。
最後が、小袿である。
葵が後ろから肩へ掛けて前を合わせ、襟の重なりを一枚ずつ指で揃えていく。袖口から覗く色の段が、手燭の明かりに順に浮かんだ。
それから髪に移った。葵は櫛を入れ、背に垂らした髪を首の後ろでまとめ、紙で包んで元結で結んだ。紙と元結を一つずつ渡したのも小夜である。結び終えると、葵は髪の先までもう一度櫛を通した。
長袴の裾は足の先よりずっと長く、畳の上に溜まっている。糸子は一歩前へ出た。足を出すたびに、爪先で裾を前へ送る。二歩、三歩と歩き、向きを変えて戻ってきた。
裾は、足に絡まなかった。
京では、この装束で幾度も御所へ上がった。江戸へ下ってからは、暮れの談判の座で着たきりで、足が覚えているか少しだけ案じていた。
覚えていた。
「よろしゅうございます」
葵が言った。
小夜が長く息を吐き、吐いてから、自分で驚いたように口を押さえた。
葵は畳紙を畳みながら、その小夜を一度だけ見て、何も言わなかった。小夜は叱られたと思ったらしく、首をすくめた。
糸子が振り向くと、小夜は顔から裾まで目を動かし、また顔へ戻して、小さな声で言った。
「……お雛様みたい」
葵が、今度ははっきりと小夜を見た。
糸子は、袖で口元を隠した。
「小夜」
「は、はい」
「衣の順を、一度も取り違えませんでしたね」
小夜は、何を言われたのか分からない顔をした。畳に並んだ空の畳紙を見下ろし、もう一度糸子の顔を見る。
「……はい」
声が、小さく震えていた。
葵は畳む手を止めないまま、小夜の前に残っていた最後の畳紙を自分のほうへ引き寄せ、それも畳んだ。
二
日が、境内の木立の上まで上がった。
客殿へは、庫裏から渡り廊下を通り、縁伝いに回る。土を踏まずに済む道である。糸子は長袴の裾を送りながら歩き、沖田が先に、斎藤が後ろについた。葵は半歩後ろから、裾が板の継ぎ目に掛からぬよう目で追っている。
縁の角を曲がると、境内の向こうに山門が見えた。門の脇に、旅の身なりの者が二人立っている。昨夜、提灯の脇に見えた影と同じ場所だった。
客殿の前では、善次郎が待っていた。羽織を改め、昨日の旅の埃はもう残っていない。脇に高瀬が控え、その後ろに若い侍が一人いた。正木退蔵である。語学所から取扱所へ出ている者として、今日は座の端に控えることになっていた。
正木は糸子を見たとたん、頭を下げる間を外した。昨日、取扱所の衝立の内で見た商家の娘が「姫様」と呼ばれたのは、聞いている。その人と、目の前の装束の姫君とが、すぐには重ならなかったらしい。高瀬に袖を引かれて、ようやく深く頭を下げた。
「お待ちしておりました」
善次郎が言った。
「明朝まで御覧になりませぬように、と申し上げました。お約束を守っていただき、ありがとう存じます」
「守りましたよ。昨夜は、雨戸の隙間も覗いておりませぬ」
「恐れ入ります」
善次郎は戸を開け、脇へ退いて糸子を先に通した。少しだけ、得意げな顔をしていた。
客殿は、朝の光で明るかった。
十畳を二間続けて襖を取り払い、奥の床の間には軸が一幅あるだけで、ほかに飾りはない。
その中央に、卓が一つ据えてあった。異国の拵えの、脚の高い卓である。向こう側に椅子が三脚、こちら側に一脚。畳を傷めぬよう、椅子の下には緋の毛氈が敷き延べてあった。卓の上には何も載っていない。
「椅子は、取扱所を通じて、居留地から揃えました」
善次郎はそれだけ言った。どこの商館からいくらで、とは言い足さない。訊かれれば答える、という顔をしている。
糸子は卓のこちら側へ歩き、裾を爪先で送って毛氈の上へ上がった。椅子の脇で足を止め、片手で袴の前を軽く寄せて、浅く腰を下ろす。背は椅子に預けず、膝の上で両手を重ねた。
裾が椅子の前に流れ、毛氈の上に溜まった。
「よい椅子ですね」
座敷が、しばらく静かになった。
善次郎は口を半ば開けたまま、何かを言いかけてやめた。姫様が椅子の前で戸惑われたらと、坐り方の手本まで頭の中で用意してきたらしい。それが一つも要らなかった。
戸口の脇で、沖田が首をかしげた。椅子というのは、ああやって坐るものなのか、という顔である。それから斎藤のほうへ顔を寄せた。
「斎藤さん。姫様は、あれに坐ったことがあるんですかね」
「知らん」
「でも、ああいうもんでしょう、あれは」
「わからん」
沖田はそれきり黙ったまま、もう一度首をかしげた。
斎藤は何も言わず、糸子の手もとを見ていた。袴を寄せた手と、腰を下ろす前に一度だけ椅子の脚の位置を確かめた目の動きを、この男は見逃していない。
座敷の端で、正木が目を瞬いていた。
語学所の書庫には、英国から入った洋書が幾冊かある。その一冊に、婦人が椅子に掛けて客を迎える挿絵があった。背を伸ばし、膝の上で手を重ねている。
(絵と、同じじゃ……)
京の姫君が、なぜこうも椅子に慣れておられるのか。正木には分からないまま、もう一度、深く頭を下げた。
戸口の外で、高瀬だけが懐の時計の蓋を一度開けて閉じた。居留地の商館で異人の婦人が坐るのを見慣れているこの男は、何に驚けばよいのか分からないという顔をしていた。
「善次郎」
「は、はい」
「よう揃えてくださいました」
「……恐れ入ります」
頭を下げた善次郎の顔は、まだ少し拍子抜けしていた。
*
近藤が、戸口で膝をついた。
「守りの配置を、申し上げます」
「お願いいたします」
「客殿の内は、某と総司、斎藤。山門と参道に、二人ずつ置きまする。寺の外は、片岡が取扱所の者と回っております」
近藤は、そこで一度言葉を切った。
「代理公使の一行の迎えは、永倉が受け持ちます。堀川の橋のたもとで待ち受け、寺まで付いて参ります。英国の護衛と永倉の手の者は、客殿の外に留め置きまする」
「承知いたしました」
近藤は頭を下げたまま、少し間を置いた。
「姫様」
「はい」
「絵図のとおりに」
糸子は頷いた。
「はい。わかっておりまする」
昨夜、近藤が言葉を受け止めたように、今朝は糸子が言葉を受け止めた。
近藤は何も言わず、膝で下がって戸口の脇へ控えた。
次の間の襖のところで、葵が膝を折っていた。
「葵は、こちらに控えております」
「お願いね」
暮れの談判の日も、葵は次の間から先へ入らなかった。
「お茶は、お客様がお掛けになる前に、お出ししてよろしゅうございますか」
「ええ。わたくしの前に一つ、向こうに二つ。置いたら、すぐに下がってくださいまし」
「はい」
葵はそれ以上訊かなかった。後ろで小夜が、今の言葉を口の中で繰り返していた。
善次郎が、座敷の脇の畳を手で示した。
「手前どもは、こちらに控えます。近藤様方は、戸口に近いほうへ。正木殿は、端へ」
「はい」
近藤は戸口から座敷を一度見渡し、卓と椅子と脇の畳との間合いを目で測った。それから大柄な体を戸口寄りの畳へ移し、沖田と斎藤を両脇に坐らせる。三人のうち誰が立っても、卓まで二歩で届く。
正木は、指された端へ下がって膝を折った。この客殿で異人の言葉が分かるのは、自分と姫君の二人だけである。そのことがまだ腹に落ちていないらしく、膝の上の手を何度も握り直していた。
糸子は椅子に掛けたまま、目を閉じた。
江戸の抽斗に置いてきた三枚の紙を、頭の中で上から下まで辿る。昨夜、縁で辿ったのと同じ順である。
一枚目の終わりまで来て、目を開けた。
日は、まだ高くなかった。
三
堀川は満ち潮で、水が岸の石垣の半ばまで上がっていた。
橋の本村側のたもとに永倉新八が立ち、その後ろに隊士が四人控えている。いずれも羽織袴に大小を差した、武士の身なりだった。
野村彦四郎は四人の端に立ち、橋の向こうを見ていた。
橋を渡れば居留地である。白い壁と硝子の窓が並ぶ通りが、ここからでも見える。旭狼衛はその中へ入らない。入れば顔を覚えられる、と近藤は言った。だからここで待つ。
前に立つ永倉の背中は、羽織の上からでも肩と胸の厚みが分かった。立っているだけで、往来の者が橋の端へ寄って通っていく。
(異人の目も、まずあの背中へ向く)
野村はそれを勘定に入れていた。英国の護衛がまず見張るのは、いちばん強そうな者である。永倉が前にいるかぎり、後ろの四人には目が来にくい。
「彦さん」
隣で、小田原幾平が小声で言った。
「なんだ」
「来るかね、そろそろ」
「刻限には、まだ間がある」
「そうか」
小田原は丸い顔を橋の向こうへ向けたまま、懐に手を入れた。
野村は、その手首を押さえた。
「出すな」
「まだ何も出しちゃいねえよ」
「出すつもりで手を入れたろう」
「……触っただけだ」
小田原の懐には、英語の単語を聞き覚えた音のまま仮名で書き付けた、小さな冊子が入っている。姫様の警護に付いた折に二人でこっそり英語を習いはじめてから、小田原はそれを肌身離さず持ち歩いていた。
「今日だけは、懐に手を入れるな。異人の前で、英語を書いた帳面なんぞ落としてみろ」
「落とさねえよ」
「落とす。おまえは、慌てると何でも落とす」
小田原はむっとした顔をしたが、懐から手を抜いた。
「近藤さんは、知らねえんだよな」
「知らん」
「おれたちが英語をかじってるってことを」
「声が大きい」
野村は永倉の背中を見た。永倉は橋の向こうを見たまま動かない。聞こえているのかどうか、野村には分からなかった。
「いいか、幾平」
「うん」
「向こうが何を喋っても、顔に出すな。聞こえても、聞こえねえ顔をしてろ」
「分かってるよ」
「分かってねえから言ってる。おまえは、知ってる言葉が出ると目が丸くなる」
「……なるか?」
「なる」
小田原は、自分の頬を両手で一度押さえた。
「おれたちが英語を解すると知れたら、向こうは口を閉じる。そうしたら、何も拾えねえ。聞けなきゃ、おれたちがここにいる意味がねえ」
「意味…か」
「そうだ」
小田原はしばらく黙って橋の向こうを見ていたが、やがて、ぽつりと言った。
「彦さん。おれたちの英語、通じると思うか」
「通じるかどうかは、どうでもいい」
「どうでもいいのか」
「今日は喋らねえんだ。聞くだけだ。半分分かりゃ上等だ」
「そうか……」
「半分も分かりゃしねえかもしれん。それでも、何もねえよりはましだ」
小田原は、それで納得したらしく頷いた。
自分たち二人が、なぜ今日の迎えに入ったのか。野村は聞かされていない。永倉に名を呼ばれ、「付いてこい」と言われただけである。永倉が二人の英語を知っているのかどうかも分からない。だから、考えないことにしていた。
小田原は、覚えた言葉を口に出して確かめたがる男だった。道を歩いていても、看板の横文字を見つけると小声で読んでみせる。野村はその逆で、聞いた音を頭の中に並べ、どこで切れてどこで上がるかを確かめるほうが性に合う。同じものを同じだけ習って、覚え方はまるで違った。
今日にかぎっては、小田原のやり方は危ない。それはもう、さっき三度言ってある。
空の荷車が一台、居留地から橋を渡ってきた。車輪の音が橋板に響き、遠ざかっていく。
その音が消えたところで、永倉が顎を上げた。
「来たぞ」
居留地の通りの角から、蹄の音が出てきた。
馬が三頭。先頭の馬に背の高い異人が乗り、その後ろに細身の異人、三頭目に鬢の白い異人が続く。馬の口は、日本人の別当が一人ずつ取っていた。軍服の兵が四人、二列になってその後ろを歩いてくる。
馬は並足だった。歩く兵が遅れない速さである。
四
一行が橋を渡りきると、永倉が一歩前へ出た。
三頭目の馬から、鬢の白い異人が降りた。四十がらみに見える。手綱を別当に預けると、永倉の前へ進み出た。
「こちらは、英国代理公使、ニール様の御一行になります。増徳院まで、お案内を願いたい」
日本の言葉だった。ところどころ、音の置き方がこちらと違う。英国の通詞である。
「承っております。旭狼衛の永倉と申す。寺までお供つかまつる」
「頼みます」
挨拶は、それだけだった。通詞が振り返って英語で短く告げると、背の高い異人は馬上で頷き、永倉の顔を一度だけ見た。
野村は、通詞の口元を見ていた。
(この男は、日本の言葉が分かる)
通詞なのだから、当たり前である。ただ、その意味を野村はいま勘定し直した。英国の側に日本語の分かる者がいる以上、こちらは日本語でも余計なことを言えない。
小田原が何か言いたげに口を開きかけた。野村はそちらを見ずに、小さく首を振った。小田原は口を閉じた。
通詞が馬に戻り、一行が動き出した。
永倉が先に立ち、通詞の馬、細身の異人の馬、背の高い異人の馬と続いて、四人の兵が二列で最後尾を歩いた。旭狼衛の四人は、一行の左右と後ろに散った。
細身の異人は、道に迷う様子がなかった。橋のたもとから本村の家並みへ入る角でも、坂の手前で曲がる道でも、先を行く永倉より半歩早く、馬の首を行く先へ向けている。
"I have walked this path before."
(この道を、前に歩いたことがあるな)
銀縁の眼鏡をかけた、若い異人だった。
*
坂に掛かったところで、背の高い異人が口を開いた。
小田原幾平は、顔を前に向けたまま耳だけをそちらへ向けた。彦さんに言われたとおりにする。
背のほうから、潮の匂いの混じった春の風が坂を上がってきた。軒先で洗い物を干していた女が、異人の一行に気づいて手を止め、すぐに家の中へ引っ込んだ。戸の隙間から、子供の顔が二つ覗いている。
背の高い異人は、五十くらいに見えた。額が広く、髭が顎のまわりを覆っている。乗り方は侍と違うのに、どこか侍に似ていた。鞍の上で、腰から上が揺れない。
"Tell me again, Elliot. What exactly is her standing at the Court?"
「もう一度聞かせろ、エリオット。あの姫は、朝廷で、正しくはどういう立場にある」
「コート」という音が、小田原の耳に引っかかった。
(コートってのは、たしか……)
懐の冊子の三枚目あたりに書いた覚えはある。何と書いたかが出てこない。
細身の異人の答えは長く、小田原にはほとんど拾えなかった。
"And how near does she stand to the Mikado himself?"
「では、帝その人に、どれほど近い」
ミカド。
これは分かる。
小田原の目が丸くなりかけたところへ、野村の肘が脇腹に小さく入った。
小田原は前を向いたまま、二度瞬きをした。目が元に戻ったかどうか、自分では分からない。
(ミカドって言ったぞ、いま)
細身の異人の答えは、また長かった。背の高い異人は、それを聞きながら一度だけ笑った。
*
野村彦四郎は、言葉を一つずつ追うのをやめていた。
追っても半分も分からない。だから文の形を聞いた。どこで声が上がり、どこで切れるか。背の高い異人の言葉は、たいてい終わりで声が上がる。
(問うている)
声を発しているのは、背の高い異人で、答えているのは細身の異人だった。上の者が問い、下の者が答えている。
"Is she of any use to us, do you think? Or is she merely a clever child?"
「あの姫は、我々の役に立つと思うか。それとも、ただの賢い子供か」
ユース。チャイルド。
拾えたのはその二つだけだが、文の形から、これも問いだと分かった。
野村は、拾った言葉を頭の中で並べた。コート。ミカド。ユース。それに、さっきから何度も出ているプリンセス。
姫様が朝廷でどういう立場にあるのか。帝にどれほど近いのか。英国にとって使える相手なのか。
(それを、確かめに来たんだな)
答えのほうは拾えなかった。細身の異人の答えはたいてい長く、言葉が続いていて、野村の耳では切れ目が分からない。
背の高い異人が、今度は少し声を落として言った。
"With America tied up in her war, we shall not get a better chance than this."
「アメリカが戦で手を塞がれている間に、これ以上の機はあるまい」
アメリカ。ウォー。
二人の耳に、同じ二つが入った。二人とも、目を合わせなかった。
細身の異人は短く答え、少し間を置いて、もう一言足した。
"I confess I still do not know what she will ask of us, sir."
「白状いたしますと、あの姫君が何を求めてくるのか、いまだに分かりかねております」
背の高い異人は、それには答えず、喉の奥で笑った。
この言葉も、野村には拾えなかった。
永倉は一度も振り返らなかった。坂の途中の辻で足を止めて左右の路地を見ては、また歩き出す。そのあいだ、英国の兵は四人とも永倉の背中から目を離さなかった。野村の勘定どおりで、旭狼衛の四人のほうは一度も見ていない。
*
坂を上りきると、山門が見えた。門の脇に旭狼衛の者が二人、奥の参道にも二人立っている。
小田原が、横を歩く野村の顔を見た。野村も、小田原の顔を見た。
二人とも、何も言わなかった。拾ったものを突き合わせるのは、この御役目が済んでからである。英国の通詞の馬が、三歩先を歩いていた。
山門の前で、三人は馬を降りた。手綱は別当が受け取り、馬を門の脇へ引いていった。
一行は、山門をくぐった。
五
山門をくぐりながら、ジュリアン・エリオットは門の脇の二人を数えた。
二人とも腰に刀を差している。こちらを見てはいるが、目を合わせてはこない。見ているのは、こちらの手もとと足もとだった。参道の途中に、もう二人いる。
ジュリアンは先日、この寺までの道を自分で歩いた。そのときは門にも参道にも、誰も立っていなかった。
今日は、坂の下の茶店の床几に、商人の身なりの男が一人腰を掛けていた。刀は差していない。それでもジュリアンが坂を上がるあいだ、その男の目は一度もこちらから外れなかった。
橋を渡ってからは、道の両脇にも日本の侍がついていた。先頭の大柄な男のほかに、後ろと左右に四人。丸い顔の男と、切れ長の目の男は、ジュリアンが目を向けるたびに別のほうを見ていた。
幕府の役人に付いてくる護衛なら、ジュリアンは何度も見ている。たいてい行列の形を崩さず、前だけを見て歩く。今日の者たちは形を作らずに散っていて、そのくせ誰かが辻で止まれば、残りも同じだけ間を詰めた。
暮れの書院を思い出した。外国奉行の役宅で、門に立っていたのは役宅の門番である。姫君の身を守るための者が書院の外に並んでいた覚えはない。
今日は、寺ごと囲われている。
"Merely by changing her ground, that princess can move men of such caliber..."
(あの姫君が、場所を変えただけで、これだけの者を動かせる)
ジュリアンは、それを頭の中で書き付けた。
参道の先、本堂とは別に客殿が建っている。先日見たときは閉てられていた雨戸が、今日はすべて開けてあり、縁に人が一人膝をついて待っていた。
客殿の前で、永倉と名乗った侍が足を止めた。
通詞が振り返った。
"Colonel. The Japanese escort will remain here, they say. They ask that our men do the same."
「中佐。日本の護衛はここに残ると申しております。こちらの兵も同じくしてほしいと」
ニールが顎で示すと、四人の兵は客殿の脇へ退き、永倉たちの並びから少し離れて立った。
縁へ上がる前に、通詞が靴を脱ぐよう言った。ニールは黙って縁に腰を掛け、乗馬の長靴を脱いだ。この国の家に上がる作法は、この人も承知している。
縁に膝をついていた商人の身なりの若い男が、立ち上がって戸に手を掛けた。
戸が開いた。
*
最初に目に入ったのは、椅子だった。
畳を敷き詰めた日本の座敷で、奥の床の間に軸が一幅掛かっている。その真ん中に、脚の高い卓と椅子が据えてあり、椅子の下には赤い敷物が敷いてあった。
暮れの書院で、ジュリアンが坐ったのは床几である。異人は床几に坐るものと、日本の役人が整えた座だった。
ここにあるのは、居留地の商館の応接間と同じ、背の付いた椅子である。英国の応接間の一角を切り取って、日本の座敷に置いたような眺めだった。
卓の向こうに、こちらを向いた椅子が一脚ある。
そこに、少女が坐っていた。
暮れの書院と同じ、古い型の装束である。幾重にも重ねた衣の上に、もう一枚を羽織っている。髪は結い上げずに背へ長く垂らし、袴の裾は椅子の前の敷物に流れて溜まっていた。
少女は椅子の背に寄りかからず、膝の上で両手を重ねて、こちらを見ていた。
その坐り方を、ジュリアンは知っていた。本国の、誰の屋敷だったかはもう思い出せない客間で、ああいう坐り方で客を待つ婦人を何度も見てきた。
古い日本の装束と、英国の客間の坐り方が、一人の少女の上で継ぎ目もなく重なっていた。
座敷の脇の畳には、日本人が五人坐っていた。戸口に近いほうに侍が三人、その一人は顎の張った大柄な男である。少し離れて商人の身なりの男が一人、座敷の端に若い侍が一人。
ジュリアンの前で、ニールの足が止まった。
半歩だった。踏み出しかけた足を、一度だけ止めた。この上官の足が途中で止まるのを、ジュリアンは初めて見た。
止まった足は、すぐにまた動いた。
ニールが、座敷へ進み出た。
六
エドワード・セント・ジョン・ニールは、卓の手前で足を揃えて一礼した。
腰から上を一息に折り、一息に戻す。軍隊で身についた礼で、日本の役人を相手に公使館で幾度もやってきた。
顔を上げると、少女はこちらを見ていた。立ち上がらず、坐ったまま、わずかに顎を引いただけである。
ニールは、それを無礼とは取らなかった。この少女の家がこの国でどういう家なのかは、暮れにジュリアンから聞いている。英国で言えば王家の姫で、代理公使が入ってきたからといって席を立つ道理はない。
姫が口を開いた。
"Welcome, Mr. Neale. I am glad that you have come."
「ようこそお越しくださいました、ニール殿。お目にかかれて嬉しゅうございます」
流暢な英語だった。
話すことは、ジュリアンの報告で知っていた。だが、耳で聞くのは別だった。言葉に迷いがなく、抑揚は本国の育ちのよい婦人に近い。
"The honour is mine, my lady."
「光栄に存じます」
少女の目が、ニールの後ろの通詞へ動いた。
"Mr. Neale. Since you and I may speak to one another without assistance, perhaps your interpreter would care to rest outside. The morning has been long, and I am sure he would be glad of a rest."
「ニール殿。わたくしたちは、人を介さずに話ができましょう。通詞の方には、外でお休みいただいてはいかがでございましょう。朝から、さぞお疲れでございましょうから」
ニールは、すぐには答えなかった。
通詞を出せば、脇の侍たちが日本語で何を囁き合っても、こちらには分からなくなる。ただ、この座で口をきくのは姫ひとりで、英語で直に話せる。ここで断れば、姫君の言葉を通詞なしでは信じぬと言うのと同じことになる。
どちらが損かは、すぐに数えられた。
"A kind thought. I accept it."
「お心遣い、ありがたく受けよう」
ニールが短く告げると、通詞は一礼して客殿の外へ下がった。戸の外で、床板が一度軋んだ。
"Elliot will remain, if you have no objection. He keeps my record."
「エリオットは残してよろしいか。わしの記録を取る者でな」
"Of course. Mr. Elliot and I are already acquainted."
「もちろんでございます。エリオット殿とは、すでに存じ上げる仲でございますから」
姫がジュリアンに目を向けて、わずかに微笑んだ。ジュリアンは頭を下げ、上げるまでに少し間を置いた。
*
姫君が、あらためてニールを見た。
"I trust that your health has by now been fully restored, Mr. Neale."
「御体は、もうすっかり本復なされたことと存じます」
書状の一行目と、同じ言葉だった。
ニールは、喉の奥で笑いそうになるのを抑えた。
"I am, thank you. I am grateful for your kind concern."
「おかげさまで。お気遣いに感謝する」
返書に書いたのと、同じ言葉で返した。
姫の目が、ニールの顔の上で止まった。額から頬、口もとへと動いて、また目へ戻る。病の名残があるかどうかを見ているのだと、ニールには分かった。
そして、見るだけ見て、何も言わずに目を外した。
"She doesn't believe a word."
(信じてはおらんな)
信じていないことを隠しもせず、それでいて咎めもしない。この件を手の内に置いている。
ニールは背筋を伸ばした。詫びに来たのである。
詫びるべきことがあるなら、座が温まる前に済ませる。そうしてしまえば、そこから先は対等に話ができる。軍人のやり方で、北京でも地中海でも、ニールはそうしてきた。
"My lady. Before anything else, I must——"
「姫君。何よりも先に、わしは――」
姫が、膝の上からほんの少しだけ片手を上げた。それで、ニールの言葉が止まった。
"Please, Mr. Neale. Do be seated first."
「どうぞ、ニール殿。まずはお掛けくださいませ」
姫君は、卓の向こうの椅子を手のひらで示した。
"Your apology I shall hear later, at my leisure."
「お詫びは、後ほどゆっくり伺いまする」
穏やかな顔だった。椅子を勧めているだけの顔である。
だが詫びを後に回せば、詫びが済まないまま座が始まる。何を話していても、こちらの手の内には、まだ果たしていないものが一つ残る。
暮れに、ジュリアンが書院で同じ目に遭っている。詫びの品は後日あらためて、と言われ、いつ何をとは言われなかった。
同じ手だった。
"She has already taken the upper hand in the seating arrangement."
(座の順を、先に握られたか)
ニールは椅子の背に手を掛けた。
"As you wish, my lady."
「仰せのままに」
椅子を引いて腰を下ろすと、ジュリアンが右隣に掛け、卓の端に手帳を置いてペンを出した。
卓の上には、いつの間にかカップが三つ置かれていた。姫君の前に一つ、こちらに二つ。こちらの椅子は、三脚ある。言葉を交わしているあいだに、次の間から女が一人入ってきて置き、すぐに下がっていったものである。
卓を挟んで、ニールは姫君と向き合った。
近い。暮れの書院は机が二つ向かい合わせだったとジュリアンは言っていたが、ここの卓は一つで、手を伸ばせば向こうのカップに届く。
脇の畳の侍たちが、こちらを見ていた。大柄な男と、若い男と、痩せた男。英語は分からないはずである。三人とも言葉ではなく、こちらの声の高さと姫の顔を見ていた。
"I was rather eager to see how she would pursue me."
(どう求めてくるか、見たいと思っておった)
ニールは、カップには手を伸ばさなかった。
"And this is all before she even makes her demand?"
(求める前から、これか)
「楽しみだ」とジュリアンに言ったのは、ついこのあいだである。その楽しみが、少し形を変えはじめていた。
七
少女が、膝の上の手を重ね直した。
"Mr. Neale. Before we begin, there is something I should like to say."
「ニール殿。始める前に、申し上げておきたいことがございます」
"Please."
「どうぞ」
"I was grieved to learn of the death of His Royal Highness the Prince Consort. I am told that Her Majesty the Queen has mourned him deeply ever since. I pray that she may find some comfort in her sorrow."
「王配殿下が薨去なされたと伺い、心を痛めておりました。女王陛下におかれましては、それ以来、深く喪に服しておられると聞き及びます。陛下のお悲しみが、少しでも和らぎますよう、お祈り申し上げます」
ニールは、すぐには答えられなかった。
アルバート公が亡くなったのは一昨年の冬で、報せが届いたとき、ニールはまだ清国にいた。本国の女王はいまも喪を解かず、人前に出るのを避けておられると聞いている。英国の者なら、誰でも知っていることである。
だが、目の前にいるのは、遥か極東にいる…日本の姫君だった。この国で英国の王配の名を知る者が何人いるか、ニールには見当もつかない。幕府の役人でさえ、英国の女王の名を正しく言える者は、ごくわずかしかいなかった。
この姫は王配という呼び名を正しく使い、女王が喪を解いていないことまで知っている。
"Just how deeply has she seen into things?"
(どこまで、届いておる)
英国の宮中の事情を、どこから仕入れているのか。仕入れ先があるなら、そこからほかの話も流れてきているはずだった。英国の議会のこと、本国の訓令のこと、この国に置いた英国の兵の数のこと。
知っていることを先に見せられたぶん、見せられていないものの大きさが測れなくなった。
ニールは、背筋を伸ばし直した。
"You are very kind, my lady. Her Majesty would be touched to hear it. I shall see that your words reach her."
「ご丁寧に痛み入る。陛下も、お聞きになればお心を動かされよう。お言葉は、必ず本国へ伝える」
そこで一度、言葉を切った。
"By the way, Princess... wherever did you happen to hear of such a matter?"
「ところで、姫君。そのことを、どちらでお聞きになられましたか」
何気ない問いの形にした。
少女は微笑んだ。
"That is a secret, Mr. Neale."
「それは、極秘でございます」
微笑んだまま、それ以上は言わない。ほのめかしもなかった。
ニールは若いころ戦場にいて、その後は外交の場にいた。
どちらにも、話の出所を明かさぬ者はいた。明かさぬ理由の多くは、出所を守るためである。問い詰めれば、相手は次から話さなくなる。一度閉じた口を、再び開かせることは難しい。
"So, she has a cause she must protect..."
(守るべき筋を持っておる、ということか)
それ以上は問わなかった。
"Then I shall not press you."
「では、これ以上は伺うまい」
"Thank you, Mr. Neale."
「ありがとう存じます」
右隣で、ジュリアンのペンが一つの字の途中で止まっていた。ニールが目の端で見ていると、ペン先はまた動き出した。
*
脇の畳で、近藤は膝の上の拳を動かさずにいた。
異人の言葉は、一言も分からない。分かるのは、姫様が何か言ったあと、異人の顔つきが変わったことだけである。座敷へ入ってきたときから顔をほとんど動かさなかった背の高い異人の目が、さっき一度だけ細くなった。
姫様の横顔を見ると、微笑んでいた。
端の正木の背が、少しずつ前へ傾いている。近藤は目で制しかけて、やめた。あの若者には、何が話されているのか分かっているのだ。
八
ニールはカップを取った。
茶は、まだ温かかった。一口飲んで、卓へ戻す。日本の茶にも、もう慣れた。
"I must say, my lady, your English is remarkable."
「それにしても、姫君。見事な英語だ」
世辞ではなかった。
"Where did you acquire such learning? To be perfectly honest... I have never met anyone in this country who speaks with such eloquence as you, Princess."
「どちらで学ばれた。正直に申せば、この国で、姫君ほどに話す者に会ったことがありません」
この姫君が何者かを知るには、どこで何を学んだかを訊くのが早い。師が分かれば、その人物がどういう筋の者かも分かる。
姫君は、ためらわなかった。
"I had two masters. One was a man named Murata Zoroku. He mastered Dutch Studies entirely on his own, and went on to master English as well."
「師が二人おりました。一人は、村田蔵六と申す方でございます。蘭学を独りで修め、それから英語を修めた者でございます」
"And the second?"
「もう一人は」
"The other was Nakahama Manjiro. As a young boy, he was shipwrecked at sea and rescued by an American whaling ship. He lived in America for about ten years before returning to our homeland."
「中浜万次郎と申します。幼いころに海で遭難し、アメリカの捕鯨船に拾われた方にございます。十年ほどアメリカで暮らして、国へ帰ってきた者です」
師の名を二人とも出し、どういう者かまで言い添えた。問うた以上のことを返している。
王配の死をどこで聞いたかは、一言で伏せた。英語を誰に習ったかは、惜しまずに出した。
この姫君は、情報の出し入れを自分で決めている。
"She’s the one holding all the cards... That girl is in complete control."
(主導権を握っているのは、あの娘だ)
問題は、どこから先を伏せるのか、その線がこちらには見えぬことだった。
"Your teachers have done well by you."
「よい師に恵まれたな」
"I believe so."
「わたくしも、そう思っております」
ニールは座敷を見回した。畳、床の間の軸、開け放った障子の向こうの庭。それに卓と、椅子と、赤い敷物。
"Then may I ask one thing more. Why this temple?"
「では、もう一つ伺おう。なぜ、この寺を選ばれた」
寺の名を書状で読み、場所をジュリアンから聞いたとき、ニールは自分で答えを出していた。公使館でも、向こうの役所でもない。どちらのものでもない場所を選んだのだ、と。
それを、少女本人の口から確かめたかった。
少女は座敷の中を一度だけ見渡した。
"Today, this hall is the seat of the Imperial Court."
「今日、この客殿は、天朝の座でございます」
"It is not your legation, Mr. Neale. Nor is it an office of the Shogun's government."
「ニール殿の公使館でもなく、御公儀の役所でもございませぬ」
答えは、それだけだった。
ニールは黙って頷いた。自分で出した答えと、同じであった。
どちらのものでもない場所が、今日にかぎって朝廷の座になっている。
その座へ、英国の代理公使は自分から出向いてきたのである。
ニールは、あらためて姫君を見た。ジュリアンの報告では、十四か十五である。
その年の娘が寺を一つ借り、椅子を揃え、門に侍を立て、こちらの通詞を外へ出し、詫びを後へ回した。座の形も話の順も、この姫が組んでいる。年に見合わない手つきだった。
"Very well."
(よかろう)
ここまでは、この姫が座を組んだ。ここから先は、こちらが問う番だった。
九
ニールは、卓の上で指を組んだ。
ジュリアンが、ペンを持ち直した。
"My lady."
「姫君」
"Yes, Mr. Neale."
「はい、ニール殿」
"Last December, you sat at the table with my secretary, in the house of the Commissioners for Foreign Affairs."
「昨年の暮れ、外国奉行の役宅で、姫君はわしの書記官と同じ座に着かれた」
少女は黙って聞いている。
あれは幕府が開いた談判で、外国奉行の座だった。そこに朝廷の使者が坐っていた。ジュリアンの報告を聞いたときから、ニールはそこが腑に落ちていない。幕府が呼んだのか。朝廷が送ったのか。それとも、この少女が自分で坐ったのか。
誰がこの姫を動かしているのかが分かれば、この人物がどこまで動けるのかも分かる。
"I should very much like to know——who was it that sent you there?"
「ぜひ伺いたい。――あの座へ姫君を出したのは、どなたか」
姫は、すぐには答えなかった。
膝の上の手が、卓のカップのほうへ伸びた。指はカップに触れる手前で止まり、膝の上へ戻った。
座敷が、静かになった。
脇の畳で、近藤が顔を上げた。言葉は分からない。それでも、異人の声の調子がさっきまでと違うことは分かった。
糸子は、ニールの目を、まっすぐに見た。
第二百二十九話 了
【椅子に座るという近代化――幕末日本が変えた身体感覚】
幕末から明治にかけて、日本は政治、軍事、外交、社会制度のあらゆる面で大きな変化を経験しました。
しかし、近代化とは、条約を結んだり、軍艦を造ったりするような目に見える変化だけではありません。もっと身近なところにも、人々の生活や価値観を変える大きな転換がありました。
その一つが、「椅子に座る」という習慣です。
現在の日本では、椅子に座ることは当たり前の生活の一部です。学校でも職場でも家庭でも、机と椅子を使うことに違和感を覚える人はいません。
しかし幕末の日本人にとって、西洋式の椅子は決して自然な家具ではありませんでした。それは単に新しい道具が入ってきたという話ではなく、長い時間をかけて身についた身体の使い方そのものを変える出来事だったのです。
江戸時代の日本では、生活の基本は床座でした。畳や板の間に座り、正座や胡坐で過ごす。その姿勢に合わせて、着物や帯、礼儀作法も形作られていました。
日本人の身体は、床に座る生活に合わせて整えられていたのです。
そのため、幕末に外国人外交官との交渉の場などで、初めて西洋式のテーブルと椅子を前にした武士や役人が戸惑ったのは当然でした。
足をどこに置けばよいのか。背もたれに寄りかかってよいのか。どの姿勢が正式な作法なのか。
現代の私たちには簡単に思えることでも、当時の人々にとっては新しい文化を一から学ぶようなものでした。
もちろん、日本に椅子そのものが存在しなかったわけではありません。朝廷には古くから倚子と呼ばれる椅子状の調度品がありました。
ただし、それは日常的に使う家具ではありません。天皇や高位の公家が儀式で用いる、権威や格式を示す特別な道具でした。
つまり、日本にも「腰掛けるもの」は存在していた。しかし、西洋のように日常生活で椅子に座り、机に向かい、足を下ろして生活する文化とは大きく異なっていたのです。
この変化に特に戸惑ったのが、公家社会でした。
公家にとって、畳の上での座り方や所作は、単なる生活習慣ではありませんでした。長い歴史の中で受け継がれてきた格式そのものであり、自分たちの身分や文化を表す重要な要素だったのです。
どのように座るのか。
どのように頭を下げるのか。
どのように振る舞うのか。
そうした細かな作法の積み重ねが、朝廷文化を形作っていました。
そのため、明治維新後に外国との外交儀礼を整えるため、洋式の椅子や机が導入されていく過程では、単なる「便利な家具」として受け入れることはできませんでした。
椅子に座るということは、千年以上続いた「正しい身体のあり方」が変化することでもあったからです。
この変化を象徴しているのが、明治初期の宮廷でした。
明治維新によって、日本は欧米列強と対等に向き合う国家を目指すことになります。そのため、外交の場では国際社会に通用する形式も必要になりました。
一方で、日本には長い歴史を持つ宮廷儀礼があります。
伝統を守るのか。
新しい時代に合わせて変えるのか。
明治初期の人々は、その間で試行錯誤を重ねました。
これは単純な「西洋化」ではありません。
日本の伝統を残しながら、近代国家として必要なものを取り入れる。
その調整こそが、明治という時代の大きな課題でした。
そして、椅子文化が本格的に広がるうえで大きな役割を果たしたのが、服装の変化でした。
洋服は、椅子に座る生活を前提として作られています。ズボンを履き、腰掛け、机に向かう。身体の動きそのものが、床座を前提とした和服の生活とは異なります。
一方で、着物や公家装束は、畳の上に座った姿で最も美しく見えるように作られていました。
つまり、椅子に慣れるためには家具だけを変えればよかったわけではありません。
服装。
生活習慣。
礼儀作法。
人々の身体感覚そのものを、少しずつ変えていく必要がありました。
こうして考えると、「椅子に座る」という一見小さな変化も、日本の近代化を象徴する出来事だったことが分かります。
近代化とは、鉄道を敷き、軍艦を造り、新しい制度を作ることだけではありません。
人々がどのように座るのか。
どのように服を着るのか。
どのように人と向き合うのか。
日常の何気ない動作まで変化していくことでした。
幕末から明治にかけて、日本人が経験した変化は、政治や外交だけではありません。
椅子に座るという小さな行為の中にも、古い時代から新しい時代へ進もうとした、日本という国の大きな転換が刻まれていたのです。




