第二百二十話「沖田総司の帰還(前編)―問い」
一
文久二年の師走も、いよいよ押し詰まっていた。
試衛館の道場がもっとも冷え込むのは、朝の雑巾がけの水が板の上で凍りかける刻限である。板敷きは夜の冷気を含んだまま硬く固まり、素足で踏み込めば、冷たさが脛の骨まで芯から伝わってきた。格子窓から差し込む冬日は低く、床の上に何本もの光の筋を落としているが、そこに手をかざしたところで温もりなどは欠片もない。
吐く息が、白い塊となって途切れる。
表の通りを流れる豆腐売りの呼び声が、ゆっくりと遠ざかっていく。門弟や隊士たちが起き出してくるまでには、まだ少し刻があった。
静まり返った道場で、沖田総司は刀掛けの前に佇んでいた。
掛かっているのは、己の刀である。京から江戸へ戻ってこのかた、ただの一度も鞘を払っていない。塗りに薄く埃が乗っているのを確かめ、沖田はふっと口元をゆるめた。毎朝この前を通りかかりながら、半年間、一切手を伸ばさなかったのは自分だ。
伸ばさなかったのには、理由があった。
皐月十二日の朝、伏見の京都試衛館を出る際、山南敬助は揃った五人の顔を確かめ、最後に沖田の目をじっと見据えてこう言ったのだ。
「刀は、置いておかれることです。あなたの手は、まだ刀を握れる。だからこそ、危ういのです」
山南は一呼吸置き、静かな声で付け加えた。
「完全に握れなくなるまで待ちなさい。それから、改めて刀を持ちなさい」
あのとき、沖田は返事の代わりに黙って頭を下げた。
まだ動くからと握れば、握れるぶんだけ限界を誤る。いまは半端に抗わず、剣のことはいっそ手放し、体が戻りきるまで徹底して休め――戻りきったその時、一から持ち直せばいいのだと、沖田は解釈していた。いかにもあの人らしい、理屈っぽくも情の深い言い回しであった。
だが、言われた通りに耐えるのは、思いのほか骨が折れた。
脇腹の傷自体はふた月ほどで塞がった。手間取ったのは、もっと深い部分だ。寺田屋の二階で、沖田は己の命の底を絞り出すように使い切っていた。その反動が体から抜けきるまでに、半年余りを要したのだ。
床から起き上がれぬ日が続き、ようやく動けるようになってからも、許されたのは朝の庭で木刀を振ることだけ。木刀を十本も振れば息が切れ、縁側に腰を下ろして隊士たちの稽古声をただ聴いているしかない朝もあった。
その長い日々が、ようやく明けた。
ここ数日、朝の素振りを終えても息が乱れない。握った指が、強張ったまま固まることもなくなった。夜中に腕の怠さで目覚めることもない。体がもういいと、内側から告げているのを感じた。
沖田は刀を静かに取り上げ、袖で鞘の埃を拭うと、鯉口を切った。
鞘を払う。格子からの光が、刃の上を一筋、滑らかに走った。
重い、と真っ先に思った。半年のあいだ木刀になじんでいた手に、鉄の冷たい質量が沈み込んでくる。だがそれは、もともとこの手に染みついていた確かな重みでもあった。
柄を握り直し、右の手首を返してみる。
伏見を発った朝には、この手首から先が意に反して強張っていた。いまは思った通りの角度まで、寸分の狂いもなく返る。二度、三度と返し、それが偶然でないことを確かめた。
平晴眼に構える。
切先を、見えない敵の喉元へつける。冷えた道場の空気が、刃の周りで僅かに震えた気がした。
一筋、振る。
刃が空を裂く短い音が、無人の道場に響き、静かに消えた。
もう一筋振る。今度は踏み込みを載せた。足の裏が板を捉え、腰が乗る。腕が自然と伸びる。その動作がどこにも引っかからず、一筋の流れとなって繋がった。
「……ああ、戻ってきた」
声にしてから、沖田はがらんとした道場を見回し、照れ隠しのように小さく笑った。
二
その日を境に、沖田は道場に入り浸るようになった。
朝は誰よりも早く来て素振りを重ね、昼は型を繰り返し、夕刻には手の空いている隊士を捕まえて打ち込みの相手をさせた。半年のあいだ止まっていた時を、一息に取り戻そうとするかのような苛烈さだった。
隊士たちは最初、どこか遠慮がちに遠巻きに見ていた。
沖田が削げ落ちた体で床に伏していた頃を覚えているからだ。朝の庭で木刀を十本振り、縁側で肩を揺らして息を整えていた姿も知っている。その男が、刀を手に取って数日のうちに、木刀を合わせた相手の手首を痺れさせるまでになったのだ。
「沖田さん。病み上がりっていう話は、一体どこへ行ったんですか」
打ち込みの相手をした若い隊士が、痺れた手首を振りながら堪らず言った。
「病み上がりだからこそ、こうして取り戻してるんですよ」
沖田は屈託なく笑い、すぐに次の相手を手招きした。
素振りの数は三日で元に戻った。型のキレも、五日目には半年前と変わらぬ域に達した。見守る隊士たちは目を見張ったが、沖田自身は少しも満足していなかった。
沖田には、もう一つ、どうしても取り戻さなければならないものがあったのだ。
寺田屋の二階で、二十数名を相手に回したときの、あの感覚である。
あの夜、沖田の体は思惑を超える速さで動いていた。考えるより先に、切先はすでに相手の肉を捉えていた。一人を突いた瞬間には、体はもう次の敵へ向かっていた。あれが普段の己の動きとは別物だったことだけは、はっきりしている。
あれをそのまま再現すれば、体が壊れる。
それは、半年かけて身に染みている。脇腹の浅い傷ひとつで済んだはずの男が、夏から秋をまるごと養生に費やしたのだ。
だから沖田が模索したのは、全部ではなく、ほんの一瞬だけを切り取ることだった。あの時使った力を、必要な刹那にだけ意のままに引き出せないか。構え、踏み込み、突く。その一動作の間だけでも、あの夜の体を借りることができたなら。
それができれば、次に何かが起きたとき、今度は壊れずに相手を制することができる。
寺田屋の階段の下で、沖田は一晩中、降りてくる敵を止め続けた。止め続けながら、味方が一人、また一人と倒れていくのを見ていた。あの力が、もっと早く、己の意志で引き出せていたなら――床の中で、そう激しく悔やんだ夜が何度あったか分からない。
あの夜の座敷で、己の体がどう動いていたのか。思い出そうとすると、手触りだけが確かに残っているのに、順序がどうしても思い出せない。その消え残った手触りだけを頼りに、沖田は打ち込みを繰り返した。
あと少しで手に届きそうな予感はあった。
打ち込みの最中、ふっと相手の木刀が緩慢に見える瞬間がある。道場の雑音が、一瞬だけ遠のく。
今だ、と思う。
そう思った途端、その感覚は指の隙間からすり抜けて消える。
相手の木刀は元の速度に戻り、道場の喧噪が再び押し寄せる。沖田の打ち込みは十分に速かったが、それは「半年前の沖田」の速さであって、「あの夜の速さ」ではなかった。
何度繰り返しても同じだった。
今度こそと力むほど、あの感覚は遠ざかる。息を詰め、目を凝らして踏み込むと、踏み込んだぶんだけ肩に無駄な力が入る。固くなった体は、いつもの綺麗な動きしか再現してくれない。相手をしている隊士には凄絶な打ち込みに映っているはずだが、それが沖田にはかえってもどかしかった。
打ち込みを受けていた隊士が、堪りかねて一歩引き、木刀を下ろした。額にびっしりと汗が浮いている。受けるだけで手一杯で、打ち返す隙などどこにもなかったのだ。
「沖田さん……今の、ほとんど見えませんでしたよ」
「そうですか。……うーん、そうかなあ」
褒められても、沖田は首を傾げるばかりだった。己の内側では、何ひとつ届いていないのだ。
(おかしいな。あの時は、何も考えていなかったはずなのに)
考えていなかった感覚を、どう考えれば引き戻せるのか。沖田にはその糸口が掴めなかった。
五日目の夕刻、何十本目かの打ち込みを終えたところで、沖田は膝に手をついた。
肩が激しく上下している。素振りも型も、すでに元通りだった。だが、あの感覚を追い求める打ち込みだけが、異常なほど体力を削り取っていく。
「……おかしいなあ」
顔を上げ、いつものように笑ってみせた。
相手をしていた隊士が引き攣った笑いを返しかけたが、沖田の笑顔のほうが先に途切れた。膝についた手を離すまでに、わずかな逡巡があった。
三
夜、布団に入って目を閉じると、沖田はあの日の庭を思い出す。
皐月の末、江戸へ帰り着いた日のことだ。
東海道を歩いた二週間で、体はすっかり衰弱していた。箱根の山越えでは足が上がらず、一日多く費やした。荷は鳴海が担いでくれたが、それでも一橋上屋敷の門をくぐった時には、膝の震えが止まらなかった。庭に立ったとき、自分がどれほど酷い顔色をしているかは分かっていた。だから、沖田は意識して軽薄に笑ってみせたのだ。
「ただいま戻りました。……いやあ、ちょっと、無理をしましてね」
姫様は、すぐには言葉を発しなかった。
「沖田殿」
「はい」
「……よく、帰ってきてくださいました」
それだけだった。労いも、詫びの言葉もなく、ただそれだけを告げられ、沖田は今度は作り笑いではなく、自然と口元を緩めた。すると、言うつもりのなかった言葉が溢れ出た。
「姫様。約束、守れませんでした……」
「いえ、守っていただきましたよ」
姫様の声は、どこまでも落ち着いていた。
「数は少なくなりましたが、あなた方はちゃんと帰ってきてくださいました。それが約束でござりました。他のことは、わたくしが引き受けまする」
そして、隙のない落ち着いた声のまま、言葉を継いだ。
「まずはゆっくり……京での疲れをとってくださいまし」
あのとき、沖田は何かを言い返そうとして声にならず、ただ頭を下げた。
だが、頭を下げる直前、見てしまったものがある。
「わたくしが引き受けまする」と言った、その一瞬の姫様の表情だ。
声は少しも揺れていなかった。けれど揺れていないぶんだけ、感情が顔に出ていたのだ。口元は凛と結ばれていたが、目の奥で何かを必死に堪えていた。戻らなかった七人のことも、その七人を伏見へ送った責任も、すべてを己ひとりの肩に背負い込もうとしている顔だった。
沖田が顔を上げれば、姫様はすぐにそれを完璧に隠してしまうだろう。そう悟ったからこそ、沖田は下げた頭をすぐには上げられなかったのだ。
そして、その身体の小ささである。
庭に立つ姫様を、沖田は見下ろす形になる。普段、御簾の奥で国の行く末を語る姿を聞いていると、つい失念してしまう。まだ十四の、華奢な少女に過ぎないのだ。その小さな身体で、あらゆる咎も悲しみも引き受けると口にしたのだ。
出立の前日、一橋上屋敷の廊下で、沖田は近藤にこう言っていた。
「今度ばかりは本気になりますよ。――姫様を悲しませたくはありませんからね」
虚飾のない本心だった。心からそう思って口にした。
だが、あれは頭の中で描いた理屈に過ぎなかった。沖田はあの時、姫様が真に打ちのめされる姿を見たことがなかったのだ。悲しませたくないと言いながら、その悲しみの本当の形を知らずに語っていた。
あの日、庭で目にしたものこそが、その真実だった。
頭で考えた決意は、言葉にしてしまえばどこかへ片付けられる。だが、目にしてしまった光景は、瞼を閉じても裏側に焼き付いて離れない。養生の半年のあいだ、床の中で天井を見つめていると、ふいにあの顔が鮮明に浮かび上がってくるのだった。
(この方を、二度とあんな顔にさせてはならない)
あの日以来、その念が沖田の輪郭を形作っている。
あれから半年、姫様は沖田の前で一度もあの表情を見せていない。水無月に無断で門を出たことを詫びに上がった際も、御簾の奥からいつもの調子で釘を刺されただけだった。見せないのは、悲しみが消えたからではない。それを隠し通すだけの強さと孤独を、姫様が抱え続けているからだ。
だからこそ、自分は刀を振る。
夜が明ければ、また道場に立つ。あの夜の圧倒的な力を、今度は己を壊さずに振るえるように。次に何かが起きたとき、あの悲痛な顔をさせる報せを、二度と姫様のもとへ持ち帰らずに済むように。
沖田は布団の中で静かに寝返りを打ち、再び深い闇の中へ目を閉じた。
四
六日目の夕刻、道場の静寂の中に斎藤一がいた。
他の隊士たちはすでに引き揚げ、磨き上げられた板敷きには低い西日が長く伸びている。斎藤は壁際に腰を下ろし、己の木刀の反りを静かに確かめていた。
寺田屋の夜以来、この男は呼吸するように沖田の影にいた。
山南に見送られた朝も、東海道の宿場でも、そして横浜の御役目から戻ってきてからも、ふと気づけば間合いの届く場所に斎藤がいる。。誰に命じられたわけでもないらしい。この六日間も、沖田が道場にいる間、斎藤は常に壁際のどこかで静かに座っていた。理由を尋ねたことはない。尋ねたところで、答えぬことなど分かっていたからだ。
この日、沖田は最後の打ち込みの相手を斎藤に頼もうかと考えていた。しかし、壁際で黙々と木刀を検める斎藤の横顔を見つめているうちに、尋ねるべきことが別に浮かんできた。
沖田は木刀を床に置き、斎藤の目の前に腰を下ろした。
「斎藤さん」
斎藤が、視線だけをこちらに向けた。
「あの夜の僕を、見ていましたよね」
斎藤は無言を貫いた。
寺田屋の二階へ、沖田のあとに踏み込んできたのは斎藤だけだ。あの座敷で沖田がどう跳躍し、どう刃を振るったのかを知る者は、沖田を除けばこの男しかいない。
「あれを、もう一度やりたいんです」
沖田は身を乗り出すように語りかけた。
「全部じゃなくていい。あの時みたいに体が勝手に動く、あの境地です。あれを一瞬だけでも自分の意志で引き出せたらと思ってね。ここ数日ずっと追っているんですが……あと一歩のところで、どうしても届かないんです」
斎藤の瞳は揺れない。
「斎藤さんも、この数日見ていたでしょう。僕の打ち込み、どう見えましたか。あと少しだと思いませんか」
沖田の声には、切実な熱が籠もっていた。
「無茶をすれば体が壊れることくらい、もう身に染みています。半年も床に伏せっていたんですからね。だからこそ、ほんの一瞬でいいんです。一突きの、その刹那だけでいい」
斎藤は、しばらく沖田の顔を黙って見つめていた。
どこまでも感情を削ぎ落とした目だ。その視線が沖田の顔の一点に固定されたまま、長い沈黙が流れた。
「……やめておけ」
短く、それだけだった。
「どうしてです」
斎藤は答えなかった。
膝の上に置いた木刀に手を添えたまま、斎藤の視線はすでに沖田を捉えていなかった。格子の外、暮れなずむ冬の空へと向けられている。
「斎藤さん」
返答はない。
「理由くらい教えてくれたっていいでしょう。一瞬だけだと言っているんですから」
それにも、答える気配はなかった。
沖田は少しの間、沈黙を守った。この男が黙り込むときは、語る意思がないか、言葉に置き換えられないかのどちらかだ。そしてその境界線は、いくら付き合いの長い沖田であっても判別がつかない。
斎藤の手が、木刀の反りを確かめるのを止めていた。
道場の外で、烏が短く一鳴きして飛び去った。西日がさらに深く傾いていく。
斎藤の脳裏を、ある一つの横顔がよぎっていた。
伏見の夜、寺田屋の階段の一段目へ足をかけたとき、一度だけこちらへ流れた沖田の横顔である。怒りも昂ぶりもなく、表情そのものが抜け落ちた顔だった。斎藤はそれを、誰にも語ったことがない。そしてこの瞬間も、決して口にしなかった。
「……分かりました」
沖田は静かに言い、立ち上がった。
納得したわけでは決してない。「やめておけ」と告げられたが、理由を示されていない以上、諦める理由も存在しないからだ。
木刀を拾い上げ、刀掛けへ戻しながら、沖田はもう一度だけ振り返った。
斎藤が何を目撃し、何を胸の奥深くに秘めているのか。沖田には窺い知るすべもない。だが、この男が口を閉ざすとき、そこには語り得ぬだけの重みがあることだけは理解していた。
「斎藤さん。夕飯、行きましょうか」
「……ああ」
それだけは、即座に返ってきた。
斎藤は姿勢を変えぬまま、落ちていく夕日を見つめ続けていた。格子の影が斎藤の膝を横切って伸び、暗がりへと変わっていく道場の床の上を、静かに侵食していった。
五
翌日、沖田は近藤勇に事の次第を打ち明けた。
昼の稽古が一段落し、近藤が奥の間で帳面を繰っていたところへ、沖田が茶碗を二つ載せた盆を持って入っていった。
「近藤さん、ちょっといいですか」
「なんだ、改まって。おまえが茶なんぞ運んでくるときは、碌な話じゃねえと決まってる」
「ひどいなあ」
沖田は苦笑しながら、湯気の立つ茶碗を近藤の前に置いた。
それから、ここ数日の試みをそのまま話した。
あの寺田屋の夜の動きを、もう一度己の意志で引き出したいこと。命を削るような無茶は懲りたから、突く一瞬だけでいいこと。手応えはあるのに、土壇場でどうしても届かないこと。そして斎藤に相談したものの、「やめておけ」とだけ言われて取り合ってもらえなかったこと。
近藤は腕を組み、眉間に深い皺を刻んで聞いていた。途中で一度だけ不機嫌そうに眉を跳ね上げたが、最後まで口を挟まなかった。
寺田屋の二階で何が起きたのか、近藤は山南からの報告でしか知らない。沖田が命じられぬまま二階へ上がっていき、それを境に降りてくる者が途絶えた――報告にあったのは、ほぼそれだけだ。沖田自身も、あの夜の凄惨を近藤の前で詳細に語ったことはなかった。
近藤は湯呑みを大きな手の中で弄びながら、しばらく沈黙していた。
「……体は、もう本当にいいんだな」
思案の末、近藤が口にしたのはその一言だった。
「ええ、もうすっかり。素振りの数も型のキレも、半年前に戻りました」
「おまえの『すっかり』は当てにならん」
「本当ですってば」
「……で、斎藤がやめておけと言ったのか」
「はい。理由はさっぱり教えてくれませんでしたけど」
「あいつが口を閉ざすのはいつものことだ。……そうか」
近藤は茶を一口すすり、腕を組み直して天井を仰いだ。
「一応、姫様にお聞きしてみたらどうだ。あのお方なら、何かご存知かもしれん。該博高深と呼ぶに相応しお方だからな」
近藤の頭にあったのは、糸子の底知れぬ知識の深さだった。
あのお方は、ただ古い書物を読み漁っただけの物知りではない。政治、兵法、商い、そして剣の理に至るまで、どの分野においても尋常ではない理解を示す。しかも、その場しのぎの知識ではなく、物事の根にある理屈まで掘り下げて語るのだ。
時折、「夢で見た」と前置きしては、どこの流派の伝書にも残っていない技の理合や、達人でなければ辿り着けぬような剣の考え方を、まるで古来より研究してきた者のように説く。
斎藤の鋭利な片手突きも、元を辿れば姫様の一言から生まれたものだった。
剣の深奥に関することであれば、あのお方ならば何か知っているやもしれぬ――。
近藤は、そう考えたのだ。
「……姫様に、ですか」
「うむ。剣の理屈に関しては、案外あのお方がいちばん詳しい。春に薩摩の薬丸自顕流について講釈されたのを、おまえも聞いていただろう」
沖田は、この話を近藤に持ち込んだことを即座に後悔した。
姫様とのあいだには、数月前の苦い一件がある。まだ朝の素振りしか許されていなかった頃、無断で門の外へ出たことを詫びに上がり、話の終いに「振りすぎては、なりませぬ」と釘を刺されたのだ。
あのとき沖田は「……それは、少し難しいご注文でございますね」と笑ってみせたものの、内心では冷や汗をかいていた。
その釘もまだ抜けきらぬうちに、「あの夜の極限の動きを取り戻したい」などと相談しに行けば、どんな顔をされるか分かったものではない。
「いや、近藤さん、それはさすがに……」
だが近藤は、すでに立ち上がっていた。
「行くぞ、総司」
「いやですから、姫様もお忙しいでしょうし」
「姫様もひと段落したと伺っている。今ならばお時間もあろう」
「そういう問題じゃなくてですね」
近藤は聞く耳を持たなかった。衣桁から羽織を引っ張り出し、すでに土間へ下りかけている。沖田は茶碗を持ったまま、その大きな背中を呆然と見送っていたが、やがて諦めたように息を吐き、飲みかけの茶を盆へ戻した。
*
一橋上屋敷へ向かう道すがら、近藤の足取りは妙に軽やかで、沖田の歩みは底知れず重かった。
「総司、遅いぞ。足が鈍っているんじゃないか」
「病み上がりなんですよ、僕は」
「さっき、すっかり元に戻ったと言ったのはどこのどいつだ」
沖田は言い返す言葉もなく、師走の空っ風に首をすくめた。
沿道の商家では、どこも煤払いを終えて年の瀬の支度に追われていた。店先に新しい暖簾が掲げられ、路地の奥からは餅を搗く威勢のいい音が響いてくる。近藤はそれらを機嫌よく眺めながら、「今年もいよいよ終わりだな」と満足げに呟いたが、沖田には相槌を打つ気力すら湧かなかった。
屋敷の門が見えてくる頃には、沖田はただ「姫様の前でどう言い訳を取り繕うか」ばかりを考えていた。考えれば考えるほど、墓穴を掘る先しか見えてこなかった。
六
通されたのは、糸子の私室だった。
春先、京行きを告げられたときと同じ部屋だ。文机の上には書類の束が整然と積まれ、火鉢の中では炭が赤々と熾っていた。
二人が敷居際で平伏したとき、糸子は文机に向かって何かの綴りを検分している最中だった。顔を上げ、近藤の横に沖田がいるのを認めた瞬間、ほんの僅かに眉が跳ね上がった。
(え、二人揃って? 何事? また何か問題でも?)
表には出さなかったものの、手に取った扇子の動きがわずかに強張った。
葵が静かにお茶を運んできた。
三つの茶碗を順に配し、最後に沖田の前へ置く際、その顔色をちらりと盗み見た。そして一言も発せず退がっていった。
沖田はその視線の意味を痛いほど知っていた。以前、養生を無視して門の外へ出た際、葵に泣かれた覚えがあるからだ。
今日の顔色は合格点だったらしい。障子を閉める間際、葵の口元がほんの少しだけ柔らかく緩むのを、沖田は見逃さなかった。
「お二人揃ってお越しとは、珍しゅうございますね」
糸子は文机から膝を回し、正面から二人に向き直った。
「沖田殿。お顔の色が、ずいぶんとようなられましたこと」
「おかげさまで。もう、すっかり良く」
沖田が愛想笑いを浮かべると、隣で近藤がわざとらしく咳払いをした。
「して、近藤殿。本日はどのような御用向きで」
「はっ。実は、総司の剣のことで、姫様に是非ともお知恵を拝借したくまかり越しました」
近藤が事の経緯を朗々と述べ始めた。他人の口から、しかもあの大声で順を追って語られると、己のしていることの無茶がいやでも際立ち、沖田は身の縮む思いだった。
糸子は途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、近藤の口から「寺田屋」という名が落ちた瞬間、扇子の先が微かに止まったのを、沖田は見逃さなかった。
話し終えると、糸子は静かに沖田へ視線を移した。
「沖田殿」
「はい」
「その夜のこと、わたくしにもお聞かせいただけますか。話せる範囲で構いませぬ。それは一体、どのような有様であったのでしょうか」
沖田は少し躊躇した。あの夜の狂気を、言葉に置き換える難しさを感じていたからだ。膝の上で指を一度固く組み直してから、ぽつりぽつりと語り始めた。
「……上手く言えるか分かりませんが」
前置きをして、沖田は記憶の底をすくい上げた。
「階段を上がり、二階の座敷を踏み越えたあたりからです。まず、音が消えました。周囲で人が叫び、刀がぶつかり合う音がしていたはずなのに、一切聞こえなくなったんです。景色も失われました。座敷の壁も、障子も、灯りすら消えた。見えていたのは、刃を向けて向かってくる相手の体だけでした」
糸子は無言で聞き入っている。
「それから、時の流れがおかしくなりました。相手の動きが、恐ろしいほど遅く見えるんです。柄を握り直す指の、一本一本の動きまで克明に見える。なのに、後から思えば全てが一瞬で終わっていた。遅かったのか速かったのか、自分の感覚では測れません」
近藤が腕を組んだまま、息を詰めて沖田の横顔を見つめている。
「それに、何も考えていませんでした。こう来たらこう受ける、次はあいつだ、なんて計算は一切ない。考える前に、体が勝手に動いていました。気がついた時には突いていて、次の瞬間には別の相手へ向いている」
沖田はそこで一度言葉を切り、適切な表現を探すように視線を彷徨わせた。
「なんと言えばいいのか……自分と、刀と、相手が、完全に一つに溶け合ったような感覚です。……不思議なんですが、あのとき、僕は満ち足りていました。足りないものが何一つない、完璧な心地だったんです」
語り終え、沖田は照れ隠しのように困った笑みを浮かべた。
「すみません、こんな抽象的な話で、お分かりになりますか」
近藤は組んでいた腕をいつの間にか解いていた。沖田の口からあの夜の惨劇の内実をこうして順を追って聞くのは、近藤にとっても初めてのことだった。膝の上の拳が、話の最中から固く握りしめられたままだった。
糸子はすぐには言葉を発しなかった。沖田の最後の一言が、胸の奥で重く響いていた。
――満ち足りていた。足りないものが、何もない。
(どのような場面だったのかは、今の話だけでは分からない。だけど、沖田はそう記憶しているんだ……)
(それって……まるで「ゾーン」に入った時の話じゃない)
音が途絶え、時間が歪み、思考を介さずに体が最適解を叩き出す。前世のスポーツ心理学や格闘技の文献で嫌というほど目にした概念が、頭の中で鮮明な形を結んだ。
(いや待って、自分と刀と相手が一つになるって、それ単なる超集中を超えた『無我』の領域なんじゃ……)
「ゾーンの先に、入っておられたのですね」
思考がそのまま口から滑り出していた。
「「ぞーん???」」
近藤と沖田の声が、寸分の狂いもなく重なった。
大の男二人が、全く同じ角度で首を傾げている。
(……やってしまった!)
糸子は慌てて扇子を広げ、口元を隠した。背筋を冷たい汗が伝っていくのが分かった。
「あ、いえ……今のは、その…」
近藤が胡散臭そうな目で糸子を注視している。沖田の方は「ぞーん、ぞーん」と口の中で呪文のように呟いていた。
「ぞーん、というのは……いかなる言葉でございましょうか」
「い、異国の言葉。そう、英語でござります! 」
「おほほほほほーーーーーーっ」
何故か、必死で誤魔化そうとする姫君が、そこにいた。
七
「おほんっ…」
「……分かりやすく申し上げればですね」
糸子は扇子をパチンと閉じ、背筋を伸ばして居住まいを正した。
「いわゆる『無の境地』とでも申しましょうか」
近藤が「ほう……」と深く息を漏らした。「無の境地」という言葉なら、剣に生きる者であれば一度は耳にしたことがある。だが、それが具体的にいかなる状態を指すのかを明確に説明できる者は皆無に等しい。
「沖田殿は先ほど、何も考えていなかったと仰いました。そここそが、極限の肝要にございます」
糸子は前世の知識とこの幕末の言葉を慎重に擦り合わせながら続けた。
「人が物事に没頭する際、多くは一つの点に心を集中させます。一点を見据え、他を切り捨てる。それは『集中』に過ぎませぬ。ですが、沖田殿が入られたのはそのさらに先――集中すらも超えた無我の領域にございます」
「集中すら、していない……」
沖田が反芻するように呟いた。
「ええ。どこにも心を留めておられないのです。相手の刃にも、己の刀にも、生の執着にも、死の恐れにも。沢庵和尚が『不動智神妙録』にて説かれた極意こそ、これにございましょう」
「心をどこか一所に止めれば、そこに囚われて他の対応が留守になる。どこにも止めずに漂わせておけば、心は体中に行き渡り、あらゆる変化に即座に応じられる…と。不動と申しても、石や木のように動かぬことではございませぬ。どこへでも動きながら、どこにも止まらぬ心を、和尚は不動と呼ばれたのです」
近藤が腕を組み、唸り声を上げた。
「しかし姫様。心をどこにも留めずに、いかにして相手を斬るのでございますか。敵を見ずに刀は振れまいと存じますが」
「見てはおられます。ただ、『見ること』に囚われておられないのです」
糸子は一呼吸置き、言葉を補った。
「近藤殿。左から打ってくる敵に心を奪われれば、右から忍び寄る刃への対応が遅れましょう?」
「それは……確実に遅れますな」
「どちらにも心を奪われずにおれば、どちらが来ようとも同じ速さで捉えられます。心を止めぬとは、そういうことにございます」
近藤は深く頷いた。多人数を相手にする実戦や稽古で、身に覚えのある感覚だったからだ。
「宮本武蔵も『五輪書』に書き残しております。『観の目つよく、見の目よわく』。また、『敵の太刀を知り、聊かも敵の太刀を見ず』とも」
「……わたくしなりに読み解けば、見の目とは一点に吸い寄せられる目、観の目とは場の全体とその移ろいを捉える目。切先や相手の手元ばかりを追うな、ということにございましょう」
「宮本武蔵……あの巌流島の」
沖田が思わず身を乗り出した。
「講釈で聞いたことがあります。船の櫂を削って木刀にしたという」
「その武蔵にございます。講釈の誇張はともかく、剣の理合いについては本人が確かな書き付けを残しております」
糸子はそう言って話を本筋に戻した。
「同じ書に『巌の身』ともございます。兵法を得た者は、たちまち巌のごとくになり、何ものにも当たられず、何ものにも動かされぬ、と。武蔵が細川の殿様へ奉った覚書には、動くことなくして強く大なる心、とも記されております」
糸子はそこで一度、言葉を切った。
「ここから先は武蔵の言葉ではなく、わたくしの考えにございます。和尚の申す不動と、武蔵の申す巌。言葉は違えど、揺るがぬのは心の根であって、身が固まるのではございませぬ。揺るがぬ心は、やがて止水のように澄みまする」
「止水が鏡となるように、心が澄んでおれば、相手が動こうとする微かな『気配』がそのまま映り込む。映り込めば、思考を介さずとも、体がひとりでに理にかなった動きをとる。沖田殿が『考える前に体が動いた』と仰ったのは、まさにこの有様にございましょう」
「では……あの夜の僕は、心をどこにも置かず、ただ映していただけ……ということですか」
「わたくしはその場におりませなんだゆえ、断定はできかねますが、沖田殿のお話を伺う限りは」
糸子はまっすぐに沖田の目を見つめた。
「音が消え、視界が削ぎ落とされ、思考を超えて体が跳ねた。心がどこかに囚われていては、そのような芸当は叶いませぬ」
沖田は糸子の言葉を噛み締めるように固まっていた。
「無我の境地……」
ぽつりと溢れ出た言葉は、糸子の説明を沖田自身の感覚で咀嚼した結論だった。沖田は膝の上の自分の掌を見つめ、長い沈黙に入った。
やがて、沖田がふっと顔を上げた。
「姫様。それは……平晴眼に構えたとき、切先にも、相手の目にも、心を固定しないということですね」
糸子が視線を返す。
「晴眼に構えれば、切先は自然と相手の喉元を指します。切先を凝視していなくても、敵の目を睨みつけていなくても、両方は確実に視界の中に存在する。どちらか一方に固執せず、両方をただ『そこにある』ものとして空間ごと捉える。……そういうことでございましょうか」
糸子は思わず息をのんだ。
書物の知識を幾つも引いて回りくどく解説した概念を、この天才は一瞬で己の構えという実戦の形へ落とし込んでみせたのだ。
「……さすがは沖田殿」
(私の説明より、よっぽど直感的で分かりやすいじゃないの……)
糸子は内心で舌を巻いた。提示した抽象論を、相手が己の身体言語に翻訳して返してくる。このやり取りの心地よさは格別だった。
「近藤殿は、いかがでございますか」
「……某は」
近藤は腕を組んだまま、「うーむ」と重々しく唸った。
総司の言わんとすることも、姫様の講釈も理解はできる。だが、それが己の剛直な剣のどこに該当するのか、腹に落ちていない顔だった。近藤はそのまま畳の目を鋭い眼光で睨みつけていたが、やがて、
「……道場へ戻り、一度構えてみます」
それが精一杯の答えだった。
「近藤さん、構えながら『うーむ』って考え込んだら台無しなんですよ。今姫様が言ったばかりじゃないですか」
「分かっている!」
「本当ですか?」
「分かっていると言っているだろうが!」
近藤は吐き捨てるように言い、冷めかけた茶をぐいと呷った。
「うふふふふっ」
糸子は扇子の陰で忍び笑いを漏らした。
(近藤殿、絶対に『無になろう』として眉間に皺寄せて力むタイプだわ……)
八
「……さて、ここからが本題にございます。沖田殿のお身体のことについて、申し上げねばなりませぬ」
糸子は表情を引き締め、声を低くした。
「人の身体というものは、本来持てる力の『七割』程度しか出せぬよう、作られております」
「七割、ですか」
「はい。残りの『三割』は限界を超えて壊れぬための不可侵の余白にございます。無茶をして骨や筋が破断せぬよう、頭の中の……我が身を司る部位が、その三割に強固な鍵をかけて離さぬのです。どれほど力もうと、通常は手綱が締め上げられているのです」
「では、僕たちが稽古や実戦で出しているのも……」
「どこまで行こうと『七割』の枠内にございます。どれほど天下無双の剣士であっても」
「近藤さんも、ですか」
「近藤殿も、にございます」
近藤がなんとも言えない複雑な表情で、己の丸太のような太い腕を見下ろした。沖田もまた、己の右手首へ視線を落とした。
「姫様」
近藤が重々しく口を開いた。
「春に薩摩の薬丸自顕流について教えていただいた際、『猿叫』は恐怖を打ち消し、潜在する力を引き出すものと伺いました。あれもまた、その手綱を緩める技法なのでしょうか」
「近しいものと存じます。凄まじい咆哮によって、頭の中の手綱が一瞬緩むのでしょう。薩摩の初太刀があれほど異常な破壊力を持つのは、その余白に足を踏み入れているからかと」
近藤が低く唸った。伏見で轟鉄之助が薩摩の初太刀の一撃で惨殺された凄惨を、報告書で知っていたからだ。
「無我の境地のさらに深淵へ入ると、我を司る心の働きが完全に沈黙いたします。勝ちたい、生き残りたいという我が消え、生き延びようとする本能の歯止めすらも外れる。その結果、それまで積み上げてきた気の遠くなるような稽古の全てが、何にも妨げられず、そっくりそのまま身体から解き放たれるのです」
「沖田殿がこれまでの人生で培った、剣の全てが……」
沖田はあの夜の感覚を反芻していた。
思考を置き去りにして跳ねた身体。一人を突いた瞬間には、すでに次の敵の喉元へ刃が伸びていたあの異常な旋風。
「ですが」
糸子はそこで言葉を区切り、口を一文字に結んだ。
「手綱を握る者が眠っているということは、歯止めをかける者もいないということです。そのまま余白の三割まで使い切れば、肉体の側がその力に耐えきれません。骨も、腱も、筋も、己が出した度外れの力によって内側から壊されます」
「……耐えきれない」
沖田が小さく反芻した。
腕が上がらず、指が強張り、階段を上るのに手すりを掴むしかなかったあの果てしない無力感を思い出していた。
「姫様。では……僕がまたあの夜と同じ動きを再現しようとすれば」
「再び、同じ結果となりましょう」
糸子は曖昧さを排して言い切った。
「余白に手を触れねば壊れはいたしません。ですが、その境目は、渦中にいるご本人には決して見えぬのです。手綱を握るべき心が眠っているのですから」
沖田は沈黙し、深く頷いた。
「姫様。総司はあの夜、その『三割』の余白をどれほど使い果たしたのでしょうか」
近藤が掠れた声で尋ねた。
「それはわたくしにも分からぬ領域です。ですが……元に戻るまでに半年を要した。それこそが、身体が弾き出した答えにございましょう」
近藤は無言で頷いた。膝の上の拳が、白くなるほど強く握りしめられた。
そう語り終えた瞬間、糸子は己が口にした言葉の重みにハッとした。
皐月の末、江戸の屋敷の庭で迎えた沖田の姿が鮮明に蘇ってきた。削げた頬、おぼつかない足取り、痛々しい作り笑い。そしてその後の、半年におよぶ長い長い療養生活。
(脇腹の浅い擦り傷ひとつで、どうしてこれほど長く起き上がれないんだろうって……ずっと不思議だった)
夏の間、沖田が床に伏せっていると報告を受けるたび、糸子は胸のつかえを感じていた。考えても理由は分からず、かといって本人に問い詰めることもしなかった。彼が話せるようになるまで待つのが筋だと思っていたからだ。
「……ああ」
糸子の口から、無意識のうちに吐息が漏れた。
「だから沖田殿は……あれほど長く、床に伏せる必要があったのですね」
誰に聞かせるでもない、ぽつりとした呟きだった。
糸子は膝の上の扇子に視線を落とし、心底安堵したように胸を撫で下ろした。
「刃で切り刻まれた傷ではなかったのですね。……本当によかった」
肩からすっと力が抜け、糸子は小さく息を吐いた。
近藤と沖田は、呆然と顔を見合わせた。
寺田屋の後、沖田が長期の病床に就いたことは屋敷の誰もが知っていた。だが、それを姫様がどれほど深く、胸を痛めて案じていたのかを、二人は今この瞬間に初めて知ったのだ。姫様はそんな弱音を、周囲に一度たりとも漏らしたことがなかったからだ。
「姫様……そんなに、僕のことを気にかけてくださっていたんですか」
沖田が毒気を抜かれたような顔で尋ねた。
「き、気になどしておりませぬ! ……いえ、心配はいたしましたけれど、それは配下の身を案じる主として当然の務めにございます!」
糸子は慌てて取り繕った。近藤は何も見なかったかのように知らん顔で茶をすすり、沖田は今度は作り笑いではなく、心からの笑みを浮かべた。
糸子は顔を真っ赤にし、大慌てで扇子を開いて顔を隠した。
(やだ私、今すっごい素の女子の顔になっちゃってたじゃないの……)
九
「そ、それでですね!」
扇子の陰でゴホンと派手に咳払いをし、糸子は強引に話を軌道修正した。
(もうこうなったら、安全な『スイッチの入れ方』まで全部教え込んで終わらせるわよ!)
「その極限の境地に、安全に、かつ意のままに入るための手順を申し上げます。入口は二つございます」
「えっ? そんな方法があるんですか?」
沖田が身を乗り出した。
「……しかも、二つもですか!」
糸子は頷いた。
「一つは『目』にございます。一点を凝視せず、視界に入る全ての風景をぼんやりと捉える。先ほどの『観の目』にございますね。相手の刃も、手元も、道場の壁も、全てを一枚の絵のように眺めるのです」
沖田はすぐに目を細め、部屋の中をぼんやりと見回し始めた。慣れない感覚らしく何度か瞬きを繰り返していたが、途中で文机の上の機密書類の束に視線が引っかかり、慌てて目を逸らしていた。
「一点を見つめれば心はそこに固着します。ですが空間全体をぼんやりと観ていれば、頭の中の余計な考えが静まってまいります」
糸子は息を整え、二つ目を提示した。
「もう一つは『息』にございます。臍の下、いわゆる丹田に意識を置き、細く、長く、息を吐き切る。胸で浅く息を吸っていれば心は焦燥に支配されます。吐き切れば、全身の不要な力みが削ぎ落とされてまいります」
近藤が知らず知らずのうちに己の下腹に大きな手を当てていた。そのまま「ふううう……」と長々と息を吐き出している。吐き終えて糸子と目が合うと、何事もなかったかのようにすっと手を膝に戻した。
沖田の方は相変わらず「観の目」を試して部屋をぼんやり眺めていたが、真顔で長息を吐く近藤の横顔が視界に入った瞬間、吹き出しそうになって口元をひくつかせていた。
糸子は構わず畳みかけた。
「稽古は『三つの段』に分けて行います」
指を一本立てた。
「第一に『静』。静かに座し、ただ息だけに意識を向ける。雑念が湧いたら『ああ、湧いたな』と他人事のように眺めて受け流し、責めずに再び息へ意識を戻す。これを繰り返すことで、散った心を一点に呼び戻す力が養われます」
二本目の指を立てる。
「第二に『動』。型を、一切の思考を挟まずとも完璧にこなせるまで肉体に染み込ませる。考えねば振れぬ型を抱えているうちは、頭の手綱は緩みませぬ。もっとも、沖田殿ほどの域であれば、これはすでに成っておりましょう」
三本目の指を立てる。
「第三に『実』。先ほどの『目』と『息』を、必ず対にして用います。空間をぼんやりと観て、息を完全に吐き切る。その直後に、最高の初動を繰り出す。これを幾度も繰り返し、考えずとも体が応じるまで叩き込むのです。やがては、目と息をその形にするだけで、肉体の側がひとりでに、あの境地へ移るようになりましょう」
糸子は立てていた指を下ろし、念を押すように告げた。
「対にすることが肝要です。目だけ、息だけでは、身体が何の合図か分かりませぬ。常に同じ手順、同じ作法で行う。そうすれば、肉体がその手順を覚え込むのです」
「……稽古や勝負の前に、必ず決まった手順を踏む、ということですね」
「さようでございます。沖田殿が構えに入る前、無意識に行っている癖がございましょう。それを『目』と『息』という明確な合図に置き換えるのです」
沖田は少し考え、「ああ……」と深く納得した顔を見せた。構える直前、柄を一度固く握り直すのが沖田の長年の癖だった。
(……まあ、全部前世のスポーツ心理学とルーティン理論の受け売りなんだけどね!)
糸子は心の中で盛大に注釈をつけたが、口の滑らかさは止まらなかった。
沖田は糸子の示した三つの段階を口の中で噛み締めるように反芻していた。
「静、動、実……」
「ただし」
糸子は扇子で己の膝をパシッと叩いた。
「もっとも決定的な肝要は、――『無になろうとしないこと』にございます」
「……無になろうと、しない?」
沖田がハッと顔を上げた。
「はい。『境地に入ろう』『無になろう』と意図したその瞬間に、すでに『我』が芽生えております。『上手くやりたい』『再現したい』という執着もまた、我が身を縛る我に他なりませぬ。己が刃を振るうのではなく、長年鍛え上げた己の肉体という『器』に勝手に動いてもらう。己はその動きを、桟敷から眺める見物人となる。……そうお心得くださいまし」
沖田は絶句し、そのまま動きを止めた。
一息に説き明かし、糸子は冷めかけた湯呑みを手に取り、喉を潤した。
近藤が心底感服した様子で、深く溜息をついた。
「……姫様は一体、どこでそのような剣の深遠を修められたのでございますか」
湯呑みが糸子の口元でピタリと止まった。
(……やばい、調子に乗りすぎて、脳の制約だの潜在能力だのルーティンだの語りすぎた!!)
公家の姫君が古文書で読んだと言い張るには、どう考えても論理構成が近代的すぎる。沢庵と武蔵の引用あたりで止めておけばよかったのに、語り出したら止まらない前世の知識欲が暴走してしまった。
「い、異国の知恵にございますよ! おほほほほほっ!」
糸子は扇子で顔を隠し、高らかに笑って誤魔化した。扇子を持つ手が、じっとりと湿っていた。
本日、二度目である。
……どうやらこの姫君は、学習というものをしないらしい。
近藤はそれ以上追及しようとせず、深く頷いた。
(相変わらず、恐れ入る知識の深さだ。さすが姫様。しかし、異国の知恵とは、それほどまでに万能なものなのか……)
近藤は心の内でそう呟いた。
海の向こうには、自分たちの知らぬ学問がある。異国の技術が驚くべきものだという話も、近頃では耳にする。
ならば姫様の知識も、その異国の学問によるものなのだろう。
……そう考えれば、納得はできる。
しかし、人を見てきた近藤には分かることもあった。
姫様の言葉には、ただ書物から得た知識とは違うものがある。まるで、その知恵を己の血肉として扱っているかのような、不思議な重みがあった。
近藤は小さく息を吐き、考えることを止めた。
いずれにせよ、あのお方の言葉は、これまでただの一度も外れたことがないのだ。
沖田は姫様のわざとらしい笑い声を聞きながら、どこか遠い目をして、己の内に芽生えた新たな剣の理合いを静かに見つめ直していた。
十
部屋が、静まり返った。
火鉢の炭が、ひとつ小さく爆ぜる。
沖田は膝の上をじっと見つめていた。笑んではいない。ただ考え込んでいるのとも違っていた。糸子の紡いだ言葉を、一つひとつ、己の体の奥深くへ仕舞い込んでいくような顔だった。
目。息。静、動、実。なろうとしないこと。ただ器になること。
静の稽古なら、今夜からでもできる。
あの夜、自分は何者かになろうとはしていなかった。ただ、そこにいただけだ。
この数日間、自分は道場で、必死にあの夜の自分になろうとしていた。同じものを追いかけながら、真逆のことを重ねていたのだ。
斎藤が理由も言わずに止めた理由までは、まだ分からない。けれど、自分がどこで道を違えていたのかだけは、いまはっきりと分かった。追いかけるのをやめ、入口から入り直せばいい。入口なら、姫様が二つも教えてくれた。
それに、あの夜の力は、入りっぱなしで使えば体が壊れる。一瞬だけにと自分で定めていたことは、間違っていなかった。間違っていたのは、そこに至る道のほうだ。
やがて、沖田の顔つきに明確な覚悟が宿った。
両の手を、深く畳につく。
「姫様。……ありがとう存じます」
額が畳に擦れるほど、深く平伏した。
糸子は思わず息を呑んだ。
沖田が頭を下げるところは何度も見てきた。けれど、それらはいつもどこか軽やかで、顔を上げればすぐに、あの人懐こい笑みが戻っていた。京へ発つ前日、この同じ部屋で居住まいを正したときでさえ、立ち去り際にあっけらかんと「姫様、それじゃ、失礼しますねー」と手を振っていった男だ。
だが、いまの沖田に、その軽さは微塵もなかった。
下げた頭が、上がらない。畳に置かれた指先に、痛いほどの力がこもっている。
隣の近藤が何か言いかけて、口をつぐんだ。近藤の目には、十にも満たない時分から試衛館の板の間でがむしゃらに木刀を振っていた総司の姿が焼き付いている。その近藤でさえ、沖田がこれほど深く頭を下げる姿を見たことがなかった。
(……沖田殿)
糸子もまた、言葉を探しながら口を閉ざした。
自分は知っていることを語ったに過ぎない。しかし、この男はそれを、自分の想像を遥かに超える深さで受け止めたのだ。その深さが、糸子には怖ろしくも、頼もしくも思えた。
やがて沖田が、静かに顔を上げた。額には、畳の目の跡がうっすらと刻まれていた。
十一
沖田が顔を上げるのを待ち、糸子は改めて居住まいを正した。
扇子を膝の脇へ置き、両手を揃える。
「沖田殿。近藤殿も、お聞きくださいまし」
二人が、同時に背筋を伸ばした。
「強くなろうとなさるのは、あなた方の本分。わたくしは何も申しませぬ」
糸子は、一語一語を確かめるように紡いだ。
「なれど、行き過ぎれば自滅の道にございます。あなた方には、わたくしを守っていただかねばなりませぬ。どうか……ご自身を大切になさいませ」
声は静かだった。静かだからこそ、部屋の隅々にまで沁み渡った。
近藤も沖田も、微動だにしなかった。
沖田は、数月前の庭で見た姫の顔を思い出していた。いま目の前にある顔は、あのときとは違う。違うけれど、全く同じ根から生え出た言葉だということだけは分かった。
寺田屋へ彼らを送り出したのは、糸子だ。七人が帰らず、沖田が半年を養生に費やした。糸子はそのことを、二人の前で一度たりとも咎めたり悔やんだりする言葉にしていない。だからこそ、いまの一言の奥底に何が置かれているのか、二人には痛いほど理解できた。
やがて糸子は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「振りすぎてはなりませぬと、申し上げましたね」
沖田が、目を丸くした。半年前、この屋敷で刺された釘だ。
「……あれは、少々難しいご注文でした」
糸子が小さく笑う。
引きずられるように、沖田の口元もほどけた。
「近藤殿」
「はっ」
「沖田殿がまた無茶をなさらぬよう、よく見ていてくださいまし。この方は、放っておきますと、どうなるかわかりませぬゆえ」
「……某も、まったく同じことを案じておりました」
近藤が至極真面目に答えたため、沖田は「ひどいなあ」と小さく抗議した。糸子は袖で口元を押さえて微笑んだ。
近藤は、膝の上の拳を強く握り直す。
「姫様の仰せ、しかと」
「肝に銘じまする」
近藤の声に、沖田の声がすぐさま続いた。二人は揃って、深々と平伏した。
「では姫様。これにて失礼いたします」
近藤が膝を引き、沖田が後に続く。敷居際で、沖田が一度だけ振り返った。
「姫様、それじゃ失礼しますね」
いつもの軽妙さが、半分ほど戻った声だった。
*
二人が下がり、障子が静かに閉まった。
廊下を遠ざかる足音を、糸子は座したまま聴いていた。ひとつは重く、ひとつは軽い。やがて、そのどちらも途絶えた。
糸子は膝脇の扇子を取り上げ、開かぬままギュッと握りしめた。
(自滅の道、なんて……偉そうなことを言っちゃったな)
送り出したのは自分だ。そしてこれからも、自分は人を危険の中へ送り出し続けることになる。出す側の人間が、出される側に「自分を大切に」と言う。その言葉がどれほど都合のいい綺麗事か、言った本人が誰よりも知っていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
言わなければ、あの人はきっと限界まで進んでしまう。そして、また養生に時間を取られることになる。
もしかすると、今度はそれだけでは済まないかもしれない。
(……少し、教えすぎたかなぁ)
入り方を教えたのは自分だ。その先で体に何が起こるかも、たったいま自分の口で伝えたばかりだった。
あの人は、教わったことを必ず試す。やると決めたなら、きっと今夜からでも。
前世の知識は、使い方を誤れば劇薬になる。これまで何度も自分に言い聞かせてきたことだ。国の仕組みや勘定の話なら、誤ったときの影響を計算できる。だが、人の体の奥深くにある領域のことなど、計算のしようがなかった。
出立の朝、門の前の光景が不意に脳裏をよぎる。八人の背中が、朝日の中へ小さくなって消えていった。帰ってきたのは五人だった。
そのひとりが、今日はここで頭を下げていったのだ。
(無理、しないでよ……本当に)
糸子は文机の上の綴りに目を落とした。語学所の講堂の割り振りについて、善次郎がまとめて置いていった書類だ。年が明けるまでに手を打つべき事項が並んでいる。
目は文字を追っているものの、頭には何ひとつ入ってこない。こんな姿を善次郎に見られたら、さぞ困り顔をされるだろう。
障子の向こうで、葵が次のお茶の支度をする気配がした。
糸子は扇子を握りしめたまま、ただじっと、閉ざされた障子を見つめていた。
十二
屋敷から戻ったその夕刻。試衛館の道場で、近藤は一人、平晴眼に木刀を構えたまま微動だにせず立ち尽くしていた。通りかかった隊士が訝しんで尋ねると、近藤は構えを解かぬまま、「心を置かぬ稽古だ」とだけ答えた。隊士は首をかしげて去っていった。近藤の構えは、日が落ちて闇が包むまで解かれることはなかった。
その夜。隊士たちが完全に寝静まるのを待ち、沖田は一人で試衛館の庭へ出た。誰かに見られていると、見られている意識に心が囚われてしまう。今日一日で、それくらいの理屈は理解できるようになっていた。
月はなく、冴えた星明かりが庭の輪郭だけを浮かべている。息を吐けば、白い影が闇へほどけて消えた。雨戸の奥からは、隊士たちの規則正しい寝息がかすかに漏れ聞こえる。
沖田は木刀を傍らに置き、縁側の端に腰を下ろすと、しばらく息の数だけを数えた。静の稽古だ。
吐いて、吸う。吐いて、吸う。
十も数えないうちに、昼間の姫の顔が浮かぶ。浮かんだな、と思って、意識を呼吸へ戻す。すると今度は、斎藤の「やめておけ」という声が耳の奥で響く。それにも気づき、再び呼吸へ戻す。
湧き上がるものを力で追い払おうとすれば、かえってそこに居座ってしまう。気づいて、ただ戻す。それだけを淡々と繰り返すうちに、思考の雑音が湧く間隔が、少しずつ広がっていった。
どれほどの時間が過ぎたのか、沖田には分からなかった。縁側の板の冷たさが、じわじわと尻に沁み込んでいた。
沖田は木刀を手に取り、静かに立ち上がると、庭の中央へ歩み出た。
まずは、目。
正面の植え込みを視線で射抜くのをやめ、庭の全体をぼんやりと視野に収める。塀の瓦も、庭木の細枝も、雨戸の隙間の灯りも、足元に降り始めた白霜も、どれ一つとして固執せず、一枚の地続きの絵のように捉える。
次に、息。
臍の下(丹田)に意識を置き、細く、長く吐き出していく。吐き切った瞬間、体の芯からふっと無駄な力が抜けた。
木刀を上げ、踏み込む。
――何も起きない。いつもの沖田の、いつもの鋭い打ち込みだ。
もう一度、目と息を整えてから踏み込む。結果は同じだった。
三度目の動作の途中で、沖田は「入ろう」と力んでいる自分に気づいた。
(ああ、これか。「なろうとしない」ってのは)
沖田は苦笑し、木刀を下ろした。入ろうとしないで入るというのは、言葉で言うほど容易ではない。「入ろうとしないようにしよう」と意識した時点で、それ自体がすでに「入ろうとする強い意図」なのだ。
しばらく、何をするでもなくただ立ち尽くした。
夜気が首筋を冷たく撫でていく。遠くで犬が一度だけ吠え、再びしじまが戻った。
四度目は、始めようという意図すらないままに始まった。
ただ、庭の景色を眺めていた。ただ、息を静かに吐き切っていた。
吐き切ったその瞬間、世界から音が消えた。
隊士たちの寝息も、風に揺れる枝擦れの音も、己の足が霜を踏む音も、すべてが遥か遠くへ退いていく。庭の風景が、ほんの少し遅れて目に届く。風に揺れた枝先が、いつまでも揺れ終わらない。
木刀が出た。
打とうと思う前に、すでに打っていた。踏み込んだ足が大地を捉え、腕がしなやかに伸び、切先が闇の一点を穿ってピタリと止まる。
直後、津波のように音が戻ってきた。
音の復帰と同時に、膝から一気に力が抜けた。沖田は木刀で身体を支える間もなく、霜の降りた地面へ片膝を突いた。
呼吸が戻らない。いくら息を吸い込んでも、胸の底まで届かない。心臓が耳元で狂ったように脈打っている。木刀を握る指先は、まるで他人の部位のように強張って動かなかった。
ほんの一瞬。たった一瞬入っただけで、この体たらくだ。
あの夜、自分はこの異常な一瞬を、どれほどの時間引き伸ばしていたというのか。沖田にはそれを測る術すらなかった。
『――どうか、ご自身を大切になさいませ』
昼間の、姫の静かな声が脳裏に蘇る。
「……早速、ですか」
沖田は地面に手をついたまま、力なく苦笑した。白い吐息が、切れ切れに闇に溶けていく。
けれど、入った。たしかに一瞬だけ、あの領域へ手が届いた。
霜の冷たさが、掌からじんわりと伝わってくる。沖田はそのままの姿勢で、荒い息が胸の底に落ち着くのをじっと待った。
やがて木刀を支えにし、ゆっくりと立ち上がる。膝が、まだかすかに震えていた。
握りしめたままの木刀を、星明かりにかざしてみる。どこにでもある、見慣れたいつもの木刀だ。これが先ほど、闇の一点を寸分違わず突いて止まったのだ。
あの夜の自分がどこへ足を踏み入れたのか、ほんの少しだけ分かった気がした。そして分かった分だけ、あそこに長く留まれば自分の体がどうなってしまうのかも、身を以て理解できた。
(入口は、ある)
今日の昼まで、どこにあるのかさえ霧の中だった場所だ。
母屋の軒下の深い暗がりに、斎藤一が立っていた。
斎藤は何も言わず、星明かりの下に佇む沖田の背中を、ただ静かに見つめていた。踏み込む直前、ほんの一瞬だけ沖田の顔から表情が抜け落ちたのを、この男だけが見ていた。
第二百二十話 了
【解説】宮本武蔵『五輪書』――勝つためではなく、勝てる状況を作るための兵法
宮本武蔵という人物を語るとき、多くの人が思い浮かべるのは「天下無双の剣豪」という姿でしょう。
数々の決闘に勝利した男。
二刀流を編み出した剣術家。
そして晩年、自らの兵法を『五輪書』として残した人物。
しかし、この書を実際に読んでみると、そこに書かれているものは単なる「剣の技術書」ではありません。
武蔵が向き合っていたのは、もっと根本的な問題でした。
相手をどう見るのか。
状況をどう読むのか。
恐怖や焦りに支配されず、どう判断するのか。
つまり『五輪書』とは、刀の扱い方だけではなく、極限状態に置かれた人間が、どのように勝負へ向き合うべきかを考え抜いた兵法書なのです。
■『五輪書』は人生論ではなく、まず戦いの書である
現代では、『五輪書』は人生哲学や経営論として紹介されることも多くあります。
「相手を知る」
「状況に合わせて変化する」
「冷静な判断をする」
確かに、現代にも通じる考え方は数多くあります。
しかし、最初に理解しておきたいのは、武蔵自身が書いた目的です。
これは第一に、剣術と兵法についての書です。
武蔵が語る「勝つ」とは、精神論だけではありません。
敵との距離。
刀を出す瞬間。
攻撃と防御の間合い。
相手の心理。
一瞬の判断が生死を分ける世界で、どう勝つのか。
そこを突き詰めた、極めて現実的な書なのです。
だからこそ、『五輪書』には机上の理屈ではない、実戦を知る人間だけが持つ重みがあります。
■五つの巻に込められた武蔵の兵法
『五輪書』は、「地之巻」「水之巻」「火之巻」「風之巻」「空之巻」という五つの巻から成っています。
この名称は仏教などでも使われる「地・水・火・風・空」の五大から取られていますが、内容は武蔵自身が築き上げた二天一流の兵法論です。
「地之巻」では、兵法の土台となる考え方が語られます。
武蔵にとって兵法とは、単に刀を上手く扱う技術ではありませんでした。
勝つためには何が必要なのか。
何を見るべきなのか。
どのような心構えで戦うべきなのか。
まず、その根本となる考え方を示しています。
続く「水之巻」では、より具体的な技術について述べられます。
水は器に合わせて形を変える。
そのように、状況に応じて自在に変化する柔軟さを武蔵は重視しました。
構え、足運び、刀の使い方、そして相手を見る方法。
剣術の細かな技術の中にも、武蔵独自の考え方が込められています。
■「観見の目付」――目の前だけを見るな
『五輪書』の中でも特に有名なのが、「観見の目付」です。
武蔵は、
「観の目強く、見の目弱く」
と記しています。
これは、単純に「よく観察しろ」という意味ではありません。
戦いの場で相手の刀だけを見れば、刀の動きには反応できます。
しかし、それだけでは相手の体の動き、間合いの変化、攻撃の気配を読み取ることはできない。
武蔵が求めたのは、一部分にとらわれない見方でした。
刀を見る。
しかし、刀だけを見ない。
相手全体を見る。
その場の流れを見る。
遠くを見るように近くを見る。
近くを見るように遠くを見る。
現代風に言えば、一つの情報だけに反応するのではなく、全体を把握して判断する力です。
ただし、「観は心で見るもの、見は目で見るもの」という説明は、後世の解釈として分かりやすく整理されたものです。
武蔵自身が、そのような現代的な意味で定義したわけではありません。
原文にある「観の目強く、見の目弱く」という言葉から、武蔵が何を伝えようとしたのかを考えることが大切です。
■「巌の身」――動かないのではなく、崩れない
武蔵は「巌の身」という考え方も説いています。
巌とは、大きな岩のことです。
つまり、簡単には揺らがない状態を表しています。
しかし、これは感情を失うことではありません。
相手の挑発に乗る。
焦って攻める。
恐怖で判断を失う。
そうした心の乱れを防ぐことです。
重要なのは、何もしないことではありません。
状況を正しく見たうえで、必要な瞬間には迷わず動く。
そのために、自分自身を崩さない。
武蔵が求めた強さとは、そういうものだったのでしょう。
●火之巻――勝負は刀を交える前から始まっている
火之巻では、実際の戦いにおける駆け引きが語られます。
そこで重要になるのが「拍子」です。
現代の言葉でいえば、相手との間合いやタイミング、流れに近いものです。
どれほど技術があっても、出す瞬間を間違えれば勝てない。
逆に、相手の流れを読むことができれば、力の差を覆すこともできる。
武蔵にとって戦いとは、単純な力比べではありませんでした。
相手より先に状況を見る。
有利な位置を取る。
相手の心理を読む。
勝負は、刀を交える前から始まっている。
それが武蔵の兵法でした。
●空之巻――「何もない」のではなく、とらわれない
最後の「空之巻」は、『五輪書』の中でも特に解釈が難しい部分です。
空という言葉から、何もない状態を想像するかもしれません。
しかし、武蔵が語る空は、単なる無知ではありません。
何も知らない初心者の状態ではない。
十分に学び、経験を積んだ者が、余計な迷いや執着から離れた状態です。
技術を身につけた者が、技術そのものに縛られない。
知識を得た者が、知識だけに頼らない。
そこに武蔵の考える「空」があります。
■四百年後も読み継がれる理由
『五輪書』は、時代によってさまざまな読み方をされてきました。
武道の書として。
精神修養の書として。
人生や仕事に応用できる思想書として。
どの読み方にも意味があります。
しかし、その出発点を忘れてはいけません。
これは、命を懸けた戦いの中で、どう勝つのかを考え抜いた男の書です。
武蔵が求めたものは、単純な「強さ」ではありませんでした。
相手を見る。
状況を見る。
自分を見る。
そして、その瞬間に最も正しい判断をする。
その積み重ねこそが、勝利につながる。
『五輪書』が四百年近く経った今も読み継がれる理由は、そこにあるのだと思います。
時代も、戦う場所も変わりました。
しかし、不確かな状況の中で何を見るべきか。
どう判断するべきか。
どう自分を保つべきか。
その問いは、今も変わりません。
宮本武蔵が残したのは、刀の振り方だけではありません。
混乱の中でも、自分の判断を失わないための方法。
それこそが、『五輪書』が現代まで生き続けている理由なのではないでしょうか。




