第二百十九話「姫様の欲しいもの」
一
師走も下旬に入って、江戸の夜はいっそう冷えるようになった。
一橋上屋敷の奥御殿では、日が落ちると廊下の板がすぐに冷たくなる。私室の障子の内側だけが、火鉢の炭でほのかに温まっていた。
糸子は文机に向かっていた。
行灯の明かりの下に、紙が三枚広げてある。一枚目は端から端まで墨で埋まり、二枚目も残りは数行しかない。三枚目には、書き始めたばかりの行が並んでいた。
坂本の書状を読んだ夜に書き始めた覚え書きの続きである。
あの夜は、一枚目の半ばで筆を置いた。翌日も、その次の夜も、ふとした合間に続きを書いた。各方面から届く書付に目を通し、政務をこなし、その間にも考えが浮かぶたび筆を取る。
今夜、ようやく三枚目へ入った。
(あれも要る)
筆を走らせる。
(これも要る)
墨を足して、また走らせる。
(……あ、これもだ)
思いつくたびに一行増える。一行書くと、その品を使うために要る別の品が浮かぶ。それを書くと、また次が浮かぶ。筆を置く暇がなかった。
一枚目を書いていたときが、ちょうどそうだった。
製糸の機械を書いた。機械を動かすには、蒸気の機関が要る。蒸気の機関を書いた。機械は使えば壊れる。直すための機械を書いた。届いた機械を据える者は、この国にはいない。技師を書いた。
(買い付けの頃と同じね)
前世で、売り場に新しい品を入れるときも同じだった。品を仕入れるだけでは足りない。置く場所が要る。売る者が要る。その品の良さを伝えられる者が要る。品だけを増やして満足すれば、最後には倉庫で眠るだけになる。
その癖が、いまも抜けていない。
英国の代理公使、ニールからの手紙を受け取ったのは、先日の会談の席である。書記官のジュリアンが携えてきた手紙には、手土産で望むものがあれば知らせてほしい、とあった。
望むものを言わせれば、こちらの好みが分かる。あの手紙を読んだとき、糸子はそう見て取った。
お詫びの品については、後日改めて返事をすると答えている。ニールのほうは、体が本復したら詫びに来るという。それまでに、何を求めるかを決めておかなければならない。
坂本の書状が届いた日、糸子は葵に言った。いっそ、思いつく限りすべて求めてみましょうか。相手は日の沈まぬ国と呼ばれる大英帝国で、数の限りも決まっていないのだから…と。
葵はあのとき、微笑んで聞いていた。
糸子は、あの言葉をそのまま実行していた。
(数の限りは決まっていない。向こうが、そう書いてきたのだから)
書かれていないことは、まだ決まっていない。糸子はそう判断し、三枚目に新しい一行を書き足した。
筆の運びは軽かった。政の文を書くときのように、誰がどう読むかを先に考える必要がない。欲しいものを、欲しい順に書けばよい。こんなに気楽に筆を動かすのは、ずいぶん久しぶりのような気がした。
二
廊下から、足音が近づいてきた。障子の向こうで止まり、静かな声がかかる。
「姫様。お茶をお持ちいたしました」
「あら、ありがとう」
葵が盆を手に入ってきた。湯気の立つ湯呑みを文机の脇に置き、火鉢の炭の具合を確かめる。炭を一つ足し、灰を寄せてから、葵は主の手元に目をやった。
「坂本殿への返書は、今朝、会所の者に託しました。年が明けて間もなく届くかと存じます」
「坂本は喜ぶかしら?」
「お褒めの言葉ばかりでございましたから」
葵はそう言って、少し笑った。姫様が書いた返書は三行だけだった。すべて坂本殿を褒める言葉だった。
文机の上に、紙が広がっていた。
英国への手土産のことで、ここ数日、姫様が頭を悩ませていることを、葵は知っていた。あの言葉も冗談だと思っていた。談判のあと、ずっと険しかったお顔が、坂本殿の書状が届いてから少しだけ和らいだ。その弾みで出た軽口なのだろう、と。
本当のところは、何を求めるか、せいぜい二つか三つのうちから選びかねておられるのだろう。異国の大国に何かを求めるとなれば、一つ選ぶにも気を遣う。軽すぎれば侮られ、重すぎれば図々しく見える。そのあいだで迷っておられるのだろう…と葵は考えていた。
「英国への御品は、お決まりになられましたか」
「ちょうど、良きところです」
糸子は筆を置き、紙の束を揃えて葵のほうへ向けた。
「見てくださいまし」
「わたくしが拝見してよろしいのですか」
「ええ。あなたの目で見て、どう映るか聞いておきたいのです」
そこで、糸子は紙を差し出しかけた手を止めた。
「その前に、葵。いくつ書いてあると思いますか」
葵は少し考えた。
「……二つか、三つでございましょうか。多くて、四つほどかと」
「そうですか」
糸子は、それ以上何も言わずに紙を渡した。
葵は膝を進め、一枚目を手に取った。糸子は湯呑みを取り、口をつけた。
葵は、一行目から読んでいった。
製糸の機械を一式。
それを動かす蒸気の機関と、工作の機械。
電信の機械。
蒸気で走る商い船。
機械を据えて使えるようにするための技師の派遣。
商いの実務を教える者。
こちらが品を求める折には、英国から先に回してもらうという約束。
葵は、一つ二つと指を折りかけてやめた。
二つか、三つ…と考えていたところへ、まさかの七つである。
(……思っていたより、ずっと多い)
ただ、どれも姫様がふだん口にしておられることに近い。天朝物産会所の帳面の話をなさるとき、生糸の質のばらつきや、横浜と江戸の値の違いのことを、よく仰っていた。葵は会所の書状を預かる役目上、そういう話を横で聞いていることが多い。そこから来ている品なのだろう、ということは分かった。
電信というものが何なのかは、正しくは知らない。遠くへ言葉を一瞬で送る仕掛けだと、以前に姫様から聞いたことがある。そのときは、狐に化かされたような心持ちになった。
少し多いが、姫様のことだ。まだ分かる。
葵は一枚目を膝に置いた。
「七つもございますね」
「ええ、一枚目は」
「……一枚目?」
糸子は何も言わずに、二枚目を差し出した。
葵は受け取った。
鉄の道と、その上を走る蒸気の車を一式。江戸から横浜まで。
造幣の機械。
綿から糸を紡ぐ機械。
蒸気で動く竜吐水。
この国の沿岸の海図。
葵の手が止まった。
一行目を、もう一度読む。鉄の道。その言葉が、葵にはまだ掴めなかった。江戸から横浜まで…と書いてある。歩けば一日がかりの道のりである。その間の道を鉄にする…ということなのだろうか。
鉄は、身近なものではある。鍋にも使う。釘にも使う。だが、それを道として使う。そんな量の鉄を、いったいどこから持ってくるというのか。
分からないまま、二行目へ目を移す。造幣とある。
造幣という言葉は、葵には耳慣れない。字を見れば、お金に関わることらしいとは分かる。
葵は三行目と四行目を読み、五行目を読んだ。綿の糸を紡ぐのは、在所の女たちが糸車でする仕事だ。竜吐水は、火消しが火事場で押している水の筒だ。海図は、海の絵図だろう。
一行ずつなら、何を指しているかは何となく分かる。五つ並ぶと、分からなくなった。
糸子は、葵の目が一行目の鉄の道のところで止まっているのに気づいた。説明しようかと思った。鉄道があれば、江戸から横浜までの移動が、半刻ほどで済むようになる。荷も人も、まとめて運べる。
けれど、いま説明を始めたら、残りを見せる前に夜が更けてしまう。糸子は口を閉じて、葵が読み終えるのを待った。
「姫様。……二枚目にも、たくさん書かれておりました」
「三枚目もございますよ」
葵は、膝の上の一枚目と手の中の二枚目を見比べてから、姿勢を正した。
糸子は三枚目を渡した。
灯台の機械と、灯台の技師。
蒸気で動く刷り物の機械。活字を一揃い付けて。
書物を、船一隻分。
鉄を吹く炉(転炉)。
瓦斯の灯。
英国の学び舎で、この国の者を学ばせてもらう約束。
葵は三枚目を、ゆっくり読んだ。
灯台は、岬で火を焚く台のことだろう。刷り物の機械は、瓦版を刷る板木の代わりになるものだろうか。
三行目で、葵の目が止まった。
船一隻分。
書物の数を、船で数えている。葵が知っている書物の数え方は、一冊、二冊、多くて一箱である。船一隻の書物がどれほどの量なのかは、思い浮かべようとしてもうまくいかなかった。
四行目の転炉と、五行目の瓦斯は、読み方からして分からない。
読み終えて、葵は三枚目の裏を返した。
何も書かれていない。……少し、ほっとした。
表へ戻し、三枚を一枚目から順に重ねる。端を揃えたところで、しばらく動かなかった。
七つ、五つ、六つ。合わせて十八。
「……姫様」
葵の声は、いつもどおり静かだった。いつもより少し低かった。
「先ほど、多くて四つほどと申し上げましたが」
「ええ」
「あれは、取り消させていただきます」
葵は、それ以上は何も言わなかった。
ただ、心の中でつぶやいた。
それはあまりにも想定外過ぎます、と……
三
葵は重ねた紙の一枚目に目を戻した。
まず、分かるところから伺おう、と葵は決めた。分かるものを一つずつ辿っていけば、姫様が何を考えてこの紙を書いたのか、その道筋だけは見えてくるはずだった。
「姫様。この、英国から先に回してもらうという約束は、何のためのものでございますか。これは品ではございませんね」
「そうでございます。なれど、品より大事なものです」
糸子は湯呑みを取り、一口含んでから言った。
「良い品というものは、数が限られておりまする。欲しがる者が多ければ、先に押さえた者が取る。あとから来た者には、残ったものしか回ってまいりませぬ」
(仕入れは、早い者勝ちなのよね)
前世で買い付けをしていた頃も、同じだった。良い品ほど、待っていては手に入らない。作り手のところへ先に足を運び、関係を結んだ者が、次の商いを取る。
「英国が何か良いものを作ったとき、こちらに先に声をかけてもらう。それを、いまのうちに約束しておくのです。詫びの品として頼めば、向こうも断りにくいでしょう」
「……さようでございますか」
葵は頷いた。会所の商いの話として聞けば、筋は分かる。そのまま、次の行に目を移した。
「工作の機械、とございます。蒸気の機関と一緒に書いてございますが、これは」
「機械を作ったり、直したりする機械です」
「機械を直す、機械」
「ええ。機械というものは、使えば壊れます。壊れるたびに英国へ送り返していては、行って戻るだけで一年近くかかりましょう。その間、何も動きませぬ。こちらで直せなければ、せっかくの機械も、いずれ置物になります」
壊れたものを直すための道具を、先に備えておく。屋敷の大工が、普請の前に鑿や鉋を揃えるのと同じことだった。
「では……その、異人の商いの実務を教える者というのは?」
「異人の商いの決まりであれば、わたくしが存じております」
糸子は静かに湯呑みを置いた。
「証文の認め方も、船荷証券の扱いも、為替手形も。海上で荷を失った折の損害の請け合いまで。現に語学所でも教えております」
「では、なぜ――」
「わたくしの体が、ひとつしかないからです」
糸子は一枚目の六行目を、指の腹で押さえた。
「横浜の取扱所に日々座り、異人と帳面を突き合わせるのは、会所の者たちです。理屈を知っていることと、現場でそれを淀みなく回すことは、別の話。向こうの商館と同じ速さで書付を捌けるようになるには、それを毎日回している者の隣で、手を動かして覚えるのが一番早いのです」
(このままだと、この国の商いはずっと居留地の門前で止まる。荷を運んで売り込むだけで、海の向こうの相場も船も、異人に握られたまま。これから先、何十年も)
その先を、糸子は知っている。
「ですが……異人が、こちらに商いの手の内を素直に明かすでしょうか」
「教えてくださいますとも。手の内と申しましても、向こうにしてみれば毎日の手順に過ぎませぬ。こちらがそれを覚えれば、取引が早く片付く。教える側は、そう考えて動くのです」
糸子はわずかに唇の端を弛ませた。
(教わった者が、いずれ商館の頭越しに海の向こうと渡り合い始めるなどとは、夢にも思わずに)
手形も船荷証券も、葵にとってはまだ遠い世界の言葉だった。ただ、姫様お一人では手が足りないという話だけは、よく分かった。
葵は、紙を二枚目に移した。
造幣、の二文字が目に入る。さっき手を止めた行だ。
「姫様。この、造幣の機械というのは」
「小判や銀貨を作る機械です」
葵は、紙から目を上げた。
「……それは、幕府の」
「ええ。お金を作るのは、幕府の御役目でございますね」
「それを、英国に」
「金と銀の値の釣り合いが、この国と異国とで違っておりまする。そのせいで、この国の金が海の向こうへ流れ出していきました。幕府も小判を作り直して手を打たれましたが、もとから直すには、お金そのものを作るところから考え直さねばなりませぬ。英国には、硬貨を同じ重さ、同じ形で、いくらでも打ち出せる機械があるのでござります」
葵の顔から、少し色が引いた。
「姫様。それは、幕府の御役目に、お口を出されるということでは」
「出しておりませぬよ」
糸子は、きょとんとした顔をした。
「くださいまし、と書くだけでございます。書くだけなら、どなたにも御迷惑はかかりませんでしょう」
葵は何か言おうとして、口を閉じた。
紙に書くだけなら、誰の御役目も侵してはいない。だが、その紙は英国の公使館へ届くのだ。その先で、異人たちがこの一行を読む。幕府のお金を作る機械を、近衛家の姫君が欲しがっている、と。
それでも、一つだけは申し上げておくことにした。
「姫様。せめて、この一行は、一番下に書かれてはいかがでしょう」
「なぜ?」
「異人の方々が読み進めるうちに、お疲れになって、そこまで目が届かぬかもしれませぬ」
糸子は、少し考えた。
「……葵。それは、読ませたくないということですか」
「読まれずに済めば、それに越したことはございませぬ」
「では、いちばん上に書き直しましょう。一番目立つところに」
「姫様」
「冗談です」
糸子は笑ったが、書き直すとは言わなかった。
納得のいかない顔のまま、葵は次の行へ目を落とした。
「……海図、とございます」
「船をいただいても、海の道が分からなければ走らせられませぬ。この国の岸辺の深さや、浅瀬や、岩のある場所を書いた絵図です。英国は、それを自分たちで測って持っております」
「異国が、この国の海を測っているのでございますか」
「はい。去年も、英国の船がこの国の岸を測っておりました。幕府もお許しになって」
葵は黙った。海のことはよく分からない。ただ、自分の屋敷の間取りを、見知らぬ者のほうが詳しく知っていると聞かされたら、落ち着かないだろうとは思った。
「ですから、くださいまし…と」
「……さようでございますか」
糸子は、二枚目の四行目を指で示した。
「この竜吐水はね、葵。坂本の書状を読んで、思いついたのでございます」
「人吉の…大火でございますか」
「ええ。城下の大半が焼けたと書いてありました。江戸も火事の多い町です。火消しが手で押す竜吐水では、届く水の量に限りがあります。蒸気で押せば、もっと遠くまで、もっと多く届く。英国では、もうそういうものが使われておりまする」
葵は、書状が届いた夜の主の横顔を思い出した。人吉の方々の名を、指でなぞっておられた。
この行だけは、葵にもすっと分かった。
江戸へ下ってから、半鐘の音を聞かずに過ぎた冬はない。夜中に遠くで鐘が鳴るたびに、葵は火の手がどちらの方角かを確かめに廊下へ出る。届く水が多くなるなら、それに越したことはなかった。
葵は三枚目を見た。鉄を吹く炉。瓦斯の灯。船一隻分の書物。英国の学び舎。
一つずつ伺えば、姫様はきっと答えてくださる。けれど、答えを重ねるたびに、次の疑問がまた出てくるだろう。十八すべてを尋ね終える頃には、夜が明けてしまう。
灯台、と言いかけた口を、葵は閉じた。糸子は見逃さなかった。
「灯台はね、葵――」
「姫様。また後ほどにお願い致します」
「……そうですか」
葵は、伺うのをやめた。
四
葵は、重ねた三枚を文机の上に戻してから、改めて糸子の顔を見た。
伺った六つには、どれも姫様なりの筋があった。残りの十二にも、きっと筋があるのだろう。
「……これほど多うございますと、お悩みになりますね」
気遣いのつもりだった。
糸子は首を傾げた。
「なぜ、悩むのでございますか?」
「えっ?なぜ、と仰いますと……」
葵のほうが、首を傾げた。
「姫様はこの中から、手土産の品をお選びになるのでございましょう」
「選ぶ?なにを!?」
「もう、どれになさるか、お決めになられたのでございますか?」
「もちろん、決めておりまする」
「さようでございますか。では、どちらの品を?」
「当然、すべてでございます」
「……はい?」
「ですから、すべて」
糸子は、三枚の紙の上に手を置いた。
「これでも足りぬくらいでございます。書いているうちに、まだいくつも浮かんでまいりましたもの。ほら、たとえば英国には――」
「姫様」
葵が、静かに遮った。
「それは、また後ほど伺います」
「……そう、残念ね」
糸子は少し不満そうに口を閉じた。それから、気を取り直したように言った。
「もう少し、遠慮なく頼んでもよろしいかしら」
「……姫様。せめて、一枚に収まるようにした方が、ようございます」
「一枚に?」
糸子は三枚の紙を見下ろし、それから葵を見た。
「では、字を小さく書きまする。三枚分を、一枚に。細かく書けば入りましょう」
「……そういうことでは、ございませぬ」
葵の声は、さっきよりさらに低かった。
「英国の方々も、これをお読みになったら、お困りになりましょう」
「困る? あの英国が……?」
糸子は、こともなげに言った。
「日の沈まぬ国ですもの。十八くらい、どうということはないでしょう」
余りに当然であるかのような物言いに、葵は返事ができなかった。
口は少し開いていた。目は姫様を見ていた。けれど、何も出てこなかった。
十八の品を、すべて。
日の沈まぬ国に、すべて。
これでも足りないので、もう少し。
英国への返事は、天朝物産会所の者が公使館へ届けることになるのだろう。その者が、十八の品を書き連ねた紙を差し出す。受け取った異人が、それを読む。
そこまで思い浮かべたところで、頭のなかで、何かが止まった。
火鉢の炭が、小さく爆ぜた。
その音で、葵の頭はゆっくりと動き出した。
(……まぁ、姫様ですから)
姫様のお側にお仕えしてから、この御方が「やる」と仰って、やらなかったことは一度もない。思いつく限りすべて、と仰ったなら、すべてなのだ。
御冗談だと受け取ったのは、自分のほうだった。和らいだのはお顔だけで、言葉のほうは本気だったのだ。
葵は、一度だけ小さく息を吐いた。
「……姫様」
「はい」
「この覚え書きに、お名前はお付けになりませぬように」
「えっ」
糸子の手が、紙の上で止まった。
「……どうして分かったのですか」
「お顔に書いてございました」
墨を含んだままの穂先が、三枚目の余白の上で止まっている。そこに、何か勇ましい名を書き入れようとしていたのは本当だった。頭のなかで組みかけていた文字が、葵の一言でばらばらになった。
「……付けませぬ」
「ようございました」
葵は盆を手に取り、膝を引いた。下がる前に、もう一度だけ主のほうへ向き直る。
「姫様。ほどほどになさいまし」
「…………」
糸子は返事をしなかった。
葵はそれ以上何も言わず、一礼して障子を閉めた。廊下の足音が、静かに遠ざかっていった。
五
一人になった。
糸子は茶をもう一口含み、三枚の覚え書きを手元に引き寄せた。葵が端を揃えてくれたので、紙はきれいに重なっている。
一枚目から読み返していく。五行目で、目が止まった。
機械を据えて使えるようにするための技師の派遣。
(……あ)
機械は、届いただけでは動かない。据える場所を決め、組み立て、動かし方を覚えさせる者が要る。だから技師を書いた。
その技師は、異人である。
製糸の機械を据えるなら、生糸の産地に近いところがよい。天朝物産会所が人を出して回った産地の村々は、どれも横浜から幾日もかかるところにあった。
ところが、横浜の居留地にいる異人が出歩けるのは、神奈川から十里四方の内と定められている。その外へ異人を招いて機械を据えさせるとなれば、幕府の許しが要る。幕府が首を縦に振らなければ、機械は居留地の蔵で埃をかぶることになる。
糸子は、念のために三枚を頭から見直した。
鉄の道。敷くのは幕府の領分の土地だ。許しが要る。灯台。建てるのは岬で、岬も幕府か大名の領分だ。許しが要る。造幣の機械。お金を作るのは幕府の御役目だ。許しどころの話ではない。英国の学び舎。この国の者が海を渡ること自体が、幕府のお許しの外にある。製糸の機械も紡績の機械も、据えるには異人の手が要る。
(……英国から全部もらっても、幕府がうんと言わなきゃ半分は動かない)
(そういえば)
糸子は、筆の尻で紙を軽く叩いた。
「幕府には、貸しがございましたね」
この暮れ、英国との談判の座に引き出されたのは、将軍後見職の求めによるものだった。談判が片付いた日、糸子は葵に言っている。わたくしを動かしたのです。その労苦の報いは、きっちり頂戴いたしまする、と。
すぐに取り立てては旨味が少ない。その折まで置いておく。そう決めて、置いておいた貸しである。
取り立てる日は、まだ決めていない。ただ、何を取り立てるかを書き出しておくのは、いまでも構わないはずだった。
糸子は英国の三枚を脇へ寄せ、まっさらな紙を一枚、文机の真ん中に延べた。
六
(ほどほど……ほどほどね)
筆に墨を含ませる。
(うん。ほどほどに、全部)
紙の頭に「幕府」と書いた。
まずは、身の回りのことからだ。
自分の屋敷。
ずっと思っていたことだった。
糸子はいま、一橋上屋敷の奥御殿に住んでいる。暮らしに不自由はない。表と奥は分かれていて、一橋殿とは座敷を設けて会うだけだ。とはいえ、ここは一橋殿の屋敷で、糸子はその一角に住まわせてもらっている身である。
(要するに、居候なのよね)
御門の御名代として江戸へ下った朝廷の使者が、将軍後見職の屋敷の一角に居候している。客を迎えるにも、文を出すにも、いちいち一橋家の門を通る。朝廷の使者の住まいとしては、少し体裁が悪い。
(どうせなら、自分の屋敷がほしいわね)
門があって、客を通す座敷があって、自分がゆっくりできる部屋があればよい。庭は、かなりあると嬉しい。それに、葵と小夜の部屋。旭狼衛の者が詰める部屋。天朝物産会所の者を待たせておく部屋。
(……狭い屋敷は無理ね)
場所は、天朝物産会所にも語学所にも近いところがよい。
(場所の注文は、書かないでおこう。そこまで書いたら、誰に何て言われるか)
(いっそ、ねだってみるか)
軽い気持ちで書いた一行の横に、糸子は丸を付けた。
旭狼衛を幕府に認めさせ、人を増やすこと。
商務語学所を広げること。
二行目、三行目にも、丸をした。
四行目は、少し筆圧が強くなった。
朝廷の使者を異国との談判に同席させるには、御門の御沙汰を要すること。
(もう勝手に引っ張り出されてたまるものですか!)
横には、丸を二重に付けた。
身の回りが片づいたところで、次の段へ移った。学びと道具である。
洋書調所の書物を写させていただくこと。
蕃書調所が洋書調所と名を改めたのは、この夏のことだ。蘭書だけでなく、英書も仏書も扱うようになった。商務語学所から遠くないところにあるのに、あちらの書物はこちらへ回ってこない。
(ご近所に立派な本棚があるのに、借りられないのはもったいない)
英国から船一隻分の書物が届くまで、待っていられない。
異人の教師や技師を、この国へ招く許し。
さっき英国の紙で引っかかった件だ。英国からもらう品を生かすには、この一行がなければ始まらない。
(英国の紙と、幕府の紙で、ちゃんと繋がってる。我ながら筋が通ってる)
丸を付けた。
(ここまでは、まだ穏当。……たぶん)
長崎製鉄所を使わせていただくこと。
長崎には、幕府がオランダの手を借りて建てた製鉄所がある。去年の春に出来上がったばかりの、洋式の工場だ。英国から届いた機械が壊れたら、直す場所が要る。長崎には天朝物産会所の網が通っていて、弥太郎もいる。船で回せば、行き来はつく。
(……英国の工作の機械と、ちょっと被ってる気もするけど)
直す場所は、多いほうがよい。丸を付けた。
三つ目の段は、制度とお金だ。段を上がるごとに、紙の上の字が少しずつ大きくなっている。
近衛家の家士を取り立てる権。
(旭狼衛の皆を、近衛の家の者として扱えるようにしておきたい)
旭狼衛には、百姓や浪人の出の者も多い。糸子を守った功で、一部は武士に準じる格式をもらっている。残りは、どこまでいっても百姓であり、浪人の名のままである。そのままでは、役人にも藩士にも、話が通りにくい。
(どうせこのままいけば、士分も何も、なくなるんだし)
……けれど、そんな札でも、いまは効く。効くあいだは、使えばいい。
上の諸々を回すための掛かり。毎年。
(屋敷も、旭狼衛も、語学所も、もらって終わりじゃない。維持にお金がかかる)
屋敷には修繕が要る。隊士には扶持が要る。語学所には紙と墨と灯の油が要る。
(前世の言葉で言えば、単発の売上より、毎月の固定収入)
固定の入りがあれば、先の勘定が立つ。先の勘定が立てば、人を雇える。
(毎年。ここ大事)
糸子はその二文字の横に、点を打った。もう一つ打った。
関所を公用で通る許し。
旭狼衛の文使い、天朝物産会所の荷方、語学所へ学びに来る者たち。関所で足止めされるたびに、日が延びる。箱根で一日止められれば、その一日のあいだに横浜の値が動く。
(関所で待たされるのは、前世の渋滞よりたちが悪い)
天朝物産会所の商いに、幕府が口を出さぬこと。
(これは、念のため)
会所はすでに御所御用を仰せ付けられている。とはいえ、幕府の役人が、いつ何を言ってくるかは分からない。今のうちに、紙に残しておく。
横浜でも、そうやって紙を使った。善次郎が江戸から回したあの一枚が、よく効いた。
(紙は強い。一枚あるだけで、話が早くなる)
筆は、まだ止まらなかった。
丸の数を数えてみた。ここまでの十一行に、十一の丸が付いている。二重丸が一つ。点を打った行が一つ。
(全部に丸を付けたら、丸の意味がないんじゃないかしら)
少し考えて、気にしないことにした。欲しいものに丸を付けているのだから、全部に付くのは当たり前である。
観光丸の払い下げ。
オランダの国王が、幕府に贈った蒸気の船である。長崎の海軍伝習所で、幕府の御家来衆がこの船に乗って航海を学んだという。外輪で水を掻いて進む船で、英国の新しい船に比べれば、もう古い。
(英国の商い船が届くまでの、つなぎに。古いなら、幕府も手放しやすいんじゃないかしら)
幕府にとっては、異国から贈られ、練習に使ってきた大事な船だ。それを、つなぎに寄こせと書いている。
(いや、さすがにこれは……)
城の御用部屋で、この紙が読み上げられるところを思い浮かべてみる。屋敷、旭狼衛、語学所、と読み進めて、観光丸のところで読み上げる声が止まる。誰かが紙を覗き込み、もう一度読み直す。
(……書くだけならタダ)
丸を付けた。
(タダなら、遠慮は要らない)
筆が、また走り出した。
屋敷は、永代で拝領。空いた大名屋敷があれば、替地の手配は幕府で。
屋敷の長屋、蔵、厩、門も、そっくりそのまま。
近衛の家の者、旭狼衛、語学所の者が、江戸に住み続けてよいという許し。
(借りるとか、まどろっこしい。もらうなら永代)
旭狼衛を、近衛家直属の警衛として扱うこと。
増やす人数は、ひとまず二百。できれば三百。
隊士は、近衛家が好きに雇えること。
隊士に、苗字と帯刀を許すこと。
刀だけでなく、鉄砲も。異国の銃を買う許し。
隊士を鍛える稽古場。
隊士を、幕府が勝手に召し抱えないこと。
(ここまで取れば、もう誰にも私兵とは言わせない)
天朝物産会所を、全国の商いの総会所として認めること。
会所に、商人を登録させる権。
品の良し悪しを会所が改めて、極印を打つ権。
商いの証文を、会所が証すること。
登録した商人同士の揉め事は、会所で裁く。
登録した商人に、「天朝御用」を名乗らせること。
(ただし、咎人と、異人の条約がらみだけは、幕府に残して差し上げる)
我ながら、気前がいい。
語学所の切り盛りに、幕府が口を出さぬこと。
何の言葉を、どう教えるかは、こちらで決める。
異国の事情を調べ、異国の書を訳す権。
天朝の翻訳局と、刷り物の局を置くこと。
この国の者を、海の向こうへ学びに出す許し。
(国禁? 書くだけならタダ)
異国の公文書を見せていただき、訳す権。
御門の御用とあらば、異国の公使に直に会うこと。
異国の機械、書物、武器を入れる手続きを、早くすること。
(御門の御用なら、筋は通る。……たぶん)
異国との御用に掛かる費え。
文と荷を運ぶ費え。
その費えは、横浜の運上から回していただく。
(取り立てるなら、出どころまで決めておかないと)
最後の一行にも、丸を付けた。
気がつくと、幕府の紙は五枚目の半ばまで埋まっていた。
七
糸子は、筆を置いた。
英国の三枚と、幕府の五枚半を、文机いっぱいに並べてみる。収まりきらず、幕府の紙は畳の上にまではみ出した。最後の半枚は膝の上に載せた。
指で行を数えていく。英国が十八。幕府が、三十九。
合計、五十七。
指が止まった。もう一度、数え直した。変わらなかった。
「……どんだけ欲しい物があるのでございますか、わたくし」
英国のほうは、相手が詫びの品を贈りたいと言ってきたのだから、まだ言い訳が立つ。幕府のほうは、誰にも頼まれていない。こちらで勝手に、貸しの取り立て表を作っているだけだ。
(さすがに、欲張りすぎるのでは……)
膝の上の半枚に目を落とす。その費えは、横浜の運上から回していただく。その横に、自分で付けた丸がある。
(……いえ)
糸子は、顔を上げた。
(よく見なさい、わたくし)
英国の一枚目を手に取る。製糸の機械。この国には、糸を機械で繰る工場が一つもない。蒸気の機関。この国で作れるところは、ほとんどない。電信。ない。蒸気の商い船。異国の船を借りなければ、荷も満足に運べない。
二枚目。鉄の道。ない。英国では、三十年も前から鉄の道を蒸気の車が走っている。造幣の機械。ない。紡績の機械。ない。蒸気の竜吐水。ない。海図。異国のほうが、この国の海をよく知っている。
三枚目。灯台。ない。刷り物の機械。ない。書物。足りない。鉄を吹く炉。ない。瓦斯の灯。ない。異国で学んだ者。ほとんどいない。
幕府の紙。屋敷。ない。人手。足りない。席。足りない。
(ない、ない、ない、ない、足りない)
「……ないない尽くしではございませぬか」
幕府の紙を見直して、糸子は少し首を傾げた。
洋書調所の書物。長崎製鉄所。観光丸。関所の通り。横浜の運上。どれも、幕府のところにはある。あるのに、こちらへ回ってこない。
(ということは、こっちは、ない方が悪いんじゃなくて)
糸子は、幕府の紙の束を指で弾いた。
(ある方が出し惜しみしてるのが悪い)
欲しいものが多いのは、ないものが多いからだ。五十七という数は、この国に欠けているものの数だった。
そう考えると、むしろ少ないくらいである。書きかけて、葵に止められたものもある。
(葵には、感謝してほしいくらいだわ。止められて、ちゃんとやめたのだから)
止まったのは、口だけである。筆のほうは、そのあと幕府の紙を五枚半埋めた。
糸子は、そこは考えないことにした。
背筋を伸ばす。
「わたくしは、悪くない」
誰もいない私室で、はっきりと言った。
「ない方が、悪いのでござります!」
八
言い切って、すっきりした。
すっきりしたところで、もう一度、並べた紙を眺め直した。
機械と、制度と、書物と、お金。
それだけだった。
(……あれ?)
どこかに一つくらい、そういうものが紛れていないかと、一枚目から目を通す。
一つもなかった。
「わたくし、姫なのに」
小さく呟く。
「色気というものが、一つもございませぬ……」
年頃の娘が、異国の大国から贈り物を選べると言われて、書き出したのが五十七の品。そのうち一つとして、身を飾るものがない。
(普通、こういうときって、宝石とか言うものじゃないの?)
物語の姫君なら、そう言うのではないか。首飾りとか、指輪とか。
前世で、橘咲は百貨店の売り場を歩いていた。宝飾の売り場も知っている。石の色と透明度と、どれだけ大きいか。カットの良し悪し。同じ大きさでも、質によって値は何倍にも開く。
(英国なら、良い石が手に入るはず。宝石のひとつでも、欲しいと言ってみるべきかしら)
糸子は、腕を組んだ。
「うーむ……」
仮に、もらったとする。
どこに着けるか。
糸子の髪を飾るのは、櫛と簪と笄である。公家の娘の装いに、異国の首飾りを掛ける場所はない。指輪を嵌めたところで、御簾の内に座っていれば人目には触れぬ。
(着ける場所が、ない)
しまっておくだけの石のために、異国の大国へ求める一つを使う。そう考えた瞬間、頭の中で勘定が始まった。
この石一粒の値で、何が手に入る。電信の線なら、どれほど引ける。刷り物の機械なら、活字を何揃い増やせる。語学所なら、何人を学ばせられる。国を守るための力なら、どれほど蓄えられる。
(……あ、だめだ。比べ始めたら、宝石が勝てない)
ためしに、葵の顔を思い浮かべてみた。
姫様が、宝石をお求めに。そう言って、葵はきっと目を丸くする。それから、少しだけ嬉しそうな顔をするかもしれない。ようやく姫様らしいことを仰った、と。
小夜なら、どうだろう。あの侍女は、思ったことがそのまま口に出る。姫様は、石より機械のほうがお好きなのでございますね。たぶん、そう言う。悪気なく、まっすぐに。
(……すごく言われそう)
糸子は、組んでいた腕を解いた。
「……はっきり申して、要りませぬ」
言ってしまうと、迷いはどこにも残っていなかった。
(まあ、これも、わたくしらしくて、よろしいのではないかしら)
並べた紙を一枚ずつ重ね直す。英国の三枚、幕府の五枚半。葵がしたように端を揃えて、帳面の間に挟む。
そして、帳面を閉じた。
行灯の火が、小さく揺れた。
糸子は、こらえきれずに笑い声を上げた。
「うけけけけけけーーーーーーっ」
*
笑い声が、奥御殿の廊下に消えていった。
笑い終えてみると、少しだけ頭が冷えた。
「……やっぱり少し、多いかしら」
帳面を、もう一度開く。
「これでは、強欲姫と言われかねませぬね」
ニールがこの三枚を読み終えるまでに、茶が冷めるだろう。ジュリアンは、紙をめくるたびに顔色を変えるに違いない。
「はぁーーーー」
長い溜息が出た。
湯呑みに手を伸ばすと、茶はすっかり冷めていた。
筆を手に取る。
ほどほどになさいまし。葵の声が、耳に戻ってきた。
「……仕方ありませんね。少し、減らして差し上げましょう」
穂先に、墨を含ませる。
「わたくしは、やさしき姫君なのでござりまする」
そう言って、英国の一枚目を引き寄せた。
「減らして差し上げるのですから、残りは必ずいただきましょうか」
……にやりっ。
第二百十九話 了
ぐあああああっ∑(゜Д゜)
公開予定だった二百十九話の予約投稿を間違えてしまいましたm(_ _)m
昨日、楽しみにしてくださった皆様、申し訳ございません。
本日9日、朝6時に二百十九話、いつもの更新12時10分に二百二十話を公開します。
本日は二話更新です‼️
よろしくお願い致します。ご迷惑をおかけ致します(;´Д`A




