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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百二十八話「糸子のお嫁入り編―ちょっと、揉め事」

一

 弥生十四日の東海道は、朝から人の足が絶えなかった。


 品川を出ると、薄く霞んだ空の下で、左手に海が見え隠れした。鈴ヶ森を過ぎ、大森を抜けるあいだ、道の脇には麦の畑が続いている。穂はまだ青く、海から風が来るたびに、畑の端から順に同じ向きへなびいた。


 荷を背負った行商人、俵を馬の背に積んだ馬子、笠を傾けた旅の僧。上る者と下る者が、道の真ん中で肩を引き合ってすれ違っていく。


 乾いた土には、人馬の踏み固めた跡と、荷車の浅い轍が幾筋も残っていた。


 一行は、その流れから少しだけ間を空けて進んだ。駕籠の前後を歩く旅装の者たちの間合いは、品川を出てから一度も崩れていなかった。


 川崎の手前で、駕籠が二度目に下ろされた。


 茶店の縁台には、旅装の旭狼衛の者たちがばらばらに腰を下ろした。一つの縁台に固まる者も、往来に背を向けて坐る者もいない。


 葵が湯呑みを二つ受け取り、糸子と小夜の駕籠へひとつずつ運んだ。


「姫……お嬢様。白湯でございます」


「ありがとう存じます」


 糸子は簾を指一本ぶんだけ上げて、湯呑みを受け取った。


 軒下では、近藤が懐から絵図を出していた。品川で一度、ここで一度。休みはどちらも、絵図に印を打ったとおりの場所で取っている。近藤は指で道筋をなぞり、六郷川の印で指を止めた。脇には細かい字の書き添えがある。渡しの舟に乗る順まで書いてあることを、糸子は江戸でその絵図を見せられて知っていた。


 六郷の渡しは、その先にあった。


 川幅は広く、水にはまだ春の濁りが残っている。舟着き場には旅人と荷が溜まり、船頭が声を張って乗る順を割り振っていた。「駕籠は畳まず、そのまま載せるのか」「人足は舟に乗るのか」と担ぎ手の一人が訊き、船頭は面倒そうに手を振っている。


 近藤はそのやり取りに加わらず、手代の身なりをした者に顎で合図をした。


 一艘目に旅の者三人と挟箱(はさみばこ)。二艘目に駕籠二挺と葵、小夜。三艘目に糸子の駕籠と、沖田、斎藤、近藤。


 何か言いかけた船頭に、近藤が三艘ぶんの船賃を先に渡した。船頭は口を閉じて棹を取った。


 舟が岸を離れた。簾越しに川面が光り、前の舟で小夜の駕籠がわずかに揺れている。沖田は舟べりに片膝をついて川上を見ており、斎藤はその反対側で、渡ってきた岸を見ていた。


(本当に、書いたとおりに乗せましたね)


 糸子は膝の上で手を重ね、舟の揺れに身を預けた。


  *


 神奈川宿を抜けて横浜道へ折れたのは、昼をだいぶ回ったころである。


 道は細く、荷車が上ってくるたびに一行は脇へ寄った。上る車も下る車も、積んでいるのは俵ばかりだった。


 小夜は駕籠の簾の端を指で少しだけ持ち上げては、また下ろしていた。


 見てよいとも、見てはならぬとも言われていない。持ち上げるたびに、知らない匂いが入ってきた。潮と馬と、何の匂いとも言えない油の匂いである。


 馬に乗った異人が二人、一行を追い越していった。帽子をかぶり、黒い上着の裾を馬の背に垂らしている。担ぎ手が足を緩めて駕籠を道の端へ寄せるあいだ、小夜は蹄の音が遠ざかるまで簾を持ち上げたままでいた。担ぎ手は誰ひとり振り返らない。この道では見慣れたものらしかった。


 切通しを抜けたところで駕籠が少し傾き、小夜は簾を下ろすのを忘れた。


 目の前が、一度に開けていた。


 入江の向こうに、家並みが海へ向かって伸びている。瓦屋根と白壁がびっしりと詰まり、その先の水の上に黒い船が幾艘も浮いていた。帆柱が林のように立っている。江戸の海にはなかった黒煙が、薄く空へ伸びていた。


 口が開いていることに気づいて、小夜はそれを閉じた。


 坂を下るにつれ、軒の看板が目に入りはじめた。墨書きの屋号の隣に、ところどころ見たことのない形の字が並んでいる。曲がった線と丸い線が横に続き、読もうにも、どこから読めばよいのかさえ分からなかった。


 前の駕籠の簾も、少しだけ持ち上がっていた。糸子もまた、この町を見るのは初めてだった。


  *


 野毛の橋、太田の橋と渡れば、吉田橋である。


 橋のたもとには黒渋を塗った木戸門があり、門脇には番所があり、詰めた者が往来を改めていた。


 近藤が前へ出た。


「天朝物産会所、横浜取扱所の者にございます」


 番人の一人が、書き付ける手を止めた。


「ああ、あの異国文字の看板を掲げているところか」


「はい」


「後ろは、連れか」


「主家のお嬢様と、供の者にございます」


 番人は駕籠の列を見渡した。目が沖田の腰に行き、斎藤の腰に行き、近藤の顔へ戻る。主家の娘の供に侍が付くのは珍しいことではない。番人が顎で先を示し、それで済んだ。


二

 橋を渡ってすぐの一角に、その建物はあった。


 周りの商家より頭一つ高い三階建てで、通りに面した軒の上に、黒地に白く彫り込んだ横文字の看板が掛かっている。


 『Tencho Trading House』


 駕籠が止まった。


 予定では、ここは素通りである。取扱所の前を抜けて関内を南へ下り、堀川を渡って本村の増徳院へ入る。近藤の絵図にはここに印が一つあるだけで、それは片岡と落ち合い、寺までの道に変わりがないかを確かめるための印だった。


 店の脇の路地から片岡が出てきて、近藤に短く何か告げた。近藤が頷くと、片岡はまた路地へ戻った。


 駕籠が持ち上がりかけた。


「近藤殿」


 簾の内から、糸子が呼んだ。


「はっ」


 近藤が駕籠の脇に膝をついた。


「少しだけ、客として店を見とうございます」


 近藤は返事をせず、渋い顔になった。


「……ひ……糸殿。絵図には、ここで止まるとは書いてございませぬ」


「存じております」


「糸殿は、道中のことは、すべて某の差配に任せると仰せになりました。決まったとおりに動く、と」


「はい。申しました」


 糸子は簾を少しだけ上げた。


「決まったとおりに動くと申しましたから、こうしてお願いしております」


 近藤はしばらく黙っていた。


 日はまだ西の空の高いところにあり、夕七つまでには間がある。渡しの順を決めておいたおかげで、川で待たされずに済んだのである。近藤の見込みより半刻近く早い。その浮いた時を、糸子は店に使いたいと言っている。


 黙って駕籠を出させることもできたし、糸子はそれに逆らわないだろう。だからこそ、糸子は先に頼んでいるのだ。


 近藤は横目で店先を見た。


 人の出入りは多い。日本の商人が出ていき、入れ替わりに異人が一人入っていく。三階の窓が開いていて、人の頭が二つ動いていた。店の中にも外にも、片岡の手の者がいるはずだった。ここは天朝の店である。


 その店を、糸子は一度も見たことがない。横浜の値も店の者の名も、帳と書状で知っているだけだった。


 人の多い店に侍を何人も連れて入れば、かえって目に付く。


「四半刻にございます」


 近藤はそう言った。


「それを過ぎましたら、某がお迎えに上がります」


「ありがとう存じます」


「総司」


「はい」


「お嬢様に付け。店の中では、離れるな」


「分かりました。近藤さん」


 沖田の声が少し弾んだ。近藤はそれを聞かなかったことにして、立ち上がりかけた沖田の袖を取り、低く言った。


「異人が多い。目を離すなよ」


「はい」


 今度の返事は弾んでいなかった。


「斎藤」


 斎藤は名を呼ばれる前から近藤の脇へ下がっていた。駕籠の守りに残るということである。


 近藤は担ぎ手に指図して、駕籠を三挺とも店の並びの先、角を曲がった荷揚げ場の脇へ寄せさせた。店先からは駕籠の屋根しか見えない。


 沖田が駕籠の簾を上げた。糸子が草履に足を下ろすあいだ、沖田の目は店先ではなく往来に向いていた。荷車が一台、異人が二人、天秤を担いだ男が一人。それだけ見届けて、沖田は糸子の脇へ寄った。


 糸子が降りると、前の駕籠から葵が顔を出した。


 口が何か言いかけて動いた。店に寄るとは、出立の前夜にも今朝にも聞いていない。人の多い店で、異人もいる。主の着物の裾が、往来の土に触れていた。


 糸子が小さく頷いてみせると、葵は口を閉じて頭を下げた。


「葵殿と小夜殿は、駕籠の内でお待ちを」


 近藤の言葉に、葵は黙って駕籠の内へ戻った。


 小夜は自分の駕籠の簾の端から、店の看板と糸子の背中を見比べていた。さっき坂を下りながら見た、あの読めない字がここにもある。主はその下へ、平気な顔で歩いていった。


三

 店先には小僧が二人立っていた。


 一人は背が伸びかけで、もう一人はそれより少し小さい。年嵩のほうが、近づいてくる商家の娘と供の侍を見て、きちんと頭を下げた。


「おいでなさいまし」


 長松である。前掛けの紐がきっちりと結ばれていた。


「江戸から参りました。糸と申します。見物がてら、少し店を見せていただきとうございます」


「どうぞ、どうぞ。お品をご覧になるのは、ご遠慮なく」


 長松は隣の小僧の背を軽く押した。


「留吉。ご案内しな」


「へい」


 留吉が一歩前へ出た。


 十四の小僧で、目がよく動く。糸子の顔、着物の柄、後ろの沖田の腰の大小と順に見てから、愛想よく頭を下げた。


「ご案内しますんで。足もと、気をつけてくだせえ」


 糸子は留吉の左の袖に目をやった。袖はふつうに通っていて、前へ出した腕の振りにも障りは見えない。


 店に入ると、一階は広い板の間で、棚に見本の品が並んでいた。陶磁器、漆の器、茶葉の小箱。奥の壁際には浮世絵が何枚も吊るしてある。品ごとに小さな札が下がり、それとは別に、帳場の脇に大きな板が一枚立っていた。品の名と値が並んでいる。


 客は多かった。日本の商人が二人、帳場の手代と小声で話し込み、異人が一人、陶磁器の棚の前で皿を裏返している。


 商人の一人が話の途中で板へ目をやり、指で行をたどって手代の言った数と照らしてから、また話に戻った。値で揉める声は、どこからも上がらない。


 沖田は入ったところで一度足を止め、異人の背中、帳場の手代の手もと、階段の上り口と順に見てから、糸子の一歩後ろへ戻った。


 留吉が異人のほうへ首を伸ばした。


"Look see, look see. Very good, very cheap."

「どうぞ見てってくだせえ。いい品で、お安うございやす」


 異人は皿を裏返したまま片手を上げただけだったが、留吉はそれで満足したらしく、糸子のほうへ向き直った。


「お嬢様」


 沖田が後ろから声をかけた。


「はい」


「足もとに、段があります」


「見えておりますよ」


 沖田はそれ以上何も言わなかった。


 階段の上から算盤の音が降りてきた。二階でも帳をつけているらしい。珠の音が途切れると誰かが数を読み上げ、また珠が鳴る。


 留吉が振り返った。


「お嬢さんは、どちらのお店の」


「日本橋のほうでございます」


「へえ、日本橋。こっちには、江戸の大店の方もよくお見えになりやすよ。江戸じゃ見られねえ品もございますんで、どうぞ、ごゆっくり」


「異国のお客様は、どのような品をお求めになりますか」


「そりゃあ、焼き物と、お茶と……近ごろは、何といっても絵でございます」


 留吉は奥の壁の浮世絵を顎で示した。


「錦絵なんざ、江戸じゃ子供の小遣いで買えるもんでございましょう。それを、異人さんは一枚ずつ明かりに透かして、ためつすがめつ御覧になるんで」


 そう言いながら、留吉は棚の前を一つずつ案内していった。


「札の値は、どなたにも同じでございますか」


「へい。異人さんにも、日本のお方にも、同じでございます。あの板と違う値は、この店じゃ一文も出しやしません」


 留吉は少し胸を張った。


 糸子は皿を一枚手に取った。裏の札の値は、板と同じだった。茶葉の小箱も漆の椀も、やはり板と同じである。糸子は何も言わずに皿を棚へ戻した。


 奥の浮世絵の前まで来ると、留吉は一枚の札を指さした。


「こっちの揃い物は、一枚ずつじゃなく、一揃でお値を付けております。ばらして売ると、残った絵が売れ残っちまうんで」


「一揃で、何枚でございますか」


「これは十枚で一揃でございやす」


 糸子は吊るされた絵を端から数えた。十枚あった。


四

 声が聞こえたのは、そのときである。


 奥の応接の衝立の向こうで、男の声が二つ重なっていた。どちらも、日本の言葉ではなかった。


 はじめは商談の声と変わらなかったのが、一言ごとに高くなっていく。


 留吉の足が止まった。


 衝立の向こうの言葉を、留吉は片方だけ拾えた。英語である。居留地の勝手口で覚えた言葉と同じ音が混じっていて、拾えた語の並びが穏やかではない。もう片方は英語ですらなく、まるで拾えなかった。


「……お嬢さん。ちょいと、こちらの棚を」


 留吉が陶磁器の棚のほうへ促そうとしたが、糸子は動かなかった。衝立の向こうの言葉は、二つとも意味を持って糸子の耳に入ってきていた。


 沖田は糸子の顔を見た。次に、衝立の向こうへ目をやる。そして、もう一度、糸子へ視線を戻した。


 何が話されているのか、沖田には一言も分からない。聞き取れる言葉はある。だが、その意味までは届かなかった。


 ただ一つ分かることがある。隣にいる糸子が、両方の声に静かに耳を澄ませていることだった。


 声が大きくなり、衝立の端から中の様子が見えた。


 卓が一つ。手前に若い男が二人坐っている。羽織袴に髷を結っているが、手代の顔つきではない。卓の上には浮世絵が十枚、扇のように並べてあった。


 向こう側に異人が二人いた。


 一人は背こそ高くないが、姿勢がよい。黒い髪に白いものが混じり、口髭を整えている。飾りのない濃紺の上着を着て、卓の上の絵を指でなぞるでもなく、ただ見下ろしていた。膝の上に置いた手の甲に、細かな傷がいくつも走っている。


 もう一人は細身で、少し背を丸めていた。髪が乱れ、眼鏡をかけ、上着のボタンが一つ外れている。声の大きいのは、この男のほうだった。


 黒髪の男が口を開いた。低い声で、低いぶん冷えていた。


"On m'avait assuré qu'ici, l'on parlait anglais. Je me suis déplacé exprès de Shanghai, et personne n'y comprend un traître mot !"

「ここは英語が通じると聞いたから、わざわざ上海から来てやったのだ。それが、ろくに英語が通じんではないか」


 細身の男がそれを受けて、卓の向こうの二人へ英語で言った。


"My master says your English is no good. You told me the price was for each sheet. Ten sheets, that price for each. That is robbery."

「旦那は、お前たちの英語は役に立たんと仰せだ。一枚ごとにこの値だと、お前たちが言ったんだ。十枚、一枚ごとにこの値。これは盗っ人の値だ」


 若い二人のうち、背の高いほうが膝の上で拳を握った。


 もう一人が絵の端を指で押さえ、一語ずつ区切るように英語で返した。


"No, sir. I said, this price is for the whole set. Ten sheets together. One set, one price."

「いいえ。わたしは、この値は一揃のものだと申しました。十枚まとめて。一揃で、この値です」


"You said 'each'."

「お前は『一枚ごと』と言った」


"I did not say 'each'. I said 'the whole set'."

「『一枚ごと』とは申しておりません。『一揃』と申しました」


 背の低いほうは、帳場の脇の板を指さした。


"Please, sir. Look at the board. It is written there."

「どうか、あちらの板を御覧ください。そこに書いてございます」


 細身の男は板を見もしなかった。


"I cannot read your letters. Nobody can read your letters."

「お前たちの字など読めるか。誰にも読めはせん」


 背の低いほうの指が宙で止まった。板に書いてあるのは日本の字と日本の数で、英語の字はどこにもない。


 細身の男は黒髪の男へ半身を向け、フランス語で何か言った。


"Il s'entête, monsieur. Il prétend maintenant avoir dit autre chose."

「旦那、こいつは強情です。今になって、違うことを言ったと言い張っています」


 黒髪の男は通詞のほうを見ず、卓の上の十枚を端から端まで、もう一度見下ろした。


"Demandez-lui : “Est-ce que vous vous moquez de moi ?"

「わたしを馬鹿にしているのか、と訊いてみろ」


 通詞がそれをそのまま英語にした。


"My master asks, do you take him for a fool?"

「旦那が訊いておられる。お前たちは、旦那を阿呆と見なしているのか」


 背の高いほうが、そこで口を挟んだ。


"Sir. I think the problem is not our English. I think the problem is how you translated it."

「お言葉ですが。問題は、わたしどもの英語ではないと思います。あなたの訳し方に、問題があるのではありませんか」


 細身の男の顔に血が上った。


"What? You—savages of the Far East—you dare to lecture me on language?"

「何だと? 極東の未開人が、このおれに言葉の講釈か」


 背の高いほうが立ち上がりかけた。


「なんじゃと!?」


 椅子の脚が板の間を擦り、店の中の音が一度に止んだ。帳場の手代が筆を止め、日本の商人二人が振り返り、皿を裏返していた異人がこちらを見た。店先からは長松が首だけ覗かせている。


 背の低いほうが隣の袖を掴んで引き戻した。引き戻しながら、自分の手も卓の端を握りしめていた。


「坐れ、正木。客じゃ」


「客じゃろうが、なんじゃろうが、言うてええことと悪いことがあるじゃろうが」


「分かっちょる。分かっちょるけえ、坐れ」


 正木は坐りもせず、立ちもしなかった。腰を半分浮かせたまま、細身の男を見上げている。


 黒髪の男だけが坐ったまま、細身の男の背を見ていた。止めもせず、加わりもしない。


 留吉の顔から血の気が引いた。小僧はくるりと糸子のほうへ向き直った。


「お嬢さん。とんだところをお見せしました。申し訳ありやせん。どうか、表でお待ちを。すぐに、お連れの方のところへ――」


五

 糸子は留吉の脇を抜けた。


「お嬢さん!?」


 留吉の手が空を掴んだ。


 糸子は衝立の内へ入り、卓の脇に立った。四つの顔が一度にこちらを向いた。


 若い二人は何が起きたのか分からない顔をしていて、立ちかけていたほうは腰を浮かせたまま止まった。細身の男が眉を寄せた。


"Who is this girl?"

「なんだ、この娘は」


 黒髪の男は、通詞のほうへ顎を引いた。


"Une enfant. Étienne, fais-la sortir."

「子供だ。エティエンヌ、外へ出させろ」


 そう言ってから、男はもう一度糸子を見た。目が糸子の顔から着物へ、着物から手へと下りていく。帯の結び方を見て、袖口を見て、また顔へ戻る。値を付ける前の品を見る目だった。


 糸子の後ろで、鍔が小さく鳴った。沖田の右手が柄に添えられていた。


 糸子は振り返らず、目の端で一度だけ沖田の手を見た。手が柄から離れ、沖田は衝立の端に半身を寄せて立った。


 糸子は言葉を継いだ。


"Pardonnez-moi de m'immiscer, monsieur. Puis-je vous demander ce qui vous a été dit ?"

「横から失礼いたします。何と言われたのか、伺ってもよろしゅうございますか」


 黒髪の男の眉がわずかに上がった。細身の男は口を半分開けたまま止まっている。


"Vous parlez français, mademoiselle ?"

「あんた、フランス語が話せるのか」


"Un peu."

「少しばかり」


 男は改めて糸子の顔を見た。さっきとは、見ている場所が違っていた。


"Et qui êtes-vous, mademoiselle ?"

「それで、あんたは何者かね」


"Une cliente. Je suis venue voir la boutique."

「客でございます。店を見に参りました」


 男はそれ以上訊かなかった。訊いてもまともな答えは返ってこないと見たのだろう。


"Alors, voilà qui simplifie les choses."

「なら、話は早い」


 男は卓の上の絵を指で示した。


"Ces jeunes gens m'ont annoncé un prix. Mon interprète me rapporte que c'est le prix de chaque feuille. Dix feuilles, dix fois ce prix. Je fais du commerce depuis dix ans à Shanghai, mademoiselle. Je connais la valeur de ces choses. Ce prix-là n'est pas un prix, c'est une insulte."

「この若い衆が値を言った。うちの通詞が言うには、それが一枚ごとの値だそうだ。十枚なら、その十倍だ。わたしは上海で十年、商いをしてきた。こういう品の値打ちは分かる。あれは値ではない。侮りだ」


"Quel prix vous a-t-on annoncé, exactement ?"

「言われた値は、いくらでございましたか」


 男が数を一つ口にした。糸子は帳場の脇の板を見ないまま頷き、若い二人のほうへ向いた。


「お二人は、何と申されましたか」


 日本語であった。


 二人は顔を見合わせた。目の前の娘が何者なのか分からない。異人の言葉で異人と話し、こちらには日本の言葉で訊いてくる。供に侍を一人連れている。分からないまま、問いが日本語だったことに押されて、背の低いほうが先に口を開いた。


「この十枚は一揃で、値はその一揃のもんじゃと、英語で申しました。『the whole set』と」


「申されたとおりに、もう一度、英語で言うてくださいまし」


 背の低いほうは一度唇を湿してから言った。


"This price is for the whole set."

「この値は、一揃のものです」


「ありがとう存じます。武藤一太郎殿でございますね」


 背の低いほうが目を剥いた。


「……なんで、名を」


「存じ上げております」


 武藤は、正木の顔を見た。正木は、首を横に振った。


 衝立の内で、武藤は一度だけ正木の名を呼んでいる。坐れ、と。


「そちらが、正木退蔵殿でございますね」


「はい、正木と申します。武藤の申したとおりで間違いございません。わしも横で聞いちょりました。『each』とは、一言も言うちょりません」


「分かりました」


 糸子は帳場の脇の板に顔を向けた。浮世絵の行には、絵の名の下に「一揃」とあり、その下に値が書いてある。さっき黒髪の男が口にしたのと同じ数だった。


 糸子は板を指して、黒髪の男に示した。


"Monsieur. Ces caractères signifient « une série complète ». Le prix inscrit dessous est celui des dix feuilles ensemble. Pas celui d'une seule."

「この字は『一揃』と読みます。その下の値は、十枚まとめての値でございます。一枚の値ではございませぬ」


 黒髪の男は板を見た。しばらく見てから、卓の上の十枚へ目を落とした。声を出さずに唇が動く。数を割っているらしかった。


"……Ah."

「……ああ」


"Le prix… pour les dix ?"

「あの値は……十枚で、か」


"Pour les dix."

「十枚で、でございます」


"Alors, ce n'est pas cher."

「なら、高くはない」


 男はそれきり黙った。


 細身の男が眼鏡の縁を指で押し上げ、もう一度押し上げた。


 黒髪の男の目が、ゆっくりと通詞のほうへ動きかけた。糸子はそれより先に、細身の男に向き直った。


"Monsieur. Avec tant de voix qui se croisent dans une même pièce, n'importe qui peut mal entendre un mot. D'ordinaire, vous ne commettez pas ce genre de méprise, n'est-ce pas ?"

「これだけ声が飛び交う中では、どなたでも、一言くらいは聞き違えるものでございます。普段は、このようなお取り違えはなさらないのでございましょう?」


 細身の男は口を開けて、閉じた。黒髪の男の目が、通詞の横顔で止まっている。


"……Ah… oui. Bien sûr. C'est… c'est le bruit."

「……あ……ええ。もちろん。その……騒がしかったもので」


 通詞はまた眼鏡を押し上げた。外れていた上着のボタンに指が触れ、そのまま離れた。


 黒髪の男は通詞から目を外し、糸子に向き直って短く言った。


"Vous êtes bien indulgente, mademoiselle."

「ずいぶんと、お優しいことだ」


"C'était le bruit, monsieur."

「騒がしかったのでございますよ」


 男の口髭がわずかに動いた。笑ったのかどうかは分からない。男は卓の上の十枚を手もとへ寄せた。


 衝立の外では、留吉が口を開けたまま立っていた。さっき拾えなかったほうの言葉である。英語でないことしか分からないその言葉が、商家の娘の口から異人と同じ速さで出てきて、異人がそれに頷いている。


 武藤と正木も、娘の言葉は分からなかった。分からないまま、異人の顔つきが変わっていくのを見ていた。正木が武藤の顔を見て、武藤は首を小さく横に振った。


六

 糸子は言葉を継いだ。


"Monsieur. Pour le désagrément que vous avez subi chez nous, la maison prendra à sa charge, cette fois-ci, l'emballage de vos marchandises et leur transport jusqu'à la concession. La prochaine fois, ce sera aux conditions habituelles. Nous comptons sur votre fidélité."

「当店でご不快な思いをおかけしたお詫びに、此度に限り、お品の梱包代と、居留地までの運び賃を、当方で持たせていただきます。次からは、通常どおりにいたします。今後とも、ごひいきに」


 黒髪の男は、しばらく糸子の顔を見ていた。値を下げるとは一言も言っていない。それでいて、男の懐から出ていく銭は減る。


"Marché conclu."

「承知した」


 男はそう言った。


 そのとき、奥の階段を一段飛ばしで駆け下りてくる音がした。


「何の騒ぎだんべぇ!」


 板の間に降り立ったのは、二十をいくつか過ぎた男だった。袖をまくり、帳面を一冊持ったままである。二階で下の騒ぎを聞きつけ、筆を放り出してきたらしく、指先に墨が付いていた。


 男は衝立のほうへ顔を向け、そこに立つ娘を見て、そのまま止まった。帳面が手から落ちた。


「ひ……姫様!? な、なんで、ここにいなさるんだんべぇ!?」


 店の中の音が、また止んだ。


 渋沢栄一は自分の口を手で押さえた。帳場の手代は筆を持ったまま固まり、長松は店先から首だけ突っ込んで固まり、留吉は開けていた口をさらに開けた。


 武藤と正木は、ゆっくりと互いの顔を見た。


「……姫様、言うたかのう」


「言うた」


 正木の声は、ほとんど息だった。


 言葉の意味を知らないのは、黒髪の男と通詞だけである。娘の名を呼んだのだろうという顔で、駆け下りてきた男を見ていた。


"Il vous connaît ?"

「知り合いかね」


"Il tient cette maison."

「この店を預かっている者でございます」


 男は駆け下りてきた男と糸子の顔を見比べたが、それ以上は訊かなかった。


「渋沢殿」


 糸子は何事もなかったように言った。


「お騒がせしております。こちらのお客様に、お詫びとして、此度のお品の梱包と運び賃を当方で持つと申し上げました。そのように、お計らいくださいまし」


「へ、へい。……いや、はい」


 栄一は落とした帳面を拾うのも忘れて、首を縦に振った。


 そこへもう一人、奥の土間から入ってきた。小柄でがっしりした体つきの男で、茶褐色の羽織を着て、大きな算盤を抱えている。帳場番頭の佐野茂兵衛である。


 栄一が叫んだとき、茂兵衛は裏の蔵で荷を検めていた。店へ戻る途中で、客の娘が店の掛かりを勝手に決めたと、手代の一人から耳打ちされている。


 茂兵衛は栄一の足もとの帳面を拾って栄一の手に押し付け、糸子の前まで来て足を止めた。


「お嬢さん」


 低い声だった。


「どちらのお店のお方か存じませぬが、うちの品の掛かりを、よそのお方に勝手に決めてもらっちゃ困ります。梱包も運びも、ただではございませぬ。手間も、人足の手当ても、ちゃんと帳に載るものでございます」


 栄一の顔が青くなった。


「茂兵衛さん!」


「頭。手前は、止める役目にございますので」


「いいから!」


 栄一が茂兵衛の袖を掴んだ。


「いいから、この方の言う通りにしろ。早く、そのとおりに支度してくんな。頼むから」


 茂兵衛は袖を掴まれたまま動かなかった。


「頭。帳に載らねえ銭は、一文も出せません。客の娘さんの一言で出したとあっちゃ、明日から、帳場に誰が坐っても同じことになります」


「分かってる。分かってるから、頼む」


 茂兵衛は頭の顔を見た。この頭がここまで慌てるのを、茂兵衛は見たことがない。もう一度だけ糸子の顔を見ると、娘は何も言わずに茂兵衛を見返していた。


 茂兵衛は黙って算盤を抱え直し、帳場へ回った。手代に異人の買い付けの控えを出させ、浮世絵一揃十枚、皿三十枚、茶葉十斤と、値の板に一行ずつ突き合わせていく。一行ごとに算盤の珠が短く鳴った。梱包の藁と木箱と人足二人、居留地までの荷車一台。その分だけ、珠が別に弾かれた。


 突き合わせ終えて、茂兵衛は顔を上げた。


「……板の値は、動いておりませぬな」


 糸子は頷いた。茂兵衛はそれ以上何も言わず、梱包と運び賃の行に筆で小さく印を付けた。


 黒髪の男は椅子に坐ったまま、番頭が値の板と控えを一行ずつ突き合わせる手もとを、最初から最後まで目を離さずに見ていた。


七

 黒髪の男が椅子の背に身を預けた。口の端がわずかに上がっている。


 上海から回ってきて、最初の店で得をした商人の顔だった。通詞のほうは、まだ眼鏡に指をやっている。


 糸子は男の顔を見てから言った。


"Ah, monsieur. Une dernière chose."

「ああ、それから、もう一つ」


"Oui ?"

「何かね」


"Si, à l'avenir, un tel tumulte devait se reproduire dans cette maison, nous en ferions part directement à la Légation."

「この先、当店でまた同じような騒ぎが起きましたら、公使館のほうへ、直に申し上げることになります」


 男の口の端が止まった。


"……Pardon ?"

「……え?」


"Cette maison entretient des relations directes avec la Légation de France."

「当店は、フランス公使館と直にお取引がございます」


 男は糸子の顔を見て、それから店の中をぐるりと見回した。英字の看板、見本の棚、値の板、帳場で筆を動かす手代たち、三階へ上がる階段。そして、また糸子の顔へ戻った。


"C'est du bluff."

「はったりだ」


"Pensez-en ce que vous voudrez."

「そう思われたければ、ご自由に」


 糸子は微笑んだ。


"Nous n'y perdrons rien. Le seul à y perdre, ce serait vous, monsieur."

「こちらは、何も困りませぬ。お困りになるのは、そちらでございますから」


 男は黙った。


 上海で十年商いをしてきた男である。公使館の名を出して脅す商人なら何人も見てきただろうし、そういう商人は、名を出したあとで相手の顔色を窺うものだ。


 この娘は男の顔色を見ていなかった。帳場のほうへ目をやり、茂兵衛の筆が止まったのを確かめていた。


 糸子に、はったりのつもりはなかった。この店には、そのフランス公使館から届いた鉄の機械が二台据えてある。ただ、それをこの男に教えてやる理由もない。


 通詞が男の袖を引き、耳元で何か囁いた。上海で聞いた名だの、公使の商いだの、切れ切れの言葉が糸子の耳に届いた。


 男は袖を払い、卓の上の十枚を揃えた。


 栄一が糸子の脇へ寄って、小声で言った。


「品は、明朝までに揃えて、荷造りしておくんべぇ。運びは、こっちで居留地まで」


 糸子は頷いて、それを男に伝えた。


"Vos marchandises seront prêtes demain matin. Le transport jusqu'à la concession est pour nous."

「お品は、明朝お渡しいたします。居留地までの運びは、こちらで」


 茂兵衛がそれを書き付けた。


 男は卓の端の帽子を手に取って立ち上がった。通詞が先に衝立を出て、男が続く。通詞が歩きながら男の耳に口を寄せた。


"Monsieur, cette fille…"

「旦那、あの娘は……」


"Tais-toi, Étienne."

「黙っていろ、エティエンヌ」


 男は前を向いたまま言った。通詞は眼鏡を押し上げて口を閉じた。


 店先の段のところで、男は一度だけ振り返り、衝立の脇に立つ娘の顔をもう一度見た。見ただけで、何も言わずに通りへ出ていった。


 糸子の後ろで、沖田がゆっくりと息を吐いた。柄から離した右手を、袴の脇で一度握って、開いた。


八

 異人の背中が見えなくなると、店じゅうに、いっせいに息を吐く音が満ちた。


 陶磁器の棚の前にいた異人はいつの間にか皿を戻して帳場で何か買い求めており、日本の商人二人は手代と話の続きを始めていた。


 その二組が店を出るのを待って、栄一が板の間の真ん中に立った。


「みんな、ちょいと集まってくんな」


 帳場の手代、見本の棚の前にいた手代、店先の長松と留吉。それに、何事かと三階から降りてきた者が二人。茂兵衛は算盤を抱えたまま、帳場の脇に立っていた。


「今日、ここにおいでになったお方が誰かは、口外無用だ」


 栄一はそう言った。


「家の者にも、飲み屋でも、だ。分かったな。細けえことは、あとでまた言う」


 ばらばらに返事が上がった。


 留吉が長松の袖を引いた。


「兄ぃ。いま、姫様って……」


「黙ってろ」


 長松は前を向いたまま言った。


「口外無用って、言われたばっかりだろうが」


 留吉は口を閉じた。閉じたまま、衝立の脇に立つ娘を横目で見ていた。


 茂兵衛だけが返事をしなかった。


 茂兵衛は、頭が「姫様」と叫んだのを聞いていない。そのまま、頭がここまで念を押す相手が誰なのかを、帳場の隅で考えはじめていた。江戸から来た娘。異人の言葉を、店の者より達者に話す。頭が帳面を落とした。


 答えが出かかったところで、茂兵衛の顔から色が抜けた。手の中で算盤が一度、小さく鳴った。


  *


 武藤と正木が、糸子の前で深く頭を下げた。


「お恥ずかしいところを、お見せしてしもうて……」


 武藤の声はかすれていた。


「わしらが、もっと上手う言えちょったら、あんなことには」


「いいえ」


 糸子は首を振った。


「お二人は、正しく申されました。『the whole set』。わたくしの耳にも、はっきりそう聞こえておりました。取り違えたのは、向こうの方でございます」


 正木が顔を上げた。


「では、わしらの英語は」


「通じておりました。通じていたから、向こうの通詞殿にも分かったのでございます。自分が取り違えたということが」


 二人はもう一度頭を下げ、しばらく上げなかった。


 糸子は店先へ顔を向けた。


「留吉といいましたね」


「へ、へいっ」


 留吉が跳ね上がるように前へ出た。


「腕の傷は、もうよろしいのですか」


 留吉の口が、開いたまま止まった。


 長月に、この店の門の前で、留吉は左の腕から肩にかけて傷を負っている。そのことを店の外の者に話した覚えはない。


 目の前の娘は、異人の前に立っていたときの顔ではなかった。やわらかい顔で、こちらの返事を待っている。


 留吉の耳が赤くなった。


「も、もう、すっかり。痕が少し残っとるくらいで。へい」


「よかったです」


 糸子はそれだけ言った。


 留吉はそれきり何も言えず、長松に肘で小突かれて、ようやく頭を下げた。


  *


 栄一が首を縮め、声を落として糸子の脇へ寄ってきた。


「姫……お嬢様。面目ねぇ。俺が、でけぇ声を出しちまったばっかりに」


「異国のお客様には、通じておりませんでしたよ」


「そりゃあ、そうだんべぇ。けど、店の者には」


「ですから、口止めは、後日あらためて、きちんとお願いいたします。今日のところは、今のお言葉で足りましょう」


「……分かっべぇ」


 栄一はもう一度首を縮めた。


「それから、渋沢殿」


「はい」


「佐野殿を、叱らないでくださいまし。あの方は、ご自分の役目をなさっただけでございます」


 栄一は帳場を振り返った。茂兵衛は算盤を抱えたまま、こちらに背を向けて帳面をめくっている。めくる手が、ときどき止まった。


「……叱りゃしねぇです」


 栄一はそう言って頭をかいた。


  *


 糸子は衝立の向こうの卓を見ていた。十枚の浮世絵は、もう片づけられている。


 英語を話せる者は、語学所でも少しずつ育っていた。今日の武藤と正木のように、異人を相手にして引かない者もいる。だが、フランス語をきちんと話せる者は、糸子の知るかぎり一人もいない。


 前世で学んだから、糸子は知っている。いまの世で、ヨーロッパの国々が約束事を交わす場の言葉はフランス語である。商いと海の上の言葉は英語で足りても、条約の文を書き、使者が口上を述べる場ではフランス語が要る。


 今日取り違えられたのは、浮世絵十枚の値であった。天朝外語御用掛の役目は、異国に言葉を齟齬なく伝えることである。


(しばらく、わたくしが語学所でフランス語を教えたほうがよいかもしれませんね)


 江戸へ戻ったら村田殿と相談しよう、と糸子は決めた。


九

「姫……お嬢様。せっかくでございますんで、店の中をご覧になりますか」


 栄一が、まだ少し上ずった声で言った。


「お願いいたします」


 沖田がまた一歩後ろについた。


 帳場の脇の板の前で、糸子は足を止めた。品の名と値が、読みやすい字で並んでいる。今朝、宗介殿が書いたものだと栄一が言った。


「毎朝、書き直してるんです。値が動かねぇ日も、書き直すんで」


 糸子は板を上から下まで見た。浮世絵の行の「一揃」の字で一度目が止まり、また下へ降りた。


「立っていますね」


 それだけ言った。


 栄一は何か言いかけてやめ、頭をかいて少しだけ笑った。


「一日も、空けちゃいねぇです」


 一日も空けるなと、栄一は善次郎から言い渡されてこの店を預かっている。


  *


 三階には北向きの窓から光が入っていた。


 長机の前で、細身の男が糸束を指先で撫でている。その男が番号を口にするたびに、隣の男が算盤を弾き、耳の後ろから筆を抜いて書き付けた。


 荒井佐吉と神田清二である。さっき一階へ降りてきた二人で、騒ぎが収まるとすぐに上がってきて、もう手を動かしていた。


 糸子が入っても、二人とも顔を上げない。声をかけようとした栄一を、糸子は手で止めた。


 栄一が声を落とした。


「あの二人は、糸を見てる間は、誰が来ても顔を上げねぇんです」


 糸子は頷いただけで、しばらく二人の手元を見ていた。佐吉が番号を言い、清二が書く。その間が一度も乱れない。


 糸子は黙って階段を降りた。


  *


 蔵の隣の土間には、鉄の機械が二台据えてあった。一台は大人の背丈ほどあって太い柱が二本立ち、もう一台はその半分ほどの高さで、下に踏み板が付いている。


 機械の前に、大柄な若者がしゃがんでいた。六尺近い身丈を折り畳むようにして、盤の下を覗き込んでいる。


「平九郎」


 栄一が呼ぶと、若者は顔を上げ、上げたまま固まった。


「……姫……」


「お嬢様、だんべぇ」


 栄一が低く言った。


「お、お嬢様」


 平九郎は慌てて立ち上がり、鴨居に頭をぶつけかけた。


 糸子は機械を見た。梃子の付いた大きいほうと、踏み板の付いた小さいほう。善次郎の控えで読み、試し刷りの紙で見たものが目の前にある。手を伸ばして柱の一本に触れると、冷たかった。


「これは、近いうちに、事業にいたします。追って沙汰をいたしますゆえ、そのつもりでいてくださいまし」


「は、はい」


 平九郎より先に、栄一が頭を下げていた。


「平九郎殿」


「はい」


「今日、フランスの方が、浮世絵を買いにお見えになりました。上海から、わざわざ」


 平九郎はきょとんとした。


「あなたが選んだ五枚の絵が、海の向こうで評判になったからでございますよ」


 平九郎は、すぐには分からない顔をしていた。


 一昨年、何百枚もの浮世絵を一枚ずつめくり、日々の帳と見比べて五枚に絞ったのは平九郎である。この土間の機械は、その五枚の対価として届いたものだった。


「……あの、絵が」


「ええ」


「俺が選んだ、あの五枚が……」


「ええ」


 平九郎の大きな体が、少しずつ縮んでいった。隣で、栄一が鼻をすすった。


  *


 店先に近藤が立っていた。


「刻限にございます」


 糸子は素直に頷いた。


「ただいま、参ります」


 長松と留吉が、来たときと同じ下げ方で店先に並んで頭を下げた。留吉だけ、頭を上げるのが少し遅れた。


  *


 角を曲がると、荷揚げ場の脇に駕籠が三挺並んでいた。


 斎藤が駕籠の脇から一歩だけ前へ出て、糸子の顔と後ろの沖田の顔を順に見てから、また一歩下がった。


 葵は駕籠から降りて待っていた。


「お帰りなさいまし」


 葵の目が、糸子の着物の裾から袖口まで、ひととおり動いた。乱れたところはない。


「何か、ございましたか」


「ええ、少し」


 糸子は駕籠へ身を入れながら答えた。


「お寺に着いたら、話します」


 葵はそれ以上訊かず、沖田のほうを一度見た。沖田は口を固く結んで、空を見ていた。


 近藤が担ぎ手に合図をした。


十

 増徳院に着いたのは、日が西の丘の向こうへ傾いたころである。


 関内を南へ抜けて堀川の橋を渡ると、道は本村の家並みに入る。取扱所の前の賑わいは、橋一つで遠くなった。


 堀川の向こうはもう海が近く、夕方の風に潮の匂いが濃くなっている。小夜は今度は簾を持ち上げなかった。持ち上げなくても、波の音が駕籠の中まで入ってきた。


 本村の坂を少し上った先に山門があった。境内は広く、古い木が多い。参道の脇に、旭狼衛の者が一人、旅の身なりのまま立っていた。片岡と話を付けて、先に入っていた者である。


 山門の内で、善次郎と高瀬が待っていた。


「ようこそ、お越しくださいました」


 善次郎が頭を下げ、高瀬もそれに倣った。高瀬の目が糸子の顔の上で一度止まり、すぐに伏せられた。


「善次郎。遅くなりました」


「いえ。近藤様からは、日の暮れ方と伺っておりましたので」


 善次郎はそこで近藤のほうを見た。近藤は何も言わなかった。


 高瀬が先に立って庫裏へ案内した。境内を横切るとき、糸子は本堂の脇の建物に目をやった。客殿である。まだ日のあるうちから、雨戸がすべて閉てられていた。


  *


 夕餉は庫裏の一間に用意されていた。


 菜の煮物と豆腐、汁と飯の、寺の膳である。糸子と葵、小夜が一つの間に、近藤と沖田、善次郎がその隣の間にいて、襖は開けてあった。斎藤は早々に膳を済ませて外へ出ている。


 糸子は箸を持ったまま、取扱所でのことを話した。上海から来たフランス商人のこと。何度も眼鏡を押し上げる通詞のこと。「一揃」の字を指で示したこと。


「渋沢殿がね、帳面を落とされたのですよ。こう、手からすとんと」


 糸子は箸を置いて、手のひらを開いてみせた。


「それで、『姫様、なんでここに』と。あのお顔を、皆にも見せてあげたかった」


 隣の間で、沖田が口元を押さえた。


「沖田殿は、すぐ後ろで見ておいででしたね」


「……はい。見ていました。帳面が落ちる音まで、聞こえましたよ」


 沖田の声が少し揺れていた。


「沖田殿。笑うなら、お笑いなさいまし」


「いえ。笑っては、いません」


 そう言う沖田の肩が、小刻みに動いていた。斎藤がこの場にいれば、黙って沖田の顔を見ただろう。


「それから、留吉という小僧がね。わたくしの前で、口がこう、開いたままで」


 糸子は自分の口を少し開けてみせた。


 小夜が思わず吹き出し、慌てて袖で口を押さえて葵の顔を見た。葵は叱らなかった。


 小夜は袖を下ろし、おずおずと口を開いた。


「姫君様。あの、お店の看板の字は、何と書いてあるのでございますか。坂を下りるとき、同じような字がたくさん見えて」


「天朝の店、と書いてあります。異国の方に読めるように」


「異国の方には、あれが読めるのでございますか」


「読めますよ。わたくしたちが、こちらの字を読むのと同じに」


 小夜はしばらく考える顔をしてから、膳の上の汁椀に目を落とした。


 葵は姫の顔を見ていた。江戸の奥御殿で文机の前に坐っているときとは違う顔だった。日本橋の通りで甘酒を飲んだ日に、一度だけ見た顔である。


 隣の間では、近藤が汁をすする手を止めていた。四半刻と言ったのは近藤だが、その四半刻の中身を、近藤はいま初めて聞いていた。


 善次郎は黙って箸を動かしていた。口の端だけが、少し緩んでいる。


 膳が下げられたあと、善次郎が糸子の前に膝をついた。


「姫様。一つ、お願いがございます」


「なんでしょう」


「客殿の中は、明朝まで御覧になりませぬよう」


 糸子は首を傾げた。


「何を、揃えたのですか」


 善次郎は答えず、頭を下げたまま動かなかった。


「……分かりました。明朝まで、楽しみにしておきます」


「ありがとう存じます」


 善次郎はそう言って下がった。


 近藤が廊下に膝をついた。


「今宵の守りを、申し上げます」


「お願いいたします」


「客殿、山門、参道に、二人ずつ置きまする。一刻ごとに入れ替えます。寺の外は、片岡が取扱所の者と回っております。総司と斎藤は、この棟の前を、夜半で交代いたします」


「近藤殿は」


「某は、起きております」


 糸子は近藤の顔を見た。近藤はそれ以上は言わなかった。


「……お頼みいたします」


「はっ」


 近藤は頭を下げたまま、少し間を置いた。


「糸殿」


「はい」


「明日は、絵図のとおりに」


 糸子は頷いた。


「はい」


 近藤はもう一度頭を下げ、廊下を下がっていった。


  *


 棟の前の暗がりで、沖田が斎藤の隣に立った。夜半の交代には、まだ間がある。


「斎藤さん。今日、お嬢さんがね」


「聞いた」


「まだ、何も言ってませんよ」


「近藤さんの顔で、聞いた」


 沖田は少し黙ってから、声を立てずに笑った。斎藤は山門のほうの提灯を見ていた。


 次の間では、葵と小夜が挟箱を開けていた。善次郎の手配で、先に寺へ運ばれていたものである。畳紙に包んだ衣が順に出てくる。幾重かの袿。小袿。袴。髪を結ぶ紙と元結。


 葵は出した順に衣を並べ、その順を指で一つずつ確かめた。


「明朝は、わたくしが着付けます。小夜は、わたくしが手を出したら、次の衣を渡しておくれ」


「は、はい」


「順は、こう」


 葵が指で示すと、小夜はその順を口の中で唱えた。一度、二度。三度目で、二枚目と三枚目を取り違えた。


 葵は何も言わず、もう一度指で示した。小夜はまた唱えはじめた。


 四度目は最後まで間違えなかった。小夜が顔を見ると、葵は畳紙の端を揃えていた。


 夜が更けた。


 糸子は寝所の前の縁に出た。境内は暗く、山門のほうに提灯が一つだけ見える。その脇に人の影が二つ立っていた。海は見えないが、波の音が木立の向こうから届いてくる。


 明日の正午、ニールが来る。


 糸子は目を閉じた。江戸の抽斗に置いてきた三枚の紙を、頭の中で一度だけ上から下まで辿る。


 そして、目を開けた。


 廊下の角で、床板がかすかに軋んだ。近藤の重さの音だった。


 糸子は寝所へ戻った。


 第二百二十八話 了

【幕末世界の共通語――1863年、フランス語が持っていた力】


 幕末の日本を描くうえで、外国人との交渉や外交を考える時、避けて通れない問題があります。


 それは「言葉」です。


 1863年頃、日本が向き合っていた欧米列強の世界では、フランス語が国際社会における重要な共通語として大きな役割を果たしていました。


 現在では、世界共通語と聞けば英語を思い浮かべる人が多いでしょう。しかし19世紀半ばの国際社会では、外交、宮廷文化、知識人の交流において、フランス語は特別な地位を持っていました。


 国際条約の交渉。


 外交官同士の書簡。


 各国の上流階級による社交。


 そうした場面でフランス語が使われることは珍しくありませんでした。


 もちろん、これは現代の英語のように世界中の人々が日常的に使う言語だった、という意味ではありません。


 あくまで、国家間の交渉や国際的な教養を持つ人々の間で通用する言葉でした。


 しかし、当時の世界を動かしていた外交官や政治家にとって、フランス語を理解することは大きな意味を持っていたのです。


⸻


 なぜフランス語がそれほど強い影響力を持っていたのか。


 その背景には、18世紀以来のフランス文化の圧倒的な存在感があります。


 啓蒙思想。


 文学。


 哲学。


 美術。


 ファッション。


 多くの分野でパリはヨーロッパ文化の中心でした。


 ロシア帝国やプロイセン、オーストリアなどでも、宮廷や知識層の間ではフランス語が教養の証として使われていました。


 自国語とは別にフランス語を操ることは、単なる語学力ではなく、国際社会に参加するための一種の資格のような意味を持っていたのです。


⸻


 ただし、1863年という時代は、フランス語の絶頂期であると同時に、少しずつ世界の勢力図が変化し始めた時期でもありました。


 その中心にいたのが、イギリスです。


 産業革命によって巨大な工業力を手に入れたイギリスは、世界規模の貿易網、海運力、金融力を持つ大国へ成長していました。


 そのため19世紀後半になると、英語の存在感は急速に高まっていきます。


 ただし、1860年代の段階では、まだフランス語の影響力は非常に大きい。


 外交や国際社交の場ではフランス語が強く、商業や海運、科学技術の分野では英語の重要性が増していく。


 まさに二つの言語が並び立っていた時代でした。


⸻


 さらに興味深いのは、フランス国内の事情です。


 世界の外交官たちがフランス語で交渉していた一方で、当時のフランス国内では、すべての国民が標準フランス語を自由に話せたわけではありません。


 ブルターニュのブルトン語。


 南フランスのオック語系の言葉。


 アルザス地方のドイツ語系の言語。


 フランスには地域ごとに長い歴史を持つ言葉があり、地方ではそれらが日常語として使われていました。


 現在のように全国で標準フランス語が通じる社会は、学校教育や徴兵制度を通じて徐々に作られていったものです。


 つまり、世界の外交官が使う「国際語」としてのフランス語と、フランス国内の庶民が日常で使う言葉の状況には、大きな隔たりがありました。


⸻


 このことは、幕末日本を理解するうえでも重要です。


 外国との交渉では、単に言葉を翻訳できれば十分というわけではありません。


 相手がどんな言葉を使い、どんな文化の中で、その言葉を発しているのか。


 条約の一文が、国家の未来を左右することもある。


 だからこそ、幕末の日本では外国語を学ぶことが急務になりました。


 蕃書調所が設置され、英語やオランダ語、フランス語などの研究が進められたのも、そのためです。


 外国語は、単なる知識ではありませんでした。


 世界と交渉するための力。


 国を守るための武器だったのです。


 幕末の日本人が向き合った世界は、現在とは違います。


 英語が唯一の世界共通語だったわけではない。


 フランス語が外交の中心にあり、そこへ英語の力が急速に伸びていた時代でした。


 1863年のフランス語とは、現代の英語のように誰もが使う万能な言語ではありません。


 しかし、世界を動かす人々が集まる場所では、確かに大きな力を持っていた。


 幕末の日本が学ばなければならなかったものは、武器や制度だけではありません。


 世界と話をするための「言葉」そのものだったのです。

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