第二百十八話「国父の居ぬ間に⑤―帰ってきた国父」
一
皐月に足を踏み入れた人吉と、盛夏の人吉とでは、まるで別の町のように景色が違っていた。
龍馬が最初に城下へ入った日、目に焼き付いたのは、黒焦げになった一角と崩れ落ちた土蔵だった。あれから幾月か。長州との書簡のやり取りや、八代・長崎との荷の段取りに追われ、城下を空けることも多かったが、戻るたびに、焼け跡は確かに息を吹き返していた。
鍛冶屋町には真新しい屋根が並び、柱の組み方も以前より手堅くなっている。町屋の並びにはまだ空き地が目立つものの、そこかしこに、商いを再開した店の新しい暖簾が揺れていた。球磨川沿いの蔵もいくつか建て直され、椎茸を蓄える棚が以前より広く取られているという。
折れた鳥居だけが残っていたあの社の跡地にも、小ぶりながら新しい社殿が組み直されていた。竹箒を握っていた老神官の姿こそ見えなかったが、社殿の前には瑞々しい花が供えられている。
藩校のあった場所には、真新しい足場が組まれていた。焼け跡で木切れを転がして遊んでいた子供たちは、いまはその足場のそばで、大工の小気味よい手捌きを眺めている。学ぶ場所が戻ってくる日を、彼らなりに待ちわびているようだった。
空の棚を虚ろに見つめていた治兵衛の店の前を通りかかると、今度は棚に品が並んでいた。
「坂本殿」
龍馬の姿を認めた治兵衛が、深く頭を下げた。
「棚が、埋まったのう」
「おかげさまで。まだ、細々とではございもすが」
治兵衛はそう言って破顔した。あの日の、力なく乾いた笑いとはまるで違う。
「人間ちゅうのは、強いもんじゃのう」
復興の槌音が響く町を歩きながら、龍馬は独り言のように呟いた。
「坂本殿のお力も、いくらかはございましょう」
背後から高田が応じたが、龍馬はすぐに首を振った。
「違うぜよ。わしは、道をつないだだけじゃ。歩いたのは、この土地の者たちじゃき」
犬童の屋敷に顔を出すと、犬童は相変わらず勘定方として忙しく立ち働いていた。
「坂本殿。今年の椎茸は、去年より良か値のつきそうでございもす」
犬童は帳面を叩きながら、弾んだ声で言った。薩摩の役所の前で幾度も頭を下げていた頃の、擦り切れたような疲れは消えている。
練助は、この夏、初めて一人で八代まで荷を運ぶ役を任されたという。
「もう、犬童様のお供だけじゃございもはん」
少し胸を張るその声は、あの十六の若者から、一人前の男のものへと変わりつつあった。
神瀬は、椎茸の干し方に通じた職人をよそから招き、若い者たちに学ばせているらしい。
「もっと良か品にせんと、長崎まで胸ば張って出せもはん」
神瀬の頬の火傷の痕はまだ生々しかったが、その顔には、あの酒席で見せた熱がそのまま宿っていた。
夜、犬童の屋敷で久しぶりに膳を囲んだ。
「五千両は、順調に返せそうか」
龍馬が問うと、犬童は帳面を開くまでもなく即答した。
「初年の分は、もう目処の立っちょりもす。椎茸の値の、思うたより良う付きもした」
「そうか」
「新宮殿も、近頃はこの帳面ば、渋々ながらお認めになっちょりもす」
「新宮殿は、まだ疑うちょるがか」
「疑うちょりもす。じゃが、数字の動くたびに、疑いが一つずつ剥げ落ちちょるごたります」
龍馬は笑った。政務所で対峙した、あの厳めしい顔つきを思い出す。
「この間、蔵の普請の帳ば見て、新宮殿が一言だけ仰いもした」
「何と」
「『悪うはなかろう』と」
犬童は嬉しそうに笑った。新宮にとって、それが最大の褒め言葉であることを、その場の誰もが分かっていた。
龍馬は球磨焼酎を口に含んだ。あの日、咳き込むほど強烈だった酒も、今ではすっかり馴染んだ味になっている。
「土地の味は、変わらんのう」
「変わりもはん。変わるとは、その味ばどこまで遠くへ運べるか、でございもす」
「それも、そうじゃのう」
龍馬が繋いだのは、五千両という金と、いくつかの言葉だけだ。それをこの土地で実際に積み上げ、形にしていったのは、犬童であり、練助であり、神瀬であり、名も知らぬ多くの領民たちだった。
城下の広場では、子供たちが駆け回っている。夏の陽射しの下、その声だけは、焼け跡だった頃もいまも、少しも変わらずに響いていた。龍馬はその声を聞きながら、あの皐月の日、藩校の跡地で遊んでいた子らの姿を重ね合わせていた。
「藩校は、いつ頃開けそうじゃ」
「来年の春には、なんとか」
犬童の力強い返答に、龍馬は深く頷いた。焼け跡を歩いた日から、まだそれほど長い月日は経っていない。それでも、この土地は確かに前へ進んでいた。
二
謁見の日、頼基は「まずは、この目で確かめる」と言った。
龍馬ははじめ、自分が先に長州へ渡るつもりでいた。だが、見学するのが藩主となれば、話は浪人の手に余る。相良家から毛利家へ、藩主から藩主へ、正式に申し入れるのが筋である。龍馬はそう進言し、頼基もそれを容れた。
ほどなく、頼基の名で一通の書状が長州へ送られた。
『――当家城下類焼の後、立て直しの折柄、御家中新式調練の儀、一見仕り度く候。此の儀、土佐の坂本龍馬なる者、取次に候』
宛先は、長州藩主・毛利敬親である。
*
書状は、敬親の手元に届いた。
敬親は二度目を通し、脇に控える周布政之助へ差し出した。
「肥後の相良が、旭日隊を見たいと申してきた」
周布は書状を受け取り、文面を追った。二万二千石の小藩。この春、城下の大半を焼いたとは聞いている。その藩主が、藩主の名で、正式に調練の見学を願い出てきた。
「いかがする」
「旭日隊は、当家の隊にはございますが……」
周布は言葉を選んだ。
「その実は、近衛様お預かりの隊。よその家に見せるとなれば、当家の一存では決めかねまする。まずは近衛様のお耳に入れ、隊のことは高杉に諮らせるのがよろしいかと」
「そうせい」
敬親は、いつものように短く応じた。
「近衛様へは、わしの名で一筆入れておけ。相良から、このような書状が参った、とな」
「は」
「断るにしても受けるにしても、近衛様のお考えを伺うてからじゃ。相良への返書は、それまで待たせよ」
周布は一礼して下がった。
*
その日のうちに、周布は高杉晋作を呼んだ。
「高杉。これを読め」
高杉は書状に目を走らせ、途中で手を止めた。
「人吉、ですか。肥後の山奥の」
「そうじゃ。旭日隊の調練を見たいそうな」
「二万石の藩が、わざわざうちの隊を見に来るちゅうんですか。面白い。見る目のある殿様かもしれんのう」
それから、末尾の一行に目を留め、口の端を上げた。
「取次は龍馬か。あの声のでかい土佐者、今度は肥後で何をやっちょるんじゃ」
「知り合いか」
「江戸で、机を並べた仲です」
周布は頷いた。
「殿は、近衛様へお知らせの文を出される。見せる見せんを決めるのは近衛様じゃ。じゃが、隊のことを一番知っちょるのはお前じゃ。見せるなら、どこまで見せるか。お前の考えを添えて、近衛様にお伺いを立てい」
「承知しました」
高杉は書状を畳んだ。
その夜、高杉は筆を執った。文面は、敬親の名で出る知らせとは違う。こちらは、隊を預かる者の伺いである。
『――相良家より調練一見の儀、申し越され候。見せ申し候はば、何処まで開き申すべきや。調練の形のみに留め、筒の出所と隊の本筋とは伏せ置くべきか、御指図願い上げ候。人吉の腹の内、未だ見極め申さず候えども、取次の坂本は、姫様御講義の席にて同じく学びし者に候』
筆を置き、高杉は一人ごちた。
「坂本が噛んじょる以上、ただの物見遊山じゃあるまい」
*
京、近衛邸。
近衛忠房のもとに、長州から二通の文が相次いで届いた。
一通は、毛利敬親の名で出された知らせである。人吉の相良家より、当家の調練を一見したいとの申し入れがあった。旭日隊の儀は、かねて御預かりの筋であるから、まずはお耳に入れ置く。何分の御指図を仰ぎたい――そういう文面だった。
もう一通は、高杉晋作からの伺いだった。
忠房は二通を並べ、交互に目を通した。
「同じ一件でも、書くことは違うものじゃな」
傍らに控える家司が、首を傾げた。
「と、申されますと」
「毛利殿の文は、知らせじゃ。このような話が来た、あとはよしなに、とな。藩主の文としては、それで正しい。旭日隊を長州の一存で動かさぬ、という筋も立てておる」
忠房は、もう一通を指で叩いた。
「高杉の文は、伺いじゃ。見せるなら、どこまで見せるか。調練の形だけか、筒の出所までか、隊の本筋までか。隊を預かる者でなければ、ここまでは書けぬ」
「どちらに、お返事を」
「両方にじゃ」
忠房は、しばらく目を閉じて考えた。
「見たいと申す者に、見せぬ理由はない。相良は大火のあと、薩摩の外に手を伸ばしてきた。その手を払えば、二度とは伸びてこぬ」
「では、すべてお見せに」
「いや」
忠房は首を振った。
「見せるのは、調練と隊の形まで。筒が天朝の網を通って長崎から入っておることも、隊が誰のためのものであるかも、いまは伏せよ。相良がこちらの側に立つと見極めてから、次を開けばよい」
それから、高杉の文の末尾に目をやった。
「……坂本、か」
忠房は、小さく笑った。
「糸子には、こちらから報せずともよい。坂本が自分で報せるであろう」
忠房は筆を執り、二通の返書をしたためた。
毛利敬親へは、見学を承知した旨と、長州の筋立てへの礼を。
高杉へは、見せる範囲の指図を。調練と隊の形まで。筒の出所と隊の本筋は伏せ置くこと。人吉の腹の内は、見学の折に高杉自身の目で確かめよ――と。
*
人吉では、返書を待つ日が続いた。
「見学の日取りは、いつ頃になりもすか」
犬童が尋ねた。
「まだ細かくは決まっちょらん。向こうの都合もあろうし、相良様の御都合もある。急ぐ話じゃないき、ゆっくり詰めればええ」
「人吉の殿様、御自らが、まいられるのですか」
高田が問うた。
「まずわしが様子を見て、それから相良様にお伝えする段取りじゃったのう」
龍馬は頷きながら、付け加えた。
「けんど、こういう話は思うたより早う進むもんじゃ。心の支度だけは、しちょいた方がええぜよ」
高田はその傍らで絵図を広げ、人吉から長州へ渡る道筋を幾つか書き付けていた。
「陸路と海路、どちらが早うございますか」
「季節にもよるぜよ。けんど、荷を運ぶには海路の方が向いちゅう」
「長州見学に、荷は要りますまい」
「見学だけじゃない」
龍馬はにやりと笑った。
「相良様が長州で何を見せてもろうたか、人吉に帰ってからどう活かすか。それも、目に見えん荷の一つじゃき」
高田は納得したように、絵図にまた一本、線を書き加えた。
「高杉殿の隊も、ずいぶん形になってきたと聞きます」
「刀だけでは足らんと、あの男は誰より先に分かっちょった。長州も人吉も、同じ時代を生きちゅう。考えが似てくるのは、当たり前のことかもしれんのう」
高田は絵図の端に『長州』と書き入れた。人吉から長州へ、細い線が一本、まっすぐに伸びている。
「坂本殿。この絵図、いずれ姫様にもお見せすることになりましょうか」
「いずれ、な」
「いずれ…とは?」
「いまはまだ、線が細すぎるぜよ。もそっとはっきりした線になってから、お見せした方がええ。長州見学が済んで、頼基公が御自分の目で確かめられた後、ということじゃ」
絵図の上の細い線は、まだ人や物が行き来した証ではない。約束という頼りない一本に過ぎなかった。龍馬はその線を指でなぞりながら、ふとこぼした。
「この線が、いつか太うなる日が来るとええのう」
高田は何も答えず、絵図を丁寧に畳んで懐へしまった。
やがて、毛利敬親から頼基へ、正式な返書が届いた。調練の見学を承知する、日取りは追って相談したい、という簡潔なものだった。
同じ頃、龍馬のもとにも、高杉からの使いが短い文を届けに来た。
『――見学の儀、近衛様の御指図を仰ぎ、殿のお許しも出た。見せられるのは調練と隊の形まで。それ以上は、人吉の殿様を見てからじゃ』
その末尾に、一行が添えられていた。
『――声のでかい龍馬へ。肥後で何をやっちょるんか、会うた時にとっくり聞かせえ』
龍馬は頭を掻いて笑った。
「声のでかいは余計じゃ」
それから、文の前段に目を戻し、小さく息をついた。
「近衛様の御指図を先に仰いじょったか。……高杉め、筋を外さんのう」
傍らで、高田が黙って頷いた。旭狼衛である高田には、「近衛様の御指図」という一行の重みが分かる。長州の隊を他藩に見せる話が、長州の殿を通り、京の近衛邸を経て、ようやくここへ戻ってきたのだ。
知らせを持ってきた犬童が、目を輝かせた。
「坂本殿の始められた話でございもす」
「いや」
龍馬はすぐに首を振った。
「始めたのは人吉じゃ。相良様が見たいと仰せになったき、話が動いた。わしは、取次をしただけじゃ」
謙遜ではなかった。龍馬が繋いだ細い糸の先で、人吉の者たちが自分の意志で動き出している。それが、龍馬には何より痛快だった。
三
一方、鹿児島でも、別の変化が静かに進んでいた。
島津久光が上洛の途についてから、薩摩の城下は表向き平穏を保っていた。だが、龍馬がその春、酒場で言葉を交わした相手たちの胸には、確かなさざ波が立っていた。
五代才助は、相変わらず数字と理屈で世の中を測る男だった。だが、龍馬と交わした議論の断片を、若い藩士たちに時折語るようになっていた。
「坂本ちゅう土佐者が、言うちょった話でごわすが」
五代が酒の席でそう切り出すと、若い藩士が身を乗り出す。
「メリケンの戦のことでごわすか」
「そうじゃ。北と南に割れて、四年は続くち言うちょった。あれからもう半年余りか」
「まだ、続いちょりもすか」
「続いちょる。あの土佐者の見立て、あながち外れてはおらんごたる」
五代の話を聞いた若者は、また別の席で誰かに語る。下級武士の中には、龍馬が酒に酔いながら語った異国の商いの話を、目を輝かせて聞き直す者がいた。商人たちも、「天朝の網」とやらの噂をひそひそと囁き合っていた。
「その坂本ちゅう男、いまどこにおっとな」
「人吉におるち聞いたが」
「人吉で、何をしよっとな」
問いは、はっきりした答えには辿り着かない。だが、問いそのものが話の種となり、城下を駆け巡っていた。
五代はそんな噂を耳にするたび、苦笑を禁じ得なかった。
「坂本ちゅう男は、面倒な種を蒔いていったもんじゃ」
「面倒、でごわすか」
「坂本は何も企んじゃおらんのか、企てておるのかは、ようわからん。じゃっどん、蒔かれた種の方は、勝手に芽を出すもんじゃ」
その芽がどこへ伸びていくのか。五代の頭をもってしても、見当はつかなかった。
城下外れの小さな商家では、主人が長崎から回ってきた瓦版を食い入るように読みながら呟いていた。
「異国の商いちゅうもんは、こげな仕組みでごわしたか」
出入りの下級武士がそれを聞きつけ、身分を越えて話に加わる。誰かが話し、別の誰かへ伝わる。噂は形を変え、尾鰭をつけながら、薩摩の底を少しずつ流れていった。
どの席にも、龍馬の姿はない。だが、彼の言葉の熱だけは、確かにそこに息づいていた。
ある日、五代は藩の御用で大坂へ向かう道すがら、旧知の朋輩にふと本音を漏らした。
「おいの役目は、藩のために数字を動かすことでごわす。じゃっどん、坂本ちゅう男は、役目もなかまま、あちこちの人間の頭の中を動かしていきよる」
「それは、羨ましか話でごわすか」
「羨ましかとは、思わん」
五代はきっぱりと首を振った。
「真似のできることでもなか。あの男にはあの男の動き方がある。おいにはおいの戦い方がある。それだけのことじゃ」
朋輩はしばらく黙り、尋ねた。
「五代殿は、坂本ちゅう男を、どう見ておられもすか」
「危なか男じゃ」
五代の目は鋭かった。
「じゃっどん、危なかことと、悪しかこととは違う。あの男が蒔いた種のおかげで、この藩の若か者らは、外の世を少しは見るようになった。それだけは、確かなことじゃ」
龍馬自身は、自分が残していった静かな熱に、まったく気づいていない。ただ「あの土佐人の話は面白か」という印象だけが、薩摩に根を下ろしていた。
徒党を組んで何かを企てるわけではない。世界の話を面白がり、熱く語り合う者が、少しずつ増えていっただけだ。
それでも、世界を見る目を持った者たちが、いつの間にか薩摩の城下のあちこちに散らばりつつあった。時代のうねりは、そうした名もなき者たちの、微かな熱から始まろうとしていた。
四
秋も深まった頃、久光が江戸から京を経て、鹿児島へ戻ってきた。
国父の帰国である。
城下には、行列を一目見ようと人垣ができた。重々しい久光の駕籠が、城門をくぐり抜けていく。
国父の足音が近づくにつれ、鹿児島の空気は一変した。
藩の上層に広がったのは、まず安堵だった。国父様がお戻りになった。これで薩摩の政も、またいつもの筋道に戻る。重臣たちの多くが、そう胸を撫で下ろしていた。
「これでようやく、御政道も落ち着きもそ」
登城する老役人たちが、安堵の笑みを交わし合う声が廊下に響いていた。
だが、若い藩士たちの間を流れる風は、以前とは微妙に違っていた。
久光が城内を歩くと、すれ違う若い藩士の数人が、ひそひそと異国の情勢や他藩の動きを語り合っている場面に出くわす。久光の気配を察すると一瞬で口をつぐむが、その背が遠ざかれば、打ち切られたはずの話が、また静かに立ち上るのだ。
ある日、久光は廊下ですれ違った若い藩士に足を止め、不意に声をかけた。
「そなたら、いま何の話をしておった」
「い、いえ。別段、何も……」
若い藩士は慌てて目を伏せ、深々と頭を下げた。久光はそれ以上追わずに通り過ぎたが、若者のその狼狽ぶりに、喉の奥に小骨が刺さったような不快を覚えた。
久光は重い足取りで廊下を歩いた。留守にしていたのは、半年余りのことに過ぎない。それだけの間に、藩の体質が変わるはずもなかった。だが、廊下を行き交う若者たちの目の奥に、かつてはなかった光が宿っている。それが何なのか、久光には言葉にできなかった。
江戸の動き。京の政局。異国の兵法。長州の試み。そして、人吉の奇妙な立ち直り。この半年余り、さまざまな話が薩摩の城下を駆け巡っていた。久光の留守中に解き放たれた言葉は、久光が戻ったからといって、消えてなくなるものではない。
久光は若い藩士たちの顔つきを思い浮かべ、ひとり眉をひそめた。
「……何か、変わったか」
誰に問うでもなく呟いたが、むろん応える者はいない。だが、その呟きこそが、久光の胸に芽生えた拭いがたい違和の証だった。
その夜、久光は家老を呼び寄せ、留守中の出来事をあらためて問いただした。
「格別、変わったことは無かったか」
「は……特段、これといったことはございもはん」
家老は事もなげに答えた。無理もない。藩の帳簿を見ても、家中の名簿を繰っても、妙な記録は何一つ残っていないのだ。五千両という金が動いたのは人吉藩の中の話であり、薩摩の公の帳面に載るはずもない。酒場で交わされた異国の話など、なおさら文字に残るわけがなかった。
「そうか……」
久光はそれ以上追わなかった。だが、目に見えぬ何かが、自分の留守にしていた城下を吹き抜けていった。その手応えだけが、澱のように胸の底に沈んだ。
幕府を動かし、自らの手で幕政の改革を押し通してきたという自負があった。薩摩に戻れば、揺るぎない、いつもの薩摩が待っているはずだった。その確信が、原因の分からない違和によって、少しずつ削られていた。
翌日、久光は勘定方の動きを内々に洗わせたが、上がってきたのは、相変わらず整然とした収支の報告だけだった。犬童権左衛門の名は、人吉への見舞いの記録に使者として一行あるきり。坂本龍馬という浪人の名は、薩摩の公の文書のどこにもない。
「……何事も無かった、ということか」
報告の書き付けを放り出し、久光は吐き捨てるように言った。
何事も無かったというのは、事実であり、同時に大きな思い違いだった。帳簿の上には何一つ残っていない。だが、人という器の中には、薄く、しかし確かに刻み込まれたものがある。それを、久光が数字として数え上げることはできなかった。
「坂本龍馬、という浪人の名を聞いたことはあるか」
ふと思い立って、家老に尋ねてみた。
「土佐を抜けた浪人で、城下でもしばらく酒場に出入りしちょったとか。それ以上は存じもはん」
「そうか……」
久光は、そこで考えを打ち切った。名もない浪人が一人、留守中の城下で若い者と酒を飲んでいたところで、それが薩摩の藩政に何の障りになろうか。久光はそう結論づけ、その名を頭の隅から追い払った。
だが、打ち捨てられたその名は、薩摩の地から消えたわけではなかった。若者たちの記憶の奥で、小さな灯のように燃え続けていた。
五
国父帰国の知らせは、人吉に腰を据えていた龍馬のもとにも、ほどなく届いた。
「国父様が、薩摩へお戻りになりました」
高田の報告を聞き、龍馬は「そうか」と一言呟いて腕を組んだ。
「なら、薩摩もまた、元の通りに落ち着くじゃろうな」
国父が戻れば、藩の政は、再び久光という軸を中心に回り始める。自分が蒔いた言葉など、やがて日々の波に洗われて消えていくのかもしれない。そう考えかけたが、龍馬はすぐに思い直して、短く首を振った。
「……いや、違うな」
「何がでございますか」
「国父様がどれほど睨みをきかせようと」
龍馬はにっと口の端を上げた。
「一度話を聞いてしもうた者の頭の中までは、元に戻せんぜよ」
五代才助という男の立場が変わったわけではない。しかし、五代を通して言葉を受け取った若い藩士たちの頭の中には、確かに新しい視界が拓けている。久光がどれほど威を示そうと、知ってしまったことを消し去る術はなかった。
高田は、龍馬の横顔を黙って見つめていた。
「坂本殿は、そのことを案じておられますか」
「案じるも何も」
龍馬は肩をすくめた。
「わしは企んで種を仕込んだわけじゃない。聞きたがる奴に、おもしろい話をしてやっただけじゃ。それがどう化けるかまで、わしの知ったことじゃないき」
口ではそう言った。だが、龍馬の胸の底には、誰にも明かしていない勘定があった。薩摩には、思うように楔を打てなかった。ならば、その隣の人吉に一本打っておく。
鹿児島の酒場で練助から人吉の話を聞いた時、とっさに「使える」と思ったのは、そのためだった。何に使うのかは、まだ龍馬自身にも見えていない。
そして、いざ焼け跡に立ってみれば、勘定より先に情で動いてしまう。それもまた、坂本龍馬という男だった。
「もし、国父様がそれを害とみなし、芽を摘もうとされたら」
「摘めるもんなら、摘めばええ」
龍馬はあっけらかんと言い放った。
「けんど、種があちこちに散らばっちょったら、全部を摘むのは並大抵の骨折りじゃないぜよ」
少し離れて控えていた小野寺は、二人のやり取りを聞きながら、黙って帳面を閉じた。そこに書き留めるべき数字は、まだ何一つ生まれていなかった。
「坂本殿は、近いうちに薩摩へ戻られますか」
小野寺が尋ねると、龍馬は迷わず首を振った。
「わからんぜよ。わしが戻ったところで、今のところは、これ以上やることもない。真木殿の見張りも、五代殿が藩の者を付けて引き受けてくれちゅう。あとは五代殿や、あの若い連中が、自分で考えて動くことじゃ」
「その先を、見届けなくてもよろしいのですか」
「見届けるも何も」
龍馬は軽く笑った。
「わしが見ていようが見ていまいが、育つもんは勝手に育つし、駄目なもんは枯れる。それが、種を蒔くっちゅうことじゃき」
高田は、黙って龍馬を見つめた。高田の目に映る限り、この男は、自分が起こした変化の行く末に、驚くほど執着がない。蒔くだけ蒔いて、あとは風に任せる。その軽やかさと、ある種の諦観が、坂本龍馬という人間の並外れたところだった。
「坂本殿は……それでもまた、別の場所で、同じように種を蒔かれるのでしょうね」
「そうかもしれんのう」
龍馬は人吉の澄んだ空を見上げた。
「わしにできるがは、せいぜいそのくらいのことじゃ。あとは、芽の出そうな場所を、一つでも多う増やしていくだけぜよ」
六
霜月の末、江戸の糸子へ宛てて、報告の書状を出すことになった。
長州見学の返書が届き、ようやく、姫様にお見せできるだけの形が揃った。龍馬はそう判じたのである。
筆を執り、清書を引き受けたのは小野寺だった。
「長崎での弥太郎との談判から始まり、薩摩、人吉、そして長州への申し入れ。この一連の経緯を、順を追って記せばよろしいでしょうか」
「頼むぜよ、小野寺」
行灯の淡い光が落ちる夜の座敷で、小野寺は机に向かい、帳面と照らし合わせながら文言を整えていった。
『人吉藩との間に、深き縁が結ばれました』
『五千両の件、無事に動き出しております』
『長州との軍制見学の約定も、整いました』
飾りのない、過不足のない事実が、小野寺の端正な筆で紙の上に並んでいく。龍馬と高田はその傍らで、墨の匂いを嗅ぎながら、その手元を見つめていた。
「これで一通り、事実に相違はございません」
小野寺が筆を置こうとしたその時、龍馬が声をかけた。
「小野寺殿」
「はい」
「もう一つ、書き加えてくれんか」
「何をですか」
「……扇子のことじゃ」
小野寺の手が、ぴたりと止まった。
「坂本殿。それは……本当に、お書きになるおつもりですか」
「なしてじゃ」
「あの扇子の件を知るのは、我ら三人と頼基公のみです。書状に記せば、それだけ漏れる道が増えることになります」
小野寺の懸念はもっともだった。陰となり日向となって姫を守る旭狼衛の一人として、高田もその危うさは痛いほど分かっていた。しかし、龍馬は真顔で首を振った。
「姫様とわしとの間の約束ごとじゃき。他の誰に隠そうと、姫様本人に隠すのは筋が違うぜよ」
高田はしばらく思案していたが、やがて口を開いた。
「坂本殿。私からも一言、よろしいでしょうか」
「なんじゃ、高田殿」
「私は旭狼衛として、あの座敷で起きたことを、姫様へありのままにご報告する立場にあります。坂本殿が書状に書かれずとも、私からいずれお伝えすることになったでしょう」
「そうか」
「ですが……坂本殿ご自身の言葉で書き残される方が、よろしいかと存じます」
龍馬は意外そうに目を丸くした。
「高田殿がそこまで言うとは、思わんかったぜよ」
「私は、見た事実を伝えることしかできません。ですが、坂本殿がどのような思いであの扇子をお出しになったのか……それは、坂本殿ご自身の言葉でしか伝わらないものと思います」
龍馬はその言葉を胸の中で反芻するように黙り、やがて嬉しそうに頷いた。
「高田殿は時々、わしよりずっと物事の芯が分かっちゅうのう」
「私はただ、見届けることしか能がございませんので」
「その見るちゅうことが、一番難しいがぜよ」
龍馬は小野寺に向き直った。
「書いてくれ」
『なお、姫様より預かりし扇子、このたび頼基公の御前にて、一度用いました』
龍馬が口にした文言を、小野寺は慎重に書き進めていく。
「嘘偽りなく、正直に書くぜよ」
龍馬は苦笑いを浮かべた。
「黙っちょったら、あとで何を言われるか分からんきに」
『しかしながら、最後まで懐に収め、真に刻限迫りし時にのみ用いましてございます』
『頼基公との対談におきましては、まず私自身の言葉を尽くし、お聞き届けいただきました』
龍馬はその文面を耳で追いながら、あの張り詰めた座敷の空気を思い出していた。頼基の「なぜ、これを最初に出さなかった」という問いに、自分がどう答えたか。その矜持も含めて、姫様に伝えておきたかった。
「……もう一つ、頼めるか」
「まだありますか」
小野寺が、少し驚いたように顔を上げた。
「人吉の犬童殿、練助、神瀬。この三人の名も、しっかりと書き連ねておいてくれ」
「なぜですか」
「わし一人の知恵で動いたわけじゃないき。あの三人の踏ん張りがなかったら、頼基公だって、わしの話に耳など貸さんかったはずじゃ」
小野寺は深く頷き、力のこもった筆で三人の名を書き加えた。
すべてを書き終えると、小野寺は書状を最初から読み返した。
「これで、大丈夫ですか」
「一通り、読み上げてみてくれ」
小野寺の声が、座敷に響く。長崎での弥太郎との談判、春の薩摩の空気、人吉での五千両、長州との約束。そして、現場で汗を流した犬童たちの名と、最後に明かされる扇子の顛末。
聞き終えた龍馬は、しばらくぼんやりと行灯の火を見つめていた。
「……妙なもんじゃのう」
「何がですか」
「こうしてまとめて聞くと、わしも随分と、あちこちを走り回ってきたもんじゃと思うてな」
龍馬は照れくさそうに頭を掻いた。
「一つ一つの場におる時は、夢中で、大したことをしちゅう気もせんかった。けんど、こうして並べてみると、えらい遠くまで来たような気がするぜよ」
「それだけ、坂本殿が『これから』を動かされたということです」
小野寺の言葉に、龍馬は首を振った。
「動いたのは、わしだけじゃないき」
紙の上の墨文字を見つめながら、龍馬は言った。
「よし、これで送ってくれ。……あとは、姫様がこれをお読みになって、どう笑われるかじゃな」
七
師走も下旬に入った頃、江戸の邸で、糸子はその書状を受け取った。
英国との談判は、こちらからは何ひとつ条件を出さぬまま終えた。決まったのは、今後あらためて話し合いの場を持つ、ということだけだ。その英国の代理公使が、近く詫びのために糸子を訪ねてくる。詫びに来る相手に、手土産として何を要求するか。ここ幾日か、糸子はその思案で、頭の休まる暇がなかった。
「姫様」
葵が文を手に、静かに部屋に入ってきた。
「坂本殿より、届いております」
「坂本から?」
糸子は文机から顔を上げ、受け取った封を切った。
まず目に飛び込んできたのは、『人吉』『五千両』という文字だった。
「人吉……」
肥後の南、球磨川の上流。前の世の記憶にある、山あいの城下町の名だった。坂本が鹿児島にいることは知っていた。だが、そこからなぜ人吉なのか。
読み進めるうちに、その答えが見えてきた。人吉藩の大火、薩摩が出さなかった五千両、長崎の会所を通した証文、藩主・相良頼基との謁見、そして長州への軍制見学の約定。
「これは……」
糸子の口から、思わず声が漏れた。
「いかがなさいましたか」
「坂本が、人吉という肥後の小藩で、五千両の金を動かしたようです。長崎の会所を通して」
「五千両、でございますか」
「ええ。弥太郎殿の名もあります。弥太郎殿が、ただの情けで五千両を出すはずはありませんから、よほど確かな帳面を揃えたのでしょう。小野寺の仕事ですね」
糸子は文面をたどりながら、何度か小さく頷いた。
球磨川から八代へ、八代から長崎へ。荷の道筋を先に組み立て、船賃と日数を見積もり、返す道筋をつけてから金を借りている。一橋の上屋敷で、坂本にいちばん時をかけて叩き込んだのが、海運と物流だった。為替の仕組みも、最低限だけは覚えさせた。それが、ここではそのまま使われている。
頼基公との謁見のくだりには、メリケンの内乱の話、異国が小国同士を争わせて武器を売りつける話、海に囲まれた国は商いの網で立つという話が出てくる。教範の第一巻そのものだった。
「……ちゃんと、使っていますね」
「何をでございますか」
「教えたことを、です」
糸子は小さく笑った。講義のあいだ、細かい数字を見るたびに知恵熱が出ると嘆いていた男である。
「天朝物産会所の網を、こういう形で使うとは思いませんでした」
「姫様がお立てになった会所でございますものね」
「ええ。網は、もう張られております。ですが、網だけでは何も運べません。そこへ荷を見つけ、載せる者がおって、初めて網は働く。坂本は、その荷を自分で見つけてきたのです」
書状には、見知らぬ名が幾つも並んでいた。犬童権左衛門、渋谷練助、神瀬徹之助――。
「この方々は……」
「人吉の藩士たちのようです」
糸子は一字一字を指でなぞった。会ったこともない、遠い九州の侍たち。だが、小野寺の筆で記されたその名は、確かで泥臭い重みを放っていた。
「わざわざ名を書き連ねさせたのは、坂本らしいですね。自分ひとりの手柄にしない」
葵は、その横顔を見つめた。
「姫様。少し、お顔つきが柔らかくなられましたね」
「そうでしょうか」
「はい。英国との談判以来、ずっと険しいお顔をなさっておりましたから」
「今も険しいつもりでございますよ。代理公使へ何を求めるべきか、まだ決めきれておりませんので」
糸子は、わずかに笑った。
「いっそ、思いつく限りすべて求めてみましょうか。何しろ相手は、日の沈まぬ国と呼ばれる大英帝国ですもの。数の限りも決まっておりませぬし」
葵は、その言葉に微笑んだ。
「ですが、今夜だけは違って見えます」
糸子は答えなかった。
ただ、もう一度、文面へ目を落とした。
長州の段には、高杉晋作の名がある。相良家の書状は毛利の殿のもとへ届き、周布を経て高杉に下り、長州の殿と高杉の双方から京の父上へ伺いが上がったうえで、ようやく返書が出た、とあった。
「高杉も、筋を外しませんでしたね」
講義の席では、失礼なことばかり訊いてきた男である。だが、近衛の家に仕える身として、通すべき筋だけは外さない。
高田と小野寺の近況も添えられていた。坂本に付けた二人が、それぞれの持ち場で、確かに務めを果たしている。
書状の最後に、扇子の件があった。
『なお、姫様より預かりし扇子、このたび頼基公の御前にて、用いました』
糸子の指が、そこで止まった。
驚きはなかった。扇子を預けた時から、使いどころは坂本に任せてある。坂本が使うと決めたのなら、そういう場だったのだろう。
糸子が目を留めたのは、その先だった。
『しかしながら、最後まで懐に収め、真に刻限迫りし時にのみ用いましてございます』
『頼基公との対談におきましては、まず私自身の言葉を尽くし、お聞き届けいただきました』
「……そうですか」
糸子の口元に、自然と笑みがこぼれた。
「最初から出せば、話は早かったはずです。けれど坂本は、まず自分の言葉で向き合った。近衛の名は、最後の一押しにしか使わなかった」
「それは、どういうことにございますか」
「扇子を預けたのは、坂本を信じて、使いどころを任せたからです。坂本はきちんと応えてくれた。……それが、嬉しいのでございまする」
糸子は文を膝の上に置き、障子の向こうの夜空を見やった。
込み上げてくるのは、静かな喜びだった。
八
夜が更け、葵が下がった後、糸子はひとり行灯の前に座っていた。
もう一度、畳の上に書状を広げる。
「坂本龍馬……」
前世の教科書で読んだ名だ。薩長同盟を成し遂げ、海援隊を率い、新しい時代の夜明けを見ることなく散っていった男。
この紙の上の坂本は、その坂本とは少し違う。
違って当然だった。一橋の上屋敷で三月余り、松陰や高杉、久坂と机を並べさせ、海運と物流、代理戦争論、海洋国家論、商談の駆け引きを叩き込んだ。持ち前の勘に、理屈と数字の裏付けを与えるために。京や江戸に閉じこもらず、海や現場に出て諸藩を繋ぐ者にするために。
そして坂本は、西へ出た。
人吉を助けた理由は、人情だけではあるまい。糸子は、そう思った。
薩摩には、思うように楔を打てなかった。ならば、その隣に別の繋がりを作る。坂本なら、その程度の先は見て動いていても不思議ではない。だが、書状には何も書いていない。書かぬところも、あの男らしい。
周りから見れば、ただの人助けにしか見えぬだろう。
ただ、その先に何を描いているのか。そこまでは、まだ糸子にも読めなかった。
けれど、行ってみれば、企てより先に情で動く。焼け跡を歩き、名もない者たちと酒を酌み交わし、三人の藩士の名を書き連ねさせる。胸の底に企てを抱えたまま、それを越えた人情で人を動かしてしまう。
「……教えた型に、自分で肉を付けましたね」
呟いた声には、誇らしさと、かすかな畏れが混じっていた。
講義で渡したのは、型に過ぎない。どこで、誰に、どう使うか。それを決めたのは坂本自身だ。人吉の五千両も、長州との接点も、糸子の描いた図のどこにも書かれていなかった。
それは、少し恐ろしいことでもあった。同時に、糸子がひそかに望んでいたことでもある。自分一人が支えなければ動かぬ世なら、自分が倒れたところで、すべてが止まってしまう。だが、坂本のように、自分の足で考え、自分の足で動く者が現れたなら。
たとえ糸子が道半ばで倒れても、時代は誰かの手によって先へ進んでいく。
前世の記憶を抱いてこの世に生まれて以来、ひとりで背負ってきたものが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
冷え込む師走の夜。糸子は行灯の芯をかき立てた。
代理公使との面会は、もうすぐだ。考えるべきことは、まだ山のようにある。
けれど、今夜は心が軽かった。
「葵」
糸子は、下がっていた葵を呼んだ。
「返書を書きます。文机の用意を」
「かしこまりました。何とお書きになりますか」
「まずは、無事を喜ぶ言葉を。それから、褒めます」
糸子は硯に墨をすり、筆をとった。
『五千両の道筋、見事なり』
『扇の使いどころ、任せたるに違わず』
筆を止め、少し考えてから、もう一行を加えた。
『そなた自身の言葉をもって人吉の殿を動かしたること、誠に天晴れなり』
「それだけでございますか」
「それだけで、坂本には十分に伝わりまする」
文を畳みながら、葵がふと尋ねた。
「姫様。坂本殿に……一体、どのような手妻をお使いになったのですか」
糸子は茶碗に伸ばしかけた手を止め、ふっと笑った。
「手妻など、何も。教えられることを教えて、あとは信じて任せただけです」
「信じるだけで、人はそこまで動くものでございましょうか」
「動く者もいれば、動かぬ者もいます。坂本は、動く男だった。それだけのことでござります」
葵はそれ以上、尋ねなかった。ただ、疲れに陰っていた糸子の横顔に、確かな張りが戻っているのを、静かに見届けた。
そこへ、小夜が温かい茶を手に入ってきた。
「姫様。お顔色が、お疲れのように見えましたので」
「ちょうど良いところに来てくれました」
糸子は茶を受け取り、喉を潤した。
「小夜。坂本を覚えていますか」
「西へお発ちになった、あのお方でございますね」
「ええ。その坂本がね、九州の山奥で、焼け落ちた一藩が立ち直る足がかりを作ったそうです」
「まあ……姫様が、そのようにお指図を?」
「いいえ。私は、何ひとつ命じていません」
「それは……妙なお話でございますね」
「妙でも何でもありませんよ。動く覚悟のある者に、動くための道具を渡した。使い方を決めたのは、坂本です」
小夜は、その誇らしげな横顔を見て、くすりと笑った。
「姫様は、坂本殿のことを、随分とお買いになっておられますね」
「素晴らしい働きをなさいました。素直に褒めるまで、でございまする」
糸子は茶碗を文机に置き、書状を丁寧に折りたたんで、文箱の奥へ納めた。
その糸の先で、坂本がいま何を見つめ、どこへ向かっているのか。糸子にも、正確には分からない。
だからこそ、面白いとおもった。そして、今をこうして懸命に生きる人たちが、歴史を作っていったのだと改めて実感した。
文箱の蓋を閉じながら、糸子は小さく呟いた。
「……面白きこと」
それから、文机の端に置いたままの紙を引き寄せた。英国に何を求めるか、書きかけの覚え書きである。
糸子は、筆を執り直した。
第二百十八話 了
糸子さんは欲張り女子なので、なんら遠慮せずに…てんこ盛りに手土産を要求します。
まずは英国側からの回収ですね Ψ( `▽´ )Ψウケケケケーーーーーッ




