第二十一話「ポンペ来たる」
安政三年の春が深まる頃、京の空気は少しずつ変わっていた。
桜が散った後の緑の中に、どこか緊張したものが混じっていた。
街の辻に見慣れない顔が増えた。旅装の武士が、目的を持って歩いている。御所の周囲でも、それは変わらなかった。
近藤は毎朝の見回りの報告を、以前より少し長く話すようになっていた。
「昨日、四条の辺りで言い争いがあったようです。旅の武士二人と、町の者との間で。大事には至りませんでしたが」
「何が原因でございましたか」
「詳しくは分かりません。ただ、そういう小さな揉め事が最近増えております。気が立っている人間が多いのかもしれません」
糸子は頷いた。
幕末の動乱は、大きな事件だけで成り立っているわけではない。こういう小さな緊張の積み重ねが、ある日突然大きな出来事として現れるのだ。
それを知っているから、糸子は近藤の報告を丁寧に聞く。
「近藤殿、道場の方はいかがでございますか」
「先週、江戸から永倉新八が来ました。今は稽古場に慣れているところです」
「印象は?」
「腕は確かです。そして——こちらの事情を飲み込むのが実に速い」
「こちらの事情、とは?」
「近衛家との関係。姫様の目的。道場の役割。単なる剣術道場ではないということを、すぐに理解してくれました」
「話しをされましたか」
「直接は言っておりません。雰囲気で分かったようです。勘の鋭い人物ですので」
糸子は少し考えた。
「今後も、そういう人を選んでくださいまし。腕だけでなく、状況を読める人物を」
「分かりました」
四月の初め、村田蔵六が知らせを持ってきた。
「ポンペ先生から返書が来ました。来月の中旬に京都に来られるとのことです」
糸子の胸が静かに動いた。
「本当でございますか」
「はい。先生は今、長崎から大坂に向かっておられます。大坂で松本良順殿と合流した後、京都に立ち寄るとのことです」
「松本殿もでございますか」
「はい。松本殿はポンペ先生の弟子として、先生が日本に来て以来、深く交流されています。先生が京都に行くと聞いて、同行されるとのことです」
ポンペと松本良順が同時に来る。
糸子はこの展開が持つ意味を、静かに整理した。
ポンペとの対話で得られることは二つある。
一つは語学の実践。オランダ語と英語で実際に会話することで、書物と授業だけでは身につかないものを学べる。
もう一つは医療の話だ。ポンペが日本で教えた「患者を身分で区別しない」という考え方は、糸子が典薬寮改革において核心としたい理念だ。
そして松本良順が来れば、典薬寮改革について具体的な話ができる。
「村田殿、かたじけなく存じます。準備を進めます」
「一つ確認させてくださいまし」
「はい」
「ポンペ先生との対話は、オランダ語で行いますか、英語で行いますか」
「どちらが先生は話しやすいのでありましょうか」
「オランダ語の方が流暢です。英語もできますが、より自然なのはオランダ語でしょう」
「ではオランダ語で。わたくしのオランダ語は英語よりまだ初歩的でございますが、実践の場として使いたいと思いまする」
村田蔵六が少し心配そうな顔をした。
「初歩的なオランダ語で、ポンペ先生と医療と外交の話を……」
「問題が生じましたら村田殿に助けていただきとうごさいます。まず自分で試ししとうございます」
ポンペ・ファン・メーデルフォールと松本良順が近衛家を訪れたのは、五月の初めの穏やかな日だった。
庭の新緑が光を受けて、明るかった。
糸子は二人を座敷に通した。
ポンペは背が高く、髭があった。目が青く、しかしその目には穏やかさがあった。怖い外国人、という感じではなかった。むしろ、何か大きなものを見ている目だった。
松本良順は引き締まった顔の男で、背筋が伸びていた。目が鋭く、しかし口元には温かみがあった。
通訳として村田蔵六が同席した。
「御丁寧なお招き、ありがとうございます」
ポンペが言った。オランダ語だった。
糸子は少し緊張しながら、口を開いた。
「ようこそ、近衛家へ。遠路はるばるお越しくださり、ありがとうございます」
オランダ語だった。
発音は完全ではない。文法も、まだ危ういところがある。しかし意味は通じた。
ポンペが、少し目を大きくした。
「日本語ではなく、オランダ語で?」
「少しだけ学びました。まだ初歩です。失礼があればお許しください」
「いいえ、大変素晴らしい」
ポンペが日本語で言った。わずかだが聞き取れる日本語だった。
「近衛様はオランダ語もお話しになれるのですか」
松本良順が驚いた顔で言った。
「ほんの少しでございます。英語も学んでおりまする。条約の文書を読む必要があると思うて…」
「条約の文書を?」
「三年後に、南蛮の国との通商条約の交渉がありまする。その場に、御門様のご意向を代弁できる形で関わりたいと思うておりまする。そのためには、外国語で書かれた文書を直接確認できる必要がありましょう」
松本が村田蔵六を見た。
村田蔵六が小さく頷いた。
「……なるほど」
松本が言った。「姫様が外国語を学んでいると聞いた時は、御所への儀礼的な用途かと思っていました。しかし条約交渉とは」
「大げさに聞こえるかもしれませぬが…」
「いいえ」
松本が言った。「日米和親条約の問題は、わたくしも聞いております。英文と和文の差異。あの問題の根本は、語学ができる人間が交渉の場にいなかったことが原因かと。姫様の考えは、その問題の解決策として正しいと思います」
対話は二つの流れで進んだ。
一方では、ポンペと糸子の語学を交えた会話が続いた。最初はぎこちなかったが、ポンペが糸子の習熟度に合わせてゆっくり話してくれたことで、次第に内容のある対話になっていった。
もう一方では、松本良順と糸子の医療についての対話があった。
「典薬寮の改革についてのお考えを、以前から聞きたいと思うておりました」
松本が言った。
「改革と言えるほど大げさなものではありません。ただ——」
糸子は言葉を選んだ。
「御所の医療が、現状のままでは不十分だと感じておりまする。御門様の御健康を守るためにも、より確かな医療体制が必要でございましょう」
「具体的には?」
「まず予防でございます。病気を治すより、病気にかからないようにする方が大切でございます。手洗いと煮沸、食材の品質管理、住環境の衛生——これらを御所内に広めることから始められれば…」
「それは西洋医学の発想ですね」
「書物で読みましてございます。そして実際に、御所の台所方への食材供給を通じて、少しずつ実践しておりまする」
松本が頷いた。
「ポンペ先生が長崎で教えたことの核心は、二つです。一つは実証的な診断。目で見て、手で触れて、実際に確認する。もう一つは患者の平等な扱いです」
「患者の平等な扱い?」
「身分に関係なく、病人は病人として治療するということです。これは御所では難しい問題かもしれませんが」
「難しいと思いまする。なれど方向性として、わたくしはその考え方が正しいと思っておりまする」
ポンペが日本語で、少し間違えながらも言った。
「病は……身分を選ばない」
「はい」
糸子がオランダ語で答えた。「病は誰にでも来まする。そして治療は、誰にでも平等に届けられるべきでございましょう」
ポンペが満足そうに頷いた。
「それが医学の原則です」
昼食を挟んで、午後の対話が続いた。
ポンペが、あることを切り出した。
「近衛様、一つ聞いてもよいですか」
「はい」
「なぜ外国語を学ぼうと思ったのですか。公家の姫君が外国語を学ぶことは、この国では珍しいことのはずです」
糸子はオランダ語で答えた。ゆっくりと、しかし確実に。
「言葉を知らなければ、相手の意図を正確に理解できません。言葉を知らなければ、自分の意図を正確に伝えられません。国と国の間で重要な決定をする時、その言葉の差が、後に大きな問題を生みます」
ポンペが少し考えた後、オランダ語で言った。
「日米和親条約の問題のことですか」
「はい。そしてそれだけではありません」
糸子は続けた。「言葉の差は、思想の差でもあります。ある言葉が英語では一つの意味しか持たないが、日本語では複数の意味に取れることがある。その差を埋めるためには、両方の言葉を知っていることが肝要だと思っています」
ポンペが松本に何か言った。
松本が笑った。
「先生が、近衛様は将来この国の外交を変えるかもしれないとおっしゃっています」
「大げさです」
「大げさではないかもしれません」
ポンペが言った。今度は英語だった。
「Young lady, I have met many Japanese scholars. But none of them thought like you.」
糸子は英語で答えた。
「Thank you. But I have much to learn.」
村田蔵六が、後で糸子に小声で言った。
「発音は……まだですが、内容は伝わっています」
夕刻が近づいた頃、ポンペが少し改まった様子で言った。
「近衛様、一つご提案があります」
「何でございましょう」
「わたくしは今後も、年に一度か二度、京都に来る機会があります。その度に、近衛様との対話を続けることは可能でしょうか」
糸子は少し驚いた。
「それは……ありがたいことでございますが、先生にとってご負担ではあられませぬか」
「負担ではありません。むしろ」
ポンペが少し笑った。「わたくしも、近衛様から学ぶことがあります」
「わたくしからでございますか?」
「はい。近衛様は、日本の内側から物事を見ています。わたくしには見えない部分を、近衛様は見ています。互いに持っているものを交換することは、お互いにとって有益です」
これは村田蔵六と同じことを言っている、と糸子は思った。
知識を持っている人間が、別の種類の知識を求めている。
「はい。喜んでお受け致しまする」
「では、来年の春にまた来ましょう」
二人が近衛家を去った後、村田蔵六が言った。
「どうでしたか、実際に外国語で話してみて」
「緊張致しました」
「当然です。しかし通じていましたよ」
「オランダ語の方が英語より難しい気がしまする」
「発音の体系が違いますから。しかし英語と共通する語彙も多い。並行して学ぶことの方が利点です」
糸子は今日の対話を頭の中で振り返った。
ポンペの言葉の中に、一つ引っかかるものがあった。
「村田殿、ポンペ先生が最初におっしゃったことで、一つ確認させてくださいな」
「はい」
「先生が日本語で『病は身分を選ばない』とおっしゃった後、オランダ語で何か付け加えておりましたか」
「はい。その言葉の直後に、オランダ語で一言おっしゃいました。訳すと——」
村田蔵六が少し考えた。
「『しかし、身分のある者の方が、より良い治療を受けやすい。それを変えることが医学の使命だ』という意味です」
糸子は静かに頷いた。
それは、典薬寮改革の核心に触れる言葉だった。
その夜、糸子は松本良順と二人で話す時間を持った。
近藤が庭の外で見張りについている。村田蔵六は別室に移っていた。
「松本殿、本日はかたじけなく存じまする」
「こちらこそ。ポンペ先生が近衛様と話せて、喜んでおられました」
「先生は、日本についてどのようにお感じになられたのでしょうか」
「先生は日本が好きです。しかし同時に、日本の医療の現状をもどかしく思っておられます」
「もどかしく?」
「はい。長崎で教えた弟子たちは優秀です。しかしその優秀な医師たちが、日本の医療制度の中で存分に力を発揮できていない。身分の壁、慣習の壁、費用の壁——様々な壁があります」
「典薬寮もその一つでございますか」
松本が少し間を置いた後、率直に言った。
「典薬寮の医学は、今の西洋医学の水準からすれば、かなり遅れています。失礼な言い方になりますが、正直に申し上げた方が良いと思って」
「正直に言ってくださいまし。そのための話でございます」
「主に漢方を用いていますが、診断の精度、治療の方法、衛生の管理——いずれも改善の余地があります。特に——」
松本が続けた。「御門様の御健康を守るという観点からは、予防医学の概念の導入が最優先だと思います。病気になってから治すより、病気にかからないようにする体制を作ることが肝要です」
「それはわたくしも同じ考えでございます」
「しかし典薬寮の者たちへの説得が難しい。新しいやり方を受け入れることへの抵抗があります」
「どうすれば変えられましょうか」
「上から変える必要があります」
松本が糸子を見た。
「御門様が、あるいは御門様に近い立場の方が、変化を望んでいると分かれば、典薬寮も動かざるを得ません」
「わたくしが御門様に話すことはできましょう」
「それが最も確実な道だと思います」
翌日、糸子は帳面に今日の対話の内容を書いた。
ポンペとの対話から得た語学の実践経験。医療の考え方についての再確認。典薬寮改革の方針。
そして、一つの行動計画を書き加えた。
「ポンペ先生が来年また来ることを踏まえて、今年中に典薬寮改革の第一歩として、予防医学の概念を御所内に広める具体的な計画を立てる。御門様への報告を通じて、典薬寮への上からの変化を促す。」
五月が終わり、六月に入った。
善次郎から江戸の状況についての文が届いた。
文の内容は、これまでより少し重い空気を持っていた。
「姫君様、江戸の様子をお伝えします。老中阿部様のご体調についての噂が広まっています。老中の仕事に支障が出ているとの話を複数の商人からお聞きしました。また、幕府内では後継の話が少しずつ出始めているとのことです。」
「田辺屋については、最近動きが見られません。しかし田辺屋に近い両替商が、大坂でいくつかの動きをしているという情報があります。水野様についての具体的な話は、今のところありません。」
「それとは別に、一つ気になる話があります。薩摩藩の動きについてです。島津斉彬様が最近、積極的に諸藩との交流を広めておられるとのことです。その動きの中に、朝廷との関係を強化しようとする意図があるように見えます。」
糸子は文を閉じて、少し考えた。
島津斉彬の動き…
斉彬は幕末でも最も先見の明があった人物の一人だ。彼が朝廷との関係強化を試みているとすれば、糸子が目指す方向と重なる部分がある。
しかし斉彬は安政五年に亡くなる。
糸子の知る歴史では、斉彬は重要な変化を起こす直前に死ぬ。
斉彬が生きている間に、接点を作れるかどうか。
糸子は帳面を開いた。
「善次郎への返書に、島津斉彬殿についての情報収集を依頼します。薩摩藩の朝廷接近の動きの詳細を把握してほしい。」
その頃、試衛館京都道場では、新しい動きが始まっていた。
近藤が江戸から連絡を取り、永倉新八に続いて斎藤一が京に来た。
斎藤一は無口な男だった。
近衛家に挨拶に来た時、糸子は斎藤の目を見た。
動かない目だった。感情を読み取らせない目だ。
しかしその奥に、何か確かなものがある。
「斎藤一殿、ようこそ京へ」
「……はい」
「道場には慣れましたか」
「まだ日が浅い」
「近藤殿たちとは以前からのお付き合いでございますか」
「道場で一緒でした」
会話が短い。しかし糸子は、この短さが不誠実からではないことを感じた。
余計なことを言わない、という性格だ。
「近衛家の守護についての話は、近藤殿からお聞きしましたか」
「はい」
「何かご質問はございましょうか」
斎藤が少し間を置いた後、一つだけ聞いた。
「姫様は何を守ろうとしているのですか」
糸子は少し驚いた。
他の者は「なぜ農家出身の剣士を」とか「武士の格式は」といった質問をする。
斎藤の質問は違った。
「姫様が守ろうとしているものは何か」を聞いた。
「この国が、外国に対して対等でいられること。そのために必要な人々が、安全に動けること。御門様が、御所の中で安全でいらっしゃること。わたくしが守ろうとしているのは、その三つでございます」
斎藤が静かに頷いた。
「分かりました」
それだけ言った。
後で近藤に聞いた時、近藤は笑って言った。
「斎藤は承諾したということです。あいつが『分かりました』と言ったら、最後まで動きます。口数は少ないですが、信用できる人間です」
七月に入った頃、実光が急いで近衛家に来た。
「近衛様、阿部様についての話が入りました」
「どのようなお話でございましょう?」
「今月から、老中の職務を大幅に縮小されているとのことです。体力が続かないとのことで、実質的に一線を退かれるとの話であります」
糸子は静かに受け止めた。
一線を退いた。
歴史の通りに進んでいる。
「阿部様の後継として、堀田正睦様が老中首座を担われるとのことです」
「堀田様が?」
「はい。堀田様との間接的な接触は進んでおりますが、まだ直接の対話には至っておりません。近衛様として、急ぐ必要がございますか」
…糸子は考えた。
堀田正睦は阿部正弘と同じく開明派だ。しかし性格は異なる。阿部が穏健で調整型だったのに対して、堀田はより積極的に行動する傾向がある。
堀田が老中首座になれば、通商条約の交渉が加速する可能性がある。
それは糸子にとっては、準備の時間が短くなることを意味する。
「急いだ方が良いと思いまする」
「どのような形で接触いたしますか」
「天朝物産会所の商売を通じた形のほうが自然でごさいましょう。堀田様の藩・佐倉藩は江戸の近くにあります。善次郎を通じて、佐倉藩への物産の提供という形で接点を作れないか、確認願いませんか」
「商いから入る、ということでしょうか」
「はい。政治から入れば、幕府内の人間関係が複雑になりましょう。商いから入れば、自然な関係が作れまする。商いで信頼を作った後に、本題の話に進むことに致しましょう」
実光が頷いた。
「分かりました。父にも話してみまする」
夏が来た。
京都の夏は蒸し暑い。
しかし糸子の日課は変わらなかった。
朝の語学の授業。村田蔵六との英語とオランダ語の練習。昼は天朝物産会所の帳面確認。村岡との御所内の情報整理。夕刻には近藤との近衛家周辺の状況確認。夜は帳面への記録と翌日の計画。
ある夜、近藤が縁側で言った。
「姫様、一つ確認させてください」
「はい」
「阿部様が倒れた後、幕府の中の空気が変わるとお考えですか」
「はい」
「…どのように変わりますか?」
糸子は少し考えた。
「阿部様は、様々な立場の人間をまとめる力を持っておりました。その方がいなくなれば、幕府内の対立が表面化しやすくなりましょう」
「水野様のような保守派が、より強く動く可能性がある?」
「はい。それだけでなく——」
糸子は続けた。「より強力な人物が幕府の実権を握ろうとする動きが出てくる可能性がありましょう。その時、朝廷への圧力も変わりまする」
「近衛家への影響は?」
「直接の影響があるかもしれませぬ。阿部様がいる間は、近衛家への露骨な干渉は抑えられていおりました。その抑えが外れる可能性がございます」
近藤が静かに聞いていた。
「…だから道場の人数を最近増やしていると?」
「その側面もあります」
「分かりました。準備は続けましょう」
八月になった頃、善次郎から重要な文が来た。
「姫君様、薩摩藩についての続報です。島津斉彬様が、江戸に来られた際に複数の開明派の人物と会われたとのことです。その中には、堀田正睦様のお名前もあったと聞きます。薩摩と幕府開明派の間で、何らかの意思疎通が行われているようです。」
「また、斉彬様が篤姫様——近衛家から将軍家に嫁がれた天璋院様——を通じて、朝廷との関係について何かを動かそうとしているという話もあります。詳細は不明です。」
糸子は文を閉じて、深く息を吸った。
篤姫を通じた朝廷との接触。
篤姫は近衛家の養女として将軍家に嫁いだ。つまり近衛家と篤姫の間には、縁がある。
その縁を、糸子は今まで意識的に使っていなかった。
篤姫は大奥にいる。大奥と近衛家の間には、表向きの交流の経路がある。
しかし糸子が天璋院(篤姫)に直接働きかけることは、現状ではまだ早い。
ただ——斉彬が朝廷との接触を模索しているとすれば、その接点として近衛家が機能できるかもしれない。
糸子は帳面に書いた。
「島津斉彬の動きを注視する。薩摩と近衛家の接点を慎重に模索する。篤姫(天璋院)との縁については、時機を慎重に見極める。」
九月が来た。
安政三年の第二年が、折り返しを過ぎようとしていた。
ある夕刻、糸子は試衛館の稽古場の前に立った。
近藤・土方・沖田・山南・永倉・斎藤の六人が、稽古をしていた。
六人の動きを見ながら、糸子は静かに考えた。
この六人が、一年半後には条約交渉の周辺にいる。
歴史では、この人たちは別の道を歩む。新選組として、壬生の治安維持隊として、幕府の末期を支える戦士として。
しかし今この世界では、近衛家の守護者として動いている。
その変化が、最終的にこの国の形をどう変えるかは、まだ分からない。
しかし一つだけ確かなことがある。
この六人は今、守るべきものを持っている。
それが彼らにとっての剣の意味になっている。
沖田が稽古の合間に、糸子の方を見た。
「姫様、見てましたか」
「はい、見ておりました。良い動きでございました」
「忝う存じます」
「一つ聞いても宜しゅうございますか」
「なんですか」
「今、稽古をしていて、何をお考えになられておりましたか?」
沖田が少し考えた後、笑顔で言った。
「姫様を守るためには、何に対しても対応できなければならないって考えていました。剣だけじゃなくて、複数の相手でも、狭い場所でも、暗い場所でも」
「実用的な考え方なのでございますね」
「試衛館では、実戦で使える技を重視します。道場の中で綺麗に見える動きより、実際の場面で相手を止められる動きが大切です」
「それは、条約交渉の場でも同じでございましょう」
沖田が首を傾げた。
「交渉と剣術が同じですか」
「本質は同じです。相手が何を使って来るかを読んで、それに対応できる準備をしておく。華麗な弁論より、実際に相手の主張を止められる論理が大切でございます」
沖田がしばらく考えてから言った。
「……なるほど。面白いですね、そういう考え方」
秋が深まる頃、糸子は帳面を開いた。
安政三年の第二年計画の中間整理をした。
英語の習得は着実に進んでいる。ポンペとの対話で実践の機会を得た。オランダ語も、初歩から中級へと移行しつつある。
天朝物産会所の正式立ち上げは完了した。形式が整った。
阿部正弘が一線を退いた。堀田正睦が老中首座となった。この変化への対応として、善次郎を通じた堀田へのアプローチが始まっている。
典薬寮改革については、松本良順との対話を通じて方針が明確になった。予防医学の概念を御所内に広めることを第一歩とする。
試衛館京都道場に六人が揃った。
そして島津斉彬の動きが始まった。これは今後の重要な変数になる。
糸子は最後に書いた。
「第二年の後半の目標:英語での条約文の実践的な読解の完成。ポンペとの次の対話の準備。堀田正睦との直接対話の実現。島津斉彬への接触の模索。そして——」
一呼吸置いて、書いた。
「御門様への次の報告。三年後の交渉の具体的な準備を、御門様と確認する。」
筆を置いた。
縁側の外では、試衛館の稽古が続いていた。
木刀の音が、秋の夕暮れに響いていた。
積み重なるものがある。
知識が積み重なり、人が集まり、関係が深まり、器が整っていく。
そして時間が、確実に過ぎていく。
三年後まで、一年半を切った。
近衛糸子は帳面を閉じて、次の一手を考え始めた。
第二十一話 了




