第二百十六話「国父の居ぬ間に③―球磨の酒」
一
球磨川の流れに沿い、街道を南へ下る。
薩摩の城下を発ち、険しい山道を幾重にも越えた果てに、不意に視界が開けた。
眼下に広がっていたのは、思っていたよりずっと大きな盆地だった。四方を険しい山嶺に囲まれ、外からはその奥行きを見通すこともできない。広く拓けた田畑の向こうに、瓦屋根の波が連なっている。だが、その連なりの真ん中に、黒く穿たれた大きな焼け跡が横たわっていた。
坂本龍馬は脚を止めた。
「……あれかえ」
「あれでしょう」
高田陽三郎が短く答える。
小野寺順平は胸元から地図を取り出しかけて、そのまま引っ込めた。確かめるまでもなかった。
三人は黙ったまま坂を下りた。鹿児島では、真木和泉の見張りを五代ひとりに預けてきている。長くは空けられない旅だった。
山を降りる道々、湿った風に焦土の匂いが混じりはじめた。大火は如月の上旬のことと聞いていたが、その臭気はいまも消えていない。木と土と、暮らしのすべてが焼け焦げた、重たい匂いだった。
「大火から三月余りも経つがに、まだこれかえ」
龍馬が漏らすと、小野寺が応じた。
「焼けた材の芯までは、そう容易く冷めぬものと聞いております。灰の下を掘り返せば、いまも燻る炭が出てくるとも」
城下に近づくにつれ、焦土の輪郭は凄みを増した。町屋が並んでいた場所には、炭になった柱が墓標のように立っている。屋根を失った土蔵は、赤い地肌を晒して雨ざらしになっていた。脇には急ごしらえの小屋が並び、莚を垂らしただけの暗がりに人の気配が蠢く。子を背負った女が、黙々と焦げた瓦を積み直していた。
「あんたがた、どこから来なはった?」
道端で瓦の破片を拾っていた老人が、顔を上げて声をかけてきた。
「薩摩からじゃ」
「薩摩……。薩摩様にゃ世話になりっぱなっでなぁ。米も材木も、大工衆まで寄こしてくだはった」
老人はそれだけ言うと、また瓦を拾う手元に目を落とした。恨み言も、嘆きもない。今日を生きる手つきだけがあった。
皐月の空は、梅雨の雲を低く抱えていた。山肌は濃い青葉に覆われ、湿った風がその匂いを運んでくる。その青と焦土の黒とが、あまりにも当たり前に、同じ景色の中に並んでいる。
崩れた築地塀の奥に、広い庭が見えた。倒れた柱の並びから、藩校の跡と知れる。子供が三人、崩れた石の上に座り込んで木切れを転がしていた。学ぶ場所を失った子らが、その跡地をそのまま遊び場にしている。龍馬はしばらく黙ってその姿を見ていた。
さらに進むと、折れた鳥居だけが残る一角があった。社殿は焼け落ち、跡地には真新しい注連縄が一本だけ張り直されている。老いた神官がその前に屈み込み、灰の混じった土を竹箒で掃いていた。
「ここも燃えたがか」
龍馬が声をかけると、老神官は顔を上げて頷いた。
「この城下だけで、九つの社と十一の寺が焼けました。神も仏も、火からぁ逃げられんじゃったと笑われもす」
「それでも、掃きよるがか」
「社はなかんちゃ、拝む場所は要りもす。人は、拝む場所を失のうと、次に心まで失のうてしまう」
龍馬は言葉を呑んだ。焼けたのは家だけではない。人の心まで焼けてしまえば、立て直しは利かない。その危うさに対する答えが、老神官の箒の先にあった。
鍛冶屋町と呼ばれるあたりまで来ると、焼け跡はいっそう密になった。火元はこの町だったと、犬童から聞かされている。鉄砲鍛冶の家から出た火が、如月の乾いた風に煽られて広がったのだという。焼け残った井戸端では女たちが水を汲み、その向こうでは材木を担いだ男たちが掛け声とともに新しい骨組みを立ち上げていた。
球磨川を渡る大橋の手前で、龍馬は川向こうの城を見上げた。
石垣は残っている。だが、その上にあったはずの建物は影も形もない。御本館のあった場所は広い更地になり、焦げた礎石だけが並んでいた。二ノ丸も、三ノ丸も同じだった。武具庫、武器庫、御用部屋、日記部屋、諸役所――犬童が数え上げた名をひとつずつ思い浮かべながら、龍馬は更地を見渡した。黒く焦げた門がいくつか、行き場をなくした番兵のように突っ立っている。
「……想像以上ですな」
高田が言った。
「そうじゃのう」
龍馬はそれだけ答えた。
薩摩で犬童から惨状は聞いていた。城が焼けたこと。町の大半が灰になったこと。町屋が三百を超え、侍屋敷も百を超えて焼けたこと。米蔵のほとんどが焼け落ち、無事だったのは奥の宝蔵ひとつといくつかの門だけであること。
だが、数字で聞くのと、この目で見るのとでは、まるで別物だった。
大橋も半ばを焼かれ、焼け落ちた径間には仮の板が渡されていた。軋む板を踏んで渡りながら、龍馬は対岸に見える米蔵の残骸を数えた。聞いていた通り、形を保っているものはほとんどなく、焦げた礎石が並んでいるばかりだった。
「坂本殿」
隣で小野寺が言った。
「江戸や長崎でも、大きなものは幾つも見てまいりました。異国の軍艦、諸藩の富、天朝物産会所の帳簿の桁……」
「おう」
「ですが、あれはみな数字です。ここにあるのは、数字にはならぬものです」
龍馬は欄干に手をかけ、しばらく黙った。
焼け落ちた柱の一本一本に、誰かの暮らしがあった。水を汲む女たちの一人一人に、失った屋根がある。
「焼けたのは家だけじゃない」
龍馬は独り言のように呟いた。
「けんど、あの神主は、社ものうなった跡を掃きよった」
高田も小野寺も、それには答えなかった。
橋を渡り切ると、焦土のあちこちに新しい足場が組まれているのが見えた。木の匂いが、焦げ臭い風に混じる。鑿を打つ音、鋸を挽く音が、方々から聞こえてくる。生きている音だと、龍馬は思った。
城下に入ってしばらく歩くと、詰所の前に旅人改めの役人が立っていた。役人は三人の姿を見て一度身構えたが、犬童の名を出すと、それだけで顔つきを和らげた。
「犬童どんのお客人でございますか。そいならお通りくだはれ」
役人は道を空けた。非常時ゆえ、藩の目は厳しい。それが犬童という名ひとつで緩む。この土地の者たちがあの男に寄せる信の厚さを、龍馬は見た気がした。
二
城の南、球磨川の川幅がひときわ広がる河原に、三人は立った。
急流である。川底の石が透けるほど澄んでいながら、水勢は凄まじく、白波が幾重にも躍っていた。両岸から迫る山裾の隙間を切り裂くようにして、水が下流へと押し寄せていく。その川縁に、荷を満載した川舟が数艘もやわれていた。焦土のただ中にあって、舟だけが平然と日々の顔をしている。
一艘の船頭が、竿を握り直しながら声を上げた。
「旅の御方、川縁ぁ足元の危なか。あんまり寄りなんな」
「舟は、もう出しておるがか」
龍馬が問うと、船頭は事もなげに頷いた。
「城下ぁ焼け申したが、川ぁ焼けもせん。荷の止まればこの土地ぁ干あがる。焼け跡の片付け以上に、舟ば止めんこっが大事でごわす」
龍馬は思わず船頭の顔を見た。城も町も灰になったというのに、この川だけは衰えもせずに流れ、荷を運び続けている。焦土に沈んでいた胸の奥が、その言葉でふっと軽くなった。
「これが、球磨川かえ」
泡立つ水面を見つめたまま、龍馬が呟く。
「舟子が命懸けで下る急流と聞いております」
小野寺が懐の帳面を繰りながら言った。
「この流れを下って八代へ出れば、そのまま海に繋がります。そこから長崎へも」
龍馬は川下の山峡へ目を走らせた。峻険な山並みを断ち切るように、一本の水の筋が遠くまで伸びている。
「坂本殿」
小野寺が声を低くした。
「この水路があるからこそ、人吉は陸の孤島にならずに済むのでしょうな」
「そうじゃ」
龍馬は深く頷いた。
城下に入ったときの焦土が、まだ瞼の裏に焼き付いている。あれだけを見れば、ここは山奥に取り残された弱小藩に過ぎない。表高二万二千石の貧藩――そう切り捨てるのは容易い。だが、この川を目にした瞬間、勘定が変わった。
「小野寺殿。この川を下る荷は、何じゃ」
「米、椎茸、木材、それに刃物です」
小野寺はもう帳面を閉じていた。
「鍛冶屋町は、あの通り焼き尽くされたばっかりじゃきね」
「家は焼けましたが、職人の腕まで焼けたわけではありません。槌と炉を揃え直せば、また刃物は打てる。そのための炭と木は、この山々にいくらでもあります」
龍馬は口元を緩めた。
川は道だ。米も材木も刃物も、この土地が生み出すものはすべて、この流れに乗って外へ出ていく。ならば外の銭もまた、この流れを遡ってこの地へ還ってくる理屈になる。焼け跡の表だけを見れば、ここはただの哀れな被災地にしか見えない。しかし、この川という血の道が生きている限り、この土地は自分の力で血を巡らせ、立ち上がることができる。
「焼け跡だけ見ちょったら、閉じた土地に見えるがのう」
溢れるような水を見つめたまま、龍馬は呟いた。
「けんど、こいつを見たら違う。ここは、閉じた土地らあじゃないき」
「道を持っておりますゆえ」
小野寺が言葉を継いだ。
「おうよ」
龍馬は川から目を切り、黒く沈む城下を振り返った。
焦土は相変わらず黒々と横たわっている。だがその先、八代から長崎へ、長崎から海の向こうへと、一本の水の筋が伸びている。その最初のひとしずくが、目の前の急流だった。
「高田殿。この川筋と周りの地形、のちに詳しい絵図に起こしちょいてくれんかえ」
「承知」
高田が頷く。
龍馬はもう一度、白波を立てる川面に目を戻した。この流れが、いずれ五千両などという額を遥かに超えたものを運ぶ日が来る。その確信を口には出さず、龍馬はただ、どこまでも速い流れを見つめていた。
三
城下へ戻る道すがら、三人は薩摩から届いた「支援」を目の当たりにした。
焦土の一角に青々とした新材が組まれ、薩摩訛りを交わす職人たちが鑿を振るっている。大工だけではない。瓦を焼く仮窯を組む一団もいた。木挽きの鋸の音と、鑿を打つ乾いた音が途切れずに重なる。積み上げられた米俵には丸に十の印がくっきりと押され、その足元に鉋屑の山ができていた。数えれば、俵は五十を下らない。だが、一面の焦土の広さを思えば、それでもなお焼け石に水であることは一目で知れた。
「あれが、薩摩から来た職人衆かえ」
龍馬が脚を止めて見入っていると、通りかかった町人が客人に気づき、深く頭を下げた。
「左様でございます。薩摩どんの大工や瓦師ば何人も遣わしてくだはったとです」
「そうかやあ」
町人は何度も頭を下げ、崩れた塀の向こうへ去っていった。
しばらく歩くと、勘定方の詰所らしい仮小屋の前に、犬童権左衛門の姿があった。犬童は龍馬たちを見つけると、顔を輝かせて歩み寄ってきた。
「坂本殿……まことに、お越しくだはったか」
「約束じゃきな」
龍馬は破顔した。
「薩摩どんにゃ、筆舌に尽くしがたい助けばいただいちょっとです」
犬童はかみ締めるように言った。この土地で、それが動かしようのない事実であることは龍馬にも分かる。米も、材木も、職人の手も、確かに届いている。
だが、胸の奥の引っかかりは消えなかった。城下を歩いてこの目で見てきたものと、犬童の口にする謝意とのあいだに、わずかな歪みがある。
「犬童殿。ひとつ、聞かせてくれんかえ」
「なんでございましょう」
「鹿児島で聞いた話を、この目で確かめとうての。これだけ物が届いちょっても、やっぱり銭が要るがか」
犬童は一瞬、言葉に詰まった。
「……物資ぁ、まことにありがたいもんでございます。じゃが、物資だけじゃ、どぎゃんしても動かせんもののあるとです」
「動かせんもの、とは」
「人ば雇う銭、材料ば買い付くっ銭。知恵と腕ば持った者を動かし、途絶えた商いば回し直すための『元手』でございます」
「その五千両で、まず何をなすつもりじゃ」
龍馬が問うと、犬童は焦土を見渡してから答えた。
「まずは潰れた生業ば叩き起こす元手でございます。道具ば失のうた職人、品ば仕入れられん商人、足ば奪われた船頭。そん者たちへ、一日でも早う血ば巡らせんばなりもはん」
「商いの車輪を、もう一度回すためじゃな」
「そん通りでございます」
犬童は焦土の向こうを見つめた。
「大工衆ぁ薩摩どんからのお借りものに過ぎもはん。あん者たちの去った後、この藩の民の自分の足で立って、復興ば続けていくためには、どぎゃんしても直の銭の要るっとです。材料ば買い、道具ば揃え、次の商いの軌道に乗るまでの命ばつなぐ銭の」
龍馬は犬童の言葉を黙って噛み締め、頷いた。
脇で帳面を開いていた小野寺が、言葉を添えた。
「物資は、いまの命をつなぎます」
「……」
「ですが、金は、生業を取り戻させます」
龍馬は小さく息を吐いた。
「……なるほどのう」
薩摩の救済は本物だ。米を送り、材木を送り、職人まで寄こしている。だが、それだけではこの土地の暮らしの巡りまでは戻らない。焼けた鍛冶屋がまた鉄を打って稼ぐこと。焼けた店がまた品を仕入れて商うこと。その車輪を回すのは、米俵でも材木でもなく、動いてこその銭なのだ。
薩摩の帳面に残るのは、米と材木と職人を送ったという記録だけである。犬童たちが泥をすする思いで願い続けた五千両は、薩摩の上には一度も届かぬまま握り潰された。外から見える慈善と、現場が切望する自立。その隔たりを、龍馬は鹿児島で耳にしていた。いま、それを焼け跡の上で確かめていた。
「犬童殿。例の五千両は、もう届いちゅうか」
「はい。長崎から証文の正本の届いて、数日前に八代で銭に換え申した」
犬童の顔に、はじめて本当の安堵が広がった。
「坂本殿のお力添え、生涯忘れもはん」
「わしの力らあ、大したもんじゃないき」
龍馬は手を振った。
「たまたま聞く耳を持っちょっただけのことぜよ」
詰所を辞してさらに城下を進むと、半ば骨組みの立ち上がった店の前で、空の棚をただ見つめている男がいた。犬童が足を止めて声をかける。
「治兵衛。棚ぁいつ埋まりそうか」
「犬童どん……。恥ずかしながら、品ば買い付くっ銭の、まだまるで揃わんとです」
治兵衛と呼ばれた男は頭を下げ、力なく笑った。
「店ぁ大工衆のおかげで、なんとか形になり申した。じゃが、置く品のなけにゃ、こぎゃんもんはただの箱でございます」
龍馬と犬童は目を見交わした。届いたばかりの五千両が、まさにこの空の棚を埋めるために使われる。言葉にするまでもなく、二人ともそれを分かっていた。
「も少しの辛抱じゃ」
犬童が言い含めると、治兵衛は深々と頭を下げた。
店を離れると、小野寺が帳面を開いた。
「五千両のうち、店の仕入れに回す内訳は決まっておりますか」
「まだ細かかとこまでぁ詰めておりもはんが、鍛冶屋の道具揃えに千両、店の仕入れに二千両。残りは川舟の修繕と、新しか産物の仕込みへ回す考えでございます」
「川舟の修繕、ですか」
「焼け落ちた蔵と一緒に、繋いじょった川舟も数艘、灰になり申した。舟のなけにゃ、荷も運べもはん」
小野寺は数字を書き留めた。
「返済の段取りは、長崎で決めた通りで変わりありませんか」
「球磨焼酎、椎茸、木材、それに刃物。これらば増やして八代へ流し、長崎の会所へ渡します。長崎なら、八代の問屋よりずっと高う捌けましょう」
「帳面の見立て通りですね」
龍馬は力強く頷いた。
「その通りに動かせば、五千両はただの借金じゃのうなる。この土地が自分で金を稼ぎ出すための、血と肉になるぜよ」
龍馬は、復興へ向けて動きはじめた焦土の一角へ目をやった。木を刻む鑿の音が、城下のあちこちから高く響いていた。
四
その夜、犬童の計らいで、龍馬たちは城下外れの焼け残った小さな屋敷に招かれた。
宴などではない。畳の上に素朴な膳が並ぶだけの、身内ばかりのささやかな座である。二つの行灯の仄暗い光の下に、犬童と練助、それに龍馬たちがまだ会ったことのない若い藩士が二、三人、黙って座していた。
「坂本殿。こちらぁ神瀬徹之助にございます」
犬童の紹介に、引き締まった体つきの浅黒い若武者が軽く会釈した。二十をいくらか出たばかりの年格好だが、眼には隠しきれない血の気と鋭さがある。
「神瀬にございます。噂は練助から伺っておりもす」
「坂本じゃ。世話になるきね」
膳には川魚の干物と香ばしくあぶった椎茸が並び、傍らに白い徳利が一本置かれていた。しかし、まだ誰もそれに手を伸ばそうとしない。座には、新参者を見極めようとする重たい警戒が漂っていた。
行灯の揺れる光に浮かんだ神瀬の顔には、頬から顎にかけて、まだ新しい火傷の痕が薄く引き攣れていた。龍馬はそれに気づいたが、口には出さなかった。
「人吉の殿様は、あの日どうしておられたがじゃ」
龍馬がふと尋ねた。
「殿ぁ逃げも隠れもされんで、猛火の中、領民の前に立ち続けちょらしたとです」
神瀬の答えに迷いはなかった。
「まだお若いお方でございます。じゃが、あの大火のただ中で逃げんで立たれたお方だ。拙者どもが命ば賭けてお仕えすっとは、当然のこっでございます」
明後日に謁見を控えた人吉藩主が、ただ上に据えられただけの飾りではない。この土地の武士や民が命を預けるに足る人物なのだと、龍馬は察した。
龍馬の視線に気づいたのか、神瀬は事もなげに己の火傷痕に触れた。
「大火ん折、蔵から米俵ば運び出す最中に梁の落ちてき申した」
神瀬は続けた。
「あの日は皆、無我夢中でございました。城の焼けても町の焼けても、米だけぁ一俵でも多く救い出さんば、この先だれひとり食っていけんごつなる。ただそれ一心でございました」
龍馬は黙って頷いた。昼間見た米蔵の残骸。その灰の下から命がけで俵を担ぎ出した男が、いま目の前にいる。
「坂本殿ぁ、妙なお方でございますな」
神瀬がじっと龍馬を見た。
「土佐の御仁と聞き及んでおります。じゃが薩摩にも顔の利き、長崎にも深か渡りのある。富ば抱えた大商人でもなけにゃ、薩摩の権柄ずくな役人でもなか。……そぎゃんお方の、なんで人吉んごたる山奥の出来事ば、そこまで気にかけなはるっとですか」
犬童も練助も口を挟まず、龍馬の顔を見ていた。
「金ば出されたのぁ長崎の御仁で、坂本殿ぁその間に立たれただけ。そいに、ご自分で足ば運んで、こぎゃん焼け跡まで来られた。そこのどうにも解せんとです」
龍馬は手の中の空の盃を見つめたまま、しばらく黙っていた。
「……困っちゅう人を見たら、どうにも気になっていかんきね」
「それだけでございもそかい」
「それだけぜよ」
龍馬は盃を軽く掲げてみせた。
「一両の金にもならんし、何の地位にもならん。けんどな、見捨てて後味の悪い思いをするくらいなら、首を突っ込むほうがずっとマシぜよ」
神瀬は射抜くように龍馬を見つめていたが、やがてふっと口元を緩めた。
「奇特なお方なつですなぁ」
「よう言われる」
張りつめていた座の空気が、そこで解けた。
末席にいた、元服したばかりらしい若い藩士が、意を決したように声を絞り出した。
「坂本殿……お恥ずかしか話ですが、拙者ぁ何ひとつ役に立っちょりもはん。練助様のように犬童どんのお供もできんで、神瀬様のように火の中へ飛び込むこっもできんじゃった……」
「それがどうしたゆうがぞ」
「役に立たん者ぁ、これからどぎゃん生きればよかとでしょうか」
龍馬は、怯えの混じった若者の目をまっすぐに見た。
「わしとて、たいして役に立っちゃおらん。書状を一通走らせただけぜよ。それでもこうして人吉の膳に座らせてもろうちゅう。役に立つか立たんかは、けりがついた後で分かることじゃ。焦ることはないき」
若者は胸のつかえが下りたように肩を落とし、ほっとした顔になった。
「坂本殿ぁ」
練助が感慨深げに言った。
「薩摩におらした時から、こぎゃんお方でした。身分も立場も構わんで、だれかれなしに話ば聞いて回っとらした」
「あれは学者様のまねごとをやっちょっただけぜよ」
龍馬は苦笑した。
「まねごと、でございもそかい」
「そうぜよ。されどな、まねごとでも足で稼いじょるうちに、世の裏側の声が耳に入ってくるようになった。人吉の苦境もそのひとつじゃ」
神瀬が目を細めた。
「うちの犬童様と練助の、薩摩の役所で冷遇され続けちょったっちゅう話でございますか」
「そうじゃ」
「それば聞いて、どぎゃん思われもしたか」
龍馬は空の盃を膳に置き、静かに語った。
「腹が立ったがぜ。助けを求めちょる者を、ろくに話も聞かんと追い返す。そんな冷たさがまかり通るほど、この世は単純にできちゃおらんはずじゃ」
練助がそっと目を伏せた。犬童がそれを見やり、噛みしめるように口を開いた。
「坂本殿……あの日々、我らぁ誠に惨めな思いばいたしました」
「分かっちゅうよ」
「その屈辱と、声にならん声ば拾い上げてくだはったとが、坂本殿でした」
座に沈黙が落ちた。だがそれは、もう警戒や戸惑いの沈黙ではなかった。
五
「坂本殿。これば」
練助が徳利を取り、龍馬の盃に無色透明の酒をなみなみと注いだ。
「球磨焼酎でございます」
龍馬はそれを躊躇なく一息に呷った。
途端、喉から胸の奥へ熱い火が走り抜けた。龍馬は猛然とむせ返り、激しく咳き込んだ。目尻からじわりと涙が滲む。
「……こいつは効くのう!」
座の端から、くすくすと笑いが漏れた。神瀬も練助も、温かい苦笑を浮かべている。龍馬のしくじりひとつで、硬かった座の一角がいっぺんにほどけた。
「薩摩の焼酎とぁ違いもすか」
神瀬が笑いを含んだ声で尋ねた。
「違う。まるで別物じゃき」
龍馬は涙を拭いながら応じた。
「薩摩の芋はもっと骨っぽうて、喉へ一直線に突き刺さってくる。けんどこいつは……なんと言うたらええか、土の匂いと人の手が染み込んじゅう」
「土の味、でございもそかい」
「その土地で生きてきた人間が醸した、生きた味ぜよ。米を研いだ者、川から水を汲んだ者、蔵の暗がりで寝かせた者。関わった人間の手が、みな酒に移っちゅう。土佐の酒とも薩摩の酒とも違う深みが出るがは、当たり前のことじゃ」
神瀬はその言葉を噛み締めるように、黙って盃を見つめた。
「坂本どんぁ、あちこちの酒ば飲み歩いてこらしたつですな」
「呑まされてきた、と言うたほうが正しいけんどな」
龍馬は豪快に笑い、空の盃を突き出した。練助がすかさず徳利を傾ける。今度は舌を湿らせる程度に含んだ。
「坂本殿ぁ」
やがて練助が、探るような目で口を開いた。
「人吉ば、ただの『哀れな助け相手』としてぁ見ておられもはんな」
龍馬は少し意外そうに眉を上げ、それから力強く頷いた。
「おう。焼け跡は確かに惨い。けんど、この土地にはこれだけの酒を醸す力がまだ息づいちゅう。憐れんで済ますがは、息絶えた土地にすることじゃ。脈打つ力のある土地に要るがは、憐れみやのうて商いの相手ぜよ」
「面白か土地、っちゅうこっでございますか」
神瀬が問うと、龍馬はにやりと口の端を上げた。
「そうじゃ。めっぽう面白い土地ぜよ」
座の空気が一段と熱を帯びた。犬童が龍馬の盃に酒を注ぎ足す。今度は龍馬も身構え、喉を鳴らして味わった。
「椎茸は、いつ頃出荷するがじゃ」
「春子の採り入れは済みもしたで、次は秋口でございます。木材ぁ山から切り出して、乾かすまでにもちいっと時の要りもす」
「川舟で八代まで下すがじゃな」
「はい。焼酎も椎茸も木材も、みな球磨川に乗せて八代の湊まで運び出します」
「その先、長崎まで直に持ち込んだことはあるかえ」
神瀬は少し考えてから首を振った。
「長崎へ回る荷も、これまでぁ八代の問屋任せでございました。人吉の者の、長崎へ直に持ち込んだこたぁございもはん」
龍馬は盃を膳に置いた。
「それが、これから塗り替わるぜ」
神瀬が練助の顔を見た。練助は小さく頷いてみせた。
「塗り替わる、とぁ」
「犬童殿も練助も承知じゃが、証文の条件で、長崎の会所が人吉の荷の窓口になる。諸国の産物を一手に引き受けちょる会所じゃ。椎茸も木材も、この球磨焼酎も、その大商いの波に乗せる段取りぜよ」
「そぎゃん大商いの、我らのごたる山奥の小藩にできもそかい」
神瀬が半信半疑の目を向けた。
「石高の大小らあ関係ないき。確かな品と確かな水路があって、それを繋ぐ者さえおったら、道は世界へ拓けるぜよ」
龍馬はさらりと笑ってみせた。細かな段取りは、まだこれからである。ただ龍馬の頭の中の地図では、球磨川の清流と長崎の港が、一本の細く強い糸でしっかりと結ばれていた。
「坂本殿の目にゃ、いつも遥か先の景色の見えちょるごたりますな」
練助が感服したように息をついた。
「先が見えるがじゃない。繋がるかもしれんもんを、はなから『できん』と決めつけんだけぜよ」
神瀬はしばらく黙って龍馬を見つめていたが、意を決したように言った。
「坂本どん。拙者ぁ、薩摩から受けたご恩ば忘れたこたぁございもはん。あの大火の日、薩摩どんの真っ先に糧米ば寄こしてくださらなけにゃ、この春までに餓死者の出ちょったでしょう」
「当然の気持ちじゃ」
「じゃが、坂本どんのお話ば聞いて悟りました。恩ば受けるばっかりの情けなか土地じゃのうて、いつかその恩ば倍にして返せる土地になりたか、っち」
龍馬は神瀬の眼差しを受け止めた。
「それでこそ、命を張る値打ちのある土地ぜよ」
龍馬は盃を干した。今度はもう、喉を焼かれることはなかった。
「坂本殿。恩ば返せる土地になるにゃ、どぎゃんすればよかとでしょうか」
練助が身を乗り出した。
「施しを受ける側のままでおったら、いつまでも弱い立場のままじゃ。けんど、この土地の品を外の大きな市へ堂々と持ち出して、正しい値打ちを認めさせたら、話はがらりと変わる。恩返しゆうがは、ぺこぺこ頭を下げることじゃないき。相手に『人吉の品がのうたら困る』と言わせることぜよ」
「相手に、頼りにさせる……」
「球磨焼酎も椎茸も極上の品じゃ。極上の品には相応の値がつく。金が動けば、この土地は『憐れまれる被災地』から『対等な取引相手』に変わるきね」
龍馬は膳を軽く叩いた。
「わしにできるがは、その『道』を繋ぐところまでじゃ。その先、品を磨いて育てるがは、お前さん方の役目ぜよ」
神瀬は黙って頷き、深々と頭を下げた。
「育ててみせもす。焼けた土から立ち上がる以上、それよりほかに生き残る道はございもはん」
座にいた者たちが、口々に頷いた。
「練助。おんし、今年でいくつになるがじゃ」
龍馬がふと尋ねた。
「数えで十六にございます」
「十六で犬童殿に付き従うて、薩摩の役所に通い詰めて、冷たくあしらわれても、また次の日には頭を下げに行ったかえ。なかなか真似できることじゃないぜ」
「私ぁただ、犬童様の後ろば歩いちょっただけでございます」
「後ろをついて歩くこと自体が、並大抵じゃないがぜ。わしが十六の頃らあ、己の足で立つことすら覚束んかったきね」
練助は照れくさそうに目を伏せた。
「坂本殿にも、そぎゃん青か時期のあらしたとですか」
「あったとも。まあ、いまもたいして変わっちゃおらんけんどな」
龍馬のおどけた言い回しに、また温かい笑いが広がった。
夜は更けていった。焼酎の深み、川の流れ、山の恵み。交わされるのは他愛もない話ばかりだったが、その端々に、龍馬はこの地に生きる者たちの折れない芯と矜持を感じ取っていた。
六
翌日、龍馬たちは城内の一角に設けられた無骨な政務所へ通された。
奥で待っていたのは、人吉藩家老・新宮行蔵であった。四十を少し超えたあたりか。質実剛健を絵に描いたような武士で、鋭い眼には隠しようもない警戒の色がある。脇には犬童が姿勢を正して控え、新宮の後ろには老いた重臣がひとり、地蔵のように黙って座していた。
「坂本殿っちおっしゃるか」
「左様」
「五千両の一件、聞き及んどる。我が藩の窮状に対し、まことにありがたいお申し出ではある」
新宮は言葉を切り、重々しく龍馬を見据えた。
「……じゃが」
「……」
「これぁ見方ば変えれば、藩政の深部に外の者の介入すっちゅうこっでもある」
龍馬は表情を変えず、新宮の言葉を受け止めた。
「土佐の脱藩浪士。薩摩に強か繋がりば持ち、長崎の商いにも通じとる。そぎゃん得体の知れん人物の、なんで縁もゆかりもなか山奥の小藩のために、こぎゃん動き回るとか。大金ば動かし、あまつさえ殿への謁見まで」
新宮は身を乗り出し、龍馬の目の奥を覗き込んだ。
「率直に申そう。それがしにゃ、これの単なる『善意』によるもんとぁ到底思えんのだ」
「善意だけじゃと言うつもりは、わしにもないき」
龍馬はあっさりと応じた。
「綺麗な善意だけで五千両ゆう金が動くはずもない。算盤と道筋があって初めて動くもんぜよ。じゃが、その算盤の陰に坂本龍馬ゆう男の私欲が潜んじゅうかどうかは、新宮殿ご自身の目で見極めてもらうほかないがぜよ」
「言葉なんど、いくらでも飾れもそ」
「その通りじゃ」
龍馬は深く頷いた。
「じゃから、わしも舌先三寸で信じてもらおうとは思うちょらん」
新宮は脇の犬童へ厳しい目を向けた。
「犬童。お主は、この男ばすっかり買うとるごたるな」
「新宮殿。坂本殿ぁ、まことに信に足るお方にございます」
「信、か」
新宮の声が低く沈んだ。
「何ばもってそれば証す。お主のこの男と会うて、まだふた月そこらじゃろう。人ひとりの腹の底ば見抜くのに、それで足ると言えもそかい」
犬童はすぐには言い返せなかった。
「……五千両ちゅう大金ば、実際に引き出してみせた。それこそが、何よりの証かと存じます」
「金ぁ動く。じゃが、動いた金の裏にどぎゃん罠の仕掛けられとるかは、別の話ばい」
新宮の突っぱねるような声には、長年藩を背負ってきた者の頑なな信念があった。
「殿ぁまだお若い。開けたお考えばお持ちなとは重々承知しておるが、若さゆえに目新しかもんに目ば奪われやすかところもある。それがしぁ殿の目となり耳となり、あらゆる危うさば疑うこっこそ職分としておるのだ」
「新宮殿は、昔、外の者に痛い目に遭わされたことでもおありかえ」
龍馬の問いに、新宮は一瞬口を噤んだ。
「……この相良家ぁ、六百五十年の余もの長きにわたって、この人吉の地ば守り抜いてきた。それぁ時勢の荒波に揺さぶられんで、外の甘か風に惑わされんじゃったからだ。どこの馬の骨とも知れん者の口車ひとつで、六百五十年の歴史ば危うくする訳にゃいかんのだ」
「六百五十年、かえ……」
「左様」
新宮の言葉には、誇りと、この土地を守り通してきた者だけが背負う重さがこもっていた。
「案じとるとぁ、坂本殿ひとりの野心だけじゃなか」
新宮は言葉を継いだ。
「一度外の力に頼るこつば覚えれば、二度、三度と安易に外へ縋る毒の回る。困ったときに外から手の差し伸べらるっとの当たり前になれば、この藩ぁ自分の足で立つ力ば永久に失のうてしまうのだ」
正論だった。龍馬も軽々しく否定はできなかった。
「新宮殿のおっしゃる懸念、まっこと理にかなっちゅうきね」
龍馬が率直に認めると、新宮は意外そうに眉をひそめた。
「わしが新宮殿の立場でも、まったく同じように疑うはずぜよ。見知らん土佐の浪人が藩の財政に割り込んで、殿にまで引き合わされようとしちゅう。疑わんほうがおかしいきね」
「疑わるっこつば、恐れておられんとですか」
「恐れたところで、どうにもならんきね」
龍馬は肩をすくめた。
「疑いを晴らそうと言い訳を重ねるより、疑われたまま、ありのままを見てもらうほうが、ずっと手っ取り早いぜよ」
「……坂本殿ぁ、妙に腹の据わった御仁じゃな」
「不器用なき、隠し立てができんだけぜよ」
新宮はしばらく黙って龍馬の顔を見つめていた。
「殿のお会いになる前に、それがしとしての懸念ばお伝えしておきたかった。ただそれだけのこっにございます」
後ろに控えていた老重臣が、ここで初めて口を開いた。
「新宮殿の申す通り。坂本殿、悪く思いなんな。これぁ藩の体面ば守るための、当然の用心にございます」
「用心深いのは結構なことじゃ」
龍馬は微笑を浮かべて応じた。
「無防備な藩のほうが、よっぽど恐ろしいきね」
新宮はわずかに眉を動かしたが、それ以上は追及しなかった。
龍馬もまた、それ以上は言葉を重ねなかった。新宮の警戒は、重臣として正しい。信というものは言葉で飾って与えられるものではなく、時を積み重ねてはじめて証されるものだ。
政務所を出ると、犬童が申し訳なさそうに頭を下げた。
「新宮殿は強情なお人でございもすが、決して悪意からじゃなかです」
「分かっちゅう」
龍馬は頷き、広い焼け跡を見やった。
「藩の要職に、あれほど疑り深い人間が座っちょらんと、かえって危のうて見ておられんきね」
七
その晩、犬童の屋敷の一室に、犬童、練助、神瀬の三人が集まった。龍馬たちの姿はない。これは歓談の座ではなく、明日、藩主・頼基へ申し上げる中身を練る、内輪だけの軍議であった。
「新宮殿の危惧は、重臣としてまっとうなもんじゃ」
犬童が灯りの下で切り出した。
「殿への言上で、坂本殿ば持ち上ぐっような言い方はならん。かえって『外者に取り込まれたか』っち疑いば強むっだけじゃ」
「では、殿へはどぎゃん申し上げもそかい」
神瀬が問う。
「情ば交えんで、事実だけば並ぶっとじゃ」
犬童の答えに迷いはなかった。
「五千両の道ば、坂本殿がいかにして開かれたか。焼け跡と産物ば、どぎゃん目で見て回られたか。金の工面だけで終わらせんで、この土地の立ち直りまでどう見ておらるっか。そいだけば書くとじゃ」
「『坂本殿は稀代の英雄でございます』などとは一言も書かん、ちゅうこっでございますな」
練助が確かめると、犬童は頷いた。
「そん御仁が信に足るかどうかば決めらるっとは、殿おひとりじゃ。わしらが先に値踏みすっとは越権じゃ」
神瀬が腕を組み、深く頷いた。
「殿のお決めになっための材料だけば、きっちり揃ゆっ、ちゅうこっでございもすな」
「そういうこっじゃ」
「酒席でのやり取りも、書き入れもそかい」
練助の問いに、犬童は頷いた。
「入るっ。坂本殿が球磨焼酎ば『土地の生きた味』と言われたこと、川舟の荷の流れば細かに尋ねられたこと、そいも書く」
「なんで、そぎゃん雑談まで入るっとでございますか」
神瀬が尋ねた。
「殿はこの人吉の土と民の暮らしば、誰よりも深う想うておられる。世辞か、ほんに値打ちば見抜いとるかは、殿ご自身がいちばん鋭う見分けらるっ」
三人はその夜、覚書に取りかかった。記すのは事実だけである。五千両を得るまでの経緯。薩摩の役所へ何度申し入れても取り上げられなかったこと。そこへ坂本龍馬が話を聞き、自ら動いたこと。球磨焼酎、椎茸、木材など、人吉の産物について龍馬が尋ねたこと。
世辞で近づいたのではない。そのことが伝わるよう、余計な飾りは一切加えなかった。
犬童は墨を含ませた筆で、覚書の末尾に一文を書き加えた。
――坂本龍馬、鍛冶屋町・球磨川ならびに城下の焦土を克明に実見す。球磨焼酎を「土地の生きた味」と評し、椎茸・木材の水運に関する仔細を正さる。単なる世辞にては出で来ぬ問いと見受けられ候。
「この控え、新宮殿にお見せしもそかい」
練助が尋ねると、犬童は首を振った。
「要らん。これは殿にお目通しいただくためのもんじゃ。新宮殿には、新宮殿の目で坂本殿ば量ってもらえばよか」
「新宮殿が、謁見そのものば止めらるっ恐れはございもはんか」
練助が不安を口にすると、犬童は薄く笑った。
「新宮殿は道理の分かるお方じゃ。無体な邪魔はされん。殿の御前で、疑いば筋道立てて申し上げらるっだけじゃ。それが重臣の務めじゃっでな」
犬童は覚書を丁寧に折り畳み、胸元へ収めた。
「謁見は明日の昼。それまでに、殿にこの控えば内々にお目通しいただく」
「刻のございもはんな」
神瀬の言葉に、犬童は頷いた。
「短かでよか。長々と詮議する暇のあれば、余計な思惑の紛れ込む」
三人は頷き合った。
練助は、行灯に照らされた犬童の横顔を見ていた。薩摩の役所で何度も頭を下げていた頃の、疲れ切った顔ではなかった。復興への道が遠いことは、いまも変わらない。それでも今夜の犬童の目には、迷いではなく、次に何をすべきかを定めた者の強さがあった。
「……私は、坂本殿に会わんじゃったら、この覚書がこぎゃん形になることはなかったと思いもす」
練助がぽつりと呟いた。
「わしも、同じじゃ」
犬童はそう応じた。それ以上、誰も言葉を重ねなかった。
八
その夜、宿へ戻った龍馬は、高田と差し向かいで行灯の灯を見つめていた。盃を弄びながら、ふと息をつく。
「……妙なもんじゃのう」
「何がでございますか」
高田が尋ねた。
龍馬は自嘲気味に笑った。
「鹿児島の酒場じゃあ、大口を叩いて空回りばかりしちょった。それがここへ来てからは、ろくに喋っちょらん。話を聞いて、要る者へ渡しただけじゃ。犬童殿の困りごとを弥太郎へ、弥太郎の五千両を人吉へ。わしがしたのは、それだけぜよ」
「『それだけ』ではありませんよ」
高田はきっぱりと言った。
「誰の言葉を、誰に渡せば事が動くか。その間合いと筋道を見極めるのは、並の者にはできぬ業です」
「見極めたゆうほど大層なもんじゃないけんどな」
龍馬は頭を掻いた。
「ただ、『ここを繋いだら動くはずじゃ』ゆう道筋が、暗がりの中にくっきり浮いて見えただけぜよ」
「薩摩で大久保殿という大きな壁に当たった折、坂本殿は、正面から押し通ろうとしておられた。壁の内側に五代殿を得たのも、押し破った末ではございませんでした。今回も同じです。押し破るのではなく、周りを見て、通れる道を探された。相手と時を見極めるとは、そういうことなのでしょう」
高田は盃の酒を喉へ送った。
「高田殿は、いつも影に徹して、一番肝心な仕事をこなしてくれる。地形を頭に叩き込み、絵図を引き、誰っちゃあに悟られんように危ない場所の寸法を測る。わしには到底真似できん細かさじゃ。じゃからこそ、わしは人を繋ぐことしかできんがかもしれんきね」
「人にはそれぞれ相応の役目がある。それだけのことだと思います」
「高田殿は、裏方に徹して満足しちゅうがかえ」
「満足も不満もございません」
高田は盃を膳に置いた。
「ただ、坂本殿が繋いだ糸の先で、固まっていた人や金が動き出すのを見るのは……悪くないと思っております」
龍馬は気恥ずかしそうに鼻の頭を擦った。
「高田殿は、案外と殺し文句が上手じゃのう」
「口下手だと笑われることのほうが多いですよ」
高田は淡々と応じ、行灯の芯をつまんで灯りを整えた。
「坂本殿。一つ伺ってもよろしいですか」
「なんじゃ」
「明日の謁見、新宮殿はまだ深い不信を抱いておられます。坂本殿は、ご自身の弁舌だけで、あの頑固な重臣を説き伏せるおつもりですか」
龍馬は一瞬目を閉じた。
「自分の言葉だけで押し通す気はないきね。この数日、犬童殿も練助も神瀬も、わしの動くところを間近で見ちゅう。あの三人がそれぞれの目で見たまま、素直に殿に語ってくれたら、それで十分ぜよ。わし一人が熱弁を振るうより、生き証人の一言のほうが遥かに重いきね」
「人に語らせる、とおっしゃるか」
「わしが己を飾るより、あの三人が見たままの坂本龍馬を語るほうが、ずっと本物ぜよ」
高田はかすかに頷いた。
「それもまた、坂本殿の持って生まれた力なのかもしれませんな」
九
高田が部屋を辞したあと、龍馬はひとり、夜気にあたろうと羽織を引っかけて宿を出た。
見渡す限りの焦土は闇に沈んでいたが、その暗がりのあちこちに小さな灯が散っていた。莚を掲げただけの仮住まいから漏れる微かな光。夜を徹して小屋を組む大工たちの松明。そして――。
カン、カン、カン、と。
鍛冶屋町の方角から、夜気に乗って硬い槌の音が響いてくる。家を焼かれ、道具を失っても、この土地の職人たちは小さな焚き火を囲み、明日のための鉄を打ち続けていた。
焦土の底で、脈打つように瞬く灯と、槌の音。傷ついて血を流しながらも、決して息を止めようとしない大きな生き物の鼓動のようだった。
「……ここは、まだ死んじゃおらん」
龍馬がぽつりと呟くと、闇の生け垣から影がすっと出てきた。小野寺だった。
「左様ですな」
「なら、わしらのやることも決まっちゅう」
龍馬は夜空を仰いだ。梅雨の晴れ間の空には鋭い星々が瞬き、山並みの稜線をくっきりと浮かび上がらせていた。
「明日、相良の殿様にお会いするがじゃ」
龍馬は不敵に笑った。
小野寺は何も問わず、懐から小帳を取り出すと、月明かりを頼りに矢立の筆を走らせた。五千両の為替の到着、謁見の段取りが整ったとの犬童の知らせ、そして家老・新宮という最後の壁。
「新宮殿も、明日の席には必ず立ち会われましょうな」
「来てもらわんと困る。あの御方は、藩を守るために筋を通しておられる。わしは誠を尽くして、自分の足跡を見てもらうだけじゃ。あとは殿と新宮殿、犬童殿たちが決めることぜよ」
小野寺はその言葉を帳面には記さず、筆を収めた。書き留めるまでもない。坂本龍馬という男の骨組みそのものだと思ったからである。
遠くで、カンと高く澄んだ槌の音がひとつ、夜空に弾けた。
闇の中で揺れる小さな灯は、川風に晒されながらも消えずに点り続けていた。龍馬はその光景を目に焼き付けるようにしばらく見つめたあと、明日に備えて宿の敷居を跨いだ。
第二百十六話 了
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