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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百二十六話「糸子のお嫁入り編―返状」

一

 如月も末になると、奥御殿の庭の土がやわらかく見えるようになった。


 朝のうちに霜が降りることは、もうない。池の縁の石は乾いていて、楓の枝先では、若い葉がほどけかけている。障子を半分開けておいても、座敷の火鉢の炭はそれほど減らなかった。


 昼過ぎ、糸子は文机に向かって、語学所から回ってきた綴りに目を通していた。春から入る者の名と、その者がどこの何の家の出かを書き並べたものだ。善次郎が整えて置いていったもので、字に乱れがない。


 壬生と鷲尾を門の前で見送ってから、ひと月半ほどが過ぎていた。


 そのあいだ、糸子の側から動かせることは何もなかった。宸翰が届かなければ、幕府との話は始まらない。英国への返事も、御門のお許しが出るまでは書けない。空いた手の分だけ語学所と会所の書付が回ってきて、糸子はそれを一つずつ片づけながら日を送った。


 一枚めくったところで、障子の外に葵の気配がした。


「姫様」


「はい」


「近藤殿がお見えです。壬生殿と鷲尾殿を伴っておいでにございます」


 糸子は綴りを閉じた。


 如月に入ってから、表で人の声がするたびに筆が止まるようになっていた。月の終わりが近づくと、それが日に何度もあった。今日は、止めた筆をそのまま置いた。


 壬生と鷲尾が江戸を発ったのは、松の内が明けてすぐのことだった。二人が戻るのは早くても如月の終わりだろうと、あの朝、門の前で見当をつけた。見当は外れなかった。


「お通しして」


「はい」


 葵の足音が遠ざかった。


 糸子は文机の上を片づけた。綴りを脇へ寄せ、硯に蓋をする。膝の上で袖を整え、座り直した。


 ほどなく、廊下に三人ぶんの足音がした。先に立つ足音は重く、残りの二つは静かだった。


「姫様。近藤にございます」


「お入りください」


 障子が開いた。


 敷居の手前に、近藤が膝をついている。その後ろに、壬生影明と鷲尾官兵衛が控えていた。


 二人とも、旅装ではなかった。脚絆も菅笠もなく、羽織に袴を着けている。髷も結い直してあった。


 壬生の右の手が、羽織の胸元に当てられていた。


 三人が膝で進み、糸子の前に並んだ。近藤が真ん中で、右に壬生、左に鷲尾が座る。葵が茶を置いて、次の間との境に控えた。


 近藤が頭を下げた。


「壬生影明、鷲尾官兵衛の両名、京より戻りましてございます」


 近藤は、言葉を足した。


「昨日の暮れ方に、試衛館へ着きました。姫様のもとへはすぐにと申したのですが、旅の埃を付けたまま奥へ上がるわけにはいかぬと、二人とも聞きませぬで。一晩休ませ、今朝、身なりを整えさせました」


「それで、よろしゅうございます」


 糸子は、壬生と鷲尾の顔を順に見た。


 鷲尾は日に焼けた顔のまま、口の端に笑いを浮かべている。壬生はいつもどおり表情が動いていない。二人とも、出ていったときより少し痩せたように見えた。


「壬生殿。鷲尾殿」


「……はい」


「へい」


「よう戻られました」


 糸子は、そう言って頭を下げた。


 門の前で見送った朝、糸子は壬生に、ここで待っていると言った。その相手が、いま目の前に座っている。


「……ただいま、戻りました」


 壬生が、小さな声で言った。


 あの朝、この若者は一言だけ言って発っていった。


「はい。お帰りなさいまし」


 糸子は、もう一度頭を下げた。


「長い道中、まことにご苦労さまでございました。お二人とも、怪我はございませぬか」


「ありやせん」


 鷲尾が答えた。


「行きも帰りも、何事もございやせんでした。京でも、伏見でも」


「それは何より」


「帰りの道は、行きよりいくらか楽でございやした。寒さが緩みやしたんで」


「行きは、松の内が明けてすぐでしたものね」


「へい。あん時は、朝の草鞋が霜で固まっておりやした」


 鷲尾は、そう言って笠を持ち上げるような手つきをした。手だけがいつもの癖で動いたらしく、鷲尾は自分でその手を見て、照れたように膝へ戻した。


 糸子は少しだけ笑った。


「箱根の御関所は」


「へい。行きも帰りも、障りなく通りやした」


 鷲尾は頷いた。


「伏見を発つ朝、山南さんに、道中無理をなさらないようにと言われやしてね。壬生は、そのとおりに歩きやした。急がず、遅れず。あっしのほうが、ついて行くのに難儀したくらいで」


 壬生は黙って頭を下げた。


 糸子は、その胸元に当てられた手を見ていた。壬生はそれに気づいたのか、近藤のほうへ一度目をやった。近藤が小さく頷いた。


 壬生が、胸元へ手を入れた。


 取り出したのは、油紙で包み、紐をかけた包みだった。厚くはない。壬生はそれを両手で持ち、膝で半歩進んで、糸子の前へ差し出した。


「左大臣様より、お預かりいたしました」


 壬生の声は小さかった。


「姫様へ、直に渡せ…と」


 糸子は、包みを両手で受け取った。


 思っていたより軽かった。油紙の上から、紙の重なりが指に触れる。紐の結び目は固く、旅のあいだに一度も解かれた様子はなかった。


「確かに、受け取りました」


 壬生は頷いて、元の座へ戻った。


 糸子は、包みを膝の脇に置いた。紐には手を掛けなかった。父が誰の手も通さずに娘へ渡そうとしたものである。開けるのは、一人になってからでいい。


 座に戻った壬生が、もう一度口を開いた。


「左大臣様より、言伝がございます」


「お聞かせください」


 壬生は一度、目を伏せた。言葉を胸の内で確かめているようだった。それから顔を上げて、糸子を見た。


「くれぐれも、慎重に動け…と」


 壬生は、それ以上何も付け足さなかった。託された言葉を、そのまま運んできた者の顔をしていた。


 糸子は、父の声で聞いたような気がした。


「確かに、承りました」


 糸子はそれだけを答えた。


 次の間との境で、葵は膝の上で手を揃えたまま動かなかった。近藤も黙っていた。


 壬生が口を閉じると、今度は鷲尾が懐へ手を入れた。


「近藤さん。こいつは山南さんからでさぁ」


 鷲尾が差し出したのは、一通の文だった。近藤はそれを受け取り、姫の前で開いてよいかと目で問うた。糸子が頷くと、近藤は封を切った。


 近藤はすぐに読み終えた。


「伏見を発たせた、とだけございます」


「山南殿らしいこと」


「はっ」


 近藤は短く応じて、文を懐に収めた。鷲尾が横で、笑いを噛み殺していた。


二

 糸子は、膝の脇の包みに手を置いたまま、鷲尾のほうへ向き直った。


「鷲尾殿」


「へい」


「京の様子を、聞かせてくださいまし」


 鷲尾は、ちらりと近藤を見た。近藤が頷くと、鷲尾は膝の上で手を組み直した。


「あっしの見聞きしたことでよろしけりゃ」


「それを伺いとうございます」


「へい」


 鷲尾は少し考えてから話しはじめた。


「伏見じゃ、毎朝、町を一回りしておりやした。船着場から南浜の通り、それから街道筋。京へは、壬生のお供で左大臣様の御屋敷まで二度ばかり。あっしは表門の脇で待っておりやしたんで、屋敷の中のことは何も存じやせん。そこはご勘弁を」


「構いませぬ。外のことを」


「へい」


 鷲尾は指を一本立てた。


「まず、薩摩でございやす」


 糸子は黙って聞いた。


「京にいた薩摩の兵は、国元へ引いたまんまでございやす。戻ってくるって話は、どこでも聞きやせんでした。伏見の船宿でも、薩摩の侍を見かけることは、めっきり減っておりやす。前とは、えらい違いで」


「戻る気配も、ないと」


「へい。少なくとも、あっしの耳には入っておりやせん」


「伏見の薩摩の御屋敷は」


「門は開いておりやすが、出入りはめっきりでございやす。留守を預かる者が、たまに出てくるくらいで。朝に前を通っても、荷を運び込む様子もありやせんでした」


 毎朝町を一回りするとき、鷲尾は薩摩の屋敷の前も通り道に入れていたらしい。


 鷲尾は二本目の指を立てた。


「それから、岩倉様でございやす」


「はい」


「岩倉様は、洛北の岩倉村に引っ込まれたまんまで。京の者に訊くと、たいがい、落ちぶれなすったって言いやす。薩摩は逃げ帰って、岩倉様は落ちぶれた。町の噂じゃ、それで話が片づいておりやす」


 鷲尾は、そこで一度言葉を切った。


「ただ、それでもまだ、岩倉様を狙ってる浪人がいるって話は、何度か聞きやした。左大臣様の御屋敷の表門の脇で待ってる間にも、通りがかりの者がそんな話をしておりやした」


「その浪人が、どこの者かは」


「そこまでは分かりやせん。噂でございやす」


 鷲尾は首を振った。


「噂を追いかけるのは、あっしの役目じゃございやせんでしたんで。壬生と書状のことがありやしたし」


「それで結構です」


 糸子は頷いた。鷲尾の役目は、壬生の脇に付いて書状を守ることだった。噂を追って持ち場を離れなかったのは、それでよかった。


「三つ目は」


「へい。町の様子でございやす」


 鷲尾は三本目の指を立てて、それから手を下ろした。


「京の町は、落ち着いておりやす。辻で刀を抜くような騒ぎは、もう聞きやせん。日が暮れてから歩いても、物騒な目には遭いやせんでした。浪人の中には、まだ頭に血の上ったのがちらほらおりやすが、町全体で見りゃ、静かなもんでございやす」


「静かでございますか」


「へい。騒がしかった頃を知ってる者なら、拍子抜けするくらいで」


「伏見から京への道は」


「壬生と二度通いやしたが、竹田の街道筋で浪人を見かけたのも一度きりで、そいつも酒の入った顔で、茶店の縁台に寝ておりやした」


 鷲尾は、そう言って口の端を上げた。


 糸子は、しばらく黙っていた。


 京が静かなのは、糸子にとって悪い話ではなかった。父が公家の家々と話をするにも、辻で刀が抜かれているよりはずっといい。


「壬生殿」


「……はい」


「何か、付け加えることはございますか」


 壬生は、少し考えた。


「……山南殿は、お変わりございませんでした」


「そうですか」


「伏見の試衛館も、皆、変わりございません」


 壬生の話は、それで終わった。


「それは何よりです」


 糸子は、少し間を置いてから訊いた。


「父上は、お変わりなく?」


 壬生は頷いた。


「はい。お変わりなく、ございました」


「何か、仰せでしたか」


 壬生は、一度目を伏せた。


「……遠いところを、よう届けてくれた、と」


 壬生は、そこで言葉を切った。それ以上を口にしようとして、やめたようだった。


「壬生殿は、父上から直にお言葉を賜ったのですね」


「……はい」


「それは、わたくしからも、お礼を申し上げねばなりませぬ」


 壬生は、首を振るような、頭を下げるような、どちらともつかない動きをした。


 糸子は、二人の顔をもう一度見た。


「よく見て、よく聞いてきてくださいました。今の話で、京のことはよう分かりました」


「へい」


「……はい」


「お二人には、長い旅をさせました。しばらくは、ゆるりと休まれませ」


 糸子は、膝の脇の包みに目を落とした。


「お預かりしたものは、確かにわたくしの手に届きました。お二人のおかげでござります」


 壬生が、深く頭を下げた。鷲尾も、それに倣った。


「近藤殿」


「はっ」


「二人を下がらせたら、のちほど今一度、お越しくださいませ。お話がございます」


「承知いたしました」


 近藤は、何の話かとは訊かなかった。


 三人が膝で下がり、敷居の外で一礼した。障子が閉まる前に、鷲尾が一度だけ顔を上げた。目が合うと、鷲尾は口の端で笑ってみせた。


 足音が廊下を遠ざかっていく。重い足音が一つと、静かな足音が二つ。そのうちの一つは、来たときと同じく、ほとんど音を立てなかった。


三

 足音が聞こえなくなると、葵が次の間との境から膝を進めてきた。


「姫様。お茶を、淹れ替えましょうか」


 三人に出した茶は、どれも半分ほど残っている。糸子の前の湯呑みは、手を付けないまま冷めていた。


「いいえ」


 糸子は首を振った。


「葵。しばらく、一人にしておいて」


 葵は、膝の脇の包みに一度だけ目をやった。それから何も訊かずに頭を下げた。


「はい。廊下の先におりますので、御用の折はお呼びくださいませ」


「お願いね」


 葵は湯呑みを盆に集め、障子を閉めて出ていった。足音は、廊下の隅のいつもの場所よりも、もう少し先まで遠ざかった。


 座敷に、糸子一人が残った。


 葵を下がらせたのは、これで何度目になるだろう。何かあることには、気づいているだろう。それを、訊かずにいてくれる。


(本当によくできた侍女だわ、葵は……)


 心のなかで、こっそり褒めた。それから、包みを膝の前に置き直した。


 油紙の上にかけた紐は、壬生の手のなかで東海道を下ってきたものだ。結び目は固い。糸子は爪の先で結び目を探り、時をかけて解いた。刃物で切る気にはなれなかった。


 油紙を開く。


 中には、二つのものが重ねてあった。


 上にあるのは、折りたたんだ書状である。上書きは父の字で、糸子に宛ててある。


 その下に、袱紗で包んだものがあった。袱紗は濃い紫で、包みの角がきちんと揃えてある。大きさは書状と変わらない。袱紗の合わせ目から、白い紙の端がわずかに見えていた。紙の端には、封が施してある。


 糸子は、袱紗に手を伸ばしかけて、止めた。


 何であるかは、開けなくても見当がつく。宸翰を賜りたいと書いたのは、自分である。宛所は将軍後見職、政事総裁職、老中首座の三方と願い出た。その封を切るのは、宛所の三人だ。糸子が開けてよいものではない。


 袱紗の包みを、両手で持ち上げた。


 軽い。それでも、この中の紙は御門が御手ずから書かれたものだ。糸子はそれを膝の脇へ移し、畳の上に直に置かず、油紙を一枚敷いてその上へ載せた。


 それから、父の書状を取った。


  *


 封を解き、紙を広げる。


 父の字が並んでいた。


 去年の皐月、后の内意を知らせてきた書状と、同じ字だった。


 一行目から字に迷いがない。墨の濃さにも、行の運びにも乱れたところがなかった。父は、書くことを決めてから筆を執る人である。


 まず書かれていたのは、受諾のことだった。


 娘の返事を受けて、御門に奏上したこと。御門が安堵なされたこと。そして、御門の仰せになったことが一行、添えてあった。


 受けてくれたか、と。


 糸子は、その一行のところで目を止めた。


 命じるのでも、褒めるのでもない御言葉だった。どのような御顔で、どのような御声で仰せになったのか、父は書いていない。


 それでも、その一行で糸子の胸のあたりが温かくなった。


 次の行へ目を移す。


 御言葉のことが書かれていた。


 御門の御言葉として、父が書き記した一行がある。糸子はそれを、声に出さずに読んだ。


『外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ。』


 糸子は、その一行をもう一度読んだ。


 一字も違っていなかった。


 正月に父へ送った書状に、糸子が添えた文案である。その一行が、いま父の手で、御門の御言葉として書かれていた。


 御門は、娘の文案を一字も直さずにお使いくださった。父は、御門の御声で聞いた言葉を、違えずに書き留めてくれた。


 どちらも、たやすいことではない。誰かの文案をそのまま御言葉になされば、御門はその者の言葉に御名を貸されることになる。それを書き留めた父は、御言葉を娘へ渡す責めを、自分の手で負うことになる。


 糸子は、書状を膝の上に置いたまま、しばらく動かなかった。


(畏れ多くも、忝う存じます。御門様、父上)


 深く頭を下げたかった。座ったまま、少しだけ背を折った。


  *


 書状は、まだ続いていた。


 三つ目は、英国の品のことだった。


 英国の手土産を天朝が受けること。御門はそれをお許しになったと、父は書いていた。


 糸子は、その行の上で指を止めた。


 異人を厭うておられる御門が、どのようなお考えでお許しになったのか。父の書状には、そこまでは書いていない。お許しが出た。それで足りる。


 四つ目は、朝廷のなかのことだった。


『公家の家々のことは、父が引き受ける。』


 一行だけ、そう書いてあった。


 糸子が頼んだとおりの返事だった。どの家と、どのような話をするのかまでは記されていない。父が引き受けると書いた以上、江戸にいる娘が口を挟むことではなかった。


 そして、最後の段に、御門の仰せが書かれていた。


 くれぐれも、慎重に動けと。


 壬生が座敷で口にした言葉と、同じだった。父は書状に書いたうえで、運ぶ者の口にも託したのだ。


 その仰せには続きがあり、宸翰が江戸に着いたあとのことが書かれていた。


 糸子は、膝の脇の袱紗の包みを見た。


 これを幕府の三人に渡した日から、糸子の行く末を知る者は、京の数人と江戸の三人になる。三人の口が堅くとも、その周りには人がいる。御用部屋には右筆がいて、取次の者がいて、茶坊主がいる。


 読み終えて、糸子はもう一度、紙の端から端までを眺めた。


 どの行も、父自身の筆であった。右筆に書かせた字ではない。墨を継ぐ間合いも、筆の運びも、いつもの父の癖のままである。


 人払いをして、一人で書いたのだろう。娘が自ら筆を取り、誰の手も通さず送った文に、父もまた自ら筆を取り、返してきた。


 糸子は書状を膝の上に置いた。


 書状をもう一度頭から読み返した。


 受諾のこと。御言葉のこと。英国の品のこと。家々のこと。慎重に…ということ。


 二度目に御言葉の行まで来たところで、目が止まった。


 一度目に読んだときは、御門と父の心遣いばかりが目に入った。二度目は違った。自分の書いた一行が、御門の御言葉になって戻ってきている。もう、糸子の文案ではない。


 幕府が次に糸子を談判の席へ呼ぼうとしたら、御門のお許しはございますか、と問い返せばよい。


 暮れの談判のあと、慶喜は助かったと言った。次にまた助かろうとなさるなら、御門のお許しを得てからにしていただく。


 思い描いたとおりになった。


 口の端が、勝手に上がった。


(……ふふふふふ)


 声は出さなかった。出さなかったつもりだった。


 糸子は書状を顔の前に持ち上げ、もう一度その一行を眺めた。父の字で、御門の御言葉が書かれている。


(これは、にんまりしてしまいますわね)


 自分でそう思って、また口の端が上がった。


  *


 ひとしきり眺めてから、糸子は書状を膝に下ろした。


 頭のなかで、紙を二枚並べる。


 一枚目は、幕府のことだ。


 順序は、正月に父へ送った書状に書いたとおりである。宸翰で内定を伝え、英国との談判の件を持ち出し、最後に取り立てる。

 この順序は動かさない。


 ただ、一つ目をいつにするかは、まだ決めていない。宸翰が着いたからといって、明日にも城へ持って上がらせる理由はなかった。渡す日は、こちらで選べる。


 実光は、この屋敷の離れに住んでいる。呼べばすぐに来る。今日でなくていい。


 取り立ての席で、御門の御言葉が要る折もあるだろう。幕府が二度と御用掛を勝手に使わぬようにするための一行である。どこで示すかは、そのときの幕府の顔を見て決めればいい。


 二枚目は、英国のことだ。


 こちらは、幕府のこととは別の話である。


 ニールには、暮れから返事を待たせている。望むものは別紙に書いた。受け手を天朝とするお許しは、いま膝の上の書状のなかにある。


 英国を待たせておく理由は、もうない。


 お許しは、いま膝の上の書状のなかにある。


 ニールの体が本復したかどうかは、糸子には分からない。暮れから、ふた月あまりが過ぎている。分からないなら、こちらから日と場所を示せばいい。本復していれば、ニールは来る。していなければ、向こうからそう言ってくる。どちらにしても、話は先へ進む。


 幕府との話は、宸翰を渡すところから始まる。英国との話は、ニールに返事を出すところから始まる。どちらから始めても、もう一方の邪魔にはならない。


 それなら、すぐに動けるほうから片づける。


(まずは、英国ね)


 糸子はそう決めた。


 決めてから、書状の最後の段に目を落とした。


 くれぐれも、慎重に動け。


 御門のその仰せは、宸翰のことを指して出たものだ。それでも、英国の件を慎重に運ばねばならないのは同じである。英国の代理公使と朝廷の使いが会う。場所を誰が用意し、誰が守り、誰がそれを見ているか。一つでも誤れば、そこから別の話が漏れていく。


 この件で慎重に動くとは、場所と守りを固めることだった。


 場所のことは、横浜の町をよく知っている者に訊けばいい。守りのことは、旭狼衛に任せる。近藤には、すでに後で来るよう伝えてあった。


 糸子は、書状を元のとおりに折りたたんだ。


 膝の脇の袱紗の包みを、油紙ごと両手で持ち上げる。文机の脇の文箱の蓋を開け、なかの書付を脇へ寄せて、その底に袱紗の包みを収めた。父の書状もその上に重ね、蓋を閉じた。


 文箱を元の場所へ戻したところで、糸子は手を止めた。


 宸翰の宛所の一人は、将軍後見職、一橋慶喜である。その宸翰が、いま一橋家の上屋敷の奥で、文箱の底に収まっている。宛所の当人が住む屋敷の、同じ屋根の下だった。


 慶喜はそれを知らない。知らせる日は、糸子が選ぶ。


(灯台下暗し…とはこのことね)


 糸子は、文箱の蓋の上を指で一度なぞってから、手を離した。


 それから、障子のほうへ声をかけた。


「葵」


 廊下の先で、すぐに足音がした。


「はい」


 障子が開き、葵が膝をついた。


「善次郎を呼んでおくれ。急ぎの用です」


「はい」


「それから、近藤殿にも、今一度お越しいただくよう伝えて。善次郎と同じ折に」


「承知いたしました」


 葵は、文机の上がすっかり片づいているのを一度だけ見た。包みは、どこにも見えない。葵はそれについては何も言わずに頭を下げ、障子を閉めた。


四

 善次郎が一橋上屋敷へ着いたのは、日が西へ傾きかけたころだった。


 葵の使いを受けて、日本橋からそのまま駆けつけてきたらしい。表の控えの間で一度息を整えてから、奥へ通ってきた。近藤は先に来て、座敷の端に控えていた。


「松屋善次郎、参上いたしました」


 善次郎は敷居の手前で膝をつき、手をついて頭を下げた。


「善次郎。急に呼び立てて、ごめんなさいね。お入りなさい」


「はい。失礼致します」


 善次郎は膝で進み、糸子の正面へ座った。近藤はその斜め後ろにいる。善次郎は近藤へ軽く会釈をし、近藤も頷き返した。二人は、天朝物産会所と旭狼衛のことで、これまで何度も顔を合わせている。


 葵が茶を三つ置いて、一礼して下がった。障子が閉まり、足音が廊下の隅で止まった。


「急ぎの御用と、伺いました」


「ええ。善次郎の知恵を借りたいのです」


 善次郎は、膝の上で手を揃えた。


「手前でお役に立てることでしたら、何なりと」


「その前に、少し話を聞いてくださいまし。近藤殿も」


「はっ」


 糸子は、湯呑みを一度手に取り、口を付けずに戻した。


「暮れに、英国公使館の書記官との談判の席に、わたくしが同席いたしました」


 善次郎の目が、わずかに動いた。近藤は黙っていた。


「その談判のことは、ここでは詳しくは申しませぬ。申し上げたいのは、その後のことです。英国の代理公使、ニールという方は、その折、御体が本復しておられず、談判の席には出てこられませんでした。そこでわたくしは、書記官に申し伝えました。ニール殿の御体が本復いたしましたら、わたくしのもとへ改めて直接、お詫びに参られませ、と」


 善次郎は、すぐには口を開かなかった。


 朝廷の使いが、英国の代理公使に、自分のもとへ詫びに来いと言った。その言葉の重さを、この男は帳面の数字を検めるときと同じ顔で量っていた。


 近藤のほうは、量るより先に顔に出た。眉が上がり、口がわずかに開いて、それから閉じた。


「英国の公使が……姫様のもとへ、詫びに」


「ええ」


「左様にございますか」


 近藤は、それだけ言って膝の上の拳を握り直した。


「……英国の側は、それを」


「受けました。その後、書記官がニール殿の手紙を持ってこられました。先の座に出向けなかったことへの詫びと、わたくしと直接言葉を交わせたことへの礼が書いてありました。それから、手土産を贈りたいので、望むものがあれば知らせてほしい、とも」


「手土産、でございますか」


「ええ」


 糸子は頷いた。


「わたくしは、その手土産の受け手を、わたくし個人ではなく天朝とするつもりでおりました。それには主上のお許しが要りまする。お許しを賜りたいと、京へ願い出ておりました」


「そのお許しが、今日、届きました」


 糸子は、それ以上のことは言わなかった。どのような道で、誰の手で届いたのかも言わなかった。


「受け手を天朝とすること、御門はお許しくださいました」


 善次郎は、深く頭を下げた。


「恐れ多くも、この度の御慶事の段、恐悦至極に存じ奉ります」


「ありがとう」


 糸子は、少しだけ笑った。それから、顔を改めた。


「それで、ニール殿をお迎えする段取りを、そろそろ付けねばなりませぬ。暮れから、ずいぶんお待たせしております」


「はい」


「ただ、どこでお迎えするかが、決まっておりませぬ」


 糸子は、指を一本折った。


「この屋敷では、お会いいたしませぬ。ここは一橋様の御屋敷です。ここでニール殿とお会いすれば、それは一橋様の座になりましょう」


 二本目を折った。


「英国の公使館へも、参りませぬ。詫びに来られるのは、ニール殿のほうです。わたくしが英国の座へ出向けば、その話がこちらから崩れます」


「ごもっともにございます」


「わたくしは、横浜でお迎えしたいと思っております」


「姫様が、横浜へお出ましに」


 善次郎の声が、わずかに上ずった。近藤も顔を上げた。


「ええ」


 糸子は、こともなげに頷いた。


「公使館は横浜にございますし、ニール殿にとっても遠くはございませぬ。横浜には、会所の取扱所もございます」


 糸子は、善次郎の顔を見た。


「善次郎。英国の代理公使をお迎えするのに、横浜に良い場所はございませぬか」


 善次郎は、すぐには答えなかった。


 膝の上で揃えた指が、帳面をめくるときのように少しだけ動いた。去年の皐月から五箇月ほど、善次郎は横浜に詰めていた。吉田橋の関門も、関内の町割りも、居留地の通りも、自分の足で歩いている。


「取扱所では、いけませぬか」


 近藤が、横から言った。


「取扱所は、商いの店にございます」


 答えたのは善次郎だった。


「一階は品の見本を並べた店先で、二階が帳場、三階は検品の場にございます。異人の商人も、日本の商人も、毎日出入りいたします。そこへ代理公使をお迎えすれば、その日のうちに居留地じゅうに知れましょう。それに、あそこで会えば、それは商いの座になります。詫びをお受けになる座としては、体裁が整いませぬ」


「なるほど」


 近藤は、それで引いた。


 善次郎は、もう一度考える顔になった。それから、顔を上げた。


「候補となる場所を、いくつか思いつきました」


 善次郎は、そう前置きした。


「関内でございましたら、弁天様のお社がございます。取扱所からも近うございます。ただ、あそこは参詣の人が多く、門前には茶屋が並んで、朝から晩まで人目が絶えませぬ。英国の代理公使が入っていけば、その日のうちに町じゅうの噂になりましょう」


「人目は、少ないほうがよろしいですね」


「はい。それで、もう一つ」


 善次郎は、顔を上げた。


「増徳院は、いかがでございましょう」


「増徳院…?」


「はい。横浜の本村にある寺にございます」


 善次郎は、言葉を選びながら続けた。


「開港の折、もとの横浜村の者たちは、いまの関内から本村のほうへ移されました。増徳院は、その本村に古くからある寺にございます。創立は大同の頃と伝わっておりまして、横浜村の者にとっては、ずっと信心の拠り所にございました。横浜で古い寺と申せば、まずあそこにございます」


「大同と申せば、ずいぶん昔ですのね」


「はい。真偽のほどは手前には分かりかねますが、土地の者はそう申しております」


 善次郎は、続けた。


「寺の客殿でございましたら、公のお役所ではございませぬ。それでいて、古い寺でございますから、格式はございます。代理公使をお迎えしても、見劣りはいたしませぬ」


「はい」


「それから、武家の御屋敷を借りるよりも、御公儀の色が付きませぬ。横浜で座敷のある屋敷と申せば、たいがいはどこかの御役所か、御役人の御屋敷でございます。そこを借りれば、その座は御公儀の座になってしまいます」


 糸子は、黙って頷いた。


 善次郎が挙げたのは、誰の座にもならない場所だった。


「場所も、悪くございませぬ」


 善次郎は、指で畳の上に小さく線を引くような手つきをした。


「取扱所は吉田橋の関門を入ってすぐ、関内の日本人町の側にございます。そこから居留地を抜けて、堀川を渡った先が本村です。増徳院は、その本村にございます。居留地からは近うございますので、ニール様にはお越しいただきやすうございましょう」


「取扱所からは」


「遠くはございませぬ。関門を一つ越えますが、歩いて行ける道のりにございます」


 糸子は、頭のなかに善次郎の引いた線を描いた。吉田橋、関内、居留地、堀川、本村。ニールは居留地から出て、少し歩くだけで済む。糸子は取扱所から、関門を一つ越えて向かう。


「客殿は、代理公使をお迎えできるほどの広さがございますか」


「客殿があることは存じております。ただ、中へ上がったことはございませぬ」


 善次郎は、正直に言った。


「広さも、造りも、手前の目ではまだ確かめておりませぬ。それも含めて、取扱所の者に検めさせます。足りぬとなれば、また別の手を考えます」


「お願いいたします」


「借りるとしたら、どのような形に」


「天朝物産会所が、天朝の名で、寺の一角を借り受ける形がよろしかろうと存じます」


 善次郎は、そこで少し声を改めた。


「手前どもの店の名や、会所の名だけで借りれば、商いの座になります。近衛家の御名で借りれば、姫様がお出ましになることが、寺の者にも知れましょう。天朝の名でお借りすれば、それは天朝の座にございます。寺の者には、それ以上のことを申す要はございませぬ」


「なるほど」


「はい。ニール様が詫びに参られる先は、天朝の座にございます。手土産の受け手も、天朝。話の筋が通りましょう」


 近藤が、低く唸った。


「天朝の座ならば、守るこちらも筋が立ちまする」


 糸子は、思わず善次郎の顔を見直した。


 手土産の受け手を天朝とすることは、さきほど話したばかりである。善次郎はそれを、座の名義にまで繋げてきた。帳面の上で勘定の筋を一本に揃えるときと、同じやり方だった。


「増徳院で、お願いいたします」


「承知いたしました」


 善次郎が頭を下げた。


「それから、お借りするにあたっては、寺へ相応の寄進をいたします。お礼でございます。そこは手前どもで、よしなに計らいます」


「お任せいたします」


 寄進の額は訊かなかった。善次郎が相応と言うなら、帳面の上でも相応なのである。この男の相応が外れたことは、これまで一度もない。


「寺へは、どなたが」


「明日、手前が取扱所へ文を出し、まずは取扱所の者に寺の様子を見させます。話が通りそうであれば、手前が自分で横浜へ参り、寺へご挨拶に上がります。天朝の名をお借りする話でございますから、手代任せにはいたしませぬ」


「天朝の名を使うことは、わたくしが引き受けます」


 糸子は言った。


「御門がお許しになったのは、手土産の受け手を天朝とすることです。その手土産を受ける座を天朝の名で設けるのは、同じ筋の話です。何か言う者があれば、わたくしのところへ回してくださいまし」


「はい。分かりました」


「支度には、どれほどかかりましょう」


「寺の返事次第にございます。お引き受けいただけるとなれば、座敷を整え、当日の段取りを決め、取扱所の者に道を検めさせます。近藤様のほうの手配と合わせまして、整いましたら、すぐにお知らせいたします」


「急かしはいたしませぬ。確かに整えてくださいまし」


「はい」


「善次郎」


「はい」


「場所が決まりましても、守りが整わなければ、何にもなりませぬ」


 糸子は、近藤のほうへ顔を向けてから、善次郎に戻した。


「近藤殿とよくご相談のうえ、警護の面でも万全を期してくださいまし」


「心得ましてございます」


 善次郎は、斜め後ろの近藤へ向き直り、改めて頭を下げた。


「近藤様。よろしくお頼み申します」


「うむ」


 近藤は短く応じた。


五

「近藤殿」


「はっ」


 近藤が、膝を半分ほど進めた。


「お聞きのとおりです。英国の代理公使と、横浜でお会いいたします。わたくしは江戸から横浜へ出ることになります」


「承知いたしました」


 近藤は、すぐに頷いた。


 姫が江戸の外へ出る。行き先は異人の多い町で、会う相手は英国の代理公使である。近藤はそれを一つずつ考えている顔をしていたが、危ないとも、行くなとも言わなかった。


「警護のことは、旭狼衛にて万全を期します」


「お願いいたします」


 糸子は、そこで少し声を改めた。


「近藤殿。此度の警護は、すべて近藤殿が差配してくださいまし」


 近藤の目が、糸子を見た。


「道中も、横浜の町も、増徳院の座も。誰をどこに置くか、どの道を通るか、何人付けるか。すべて近藤殿がお決めください。わたくしは口を挟みませぬ。善次郎の支度も、守りに関わるところは近藤殿の言うとおりにいたします」


 善次郎が、黙って頷いた。


 近藤は、すぐには答えなかった。


 近藤は、こういうときに軽々しく返事をする男ではない。姫の身を守ることは、これまでも旭狼衛の役目だった。ただ、すべてを一人で差配せよと、ここまではっきり言われたことはない。


「……御意」


 近藤は、深く頭を下げた。


「此度の警護、すべてお預かりいたしまする」


「頼みます」


 糸子は頷いた。


「道筋や、横浜に何日置くかも、近藤殿がお決めください。わたくしは、決まったとおりに動きます」


「はっ。道筋は、改めて絵図にしてお目にかけまする」


「楽しみにしております」


 近藤は少し妙な顔をした。警護の絵図を楽しみにする姫は、ほかにいないのだろう。


 近藤は、顔を上げると、少し考える顔になった。


「姫様。一つ、申し上げてよろしゅうございますか」


「どうぞ」


「姫様の御身の傍には、総司と斎藤を付けとう存じます」


「沖田殿と、斎藤殿を…?」


「はっ」


「道中と町の守りは、別に人を割きまする。ただ、姫様のすぐ傍には、腕の立つ者を置きとうございます。何かあったとき、最後に姫様の前に立つ者にございます」


「はい…」


「総司は、年が明けてから、剣がまた一段と冴えております。姫様もご存じのとおり」


「確かに、そうでございますね」


 糸子は頷いた。


「斎藤は……」


 近藤は続けた。


「斎藤は、いつも総司の間合いの届くところにおります。二人まとめて置けば、総司が前へ出たとき、斎藤がその後ろを埋めまする。あの二人なら、互いの動きを見ずとも分かっております」


「お互いの連携が取りやすいと?」


「はっ。斎藤は、口では何も申しませぬが」


 近藤は、そこで少しだけ口の端を緩めた。


「奴は……総司のことを、誰よりもよう見ております」


 糸子は、思わず笑った。


 沖田が無の境地の話をした日、近藤は最後まで腑に落ちぬ顔をしていた。その近藤が、斎藤は誰よりも沖田をよく見ていると言う。今度の言葉には、迷いがなかった。


 自分の目で見てきたことを、そのまま口にしている者の言葉だった。


「お二人で、お願いいたします」


「はっ」


「沖田殿には、わたくしから申しましょうか」


「いえ」


 近藤は首を振った。


「総司には、こちらから申しつけます。姫様のお傍を任されたと聞けば、あれは喜びましょう。斎藤は、何も申さずに付いてまいりましょう」


「沖田殿が、あまりお喜びになって、道中で目立たれませぬように」


 糸子がそう言うと、近藤は一瞬言葉に詰まり、それから真顔で頷いた。


「……よう言い含めておきまする」


 善次郎が、下を向いて咳払いをした。


「では、お任せいたします」


  *


 糸子は、善次郎のほうへ向き直った。


「善次郎。もう一つ」


「はい」


「ニール殿への返事のことです」


 善次郎が、膝の上で手を揃え直した。


「返事は、横浜の取扱所を通して、英国の公使館へ届けてくださいまし。書状は、わたくしが書きまする」


「承知いたしました。取扱所から、手前どもの者が持って参ります」


「書くのは、お会いする日と、場所だけにいたします」


 善次郎が、わずかに首を傾げた。


「手土産のことは」


「お会いした折に…と書きます」


「書状には、お書きにならぬので」


「ええ」


 糸子は頷いた。


「書状にすれば、公使館の中で何人もの目に触れます。写しを取られることもありましょう。顔を合わせて話すのであれば、余計な詮索をする者も、取り違えて受け取る者も少なくなりましょう」


 善次郎は、少し考えてから頷いた。品書きを先に相手へ渡さないのは、商いでも同じである。


「日は、いつになさいますか」


「善次郎の支度と、近藤殿の守りが整う日に」


 糸子は二人の顔を順に見た。


「増徳院との話がまとまり、近藤殿の手配がつきましたら、知らせてくださいまし。その日を見てから、わたくしが日を決めて書きます」


「心得ましてございます」


「はっ」


 二人の声が、少しずれて重なった。


 善次郎は、懐から小さな帳面を出して、何かを書き付けた。増徳院、天朝名義、寄進、取扱所より公使館へ。書き付ける順は、さきほど話した順のとおりだった。近藤は、膝の上で拳を握ったまま、もう頭のなかで人の割り振りを始めている顔をしていた。


「二人とも、急な話ですみませぬ」


「とんでも御座いません」


 善次郎が頭を下げた。


「では、手前は明日にも横浜の取扱所へ文を出します」


「近藤殿は」


「今夜のうちに、総司と斎藤、それから主だった者を集めます」


「お願いいたします。壬生殿と鷲尾殿は、今夜はゆっくり休ませてあげてくださいまし」


「はっ。あの二人は、今夜は呼びませぬ」


 近藤は、そう言ってから少し考えた。


「もっとも、鷲尾は呼ばずとも顔を出しましょうが」


「そのときは、お茶でも出してあげて」


「はっ」


 二人は膝で下がり、敷居の外で一礼した。障子が閉まり、二つの足音が廊下を遠ざかっていった。重い足音と、それより少し速い足音だった。


六

 座敷に、糸子一人が残った。


 三つの湯呑みが、畳の上に並んでいる。善次郎の湯呑みは空で、近藤の湯呑みは半分残っていた。糸子の湯呑みには、今日も口を付けていなかった。


 庭のほうへ目をやると、日はもう塀の向こうへ沈みかけていた。障子の白いところが、薄い茜に染まっている。


 糸子は文机の前へ膝を戻し、抽斗から帳面を一冊取り出した。


 暮れに書き散らした紙が、間に挟んである。英国の三枚と、幕府の五枚半。正月に別紙を書いたときに一度開いて、それきりになっていた。


 英国の三枚だけを抜き出して、文机の上に並べた。


 一枚目は、別紙に書いた七つと同じである。二枚目と三枚目には、思いつくままに書いたものが並んでいる。暮れの夜にこれを見せたとき、葵は、姫様が求めるのはせいぜい二つか三つだと思っていたらしかった。


 一枚目の上に、指を置いた。


 御門のお許しは届いた。場所の当ても付いた。守りは近藤が預かった。返事は、日が決まれば取扱所を通して届けられる。あとは、ニールと顔を合わせるだけだ。


 望むものを先に言わせようとした男である。座敷で向かい合えば、ニールは糸子の顔を見て、何をどこまで出すかを量るだろう。


 それなら、量られる前にこちらが量ればいい。


 文机の脇の文箱が、目の端に入った。底には袱紗の包みと父の書状が収めてある。幕府の三人との話は、そのあとだ。逃げはしない。


 糸子は、三枚の紙を眺めた。


 眺めているうちに、また口の端が上がってきた。今度は、止めようとも思わなかった。


「まずは、英国から……」


 声に出すと、思っていたより弾んだ声になった。


「毟り取ってくれましょう!」


 膝の上で、拳を握る。


 文机の上の三枚の紙が、行灯を点ける前の薄暗がりのなかで白く浮かんでいた。


「うけけけけけけーーーーーーっ」


 第二百二十六話 了

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!


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