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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百二十五話「糸子のお嫁入り編―御常御殿の灯」

一

 取次の者が、障子の内へ短く声をかけた。


 内から応じる声があって、障子が音もなく開いた。取次は膝をついたまま脇へ退き、忠房に道を空けた。


 忠房は膝で敷居を越え、そこで深く平伏した。


 御常御殿の一間には、障子越しに昼の光がやわらかく入っている。常の政を執る小御所や清涼殿と違って、この部屋には儀式の重々しさがない。かわりに、人の気配が薄い。背後で障子が閉まり、取次の足音が廊下を遠ざかっていく。それが聞こえなくなると、部屋の中で音を立てるものは何もなくなった。


 忠房は額を畳に近づけたまま、声がかかるのを待った。


 摂家の当主でも、帝みずから声をかけられるまで頭は上げない。内々の席でも、それは変わらない。


「面を上げよ、忠房。近う直れ」


 忠房はおもてを上げ、御前近くへにじり寄った。内々の席なので御簾は上げられ、あいだを隔てるものはない。御門は御座にあって、脇息に軽く肘を置いておられた。忠房は御前の近くまで進み、そこであらためて手をついた。


「畏り奉りて候。臣・忠房、御前に参りて候」


 御門は、忠房の顔をじっと見ておられた。


「私事と聞いた」


 先に切り出されたのは、御門のほうだった。


「はっ」


「そなたが私事と申して参るのは、珍しい」


 私事とだけ申し上げて伺いを入れたとき、御門には、おおよその察しがついておられたのだろう。御声に、問いただす色はなかった。


「かねて御相談を賜りました儀の、娘よりの返事を持参いたしました」


 脇息の上で、御門の手が止まった。


 去年の初春の宵、この同じ御殿で、御門は相談にのってくれと仰せになった。忠房は、その相談の答えを、いま持ってきている。


「……申せ」


 低い御声だった。


 忠房は懐から娘の書状を出し、厚い紙の束の最初の数枚を膝の前に開いた。


「娘の書いたままを、読み上げさせていただきまする」


 御門は黙って頷かれた。


 受諾の行に目を落とす。もう幾度も読んだ行だった。それでも、御前で声に出すのは初めてである。


『御門の内々の思し召し、謹んで拝受(はいじゅ)つかまつりまする。このまろをかほどまでに高く評してくださいましたること、有り難う存じ奉りまする……』


 読み終えて、忠房は紙を膝の上に置いた。


 御門は、すぐには何も仰せにならなかった。


 家臣や女官の前で声を上げて笑うことも、取り乱すことも、御門には許されていない。常に動かずにいることを求められる身である。いまも御門のおもてはほとんど動かず、脇息に置かれていた手が、ゆっくりと膝の上へ戻っただけだった。


「そうか……」


 ようやく漏れた御声は、さっきまでの低さとは違っていた。


「受けてくれたか」


「はっ」


「安心したぞ、忠房」


 去年の初春の宵、相談にのると申し上げたときにも、御門は同じ言葉を口にされた。あのときと同じように、御門の頬から力が抜けていた。


 忠房は、あらためて頭を下げた。


「この文は、いかにして参った」


「江戸より、使いの者が二人、東海道を歩いて運んでまいりました。娘はいつも天朝の文の道で文を寄越しまするが、この一通だけは、その道に載せませなんだ。運ぶ者にも中身は知らせず、臣のほかの誰の手にも渡すなと申しつけておりました」


「そうか」


「運んできた者に、娘の様子を尋ねましてござりまする。健やかにしておる、と。娘は屋敷の表の門まで出てきて、手ずからこの文を渡したそうにござりまする」


 御門の目が、わずかに見開かれた。


「糸子が、わざわざ表の門までか」


「はっ」


 御門は黙っておられた。


「……それだけの文であったということだな」


「臣も、そのように受け取りましてござりまする」


 御門は障子のほうへ目をやり、それから忠房に目を戻された。


「忠房」


「はっ」


「糸子は、己の心で決めたのであろうな」


 静かな問いだった。


 断ってもよいと、御門は仰せになっている。その御言葉に偽りはなかった。いま御門がお尋ねなのは、娘がその道を見たうえで選んだのかどうかである。


 忠房は、膝の上の紙をもう一度取り上げた。


「娘は、このようにも書いておりまする」


 受諾の行に続く一文を、そのまま読んだ。


「父上の願いにもお応えいたしとう存じまする」


 御門の眉が、わずかに動いた。


 忠房は言葉を足した。


「臣は、受けてほしいという己の願いを、御意とは分けて書き送りましてござりまする。娘から返事が参りましたのは、それから半年あまりのち。そのあいだ娘は、いろいろなことを行なっていた様子。そのうえで、この返事をして来たものと存じまする」


 紙の端を、指で揃える。


「急がずともよいと書いたのは臣にござりますが、娘は詫びから書き起こしておりました。……これだけの時をかけて、娘は己で決めましてござりまする」


 御門は黙って聞いておられた。


 やがて、小さく息をつかれた。


「そうか。……半年か」


「はっ」


「糸子が、それだけの時をかけて決めたのであれば、朕から申すことはない」


 忠房は顔を伏せた。


 返事はしばらくお待ちいただきたいと言上してから、御門はこの件について、一度もお尋ねにならなかった。その御言葉どおりに、待っていてくださったのである。


「娘は、末にこうも書いておりまする」


 紙の束をめくり、末尾近くの一行を開いた。


「お急ぎには及びませぬ。父上が、わたくしにくださりましたほどの時を、此度はわたくしがお待ち申し上げまする」


 御門の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。


「半年待たせて、今度は待つと申すか」


「はっ。臣も、読んで笑いましてござりまする」


「……糸子らしい」


 御門は、それだけ仰せになった。


二

 御門の面から、ゆるみが引いていった。


「して、忠房。それだけではあるまい。その厚さは」


 御門の目は、忠房の膝の上の紙の束に向いていた。


「はっ。ここから先は、娘が御用掛として書いたものにござりまする」


 忠房は姿勢を改めた。


 娘の書いた順に申し上げる。そう決めて、ここへ来ている。


「去年の暮れ、江戸において英国公使館との談判がござりました。その席に、娘が同席いたしましてござりまする」


 御門の目が、わずかに細められた。


「同席とは」


「将軍後見職、一橋殿の求めによるものにござりまする。娘が天朝外語御用掛の任にあることを、一橋殿はその根拠として挙げられた由」


「朕は、聞いておらぬ」


「臣も、娘のこの書状で初めて知りましてござりまする。京には、何も聞こえて参りませなんだ」


 御門は黙っておられた。


「一橋は、何のために朕の使いを呼んだ。通詞が要ったのか」


「娘は、それについてこう書いておりまする」


 忠房は、その行を読み上げた。


「慶喜殿の御所望は、通詞の役にてはござりませぬ。英国の書面は日本の政府に宛てたるものにて、御公儀とは記されてござりませぬ。その座に朝廷の使いが列なりおれば、答えたるは御公儀のみにあらずと相成りまする。御公儀の答えに、朝廷の御名を連ねさせんとの御所存と拝察いたしまする」


 読み終えたとき、脇息の端にかかっていた御門の指に、力が入っていた。


「一橋め……朕の使いを、幕府の答えの」


 御声が、そこで高くなりかけた。


 そして、止まった。


 御門は唇を結び、指から力を抜かれた。生来、気性の激しい方である。それを抑えることを、この御殿で幾年もかけて身につけてこられた。忠房はそれを知っている。だから、御声が元に戻るまで、顔を伏せて待った。


「……続けよ」


 元の低い御声だった。


「はっ。娘は、一橋殿を責める言葉は一つも書いておりませぬ。一橋殿がどう求め、何を根拠とされ、その狙いがどこにあると拝察するか。書いておりますのは、それだけにござりまする。いかにお裁きになるかは主上の御心のままに、と臣は読みましてござりまする」


「責めぬ、か」


 御門の目が、天井のあたりへ逸れた。


「それで、糸子は朕に何を望む」


「三つ、ござりまする」


 忠房は紙をめくった。


「一つは、内々の御言葉にござりまする。書面ではなく、御言葉として賜りたい。それを臣の書状に記して、江戸へ伝えたいと申しておりまする。文案を添えてござりまする」


 忠房は、その一行を読んだ。


「外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ」


 御門は、口の中で一度、その文言を繰り返された。声にはならなかったが、唇がそう動いたのを忠房は見た。


「なぜ、書面にせぬ」


「書面は残りまする。残ったものは、いずれ誰かの目に触れ、言葉の裏を読まれまする。臣の文のなかに一行あるだけであれば、幕府に示す相手も、示す折も、娘のほうで選べまする。娘はそう考えておるものと存じまする」


「……用心深いことよ」


 咎める調子ではなかった。


「二つめは、宸翰にござりまする」


 書状を吟味した夜に、折り目を付けておいた行を開く。


「宸翰を賜りまするならば、御宛所は将軍後見職、政事総裁職、老中首座の御三方と願い上げまする。御文中に、仔細は左大臣忠房に問え、との一句をお加えくださりますれば、御公儀の御念押しは、ことごとく父上の御許へ参りまする」


「そなたに問え、と書けと申すか」


「はっ。宸翰は武家伝奏から所司代への道は通さず、身内の者に運ばせ、江戸にては水無瀬実光に城へ持って上がらせたいと申しておりまする」


 御門の目が、忠房の顔に止まった。


 伝奏も所司代も通さない。それが何を意味するか、御門がお分かりにならないはずはない。忠房も、それ以上は申し上げなかった。いまここで言葉にすることではないと思った。


「三つめは」


「こちらにござりまする」


 忠房は、懐からもう一通の薄い書状を取り出した。


「この一通だけは、天朝の文の道で、十日あまり先に届いておりました。途中で開けられても障りのないよう、英国の申し出と品のことしか書いておりませぬ。英国の代理公使より、娘に手土産を贈りたいとの申し出があった由。何の礼かは書いてござりませなんだが、本状を読みまして、先の談判の礼と存じました。受け手を天朝とすることにつき、主上の御内諾を賜りたいと申しておりまする」


 忠房が別紙を開いて差し出すと、御門は手に取って目を通された。


 機械と船と、人と、先々の約束。御門は、その列を一つずつ目で追っておられた。


「……手土産、か」


「はっ」


 御門は別紙を膝の上に置かれた。


「三つとも、しばし預かる。宸翰は、朕が自ら書かねばならぬ。日がかかる」


「ははっ」


「ほかに、糸子は何と書いておる」


「この件を知る者について、このように」


 忠房は、もう一度紙をめくった。


『此度の儀を知りおる者、東国(あづま)にてはわたくし一人にございます。葵にも未だ聞こえさせず。御公儀へ明かし奉るは、宸翰(しんかん)のお下りになりましたる後、御三方に限りとう存じまする。』


「葵とは?」


「娘の傍に仕えておる侍女にござりまする」


 御門の目が、わずかに和らいだ。


「その者にも、言わずにおるのか」


「はっ。臣が去年の書状に、この事を真と知らせるのはごく限られた者のみ、と書きましたゆえ」


「……そうか」


 忠房は頭を下げた。


 御門は、何も仰せにならなかった。頭を上げてよいものか、忠房が迷いはじめたころ、御声が落ちてきた。


「忠房」


「はっ」


「糸子に伝えよ。くれぐれも、慎重に動けと」


 忠房は顔を上げた。


 御門は、忠房をまっすぐに見ておられた。


「内定が知れれば、護るどころか、狙う者を増やす。践祚の折までに、あの姫に何かあっては」


 そこで言葉が切れた。


「……くれぐれも、と伝えよ」


「はっ。必ずやお伝えいたしまする」


 忠房はもう一度、深く平伏した。


 御前を下がるとき、忠房は紙の束を懐へ戻した。別紙は、御門の膝の上に残された。


三

 忠房の足音が、廊下の奥へ消えていった。


 帝は、膝の上の薄い紙を見ていた。


 近衛の姫の手である。どこにも迷いのない字だった。


 受けてくれた。


 忠房が読み上げた一行が、まだ耳に残っている。謹んでお受け申し上げまする。


 帝は膝に手を置いたまま、動かなかった。人払いはしてある。誰も見てはいない。それでも声は出さなかった。出さずにいることが、この身にはとうに常のことになっている。


 去年の初春、あの宵の前に、帝は庭で遊ぶ祐宮の背を見ていた。


 泥の面子を縁側に並べて、異国の船を追い返すのだと胸を張っていた。おもうさまが日ノ本をお守りくださっているように、と言った。その声は、いまも耳に残っている。


 あの子は、いつか帝位を継ぐ。そのとき、いまの朕と同じように、この深宮に囚われ、押し寄せる書状の山とたった一人で向き合うことになる。恐れも孤独も胸の内へ封じたまま、動かずにいることを強いられて。


 そんな思いは、あの子にはさせたくない。そう思い定めて、帝は忠房を呼んだのだった。


 強くあれと言い聞かせるのは、父の役目である。それでも、一人で強くあれとは言いたくなかった。


 あの子の傍らに、糸子を置く。公家の姫とは思えぬ知略と胆力で、この国のため、朕のために動いている者である。あの姫がそばにいれば、祐宮は一人で書状の山に向き合わずに済む。帝が一人で受け止めてきたものを、二人で受け止められる。


 それが、一つめの理由だった。


 二つめの理由のほうが、帝の胸には重かった。


 帝が信を寄せるほど、あの姫は帝を惑わす奸臣として狙われるであろう。


 君側の奸。


 その名を着せられた者が、この国でどうなってきたかを、帝は知っている。帝が信を置いた者の名が、過激の徒の口から「奸物」と叫ばれる。君主の側近を、国を誤らせる悪臣として排除する。その大義を掲げた政変や騒擾は、朝廷の歴史の中で幾度も繰り返されてきた。


 そして帝の後ろ盾は、帝が世にあるあいだしか続かない。


 后という地位は、次の御代にも続く。祐宮の傍らに后として立つ者を、君側の奸として払うのはたやすいことではない。


 受けてくれたことで、それが整う。


 帝は、膝の上の紙から目を上げた。


 障子の外で、昼の光がゆっくり傾きはじめていた。


 祐宮は、いまごろ御進講の刻だろうか。四書の素読をしているのか、有栖川流の手本をなぞっているのか。去年は、あの子が歌を差し出すたびに、余白に筆を入れてやった。心を伸びやかに広げてみよ、小さくまとまろうとしてはならぬ、と言い聞かせた。あの子は真剣な顔で、小さく頷いた。


 あの子の歌が伸びやかであってほしい。そのためには、あの子の御代が穏やかでなければならない。


 帝は、忠房が読み上げた別の一節を思い返した。


 一橋殿の御所望は、通詞の役にてはござりませぬ。


 指に、また力がこもった。


 あの姫を江戸へ送り出したのは帝である。天朝外語御用掛に任じ、御名代として、朕の言葉を伝える者として送り出した。異国の使いの前でも、幕府の重職の前でも、あの姫は帝の名を背負って立っている。


 その姫を、一橋は、幕府の答えに朝廷の名を連ねるために使った。


 一橋を後見職に据えたのは、去年、朕が江戸へ下した勅である。勅使を立て、式目を下し、幕府にそれを呑ませた。その後見職が、朕の使いを、幕府の都合で座らせた。


 呼んだこと自体は、咎めようがない。異国との掛け合いは幕府一手に扱えと、御沙汰の覚に書かせたのは朝廷のほうである。御用掛を座に呼ぶのに朕の許しが要るとは、どこにも書いていない。


 咎めるべきは、そのあとだった。


 談判は暮れのことだという。年が明けても、所司代からは一言もなかった。朕の使いを座らせておきながら、幕府はそれを朕に告げなかった。


 告げるまでもない、と言うのであろう。御用掛が座にいた。朝廷はその場で聞いている。改めて申し上げるには及ばぬ、と。


 告げれば、朝廷の名を借りたことを自ら明かすことになる。告げなければ、朝廷は聞いたことにされたまま、何も知らずにいる。黙っていることまで含めて、一橋は姫を座らせたのだ。


 姫は、一橋を責める言葉を一つも書いていないという。書かずとも、朕に届いた知らせが姫の文だけであったことが、何よりの答えだった。


 咎められぬように組んであることが、かえって腹立たしかった。


 朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ。


 姫の文案は短い。短いが、言うべきことはすべて言っている。御用掛は朕の言葉を伝える者であって、幕府の言葉を飾る者ではない。それを、朕の口から言わせようというのである。


 言うてやろう、と帝は思った。


 それから、宸翰のことを考えた。


 伝奏も所司代も通さず、関白も経ない。宛所は、幕府の要の三人。文中に、仔細は左大臣忠房に問え、と書く。


 それがどういう紙になるか、帝は知っていた。安政の折に水戸へ降りた勅が何と呼ばれ、そのあと何が起きたかも知っている。関白が替わって、まだ日も浅い。その新しい関白の手を経ずに、朕の手から幕府の要へ、じかに紙が渡ることになる。


 それでも、書く。


 帝は、そう決めた。


 膝の上の別紙をたたみ、文机の端へ置く。


 それから、御次の間に控える者を呼んだ。


「硯を持て。それと、料紙を」


四

 同じ日の夕刻、一条忠香は自邸へ戻った。


 御所の北にある一条邸は、門を入ると前庭の白砂がきれいに掃き清められている。忠香は出迎えた家司に冠と装束の世話を任せ、くつろいだ姿に改めてから、奥へ向かった。


 奥の一間の障子が、半分ほど開いていた。


 中では、娘の寿栄君が文机に向かっていた。


 今年で十四になる。小柄な体を文机の前にきちんと据え、背筋をすっと伸ばしたまま筆を運んでいる。眉は剃り落とされ、額の高いところに墨で殿上眉が描かれていた。筆を止めて紙を見直すとき、わずかに開いた口元に、お歯黒が黒く光った。


 文机の脇には、古今和歌集の写本が開かれている。寿栄君(すえぎみ)は、その春の部を写していた。


 忠香は廊下に立ったまま、娘の手元を眺めた。


 筆の運びに迷いがない。一字ごとに墨の濃淡が整い、行が乱れない。一枚写し終えると紙を脇へ除け、次の紙を延べる。その動きにも無駄がなかった。


 やがて寿栄君(すえぎみ)が顔を上げ、父に気づいた。


 筆を置き、膝を回して手をつく。


「おもうさま。お帰りなされませ」


「うむ。精が出るのう」


 忠香は敷居を越え、娘の傍らに腰を下ろした。文机の上の紙に目をやる。


 袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ


 古今の巻頭から二首目、紀貫之の歌だった。


「春の部におじゃるか」


「はい。梅も見頃になりましたゆえ、春の部を頭から写し直しとうなりまして」


「ほう」


 忠香は、少し意地の悪い顔をしてみせた。


「では、その一つ前の歌は」


 寿栄君は、写本に目を落とさなかった。


「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ。在原元方にござりまする」


 澱みのない答えだった。


 忠香は、扇の要で膝を軽く打った。


「よう覚えておじゃる」


「毎日、口に出しておりますれば」


 寿栄君はそれだけ言って、控えめに目を伏せた。誇る様子はなかった。


 忠香は、娘の写した紙を一枚手に取った。


 和歌も、古典も、書も、この娘には幼いころから一日も欠かさず叩き込んできた。琴も茶も花も香も習わせた。御所言葉の受け答えも、重い衣を着たままの立ち居振る舞いも、一つずつ身につけさせてきた。


 ただの嗜みのためではない。いつ、どこから正室にと望まれても、一条の娘は教養も品格も欠けるところがないと、その場で差し出せるようにしておくためである。上の娘たちも、そうして育ててきた。


 この娘は、その中でも出来がいい。我が娘ながら、よう出来ておると忠香は思う。


 覚えが早く、根気がある。おっとりして見えるが、学ぶことにかけては並の大人より長く気が続く。それを誰よりもよく知っているのは、忠香だった。


 公家の娘とは、こういうものだ。


 歌を詠み、文を読み、筆を執り、奥にあって家の格を映す。今朝、虎の間で左府に言ったことを、忠香は胸の内でもう一度繰り返した。


 近衛の姫の話は、忠香も聞いている。


 メリケンの者どもと膝を突き合わせ、帝の御意を向こうに呑ませた。江戸に下り、御名代として幕府の重職と渡り合っている。異国の言葉まで操るという。


 どこまでが本当なのか、と忠香は思った。


 噂というものは、京から江戸へ下り、江戸から京へ上ってくるあいだに尾ひれがつく。五摂家の姫が異人と言を交わしたというだけで、人は面白がって話を大きくする。御用掛として座に列なったのは本当でも、実際に事を運んだのは、周りの者たちではないのか。


 仮にすべてが本当だとしても、と忠香は考えた。


 それで、あの姫の行く末はどうなる。


 武家の町に長く置かれ、異人と言葉を交わし、幕府の重職と渡り合った姫を、どの家が正室に迎えるだろうか。器量や才があればあるほど、嫁ぎ先は狭くなる。五摂家の姫として、これほど不幸なこともない。


 今朝、娘の行く末は自分が考えることだと、左府は言った。


 忠香には、それが親としての精一杯の意地に聞こえた。あれほどの家の当主が、娘一人の行く末に頭を悩ませている。


 左府が、不憫でならなかった。


「おもうさま」


 寿栄君の声で、忠香は我に返った。


「何か、お気にかかることでも」


「いや」


 忠香は、手にしていた紙を文机の上へそっと戻した。


「よう書けておじゃる。続けなされ」


「はい」


 寿栄君(すえぎみ)は手をつき、また筆を取った。


 忠香は少しのあいだその横顔を眺め、それから立ち上がって自分の居間へ向かった。今夜は、鹿背山の茶器で煎茶を淹れさせようと思った。


五

 御所から召しが来たのは、それから五日のちだった。


 忠房は前と同じく宜秋門から入り、御車寄から上がった。この日の虎の間には誰もいなかった。取次はほどなく現れ、忠房を奥へ導いた。


 御常御殿の一間に通され、敷居際で平伏する。


「面を上げよ。近う」


 御声は、五日前よりも落ち着いていた。


 おもてを上げると、御門の御前に、袱紗に包んだものが一つ置かれていた。


「畏り奉りて候」


 忠房がにじり寄ると、御門はその包みに手を置かれた。


「書いた」


 短い一言だった。


「宛所は、糸子の申したとおりにした。後見職、政事総裁職、老中首座。文中に、仔細は左大臣忠房に問え、の一句も入れてある」


 御門は包みを、忠房のほうへ少しだけ押し出された。


 忠房は両手をつき、その包みに目を落とした。袱紗の下に、封をした紙がある。御門が自ら筆を執られたものである。


「忠房」


「はっ」


「これは、関白を経ぬ」


 包みに手を置いたまま、御門は仰せになった。


「伝奏も通さぬ。所司代も通さぬ。朕の手からそなたの手へ渡り、そなたの家の者が運び、江戸で水無瀬が城へ持って上がる。……密勅と呼ばれようの」


 忠房は、すぐには答えられなかった。


 娘の書状を読んだ晩に、折り目を付けた行である。その行の行き着く先を、御門のほうから先に口にされた。


「安政の折、水戸へ降りた勅も、関白を経ずに出されたゆえに、そう呼ばれましてござりまする」


「覚えておる」


 御声に、揺れはなかった。


「あの紙一枚のために、水戸がどうなったか。朕は忘れてはおらぬ」


「では」


「それでも、書いた」


 御門は、包みから手を離された。


「忠房。そなたはこれまで、糸子の企てを近衛の家の企てとして背負うてきた。万が一のときは、朕は知らぬと言えるように。すべての責は己が負うと、そなたは口に出さずとも、そう決めておった」


「はっ」


「朕は、それに甘えてきた。そなたが、甘えてよいという顔をしておったからだ」


 忠房は頭を下げた。


 御門の仰せのとおりだった。娘の企てが表に出たとき、矢面に立つのは近衛の家で、御門ではない。そういう形を作ってきたのは、忠房自身である。


「この宸翰は、朕の手で書いた。朕の手と知れて、それでよい」


 忠房は顔を上げた。


「御門」


「朕が書いたものを、朕は知らぬとは言えぬ。そのように言うつもりもない」


 御門は、まっすぐに忠房を見ておられた。


「あの姫は、朕の名を背負うて江戸に立っておる。異国の使いの前でも、幕府の重職の前でもだ。その姫が、此度は朕の子の行く末まで引き受けると申してきた。朕だけが、知らぬと言える場所に立っておるわけにはいかぬ」


 忠房は、言葉を返さなかった。返す言葉を探すより先に、両手が畳についていた。


 娘が表に立つと決めた日、忠房は、すべて父が引き受けると娘に言った。御門に対しても、すべての責は自分が負うつもりでいた。そうしておけば、御門は何があっても知らぬと仰せになれる。それが、忠房の考えてきた形だった。


 その形の外へ、御門は自ら出てこられた。


「……ははっ」


 部屋の中で、何も動かない時が過ぎた。


 やがて御門が、少し声を和らげて仰せになった。


「仔細は、そなたに問えと書いた。幕府が何を念押ししてこようと、その問いはそなたのところへ行く。……忠房、引き受けてくれるか」


「もとより」


 迷わずに答えた。


「娘がその一句を願い出たときから、臣はそのつもりにござりまする」


「そうか」


 御門は小さく頷かれた。


 少し間を置いて、御門は姿勢を改められた。


「御言葉のことだが」


「はっ」


「書面にはせぬ。そなたが聞いて、そなたの文に記せ」


 忠房は両手をつき、頭を低くした。


 御門の御声が、部屋の中に静かに落ちた。


「外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ」


 娘の文案のとおりだった。一字も変わっていない。


「しかと、承りましてござりまする」


「一字も違えず、記せ」


「御意」


 御門は、文机の端に置かれていた薄い紙を取り上げられた。五日前に忠房が差し出した、英国の別紙である。


「これも、決めた」


 御門は別紙を開き、品の並びを眺めておられた。


「異国の機械を、朝廷が受ける」


 半ば独り言のような御声だった。


 御門が異人を厭うておられることを、忠房は知っている。神国の地に異国の者が足を踏み入れることを、御門は長く拒んでこられた。黒船が浦賀へ押し寄せてからこのかた、異国の脅威から神国を守ろうと、日々身を削ってこられたのである。その御門のもとへ、英国から機械と船と人を寄越させようと、娘は書いてきた。


 忠房は口を挟まなかった。これは、御門がお決めになることである。


 御門は黙っておられた。


 やがて、別紙をたたまれた。


「たがいを一個の国として認めあい、そのうえで渡りあう。糸子はそう申しておった。朕も、それを是とした」


「はっ」


「礼の品を受けるのも、その一つであろう。受け手を天朝とすること、許す。糸子にそう伝えよ」


「ありがたく、お伝えいたしまする」


 御門は別紙を忠房のほうへ返された。忠房はそれを受け取り、懐に収めた。


 これで、娘が願い出た三つのことに、すべて答えが出た。


 忠房が袱紗の包みを両手で押し戴き、膝を引こうとしたとき、御門がもう一度名を呼ばれた。


「忠房」


「はっ」


「先日も申したが」


 低い御声だった。


「慎重に、と伝えよ。宸翰が江戸に着けば、三人に限るとはいえ、幕府の者が糸子の行く末を知る。知る者が増えれば、それだけ漏れる道も増える」


「……仰せのとおりにござりまする」


「くれぐれも、と」


「必ず」


 忠房は平伏し、包みを胸に抱くようにして御前を下がった。


六

 近衛邸へ戻ると、忠房は藤右衛門に、今夜は私室に誰も近づけるなと命じた。


 日が落ちるのを待って、灯を一つだけ灯させる。人払いをし、障子の外の足音が絶えてから、文机の前に座った。


 袱紗の包みは、文机の脇に置いてある。忠房はそれを開かなかった。袱紗の下には、御門の御手で封をされた紙がある。その封を切るのは、宛所の三人である。


 紙を延べ、筆を執った。


 娘への返書である。何を書くかは、御所からの帰り道で決めてあった。


 まず、受諾を御門に奏上したこと。御門が安堵なされ、受けてくれたかと仰せになったこと。それを、娘に伝えなければならない。


 次に、御言葉である。御門の御声で聞いた文言を、一字も違えずに書き記した。


 書き終えて、その一行を見直した。娘の文案と同じ字が、今度は父の手で、御門の御言葉として並んでいる。これを幕府に示すかどうか、いつ示すかは、娘が決める。


 それから、英国の品のことを書いた。受け手を天朝とすることを、御門はお許しになった。


 朝廷のなかのことも、一行だけ添えた。家々のことは父が引き受ける。娘が頼んできたとおりに、そう書いた。虎の間で右府と交わした言葉については、何も書かなかった。右府は何も知らない。知らない者のことを、江戸の娘に書き送るまでもない。


 最後に、御門の仰せを書いた。くれぐれも、慎重に動け、と。


 そこで筆が止まった。


 宸翰が江戸に着けば、幕府の三人が娘の立場を知る。知る者が増えれば漏れる道も増えると、御門は仰せになった。忠房はそれを、御門の御言葉としてそのまま書いた。


 墨が乾くのを待って、返書を折りたたんだ。


 油紙を広げ、返書と、袱紗に包んだ宸翰とを重ねる。それを一つに包み、紐をかけた。


 それから、御門から返された英国の別紙を懐から取り出し、文机の脇の桐の文箱を開けた。娘の書状を寝かせてある歌の反故の下へそれを差し入れ、上から古い紙を重ねて、蓋を閉じた。


 包みを膝の前に置いて、しばらく眺めた。


 娘から届いた厚い封に比べると、こちらは薄い。それでも、この中には御門が御手ずから書かれたものが入っている。


 明日、伏見へ使いを出す。


七

 翌朝早く伏見へ使いを出すと、昼過ぎに、山南が壬生を伴ってやって来た。


 藤右衛門の話では、鷲尾は今日も表門の脇に控えているという。もう中へとは勧めなかったらしい。


 忠房は前と同じく私室で二人を迎え、人払いを命じた。


「山南敬助、参上いたしました」


「入れ」


 山南と壬生が敷居際で膝をつき、それから膝で進んできた。壬生は、前に来たときと同じ旅装に身を整えている。発つ支度は、もうできているのだろう。


「待たせたな」


「いえ」


 山南が穏やかに答えた。


「二人とも、伏見では変わりなかったか」


「はい。鷲尾さんは毎朝、町を一回りしております。壬生さんは、いつもどおり静かにしておりました」


「そうか」


 忠房が壬生のほうを見ると、壬生は何も言わずに頭を下げた。


 忠房は、膝の前の包みに手を置いた。


「娘への返事が整うた。壬生」


「……はい」


「これを、娘に直に渡してくれ」


 忠房は包みを両手で持ち上げ、壬生の前へ差し出した。


 娘は、父の返事は山南を通じて渡せと書いてきた。その山南を脇に座らせたまま、忠房は運ぶ者の手に、自分で載せた。娘が門まで出て手ずから渡したものの返事を、人の手に預ける気にはなれなかった。


 壬生は両手で受けた。


 受けたまま、包みを見下ろしていた。それから胸元の奥へ収めた。その手つきに迷いはなかった。


「姫様へ、確かにお渡しいたします」


 短い言葉だった。


「頼む」


 忠房は、少し声を改めた。


「壬生。娘に、もう一つ伝えてくれ」


「……はい」


「くれぐれも、慎重に動け、と」


 壬生はすぐには答えなかった。胸の内で、一度その言葉をなぞっているようだった。


「くれぐれも、慎重に動け」


 壬生は、そのとおりに口にした。


「確かに、申し伝えます」


「うむ」


 忠房は頷いた。


 何が慎重を要するのか、壬生には分からないはずだ。包みの中身も知らない。それでいい、と忠房は思った。


「山南」


「はい」


「いつ発たせる」


「明朝には、と思っております。近藤さんへの文も、今夜のうちに書いておきます」


「そうか。……道は、まだ寒かろう」


「日を急がせず、確かに越えさせます」


 山南はそう答えて、頭を下げた。


 忠房は、二人の顔を順に見た。


「壬生とやら」


「……はい」


「道中、気をつけて参れ」


「……はい」


 壬生は畳に手をつき、深く一礼した。


 二人が敷居を越えていくのを、忠房は座ったまま見送った。障子が閉まり、足音が廊下の奥へ遠ざかる。しばらくして表のほうから、藤右衛門の声と、それに応じる、少し崩れた男の声が聞こえた。門の脇で待っていた男だろう。


 その声も、やがて聞こえなくなった。


 忠房は、文机の脇の桐の文箱に目をやった。蓋は閉じたままである。娘の書状は、まだそこにある。


八

 その晩、山南は試衛館の奥で、近藤への文を書いた。


 長くはしなかった。二人を確かに預かったこと。左大臣様のお返事が整い、それを二人に持たせたこと。明朝、伏見を発たせること。書いたのはそれだけだった。


 近藤の文も、いつも用件だけである。山南はそれに倣った。


 封をして、鷲尾の部屋へ持っていった。


「鷲尾さん。近藤さんへの文です」


「へい。お預かりしやす」


 鷲尾は文を受け取り、懐の奥へ収めた。それから、ふと顔を上げた。


「山南さん」


「はい」


「壬生が左大臣様から何か預かってきたのは、顔を見りゃ分かりやすが」


 鷲尾は、そこで言葉を止めた。


「中身は、訊かねえことにしておりやす」


「それがいいでしょう」


 山南はそう言って、少しだけ笑った。


 鷲尾も、日に焼けた顔でにやりと笑った。


  *


 翌朝の伏見は、冷え込んだ。


 水路の面には薄い靄が残っていて、繋がれた三十石船の輪郭が、その向こうにぼんやりと浮かんでいる。南浜の通りの土は、霜を噛んで固かった。


 試衛館の板戸の前に、二人が立った。


 どちらも菅笠に脚絆、振り分けの荷という旅装である。十日あまり前にこの戸口へ着いたときと、同じ支度だった。


 山南は、二人の前に立った。


 去年の皐月、この同じ場所で、山南は五人の顔を一人ずつ見ていった。今朝は二人である。それでも、急がなかった。


 鷲尾はいつもどおりの顔をしている。笠の縁に手をやり、その目はもう通りの左右を順に見ていた。


 壬生は、何の表情も浮かべていない。右の手が、旅装の胸元に当てられていた。


 来たときにも、この若者は胸元に手を当てていた。あのときそこにあったものは、左大臣様の手に渡った。いまそこにあるのは、左大臣様から預かったものだ。来たときと同じ手つきで、壬生はそれを押さえていた。


「鷲尾さん」


「へい」


「壬生さんのことを、頼みます」


「御意でさぁ」


 鷲尾は笠の縁を指で持ち上げ、にやりと笑った。


「壬生さん」


「……はい」


 山南は、少しのあいだその顔を見ていた。


「道中、無理をなさらないように」


 去年の皐月、五人を送り出した朝も、山南は同じことを言った。


 壬生は、深く頭を下げた。


「……はい」


 二人はもう一度山南に一礼し、身を翻して通りへ出ていった。


  *


 朝の通りには、もう人の往来が始まっていた。船着場へ向かう荷担ぎがいて、水を汲みに出た女がいて、どこかの店先で戸板を外す音がする。二つの菅笠は、そのあいだを縫って進んでいった。


 壬生が前を歩き、鷲尾が半歩うしろを行く。


 山南は試衛館の戸口に立ったまま、その背を見送った。


 通りの先で、鷲尾が一度だけ振り返り、笠の縁を指で持ち上げてみせた。


 壬生は、江戸を発った朝と同じように、振り返らなかった。右の手は、胸元に当てられたままだった。


 二つの菅笠は、大津へ向かう坂のほうへ、少しずつ小さくなっていった。


 第二百二十五話 了

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『御門の内々の思し召し、謹んで拝受はいじゅつかまつりまする。の「はいじゅ」はルビにするか削除した方が良いと思います。何か意図があれば別ですが
宸翰を読んだ慶喜くんの脳天直撃リアクションが楽しみでならない今日この頃
壬生さんの心情が気になるー 近衛の手紙を運ぶ役目はプレッシャーすごそう
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