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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百十五話「国父の居ぬ間に②―五千両」

一

 あの晩から幾日か過ぎても、小野寺の帳面に書き足された文字は、そのままの形で残っていた。


 『――人吉藩』


 弥生も末に近づき、城下ではまだ、久光出立の名残の慌ただしさが尾を引いていた。留守を預かる者たちの往来は続いていたが、あの朝ほどの熱気は、すでに薄れつつある。


 龍馬は、寄り合いの合間、小野寺の帳面のその頁を幾度も覗き込んだ。球磨川水運。焼酎、椎茸、木材、刃物。練助が酔いに任せて語った話の断片が、小野寺の几帳面な字で、短く並んでいる。


「あの晩の練助さんの話、覚えちゅうか」


 龍馬が問うと、高田は帳面を覗き込みながら頷いた。


「城が焼け、五千両が足りず、どこの藩も貸してくれぬと申しておりました」


「そこよ」


 龍馬は、指で文字をなぞった。


「火事で困っちゅうだけなら、誰かが助けるじゃろう」


 ある晩、龍馬は帳面を閉じながら言った。


「じゃが、問題はその先じゃ」


 高田が問い返す。


「その先、と申しますと」


「復興したあと、人吉が何を持つ藩なのかじゃ」


 小野寺が、練助から聞き出した話をもとに、この数日で調べたことを言い添えた。


「人吉は表向き二万石そこそこの小藩と聞いておりますが、練助殿の話では、それだけの国とも思えませぬ。あの盆地は周りを険しい山に囲まれ、外から検地に入ろうにも、奥まで見通せぬ地形とのことでした。表の石高に出てこぬ新田や富が、山の奥にどれだけ眠っているか、練助殿自身も、よくは分からぬと申しておりました」


「二万石の顔をして、中身はもっと肥えちゅうかもしれん、ちゅうことか」


「あくまで、練助殿の話からの見立てにすぎません。ですが、山林の資材と、球磨川を使った水運は、確かに持っているようです。焼酎、椎茸、木材、それに刃物。物産そのものは、決して貧しい藩のものではありません」


「じゃろうな」


 龍馬は、少し考えるように黙った。


「火事で焼けたんは、城と町並みじゃ。山と川まで焼けたわけやなか」


 ただ困っている被災藩というだけなら、龍馬の興味を長く引くことはなかったろう。焼け出された者に情けをかけるのは、誰にでもできる。だが、その先にあるものまで見ようとする者は、そう多くはない。


「山が焼けたわけでもなし、川が涸れたわけでもなし。人吉が持っちゅう本当の力は、ちゃんと山と川に残っちゅう」


 小野寺が、帳面に目を落としながら静かに続けた。


「持っている底力と、いま困っている姿が釣り合っておりません。私が気になるのは、いつもそこです。釣り合わぬ場所には、必ず動かせる余地があります」


「その言い方、姫様に似てきたのう」


 龍馬がからかうと、小野寺は困ったような顔をした。


「教わったことを、そのまま真似ておるだけです」


 龍馬は笑ったが、その笑いの下で、頭の中は別のことを考えていた。


(力はあるのに、いま困っちゅうだけの国。そういう国は、放っておいても誰かが拾う。薩摩が拾わぬなら、他の誰かが拾うだけのことじゃ。ならば――)


「わしらが、先に拾うちゅう手はなかか」


 高田が、静かに問うた。


「拾う、と申されますと。人吉藩に、何をなさるおつもりで」


「まだ分からん」


 龍馬は、正直に答えた。


「じゃが、練助さんが、あんなに情けなさそうに愚痴をこぼすほど、人吉には金がなか。金がなかのに、宝と水運の道は、ちゃんと残っちゅう。釣り合うちょらんのが、どうにも気になるがじゃ」


 小野寺が、帳面を閉じながら言い添えた。


「私も、坂本殿と同じことを考えておりました。ただ、まだ人吉の内情を、練助殿から聞いた話しか存じません。まずは、もう少し詳しく伺うところから始めるべきかと」


「そうじゃな」


 龍馬はそう呟き、それきりしばらく黙って、帳面の文字を見つめていた。


(あの朝、薩摩の行列を見ながら思うたんじゃ。わしは、何ができるがか、まだ形になっちょらんかった。じゃが、この文字を見ちゅうと、少しだけ、役目が見えてくる気がした)


(金を動かすんは弥太郎や善次郎さんの役目。絵図を描くんは姫様の役目じゃ。なら、わしにできるんは――困っちゅう者を見つけ、動かせる者のところへ繋ぐこと。それだけのことかもしれん)


 だが、その「それだけ」が、今の時代に誰にでもできることではないことも、龍馬は薄々感じ始めていた。


二

 犬童権左衛門は、まだ鹿児島の城下に留め置かれていた。


 薩摩からの五千両は断られ、物資の支援だけが決まっている。犬童は、なおもあちこちへ手を回し、金の当てを探し続けていたが、どこも似たような返事しか返ってこなかった。このふた月あまり、頭を下げ続けてきた顔には、隠しきれぬ疲れの色が濃く滲んでいる。


 犬童が宿としている借家は、練助を通じてすぐに知れた。城下の外れ、留守居役所からほど近い、間借りの一室である。


 その犬童のもとへ、龍馬が自ら訪ねていったのは、練助から人吉の話を聞いてから数日後のことである。宿としている借家の戸口に立ち、龍馬は名を告げた。


「人吉藩の犬童殿とお見受けしたき」


 犬童は、見知らぬ土佐訛りの浪人風の男に声をかけられ、まず眉をひそめた。実務一筋で鍛えられた鋭い目が、龍馬の姿を上から下まで検分する。


「……いかにも、犬童でござんすが」


「坂本龍馬と申す者じゃ。ちくと、話をさせてもらえんかのう」


「何のご用でござんすか?」


「人吉のことじゃ」


 その一言に、犬童の顔つきが変わった。警戒を通り越して、明らかな不審の色が浮かんだ。薩摩の者ではない。土佐の浪人風の男が、なぜ人吉の名を知り、わざわざ訪ねてくるのか。


「……人吉んこと、と申されもすと?」


「火事で困っちゅうこと。五千両が足りんこと。薩摩も、他の藩も、貸してくれんこと」


 犬童は、一瞬言葉を失った。それから、低く問い直した。


「坂本……殿、と申されたな」


「なして、人吉の事情を知っておられる?」


「耳が広いだけぜよ」


 龍馬は、事もなげに答えた。


「ただん物好きにゃ見えもはん」


 犬童の声には、疑いの色が濃く滲んでいた。


「おぬし、何者(なにもん)ん差し金か」


「誰(だん)かの命で動いとんなはる訳じゃなかろうか」


 その問いに、龍馬はふっと笑った。


「差し金か……」


「そんな大層なもんじゃないぜよ」


 龍馬は、犬童の目をまっすぐに見て言った。


「困っている人間がおる」


「それを見過ごせんだけじゃ」


 犬童は、その答えをすぐには信じなかった。世の中に、そんな理由だけで見知らぬ他国のために動く者がいるとは、容易には思えない。


 裏に何かがある――そう疑うのが、このふた月あまりで身についた癖であった。


「坂本殿。このご時世、理由んうして人を助くっ者などおりもはん。おぬしん後ろに、いったい誰(だん)がおんなさるか」


「後ろには、誰もおらんぜよ」


 龍馬は、肩をすくめた。


「わし自身が、勝手にお節介を焼きゆうだけじゃ。信じられんなら、それでもかまわん」


 犬童は、しばらく黙ったまま、この妙な浪人の顔を見つめていた。龍馬の物言いには、嘘をついている者特有の淀みも、値踏みするような目つきもなかった。だが、だからといって、すぐに心を開けるほど、犬童の背負っているものは軽くなかった。


 熊本藩に頭を下げに行ったとき、応対の役人は、さも面倒くさそうに「よそはよそ、うちはうち」とだけ言い放って、それきり取り合わなかった。日向のある藩では、話を最後まで聞いてすらもらえなかった。


 そのたびに犬童は、腹の底に灼けるような悔しさを溜め込みながら、それでも次の藩へ足を向けてきた。諦めれば、待っているのは人吉の民の飢えだけである。


 犬童は、ふと苦い顔をして、部屋の隅へ目をやった。積み上げられた書付の山が、このふた月あまりの奔走の跡を物語っていた。


「……坂本殿。正直に申せば、こっちはもう、疲れ果てておっもす。薩摩にん、日向んいくつん藩にん頭ば下げ、断られ続けてまいりもした。そこへ、見んも知らん土佐んお方が、いきなり人吉ん名ば口にして訪ねてこられれば、疑うなと言う方が無理な相談でござんもす」


「それも道理じゃ」


 龍馬は、素直に頷いた。


「じゃき、今日は名乗りに来ただけでかまわん。次に来たとき、また話を聞いてくれりゃええ」


「……今日のところは、これで」


 犬童は、それだけ言って、話を切り上げた。龍馬も、それ以上は押さなかった。


三

 その日から、龍馬は幾度か犬童のもとを訪れるようになった。練助も、たいていその場に同席した。


 犬童と練助は、それぞれの目で、龍馬という男を観察していた。


 普通なら、こうした場でこそ出す札がある。近衛家の名。薩摩の力添え。どこそこの誰それの紹介――そういうものを持ち出して、相手に己の値打ちを分からせるのが、この手の交渉の常道であった。


 だが、龍馬はそのどれも出さなかった。むしろ、自分には何もないという顔をしていた。


 練助は、そのことに、最初は妙な心地がした。江戸や薩摩の交渉ごとといえば、家格や後ろ盾を競い合うものだとばかり思っていたからである。何も持たぬと言い切る者が、どうやって物事を動かすのか、練助には見当がつかなかった。


 二度目に訪れたとき、龍馬は城下で仕入れた焼酎を一升下げてやってきた。


「土産じゃ。人吉の球磨焼酎の味と、食べ比べてみとうてな」


 金の話も証文の話もしない。ただの土産を受け取り、犬童は戸惑うばかりであった。


 三度目には特に用もなく顔を出し、犬童と練助が相場調べに歩く後ろを、ただぶらぶらとついてきた。米屋の店先で値を尋ねる練助の傍らで、龍馬は暇そうに欠伸をしていたが、帰り際、ふと呟いた。


「その店、裏の路地からの方が荷入れの人足が少のうて、話が聞きやすいぜよ」


 何気ない一言だったが、犬童はその観察の鋭さに内心驚かされた。


 またある日、犬童が借家の雨漏りを直そうと屋根に上っているのを見かけると、龍馬は寄っていって脚立を支え、半刻かけて屋根板を打ち直すのを手伝った。それだけで「じゃあな」と帰っていく。


 ある晩、道に迷った練助を宿まで送り届ける道すがら、練助が思い切ったように尋ねた。


「坂本殿。ほんによ、なんも後ろ盾ば持ってござんせんとな?」


「持っちゅうものなら……あるちや」


「なんです?」


「人との縁ぜよ」


 練助は、その答えにしばらく絶句した。


「縁ごときで、五千両もの金が動くとは、とても思えもせんで……」


「動かんかもしれんねえ」


 龍馬はあっさりと笑った。


「じゃが、縁がなけりゃ、そもそも話す相手にすら会えんぜよ。金の前に、まず人がおる。わしにできるんは、そこまでじゃ」


「坂本殿は、それで儲かるつですか」


 練助が、素朴に問うた。龍馬は、声を上げて笑った。


「一文にもならんぜよ。じゃが、儲けを考えて動いちょったら、こないなお節介、割に合わんき、とうにやめちょる」


「じゃ、なしてでございますか?」


「性分やな。自分でも損な役回りちゅうことは、分かっちゅうがですがねえ」


 龍馬は、それ以上は言わなかった。練助は、その答えに、どこか拍子抜けしたような顔をしていた。


 犬童は、少し離れたところで、その様子を黙って見ていた。


 この男は、危うい策士には見えない。かといって、ただの世話焼きでもない。屋根の修理を手伝い、迷った若者を送り届ける。それでいて、何一つ見返りを求めぬ。犬童には、まだこの男の正体は測れなかった。


 ただ少なくとも、人吉を食い物にするため近づいてきた者ではないということだけは、この数日のやり取りで分かり始めていた。


 ある晩、犬童は珍しく、己から酒を勧めた。


「坂本殿。まっこつのこつば申し上げます。これまで、あちこちの藩へ頭ば下げて回るたんびに、どうせ人吉んごたる小藩は相手にされんとだと、心ん底で諦めとりました」


「そうなが」


「熊本藩にも、日向のいっぺこっぺの藩にも、にゃっともならんごつ断られ申した。それが当たり前じゃと思うとったところへ、坂本殿んごたる、藩にも属さんお方が、あっさりと人吉んために動いてくださる。……まっこつ、まだ狐につままれたごたる心地でございます」


 龍馬は、盃を傾けながら、それにはすぐ答えなかった。


「犬童殿は、よう諦めんかったねえ」


「諦むれば、人吉の者どもの飢えます」


 犬童は、静かに、はっきりと言った。それだけの重みが、この男の背にはあった。龍馬は、その言葉を聞いて、初めてこの男を、腹の底から信じられる気がした。


四

 龍馬は、五千両を借りる話へ、すぐには進まなかった。


 その前にまず、小野寺に確かめた。


「小野寺殿。人吉のこと、どう思いゆう?」


 小野寺は、練助から聞き出した話をもとに整理した帳面を広げ、その頁を指で叩いた。


「坂本殿。ただ金を借りるだけでは意味がありません。返せる道筋が必要です」


「道筋、とな」


「球磨川を下って八代へ抜け、そこから長崎へ運ぶ海路は、火事前から存在しています。問題は、荷を捌く城下の蔵や仕組みが焼けたことです。物産そのものは山と川に残っています」


「なら、その道筋は、もう出来上がっちゅうがか」


「道筋そのものはあります。ただし、火事で焼けた城下の商家や蔵が、その荷を捌く力を失っています。品は作れても、それをまとめて売る仕組みが、いま人吉にはありません」


「金を貸してくれと言えば、ただの借金です」


 小野寺は、淡々と続けた。


「しかし、物産と廻送を合わせれば、商いになります。人吉の品を、長崎の会所の網へ乗せることができれば、返す金は、人吉の外から入ってくる銭で賄えます。人吉の懐から直に絞り出す必要はありません」


「木材と椎茸だけで、五千両分の値打ちが出るがか」


「一年やそこらでは、無理でしょう」


 小野寺は、正直に答えた。


「ですが、五千両を一度に返す必要はありません。年を分けて少しずつ返す形にすればよい。人吉が毎年、球磨川から送り出す品の一部を充てる。それで道筋は立ちます。焼酎や刃物も同じです。人吉は、火事の前から、それらを商いとして扱ってきた土地です」


「新しいものを一から作るのではありません。すでにある力を、返済の道へ繋げるだけです」


「ふうん」


 龍馬は、腕を組んだまま、しばらく考え込んだ。


「一度にやろうとするんやのうて、細う長うやるちゅうことか」


「はい。細く長く続くものほど、途中で切れにくいですからね」


「なるほどのう」


 龍馬は、その言葉を口の中で転がした。


(姫様が、言うちょったことじゃ。信用とは、いまある金の話やのうて、まだ見えん先の値打ちを見ることじゃと。算盤の話としてしか聞いちょらんかったな)


 だが、目の前の帳面を見ながら、その意味の端が、龍馬の中で形を持ち始めていた。


「小野寺殿。この見立て、書きものにできるがかね」


「もとより、そのつもりです」


 小野寺は、その足で練助のもとを訪ね、幾度も細かい聞き取りを重ねた。


「椎茸は、一年にどれほど採れますか」

「木材は、どの木を、どの季節に伐り出しますか」

「球磨川の水嵩は、月によってどれほど変わりますか」


 練助は、最初はその細かさに戸惑っていたが、やがて、知る限りのことを、思い出せる限り答えるようになった。


「小野寺殿は、まこつこまかこつばお聞きになりますな」


「大まかな話では、頷かせることはできますまい。細かい数字が積み重なってこそ、絵空事でないと分かっていただけます」


 小野寺は、練助の答えを、その都度帳面へ書き足していった。分からぬところには、分からぬと記す。推し量ったことを、事実のように書くことはしなかった。


 小野寺は、すでに新しい頁に筆を走らせていた。


 人吉が持っているのは、いま困っている姿だけじゃない。山と川と、そこから生まれる品と、それを運ぶ道筋がある。それを合わせて見せることができれば、ただの憐れみでは動かない銭も、動くかもしれない。


  *


 数日後、小野寺は書き上げた見立てを、龍馬と高田の前に広げた。


「これで、ひとまず形にはなりました」


「よう、ここまで詰めたのう」


 龍馬は、頁を一つずつ繰りながら唸った。見事な数字の羅列である。その裏にある小野寺の丹念さだけは、はっきりと伝わってきた。


「あとは、これを誰に見せるかじゃ」


「薩摩は、すでに一度断っています。同じ場所へ持って行っても、色よい返事は期待できますまい」


 高田が言うと、龍馬は頷いた。


「じゃき、長崎じゃ」


「弥太郎殿ですか」


「弥太郎なら、この帳面の値打ちが分かる。それに、あいつは薩摩の外の男やき。薩摩が一度断った金でも、長崎の理屈で動かせるかもしれんちや」


 小野寺は、その見立てに頷いた。


「大坂の惣会所は、すでに一万両を出しております。二度目を同じ窓口に頼めば、心証を損ねかねません。長崎という、まったく別の窓口を使う方が、筋が通りましょう」


 こうして、龍馬たちの行き先は、長崎に決まった。


  *


 龍馬たちが長崎行きを決めたと聞いて、五代は自分も同行しようかと一度は言い出した。だが、真木の見張りと藩の実務を抱えるいまの身では、長く城下を離れるわけにはいかない。


「坂本どん一人で行かせるんは、いささか心もとなかが」


「小野寺殿がおる。心配ないぜよ」


 龍馬がそう請け合うと、五代はしばらく思案してから頷いた。


「……分かりもした。留守は、こちらで見ておきもす」


 五代は、龍馬たちを見送りながら、小さく苦笑した。この土佐の男は、いつの間にか、自分一人の繋がりを頼りに、薩摩の外へまで手を伸ばしている。危ういと思わぬわけではない。


 だが、松陰から受け取った絵図が、こうして別の形で広がっていくのを見ると、不思議と頼もしさのほうが先に立った。


五

 龍馬、高田、小野寺の三人は、長崎へ向かうことになった。


 目当ては、天朝物産会所の長崎の窓口。弥太郎への相談である。


 鹿児島から長崎までの道のりは、遠い。海沿いの湊を幾つか継ぎながら、四、五日をかけて北へ進む。船に揺られる日もあれば、峠を歩き通す日もあった。


 道中、高田は相変わらず口数少なく、行く先々の湊の様子や、潮の満ち引き、船の出る刻限を、控えの紙に書き留めていった。小野寺は、揺れる船の上でも、人吉の見立てを書き足した紙の束を、懐から放さなかった。


 途中、天草の沖で、乗り継いだ小さな物産船が時化に遭い、半日ほど湊に足止めされたことがあった。船頭は、この時季はよくあることだと事もなげに言ったが、龍馬は苛立つでもなく、湊の茶屋で干物を炙りながら、小野寺の紙束を覗き込んでいた。


「急いてもしょうがなかき、待つあいだに、もう一度見立てを詰めておこうぜよ」


「はい」


 小野寺は、風で紙が飛ばされぬよう文鎮代わりの小石を置きながら、龍馬の問いに一つずつ答えていった。凪ぐのを待つその半日は、龍馬たちにとって、無駄な足止めではなく、むしろ手元の見立てを固める時になった。


 潮の匂いの濃い港町を抜けるたび、龍馬は懐の重みを、無意識のうちに確かめていた。


(姫様。まず、自分の話で通してみるぜよ)


 高田が、ある晩、旅籠の灯りの下でぽつりと言った。


「懐の扇子は……」


「何(なん)を言いゆうがぞね。使わんちや」


 龍馬は、即座に答えた。


「これは、どうにもならんときに使うもんぞね。姫様からも慎重にと言われちゅうきに」


 高田は、それ以上は何も言わなかった。ただ、懐から自分の控えを取り出し、これまでの道中で控えてきた湊の名と、船の刻限を、もう一度確かめた。長崎に着いたその日から、すぐ動けるようにしておく。


 それが、この男の身についた習いだった。


六

 長崎の湊に着いたのは、旅立ってから七日目の昼であった。


 坂を埋め尽くす異国風の屋根瓦、南蛮渡りの品を並べた店先、居留地の方から流れてくる、聞き慣れぬ言葉の響き。龍馬にとって、この町を訪れるのは久々であった。だが、来るたびに、この湊の匂いと騒がしさだけは、いつも新しく感じられた。


 大浦屋へ向かう前に、高田はまず町の様子をひとしきり見て回った。奉行所の役人がどの辻に立っているか、異国商人の荷がどの蔵に積まれているか。この長崎の地は、幕府の目と、異国の目と、諸藩の目とが幾重にも重なり合う土地である。うかつに動けば、余計な詮索を招きかねない。


「奉行所の動きに、変わったところはなさそうです」


 高田がそう告げると、龍馬は頷いた。


 三人は、休む間もなく大浦屋を訪ねた。


 弥太郎は、以前の粗末な身なりではなくなっていた。それでも、帳場の奥から向けてくる目だけは変わらない。鋭く、相手の勘定を読む目だった。


「龍馬か。何(なん)しに来た」


「弥太郎に、頼みがあってのう」


「頼みごとで、わざわざ薩摩から出てくるとは、よっぽどのことやろう」


 龍馬が用件を切り出すと、弥太郎の目つきが、わずかに険しくなった。


「五千両、ちゅうのは、聞き捨てならんぜよ」


「人吉藩に貸してほしいがじゃ」


「龍馬……」


 弥太郎は、腕を組んだ。


「理由だけで、金は動かん。人吉が、何をした藩か知らんが、火事に遭うたいうだけで五千両を出しちょったら、こっちの身が持たんき」


「薩摩でさえ、断った金額ぜよ」


 弥太郎は、鼻を鳴らした。


「薩摩が断った金を、なぜ、この長崎の会所が肩代わりせにゃならん。おれたちは、慈善で商いをしちょるわけやなか」


「慈善じゃなか」


 龍馬は、首を振った。


「人吉は、商いになる国じゃ」


「商いになる、と言うんは簡単じゃ」


 弥太郎は、腕を組んだまま、龍馬を睨め上げた。


「肥後の山奥の小藩じゃろう。おれは、人吉ちゅう名前すら、この耳で聞いたことがなかったぜよ。そんな国が、どうやって五千両を返す」


「それを言うために、来たがじゃ」


「口先だけの話やったら、ここから先は聞かんぜよ」


 弥太郎の声には、警戒の重みがあった。


「おまん、わしが最初に『儲け話がある』言うて誘うたときも、半信半疑じゃったのう」


 龍馬がそう言うと、弥太郎はふんと鼻を鳴らした。


「あんときは、儲け話やったき、まだ話が早かった。今度は、貸せちゅう話じゃろうが」


「貸すんも、いずれ儲けになる話ぜよ」


「口ではなんとでも言えるき」


 弥太郎は、そう言い返しながらも、その目には、かつて龍馬に誘われたときと同じ、値踏みするような、しかしどこか面白がるような光が浮かんでいた。


「分かっちゅう」


 龍馬は頷き、傍らの小野寺に目をやった。


 小野寺が、帳面を弥太郎の前へ差し出した。人吉の物産、球磨川の水運、大坂での一万両の経緯、そして返済の見込みが、几帳面な字で並んでいる。


 弥太郎は、しばらく無言でその頁をめくっていた。


 途中、ふと手を止めて、龍馬を見た。


「この、球磨川を下って八代へ、というくだり。誰が調べた」


「小野寺殿じゃ」


 弥太郎は、もう一度小野寺の顔を見て、それから帳面へ目を戻した。


「木材と椎茸の値、去年の相場と比べて、控えめに見積もってあるな」


「相場が下がる年もあります。低く見積もっておけば、外れても損は小さく済みます」


 小野寺が答えると、弥太郎の口の端が、わずかに動いた。


「球磨川から八代まで、船で何日かかる」


「練助殿の話では、水の多い時季で二日、少ない時季でも四日ほどとのことでした」


「八代から長崎までは」


「海路にて、さらに二、三日と見積もっております」


「その道中の入り用は」


「船賃、荷役の駄賃、途中の関の口銭。いずれも、練助殿から聞いた過去の相場をもとに、少し高めに見積もっています」


 弥太郎は、矢継ぎ早に問い、小野寺はそのひとつひとつに、淀みなく答えていった。問いが尽きたところで、弥太郎はしばらく黙って腕を組み、それから、ふんと小さく息を吐いた。


「……この帳面、練助とやらから聞いた話だけで、よう、ここまで組んだもんじゃ」


「至らぬところも多々あろうかと存じます。ご指摘いただければ、直します」


 やがて、その目の色が変わった。


七

「……ふん」


 弥太郎は、帳面を閉じた。


「面白い見立てじゃのう」


「じゃき、貸してくれるがか」


「そう急(せ)くな」


 弥太郎は、指を三本立てた。


「条件がある」


「人吉の物産取引は、この長崎の会所を窓口にすること」


「返済の道筋を、この帳面の通りに、人吉藩の名で書き付けにすること」


「長崎での取引の窓口を、人吉側にも一つ設けること」


「当然ぜよ」


 龍馬は、間を置かずに答えた。


「じゃが、窓口を人吉側にも一つ、とは、どういうことじゃ」


「人吉から、荷とともに人を寄こせということじゃ」


 弥太郎は、事もなげに言った。


「荷だけ受け取って、長崎の言い値で売る。それでは、いつまで経っても人吉は蚊帳の外じゃ。人吉の者が長崎に出て、値の付き方を自分の目で見るようにならんと、この先も同じことの繰り返しになる」


「値の付き方を、自分の目で見るとは…?」


 龍馬が問い返すと、弥太郎は懐から一枚の紙を取り出した。


「これは、去年おれが茶と生糸でやった仕組みやき。半年先に渡す荷の値を、先に決めておく。相場が下がっても、こっちは約した値で買い取ってもらえる。上がりすぎても、向こうは同じ値で仕入れられる。双方とも、相場の博打を打たんで済む」


「先の値を、先に決めてしまう、と」


「そうじゃ。人吉が椎茸や木材でこれをやれば、火事のあとの不安定な時季でも、来年の実入りが先に見えるようになる。返す金の当てが立てば、五千両を貸す側も安心できるちゅうことじゃ」


 龍馬は、その仕組みの意味を、すぐには全部飲み込めなかった。だが、弥太郎の目には、幾度も現場で試してきた者の確かさがあった。


「窓口を作れちゅうんは、それを人吉の者に、直に覚えさせろっちゅうことか」


「そういうこっちゃ。長崎の値付けは、人吉に居ながらにして分かるもんやなか。誰か一人でも、こっちで揉まれた者がおらんと、人吉はいつまで経っても、言い値を飲まされるだけの側で終わる」


 龍馬は、その言葉に、内心で唸った。これは、単なる金貸しの話ではない。人吉という国が、長崎という商いの網の中へ、初めて一本の糸を通すことになる。龍馬は、その意味を、はっきりと分かっていたわけではなかった。だが、悪い話でないことだけは、はっきりと分かった。


「龍馬」


 弥太郎が、ふと苦笑した。


「おまん、いつの間にそんな話ができるようになったがか」


「わしも知らんぜよ」


 龍馬は、頭を掻いた。


「周りの人間に、教えてもろうただけじゃ」


「小野寺の帳面と、あんたの人たらしと、両方揃うたきに、こういう話が通るがじゃ」


 弥太郎は、そう言って、にやりと笑った。それから、小野寺の広げた頁を指で叩いた。


「控えめに見積もり、分からんことは分からんと書く。そういう帳面がいっとう信用できる。おまんの仕事、悪うなか」


「……畏れ入ります」


 小野寺は短く答えたが、その頬にはわずかに血の色が差していた。長崎の海千山千を相手にしてきた男から、帳面の付け方そのものを認められたことは、何よりの誉れであった。


  *


 その帰り、高田は大浦屋の裏手で、旭狼衛長崎出張支部の隊長・速水護を捕まえて、短く言葉を交わしていた。


「五千両の証文が動きます。道中、目を光らせていただけますか」


「承知した。鹿児島までの道筋、こちらでも人を出しておこう」


 速水は、それだけ答えて頷いた。長崎という異文化の混ざる土地で、任務を冷徹にこなしてきた男である。多くを問わず、必要なことだけを引き受ける身のこなしに、高田は小さく頭を下げた。


「助かります」


 龍馬は、その短いやり取りを、少し離れたところで眺めていた。己の与り知らぬところで、こうして道が整えられていく。それもまた、一人の力ではのうて、幾つもの縁が束になって働いているということかと、龍馬は思った。


八

 五千両を、現金のまま鹿児島から人吉へ運ぶのは危うい。街道には、火事の噂を聞きつけた食い詰め者や、物騒な浪人も少なくない。大金を担いで運ぶことそのものが、余計な災いを呼びかねなかった。


 そこで用いられたのが、為替であった。


「金そのものは、動かさん」


 弥太郎が、証文の書式を示しながら言った。


「長崎の会所が、人吉藩名義の証文を書く。この証文を、人吉が薩摩や八代の会所へ持っていけば、そこで銭に換わる仕組みじゃ。運ぶんは、この一枚の紙だけでよか」


「紙一枚で、五千両が動くわけやな」


「そうじゃ。信用があればの話じゃき」


 弥太郎は証文に筆を走らせながら続けた。


「この紙切れが五千両の値打ちを持つんは、紙そのものに力があるからじゃない。天朝物産会所の名を背負うた証文だからじゃ。長崎も大坂も、同じ帳面を共有し、同じ信用の上で動いとる。だから遠く離れた鹿児島でも、この紙一枚で銭に換わる」


「つまり、銭の代わりに『信用』を運ぶわけか」


「そういうことじゃ」


 弥太郎は筆を止め、証文の裏側をコンコンと指で叩いた。


「長崎でいくら預かり、大坂でいくら払うたか。帳面を几帳面に書き付け、常に突き合わせる。その裏付けがあるから信用が生まれ、紙が五千両の値打ちを持つ。小野寺殿の帳面と、根っこは同じ理屈ぜよ」


「紙を信じるんやなく、その後ろにある帳面と人を信じるわけじゃな」


「その通りじゃ。帳面が信用を作り、信用が紙に値打ちを与える。だから、金を運ばんでも、五千両を動かせる。ただし、小野寺殿の帳面が一つの蔵の中の金勘定なら、こっちは長崎と大坂、薩摩と八代、遠く離れた蔵同士をつなぐ帳面じゃ」


 龍馬自身、その仕組みを幾度となく耳にしてはいたが、目の前でそれが動く様を見るのは、初めてに近かった。


 弥太郎が筆を執り、証文の文言をあらためる。小野寺が、その控えを几帳面に写し取る。


 龍馬は、その一連のやり取りを、ただ黙って眺めていた。


 己一人の腕で、五千両もの金を動かせるはずがない。だが、この仕組みの中では、坂本龍馬という一人の男がどれほど働けるかは、大きな問題ではなかった。信用という見えぬ繋がりが、鹿児島と長崎を結び、その先の江戸まで、静かに金を動かしている。


(――姫様が組んだ仕組みは、こういうもんじゃったか)


 一人の力ではなく、網の力で金が動く。龍馬は、その手応えを、また違う重みとして、胸の奥に感じていた。


 証文には、総差配役・大浦慶の名も添えられねばならなかった。弥太郎に連れられて奥座敷へ通ると、煙管を手にした大浦慶が、証文にざっと目を通した。


「五千両ね……。ばってん、弥太郎がそこまで言うなら、よかろうもん」


 慶は、それだけ言うと、証文に己の名を書き添えた。多くを問わず、語らない。その割り切りの潔さに、龍馬はかえって、この女傑の重みを感じた。


「大浦さん。まっことすまん。恩に着る」


「礼はよか。弥太郎の見立てを信じただけたい」


 慶は、そう言って、また煙管を一口ふかした。


 証文が書き上がると、弥太郎はその写しを龍馬の手に押し付けるようにして渡した。正本は会所の便で、別に送られる。


「持って帰れ。おれの目の黒いうちは、この証文、必ず金に換えてやるき」


「助かったぜよ、弥太郎」


「龍馬、これは恩じゃなか」


 弥太郎は、そっぽを向いた。


「商いじゃ。人吉が、この先ちゃんと荷を寄こせば、それでよか」


 龍馬は、証文の写しを懐へしまった。紙一枚の重みしかない。だが、その約束の重みは、別のところにあった。たったいま、己の手で結んだ約束である。


  *


 帰り支度を整えていると、弥太郎が奥から桐の箱を三つ抱えて戻ってきた。


「龍馬。持っていけ」


 蓋を開けると、黒い鉄の短筒が一挺、布にくるまれて収まっていた。脇には紙包みの弾薬と、雷管の入った小箱が添えられている。


「なんじゃ、これは?」


「イギリス国のアダムスちゅう短筒じゃ。グラバーの蔵から出た品よ」


 弥太郎は一挺を取り上げると、龍馬の手に載せた。ずしりと冷たい重みが、掌に沈む。


「メリケンのコルトは、一発撃つたびに撃鉄を起こさにゃならん。こいつは違う。引き金を引くだけで、五発続けて撃てる」


「五発も、か」


「弾もつちゅう。五千両の証文を懐に入れて街道を歩くがぞ。刀一本じゃ心もとなかろう」


「わしに鉄砲なんぞ、似合わんぜよ」


「似合う似合わんの話じゃない。おまんが途中で斬られたら、人吉の話も、この証文も終わりじゃ。わしにとっちゃ商いの損なんよ」


 弥太郎はそっぽを向いたまま言った。龍馬は苦笑し、短筒を懐の奥へ収めた。


 弥太郎は、二つ目の箱を高田の前へ押しやった。


「おまんらの分もある」


 高田は箱に視線を落としたが、手を伸ばそうとはしなかった。


「お心遣い、痛み入ります。ですが、私は遠慮いたします」


「なんでじゃ」


「手に馴染まぬ得物は、いざという時に一拍遅れます。私には、これで足りますので」


 そう言って、高田は腰の柄に軽く手を添えた。


「それに、音の出る物は私の務めには向きません」


 弥太郎はふんと鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。


 三つ目の箱が、小野寺の前に置かれる。


「おまんは、どうする」


 小野寺はしばし迷い、やおら箱の蓋に手をかけた。


「……撃ったことは、一度もありません」


「なら、なおさら持っておけ。帳面を抱えた者が、帳面ごと襲われることもある」


「……では、ありがたく頂戴します」


 小野寺は短筒を持ち上げると、その重さに目を丸くした。それから弾薬の包みを一つずつ確かめ、帳面の端に書き留め始める。


「受け取りの数を、控えておきます」


「律儀な男じゃのう」


 弥太郎が呆れたように笑った。


 龍馬は懐の上から、硬い鉄の感触を確かめた。姫様から預かった扇と、弥太郎から手渡された短筒。どちらも、使わずに済むならそれに越したことはない。


  *


 鹿児島への帰り道は、来たときよりも幾分か足取りが軽かった。


 懐には、証文の写しが一枚。それだけの重みしかないはずなのに、龍馬には、行きの道中よりもよほど確かな手応えがあった。


「小野寺殿」


 船の上で、龍馬がふと問うた。


「おまん、こういう算段をするんが、好きなんかえ」


「好き、と申しますか……」


 小野寺は、少し考えてから答えた。


「合わぬ数字が、合うようになる瞬間は、悪くないと思っていますよ」


「わしにゃあ、分からん理屈じゃ。じゃが、おまんがおらんかったら、この話は、犬童殿の疑いを解く前に終わっちょった」


「坂本殿がおられなければ、そもそも犬童殿と話す糸口すらございませんでした」


 高田が、口を挟んだ。


「お二人とも、互いに持ち上げ合っておりますが、どちらが欠けても、ここまでは参りませんでした。それだけのことでしょう」


 龍馬と小野寺は、顔を見合わせて、少し笑った。


九

 長崎から鹿児島までの帰路も、幾日かを要した。潮の香りが桜島の噴煙の匂いへと変わるころには、龍馬の懐の証文は、幾度も確かめられて、すっかり皺が寄っていた。


 証文を携えて鹿児島へ戻った龍馬は、休む間もなく、その足で犬童のもとへ向かった。


「犬童殿。五千両の目処が立ったぜよ」


 犬童は、しばらくその言葉の意味が呑み込めぬという顔をしていた。


「……目処の、立った?」


「長崎の会所から、人吉藩名義の証文が出る。為替で届くきに、道中の危うさもなか」


 龍馬は、懐から証文の写しを取り出し、犬童へ差し出した。


 犬童は、証文を受け取り、幾度も文言を読み返した。薩摩でさえ動かせなかった額である。それを、どこの藩にも属さぬ一介の土佐浪人が、いつの間にか動かしてみせた。


「……信じられんこつございます」


 犬童の手が、わずかに震えていた。


「坂本殿。これは、いったい、どぎゃん手妻(てづま)でございますか」


「手妻やなか」


 龍馬は、首を振った。


「わし一人の手柄やなか。小野寺殿が、人吉の物産と廻船を帳面に起こしてくれた。長崎の弥太郎殿が、その帳面を見て証文を切ってくれた。それに、練助さんが人吉の話をしてくれんかったら、そもそも始まっちょらん。人との縁があっただけじゃ」


「物産と、廻船……」


 犬童は、証文の裏に添えられた条件の覚え書きに、目を通した。人吉の物産取引を長崎の会所が窓口とすること。返済の道筋を明らかにすること。人吉から長崎へ、取引の窓口となる者を出すこと。


「人吉から、長崎へ人ば出す、ちございますが」


「弥太郎殿が言うちょった。荷だけ寄こされても、値の付き方が分からんままでは、いつまで経っても人吉は損をする側になるちゅうことじゃ。誰か一人でも、長崎で揉まれた者がおらんといかんそうな」


 犬童は、しばし考え込んだ。


「……それは、あるいは、練助ば」


「練助さんなら、うってつけかもしれんのう」


 龍馬がそう言うと、犬童の顔に、これまでとは違う色が浮かんだ。困惑でも、疑いでもない。それは、若い者の行く末に、思いがけぬ道が開けたのを見たときの、驚きに近いものであった。


「これは……金ば借りるちいう話ではございませんな」


「そうかもしれんのう」


 龍馬は、悪びれもせずに頷いた。


「人吉が、これから外とどう繋がっていくかっちゅう話でもある」


 犬童は、しばらく黙って、証文を見つめていた。それから、深く頭を下げた。


「坂本殿。この御恩、人吉藩は生涯(しょうげ)忘れ申さん」


「大袈裟ぜよ」


 龍馬は、笑って手を振った。


  *


 その場に控えていた練助は、犬童と龍馬のやり取りを聞きながら、己の胸の内がざわつくのを感じていた。


 『長崎へ人を出す。誰か一人でも、こっちで揉まれた者がおらんといかん』……犬童の口から漏れたその言葉が、まだ耳の底に残っている。


「練助さん、どうかしたかえ」


 龍馬に問われ、練助は我に返った。


「いえ……。もし、私が長崎へ出ることになれば、ち。ちっと、恐ろしかごたる、そればっかりの浮かんどりました」


「おそろしいかえ?」


「はい。私は、犬童様のお供をして頭を下げて回るだけの身にございました。それが、いきなり長崎で商いの窓口を務めよと言われれば……」


「できるかどうかは、やってみんと分からんぜよ」


 龍馬は、あっさりと言った。


「じゃが、おまんが人吉の話をしてくれんかったら、この五千両の話は、そもそも始まっちょらん。おまんには、それだけの目と耳があったっちゅうことじゃ」


 練助は、その言葉に、何も返せなかった。ただ、胸の奥で、これまで感じたことのない熱が、じわりと広がっていくのを感じていた。


十

 証文の一件から数日が過ぎたころ、犬童は改まった様子で、龍馬たちの宿を訪ねてきた。


「坂本殿」


 犬童が、あらためて口を開いた。


「殿に、お会いいただく必要のございます」


「人吉の……殿様に?」


「はい」


 犬童の声には、いつになく硬いものがあった。


「この話、人吉藩として、直に礼ば申し上げねばなりまっせん。物資のみならず、五千両もの金子の道を開いていただいた御恩でございます。それに……」


 犬童は、少し間を置いた。


「殿は、聡明なお方でございます。この一件、坂本殿お一人の胸に収めておくには、いささか大きすぎ申そう」


 龍馬は、少し驚いた顔をした。


 ここまでは、犬童や練助と、一人と一人の縁として動いてきた。だが、藩主への謁見となれば、話は違う。人吉藩という国と、坂本龍馬という一個人とが、正式に向き合うことになる。


 龍馬には、相良家との正式な繋がりなど、何もなかった。


「坂本殿」


 高田が、傍らでそっと言った。


「ここから先は、ただの世話焼きでは済みますまい。殿様の御前で、坂本殿が何者であるかを問われることも、あるやもしれません」


「分かっちゅう」


 龍馬は、懐へ手をやった。指先が、あの硬い骨の感触に触れる。


(――これを見せれば、おそらく、殿様も安堵されるじゃろう)


 だが、それ以上は動かさなかった。


(ここまでは、坂本龍馬という一人の男の縁で歩いてきた道じゃ。殿様に会うその日まで、その足で歩いてみるぜよ)


「練助さん」


 龍馬は、隣で二人のやり取りを見守っていた練助に声をかけた。


「殿様は、どげな御方かえ」


「頼基様は……」


 練助は、少し考えてから答えた。


「若うございますが、物事ば冷静に見極めらるる御方です。この度の大火でも、家中の混乱の中、取り乱すこつなく、すぐに薩摩への使いを出させました。ただ……」


「ただ?」


「ただ、なしてちいう問いには、たいが厳しい御方でもございます。坂本殿が何者か、なしてそこまでなさるっとか。おそらく、包み隠さず問わるるこつになり申そう」


 龍馬は、それを聞いて、小さく笑った。


「なら、包み隠さず答えるだけじゃ」


 小野寺が、傍らで帳面を整理しながら言い添えた。


「坂本殿。謁見の場では、五千両の経緯と、返済の見立てを、殿様御自身にご説明いただくことになろうかと存じます。私の方で、数字と道筋をまとめた控えをお作りします。坂本殿は、それをご覧になりながらお話しくだされば、よろしいかと」


「助かるぜよ。数字の話は、わしより小野寺殿の方が、よっぽど頼りになる」


「私は、殿様の御前には出られません。控えをお渡しするまでが、私の役目です」


 龍馬は、その言葉に頷いた。ここから先は、帳面ではなくて、坂本龍馬という男の言葉で、殿様に向き合わねばならない。そのことが、じわりと胸の底に伝わってきた。


 高田が、間を置かずに付け加えた。


「御前での作法のことなら、坂本殿には心配はいらぬでしょう。姫様の前で口上を述べられた折も、少しも臆されなかったと聞いております」


「作法は、土佐で一通り仕込まれちょるきに」


 龍馬は笑ったが、高田の顔は緩まなかった。


「私が案じておりますのは、作法ではありません。今の坂本殿は、身分の上では一介の浪人でしかないということです」


 その一言に、龍馬は口をつぐんだ。高田の言う通りであった。


「……そう言われると、確かにそうじゃな」


「せめて、人吉の殿様が何を大事に思うておられるか、それだけは、練助殿からよう聞いておかれるとよろしいかと」


 龍馬は、その助言に素直に頷いた。剣で押し通すことも、理屈で説き伏せることも、ここではできない。ならば、これまでどおり、まず相手を知ることから始めるほかなかった。


「して、いつ、人吉へ行ったらえいろうか」


 龍馬が問うと、犬童は少し考えてから答えた。


「城下の普請も、まだ落ち着いており申さん。ひと月ほどお待ちいただければ、殿の御都合もつけやすうなろうかと存じます」


「ひと月か」


「その間に、こちらでも支度ば整えときます。証文の写しと、坂本殿のことを、あらかじめ殿のお耳に入れておき申そう」


「あらかじめ、ちゅうのは?」


「いきなり見も知らぬ土佐浪人の現れては、殿も身構えられ申そう。五千両の道ば開いた恩人のある、ちだけ、先に申し上げておきます」


 龍馬は、それに頷いた。


「練助さんも、一緒に人吉へ戻るがか」


「はい。私は犬童様と一足先に戻り、坂本殿のお発ちになる頃合いに合わせて、御城下の様子ばお知らせいたします」


 こうして、鹿児島での日々には、ひとまずの区切りがついた。あとは、ひと月のうちに、それぞれが己の支度を整えるだけである。


 その足で、龍馬は五代のもとへも顔を出し、五千両の顛末と、人吉への謁見が決まったことを伝えた。


「……そこまで、話が進んじょったとは」


 五代は、しばし絶句してから、深く息を吐いた。


「坂本どんらしい、といえば、坂本どんらしかが。じゃっどん、正直、驚きもした」


「わしも、自分でびっくりしちゅう」


 龍馬は、笑いながら答えた。


「殿様に会うたら、どうなるか分からんき、五代殿には、留守の間、真木殿のこと、頼むぜよ」


「承知しもした」


 五代は、頷いてから、ふと付け加えた。


「坂本どん。人吉のこと、うまくいけば、これは薩摩の外側に、もう一つ味方を得るちゅうことになりもす。国父様が留守の間に、そこまでの絵図が描けようとは、正直、思いもよりもはんでした」


「絵図やなか。ただの縁じゃ」


 龍馬は、そう言って笑った。だが、五代の目には、龍馬自身がまだ気づいていない何かが、すでに見え始めているようであった。


 第二百十五話 了

【城下を焼いた炎が、人吉藩の運命を変えた――人吉藩・寅助火事】


 幕末の人吉藩を語るうえで、忘れてはならない出来事があります。文久二年(一八六二)二月七日に起きた「寅助火事」です。


 火元となったのは、鍛冶屋町にあった鉄砲鍛冶・恒松寅助の家でした。当日は空気が乾燥し、強い風が吹いていたため、火は急速に燃え広がりました。そして、球磨川を越えて人吉城内にまで飛び火し、城下町だけでなく藩の施設や武器にも大きな被害をもたらします。


 相良氏が長く治めてきた人吉藩にとって、これは藩史に残る大災害でした。


 しかし、不幸中の幸いもありました。これほどの規模の火災でありながら、死者は出ませんでした。多くの人命が失われなかったことは、人吉の人々にとって大きな救いだったでしょう。


 ただし、藩として見れば、そこからが本当の苦難の始まりでした。


 焼け落ちた城下を再建しなければならない。失われた武器や藩の施設を整え直さなければならない。そして、幕末という不安定な時代の中で、藩を守るための備えも必要になる。


 人吉藩の表高は二万二千石余。薩摩や熊本のような大藩ではありません。その人吉藩にとって、一万五千両ともいわれる復興資金は、簡単に用意できる金額ではありませんでした。


 藩は周囲に援助を求めます。まず頼ったのは、同じ肥後国の大藩である熊本藩でした。しかし、期待した支援を得ることはできませんでした。


 ここに、小藩が抱える厳しい現実があります。


 同じ国の中にあっても、藩の規模や政治的な力には大きな差がある。人吉藩は、自分たちの力だけでは乗り越えられない問題を抱え、別の道を探すことになります。


 その時に手を差し伸べたのが、南隣の薩摩藩でした。


 薩摩藩は資金面だけでなく、復興に必要な人材や物資の面でも支援を行いました。その対応に関わった人物として知られるのが、小松帯刀です。


 当時、まだ二十代の若い家老でしたが、後に薩摩藩を代表する政治家として幕末史に名を残す人物です。


 人吉藩にとって、この支援は単なる借金ではありませんでした。


 困った時に助けてもらったという記憶。そして、その時に生まれた藩同士のつながり。それは、後の時代にも影響を残すことになります。


 幕末の政治は、思想や大義名分だけで動いていたわけではありません。過去の恩、人と人との関係、藩と藩の結びつき。そうした積み重ねが、時に大きな歴史の流れを作っていきました。


 しかし、復興は人吉藩に新たな問題も突きつけます。


 焼失した武器を補充しなければならない。外国の軍事技術も取り入れなければならない。幕末の情勢を考えれば、古い軍制のままで藩を守ることは難しくなっていました。


 そこで人吉藩では、洋式軍制を取り入れようとする動きが起こります。


 しかし、改革には必ず反発も生まれます。


 長く続いてきた武士のあり方を守るべきだという考えもあった。急激な改革が、本当に藩を救うことになるのか疑問を持つ者もいた。


 改革派と保守派の対立は深まり、やがて慶応元年(一八六五)の丑歳騒動へとつながっていきます。


 皮肉なことに、藩を立て直すために始めた改革が、今度は藩内部の争いを生むことになったのです。


 寅助火事は、単なる一つの災害ではありませんでした。


 焼けた城下の復興。


 そのために必要となった資金。


 薩摩とのつながり。


 軍制改革をめぐる藩内対立。


 一つの火事が、人吉藩のその後を大きく動かしていきました。


 歴史というものは、戦争や有名な人物だけによって作られるものではありません。


 ある町で起きた火事。


 困った時に差し伸べられた援助。


 その時に結ばれた人との縁。


 そうした小さな出来事の積み重ねが、やがて大きな時代の流れにつながっていくのです。


 文久二年、人吉の町を焼いた炎は、ただ城下を焼いただけではありませんでした。


 それは、小さな藩が激動の幕末をどう生き抜くのか。その運命を変える、大きな転機となったのです。

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