第二百二十一話「沖田総司の帰還(後編)―迫る剣」
一
翌朝、試衛館の庭には一面の霜が降りていた。
夜の冷気で凍てついた土が、表面だけ白く粉を吹いたように乾いている。庭木の根方も、踏み石の縁も、塀際で枯れた草も、すべて同じ冷ややかな白に覆われていた。陽はまだ塀の端を越えず、庭全体が青みがかった陰の中に沈んでいる。
昨夜、沖田が膝をついたあたりにも、霜は降りていた。そこだけ地面が浅くえぐれており、その縁にも白い粒が細かく乗っている。
奥の台所からは、薪を割る乾いた音が響いていた。隊士の誰かが、すでに朝餉の支度を始めている。
沖田は縁側の端に腰を下ろしていた。
膝の脇に置いた木刀には、手を触れない。今朝は、まず「静」の稽古から入ると決めていた。
冷えきった板の感触が、袴越しに直に伝わってくる。
目を半眼に閉じ、臍の下に意識を落として、ただ息だけを数える。
吐いて、吸う。吐いて、吸う。
三つ数えたところで、昨夜の膝の感触が不意に蘇った。霜の冷たさ、途切れた呼吸、耳の奥で激しく脈打つ鼓動。浮かんできたな、と捉え、すぐに息へ意識を戻す。
吐いて、吸う。
次は、姫様の声が耳を掠めた。その声の残響に気づき、また息へ戻す。
斎藤の声。近藤が微動だにせず構えた背中。台所で水を汲む音。耳が引き寄せられた瞬間にそれを自覚し、意識を呼吸へと戻す。
湧き上がるものを無理に追い払おうとはしない。払おうと焦れば、払おうとする意識そのものが居座ってしまう。昨夜の縁側で掴んだのは、それだけだった。
気づいて、戻す。その往復を、ただ淡々と繰り返す。
一度だけ、何も湧かない空白が長く続いた。
何も浮かばない。
ただ、息の往復だけがある。吐いた息が冷えた庭の中で白くほどけていく。その様子を、沖田は遠い場所から眺めているように感じていた。
そう感じている自分に気づいた瞬間、静寂はほどけた。だが、それを乱れとは思わなかった。
ただ自然に、呼吸へ戻った。どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。
目を開けると、陽が塀の端を越えていた。庭の半ばに光が差し込み、霜が端から溶け始めている。溶けた霜は小さな水滴となり、土の上でキラキラと光を弾いていた。
沖田は、深く、ゆっくりと息を吐き出した。
(急がない)
昨夜は一瞬入っただけで、膝をついた。一瞬でさえあの様だ。かつてのように長く沈み込めばどうなるか、この半年の養生でいやというほど思い知らされている。
だが、入れたことは純粋に嬉しかった。だからこそ、もう一度と……あのまま没入したくなったのだ。膝が笑っていなければ、十中八九、そのまま続けていたはずだった。
(急がない。静、動、実。順番通りに)
心の中でそう確認し、沖田は木刀へ手を伸ばした。
しかし、手を途中で止める。
庭の向こうにある木戸が開き、斎藤一が入ってきた。
手に木刀を二本携えている。
ザク、ザクと霜を踏む音が、静まり返った庭にひとつずつ刻まれる。
斎藤はそのまま庭を横切り、沖田の正面で足を止めた。そして無言のまま、一本を差し出す。沖田の脇にあるものより少し長く、本格的な打ち込みに使う柄の長い木刀だった。
「……相手が要るだろう」
沖田は差し出された木刀と、斎藤の無表情な顔を見比べた。
「『やめておけ』って、言っていませんでしたっけ」
斎藤は黙っていた。
突き出された手を取り下げることもせず、ただ静かな眼光で沖田を見下ろしている。
沖田はしばらくその視線を受け止めていたが、やがてふっと笑い、木刀を受け取った。
「じゃあ、お願いします」
立ち上がりかけて、沖田はふと首を傾げた。
「でも、どうして分かったんです? 今朝から相手が必要だって」
斎藤はやはり答えなかった。背を向け、庭の真ん中へと歩み出ると、そこで沖田を待った。
沖田はその背中をしばらく見つめた。昨夜、この庭には自分しかいなかったはずだ。そう思いつつも、それ以上野暮な問いを重ねることはしなかった。
二
その日の稽古は、型から始まった。
天然理心流の型を、最初のひとつから順に遣う。最後まで終えると、再び最初に戻る。斎藤は庭の隅に佇み、その動きを黙って見つめていた。
型は、沖田の肉体に完璧に染み込んでいる。十歳にも満たない頃から、試衛館の板の間で擦り込んできた足さばきであり、構えだ。幾月の空白があろうと、数日も振れば動きの軌道は元通りに戻る。
それでも沖田は、一挙手一投足ごとに、自身の内側を冷酷なまでに観察した。
いま、自分は頭で考えて動いていたか。
踏み出す足の位置、切先の収まり、次に繰り出す型の選択。そうした選択を、体が動く前に思考が先回りして命じていなかったか。
思考が割り込んでいる箇所が、いくつかあった。数月前の自分には皆無だった余計な隙だ。養生のあいだに肉体が感覚を忘れ、代わりに頭が記憶として補おうとしていた部分だった。
沖田はその型だけを執拗に繰り返した。思考が口を出さなくなり、肉体が勝手に動くようになるまで、幾度と無くなぞり直す。
斎藤は一言の口出しもしなかった。ただ、沖田が同じ型を三度、四度と繰り返すたび、わずかに顎を引くだけだった。沖田のどこに思考の引っかかりがあるのか、外から見ていて正確に把握しているようだった。
昼を過ぎた頃、斎藤が庭の隅から歩み出てきた。
何も言わず、沖田の正面に立つ。木刀は下ろしたままで、構えさえ取らない。
沖田も何も訊かなかった。ただ平晴眼に構え直し、静かに踏み込んで打ち込んだ。
斎藤はそれを、最小限の動きで受けた。
最初は、ゆっくりとしたやり取りだった。
沖田が打ち、斎藤が受け、斎藤が打ち返し、沖田が受ける。
間合いは深く取られ、打ちの速度も型稽古の延長に過ぎない。この程度なら、考えずとも体は自然に応じる。沖田は動き続ける己の肉体を、少し離れた桟敷から眺めている感覚を保った。
十本ほど合わせたところで、斎藤の間合いが半歩詰まった。
打ち返してくる木刀の走りが、わずかに鋭さを増す。
沖田の体は即座に、過不足なくそれに合わせた。
さらに十本。斎藤がもう半歩踏み込み、速度がもう一段跳ね上がる。
斎藤の引き上げ方には、精密な刻みがあった。沖田の体が無心で応じられている間だけ、毛筋ほどずつ速度と間合いを詰めていく。沖田の肩にわずかでも力みが入ったり、受けが半拍でも遅れたりすると、次の一本は速度を据え置き、肉体が再び完全に追いついてから、再び刻みを上げる。
打ち合いの最中、沖田はその精緻さに気づいた。
斎藤は沖田の「肉体」を見ている。頭で動いているのか、体で応じているのかの境目を見極め、その限界の紙一重手前に打ち込みを落としてくるのだ。
(この人、こんな稽古もできるんだな)
斎藤の剣は、徹底して実利的な突きの剣だ。予備動作の一切を削ぎ落とした、左手一本の死の突き。人を殺すための剣であり、人を育てるための手引きとして使われるところを、沖田はこれまで見たことがなかった。
途中で一度木刀を下ろし、二人は井戸の冷水を柄杓で回し飲んだ。冷たい水が喉を通り、火照った胸へ落ちていく。飲み終えて柄杓を戻したとき、沖田は斎藤が自分の顔を凝視していることに気づいた。打ち合っている最中も、斎藤の視線は木刀ではなく、ずっと己の顔に置かれていたような気がした。
「僕の顔に、何か付いてますか?」
斎藤はただ、黙って首を横に振った。
陽が大きく傾く頃には、両者の間合いは実戦の斬り合いと何ら変わらぬ距離まで詰まっていた。打ち込みの速度も、ほぼ全速に近い。
沖田は、ただただ応じ続けた。
時折、沖田の反応が遅れる。斎藤は、そのたびに間合いを外した。追い込むのではなく、沖田が自分を取り戻す時間を与える。そして整った瞬間、再び圧をかける。
何十本目かの交錯の後、沖田は木刀を交差させたまま、短い息の合間に吐き捨てた。
「斎藤さん、手加減してくれてますよね」
「……していない」
即座の返答だった。
「嘘だ。さっきから、僕がギリギリ受けられる絶妙なところにしか打ってこないじゃないですか」
斎藤は答えず、間髪入れずに次の一本を叩き込んできた。受けた手首が痺れるほどの速さだった。
「……いまのは、確かに手加減なしですね」
「していない、と言った」
沖田は笑った。笑いながら、間髪置かずに襲い来る次の一本を受け流す。
沖田が笑っていても、斎藤の打ち込みには一切の緩みがなかった。その容赦のなさが、斎藤なりの雄弁な答えだった。
陽が落ちかけていた。
西の空が赤黒く焼け落ち、塀の瓦の影が庭を斜めに切り裂いている。
庭の土が、朝の霜とは質の違う静かな冷気を孕み始めた。斎藤がようやく木刀を下ろした時、沖田の汗ばんだ稽古着はべったりと背中に張り付いていた。呼吸は荒く乱れている。だが、膝に手をついて崩れ落ちるほどではなかった。
「明日も、お願いできますか」
斎藤は答えず、木刀を肩に担ぐと木戸の方へ歩き出した。
断られたわけではないことを、沖田はよく分かっていた。
三
それから、数日が過ぎた。
斎藤一は毎朝、二本の木刀を抱えて試衛館の庭に姿を現した。沖田はいつも先回りして縁側に腰掛け、静かに息を数えていた。
その日の稽古も、過日と寸分違わず始まった。
打ち合いながら、斎藤は沖田の顔から目を離さなかった。
斎藤一には、相手の顔を観察する長年の習性がある。斬るべき存在か否かを、眼の奥の据わり具合だけで見極めてきた。その習性が、この稽古の最中でも無意識に働いている。
稽古中の沖田の表情は、実によく動いた。
打ちを受け損ねれば眉間にシワを寄せ、綺麗に捌ければ満足げに口元を緩める。速度が上がれば鋭く目を細め、据え置かれればほっと吐息をつく。実に見易い、人間らしい顔だった。
斎藤はふと、伏見の夜を思い出していた。
寺田屋の階段の一段目に足をかけた時、一度だけこちらを振り向いたあの横顔。
あの時、沖田は怒っていなかった。昂ぶってもいなかった。ただ「感情」という色彩の一切が、顔面から綺麗に削ぎ落とされていた。生きている人間の表情として分類できる枠組みが、斎藤の記憶のどこを探しても見当たらない顔だった。
あの夜、沖田は転がる死体の山を、視線すら向けずに踏み越えていった。自身の袖が返り血で重くなっていくことにすら無頓着だった。人を盾にすることを何の躊躇もなくやってのけた。そのすべてを、あの空虚な顔のまま遂行したのだ。
無垢なる無表情。
あの異様な顔と、いま目の前で眉を寄せ、口元を緩めている男の顔が、同一人物のものであるということ。斎藤はこの数日間、打ち合いの合間にそれを何度も自分自身に問いかけ、確かめていた。
最初に「やめておけ」と拒絶したのは、あの顔を二度と見たくなかったからだ。その理由を、斎藤は沖田に明かしていない。言葉にできるような類のものではないからだ。
それでも、この男は修羅の道へ行こうとする。止めても進むのなら、せめて己の切先が届く範囲で見張るしかない。あの夜の座敷で、斎藤は敷居の内側にいて、そして間に合わなかった。だが今、自分は刃の届く距離にいる。
木刀を二本抱えてこの庭に立った朝、斎藤の胸にあったのは、ただそれだけの確信だった。
稽古の合間、斎藤は時折、沖田の足元へ視線を落とした。膝に震えはないか。踏み込みの足が、土を確実に捉えているか。数日前の夜、庭で崩れ落ちた膝の角度を、斎藤は今も鮮明に記憶していた。
――その時、沖田の打ち筋が一変した。
変化の前に、目に見える兆候があった。沖田が構えたまま、ふっと目の焦点を外したのだ。斎藤の顔だけを射抜いていた視線が、境界を失う。斎藤の肩も、木刀も、背後の古びた塀も、すべてを等しい重さで包み込む目に変わった。
そして、長く深い息を吐き出した。
吐ききった直後の一本が、異常に速かった。
斎藤が打ち込んだ木刀の、その軌道が切り替わるより早く、沖田の木刀が内側の死角へと滑り込んでいた。斎藤は半歩下がり、間一髪で受け止めた。だが、受けた手応えに一切の「重さ」がない。重さの代わりに残ったのは、ただ「襲来が見えなかった」という恐怖に近い感触だけだった。
二本目も、全く同じ軌道で襲いかかる。
斎藤は踏み込みながら、沖田の顔を凝視した。
表情が、急速に消失しつつあった。
眉も口元も微動だにせず、目だけがどこも捉えていないようでいて、庭の全てを同時に見渡しているような不気味な色を帯びている。あの伏見の夜の顔の、「入口」に足を踏み入れている。数日前の夜、庭の暗がりから一瞬だけ見たのと同じ顔だった。斎藤の背筋を、あの夜と同じ冷気が這い上がりかけた。
だが、三本目でその集中が途切れた。
沖田の踏み込みが、わずかに半拍遅れたのだ。遅れた足が土を掴みきれず、体幹がほんのわずかに流れた。木刀の先が、斎藤の左肩をかすめて空を斬る。
斎藤は、打ち返さなかった。
「総司」
低く、呼んだ。
「はい」
即座に、迷いのない返事が返ってきた。
沖田は泳いだ姿勢を素早く立て直すと、斎藤を見上げ、苦笑した。
「あーあ、惜しかったなあ。いまの、かなり入りかけてましたよね。三本目で、足のほうが先に音を上げちゃいました」
額の汗を袖で拭いながら、沖田の顔はすでに、いつもの人懐っこい表情に戻っていた。息は上がっているが、膝は微動だにせず立ち尽くしている。
斎藤は構えていた木刀の切先を静かに少しだけ下げ、その顔をじっと見つめた。
あの夜、斎藤が名を呼んだ時、沖田が目の前の存在を「斎藤一」だと認識するまでに、一拍の致命的な間があった。その一拍の空白の間に斎藤の背筋を駆け上がった悪寒を、斎藤は後に「寒い」としか表現できなかった。
いまは、一拍の間すら存在しなかった。名を呼べば、間髪入れずに「はい」と返ってきた。
あの夜の沖田には、人間へ戻るための道筋が見えていなかったのだ。斎藤が刀を割り込ませ、名を呼んで、ようやくこちら側へ引き戻された。そして夜が明けきった土間の隅で、喉の奥を潰すようにして声を上げて泣いた。
だが今は違う。修羅の入口まで自ら踏み込み、そして自分の意志ですぐに戻ってくる。戻ってきた顔で、「惜しかった」と笑ってみせる。
斎藤の背筋を這い上がりかけたあの冷気は、いつの間にか跡形もなく消え去っていた。
斎藤は何も言わず、ただ木刀を静かに構え直した。
「もう一本、お願いします」
沖田もまた、完璧な平晴眼に木刀を構え直した。
四
文久二年の大晦日、江戸の町は夜更けまで人の往来が絶えなかった。
掛け取りの提灯が路地から路地へと走り、支払いを終えた商家から順に灯が落ちていく。どこかの寺で除夜の鐘が響き始めたころ、試衛館の道場では隊士たちが総出で板敷きを磨き上げていた。
「今年の汚れは今年のうちに落としきるのだ!」と、近藤が言い出したからだ。
沖田も手渡された雑巾を握り、板の目に沿って黙々と滑らせていた。手を動かしていると、また呼吸や体の感覚へ意識が向きそうになる。それに気づいて、沖田は苦笑した。雑巾がけをしている時は、ただ雑巾になりきればいい。
なお、後にその話を聞いた糸子は、「なんだか、マ◯ックリンみたいですね」と言ったらしい。
その後もしばらく、「マ◯ックリン近藤……」と呟いては、一人で笑っていた。
周りの者には、その言葉の意味と面白さがどこにあるのか、さっぱり分からなかった。
一橋上屋敷の奥向きでも、正月の支度が最終局面を迎えていた。大きな門松が据えられ、玄関には凛とした注連飾りが掲げられる。台所では夜を徹して火が焚かれていた。
除夜の鐘が鳴りやむころ、磨き抜かれた道場の板敷きは、足元の木目がはっきり見えるほど磨き上げられていた。
年が明けた。
文久三年、元日の朝は雲ひとつない快晴だった。
試衛館の古い門前にも、質素な松が一対立てられている。
庭の池にはうっすらと氷が張り、その表面に初春の光が平らに反射していた。風は絶え、切り揃えられた門松の竹が、冷たい空気の中で青々と光を放っている。
旭狼衛の面々はその朝、揃って上屋敷へ年始の挨拶に伺った。
近藤を先頭に、斎藤、沖田、永倉、井上、そして江戸に残る隊士たちが庭先に並んで平伏する。縁側の御簾の奥には、静かに糸子が座していた。
「新年の御祝儀、畏り存じ奉ります。姫君様にはいよいよ御安全に新年を迎えさせられ、恐悦至極に存じ奉ります」
近藤の腹に響く声に合わせ、隊士一同が深く頭を下げた。
「新年おめでとうさんであらっしゃいます。旧年中はだんだんと骨折り、祝着に思うております」
御簾の奥から届いた糸子の声は、優しく、そしてよく通っていた。
刻むような短い言葉だった。長々と引き延ばせば、極寒の庭で隊士たちを凍えさせることになる。それを熟知しているからこその配慮だった。
挨拶が終わり、隊士たちが各々立ち上がったとき、沖田の羽織の袖が後ろからクイと引かれた。
振り返ると、葵が立っていた。
「沖田様」
「あ、葵さん。おめでとう御座います。今年もどうぞよろしく」
「おめでとうさんでございます。今年も相変わりませず、どうぞお睦まじゅう頼みますよ」
葵は丁寧に頭を下げてから顔を上げ、沖田の顔をじっと覗き込んだ。
「年の瀬も、ずっと稽古に打ち込んでおられたと伺いました」
「ええ、まあ。ほんの少しだけですよ」
「朝から日暮れまで、斎藤殿とお二人きりで、と伺っております」
「……一体、誰から聞いたんですか」
葵は答えなかった。代わりに沖田の顔色を、頭から足元まで検分するように見つめる。去年、沖田が無断で門の外へ出たと知って涙をこぼした時と、まったく同じ目だった。
沖田は居心地悪そうに頭を掻いた。
「大丈夫ですよ。見ての通り、顔色だってすこぶる良いでしょう?」
「顔色『は』、良うございます」
葵はそこだけを認めた上で、さらに声を忍ばせた。
「今年は、私を泣かせないでくださいませ」
沖田は、悪びれずにっこりと笑ってみせた。
「はい、肝に銘じます」
一呼吸置いてから、言葉を付け足す。
「……たぶん」
葵の頬が、わかりやすく膨らんだ。
「『たぶん』とは何でございますか」
「いやあ、先のことは誰にも分かりませんからね」
「分からぬからこそ、こうしてお頼み申しているのです」
むくれた葵が一歩踏み込むと、沖田は思わず一歩引いた。退がった背後に永倉が立ち、ニヤニヤと二人を見下ろしていた。
「へえ、あの総司が押し負けてるのを初めて見たよ」
「永倉さん、面白がってないで助けてくださいよ」
「知るかよ。自分で蒔いた種だろ」
御簾の奥から、くすりと小さな笑い声が漏れた。
「葵」
糸子の声だった。
「沖田殿の『たぶん』は、何ひとつ当てになりませぬ。それは先日、わたくしも身に沁みて理解いたしました。……ですから葵、あなたがしっかりと見張っておいてくださいまし」
「かしこまりました」
葵が力強く頷く。沖田はなんとも情けない顔を浮かべるしかなかった。
五
三が日が過ぎ、試衛館の稽古は四日から再開された。
その朝、沖田は斎藤に頼み込み、稽古の段階をひとつ先へ進めることにした。
毎朝の「静」は欠かさない。「動」も、斎藤との過酷な打ち合いを経て、思考を挟まず肉体が勝手に動く領域まで戻ってきた。残るは、実戦における「実」だった。
単一の相手ではなく、複数の隊士を同時に相手取る。あの寺田屋の二階がそうであったように、死角を含むあらゆる方向から迫る刃を、同時に捌き切る感覚。
「四人、お願いできますか」
沖田の要請に斎藤は静かに頷き、道場を見回して手の空いている隊士を四人選んだ。自身は道場の壁際に引いて佇む。
選ばれた四人が、沖田を囲むようにして間合いを取った。木刀を構え、じりじりと様子を探っている。
「いつでも、どうぞ」
沖田が促した。
最初の一人が正面から踏み込んできた。沖田は受け流し、軽やかに捌く。だが間髪入れず、二人目が右から、三人目が左後ろからほぼ同時に襲いかかった。沖田は右の打ちを受け、身を翻して左後ろの軌道を外す。しかし、四人目がその隙を見逃さず、外した先へ鋭く踏み込んできた。
受けるのが、わずかに半拍遅れた。木刀の先が、沖田の肩を軽く叩く。
「一本」
斎藤の短い声が響いた。
沖田は叩かれた肩をさすりながら、苦笑いを浮かべた。
「もう一度お願いします」
二回目も、三回目も、似たような局面に追い込まれて一本を取られた。四人を同時に意識しようとすると、どうしても視線や意識が一人ずつに跳んでしまう。跳んだ瞬間、残りの三人が意識の網からこぼれ落ちるのだ。
斎藤は道場の隅から一言も助言を口にしなかった。声を出せば、沖田の思考がその言葉に囚われる。それを完全に理解している立ち振る舞いだった。
四回目の立ち合いの前、沖田は構えを解き、道場の真ん中にただ佇んだ。
目の焦点を、ふっとほどく。
正面の隊士を「見る」のをやめた。道場の空間そのものを、ぼんやりと視野全体で包み込む。四人の隊士、擦り切れた板敷き、格子窓から差し込む冬の光、壁際に立つ斎藤。そのすべてを、一枚の切れ目のない風景として捉える。
息を、吐き出していく。
臍の下に意識を静かに沈め、細く、長く、体内から空気を絞り出す。
吐ききったまさにその瞬間、四人が同時に動いた。
世界から、音が消えた。
道場の外を通り過ぎる物売りの声も、隊士たちの足が板を擦る音も、分厚い壁の向こうへ押し遣られたように遠のく。
沖田の視界には、四人の動きが「同時」に映っていた。
正面の一人が踏み込む。その足がまだ床を離れきらないうちに、右の男の肩が僅かに沈むのが見え、左後ろの男が木刀を引き寄せる気配が伝わる。四人目はまだ動いていない。動いていないという事実すらも、明瞭に把握できていた。
思考より先に、肉体が動いた。
正面から迫る木刀を、内側から最小限の軌道で跳ね上げる。その跳ね上げた勢いのまま、右から振り下ろされる木刀の下へ潜り込み、柄頭で相手の手元を正確に潰す。手元を押さえた時には、すでに軸足が旋回しており、左後ろの男が木刀を振り出すより早く、その喉元へ切先を突きつけていた。
四人目が、そこでようやく遅れて踏み込んでくる。
だが、沖田の木刀はすでに四人目の胴の紙一重手前でピタリと停止していた。
四人の隊士が、それぞれの体勢のまま氷のように固まった。
道場全体が、しんと静まり返る。
音が世界に戻ってきたのは、沖田が木刀を静かに引いてからだった。隊士の一人が、胸に溜めていた息を深く吐き出した。それを合図に、残りの三人も堰を切ったように息を吐く。
彼らはしばらく構えを解くことすらできず、自分が一体何をされたのか理解できずに呆然としていた。
あの寺田屋の二階で見せた動きには、まだ及ばない。
沖田自身、それは痛いほど分かっていた。あの夜の己の動きは、もっと研ぎ澄まされ、もっと速かった。人間を超えた領域へ、何もかもを置き去りにして没入していたのだ。
だが、今の動きはその狂気の淵の手前で踏みとどまっている。だからこそ、肉体に一切の無理がかかっていない。骨も、腱も、どこひとつとして悲鳴を上げていなかった。
沖田は自身の膝へ視線を落とした。
膝は、しっかりと己の体を支えていた。笑ってもいない。年の瀬の夜、あの庭で一突き繰り出しただけで崩れた膝が、四人を相手に立ち回った後でも、何事もなかったかのように直立している。
息は上がっていたが、吸い込めば冷気が胸の底まで素直に届く。二度、三度と深く呼吸を重ねるうちに、拍動は落ち着きを取り戻していった。
「……ああ」
沖田の口から、小さな感嘆がこぼれた。
膝をつかずに、正気のまま帰ってこられたのだ。
斎藤が壁際から一歩、前へ出た。
「……もう一度」
「はい」
沖田は再び四人と向き合った。目の焦点をほどき、息を吐ききる。今度も入った。四人の同時攻撃が、瞬く間に無力化される。
三度目に入ろうと四人が構えかけた時、沖田は手を挙げてそれを制した。
「今日は、ここまでにしましょう」
隊士たちは安堵と肩透かしが混ざり合ったような表情で、木刀を下ろした。
身体はまだ動く。だが、動くうちに自ら歯止めをかけることこそが、いまの自分にとって最も過酷で重要な稽古なのだと沖田は知っていた。姫様に釘を刺されたのは、まさにこういうことなのだろう。
六
道場の入口には、永倉新八と井上源三郎が立ち尽くしていた。
年始の用向きで出かけていた二人が、ちょうど戻ってきたところだったらしい。戸口から一歩足を入れたところで、二人とも金縛りに遭ったように固まっていた。いつから見ていたかは分からないが、少なくとも二度目の立ち合いは完璧に目撃していたようだった。
永倉は、口をぽかんと開けたままだった。
「源さん……」
絞り出した声は、いつになく低い。
「いまの、ありゃあ……」
言葉が、その先へ続かない。
井上もすぐには応じなかった。四人の隊士が未だに呆然と突っ立っている道場の中央を、ただじっと見つめている。
「……見えたかい、新八つぁん」
やがて、井上が重々しく尋ねた。
「見えねえよ。四人が動いたと思った瞬間に、もう終わってた」
「わしもだ」
井上は腕を組み、深く息を吐いた。
「総司の剣が速いのは、昔から嫌というほど知っておる。それこそ子供の頃から桁外れに速かった。だが……いまのは『速い』というのとは、根底から質が違うな」
「どう違うんです」
「さてな。わしの語彙では、うまく説明がつかんよ」
井上はそれきり口を閉ざした。
四人の隊士のうち一人が、おそるおそる自分の喉元に手をやっていた。切先を突きつけられた場所だ。かすり傷ひとつついていないにもかかわらず、確かめずにはいられないほどの残像が残っていたのだ。
道場の隅では、斎藤一が壁に背をもたせかけたまま立っていた。
斎藤もまた、すべてを見ていた。最初から最後まで。
沖田の目の焦点がほどけ、息が完全に吐き切られ、四人が始動し、そして決着がつくまで。一合の刹那の中、斎藤の眼光は一度たりとも沖田の顔から離れなかった。
沖田の表情は極限まで削ぎ落とされ、薄くなっていた。だが――あの伏見の夜の「無」とは違う。いま名を呼べば、この男は一拍も置かずに振り向く。斎藤には、それが分かった。
そして最初に入った立ち合いが終わった後、沖田は四人を見渡し、自身の膝を見つめ、小さく「ああ」と声を漏らした。その声には、人間・沖田総司の温度が確実に宿っていた。
斎藤は壁からゆっくりと背を離した。
「……この、天才が」
吐き捨てるような呟きが、斎藤の唇から漏れた。
口にするつもりなど全くなかった言葉だった。言った本人すら、それが己の声であると認識するのに一瞬遅れたほどだ。
永倉と井上が、弾かれたように斎藤の方を振り返った。他人に無頓着な斎藤一が、自発的に誰かの剣を評するなど、二人は一度として聞いたことがなかったからだ。
斎藤は二人の視線を完全に無視した。永倉が何か言いかけたが、井上にそっと袖を引かれ、黙って口を閉じた。
伏見の夜から、年が明けた。
あの男は病床に伏し、そこから這い上がり、木刀を握ることを許され、実剣を持ち直し、まだ半月と経っていない。そのわずか半月の間で、あの狂気の淵まで自ら足を踏み入れ、壊れることなく生還する術を完璧に構築してみせたのだ。
斎藤がどれほどの年月を重ねても、おそらく到達できない高み。そこへ、あの男は悪びれもせず笑いながら踏み込み、笑いながら帰ってくる。
嫉妬や妬みといった安っぽい感情は湧かなかった。ただ、その底知れぬ深淵に戦慄するしかなかった。
道場の中央では、沖田が四人の隊士に向かって頭を下げていた。
「すみません、驚かせちゃいましたね。今日はこれで終わりにしましょう」
隊士たちは顔を見合わせ、引きつった苦笑いを浮かべながら、散らばった木刀を拾い集め始めた。
沖田はいつもの無邪気な笑顔に戻っていた。斎藤の呟きは、彼の耳には届いていなかったようだ。
七
正月の十日を過ぎた頃、試衛館の道場には朝から独特の熱気が満ちていた。
近藤が「今日は自分が稽古を見る」と宣言したからだ。
文久三年の正月は、厳しい寒さが居座り続けていた。道場の板敷きは朝方の冷気で凍りつくように冷たく、格子窓の外に見える梅の枝には、固い蕾がわずかについている程度だ。それでも、差し込む陽光には年末にはなかった柔らかな春の気配が、微かに混じり始めていた。
暮れから正月にかけた沖田の驚異的な稽古ぶりは、当然のように近藤の耳にも届いていた。斎藤と朝から晩まで打ち合っていること。正月明け早々、隊士四人を同時に相手取る稽古を始めたこと。それを見た永倉と井上が絶句していたこと。報告を受けるたび、近藤は「ほう」と深く頷いていたが、年始の諸用で上屋敷と試衛館を行き来する日が続き、その目で直接確かめる折はまだなかった。
近藤が道場に姿を現したのは、昼前だった。
羽織を脱いで板敷きに上がると、しばらくは腕を組んで隊士たちの立ち合いを見守っていた。だが、その視線が捉えていたのは、稽古に励む隊士たちではなく、その中で木刀を振るう沖田ただ一人だった。
沖田は斎藤と打ち合っていた。
その内容は、すでに年の瀬のそれとは別物に進化していた。間合いは完全に実戦の距離であり、打ち込みの速度も互いに容赦がない。その苛烈な交錯の中で、沖田は時折ふっと目の焦点をほどき、息を吐ききって、あの絶対的な一打を繰り出す。そして一打を放った直後には、何事もなかったかのようにいつもの柔和な表情へ戻っていた。
近藤はそれを、じっと三度見届けた。
三度とも、沖田の膝が揺らぐことはなかった。極限の一打を放った後も、即座に斎藤との通常の打ち合いへ滑らかに移行している。
三度目の交錯を見届けた後、近藤は組んでいた腕をゆっくりと解いた。
「総司」
「はい」
沖田が斎藤との打ち合いをピタリと止め、振り返った。
「一本、やるか」
道場を包んでいたあらゆる音が、潮が引くように途絶えた。
打ち合っていた隊士たちが木刀を下ろし、素振りをしていた者も手を止める。近藤が道場で自ら沖田に立ち合いを申し込む。それは試衛館においても、滅多に見られない光景だった。
沖田は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに楽しそうに笑った。
「はい。よろしくお願いします」
見物の隊士たちが、示し合わせたように道場の壁際へ退いた。
斎藤も静かに壁際へ下がる。その隣に永倉と井上が並び、隊士たちが肩を寄せ合うようにして正座した。誰かが気を利かせて、格子窓の障子を半分だけ閉めた。差す光が眩しすぎると、極限の打ち合いを見落としてしまうからだ。
井上が、隣の永倉にささやいた。
「近藤さんが自分から立ち合いを望むとは、珍しいな」
「そりゃあ、あんなもの見せられちゃあな。おれだって刀を抜きたくならあ」
沖田は道場の中央へ歩みを進めながら、一度だけ斎藤の方に視線を送った。斎藤は何も言わなかった。ただ壁に背をもたせ、腕を組んでじっと見つめている。止めるつもりがないことだけは、その佇まいが雄弁に物語っていた。
道場の中央に、近藤と沖田の二人だけが残された。
三間ほどの距離を隔てて向き合い、互いに深く一礼する。
静寂の中、木刀が滑らかに引き上げられた。
近藤も、沖田も、全く同じ「平晴眼」に構えた。
天然理心流の基本にして至高の構え。切先を相手の喉元へ正確に向け、刃筋をわずかに外側へ開く。全く同じ流派の、寸分違わぬ構えだ。
だが、同じ構えでありながら、両者が放つ気配は根底から異なっていた。
近藤の構えは、圧倒的に「重い」。
腰が岩のように低く据わり、突き出された切先は微動だにしない。ただそこに立っているだけで、道場の板敷きが近藤の足元から沈み込んでいくような錯覚さえ覚える。
対する沖田の構えは、驚くほど「軽い」。
だが、その軽さは決して揺らいでいない。床に触れる足の裏が、まるで吸い付いているかのように静まり返っていた。
近藤は、切先の向こうに立つ沖田を凝視した。
皐月の末、上屋敷の庭へ帰り着いた時の、あの青白く削げた男の面影はどこにもなかった。頬には健康的な肉が戻り、瞳には鋭い光が宿っている。
そして――その双眸は、近藤の切先を見ていなかった。近藤の目すらも見ていない。
それにもかかわらず、切先も、目も、近藤の存在のすべてを完璧に捉えている。
あの日、姫様の前で総司が口にした言葉を、近藤は鮮明に思い出していた。
――切先にも、相手の目にも、心を固定しない。
あの日以来、近藤も何度か自身で平晴眼を構えてみたのだった。構えるたびに考え込み、「考え込むな」と総司に言われたことを思い出し、また考えの渦に嵌まっていた。
それを、目の前の男は、ただ自然体で立っているだけで体現している。
八
近藤から、仕掛けた。
相手の構えが整う前に打つ――それが実戦の剣であり、道場の試合であっても近藤の流儀は揺るがない。
踏み込み、上段から叩き落とす。
重い打ちだった。木刀とはいえ、受け損ねれば腕の骨まで痺れる。隊の誰もが身をもって知っている剛剣である。
沖田は、それを受けた。受け、そのまま殺さずに流した。
近藤は流された木刀を引き戻すや、間髪入れず胴を払う。沖田が踏み下がって外す。外された先へ、近藤はさらに一歩詰めて小手を打つ。沖田は木刀を立てて防いだ。
近藤の打ちには微塵の迷いもない。受けられれば次を打ち、外されればその先を追う。相手に呼吸一つ与えずに押し込んでいくのが、近藤のいつもの剣だった。これまで幾人もの隊士がこの圧に飲み込まれ、壁際まで追い詰められてきた。
三合。四合。
攻めるのは常に近藤だった。沖田は受け、外し、退がっている。
見物の隊士たちから、低くざわめきが漏れた。近藤が圧倒している――そう見えたからだ。
永倉が呟く。
「近藤さん、今日は初手から飛ばしてるな」
井上も斎藤も、無言のまま動かない。
近藤は突きを織り交ぜた。平晴眼から、切先を直線的に喉へ伸びあがらせる天然理心流の突き。沖田は木刀の鎬でそれを横へ逸らす。滑った切先が沖田の耳朶をかすめて過ぎた。近藤は即座に引き戻し、二度目の突きを放つ。沖田は半歩退いて、かわした。
誰もが、沖田が防戦一方だと見た。
五合目を受けた瞬間、退がりながら、沖田が一度だけ目を細めた。
その細められた目の焦点が、ふっと解けた。
近藤はそれを見た。
見ながらも、何が起きたのか理解できなかった。沖田の顔から、感情も気迫も、あらゆる「色」がすうっと引いていった。あとに残されたのは、道場全体を、近藤という存在すらもただ平然と、同じ重さで見つめる眼差しだけだった。
沖田が、長く息を吐き出した。
肺の底まで、吐き切る。
六合目。
近藤の振り下ろした木刀が、空を斬った。
沖田が、消えていた。退がったのではない。打ち下ろされる軌道の内側へ、半身となって入り込んでいたのだ。木刀は沖田の肩の極めて近くを、衣擦れの音すら立てずに通り過ぎる。
近藤は間髪置かず返し、横へ払った。
払った先にも、すでに沖田の姿はなかった。
七合、八合。
近藤の打ちが、悉く空を切る。外されるたび、沖田の木刀が近藤の木刀の腹にそっと触れた。押された木刀は狙いから指一本分だけ逸れ、そのまま空を切っていく。
見物の隊士たちは息を呑んでいた。近藤が打ち、沖田がただ動く。そのたびに木刀が空を撃つ。あらかじめ決められた型をなぞっているかのような、奇妙な一致。
永倉の口がぽかんと開いていた。
捌かれている――近藤は悟った。
打っているのは己だ。だが、打たされている。沖田が作った空隙へ、沖田の望む拍子で、己の木刀が吸い込まれていく。
近藤は緩急をつけた。速い打ちと遅い打ちを混ぜ、間合いを伸縮させ、相手の足幅を崩そうと試みる。通常の稽古なら、これだけで誰もが体勢を崩す。
しかし、沖田の足取りは狂わない。詰めてくれば詰めた分だけ退き、開けば開いた分だけ寄る。まるで一本の糸で繋がっているかのように。
先に息が上がってきたのは、近藤のほうだった。打つ側が、受ける側より先に疲弊していく。長年剣を執ってきた近藤にとっても、見覚えのない現象だった。
九合目。近藤は打ちを止め、木刀を立てて構え直した。
その立てた木刀に、コンと音が響いた。
初めて、沖田から打ってきた一撃だった。
受けた腕に重みはない。長年剣を執ってきて、打ちの始まりが見えぬまま受けたのは、これが初めてだった。
十合目も沖田が打った。近藤は受けた。十一合目も受けた。
受けた手首が、じんじんと痺れる。重さのない打ちで、なぜ痺れるのか。近藤には理屈が分からない。
近藤が、一歩退がった。
ざわめきが完全に途切れた。
近藤勇が道場で後退する姿など、隊士たちの誰も見たことがなかったからだ。
十二合、十三合。近藤は受けに回った。一歩受けるごとに、一歩退がる。背中が、壁へと迫っていく。
受けながら軌道を読もうとしたが、読めない。沖田の打ちには予兆がない。肩も腰も、発動の気配を殺している。気配がないまま、木刀だけが喉元に届いている。斎藤の突きの異質さに似ている――そう思った瞬間には、もう次の一手が肉薄していた。
完全なる防戦一方。
冷え切った正月の道場で、近藤の額から汗が滴り落ちていた。
九
壁まで、あと二間。近藤は足を止めた。
これ以上下がれば、背が壁に当たる。背を壁につけた剣に勝ち目はない。それは若い頃から自らに叩き込んできた鉄則だった。
何より――ここで退がりきってしまえば、総司に「師を壁まで追い詰めた」という事実だけが残る。それでは総司が何を掴んだのか、その真の重さが測れない。受けきるのではなく、己の持てるすべてをぶつけて確かめるしかない。
腰を限界まで落とした。
沖田の十四合目を、正面から剛力で受け止める。そのまま力任せに押し返すと、沖田の体勢がわずかに浮いた。
その浮いた一瞬へ、近藤は踏み込んだ。
今日は一度も見せなかった沖田のわずかな隙。ここしかないと、頭で考えるより先に体が動いていた。
振りかぶる。腰、肩、腕――すべての重みを乗せた、近藤勇の生涯最高の一撃。受ければ木刀ごと叩き潰し、逃げても逃げ先まで踏み荒らす。
ドシ、と床板が鳴り響いた。
腹の底から咆哮が絞り出された。道場の格子窓が微かに震えるほどの気迫だった。
そこに師の顔も、総隊長の顔もない。ただ一人の剣客が、目の前の敵を仕留めるために己の全存在を振るっていた。
決まった――誰の目にもそう見えた。永倉が思わず膝を浮かせる。
沖田は、動かなかった。
焦点の解けた目のまま、振り下ろされる巨木のような打ちを見つめていた。
そして、木刀が頭上に届くその半拍前、沖田の体が前へと滑り込んだ。
直線的に、ただ真っ直ぐ内側へ。近藤の木刀は振るわれる途中で、沖田の肩の背後を虚しく通り抜けていった。
沖田の切先が、近藤の喉元に死線を描いていた。
喉仏の手前、わずか指一本分でぴたりと止まっている。
切先の勢いは、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。突いたのではない。そこへ「置かれた」のだ。近藤の木刀は沖田の背後で床に向かって空を切り、静止した。
沖田には、近藤の打ちがすべて見えていた。
筋肉の隆起、肩の落ちる角度、風の切り方まで。見えていたから恐怖はなかった。怖くないまま一歩を踏み出し、その先に喉があった。止めたのではない。止まるべき場所で、自然と止まった。
道場が沈黙に包まれた。
呼吸の音すら途絶える。格子の外で雀が一羽羽ばたいた音が、あまりにも鮮明に耳に届いた。
拳を握りしめたまま固まる隊士。腰を浮かせたまま動けない永倉。腕を解きかけた格好で固まる井上。
斎藤だけが、違う場所を見つめていた。切先が止まった瞬間の、沖田の「顔」を。
近藤は喉元の木刀を見下ろしたまま、指一本動かせなかった。動けば刺さる。止まっていると分かっていても、動くことが許されない圧があった。
格子窓からの斜光が、ふたりの間の床を黄金色に切り取っていた。その光の粒子の中で、埃が緩やかに舞っている。
沖田が静かに木刀を引いた。
一歩下がり、深々と一礼する。
その顔に、馴染みのある沖田総司の表情が戻ってきた。
引くまでのわずかな間――それは一拍にも満たない時間だったが、極限の領域から「こちら側」へ戻ってくるために必要な猶予だった。
肩が大きく波打ち、額からの汗が顎を伝って床に落ちた。稽古着の背中は濃く色を変えている。
だが、膝は微塵も震えていなかった。二度、三度と深く吸った息が、胸の底まで素直に届いていく。
斎藤が壁際で、深く長い息を吐き出した。
「……ありがとうございました」
声には張りが戻っていた。
近藤は木刀を下ろした姿勢のまま、その頭を見つめていた。
十
近藤はしばらく動けなかった。
喉元に、触れてもいない切先の冷気が残っているようだった。
負けた、と胸の中で認めた。
これまでも試合で取られたことはある。だが、それらは悔しさとともに翌日への糧となる代物だった。
今日のは違った。
己のすべてをぶつけ、何ひとつ届かず、喉元に切先を置かれた。そして、その切先が止まっていたことこそが、何より近藤の胸を突いた。止められるだけの「余白」が、沖田にあったということだ。
試衛館の門をくぐった幼い少年に、木刀の握りから教えたのは自分だった。足使いも、平晴眼も、突きも。教えてきたすべてを、驚くべき速さで飲み込んでいった男だ。
いつか越される日が来るとは思っていた。
だが、それが今日だとは思っていなかった。
悔しさは確かにある。胸の奥で燻る火の粉のような悔恨。
だが、それを凌駕する熱いものが、込み上げてきた。
寺田屋から生還したときの、青ざめた顔。病床に伏していた夏。十回振っては息を切らしていた秋。半年の空白を経て、この男はここまで戻ってきたのだ。師の喉元に寸前で木刀を止めてみせるほどに。
もう二度と剣を握れないかもしれない――そう危ぶんだ夜が何度あったか。
近藤の口角が自然と持ち上がった。
抑えようともしなかった。
近藤は木刀を下げたまま、沖田の前へ歩み寄った。
「総司」
「はい」
「見事だ」
偽りのない声だった。
「いや、見事という言葉じゃ足りねえな。俺は全部出した。最後の一本は加減なしの本気だ。それを綺麗に外され、綺麗に止められちゃあ、参ったと言うほかねえ」
沖田が照れくさそうに笑う。
「近藤さん、買いかぶりすぎですよ」
「買いかぶるものか。あの最後の一本は、俺が長年かけて磨き上げた最高の一撃だ。それをお前は、十年先から見透かしていたように外しやがった」
近藤は汗で濡れた沖田の肩を、ポンと力強く叩いた。
「半年寝ていた男の剣じゃねえ。いや、以前のお前の剣ですらねえな。何が起きたのか俺にはさっぱり分からん。だが、強い。それだけは分かる」
手を置いたまま、近藤は天井を見上げた。
そして一息つき、言った。
「……俺も、追いつかれっぱなしというわけにはいかんな」
その言葉を合図に、静まり返っていた道場が一気に爆発した。
「見たか今の!」
「見えたかよ!」
「見えるわけねえだろ!」
「寸止めだぞ、あの近藤さんの本気を!」
永倉が額を叩いて叫ぶ。
「源さん、おれぁ正月早々、今年一番の真剣勝負を見ちまったよ!」
「まだ年が明けたばかりだぞ」と返す井上の声も昂ぶっていた。
隊士たちが隅で真似をし始め、斎藤一だけが壁際で静かに顎を引いた。沖田はその斎藤に向け、嬉しそうに微笑んだ。
十一
その日の午後、近藤と沖田は一橋上屋敷を訪れた。
「試合の結果を、姫様に報告せねばならん」という近藤の強い希望だった。
通されたのは糸子の私室。火鉢の炭が赤く爆ぜ、文机には書類が積み上がっている。
「して、近藤殿。本日は」
「はっ。本日、試衛館にて総司と立ち合いました」
近藤の声には誇らしげな響きがあった。
「某の、負けにございます」
糸子が扇子を止めた。
「総司が姫様に教わった通りに目をほどき、息を吐いた途端、某の打ちが一切当たらなくなりました。最後は渾身の一撃を外され、喉元の指一本手前で止められました」
身振りを交えて熱弁する近藤を前に、糸子は沖田へ視線を移した。
「……沖田殿。ご無理は、なさっておられませぬか」
糸子の声が引き締まった。
年末に忠告した「身体の限界」を、彼が守っているかどうか。
沖田は笑って答えた。
「息は上がりましたが、すぐに戻りましたし、膝もつきませんでした。年の暮れに庭で試したときは、一突きで膝をついてしまいましたが、今はちゃんと『戻って』こられます。あっち側に居るのは一瞬だけにしていますから」
(膝、ついてたの……?)
糸子の眉がかすかに寄るのを逃さず、沖田は焦って付け加えた。
「一度だけですよ! それからは教えていただいた順番――静、動、実を守っています」
そこへお茶を運んできた葵が、沖田を無言で射抜くように見つめた。
「……一度だけですからね」と首をすくめる沖田。
糸子は沖田の顔色を観察した。肌には血色が戻り、瞳には確かな力が宿っている。嘘をつく男ではない。
糸子の表情がふっと和らいだ。
「……良う、ございました」
扇子で隠すことも忘れ、糸子は心からの笑顔を見せた。
皐月の庭で見せた、必死に感情を押し殺していたあの顔ではない。何のわだかまりもない、澄み切った笑顔。
(ああ、この笑顔が見たかったんだ)
沖田の胸が温かさで満たされる。
近藤が満足そうに頷き、深々と頭を下げた。
「これも全て、姫様の異国の知恵のおかげにございます」
糸子の笑顔が途端に凍りついた。
(……しまった)
異国の知恵――窮地を凌ぐためについた出任せだ。
時すでに遅し。
……やはり学習しない姫君であった。
「つきましては姫様。その異国の知恵、某にも一つお授けいただけませぬか」
「こ、近藤殿には近藤殿の剣がありましょう! お、おほほほっ」
冷や汗を流す糸子を見て、沖田は肩を揺らして笑いを噛み殺した。
十二
屋敷を出る頃には、陽が傾き始めていた。
「総司、異国の知恵というのは、例の夢のお告げとはまた別のものなのだろうか」
「さあ、どちらでも良いのではありませんか」
「そうだな。どちらでも良いか」
近藤は納得したように頷いた。理由がどうあれ、姫様の言葉は常に真実を射抜いている。それで充分だった。
松の取れた通りでは、子供たちがまだ羽根突きに興じている。
沖田は近藤の半歩後ろを歩きながら、右の手首を軽く返してみた。思い通りの角度へ素直にしなる。
(まだ、あの夜の領域には届いていない)
今日の自分は、その入口に足を踏み入れたに過ぎない。
伏見で倒れ、帰らぬ人となった七人の顔が脳裏をよぎる。
もう、あの顔を増やしたくはない。
今日の剣があれば、次は一人でも多く連れて帰れるかもしれない。そうすれば姫様との約束も守れる。
あの悲しげな顔をさせずに済む。
今日見せた、あの日差しのような笑顔を守れるのなら。
(うん、それでいい)
「何を笑っている、総司」
「いえ、姫様が最後に冷や汗をかいていらしたなと思って」
「お前な、俺は真面目に頼んだのだぞ」
「分かっていますよ」
沖田は声をあげて笑った。
試衛館の門前には、木刀を二本抱えた斎藤一が待っていた。
「斎藤さん、もう一本お願いできますか」
「おい総司、姫様に無理はしておらんと申し上げたばかりだろうが!」
近藤の小言を背に受けながら、沖田は木刀を受け取った。
腕を組んで見守っていた近藤は、やがて袖をたくし上げた。
「……ふん、ならばその後に、俺ともう一本だ」
第二百二十一話 了
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