第二百二十三話「糸子のお嫁入り編―儲君の御方(後編)」
一
表御殿のほうからは、人の声が途切れずに聞こえてくる。廊下を行き交う足音、用向きを取り次ぐ声、どこかで戸を開け閉てする音。表門のほうで、馬が一つ鼻を鳴らした。松の内が明けて、屋敷はすっかりいつもの忙しさに戻っている。
その声も、奥御殿まで来ると遠くなる。
奥の縁側には日だまりができていた。板は日を吸って温もり、障子の紙は白く明るい。風がやむと、日に当たった畳から乾いた藺草の匂いが立つ。夜にはあれほど濃くこもっていた炭の匂いも、明るい部屋ではずいぶん薄い。
夜には闇に沈んでいた廊下も、いまは隅々まで見通せる。行灯は片付けられ、女中が拭き清めた床板が、差し込む日を鈍く照り返していた。
あの夜から、三日が経った。
昼過ぎの私室には、障子越しの日が薄く差している。火鉢には炭が足してあり、文机の端には、たたんだ父の書状が置いてある。
あの夜、文箱へ戻さず、机の上に置いた。それから糸子は、この書状を朝に一度、夜に一度、手に取るようになった。読み返すためではない。文面は、もうすべて覚えている。
ただ触れて、また置く。それを三日続けた。
白い紙も、延べたままだ。
糸子は文机の前に座り、紙と書状を並べて眺めた。
(……年も明けて少し落ち着いたし、改めて冷静に考えてみよう)
暮れの英国との談判のあと、糸子は葵に言っている。幕府からは、働いた分以上の対価をしっかりいただく。すぐに取り立てては旨味が少ないから、その折まで置いておく。こういうものは、こちらが要るときに出すものだ、と。
その「要るとき」がいつなのかは、あのとき決めていなかった。
糸子は書状に目をやった。
この一通とあの取り立てとを並べて考えたことは、これまで一度もない。並べてみると、二つは同じ盤の上に載る話だった。
(でも、その前に)
受けるのか、受けないのか。そこを決めなければ、何も並べられない。
糸子は、ひとつずつ考えることにした。
まずは、家と時代のことだ。
糸子は五摂家筆頭、近衛家の姫として生まれた。この家の娘が、自分の好いた相手と添うことはまずない。縁組は家と家とのことで、父が決め、家が整え、娘はそこへ嫁ぐ。前世の橘咲が当たり前だと思っていた、恋をして一緒になるという筋道は、この時代のこの家には最初から用意されていなかった。
后の話を断ったところで、自由になれるわけでもない。いずれどこかの家との縁組が持ち上がり、相手を選ぶのはやはり父と家だ。
家も時代も、自由な恋を許さない。それが、糸子の立っている足場だった。
次に、情のことを考えた。
御門は糸子の才を高く買っておられると、父は書いている。その才で儲君を支えてほしい、とも。
御門は糸子を天朝外語御用掛に任じ、御名代として江戸へ送り出された。その御門が、今度は我が子の行く末を糸子に託そうとしておられる。
御門は、これまで幾人もの御子を幼いうちに喪ってこられた。祐宮は、そのなかでただお一人育たれた皇子だ。御自らが負うてこられたものを、儲君にまで負わせたくない。父の書状には、御門のそういうお言葉が記されていた。
その、ただ一人の御子を支える者として、御門は糸子の名を挙げられた。
そこまで評していただいたことが、ありがたかった。応えたい、と思った。
父の願いにも応えたかった。父一人の胸の内として、受けてほしいと書いてあった。断る道も、急がずともよいという言葉も先に置いたうえで、あの父がそう書いたのだ。
断ってもよい。書状には確かにそうある。御門も父も、本心からそう思っておられるのだろう。そこに偽りはない。
それでも、糸子には分かっていた。二人がそろって願っていることを、自分が拒めるはずがない。
最後に、勘定を始めた。
ここから先は、前世で買い付けの値を詰めていたときと同じ頭の使い方になる。
一つ目は、近衛家のこと。
祐宮が践祚なさって新しい御代が始まれば、后の実家は朝廷のなかで重みを増す。父と近衛家の力は、いまよりずっと強くなる。父の力が強まれば、糸子が朝廷で打てる手も増える。
いま糸子が江戸で打っている手は、どれも京の父が朝廷の側で受け止めてくれることを前提にしている。公議式目も、父が朝廷の型に写し直してくれたから、勅使の手で幕府へ下すことができた。父の力が、そのまま糸子の手の届く範囲になっていた。
二つ目は、糸子自身の立つ場所。
未来の帝の側にいられる。血を流さずにこの国を新しい形へ移すという計画にとって、これ以上の場所はない。先日の夜に、糸子自身が考えたことだ。周りの者たちが帝を好きなように作り替えるのを、黙って見ているつもりはない。それを止められるのは、帝の一番近くにいる者だけだった。
三つ目は、後ろ盾のこと。
いまの糸子を守っているのは御門の後ろ盾で、それは御門がご存命のあいだしか続かない。后という地位は、次の御代にも続く。父の書状にあった二つ目の理由を、糸子はここでようやく自分の勘定として呑み込んだ。
四つ目は、時のこと。
披露は践祚の折だと、父は書いている。史実のとおりなら慶応三年の正月で、まだ四年ある。そのあいだ、糸子はこれまでどおり江戸で動ける。
四年あれば、できることは多い。天朝物産会所の網を広げ、商務語学所で学んだ者を世に出し、横浜で異国の商人と渡り合える者を増やす。旭狼衛を育て、幕府のなかに話の通じる者を作る。どれも后になってからでは手を付けにくいことばかりで、内定が表に出ないあいだに済ませておける。
しかも、その四年のうち二年余りは、海の向こうのアメリカが南北に分かれて戦をしている。西洋の暦で1861年に始まったこの内戦は、1865年まで終わらない。アメリカはいま、日本どころではなくなっている。その手が日本から離れているあいだに、計画を進められるだけ進めておける。
指を折って数えていた手を、糸子は止めた。一つ目から四つ目まで、どれも同じ向きを指していた。
(……受けるしかない)
声には出さなかった。もう一度、心のなかで言い直す。
(受ける。そして――)
目が、書状からその脇の白い紙へ移った。
(英国談判の報酬に上乗せして、幕府から毟り取る絶好の機会!)
暮れに取っておいた貸しを、取り立てるのは今だ。
幕府は未来の后を談判の席へ引き出し、異人の後始末をさせた。そのことを、幕府はまだ知らない。知らせる順序も、知らせたあとに何を求めるかも、こちらで決められる。
談判が片付いたあの日、慶喜は糸子に、助かった…と言った。あの座にいた者たちは、糸子に借りがあることを知っている。そこへ、借りの相手が未来の后だったと知らせる。借りの重さは、知らせた瞬間に変わる。
喉の奥で笑いかけて、糸子は口を押さえた。
(……ただし、慎重にね)
大きな取り立てには、大きな危うさが付いてくる。そこを数えずに飛びつけば、取ったものより失うもののほうが多くなる。
糸子は新しい紙を一枚、別に出した。父への書状ではない。自分のための覚え書きだ。
二
紙の頭に、糸子は「危ういこと」とだけ書いた。それから、思いつくままに並べていった。
一つ目は、朝廷のなかの政。
后の座を望む家は、近衛家のほかにもある。一条家には、糸子より一つ下の姫君がいる。九条家は関白の家であり、祐宮を御実子とされた准后の御実家でもある。中山家は、祐宮の外祖父と御生母の家だ。祐宮の御妃のことが表に出れば、どの家も黙ってはいない。
糸子は、筆の尻で紙を軽く叩いた。
(これは、父上に任せる)
どれも朝廷の内側のことで、左大臣である父の領分だ。江戸にいる糸子が手を出せば、かえってこじれる。家と家との駆け引きは、京にいて各家の当主の顔を知っている父のほうが、はるかに上手く運べる。
父には、公家衆の噂の網がある。どの家で誰が何を口にしたかが、日を置かずに父の耳へ入る。事が起きたときに口を挟まず、静観してくれる公家衆もいる。その網と人を、これまでどおり保ってもらう。それだけで、朝廷のなかの風向きはだいぶ読めるはずだった。
二つ目は、君側の奸として狙われること。
父の書状にあった言葉だ。御門の後ろ盾が失われれば、糸子は帝の目を曇らせる悪い臣として払われかねない。
后に内定したと知れれば、その危うさはもっと早く来る。入内の前に糸子を除いてしまえば、后の座は空く。そう考える者が出てきてもおかしくない。
一番危ないのは、内定から践祚までのあいだだ。まだ后ではなく、それでいて后になると決まっている。その時期がいちばん長く、いちばん守りにくい。
(これは、旭狼衛に任せる)
京と江戸を合わせて、旭狼衛は百名近くいる。近藤、土方、沖田、山南と、腕の立つ者もそろっている。ただ、百名では足りなくなるかもしれない。
(幕府に組織として公認させて、増員する)
糸子はそう書き添えた。
文箱の一番下には、七つの名を書いた紙が入っている。糸子が京へ送り出し、伏見で喪った者たちだ。
后の内定は、旭狼衛にまた新しい危うさを背負わせる。守る相手が、ただの御用掛ではなく未来の后になる。狙う側の本気も、それだけ変わる。
分かったうえで、糸子は旭狼衛に任せると書いた。彼ら以上にこの役目を任せられる者はいない。任せるからには、人を増やし、幕府の公認という盾を持たせる。それが、糸子にできることだった。
三つ目は、秘密が漏れること。
取り立てのためには、幕府の上の者に内定を明かさなければならない。明かした時点で、知る者が増える。
しかも取り立てを大きくすればするほど、実務を担う役人たちのあいだに疑念が生まれる。なぜ近衛家だけが、これほどのものを得るのか。理由を口にしなくても、探す者は出てくるだろう。探せば、いずれ何かに行き当たる。
糸子は、そこで少し筆を止めた。
(取りに行くなら今。でも、取り方を間違えたら終わり)
秘密を守ることと、得るものを増やすことは、いつも同じ向きには進まない。欲を張りすぎれば相手は警戒し、警戒された瞬間、こちらが握っているものまで失う。
商いも同じだ。取れるだけ取れば、その場では勝ったように見える。だが次の商いでは、良い品を回してもらえなくなる。取るべき時に取り、残すべきものは残す。それが長く勝つ商いだった。
だからといって、探られるのを恐れて何も求めないのは、もっと愚かだ。いまは、こちらが手を伸ばせる時だ。伸ばせるところまで伸ばす。ただし、手に入れたものを守れる範囲で。
四つ目は、幕府に縛られること。
内定を知った幕府は、これまでとは違う目で糸子を見るようになる。未来の后を危うい場所へ出すわけにはいかない。異人との談判にも、横浜にも行かせられない。幕府は、そういう理屈を堂々と口にできるようになる。守るという名目で、糸子の手足を縛れるのだ。
(取り立ての条々のなかに、一つ入れておく)
『御用掛としての職務は、これまでどおり妨げない』
糸子は、その一行をはっきりと書いた。
五つ目は、この屋敷のこと。
糸子はいま、一橋上屋敷の奥御殿に住んでいる。将軍後見職、一橋慶喜の屋敷だ。
この屋敷では、表の者は奥へ入らず、奥の者は表へ出ない。糸子は慶喜の屋敷にいながら、慶喜とは座敷を設けて会うだけだ。それでも世間から見れば、近衛家の姫が一橋殿の屋敷に住んでいることに変わりはない。
未来の后が、後見職の屋敷に住み続ける。内定が表に出たあとでは、幕府にとっても一橋家にとっても体裁のよい形ではない。しかも、慶喜の正室は一条家の養女として嫁いだ方だ。一橋家と一条家は、それだけ深い間柄にある。
受けるのなら、いつまでもここにいるわけにはいかない。
糸子は筆を止めて、しばらく考えた。
(……これは危うさじゃない。取り立てるための理由になる)
未来の后を、このまま置いておくわけにはいかない。そう幕府自身に言わせればいい。そのうえで御用屋敷を求めれば、幕府には断る理由がほとんどない。
五つ目の横に、小さく印を付けた。
六つ目は、践祚のあとのこと。
后になれば、江戸にも横浜にも出向けなくなる。御所の奥に入れば、そこから出ることは容易ではない。
筆を止めたまま考えているうちに、ふと、前世で見た時代劇を思い出した。将軍が貧乏旗本の三男坊のふりをして市中を歩き、悪人を懲らしめる。毎回、最後は城へ戻っていく。
(……暴れちゃう将軍方式でいこう)
前例はすでにある。
以前、糸子は商家の娘「糸」と名乗り、葵をお供の女中に仕立てて日本橋の市中を歩いた。葵は困った顔をしていたが、最後には付いてきた。藍地に細かな格子を織り込んだ小袖を着て、髪の飾りをすべて落とした。それだけで、誰も糸子を五摂家の姫だとは思わなかった。
大店の娘という形で出歩けば、后であっても市中の様子を自分の目で見られる。御所の奥がどれほど厳しくても、出入りの形を一つ作っておけば抜け道はある。
(そのときは、また葵に困った顔をしてもらおう)
六つ目の横にも、小さく印を付けた。
*
覚え書きは、六つの危うさで埋まった。頭から読み返してみると、どれにも手の打ちようがあった。
父に任せるもの。旭狼衛に任せるもの。取り立ての条々に入れておくもの。取り立ての根拠に変えられるもの。前例のあるもの。一つずつ、行き先が決まっていた。
糸子は余白に、幕府から取り立てるものを書き出した。
旭狼衛を組織として公認させ、増員すること。御用掛の職務を、これまでどおり妨げないこと。朝廷の使者を異国との談判に同席させるには、御門の御沙汰を要すること。屋敷を、職に付いた御用屋敷とすること。
そして、商務語学所を広げること。
これだけは、何があっても外せない。后になれば、糸子は江戸を一時離れる。そのとき、糸子の代わりに異国の言葉を話し、帳面を読み、異人と渡り合える者が一人でも多く要る。践祚までの四年で、その者たちを育てておかなければならなかった。
(その他にもまだあるけど……とりあえずは、こんなところか)
覚え書きを畳んで、帳面の間に挟んだ。
(よし!)
段取りが決まった。決まってしまえば、あとはやるだけだ。
三
その夜、糸子は文机に向かった。
葵が火鉢の炭を替えていった。灯が、三日前から延べたままの紙を照らしている。
筆を執り、穂先に墨を含ませて紙の上へ下ろす。
父上、と書いた。
三日前の夜には、その二文字が書けなかった。筆が紙の上で止まり、墨が一滴落ちかけて、あわてて引いた。
今夜は止まらなかった。二文字目のあと、筆はそのまま次の行へ移った。
長らくお返事を申し上げず、お心を煩わせましたこと、幾重にもお詫び申し上げまする。
急がずともよいと書いてくれた父だ。それでも、皐月から正月まで待たせたことに変わりはない。最初に詫びを書くことは、筆を執る前から決めていた。
主上の内々の御意、謹んでお受け申し上げまする。この身をかほどまでに評してくださりましたこと、ありがたく存じ奉りまする。父上の願いにもお応えいたしとう存じまする。主上へのお返事の奏上を、父上にお願い申し上げまする。
そこで、筆を止めた。ここまでが、娘としての返事だ。
お受けいたします、と書いた。半年以上も書けなかった一行が、いま紙の上にある。糸子はしばらく、その一行を見ていた。
それから筆に墨を足した。ここから先は、御門の使いとしての文になる。
*
一つ目に、英国との談判のことを書いた。
暮れに、英国公使館の書記官との談判の席に、自分が同席したこと。それが将軍後見職、一橋慶喜の求めによるものだったこと。その根拠として、天朝外語御用掛という肩書が挙げられたこと。
そして、慶喜の狙いがどこにあったのかを書いた。
慶喜殿の御所望は、通詞の役にてはござりませぬ。英国の書面は日本の政府に宛てたるものにて、御公儀とは記されてござりませぬ。その座に朝廷の使いが列なりおれば、答えたるは御公儀のみにあらずと相成りまする。御公儀の答えに、朝廷の御名を連ねさせんとの御所存と拝察いたしまする。
そのうえで、この報告を御門へ奏上してくださるよう、父に頼んだ。
慶喜を責める言葉は書かなかった。慶喜は嘘を一つも言っていない。助かったと言ったのも、本当に助かったからだ。糸子が書いたのは、何が起きたかだけだった。それを御門が知っておられれば、あとは御門の御判断になる。
二つ目に、御門へのお願いを書いた。御用掛を、二度と幕府の都合で使わせないための一言だ。
書面ではなく、内々の御言葉として賜りたい。それを父の書状に記して、江戸へ伝えていただきたい。糸子は文案も添えた。
外語御用掛は朕の言葉を伝える者なり。朕の許しなく、他の言葉を伝えさせてはならぬ。
御門のお言葉として、これ以上のものは要らない。この一言さえあれば、幕府が次に糸子を談判の席へ呼ぼうとしたとき、御門のお許しはあるのかと問い返せる。
書面にしていただかないのには、わけがあった。書面は残る。残ったものはいずれ誰かの目に触れ、誰かがその言葉の裏を読もうとする。内々の御言葉なら、父の書状のなかに一行あるだけで済む。幕府に示すときも、示す相手と示す折を、こちらで選べる。
三つ目は、宸翰のお願いだった。
宸翰を賜りまするならば、御宛所は将軍後見職、政事総裁職、老中首座の御三方と願い上げまする。御文中に、仔細は左大臣忠房に問え、との一句をお加えくださりますれば、御公儀の御念押しは、ことごとく父上の御許へ参りまする。
そうしておけば、幕府が念を押そうとしても、その問いは関白を通らず、まっすぐ父のもとへ向かう。
宸翰は、武家伝奏から所司代へという公の道は通さない。公の道を通せば、途中にいる者の数だけ中身を知る者が増える。江戸で幕府へ手渡すのは、水無瀬実光とする。有職に通じた公家が、御門の御文を携えて城へ上がる。その形なら、幕府は受け取る作法を誤れない。
ここまで書いて、糸子は一度、墨を磨り足した。
*
四つ目は、幕府への対処の方針だ。それを、父への報告として書いた。
御門には、何も条件を出さない。取り立ての相手は幕府だけだ。
伝える順序も決めてあった。まず内定を伝える。次に英国との談判の件を持ち出し、幕府が未来の后を談判の席へ引き出して異人の後始末をさせたことを、幕府自身に気づかせる。最後に、取り立ての話をする。
英国との談判の件は、公には問題にしない。その代わりに対価を求める。求めるものの案には、覚え書きに書き出した五つをそのまま並べた。
五つ目は、朝廷のなかのこと。一条家、九条家、中山家への対応は父に任せたい。公家衆の噂の網と、静観してくれている公家衆とを、これまでどおり保っていただきたい。
六つ目は、秘密のこと。
内定を知る者の範囲は限る。披露は、儲君が践祚なさる折とする。書状の行き来に幕府の飛脚は使わず、身内の者に運ばせる。この書状も、旭狼衛の者に運ばせる。
此度の儀を存じおる者、江戸にてはわたくし一人にござりまする。葵にも申しておりませぬ。御公儀へ明かしまするは、宸翰の届きましたる後、御三方に限りとう存じまする。
葵の名を書いたところで、一度だけ筆が止まった。止まって、そのまま先を続けた。
七つ目は、返事の道筋。
御門のお返事は、父を通じて受け取る。この書状を運ぶ二人は京で待たせておくので、父の返事も、御門の一言も、宸翰も、その二人に持たせて江戸へ戻していただきたい。
お急ぎには及びませぬ。父上が、わたくしにくださりましたほどの時を、此度はわたくしがお待ち申し上げまする。
その一行を書いたとき、糸子は少しだけ笑った。皐月から正月まで待たせた娘が、待つと書いている。これを読んだ父がどんな顔をするのか、目に浮かぶようだった。
最後に、一行を添えた。
『英国の件は、別に飛脚にて申し上げまする。』
これで父は、もう一通の文をこの書状と結びつけて扱える。
*
筆を置いたとき、夜はだいぶ更けていた。
書き上げた書状を、頭から読み返す。詫びがあり、受諾があり、報告があり、お願いがあり、方針がある。娘の文と使いの文が、一通のなかに並んでいた。
父の書状は、読む者が痛むところを一つずつ取り除いてから書かれていた。糸子の書状は、そこまで優しくはない。御門へのお願いも幕府への取り立ても、父に頼むことばかりが並んでいる。
(……父上、また忙しくなっちゃうな)
少しだけ申し訳なく思った。思ったが、書き直しはしなかった。父に頼めることは父に頼む。それが、江戸と京に分かれて動く父娘のやり方だった。
四
后の件の書状を脇へ寄せて、糸子は新しい紙を出した。英国の手土産の件だ。
暮れの談判ののち、英国の使いが代理公使ニールの手紙を携えてきた。談判の座にニール自身が出向けなかったことへの詫びと、糸子と言葉を交わせたことへの謝意が書かれ、そのうえで、手土産を贈りたいので望むものがあれば知らせてほしい、とあった。
望むものを言わせれば、こちらの好みが分かる。あの手紙を読んだとき、糸子はそう見て取っている。
何を求めるかは、そのまま、こちらが何をしようとしているのかを英国に明かすことになる。しかも受け取るのは糸子個人ではなく天朝だ。朝廷への贈り物を受けるかどうかを決めるのは、御門だった。だからニールへ返事をする前に、御門の内諾を得ておかなければならない。
この別紙は、天朝の飛脚で送るつもりでいた。飛脚に託した文は、途中で開けられないという保証がない。だから、読まれても困らないことだけを書く。
糸子は筆を執った。
まず、英国の代理公使ニールから、手土産を贈りたいので望むものを知らせてほしいという申し出があったことを書いた。
次に、求める品の案を並べた。
製糸の機械を一式。
それを動かす蒸気の機関と、工作の機械。
電信の機械。
蒸気で走る商い船。
機械を据えて使えるようにするための技師の派遣。
商いの実務を教える者。
そして、こちらが品を求める折には英国から先に回してもらうという約束。
並べながら、糸子は天朝物産会所の帳面を一つずつ思い浮かべていた。
横浜から海の向こうへ出ていく品のうち、最も多いのは生糸である。その量が増えるにつれて、品質のばらつきが帳面に現れるようになった。手で繰った糸は、繰る者によって太さが変わる。均一でなければ、買い手は値を下げる。
機械で繰れば、糸の質は揃う。そうした糸は、高く売れる。
電信があれば、横浜の値が江戸に、江戸の値が京や大坂に、その日のうちに届く。蒸気の商い船があれば、荷を異国の船に頼らずに運べる。
機械を求める理由は、どれも帳面のなかにすでにあった。ただ、その理由は書かなかった。何のために求めるのかを、飛脚が運ぶ紙に書く必要はない。
最後に、受け手を天朝とすることについて、御門の内諾を賜りたいと書いた。書いたのは、それだけだ。
后の件には一字も触れていない。幕府との取り立ての方針も、技師を招くには幕府の許しが要ることも、もう一通の書状があることも書かなかった。この別紙だけを誰かが読んでも、英国から礼の品の申し出があり、姫がその品について御門の御意向を伺っている、としか読めない。
読み返して、封をした。
二通の書状が、文机の上に並んだ。厚いほうと、薄いほう。
皐月の夜に沖田が運んできた包みを開いたときも、二通だった。あのときは、薄いほうに糸子のこれからが書いてあった。
今夜は、厚いほうに書いてある。
五
翌朝、糸子は葵を呼んだ。
「葵」
「はい」
障子の外ですぐに返事があり、葵が障子を開けて膝をついて入ってきた。
糸子は、薄いほうの書状を差し出した。
「これを、京の父上へ」
葵は両手で受け取り、上書きを一度だけ確かめた。
「左大臣様宛てにございますね」
「はい」
「善次郎殿にお任せいたします」
「お願いね」
葵は、それ以上のことを何も訊かなかった。ただ、ほんの一瞬だけ、その目が文机の上へ向いた。そこには、厚いほうの書状が封をされて置いてある。
それについても、葵は何も訊かなかった。頭を下げ、書状を胸元に収めて障子を閉める。足音が廊下の奥へ遠ざかっていった。
糸子は、残った一通を見た。
葵に預けなかったのは、信じていないからではない。糸子が何かを抱えていることに、葵はとうに気づいているはずだ。それでも、中身までは背負わせたくなかった。
父は、この事を真と知らせるのはごく限られた者のみ、と書いている。葵に預ければ、葵はこの書状を誰かに渡さなければならない。誰に渡し、その者がどこへ運ぶのかを、葵は知ることになる。知ることが増えれば、背負うものも増える。
心のなかで、少しだけ詫びた。それから、葵が去った廊下のほうをもう一度見た。
六
昼前に、糸子は近藤を呼んだ。
廊下の床板が、重みでかすかに軋んだ。この屋敷でこういう歩き方をする者は、一人しかいない。体の重さを隠そうとしないのに、足音そのものは驚くほど静かだ。
「姫様。近藤にございます」
「お入りください」
障子が開き、近藤が敷居のところで膝をついた。先日、報告に来たときの浮かれた顔はもうない。姫に呼ばれたときの、総隊長の顔をしていた。
「お呼びと承り、参上いたしました」
「近藤殿。お頼みしたいことがございます」
「はっ」
「京へ、人を二人、出していただきとうございます」
近藤の顔が、わずかに引き締まった。京へ人を出すという言葉を、この男は去年にも聞いている。糸子もそれを分かっていて口にした。
「此度は、斬り合いではございませぬ」
先に、そう言った。
「父上へ、直にお渡しいただきたい書状がございます。いつもの天朝経由では、託せぬものです。京に着きましたら、父上のお返事が出るまで京で待ち、そのお返事を持って江戸へ戻っていただきたいのです」
近藤の目が、文机の上へ向いた。厚い封が一つ置いてある。
「書状を運び、返事を持ち帰る。それだけにございますか」
「はい」
糸子は、少しだけ間を置いた。
「ただし、何があっても、父上以外の者の手に渡してはなりませぬ」
近藤はすぐには答えなかった。
この男は、言葉の重さを測るときに黙る。何があっても、と姫が言った。中身を言わずに、それだけを言った。その二つを、近藤は並べて考えていた。
「御意」
近藤が頭を下げ、糸子も小さく頭を下げた。
*
「人選は、近藤殿にお任せいたします」
「はっ」
近藤は膝の上で拳を握ったまま、しばらく考えていた。長くはかからなかった。
「壬生影明と、鷲尾官兵衛ではいかがかと存じます」
糸子は、二人の顔を思い浮かべた。
「理由を、お聞かせくださいまし」
「はっ」
近藤は、まず壬生のことを話した。
「書状を持たせるのは、壬生がよろしいかと。あれは、気配を断つことにかけては隊のなかで右に出る者がおりませぬ。旅装で街道を歩かせても、人の目に残りませぬ」
「はい」
「それに、口が堅い。もともと余計なことを申さぬ男にございます。命じられたことを、そのとおりにやり、それについて誰にも何も申しませぬ。中身を知らぬ書状を運ばせるには、あれが一番でございましょう」
糸子は頷いた。生麦へ人を出したときも、糸子は壬生を選んでいる。あのときも壬生は、命の中身を確かめただけで、理由は尋ねなかった。
「鷲尾殿は」
「鷲尾は、守りにございます」
近藤は、そう言った。
「あやつは、江戸の外れや山のなかを渡り歩いてきた男で、街道も脇道もよく知っております。それに、物音一つ聞き逃さぬ耳と、獣のような勘を持っております。伏見の夜も、あれだけは掠り傷一つ負わずに帰ってまいりました。そういう男を、書状の脇に付けておきとうございます」
「二人とも、東海道は」
「伏見への行き帰りで、一度歩いております。京の試衛館も、山南も知っております。京へ着いてから迷うことはございませぬ」
話を聞きながら、糸子は二人の顔を順に思い浮かべていた。一人が書状を持ち、一人がその脇を守る。どちらかが倒れても、もう一人が届けられる。
「近藤殿」
「はっ」
「その二人で、お願いいたしまする」
近藤は深く頭を下げた。
「明朝には、発たせまする」
「京に着きましたら、伏見の試衛館に身を寄せ、山南殿のもとで父上のお返事を待つように、とお伝えくださいまし。父上からのお返事は、山南殿を通じて二人へ渡るよう、書状にも記してございます」
「はっ。山南には、某からも一筆、持たせましょう」
そう言ってから、近藤は少し考えた。
「季節柄、箱根は雪になっておるやもしれませぬ。二人には、日を急がせず、確かに越えさせまする」
「お願いいたします。急ぐ書状ではございませぬ。確かに届けば、それでよいのです」
糸子は、そこで一つ言い添えた。
「書状は、わたくしから、壬生殿へ直に手渡しいたします」
近藤が顔を上げた。書状を自分に預けるのではなく、姫が自ら運び手へ渡す。それが何を意味するのかを、この男はそれ以上考えなかった。
「承知仕りました」
近藤が下がっていったあと、糸子は文机の上の書状を手に取った。厚い封だ。明日の朝には、これが自分の手を離れる。
七
翌朝は、よく晴れていた。
松の内が明けてから、江戸は冬晴れが続いている。空が高く、風は冷たいが強くはない。旅立ちには悪くない日だった。
一橋上屋敷の門の前に、壬生影明と鷲尾官兵衛が立っていた。どちらも菅笠に脚絆、振り分けの荷という旅装だ。去年の卯月に京へ発ったときと同じ支度だった。二人の脇には、近藤が控えている。
糸子は、葵を伴って門まで出てきた。
奥の姫が表の門まで出てくることは、まずない。それでも、この二人を門の内から見送るつもりはなかった。書状を手渡すのは、自分でなければならない。
二人が糸子に気づいて、膝をつこうとした。
「そのままで」
糸子はそれを止めた。旅装のまま地に膝をつけば、脚絆が汚れる。これから東海道を歩いていく者に、出だしから土を付けさせたくなかった。
懐から書状を取り出す。昨夜、もう一度封を確かめておいた一通だ。
「壬生殿」
「……はい」
壬生が半歩前へ出た。小柄な若者で、表情はいつもどおり動いていない。
糸子は、その手に書状を載せた。壬生は両手で受け、しばらく見下ろしてから胸元の奥へ収めた。その手つきに迷いはなかった。
「確実に、父上へお手渡しくださいませ」
「御意」
「道中、くれぐれもお気をつけて」
壬生は頷いた。
糸子はそのまま壬生の顔を見ていた。去年、京へ発つ八人を見送ったときのことを思い出していた。あのとき壬生は、声を出せなかった。ただ深く頭を垂れて、こみ上げるものを堪えていた。
「壬生殿」
もう一度、名を呼んだ。
「そなたの帰りを、わたくしは、ここで待っておりまする」
壬生の目が、わずかに揺れた。
「……忝く存じます」
声は小さかったが、はっきりと聞こえた。壬生は深く一礼し、ほかには何も言わなかった。
*
糸子は、隣へ目を移した。
「鷲尾殿」
「へい」
鷲尾官兵衛は、日焼けした顔に不敵な笑いを浮かべていた。
「壬生殿のこと、よろしくお頼み申します」
「御意でさぁ」
鷲尾は菅笠の縁に手をやった。
「姫様、任せておくんなせえ」
軽い口ぶりだった。目だけが笑っていない。話しているあいだも、この男の目は門の外の通りの左右を順に見ていた。
それを見て、糸子は近藤の言葉を思い出した。そういう男を、書状の脇に付けておきたい。
「お頼み申します」
糸子は、もう一度言った。
*
近藤が前に出た。
二人の旅装をひととおり眺める。笠の紐、脚絆の締め具合、振り分けの荷の重さ。一つずつ目で確かめてから、口をひらいた。
「左大臣様と山南にも、よろしく伝えてくれ」
「へい」
「……はい」
二人の返事が、少しずれて重なった。
近藤はそれ以上何も言わず、二人の肩を一つずつ叩いて脇へ退いた。
壬生と鷲尾は糸子に向かってもう一度頭を下げ、身を翻して門の外へ歩き出した。
*
通りには、朝の人の往来が始まっていた。荷を担いだ者がいて、使いに走る小僧がいて、どこかの屋敷へ向かう供連れがいる。二つの菅笠は、そのあいだを縫うように進んでいった。
壬生は、前を見て歩いている。鷲尾はその半歩うしろで、ときおり笠の縁を上げては左右を見ていた。
糸子は門の前に立ったまま、その背を見送った。
去年の卯月にも、こうして見送った。あのときは、歩いていく背を見えなくなるまで見ていた。見送ることしかできない身を、はがゆいと口にもした。
今朝の二人は、書状を運ぶだけの旅だ。それでも、見送ることしかできないのはあのときと同じだった。
葵が、糸子の半歩うしろに控えている。何も言わない。近藤も黙って立っていた。
この書状が京に着くまで、十日から半月はかかる。父がそれを読み、御門に奏上し、御門のお言葉を賜り、宸翰が整うまでには、さらに日がかかる。二人が江戸へ戻ってくるのは、早くても来月の終わりだろう。
二人が宸翰を携えて戻れば、そこから先は糸子の番だ。順序はもう決めてある。けれど、その一つ目は、京から宸翰が届かなければ始まらない。それまで、糸子にできることはない。
待つしかなかった。
二つの菅笠が、通りの先で小さくなっていく。
鷲尾が一度だけ振り返った。笠の縁を上げて門のほうを見て、また前を向いた。
壬生は振り返らなかった。振り返らないまま、胸元に手を当てて歩いていった。
やがて二つの菅笠は、通りの角を曲がって見えなくなった。
糸子は、しばらくその角を見ていた。
朝の風が、門の前を抜けていった。
第二百二十三話 了
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