第二百十七話「国父の居ぬ間に④―一の座敷」
一
人吉城、一の座敷。
焦げ跡の残る城内にあって、この座敷だけは新しい木の匂いがした。焼け落ちた御本館の代わりに、大火のあと急ぎ建てられたものだと、犬童から聞かされている。畳は替えたばかりで、いぐさの青い匂いが鼻をつく。床の間には、真新しい掛け軸が一幅掛かっていた。
城へ向かう道すがら目にした景色は、まだ黒い焦土のままだった。その炭のすき間を、荷を担いだ人足たちが黙々と行き来している。御門をくぐる間際、龍馬は足を止め、その光景を一度だけ振り返った。これから座敷で口にする言葉のひとつひとつが、あの焼け跡に生きる人々の明日に関わる。背筋に冷たいものが走った。
控えの間で待つあいだ、犬童が声を潜めて言った。
「坂本殿。今日の席は、あの酒席とはまるで違いもす」
「分かっちゅう」
「作法のこつは案じちょりもはん。土佐で仕込まれたお方じゃっで。ただ……」
「ただ?」
「坂本殿は、どこの御家中でもなか。家中には、浪人ば殿の御前に上ぐっこつそのものば、快う思わん者もおりもす」
「末席でかまわんぜよ」
「座る場所の話じゃなかとです。殿の御前で、坂本殿がどこの誰として口ばきかるっか。そこば、皆が見ちょります」
龍馬は黙って頷いた。作法なら身についている。だが、名乗るべき家も、背負うべき藩も、いまの自分にはない。何者でもない男の言葉が、大名の座敷でどこまで通るのか。それは作法の外にある問いだった。
小野寺は、はじめ御前には出られぬと遠慮していた。それを、数字を問われたときに答えられる者が要ると、犬童が末席に加えるよう願い出たのである。小野寺は懐の帳面を膝の上に置いた。この数日で詰め直した数字を、いつでも示せるよう整えてある。高田は表情ひとつ変えずに座していたが、その目だけは控えの間の隅々をなぞっていた。どこに人が控え、どこから廊下が延びているか。旭狼衛の習いが、勝手に体を動かしている。
案内の役人が現れ、通しを告げた。
控えの間から座敷へ続く廊下は、思いのほか長かった。龍馬は足音を殺し、前を行く犬童の背だけを標にして歩いた。
座敷に入ると、上座はまだ空いていた。その左右を家老たちが固め、中に新宮行蔵の姿がある。政務所で龍馬を射抜いた鋭い目は、今日も変わらない。隣には年配の家老がもう一人、岩のように黙して控えていた。
下座の末席には、犬童権左衛門、渋谷練助、神瀬徹之助。その向かいに、龍馬、高田陽三郎、小野寺順平が座を占めた。
龍馬は袴の裾を整え、犬童の屋敷であてがわれた紋付に目を落とした。土佐を出て以来の着古した旅装ではない。この席のために、犬童が無理を押して仕立てさせたものだ。慣れない生地の張りが、かえって体を強張らせる。
酒席とはまるで空気が違った。あそこでは誰かが焼酎にむせれば、それだけで座がほどけ、盃を重ねるごとに本音がこぼれた。ここでは誰も笑わない。障子越しの光の筋の中を、埃がゆっくりと漂っている。一言の過ちが、そのまま藩の行く末に響く。その重さが、座敷を張り詰めさせていた。
二
役人の声が、頼基の登座を告げた。
一同が平伏する。龍馬も指先を揃え、額を畳に近づけた。伏せたまま、衣擦れの音と、上座に人の座る気配を聞く。
「面を上げよ」
声がかかっても、龍馬はすぐには上げなかった。二度目の声を待ち、それから静かに身を起こす。目は上座の膝のあたりに留め、殿の顔を直には仰がない。
新宮の眉が、かすかに動いた。浪人の粗を探していた目が、行き場をなくしたように見えた。
高田は少し離れた位置から、その所作を見ていた。この男は、刃を突きつけられても、異国の商人に凄まれても動じない。長崎の暗がりでも、薩摩の重い空気の中でも平然としていた。そして大名の座敷に出しても、一つの粗も見せない。土佐で仕込まれたというのは、伊達ではなかったらしい。
龍馬は両手をついたまま、口上を述べた。
「土佐浪人、坂本龍馬にございます。本日は御目通りを賜り、恐悦至極に存じ奉ります。藩にも家にも拠らぬ一介の身にて、御前を汚しますこと、お許しくださいませ」
飾りのない口上だった。浪人であることを隠しもせず、詫びもせず、ただそのまま名乗った。
頼基は、わずかに目を細めた。上座から見下ろす視線の中に、品定めとは違う色が混じる。
「浪人と、自分から申すか」
「偽ったところで、すぐに知れまする」
「……作法は心得ちょるごたる。じゃが、飾りの口上は要らん。今日は、話ば聞きたか」
声に笑みはない。だが、咎める気配もなかった。
「恐れ入り奉ります」
下座の犬童が、ひっそりと肩の力を抜くのが気配で分かった。練助は、安堵を顔に出さぬよう苦心している。
三
「まず聞く」
頼基が口を開いた。低く、よく通る声だった。
「なして、そこまで人吉のために動く」
「理由は、至って単純にございます」
龍馬は言い切った。
「困っておられる方がいる。それだけにございます」
「それだけか」
すかさず新宮が差し挟んだ。
「それだけにございます」
「おぬしは土佐ば抜けた身と聞いとる」
新宮の追及は鋭い。
「己の藩すら捨てた者の、よその藩のためにこれほど身ば粉にすっとは、どうにも解せん」
「土佐を捨てたつもりはございません」
龍馬はすぐに返した。
「土佐という枠の中でしか物を見られぬ生き方が、性に合わなんだだけにございます。日ノ本そのものを捨てた覚えは、一度もございません。人吉もまた、日ノ本の内にございます」
「口のうまか言い分たい」
「うまいかどうかは、新宮殿がお決めくだされ。わしにできますのは、口で申し開きを重ねることではのうて、目の前の綻びを一つずつ繕うことだけにございます」
新宮はそれ以上、脱藩の件には触れなかった。先日の政務所で交わした問答を、殿の御前でもう一度なぞって見せただけである。その目には、疑いの火がまだ燻っていた。
龍馬は続けた。
「金を貸して終わり、とは考えておりません。人吉には、自ら立つ力がございます」
「力、とは」
頼基が初めて、わずかに身を乗り出した。
小野寺が帳面を開き、指先で数字をなぞりながら語り始めた。
「球磨焼酎、椎茸、木材、そして刃物。この四品を球磨川で八代へ下ろし、八代からは長崎の会所の網に乗せて運ぶ段取りを立てております」
「確かか」
頼基が問うた。
「道は通したばかりでございます。ですが、品そのものは、すでに外の市で勝負できる質を備えております」
「その質とやらは、誰が請け合う」
「私が、この目で確かめてまいりました」
小野寺の声に揺らぎはない。
「球磨焼酎は、寝かせ方ひとつで値が跳ね上がります。椎茸は、干し方ひとつで江戸や長崎での扱いが変わります。刃物は、鍛冶の腕がそのまま値になります。人吉の品は、いずれも他国に引けを取りません」
「そなたは商人か」
「いいえ。数字を正しく見極めるのが、私の役目にございます」
頼基は小さく頷いた。
「その役目、誰から命じられた」
「坂本殿のお供を仰せつかって以来、金の出入りを預かっております。数字の裏にある事実を確かめるのが、私の仕事です」
「数字しか見ん者ば、そばに置いとるとか」
頼基の目が龍馬に戻った。
「数字だけではございません」
龍馬は笑みを交えずに答えた。
「小野寺の弾く数字は、嘘をつきません。わしがどれほど威勢のよいことを並べても、小野寺の帳面が違うと言えば、それまでにございます。だからこそ、そばに置いております」
頼基の口元が、わずかにほころんだ。
小野寺は一瞬だけ龍馬に目をやり、言葉を継いだ。
「坂本殿も、自ら鍛冶屋町を歩き、球磨川を確かめ、城下の焼け跡に足を運ばれました。人吉が持っているのは、施しを乞う弱さではなく、動けば自分の力で返せる底力でございます」
頼基は黙って聞いていた。犬童がそっと顔を上げる。小野寺の示した数字は、この二月、自分たちが血のにじむ思いで積み上げてきた試算と、寸分違わなかった。
「椎茸は、いま蔵にどれほどある」
頼基が具体的に問うた。
「干したもので、およそ二十俵にございもす」
犬童が即答した。
「二十俵では、ちいと心もとなかな」
「春子の分でございもす。秋子の採り入れはこれからで、山まで焼けたわけじゃございもはんで、障りはございもはん」
頼基は納得したように頷いた。
「川舟は、いま何艘動かせる」
不意を突く問いだった。
「焼け残った分と直した分ば合わせ、十七艘にございもす」
犬童の答えに迷いはない。藩の台帳を丸ごと頭に入れている者の答え方だった。
「十七艘か」
頼基は短く呟いた。
「五千両の使い道ば聞こう」
「は」
犬童が身を正した。
「鍛冶屋町の道具揃えに千両、店々の立て直しと仕入れに二千両、残りは川舟の修繕と、次の産物の仕込みに充てもす」
「返す算段は」
「焼酎、椎茸、木材、刃物ば八代へ流し、長崎の会所へ渡しもす。八代の問屋に渡すより、高う捌けもす」
「絵に描いた餅じゃなかか」
新宮が冷ややかに割り込んだ。
「絵に描いた餅ではございません」
龍馬が返した。
「わしがこの目で見てきたことにございます。腕の立つ鍛冶は生きております。山には良い木がいくらでもある。それを運ぶ川があり、川べりで汗を流す人足たちも健在にございます。空の話ではのうて、目の前にあるものを数え上げて申しております」
新宮は口を噤んだ。
「何年で返せる見込みか」
頼基が小野寺に問うた。
「値の動きにもよりますが、二年、長くとも三年と見ております」
「ずいぶん早かな」
「早く返してこそ、次に元手を求めるときに信を得られます。一度きりのその場しのぎで終わらせるつもりはございません」
「次、とは」
「これで終わりにするのではなく、この先も人吉の品を外の商いの流れに乗せ続ける。今回は、その足がかりと考えております」
頼基は小野寺の顔をじっと見つめた。数字を追うだけの若者の目に、揺らぎがないかを確かめるように。
「もし三年経っても返せんじゃった時は、どぎゃんすっとか」
新宮が畳みかけた。
「その折は、返せぬ理由と有様を、そのまま長崎の会所へ申し伝えます」
小野寺は退かずに答えた。
「隠して逃げるような真似はいたしません。それをした途端、次に何か起きたとき、誰も我々の言葉に耳を貸さなくなります」
「信ば失う、ちゅうこつか」
「左様でございます。金よりも、失った信を取り戻すほうが、よほど時がかかります」
「利子は、いかほどか」
頼基が尋ねた。
「利子はついておりません」
「利子なしとは……妙な話たい」
「妙かどうかは、わしにも分かりかねます」
龍馬が引き取った。
「ただ、長崎で世話になっております岩崎弥太郎という男は、目先の利を取るより、人吉が立ち直り、この先も長崎の会所と太い取引を続けていくことのほうに値打ちがあると踏んだのでございましょう。本人は、これは恩ではのうて商いじゃと申しておりました」
「先々の利ば見越した賭け、ちゅうこつか」
「左様にございます」
頼基は座に身を沈め、しばらく黙り込んだ。目先の利ではなく、遠い先の繋がりを買う。その商人の度量の大きさが、若い藩主の胸に刺さったようだった。
四
「そなたは――」
頼基が、あらためて龍馬へ目を戻した。
「なして、それほど異国の動きに目ば配る」
「世界が動いておりますゆえ」
龍馬はあっさりと答えた。
「いま、メリケンという国が南北に割れ、血で血を洗う戦をしております。わしの聞いた見立てでは、四年は長引くとのことにございます」
「メリケンの内輪揉めの、人吉とどぎゃん関わるとか」
新宮が間髪を入れずに問うた。
「大ありにございます」
龍馬は新宮の正面を見据えた。
「異国の大国は、みな海の向こうへ船を出し、よその国を食い物にして儲ける術を探しております。ところがメリケンはいま、己の腹を裂いて殺し合っている最中。よそ見をする暇など、あの国にはございません」
「それが、この国にどぎゃん響く」
「この隙に、日ノ本がどれほど身支度を整えられるか。それが、この国の先を決めまする」
龍馬は張り詰めた座敷を、ゆっくりと見渡した。
「刀の振り合いだけで決まる戦は、終わりつつあります。金、船、知らせ、そして人。すべてが戦の道具になります。異国の大国は、離れた小国同士をけしかけて戦わせ、双方に鉄砲や弾薬を売りつけて肥え太る。そういうやり口が、いずれこの日ノ本にも及びかねません」
「代理の戦、じゃな」
頼基が低い声で言った。
龍馬は思わず目を見張った。
「……その言葉を、ご存じで」
「練助の書き付けにあった。そなたが薩摩の酒席で語った話として」
頼基は短く答えたきり、多くを語らなかった。下座で練助が身を固くするのが、龍馬の目の端に映った。城の奥にいながら、家臣の持ち帰った酒席の話ひとつまで拾い上げている。この若い藩主の耳の良さが、それで知れた。
「殿は、その代理の戦を防ぐ手立てを、何とお考えで」
龍馬はあえて問いを返した。
頼基はしばらく黙り、座敷の奥を見つめていた。
「防ぎきるっもんかどうかは分からん。じゃが、素手で待つよりは、備えばしとく方がよか」
「仰せの通りにございます」
龍馬は深く頷いた。
「なんやら、脅しのごつも聞こゆるな」
新宮が苦々しげに口を挟んだ。
「脅しではございません」
龍馬はすぐに首を振った。
「わしは殿を脅して、何かを取ろうとしているわけではございません。見えているものを、見えているままに申し上げております」
「見せるこつと脅すこつの境目は、どこにあっとか」
「そこに見返りを求めるかどうかにございます」
龍馬はまっすぐに答えた。
「わしがこの話と引き換えに、人吉から何かを得ようとしておれば、脅しになりましょう。ですが、わしは何も求めておりません」
新宮の唇が引き結ばれ、問いが途切れた。
「殿は、海をご覧になったことがおありで」
「八代の海なら、何度か見た」
「人吉は山に囲まれた土地にございます。けれど、この球磨川が、人吉と海をしかと繋いでおります。川が一本ある限り、外の世と切れてはおりません」
「それが、どぎゃんした」
「山奥の小藩ゆえ安泰、という時代は、もう終わりました。道一本、川一本でも外と通じている以上、そこから福も災いも同じように流れ込んでまいります。人吉もまた、蚊帳の外ではいられません」
頼基は答えず、龍馬の言葉を噛みしめていた。
「その代理の戦とやらは、もう日ノ本で始まっとっとか」
「兆しは、すでに現れております」
龍馬は言った。
「幕府に肩入れする国もあれば、雄藩を抱き込もうとする国もある。表向きは静かにしておりますが、鉄砲や軍艦の取引となれば、異国の商人の顔つきが変わります。金の匂いがするところへ、あの連中は必ず群がってまいります」
「唐の二の舞になる、ちゅうこつか」
頼基の口から出た言葉に、龍馬はまた息を呑んだ。
「殿……唐の始末まで、ご存じで」
「清国が阿片の商いば巡って、異国に屈したこつくらいは知っとる。港ば奪われ、莫大な償い金ば払わされ、自分の国の中に、異国の法の通る場所ば作られた」
「左様にございます」
龍馬の顔から笑みが消えた。
「あれほどの大国が、海の向こうから来た軍船の一隊に屈したのでございます。矢面に立つ者が弱ければ、その後ろにいる者まで、まとめて踏み潰されます」
「人吉のごたる小藩も、その波に呑まるる、ちゅうこつか」
「左様にございます。海に面していようがいまいが、いつ矢面に引きずり出されるかは、誰にも読めぬ世になりました」
「では、我らに何のでくっとか」
「大藩の真似をなさる要はございません」
龍馬は言い切った。
「大藩には大藩の役割がございます。人吉には、人吉にしかできぬ戦い方がある。球磨焼酎、椎茸、木材、刃物。この土地が生む品は、他国には真似できません。それを外の市で通る値打ちに変えておくこと。それが、いざという時の備えになります」
「大藩の背ば追うな、と」
「左様にございます。薩摩の真似をしたところで、人吉が薩摩になれるわけではございません。けれど、人吉ならではの強みを磨けば、その道では人吉が日ノ本一になれます」
頼基の目に、かすかな光が宿った。
「一番、か」
「石高では薩摩にも長州にも遠く及びません。ですが、焼酎の味、椎茸の質、刃物の切れ味。一つ一つの商いで一番を取れば、石高では測れぬ力を持つことになります」
新宮が、ここで初めて小さく息を吐いた。反論の息ではなく、考えに沈む息だった。
「蔵に金ば溜め込むだけじゃ、備えにならん、ちゅうこつか」
「金だけでは足りません。品を生む腕、運ぶ道、それを動かす人。この三つが噛み合って、初めて備えになります」
「そぎゃん動きば、御公儀に断りもなく進むれば、どぎゃんなる」
新宮が厳しく問うた。
「御公儀の心証ば損ねはせんか」
「睨まれることは、当然ございましょう」
龍馬は隠さず答えた。
「ですが、お伺いを立ててから動いていては、世の動きに置いていかれます。人吉が軍艦を買い、兵を挙げようというのではございません。自分の国の品を、これまでより遠くへ運ぶ。ただそれだけのことにございます」
「それだけで済めばよかがな」
「やってみねば分かりません。ですが、何もせぬまま、この先の数年を黙って見送るおつもりでございますか」
新宮は黙し、目を落とした。
「日ノ本の国々がそろうて、そぎゃん力ば備えれば、異国と対等に渡り合える、と」
頼基の問いに、龍馬は力強く頷いた。
「日ノ本は、四方を海に囲まれた国でございます。異国が攻め寄せる道も、この国の品が出ていく道も、すべて海の上にございます。海の向こうの力と正面からぶつかるより、海を介して商いの網を張り巡らせるほうが、はるかに早く国を富ませることができます。人吉もまた、球磨川という網の端を握っておられる」
「網の端……」
「いまは細い端に過ぎません。けれど、端が欠ければ、網そのものが成り立ちません」
「その網ば束ぬっとは、誰か」
「それぞれの土地で、それぞれの者が束ねております」
龍馬は臆さずに答えた。
「長崎には長崎の、大坂には大坂の束ね手がおります。人吉の端は、人吉の者が束ねればよい。わしはただ、端と端を結ぶ紐の役に過ぎません」
頼基は、その言葉を噛みしめるように長く黙っていた。
「そなたの話は、大きすぎて掴みどころのなか」
「掴みどころがなくて当然にございます」
龍馬は苦笑を漏らした。
「わし自身、すべてを見通しているわけではございません。けれど、目の前にある五千両と、人吉の品という事実だけは、確かに掴めます。大きな構えというものは、掴める足場から一つずつ固めていくほかございません」
「なして、そこまで言い切れる」
「言い切れるほどのものではございません」
龍馬は首を振った。
「わしには学問もなければ、小野寺のように数字を弾く才もございません。ただ、泥を跳ね上げて方々を歩き、いろいろな者の本音を聞いてきただけにございます。長崎の商人、薩摩の郷士、人吉の職人。皆それぞれの持ち場で、それぞれの理屈に従って生きております。その理屈を繋ぎ合わせると、大きな時の流れが見えてまいります。わしが申し上げているのは、己の考えではなく、足で拾い集めた事実を繋いだものに過ぎません」
「歩き回るだけで、そこまで見ゆっとか」
「見えます。これまで誰も、それを繋ごうとしなかっただけにございます」
「もし……そなたの見立ての外れたら、どぎゃんする」
頼基が静かに問うた。
「四年ではなく、もっと早う、あるいは遅う、異国の牙ば剥いたら」
「その時は、その時の有様に合わせて、舵を切り直すまでにございます」
龍馬は事もなげに言った。
「見立てが外れたからといって、備えが無駄になるわけではございません。備えとは、外れることまで織り込んで打つものにございます」
新宮は腕を組んだまま、返す言葉を見つけられずにいた。
「四年は、長うはなか」
頼基がぽつりと言った。
「山に木ば植えても、まともに育ちもせん年月たい」
「左様にございます」
龍馬は頷いた。
「だからこそ、悠長に構えている暇はございません。木を育てる時はなくとも、いま生えている木をどう伐り出し、どう使うかは、いまこの時に決められます」
座敷に濃い静けさが降り積もった。誰もが息を詰め、頼基の次の言葉を待っていた。
五
「もう一つ、申し上げねばならぬことがございます」
龍馬はあえて間を置き、声を低めた。
「朝廷もまた、動き出しております」
座敷の空気が張り裂けた。家老たちの肩が一斉に跳ね、新宮の目が鋭く光った。
「表立った動きではございません。けれど、水の下では、確かに地鳴りが始まっております」
龍馬は続けた。
「長州もまた、すでにその流れに身を投じております。長州では高杉晋作という男が、西洋の銃と調練を入れた新しい隊を組み、旭日隊と名付けて鍛えております」
息を呑む音が、座敷のそこかしこから漏れた。
頼基は黙ったまま、手にしていた扇を膝の上で閉じた。ぱちりという小さな音が、静まり返った座敷にやけに大きく響いた。
「……朝廷、と申したな」
頼基が確かめるように言った。
「はい」
「軽々しゅう口にしてよか名じゃなか」
「軽々しく申し上げているつもりは、毛頭ございません」
「なら、なしてそれば、わざわざこの場で明かす」
「殿に隠し立てをしたまま、話を進めたくなかったからにございます」
龍馬は淀みなく言い切った。
「五千両の話だけを丸く収め、裏の動きを伏せておくほうが、はるかに容易でございました。けれど、後になって知れ、騙されたと思われることほど、信を損なうものはございません」
「証はあっとか」
新宮が身を乗り出した。
「浪人の申すこつば、そのまま真に受くるわけにはいかん」
座敷中の目が、刃のように龍馬に突き刺さる。
龍馬の手が、ふと懐に触れた。指先に、扇の骨の感触が伝わる。
(これを出せば、一息で片がつく)
これを見せれば、この場の疑いなど、たちまち消えるだろう。
だが、まだ早い。いまこの札を切れば、ここまで積み上げてきた話が、すべて近衛の名の陰に隠れてしまう。
龍馬は懐から手を引いた。
「確かな証と申せるものではございませんが、これをご覧くださいませ」
龍馬が取り出したのは、別のもの――長崎の会所が切った、五千両の証文の写しだった。それを、頼基の前へ静かに滑らせた。
「これは……」
新宮が目を凝らした。
「これが朝廷の動きそのものの証になるとは申しません」
龍馬は潔く認めた。
「ですが、これほどの額が、一介の浪人の人柄だけで動く道理がございましょうか。長崎の会所を通り、こうして山あいの人吉にまで届いた。世の底が揺らぎ始めている、何よりのしるしにございます」
「金の動いたこつと、朝廷の御意向は、別の話じゃなかか」
年配の家老が、低く詰めた。
「仰せの通りにございます」
龍馬は素直に頷いた。
「ですが、お考えくださいませ。これまで人吉に、これほど素早く、遠方から大きな銭が届いたことがございましたか」
誰ひとり答えられなかった。
「なかったはずにございます。それが、わずか二月足らずのうちに形になった。何か大きなものが動いております。その正体をすべてここで明かすことはできませんが、大きな渦が巻き起こっていることだけは、その証文が物語っております」
頼基は証文から目を離し、龍馬を見据えた。
「人吉のごたる小藩には、世の動乱なんど遠か世界の絵空事じゃと思うとった」
「その絵空事が、すぐ目と鼻の先まで迫っております」
「波の来た時、備えのある藩と、なか藩と――生き残るとは、どっちか」
頼基の問いは、もう誰に向けたものでもなかった。答えは、はじめから決まっていた。
下座の犬童、練助、神瀬の三人は、身じろぎもせずに成り行きを見守っていた。口を開くべき時を心得ている佇まいだった。
新宮は証文に顔を近づけ、筆跡、印、紙の質を、穴があくほど改めていた。
「……写しじゃが、偽りでもなかごたるな」
新宮が犬童に問うた。
「正本は八代の会所で銭に換えもした。受け取りの書き付けも、私の手元にございもす」
犬童の短い答えには、揺るぎない確かさがこもっていた。
六
坂本龍馬という男ひとりの弁では、この老練な家老たちを崩しきることはできない。それを誰よりも分かっていたのは、下座の三人だった。
「殿」
犬童が、重々しく口を開いた。
「坂本殿の申されたこつ、私もこの足と目で確かめてまいりもした」
「五千両の仕組みも」
練助が言葉を重ねた。
「紛れもなか事実にございもす」
「人吉の生まれ変わる、またとなか機でございもす」
神瀬が意を決したように言い、一息ついて頼基を見た。
「あの大火のあと、真っ先に糧米ば届けてくれたとは薩摩でございもした。職人衆まで寄こしてくれもした。その恩ば、受けて流すだけの人吉ではありとうございもはん。坂本殿の示された道には、恩ば力で返すための手立てのございもす」
三人は、それ以上の飾りを並べなかった。己の目で確かめた事実だけを、重い言葉として座敷に置いた。
「犬童。おぬしは坂本殿と、何度会うた」
頼基が尋ねた。
「数えちょりもはんが、この二月ほどのあいだに、幾度となく」
「その間、この男ば疑わんじゃったか」
「はじめは、心底疑いもした」
犬童は隠さず答えた。
「じゃが、疑いの晴れんうちに、五千両の実際に動いたとでございもす。振り返れば、疑うたればこそ、裏ば取り、確かめることのできもした」
「練助は、どぎゃんか」
「私は……」
練助は一瞬、言葉を探した。
「私は若く、人ば見る目なんど持っちょりもはん。じゃが、坂本殿が人吉の焼け跡に立って、あの焦土ば真剣な目で見ておられた姿だけは、本物じゃと思うちょりもす」
「神瀬」
「拙者は、坂本殿が恩の返し方ば、人吉の立場に立って一緒に考えてくださったこつこそ、何よりの証じゃと思うちょりもす」
頼基は、三人の顔を順に見た。
犬童は、藩の台所を背負って方々へ頭を下げ続けてきた男。練助は、その犬童に付き従って薩摩の役所へ通い詰めた若者。神瀬は、大火の日に燃える蔵から米俵を担ぎ出した男。この三人が、そろって同じ一点を指している。若い藩主にとってそれは、見知らぬ浪人の弁舌とは比べものにならない重みを持っていた。
頼基は三人の目を受け止めたのち、犬童に向き直った。
「犬童。おぬしが練助ば連れ、幾度も薩摩へ足ば運んだとは、すべてこの人吉ば思うてのこつじゃったな」
「身に余るお言葉……左様にございもす」
「その忠節、忘れん」
頼基の短い一言に、犬童は深く平伏した。
「三人とも、坂本殿の舌先に丸め込まれたわけじゃあるまいな」
新宮が皮肉な笑みを浮かべ、釘を刺した。
犬童は顔を上げ、静かに、だがはっきりと言い返した。
「丸め込まれたわけではございもはん。私も初めは疑うてかかりもした。疑い抜いた上で、なお残った動かん事実だけを、殿に申し上げちょりもす」
新宮は口を閉ざし、それ以上は追わなかった。
座敷に、時が止まったような静けさが落ちた。
頼基は膝の上の手を握りしめた。いまここで下す決断が、人吉藩の、そして六百五十年の余を重ねてきた相良家の行く末を決める。その重さに耐える若い藩主の横顔を、龍馬は息を殺して見つめていた。
七
頼基は長く黙っていた。
座敷の空気が、一段と冷えていく。やがて、その重い口が開いた。
「一つ、聞きたか」
頼基の目が、まっすぐに龍馬を射抜いた。
「そなたの後ろには、誰のおる」
静けさが、座敷を支配した。
龍馬は、すぐには答えなかった。
この問いを突きつけられたのは、初めてではない。長崎で大浦慶の前に座った折も、同じ目で見据えられた。銭の多寡でも、身分の高下でもない。この男がいったい誰の威を借り、誰の名を背負って動いているのか。それを容赦なく見極めようとする目だった。
あの時は、懐の扇を見せて決着をつけた。いまこの座敷でも、同じ手を使えば一瞬で済む。
だが、龍馬の指は懐へ伸びなかった。
「御前」
龍馬は一呼吸置き、言葉を置いた。
「恐れながら、人払いをお願いできましょうか」
頼基は身じろぎもせず、龍馬の顔を見つめ続けた。その目の奥で何かが揺れ、やがて目だけで、家老たちに下がるよう命じた。
八
座敷から足音が引いていく。
犬童も、練助も、神瀬も、小野寺も、そして新宮までもが、一礼して静かに下がった。高田も腰を浮かせかけたが、龍馬が目で留めた。
「この者は、わしの供にございます。見聞きしたことを外へ漏らすことは、決してございません」
頼基は高田を一瞥し、小さく頷いた。
残ったのは、頼基、龍馬、そして高田の三人である。
障子が閉ざされると、静けさの質が変わった。遠くで響く普請の槌音だけが、かすかに耳に届く。
「人払いまでさせて、何の話か」
頼基の声には、隠しきれない警戒が混じっていた。浪人が藩主に人払いを求めるなど、この城ではまずあり得ないことだった。
「殿のお問いに、お答えいたします」
龍馬は頼基を見据えたまま言った。
「ただ、これからお目にかけるものは、この座敷の外へは決して出せません。それだけは、先にお約束いただきとう存じます」
頼基は、龍馬の目から意図を読み取ろうとするかのように、じっと見据えた。
「――約束しよう」
その一言を聞くと、龍馬の手が懐へ入った。
脇に控える高田は、その動きを目で追いながら息を詰めた。いま取り出されようとしているものが、どれほどの重みを持つか、高田は知っている。これが示されれば、人吉藩と近衛家との繋がりが、藩主ひとりの胸に刻まれることになる。もう後戻りはできない。
高田は口を挟まなかった。語るべきは龍馬であり、自分の役目は、この座敷のすべてを見届けることにある。何が示され、頼基がそれをどう受け止めたか。それを寸分違わず覚え、報せる。それが旭狼衛としての務めだった。
「これを」
龍馬が取り出して開いたのは、一本の扇だった。
純白の地に、金泥で描かれた大輪の牡丹。近衛家の紋である。
龍馬が扇を返すと、裏には流れるような墨跡で、こう記されていた。
『この者、近衛家の関係者なり。最大限の支援を頼む。近衛忠房』
頼基の目が、扇に留まった。
だが、ひれ伏すような素振りは見せない。身を硬くしたまま、文字の一画一画を確かめている。手を伸ばして取るでもなく、龍馬の手元にある文面を、目だけでなぞっていた。
「……」
長い沈黙ののち、頼基は短く息を吐いた。
「忠房公の、ご自筆か」
「筆は、京の能書家の手と聞いております。ただ、近衛の家から出たものに相違ございません」
龍馬は淡々と答えた。頼基はもう一度扇に目を落とし、低く問うた。
「なして、これば最初に出さんじゃった」
「最初に出しておれば、話は早かったかもしれません」
龍馬は取り繕わずに言った。
「ですが、それでは殿がお信じになったのは近衛の名であって、坂本龍馬という人間ではございません」
「わしがそなたば試す前に、そなたがわしば試した、ちゅうこつか」
「試すなどと」
龍馬は首を振った。
「わし自身、分からなかったのでございます。この人吉で、わしの言葉そのものが、どこまで通じるのかを」
頼基は、龍馬の顔をまじまじと見つめた。
「近衛家との関わり、藩内の誰に、どこまで明かす気か」
「殿のご裁量にお任せいたします。ただ、広く知れれば知れるほど、この話は危うくなります」
「危うか、とは」
「近衛の名が表に出れば、これは人吉一藩の話では収まりません。御公儀に睨まれる格好の口実になり、他藩の野心に付け込まれる隙にもなります。知る者は少なければ少ないほど、人吉の安泰に繋がりましょう」
頼基は深く頷いた。
「新宮にも、犬童にも伏せよ、ちゅうこつじゃな」
「左様にございます」
頼基は再び黙し、やがて念を押した。
「そなたば、信じてよかとじゃな」
「信じるか否かは、殿のご決断にございます」
龍馬は、まっすぐに頼基を見返した。
「ですが、この座敷でわしが申し上げたことに、一つの偽りもございません」
頼基の鋭い目が龍馬の目と交わり、やがてわずかに緩んだ。
「忠房公といえば、五摂家筆頭の御当主。この文言ば下されたとは、まこと忠房公ご自身か」
龍馬はわずかに間を置いて答えた。
「それは……わしの口からは申し上げられません」
「申せん、ちゅうこつは、後ろに別の誰かのおる、ちゅうこつか」
「殿のご推察にお任せいたします」
龍馬はそれ以上語らず、頼基も深くは追わなかった。何かを察したように、頷いただけだった。
「近衛家は、この人吉に何ば求めとる」
「そのすべてを、わしも存じているわけではございません」
龍馬は率直に言った。
「ですが、一つだけ確かなことがございます。近衛家が人吉に銭を求めることも、兵を出せと命じることもございません」
「なら、何のための支えか」
「世が大きくひっくり返るその時に、味方でいてくれる者を、一人でも多く持っておきたい。そうお考えなのでございましょう」
「見返りは、いますぐには求めん、と」
「求めません。ただ――」
龍馬は言葉を切った。
「いつか本当に世が動いた時、人吉がどちらの側に立つか。それだけは、お忘れなきようお願い申し上げます」
頼基の唇が、かすかに上がった。
「ずいぶんと、息の長か見返りたい」
「遠い先の話だからこそ、いまここで値切る要もございません」
「……そなたは、商人には向いとらんな」
「よく言われます」
龍馬は苦笑を浮かべた。
「ですが、商人に向いておらずとも、こういう厄介な話を運ぶ役目には、向いているのかもしれません」
「その役目、まだ続くっとか」
「続けると申しますか、わしには、ほかにできることがあまりございませんので」
頼基はしばらく龍馬の顔を見ていたが、やがて短く言った。
「もうよか。しまえ」
龍馬は扇を閉じ、懐へ納めた。
「……朝廷の動いとる、ちゅうとは」
頼基が低く呟いた。
「まことじゃったか」
「はい」
「……そうか」
その一言には、驚きよりも、重い覚悟が滲んでいた。大火という災いを乗り越えようとしている若い藩主が、いま、世の荒波という途方もない荷をもう一つ、その肩に引き受けたのだと、龍馬にはよく分かった。
九
「人吉にも新しか軍の要るとなら」
頼基が言った。
「まずは、この目で確かめんばならん」
「長州を、でございますか」
「そうたい」
頼基は強く頷いた。
「そなたの話の誠か否か、噂や書状だけじゃ足りん。わし自身の目で確かめたか」
「承知いたしました」
龍馬は頷いた。
「長州には、わしから話を通しておきます」
「返事は、いつ届く」
「文を走らせれば、さほど日はかかりません。長州には、話の通じる者がおります」
「誰ば遣わす」
「わしがまいります」
龍馬は即答した。
「まずわしが先に長州へ渡り、向こうの有様を見極め、段取りをつけてまいります。殿ご自身が動かれるのは、その後で十分でございましょう」
「連れの二人は」
「高田と小野寺は伴います。道中の絵図と、向こうの数字を残しておかねばなりませんので。人吉から人を割いていただく要はございません」
「承知した」
頼基は短く応じた。
「戻ったら、まず犬童に報せよ。細かか手配は、あの者に任する」
「かしこまりました」
「……そなたは、これほどの橋渡しばして、いったい何ば得っとか」
頼基が不意に問うた。
「何も得ません」
龍馬はあっさりと言った。
「金にもならず、地位にもなりません。ですが、こういう泥くさい仕事は、誰かが買って出なければ一歩も進みません。わしに向いている仕事だから、わしがやる。それだけのことにございます」
「まったく、割に合わん話たい」
「割に合うかどうかを勘定する男なら、はなからこんな真似はいたしません」
頼基はそれを聞いて、この日はじめて、人らしい笑みを口元に浮かべた。それ以上、細かなことは問わなかった。
「ただし」
頼基は言葉を重ねた。
「最後に決むっとは人吉たい。誰の操り人形にもならん」
龍馬は少し間を置いてから、笑みを浮かべた。
「それでこそ、頼もしゅうございます」
頼基は何も言わなかったが、その顔には、家老たちの前で見せていた硬さはなく、若い武士らしい張りが宿っていた。
頼基が手を打つと、控えの間に下がっていた家老たちが座敷へ戻ってきた。新宮も犬童も、人払いのあいだに何が語られたかを問いはしなかった。ただ、戻った藩主の顔に揺るぎない落ち着きが宿っているのを見て、黙って深く頭を下げた。
「本日は、これまでとする」
頼基が告げ、静かに立ち上がった。
十
謁見が終わり、龍馬たちは城の門をくぐった。
門を出た途端、犬童が肩の力を抜き、深く息を吐いた。
「終わりもしたか……」
「終わったのう」
龍馬も大きく息を吐き、肩をすくめた。練助と神瀬はまだ緊張が抜けきらない様子で、顔を見合わせている。
「殿の、あれほどじっくり、よその浪人の話ばお聞きになるとは、夢にも思いもはんじゃった」
練助が感じ入ったように言った。
「いつもは、滅多にお口ば開かれんお方じゃっでな」
神瀬も頷いた。
「新宮様も、しまいまで黙っておられた。あれもまた、珍しかこつじゃ」
「あん人の黙っとる時こそ、頭ん中で算盤ば弾いとる時たい」
犬童が苦笑まじりに言うと、練助と神瀬も、ようやく顔をほころばせた。
歩きながら、高田は先ほどまでの座敷を反芻していた。
驚くべきは、あの扇そのものではない。あの札は、はじめから龍馬の懐にあった。出そうと思えば、新宮に脱藩を詰められた時でも、朝廷の証を求められた時でも、いつでも切ることができた。
だが、龍馬は最後まで出さなかった。
五千両という確かな元手を示し、世界の動きを語り、人吉の生き残る道を説き、犬童たちに見たままを語らせた。そうして外堀をすべて埋め、頼基自身が「後ろに誰がいるのか」と腹を据えて問うてきたその一瞬にだけ、札を切った。
高田の脳裏に、長崎でのことが蘇った。グラバーの屋敷から仲間を逃がす折、高田自身が奉行所の役人に、一世一代のはったりをかけたことがある。あのとき龍馬は、腹を抱えて笑っていた。だが、はったりは手持ちの札が弱いからこそ打つものだ。今日の龍馬は違った。いちばん強い札を持ちながら、それを伏せたまま、弱い札だけで勝負を運んでみせた。
強い札を、いつ、どう切るか。その勘だけは、誰かに教わって身につくものではない。
この坂本龍馬という男は、ただの気さくな浪人ではない。高田は背筋が寒くなるのを覚えた。姫様がこの男を「化ける」と評していたわけが、今日、はっきりと分かった気がした。
城下へ戻る道すがら、犬童が龍馬の隣に並んだ。
「坂本殿。人払いのあいだ、どぎゃんお話のあったとか……お聞きしてもよかでしょうか」
「すまんが、そればっかりは言えんがじゃ」
龍馬が申し訳なさそうに首を振ると、犬童はそれ以上追わず、黙って頷いた。長年、藩の実務を担ってきた者だからこそ、踏み込んではならない一線が肌で分かるのだろう。高田はその背を見ながら、この犬童という男もまた、十分に信の置ける人物だと思った。
後ろを歩く練助と神瀬は、復興の現場を眺めながら熱っぽく語り合っていた。焼けた蔵の跡を通りかかると、神瀬がふと足を止めた。
「あの蔵も、早う建て直さんばならんな」
「今度は、椎茸ばこれまでの倍は蓄えらるる、頑丈な蔵にしたかですな」
練助が笑って答えた。
高田はそのやり取りを黙って聞いていた。この二人にとって、今日の謁見は遠い世界の政ではなく、目の前の崩れた蔵を一つ建て直すという日々の暮らしと地続きになっている。龍馬が人吉に持ち込んだ種は、もうこの男たちの言葉の中で根を張り始めている。高田にはそう見えた。
十一
その夜、龍馬は宿を出て、球磨川の河原に立っていた。少し遅れて、高田と小野寺も後を追ってきた。梅雨の雲が切れ、月がのぞいている。
闇の中、重い川音が夜気を満たしていた。
「……疲れたぜよ」
龍馬が川面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「坂本殿でも、疲れることがあるのですか」
「当たり前じゃ」
龍馬はへらりと笑った。
「一国の殿様を相手に、腹の探り合いをしたがじゃき」
それから、少し声を落として続けた。
「けんどな……少し、分かった気がするぜよ」
「何がです」
「人を動かすには、力やはったりだけじゃ足らん。最後は信用が要る」
龍馬の目が、暗がりを流れる水を追う。
「その信用ちゅうやつは、一朝一夕にはできん。泥をすするようにして、少しずつ積み上げるもんじゃ」
高田は何も言わずに耳を傾けた。
龍馬は足元の小石を拾い上げ、手のひらで転がした。
「頼基公は、城も城下も焼け野原になっても、逃げも隠れもせんと踏みとどまったと聞いた。神瀬がそう言うたとき、わしは、この殿様なら話が通じるかもしれんと思うたがじゃ」
「それだけで、そこまで賭けられたのですか」
「見立てというより、半分は賭けじゃな」
龍馬はからからと笑った。
「けんど、賭けにも当てずっぽうと、そうでないもんがある。神瀬や練助が身をもって知っちゅう殿様の話じゃ。あの二人の言葉には、重みがあった」
高田は深く頷いた。
「人を、人づてに信じる、ということですね」
「そうじゃ。わし一人の目で、初めて会うた殿様の腹の底まで見抜けるはずがない。けんど、その殿様を心から慕う者がそろって同じことを言うなら、話は別ぜよ」
龍馬は岩の上に腰を下ろし、手の中の小石を川へ投げた。小さな水音が響き、波紋はすぐに闇へ呑まれた。
「新宮殿のことは、どうご覧になりましたか」
高田が問うた。
「ふふ……しまいまで、疑いの目は消さんかったのう」
龍馬は悪戯っぽく笑った。
「けんど、それでええ。あの人が疑い続けてくれるき、わしも言葉を惜しまんと、本音をぶつけられる」
高田が黙っていると、龍馬は目を落とした。
「姫様に、今日のことをどう報せたもんか……」
「書きあぐねておられますか」
「簡単に書くなら、いくらでも書ける。謁見が済み、頼基公が長州を見に行くと決められた。それだけなら一行で済む。けんど、扇を出したいきさつは……」
「伏せられますか」
「伏せはせん」
龍馬はきっぱりと言った。
「姫様が慎重に扱えと言われた切り札じゃ。使うた以上、隠すわけにはいかん。ただ、どう書いたら、あの座敷の熱と危うさがそのまま伝わるか……もうちっと考えんといかん」
「坂本殿らしい、誠実な悩みですね」
高田が言うと、龍馬は頭を掻いて苦笑した。
「誠実にしちょかんと、あとでもっと恐ろしいお叱りを受けるきに」
小野寺が懐から帳面を取り出し、月明かりを頼りに新しい一行を書き加えた。
――薩摩、長崎、人吉、そして長州。
引かれた線はまだ細く頼りないが、途切れることなく先へと伸びている。
龍馬はその帳面を横目で見やった。あの酒席で神瀬が漏らした、恩を受けるばかりの土地ではなく、いつか恩を返せる土地になりたいという言葉が、胸の奥で温かく燻り続けている。その素朴な願いと、帳面の上に伸びていく一本の線とが、龍馬の中でひとつに重なった。
球磨川の水は、闇を裂くように流れ続けている。
山あいから八代へ、八代から海へ。大火に打ちのめされたこの城下も、やがてこの流れに乗って、まだ見ぬ外の世へと繋がっていくのだろう。
龍馬はしばらく、ただ川音に耳を澄ませていた。
「……明日には、犬童殿に長州への飛脚を頼まんといかんのう」
龍馬がぽつりと言った。
「もう、次の手をお考えですか」
「考えちょらんと、体が落ち着かんがじゃ」
龍馬はよっこらしょと立ち上がり、袴の埃を払った。
「疲れたと言うた舌の根も乾かんうちに、もう次を考えちゅう。呆れた性分ぜよ」
高田も立ち上がった。
「その性分があったからこそ、坂本殿はここまで来られたのでしょう」
「……かもしれんのう」
龍馬は川に背を向け、静まり返った宿の方へ、ゆっくりと歩き出した。
第二百十七話 了
【人物解説】炎の中で藩を背負った若き藩主――相良頼基、人吉藩最後の藩主
幕末という時代を調べていると、どうしても薩摩や長州のような大藩、あるいは西郷隆盛や坂本龍馬のような時代を動かした人物に目が向きます。
しかし、激動の時代を生きたのは、そうした歴史の表舞台に立った人物だけではありません。
肥後国人吉藩主・相良頼基。
彼もまた、時代の大きな波を正面から受け止めた一人でした。
頼基が人吉藩主となったのは、まだ若い頃です。
もともと彼は藩主になる予定の人物ではありませんでした。14代藩主・相良長福が若くして亡くなったことで、後継者問題の中から養子として迎えられ、安政2年(一八五五)に家督を継ぐことになります。
つまり頼基は、十分な準備をして藩主になったわけではない。
突然、鎌倉時代から続く相良家の歴史と、人吉藩という小さな藩の未来を背負うことになった人物でした。
そして、その重責を背負った直後、彼を待ち受けていたのが、人吉藩史に残る大災害でした。
文久2年(一八六二)2月7日。
人吉の城下で「寅助火事」が発生します。
鍛冶屋町の鉄砲鍛冶・恒松寅助の家から出た火は、乾燥した空気と強風にあおられて急速に燃え広がりました。
火は城下を焼き、さらに球磨川を越えて人吉城内にまで及びます。
町が失われる。
藩の施設が焼ける。
武器や備蓄も損害を受ける。
20歳そこそこの若い藩主が、いきなり藩存亡に関わる危機へ向き合わなければならなくなったのです。
幸いにも、この大火では多くの人命が失われることはありませんでした。
しかし、人吉藩が失ったものはあまりにも大きかった。
そして、復興には莫大な費用が必要でした。
城下を立て直す。
藩の機能を回復する。
幕末の緊張が高まる中で、軍備も整え直さなければならない。
小藩である人吉藩にとって、それは簡単な仕事ではありません。
頼基は周囲へ支援を求め、その中で手を差し伸べたのが隣国の薩摩藩でした。
薩摩からの資金や人材面での支援は、人吉藩の復興に大きな意味を持ちました。
この時に結ばれた薩摩との関係は、単なる金銭の貸し借りではありません。
困難な時に助けてもらったという記憶。
その時に生まれた人と人とのつながり。
幕末の政治は、理念や大義名分だけで動いていたわけではありません。こうした積み重ねもまた、後の歴史を動かしていきました。
しかし、寅助火事からの復興を終えれば、それで安心できる時代ではありませんでした。
幕末は、軍事の常識そのものが変わっていく時代です。
西洋式の武器や軍制を取り入れる藩が増える中、人吉藩でも改革をめぐる対立が起こります。
昔からの武士の戦い方を守るのか。
それとも、新しい時代に合わせて変わるのか。
この問題は、単なる軍事技術の話ではありませんでした。
「人吉藩は、この先どう生き残るのか」
その答えを巡る争いだったのです。
やがて、この対立は慶応元年(一八六五)の丑歳騒動へと発展します。
改革を進めようとする者。
伝統を守ろうとする者。
どちらにも、それぞれの正しさがありました。
その中で藩主である頼基に求められたのは、簡単な判断ではありません。
何を変えるべきか。
何を残すべきか。
そして、どうすれば藩を次の時代へ渡せるのか。
幕末の藩主とは、決して華やかな立場ではありませんでした。
大きな戦で名を上げることもできない。
中央政治で目立つこともない。
しかし、一つ判断を誤れば、何百年も続いた家そのものが失われる。
頼基が背負っていたのは、そういう責任でした。
相良氏は、鎌倉時代から幕末まで約七百年にわたり、同じ球磨の地を治め続けた非常に珍しい大名家です。
その長い歴史の最後を担ったのが、相良頼基でした。
明治維新後、人吉藩は版籍奉還によって人吉藩知事となり、頼基も新しい時代の制度の中で役割を果たします。
しかし、明治8年(一八七五)には家督を甥の相良頼紹へ譲り、隠居。その後、明治19年(一八八六)に45歳で亡くなりました。
相良頼基は、幕末史の中で最も有名な人物ではありません。
大きな軍勢を率いたわけでもない。
新しい国家構想を掲げたわけでもない。
けれど、彼が果たした役割は決して小さくありませんでした。
若くして藩主となる。
大火によって城下を失う。
復興のために奔走する。
藩内の対立と向き合う。
そして、七百年続いた相良家を明治という新しい時代へ渡す。
それは、戦場で戦う英雄とは別の、藩主としての戦いでした。
人吉の町を焼いた寅助火事は、頼基にとって最大の試練でした。
しかし、その炎の中で藩を立て直し、相良家の歴史を次の時代へつないだ。
そこにこそ、相良頼基という人物の本当の価値があったのではないでしょうか。




