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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百二十七話「糸子のお嫁入り編―ちょっと、そこまで」

一

 弥生に入ると、奥御殿の庭の楓は葉をすっかり開いた。


 池の水は温み、縁の石の陰で小さな鯉が動いている。障子を開けたままにしておいても、文机の上の紙が冷えて固くなることはもうなかった。


 壬生と鷲尾が戻った日から、十日ほどが過ぎていた。


 その日の昼過ぎ、善次郎と近藤が揃って奥へ通ってきた。


 二人が一緒に来ると先触れがあったとき、糸子は綴りを閉じて硯に蓋をした。横浜の寺と、道中の守り。二つの支度の目処が、同じ日に立ったということである。


「松屋善次郎、参上いたしました」


「近藤にございます」


「お入りください」


 障子が開き、二人が膝で進んできた。善次郎が糸子の正面に、近藤がその斜め後ろに座る。近藤は脇に、細長く巻いた紙を抱えていた。


 葵が茶を三つ置き、次の間との境に控えた。今日はそこから下がらない。座敷にいるのは、四人だけである。


「お二人とも、ご苦労さまでございます」


「恐れ入ります」


 善次郎が頭を下げた。


「まずは、手前から申し上げます」


「お願いいたします」


 善次郎は、懐から小さな帳面を出した。前に来たときにも書き付けていた帳面である。


「あの翌日、横浜の取扱所へ文を出しました。浜番頭の高瀬に、増徳院の様子を見させております」


「はい」


「高瀬の返事では、客殿は確かにございます。庫裏とは別棟で、表の参道からも離れております。寺の者に話を通せそうだとも書いてまいりましたので、手前も横浜へ参りました」


 糸子は頷いた。善次郎は、言ったとおりにしていた。


「御住職にお目にかかり、天朝の名で客殿の一角をお借りしたいと申し上げました。お借りするのは一日、と申しましたところ、前の晩からお使いになってはいかがかと、向こうから仰せくださいまして」


「前の晩から?」


「はい。お客人がお一人、前の晩からお泊まりになることも、承知していただいております。どなたがお見えになるかは、申しておりませぬ。天朝の御用とだけ」


 善次郎は帳面の一行を指でなぞった。


「寄進も、済ませてまいりました」


「おおきに」


「客殿は、いかがでした」


「代理公使をお迎えして、見劣りはいたしませぬ」


 善次郎は、それだけ答えた。


「取扱所の者たちには、どこまで」


「天朝の御用の方が、横浜へお見えになる。その日、店の者は増徳院のほうへ手伝いに出る。そこまでにしてございます。お見えになるのがどなたかは、申しておりませぬ」


「それで十分でございます」


 取扱所で糸子の顔を知っているのは、ほんの数人である。手代や丁稚は、天朝物産会所の上に誰がいるのかを知らない。知らないまま、毎日働いている。


「当日の設えにつきましては、手前にお任せください」


 糸子は、善次郎の顔を見た。何を揃えるつもりか、この男はもう決めている顔をしていた。訊けば答えるだろう。


「はい。お任せいたしまする」


「承知いたしました」


 善次郎が帳面を閉じた。


「近藤殿」


「はっ」


 近藤が、抱えていた紙を膝の前に下ろした。


「先日申し上げました、道筋の絵図にございます」


 近藤は紙を両手で広げた。畳の上に、横に長い一枚が伸びていく。葵が膝を進めて、端を押さえた。


 墨で一本の線が引いてある。左の端に日本橋とあり、線はそこから品川、川崎と宿場の名を拾いながら右へ下っていく。神奈川宿のところで線は折れ、海沿いの道を回って横浜へ入る。吉田橋のところに関門と書き込まれ、その先の関内に取扱所の印がある。線は関内を抜け、堀川を渡ったところで止まっていた。止まったところに、増徳院とあった。


 宿場ごとに、小さな字で書き添えがある。茶店の名や、川の渡し、人の多い刻限まで書いてあった。


「近藤殿」


「はっ」


「これは、近藤殿がお書きになったのですか」


「はっ」


 糸子は、絵図の上に目を落とした。宿場の名は丁寧に書いてある。書き添えのほうは、太い筆で押し付けるように書いてあった。書きながら、あれもこれもと足していったのだろう。川崎の脇には、渡しの舟に乗る順まで書いてあった。


「楽しみにしておりましたが、思っていたより、ずっと細かいのですね」


「道中のことは、細かいほうがようございますからな」


 近藤は笑顔で答えた。


「書いておかねば、某が忘れます」


 葵が、端を押さえたまま下を向いた。


 近藤は、構わずに絵図の真ん中あたりを指した。


「江戸から横浜までは、駕籠で朝から夕までかかります。夜の明ける前に出て、着くのは日の暮れ方になりましょう。その日のうちに代理公使とお会いになるのは、無理にございます」


「それで、前の晩から増徳院に?」


「はっ。松屋殿と相談いたしまして、そのように決めました。寺に一晩お泊まりいただき、翌日、お会いになる」


 近藤は、絵図の右の端を指した。


「寺の守りは、その晩のうちに固めます。客殿と、門と、参道。夜は交代で見張りを置きます。横浜の取扱所には、旭狼衛から出しておる片岡がおりますゆえ、あちらの者とも前もって話を合わせておきます」


「お願いいたしまする」


「道中は、武士の姿の者を二、三人。残りは、商家の奉公人や、旅の者の姿をさせまする。姫様は、商家の娘としてお出ましいただきます」


「分かりました」


「此度は、某も参ります」


 糸子は顔を上げた。


「此度の警護は、すべて某が差配せよと仰せになりました。差配する者がその場に居なければ、何かあったとき、指図が間に合いませぬ」


「頼もしいことでございます」


「はっ」


 近藤は、もう一度頭を下げた。


 糸子は絵図の上を、日本橋から増徳院まで、指でなぞった。駕籠に揺られて一日。宿を一つ挟み、翌日に会う。


「では、日を決めましょう」


 善次郎と近藤が、揃って顔を上げた。


「寺の支度と、近藤殿の手配。あとどれほどかかりますか」


「手前のほうは、五日もあれば」


「こちらは、松屋殿に合わせます」


 糸子は、指を折って数えた。書状が横浜へ着き、返事が戻るまでにも日がかかる。


「弥生十四日に江戸を発ち、十五日にお会いいたします」


「承知いたしました」


「はっ」


「書状は、いま書きます。少し待っていてくださいまし」


 糸子は文机に向き直り、硯の蓋を取った。


 紙を一枚広げる。筆に墨を含ませ、英語で書きはじめた。

 

  *


To the Honourable Edward St. John Neale,

Her Britannic Majesty's Chargé d'Affaires in Japan.


I trust that your health has by now been fully restored.


I shall receive you at the Zotoku-in Temple, in the old village of Yokohama, on the fifteenth day of the third month of our calendar, at the hour of noon. The guest hall has been prepared in the name of the Imperial Court.


As to your kind gift, I shall speak of it when we meet.


Itoko Konoe,

Envoy of the Imperial Court.


(エドワード・セント・ジョン・ニール殿

 英国女王陛下の駐日代理公使


 御体は、もうすっかり本復なされたことと存じます。


 我が国の暦にて弥生十五日、正午、横浜本村の増徳院にてお迎えいたします。客殿は、天朝の名にて整えてございます。


 お心づけの品につきましては、お目にかかりました折に。


 朝廷御使者 近衛糸子)


  *


 品の名は、一つも書かなかった。


 糸子は墨が乾くのを待ってから、紙を折り、封をした。


「善次郎」


「はい」


「これを、取扱所から公使館へ」


 善次郎は膝で進み、両手で受け取った。


「明朝、旭狼衛の神保殿に横浜まで運んでいただきます。取扱所から、手前どもの者が公使館へお届けいたします」


「お願いいたしまする」


 善次郎は、書状を懐に収めた。


 近藤が絵図を巻き取り、葵が押さえていた端を放した。


 糸子は、硯の蓋を閉めた。


「どんな返事がくるか、楽しみでござります」


「ふふふ……」


二

 横浜の英国公使館では、日が西へ傾いても、二階の南側の部屋に灯が入っていなかった。


 窓は海に向いている。傾いた日が、机の上の書類に斜めに落ちていた。窓が明るいうちは灯を点けさせないのが、この部屋の主の癖である。


 エドワード・セント・ジョン・ニールは、机に向かっていた。背は椅子に預けていない。


 扉が叩かれた。


"Come."

(入れ)


 入ってきたのは、ジュリアン・エリオットだった。手に、封の切られていない書状を一通持っている。


"Colonel. A letter has arrived from the Tencho Trading House. It is addressed to you, sir."

(中佐。天朝物産会所より、書状が届いております。中佐宛てにございます)


"From the house in the Japanese quarter?"

(日本人町の、あの店からか)


"Yes, sir. Their man brought it to the gate himself and would not leave it with the porter. He said it was to be placed in your own hands."

(はい。店の者が門まで自ら持って参りまして、門番には預けませんでした。中佐のお手に、直に渡すようにと)


 ジュリアンは、書状を机の端に置いた。


 ニールは、封の上書きを見た。英語で、自分の名と肩書きが書いてある。字には迷いがなかった。


 ニールは封を切った。


 読み終えるまで、長くはかからなかった。書いてあるのは、数行だけである。


 ニールは、本文の一行目で目を止めた。それから、喉の奥で笑った。


"She trusts my health has been fully restored."

(御体は、もうすっかり本復なされたことと存じます、だそうだ)


 ジュリアンは黙っていた。


 暮れに、あの書院での一部始終を報告したとき、中佐は自分で言っている。詫びに行くとしよう、もっとも、その前に本復せねばならんがな、と。


 その本復を、向こうが先に書いてきた。


"Read it."

(読んでみろ)


 ニールは、書状をジュリアンのほうへ押しやった。


 ジュリアンは、それを取り上げた。


 一度目は、字面を追った。日時。場所。客殿は朝廷の名で整えてある。贈り物のことは、会ったときに。


 二度目に読んだときには、書かれていないものを探していた。


 品の名がない。


 望むものがあれば知らせてほしいと中佐が書いてから、三月(みつき)近く。その返事に、品の名が一つもない。


"Colonel. She names nothing."

(中佐。品が、一つも書かれておりません)


"No."

(ないな)


"We asked her what she wished for. She has not answered."

(こちらは、何をお望みかとお尋ねしたのです。その答えになっておりません)


"She has answered."

(答えておる)


 ニールは、窓のほうへ顔を向けた。


"She will not put it on paper. She means to say it to my face."

(あの姫は、望むものを紙には書かん。わしの顔を見て言うつもりだ)


 ジュリアンは、書状に目を戻した。


"She wishes to see how I answer, I expect. As I wish to see how she asks."

(わしがどう答えるかを、見たいのだろう。わしが、あの姫がどう求めるかを見たいのと同じでな)


 ニールは、机の上で指を組んだ。


"Where is this temple?"

(その寺は、どこにある)


"Beyond the canal, sir. In the old village, where the people of Yokohama were moved when the port was opened. It is not far from the settlement. One may walk there."

(堀川の向こうにございます。開港の折に、横浜の村の者たちが移された本村に。居留地からは遠くございません。歩いて行けます)


"Not our legation. Not one of their government offices."

(こちらの公使館でもない。向こうの役所でもない)


"No, sir. A temple. And the guest hall is prepared in the name of the Imperial Court."

(はい。寺にございます。客殿は、朝廷の名で整えてあると)


 ニールは、しばらく黙っていた。


"So, you chose a place that belongs to neither. A clever princess indeed."

(どちらのものでもない場所を選んだか。賢い姫君だ)


 ニールは、組んでいた指を解いた。


"Elliot."

(エリオット)


"Sir."

(はい)


"We accept. The day and the hour as she gives them."

(受ける。日も刻限も、向こうの言うとおりだ)


"I shall draft the reply, sir."

(返書の下書きをいたします)


"No. I shall write it myself."

(いや。わしが自分で書く)


 ジュリアンは、顔を上げた。


 公使館から日本側へ出す書状は、たいてい書記官が下書きをして、中佐が目を通して署名する。暮れに姫君へ渡した手紙は、中佐が自分で書いていた。


"She wrote to me in her own hand. I shall answer in mine. Send it back by the same road it came. Their trading house, not the Japanese officials."

(向こうは自分の手で書いてきた。わしも自分の手で返す。来た道で返せ。向こうの商いの店からだ。日本の役人を通すな)


"Yes, sir."

(承知いたしました)


"Clear the day. Clear the day before it as well. I want nothing else on my desk."

(その日は空けておけ。前の日もだ。机の上に、ほかの用を置くな)


"Yes, sir."

(はい)


"Walk the road to this temple yourself before the day. I do not want to arrive and find we have lost our way in a Japanese village."

(当日より前に、その寺までの道を、おまえが自分で歩いておけ。着いてみたら、日本人の村で道に迷っておった、では話にならん)


"I shall see to it."

(手配いたします)


"And the escort. Small. We are calling upon a lady to make an apology. We are not taking a fort."

(それから供だ。少なくしろ。わしらは、婦人のもとへ詫びに行くのだ。砦を取りに行くのではない)


"How many, sir?"

(何名ほどに)


"Four men for the escort, on foot. You and the interpreter will ride with me."

(護衛は徒歩で四人。おまえと通詞は、わしと馬で行く)


 ジュリアンは、手帳に書き付けた。


 ニールは、もう一度、書状を手元へ引き寄せた。本復のところを読み返して、また喉の奥で笑った。


"I look forward to it, Elliot. I truly do."

(楽しみだ、エリオット。じつに楽しみだ)


"Yes, sir."

(はい)


 ジュリアンは、頭を下げて部屋を出た。


 廊下に出てから、手帳を開いた。日付。刻限。寺の名。供の数。書き付けたものに、誤りはない。


 手帳を閉じても、しばらく階段を下りなかった。


 あの書院で、姫君は、手土産を楽しみにしておりまする、と言った。


 中佐は、顔を見て言うつもりだと笑った。


 品の名を書いてこなかったのは、なぜか?


 顔を合わせて話すため、というだけではないだろう。少なくとも、品の一つ二つを書き添えることはできたはずである。


 用心かもしれない。この書状は、日本の役所を通さず、商いの店から直接届けられている。そこまで人の目を警戒する相手なら、品の名すら紙に残したくなかったのかもしれない。


 あるいは、こちらに先の支度をさせぬためか。先に中身が分かれば、こちらは答えを用意して座につける。何も知らなければ、その場で判断するしかない。


 どちらにせよ、あの姫君は、最後まで相手に余地を残さない。


 書院で向かい合った時もそうだった。次に何を出してくるのか、ジュリアンには最後まで読めなかった。


 窓の外で、沖の帆が一つ、向きを変えた。


 ジュリアンは手帳を懐に収め、階段を下りていった。


三

 ニールの返事が届いたのは、それから四日後の夕方だった。


 神保が横浜から持ち帰ったものを、葵が奥へ運んできた。取扱所の封の内側に、もう一通、英国公使館の封をした書状が入っていた。


「姫様。英国公使館より、お返事にございます」


「おおきに」


 糸子は、書状を受け取った。


 封を切る。中の紙は一枚で、英語の字が整然と並んでいる。筆跡は、暮れに書記官が持ってきたニールの手紙と同じだった。


『The fifteenth of March, at noon. Zotoku-in Temple. Understood.』

 (弥生十五日、正午。増徳院。承知した)


 体のことには、一行だけ触れてあった。


『I am grateful for your kind concern. By the day we meet, I shall be fully recovered.』

(お気遣いに感謝する。お目にかかる日には、すっかり本復しているで(・)あ(・)ろ(・)う(・))


 糸子は、その一行のところで口の端を上げた。


(白々しい嘘をついておきながら……お上手ですこと)


 紙を膝の上に下ろした。


 日も刻限も場所も、こちらが書いたとおりである。何一つ、動かしてこなかった。


 口の端が、もう一度上がった。今度は、止める気がなかった。


「いよいよですね」


「はい」


 葵が、膝の上で手を揃えた。


「明日、善次郎と近藤殿に使いを出してくださいまし。英国より承知の返事が来た。日は動かさない。それだけでよろしい」


「承知いたしました」


「善次郎には、設えの品をいつ横浜へ送るか、決めておくようにと」


「はい」


「近藤殿には?」


 糸子は、少し考えた。


「何も足さなくてよい。日が動かないと分かれば、あとは絵図のとおりに動いてくれるから」


 葵は頷いた。あの絵図には、渡しの舟に乗る順まで書いてあった。


「葵。外国奉行へのお知らせを出します」


「はい」


「届くのは、十三日の夕方にしてくださいまし。それより早くても、遅くてもいけませぬ」


「十三日の、夕方…でございますね」


「ええ。英国の代理公使とお会いする以上、幕府にも知らせておかねばなりませぬ。あの座にいた奉行なら、それで話は通りましょう」


 糸子は、そこで言葉を切った。


「ただ、お知らせが早すぎると、あちこちへ話が回ります」


 葵は、それ以上訊かなかった。


「文は、今夜のうちに書いておきます。十三日に、使いの者に持たせてくださいまし」


「承知いたしました」


 葵は、そこで少し間を置いた。


「姫様」


「なに?」


「一橋様へのご連絡は、いかがいたしましょう」


 糸子は、すぐには答えなかった。


 屋敷の主に黙って、客人が江戸の外へ出ることになる。


「こちらは、一橋家の家臣でもなんでもありませぬ」


 糸子は言った。


「当日、出発してからお知らせすれば、問題はないでしょう。事前に知らせて、下手な横槍でも入れられたら、たまりませぬからね」


 葵は、主の顔を見た。


 暮れの談判から帰った日、障子越しに聞いた主の声を、葵は覚えている。


「書状は、わたくしが書きまする。わたくしが出かけたあとで、届けさせましょう」


「どなたに、運ばせますか」


「表へは、一橋様から奥へ付けていただいている者に頼みまする。こちらの者が表へ書状を持っていくより、あの者が持っていくほうが、表も受け取りやすいでしょう」


「はい」


「十四日の朝、わたくしたちが門を出たあとで、平岡殿に渡してもらいましょう。それより前に渡してはいけませぬと、わたくしから言っておきます」


「分かりました」


 葵は頭を下げた。


 頭を上げたとき、葵は主の口元を見た。まだ上がったままだった。


 葵は、何も言わなかった。


  *


 その夜、糸子は文机に向かって、二通の文を書いた。


 一通目は、外国奉行に宛てたものである。


 日と場所と用向き、それに江戸を発つ日だけを書いた。


 二通目は、表の慶喜に宛てたものである。


 こちらは、もっと短かった。


 糸子は、書き終えた紙を一度眺めた。それから、何も書き足さずに折りたたんだ。


「葵」


「はい」


 障子の外で控えていた葵が、膝をついて入ってきた。


「当日の支度のことです」


「はい」


「道中は、商家の娘の姿で参ります。お会いする日の装束は、別に持っていきます」


「小袿でございますね」


「ええ。増徳院に着いてから、着替えます」


 葵は頷いた。


「着付けは、わたくしがいたします。小夜に、御衣を順にお渡しする役をさせます」


「小夜は、横浜は初めてね」


「はい。昼間、そのことを申しましたら、しばらく口がきけないようでございました」


「怖がっていましたか」


「いいえ」


 葵は、少しだけ笑った。


「どの小袖を着ていけばよいかと、三度訊かれました」


 糸子も笑った。


「着替えは挟箱に入れて、先に運ぶよう、善次郎に手配してもらいましょう」


「承知いたしました」


 葵は、糸子の手元の二通に目をやった。


「こちらは、十三日に出すものと、十四日の朝に出すものでございますね」


「ええ。取り違えないでね」


「はい。姫様」


 葵は、二通を別々の袱紗に包んだ。


四

 弥生十三日の夕方、外国奉行の役宅に一通の書付が届いた。


 届けに来たのは、町人の身なりをした使いの者だった。門番に書付を預けると、返事は要らぬと言って帰っていった。


 一色直温は、それを書院で開いた。


 暮れに、英国の書記官と向き合ったのと同じ書院である。あのとき真中に据えた机は片づけられ、隅に火鉢が一つだけ残っていた。


 一色は、書付を二度読んだ。それから、黙って脇へ回した。


 受け取ったのは、水野忠徳だった。


 書付の文は、短い。


『弥生十五日、横浜本村増徳院にて、英国代理公使ニールと面談。先の談判の折に申し入れし詫びの儀につき。江戸を発つのは十四日。』


 明日である。


 水野は、最後まで読んだ。差出人のところに、朝廷御使者近衛糸子とあった。


 読み終えてから、書付を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


「……山城守殿」


「はい」


「あの姫君は、本当に英国に詫びをさせて、品を受け取るおつもりか」


 一色は答えなかった。


 水野は、書付の一行を指で押さえた。『詫びの儀』とある。


 あれから、三月(みつき)近くが過ぎている。


 その間に、英国が本当に詫びに来ることになった。代理公使が、自分で来る。場所は姫君のほうで決めている。


「口で言うだけなら、誰にでも言えます。言ったとおりに、相手を動かした」


 水野は、それきり口を閉じた。


 この男は、異国の役人と長く坐ってきた。向こうの公使を動かすのに、こちらが何を差し出してきたかも覚えている。条約の文言を譲り、期日を譲り、それでようやく向こうが一歩引く。そういう座ばかりだった。


 あの姫君は、何も譲っていない。暮れの座で、向こうの書記官の不手際を一つ拾った。拾ったものを、その場で詫びの約束に替えた。


 水野は、書付の場所の行をもう一度見た。


「増徳院か」


「ご存じで」


「名だけは。横浜の本村の、古い寺でござる」


 水野は、そこで書付を指で一度叩いた。


「暮れの座は、こちらが用意した書院であった。姫君は、そこへ呼ばれて坐っただけでござる。此度は、座から御自分で拵えておられる」


 一色は、火鉢のほうを見ていた。


 暮れの談判のあと、姫君はこの書院で、あの書記官を潰せば次に出てくるのは代理公使だと言った。その代理公使を、いま、姫君のほうから呼んでいる。


 一色には、その二つがどう繋がっているのか、まだ分からなかった。分からないまま、書付の上の日付を見ていた。


「筑後守殿」


「なんでござる」


「これは、問題になりませぬか」


 水野が、顔を上げた。


「朝廷の御使者と、英国の代理公使が、御公儀の役所でもない寺で会う。そこで何が話されるのか、こちらには分かりませぬ。控えも取れませぬ」


 一色は、膝の上で手を組んだ。


「後になって、あの寺で何が約されたのかと問われたとき、御公儀は知りませなんだと答えるほかありませぬ。数年先にこの書付を読む者がいれば、なぜ止めなかったのかと思うでしょう」


 水野は、しばらく一色の顔を見ていた。


 それから、書付を畳んで一色のほうへ返した。


「あの談判をした姫君だぞ」


 水野は言った。


「英国の書記官を相手に、こちらが何も出さずに座を閉じた御方だ。取れぬ談判だと見切って、退かせる道まで用意しておった。そんな下手は打たんだろう」


「それは、そうでござるが」


「それよりも」


 水野は、そこで声の調子を変えた。


「どんな手土産を、厚かましく要求なさるか。そちらのほうが、よほど興味が湧く」


 一色は、返された書付を見下ろした。


  *


「英国と申せば」


 一色が、ふと顔を上げた。


「竹内下野守殿の一行が戻られて、まだ三月でござるな」


「師走でござったな」


 竹内保徳を正使とする一行が、英国の軍艦で品川を発ったのは、一昨年の暮れである。欧州の国々を回り、兵庫と新潟の開港、江戸と大坂の開市を五年先まで延ばす約束を取り付けて戻ってきた。英国とは、ロンドンで覚書を交わしている。


「柴田殿から、あちらの話を聞かれましたか」


 柴田貞太郎は、一行の組頭として同行した男である。正月に外国奉行並を命じられ、いまは二人と同じ外国方に詰めている。


「少しばかり」


 水野が答えた。


「ロンドンでは、国じゅうの機械と品を一つの大きな館に集めて、誰にでも見せておったそうでござる。一行も招かれて、刀を差したまま中を歩いた。向こうの新聞に、絵入りで載ったと申しておった」


「拙者が聞いたのは、造船所と鉄砲の工場の話でござる」


 一色は、膝の上で指を組んだ。この男は、勘定方におったころから、台場の普請や軍制のことで幾度も意見を上げてきた。


「鉄を打つのも、木を削るのも、人の手ではなく蒸気でやっておると。柴田殿は、見ておるうちに口が利けなくなったと申しておった」


「五年延ばしてきたのは、手柄でござる」


 水野は言った。


「なれど、五年で追いつけるものではござらぬ」


「さよう。……それでも、戻った者の話を、御城がこうして聞いておる。笑う者も、騒ぐ者もおらぬ。それだけでも、あの一行は報われておりましょう」


 一色は、そこで返された書付に目を落とした。


「あの姫君が英国に何を求められるか。案外、柴田殿が見てきたようなものかもしれませぬな」


「機械をか。詫びの品に?」


「……まさか」


「あの姫君なら、そのまさかをやる」


 水野は、それきり口を閉じた。


 一色も、それ以上は言わなかった。


 書付をもう一度開いた。


 届け出としては、欠けたところがない。日も、場所も、相手も、用向きも書いてある。御公儀に断りなく英国と会った、と後で言われる筋はなかった。


 ただ、届いたのが今日の夕方である。発つのは明日の朝だった。


「筑後守殿」


「なんでござる」


「この書付、止めようと思えば、止められましたかな」


 水野は、少し考えた。


「無理、でござるな」


「…でござるな」


「知らせは知らせとして、きちんと寄越しておられる。こちらが読んで、何か申そうとするころには、もう江戸におられぬ」


 水野は、そう言ってから、口の端をわずかに動かした。


「暮れの座で、あの姫君は、次の談判をこちらの都合のよい日まで延ばすと申された。日を選ぶのが、お上手な御方だ」


 一色は、書付を懐に収めた。


「このことは、堀田様にご連絡致す」


「そうなされ」


「明朝、登城の折に申し上げます」


「一橋様へは」


「それは、堀田様のお考え次第でござる」


 水野は頷いた。外国奉行が届いた書付を、将軍後見職のもとへ直に持って上がる筋はない。


五

 弥生十四日、夜明け前。


 一橋上屋敷の裏門の脇に、駕籠が三挺並んでいた。


 空はまだ暗い。東のほうだけが、わずかに白んでいる。提灯は、門の内側に一つ下げてあるだけだった。


 糸子は、奥御殿の廊下を裏門へ向かって歩いていた。


 藍地に細かな格子を織り込んだ小袖を着ている。髪の飾りはすべて落とし、町家の娘のように簡素に結ってあった。以前、葵と二人で日本橋の通りへ出たときと同じ装いである。あの日、糸子は商家の娘で、名は糸だった。


 今日も、糸である。


 後ろに、葵と小夜が続いている。二人とも、商家の奉公人の身なりをしていた。


 小夜は、葵の後ろを歩きながら、自分の袖口を何度か見下ろしていた。三度訊いて決めた小袖である。廊下の板が鳴るたびに、小夜は足の運びを小さくした。


「小夜」


「は、はい」


「まだ屋敷の中です。そんなに忍ばなくても、よろしいのよ」


「はい」


 小夜の足の運びは、変わらなかった。


 廊下の角を曲がったところに、女が一人、膝をついて待っていた。一橋家から奥へ付けられている侍女である。糸子がこの屋敷に入ってから、表との取次をずっと務めてきた。


「お早うございます」


「お早う」


 葵が、袱紗を一つ解いた。中から書状を一通取り出し、糸子に渡した。


 糸子は、それを侍女の前に差し出した。


「昨夜お話ししたとおりです。わたくしたちが門を出て、半刻ほどしてから、平岡殿にお渡しください。それより前には、渡さないでくださいまし」


「承知いたしております」


 侍女は、書状を両手で受け取った。表の誰に宛てたものか、この侍女は知っている。何が書いてあるのかは、知らない。


「何か訊かれたら、奥から預かったとだけ申してください」


「はい」


 糸子は、侍女の前を通り過ぎた。


 裏門の外に出ると、近藤が待っていた。


 近藤は羽織に袴を着け、腰に大小を差している。旅の武士の姿だった。脇に、同じく武士の身なりの者が二人立っている。沖田と斎藤である。


 少し離れたところに、菅笠をかぶった者たちが何人か、荷を担いだり、杖をついたりして立っていた。商家の手代のような者もいれば、駕籠かきのような者もいる。どれも、旭狼衛の顔だった。


「姫様」


 近藤が、低い声で言った。


「近藤殿。糸です」


 近藤は、一瞬言葉に詰まった。


「……糸殿」


「はい」


「支度は、すべて整っておりまする」


「ありがとう」


 糸子は、近藤の後ろに立っている沖田のほうを見た。


 沖田は、真面目な顔をしていた。口を引き結び、目は前を向いている。旅の武士が、商家の娘の駕籠に雇われて付いていく。そういう顔をしようとしているのが、糸子にも分かった。


 ただ、糸子と目が合ったとき、口の端がわずかに動いた。


 沖田は、すぐにそれを引き戻した。


 隣で、斎藤が沖田の肩を見た。何も言わなかった。


 近藤が、咳払いを一つした。


「総司には、よう言い含めておきました」


「はい」


「ゆうべも、今朝も…言い含めました」


「はい」


 糸子は、扇子を持っていなかったので、袖で口元を押さえた。


「沖田殿」


「はい」


「横浜まで、よろしくお願いいたしますね」


「お任せください」


 沖田の声は、落ち着いていた。顔は、また少しだけ動いていた。


 糸子は、斎藤のほうへ顔を向けた。


「斎藤殿も、よろしくお願いいたします」


 斎藤は、黙って頭を下げた。下げた頭を上げると、目はもう道の先へ向いていた。裏門の前の通りを右へ一度、左へ一度見て、それから駕籠の脇に立った。


 近藤が、それを見て小さく頷いた。


 駕籠の並びを指で示した。


「糸殿の駕籠は真ん中に。前に葵殿、後ろに小夜殿の駕籠を置きまする。総司と斎藤は、真ん中の駕籠の左右。某は先に立ちます。荷の者と旅の者は、前後に散らしてございます。品川までに一度、川崎の手前で一度、休みを取りまする」


「絵図のとおりですね」


「はっ。絵図のとおりにございます」


 近藤は、それで口を閉じた。


 挟箱を担いでいるのは、手代の身なりをした旭狼衛の者である。


 糸子は、真ん中の駕籠に乗った。葵と小夜が、前と後ろの駕籠に乗る。小夜は、乗る前に一度だけ、空を見上げた。


 簾を下ろす前に、糸子は一度だけ屋敷のほうを振り返った。


 表御殿の屋根が、白みはじめた空の下に黒く伏せている。そこに住む人は、まだ何も知らない。


「出してくださいまし」


 駕籠が持ち上がった。


 裏門の前の道を、駕籠が三挺、前後を旅の者たちに挟まれて進みはじめた。近藤が先に立ち、沖田と斎藤が真ん中の駕籠の左右に付く。


 町はまだ眠っていた。表戸を閉てた商家の並びを、駕籠は日本橋のほうへ下っていく。ときおり、豆腐屋の店先に灯が入っていた。早出の棒手振りが、天秤棒を担いだまま道の端へ寄って一行をやり過ごした。


 商家の娘が、奉公人を連れて旅に出る。駕籠かきの掛け声も、旅の者たちの足音も、どこにでもある朝の道の音だった。


 日本橋を渡るころ、橋の上にはもう荷を担いだ人が行き交いはじめていた。駕籠はその間を抜け、南へ向かった。


 簾越しに、糸子は通りを見ていた。以前、この通りで甘酒を飲んだ。焼き栗の皮が指に張り付いた。


 今度は、江戸へ戻る日を近藤が決める。


 京橋を過ぎたところで、駕籠の脇を歩く沖田の足音が、一度だけ速くなった。すぐに、元の調子へ戻った。斎藤の足音は、屋敷を出てから一度も変わっていなかった。


 東の空が、少しずつ明るくなっていった。


六

 その朝、一橋上屋敷の表御殿で、慶喜は書院に座っていた。


 登城の支度は、もう整っている。乗物が門に回るまで、あと四半刻ほどあった。


 慶喜は、昨日のうちに目を通しきれなかった書付を膝の上に広げていた。諸藩からの返しが三通。どれも、式目の手順どおりに三通ずつ写してある。


 障子の外で、足音が止まった。


「殿。平岡にございます」


「入れ」


 平岡円四郎が入ってきて、膝を揃えた。手に、書状を一通持っている。


「奥より、これが参りました」


「奥から?」


「はい。奥付きの侍女が、取次まで持って参りました。奥から預かったとだけ申しまして」


「いつだ?」


「つい先ほどにござります」


「急ぎの文か?」


「急ぎとは、申しておりませなんだ。お返事が要るかと訊きましたら、何も言いつかっておらぬと」


 平岡は、そう答えてから書状を差し出した。


 奥付きの侍女は、一橋家から奥へ付けている者である。その者が、奥から預かったとだけ言って、それ以上は口を開かなかった。平岡は、取次でそれを聞いたときに少し引っかかったが、問い詰めはしなかった。奥のことを表で問い詰めれば、それ自体が跡になる。


 慶喜は、それを受け取った。


 上書きには、慶喜の名だけが書いてある。字には、見覚えがあった。去年の葉月、水無瀬と名乗る公家が奥から持ってきた一通と、同じ手である。


 慶喜は、封を切った。


 目を落としたのは、ごく短いあいだだった。


 慶喜の手が、紙の上で止まった。


 もう一度、頭から読んだ。


「なんだ、このふざけた書状は!」


 平岡が、顔を上げた。


 この主が声を荒げるのを、平岡は長いあいだ見ていなかった。


「殿。なんと書いてあったのですか」


 慶喜は答えなかった。書状を膝の上に置いたまま、庭のほうへ目をやった。


 庭の向こうに、奥御殿の棟がある。


「あの姫は、いま何をしている」


「……分かりませぬ」


 平岡は、正直に答えた。


 奥のことは、表には聞こえてこない。この屋敷では、それが当たり前である。


 平岡は、そこで一つ思い出した。


「そういえば、今朝は奥屋敷が、いつになく静かでございましたが……」


 夜明け前、表の廊下を通ったとき、奥のほうから物音一つ聞こえなかった。奥御殿の朝は、たいてい、侍女たちが立ち働く音で始まる。今朝は、それがなかった。


 慶喜は、平岡の顔を見た。


「もう、出かけたあとか」


 慶喜は、書状に目を戻した。


「……あの姫君、やってくれるわ!」


 平岡は、主の顔を見ていた。


 怒っているのか、そうでないのか、平岡には分からなかった。声は荒かったが、口の端は動いていた。


「して、殿。一体、なんと」


 慶喜は、何も言わずに書状を差し出した。


 平岡は、それを両手で受け取った。


 書状には、こう書いてあった。


『ちょっとそこまで、イギリスの代理公使とかいうお方に頭を下げさせに行ってまいります。案じ給うな、すぐにお土産でも持って戻りますゆえ。』


 平岡は、読み終えた。


 もう一度、読んだ。


 口が開かなかった。


 何をしに行くのかは、書いてある。英国の代理公使に、頭を下げさせに行く。土産を持って戻るとも書いてある。


 どこで会うのかは、書いていない。すぐに、とあるだけで、いつ戻るのかも分からない。差出人の名も、ない。


 平岡は、書状を持ったまま、主の顔を見た。


 慶喜は、もう庭のほうを向いていた。


「平岡」


「……はっ」


「英国の代理公使は、横浜におる」


「はい」


「頭を下げさせに行く、と書いてある。英国が朝廷の御使者に頭を下げる筋といえば、暮れの談判のほかにない。あの座で、何かを約させたのであろう」


「控えには、そのような文言はございませなんだが」


「控えに残るような言い方を、あの姫がするものか」


 慶喜は、膝の上で指を一度動かした。数えるときの癖である。


「詫びる者は、詫びられる者のもとへ来るのが筋だ。だが、この屋敷へ英国の代理公使が来るとは、余は聞いておらぬ」


「はい」


「ならば、あの姫のほうが横浜へ出向いておる」


 平岡は、黙って聞いていた。


 慶喜は、そこで指を止めた。


「御公儀には、届けておろうな」


「届けて、おられましょうか」


「あの姫は、筋の通らぬことはせぬ。外国奉行あたりには、届いておるはずだ。だが、余のところへは、まだ上がってきておらぬ」


 慶喜は、書状のほうへ目を戻した。


「上がってくるころには、もう江戸におらぬ。そういう日に、届けておる」


 平岡は、手の中の書状を見下ろした。


 障子の外で、取次の声がした。


「殿。乗物の支度が整いましてござります」


 慶喜は、すぐには立たなかった。


「平岡」


「はっ」


「その書状は、そなたが預かっておけ」


「……はっ」


「城へ参れば、誰ぞが知っておろう。何を知っておるか、聞いてやる」


 慶喜は、そう言って立ち上がった。


 廊下へ出る前に、一度だけ庭の向こうの奥御殿の棟を見た。


 平岡は、主の口元に見覚えがあった。暮れに、城であの姫君を談判の座へ出すと決めたときも、主は同じように口の端を緩めていた。


  *


 主が出ていったあと、平岡は書院に一人残った。


 手の中に、書状がある。


 平岡は、もう一度それを読んだ。


 ちょっと、と書いてある。英国の代理公使に会うことを、ちょっとと書く者を、平岡は知らない。御三卿の家に仕えて長いが、異国の公使に会うことなど、早々あることではない大事である。会う日には、何日も前から座を整え、人を揃え、口上を練る。


 それを、ちょっと…と書いて、門を出てから寄越してきた。


 案じ給うな、とも書いてある。


 書状を読んだときの主の顔が、心配している顔だったのかどうか、平岡には分からなかった。


 平岡は書状を畳み、懐に収めた。障子の外では、表の者たちが登城の行列を整える音がしていた。


七

 駕籠は、品川の宿を抜けていた。


 日はもう昇っている。駕籠の簾越しに、海のほうから明るい光が差し込んでいた。道の左手には、ときおり海が見える。潮の匂いが、駕籠の中まで入ってきた。


 糸子は、揺れに身を任せていた。


 膝の上で、手を重ねている。


 品川の手前で、一度、駕籠が下ろされた。近藤の絵図に書いてあった、最初の休みである。茶店の縁台に、旅の者の身なりをした旭狼衛の者たちが散って腰を下ろした。誰も、真ん中の駕籠のほうを見なかった。


 簾の外から、沖田の声がした。


「お嬢さん。お茶を、お持ちしましょうか」


「いただきます」


 簾の下から、湯呑みが一つ差し入れられた。受け取ると、温かかった。


「沖田殿」


「はい」


「お顔が、緩んでおりませんか」


 簾の外で、少しの間があった。


「……緩んでおりません」


 斎藤が、何か言いかけて、やめた気配がした。


 休みは、それで終わった。駕籠がまた持ち上がった。


 一橋上屋敷を出てから、一刻半ほどが過ぎた。慶喜は、今ごろ書状を読んでいるだろう。


 どこで会うかは、書かなかった。


 暮れは、慶喜が城で決めてから奥へ来た。


 今度は、糸子が決めてから知らせた。知らせたのは、門を出たあとである。


(少しは、お分かりいただけましたかしら)


 口の端が、上がった。


 駕籠の中は、糸子一人である。前の駕籠には葵が、後ろの駕籠には小夜が乗っている。駕籠の脇を歩いている沖田と斎藤からも、簾の内は見えない。


 糸子は、遠慮なく笑った。


 声は出さずに、肩だけが揺れた。


 ひとしきり笑ってから、糸子は簾の向こうの海を見た。


 海の向こうに、横浜がある。今夜は増徳院に泊まる。明日の正午には、ニールが来る。


 英国に求める品を書き出した三枚の紙は、抽斗に入れたまま江戸に置いてきた。中身は、すべて頭に入っている。


 明日、本復した代理公使が、天朝の座へ詫びに来る。来た以上、手ぶらでは帰さない。


 今朝のことは、書状一通で済んだ。幕府から取り立てるものは、別にある。


(まだまだ、こんなのは序の口ですわ)


 駕籠が、小さく揺れた。


 糸子は、簾の内で拳を握った。


「うけっけっけっけっけっーーーーーーー」


 前の駕籠の中で、葵が一度だけ目を閉じた。


 駕籠の脇で、沖田が口元を押さえた。


 斎藤は、前を向いたまま歩いていた。


 第二百二十七話 了

【世界と向き合い始めた幕府――文久遣欧使節団とロンドン覚書】


 幕末という時代を語るとき、多くの人は薩長の倒幕運動や京都で繰り広げられた政治闘争を思い浮かべます。


 しかし、その裏側で幕府もまた、迫り来る世界の変化に対応しようとしていました。


 その象徴となる出来事が、文久二年(一八六二)の文久遣欧使節団と、イギリスとの間で結ばれたロンドン覚書です。


 これは単なる外交交渉ではありませんでした。日本が初めて、本格的に「国際社会の中でどのように生き残るのか」を考え始めた出来事だったのです。


⸻


 安政五年(一八五八)、幕府はアメリカ、イギリス、フランスなどと修好通商条約を結び、日本は長く続いた対外制限から大きく方向転換することになります。


 しかし、開国は決して平穏なものではありませんでした。


 条約によって兵庫や新潟の開港、江戸や大坂の開市が予定されていましたが、国内では外国への反発が強まり、尊王攘夷運動が激化します。さらに外国人襲撃事件や、貿易開始による物価上昇への不満も広がっていました。


 幕府は難しい立場に置かれていました。


 条約を守らなければ外国から信用を失う。


 しかし、予定通り開港を進めれば、国内の混乱はさらに深まる可能性がある。


 そこで幕府が選んだのが、外交によって時間を得るという方法でした。


⸻


 その役割を担ったのが、文久遣欧使節団です。


 正使は竹内下野守保徳。


 幕府の正式な外交使節として、多くの随員を伴ってヨーロッパへ向かいました。


 目的は、単に外国との交渉を行うことだけではありませんでした。


 西洋諸国の政治、軍事、産業、社会制度を自分たちの目で確かめることも大きな目的でした。


 当時の日本にとって、欧米列強は未知の存在でした。


 外国人から話を聞くだけでは、本当の国力は分からない。


 実際に現地へ行き、都市を見て、工場を見て、軍隊を見て、外交官と対話する。


 この経験は、参加者たちに大きな衝撃を与えました。


 彼らが見たのは、日本とはまったく異なる規模で動く近代国家でした。


 巨大な都市。発達した工業力。整備された軍事制度。


 そして、国家同士が交渉によって利益を守る外交の世界。


 日本がこれから向き合わなければならない現実を、彼らは自分の目で知ることになります。


⸻


 その使節団の大きな成果の一つが、イギリスとの交渉でした。


 一八六二年六月六日(文久二年五月九日)、幕府代表とイギリス政府の間でロンドン覚書が調印されます。


 この覚書によって、江戸・大坂の開市、兵庫・新潟の開港は予定より五年間延期されることになりました。


 本来であれば、一八六三年から実施される予定だった開市・開港です。


 幕府は国内の混乱を説明し、外国側との交渉によって猶予を得ることに成功しました。


 もちろん、これは問題の解決ではありません。


 開国という大きな流れそのものを止めたわけではない。


 しかし、幕府にとっては、国内体制を立て直し、新しい時代へ備えるための貴重な時間でした。


 武力で押し返すのではなく、外交によって条件を調整する。


 そこには、それまでの日本にはなかった国際交渉という考え方がありました。


⸻


 そして、この時代に幕府が進めていたもう一つの重要な取り組みが、人材育成です。


 江戸の蕃書調所では、外国語や西洋科学の研究が進められていました。


 後に洋書調所、開成所へと発展し、明治以降の東京大学などにつながっていく機関です。


 そこで学ばれたのは、単なる語学ではありません。


 英語やオランダ語。


 数学や物理学。


 外交文書の翻訳。


 西洋の法律や政治制度。


 外国と交渉するためには、外国を理解する人間が必要だったからです。


 また、同じ文久二年には、榎本武揚、西周、津田真道らがオランダへ派遣されました。


 彼らは造船技術、海軍術、国際法、政治思想などを学び、後の日本海軍や近代法制度の形成に大きな役割を果たします。


 幕府は、軍艦だけではなく、人間そのものを近代化しようとしていたのです。


⸻


 文久遣欧使節団やロンドン覚書を見ていると、幕末の幕府に対する印象は少し変わるかもしれません。


 幕府は、ただ時代に取り残されていた存在ではありませんでした。


 外国と交渉しようとした。


 海外へ人材を送り出した。


 新しい知識を取り入れようとした。


 もちろん、国内政治の混乱や財政難、諸藩との対立など、多くの問題を抱えていました。


 しかし、その中でも「このままでは日本は生き残れない」と考え、変わろうとしていた人々は確かに存在していました。


 文久二年。


 京都では攘夷の声が高まり、幕府の権威が揺らいでいた時代。


 その一方で、海の向こうでは、日本人が初めて本格的に世界を見ていました。


 そこで得た経験や知識は、やがて明治という新しい時代を作る人々へ受け継がれていきます。


 ロンドン覚書と文久遣欧使節団。


 それは、終わりへ向かう幕府の最後の外交ではありません。


 日本が世界と向き合い、近代国家へ進むために踏み出した、最初の大きな一歩だったのです。

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まずは姫様から慶喜への軽いジャブ。 このあとボディーブロー、ガゼルパンチ、デンプシーロールが待ってるぞ(^^;;
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