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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二十一話「蘭医来たる」

 桜が散ると、京の空気は少しずつ変わっていった。


 若葉の緑の中に、どこか張りつめたものが混じっていた。


 街の辻に見慣れない顔が増えた。旅装の武士が、目的を持って歩いている。御所の周りでも、それは変わらなかった。


 近藤は毎朝の見回りの報告を、以前より少し長く話すようになっていた。


「昨日、四条の辺りで言い争いがあったようです。旅の武士二人と、町の者との間で。大事には至りませんでしたが」


「何が原因でございましたか」


「詳しくは分かりません。ただ、そういう小さな揉め事が近頃増えております。気が立っている人間が多いのかもしれません」


 糸子は頷いた。


 幕末の動乱は、大きな事件だけでできているわけではない。小さな揉め事が積み重なり、ある日、大きな出来事として表に出る。


 それを知っているから、糸子は近藤の報告を丁寧に聞く。


「近藤殿、道場の方はいかがでございますか」


「先週、江戸から永倉新八が参りました。今は稽古場に慣れているところです」


「どのような方でございますか」


「腕は確かです。そして——こちらの事情を飲み込むのが実に速い」


「こちらの事情、とは?」


「近衛家との関わり。姫様の目的。道場の役目。ただの剣術道場ではないということを、すぐに察してくれました」


「お話しになったのですか」


「直には言っておりません。空気で分かったようです。勘の鋭い男ですので」


 糸子は少し考えた。


「これからも、そういう方を選んでくださいまし。腕だけでなく、物事を読める方を」


「承知しました」


 四月の初め、村田蔵六が知らせを持ってきた。


「ステーンハイゼン殿の上方行きに、ご公儀のお許しが下りました」


 糸子の胸が静かに動いた。


「まことでございますか」


「宇和島の殿様のお口添えがあって、ようやく。お許しに手間取り、春のうちとはいきませんでしたが、来月の初めに長崎を発ち、半ばには京へ入られます。長崎奉行所の役人と通詞が付き添い、大坂からは、ご公儀の付き添いとして、江戸の医師がお一人加わるそうです」


「江戸のお医者でございますか」


「松本良順殿と申されます。佐倉の順天堂を開いた佐藤泰然殿のご子息で、ご公儀の奥医師、松本家に養子に入られた方です。蘭方を学んでおられ、蘭人の医師に会えるならと、自ら付き添いを願い出られたと聞きました」


 松本良順。


 糸子はその名を、胸の中で繰り返した。


 前世の記憶では、この人は遠からず長崎へ下り、ポンペという師に就く。そこで学んだものを、やがてこの国の医の礎にしていく人物だ。


 その人が、英語を話す蘭人の医師と一緒にここへ来る。


 巡り合わせ、と言うには出来すぎていた。


「一つ、確かめておきたいことがございます」


 村田蔵六が言った。


「対話は、オランダ語でなさいますか。それとも英語で」


「英語で」


 糸子は迷わなかった。


「オランダ語は、文でも使えまする。英語を人の口から聞く場は、そうはございませぬ」


「先生は、オランダ語の方が楽でしょうが……英語なら、喜ばれると思います。わたくしが長崎でお会いした時も、オランダ語より英語の方が、楽しそうに話しておられました」


 村田蔵六が少し心配そうな顔をした。


「ただ、先生の英語は速い。わたくしでは、半分も追えませんでした」


「行き詰まりましたら、村田殿にオランダ語で助けていただきとうございます。まず、自分で試しとうございます」


 ステーンハイゼンと松本良順が近衛家を訪れたのは、五月の半ば、梅雨の晴れ間の穏やかな日だった。


 庭の青葉が光を受けて、明るかった。


 長崎から付いてきた役人と通詞は次の間に控え、座敷には二人と、村田蔵六が通された。表には父・忠房が座った。糸子は御簾の内にいた。


 御簾越しに、客の姿が見えた。


 異人は、思っていたより背が高くなかった。痩せていて、顔がよく日に焼けている。砂色の髪を短く刈り、髭はない。細い針金の眼鏡の奥で、灰色がかった目が座敷の欄間を眺めていた。眼鏡を直そうと上げた左手の甲に、引きつれた火傷の痕が見えた。


 松本良順は引き締まった顔の若い医師で、背筋が伸びていた。目は鋭いが、口元には温かみがあった。


 異人が、まず父上に向かってオランダ語で丁寧な挨拶を述べた。村田蔵六が訳した。


 それから異人は、御簾の方へ向き直った。


 糸子は、一度息を吸った。


「Welcome to the house of Konoe, Doctor. Thank you for coming such a long way.」

(ようこそ近衛家へ、先生。遠いところをお越しくださり、ありがとうございます)


 座敷が静かになった。


 ステーンハイゼンの眉が、眼鏡の上で動いた。


「……English.」


「A little. I am still learning.」

(少しだけです。まだ学んでいるところです)


「A little, she says.」


 ステーンハイゼンは村田蔵六の方を見て、短く笑った。それから御簾に向き直った。


「Then shall we go slowly?」

(では、ゆっくり話しましょうか)


「No, Doctor. Please speak as you would to an Englishman. I want to hear real English.」

(いいえ、先生。英吉利人と話す時のように話してください。本当の英語を聞きたいのです)


 ステーンハイゼンが、一瞬、まじまじと御簾を見た。


 そして、速く話し始めた。


 糸子の耳に、音が流れ込んできた。


 前世の耳が覚えている英語より、角が立っている。母音が引き締まり、語尾が切れる。英吉利の医者の英語だ、と糸子は思った。


 聞き取れる。


 ステーンハイゼンは、ロンドンの病院で過ごした二年のことを話した。冬の霧。朝から晩まで運び込まれる貧しい者たち。英吉利の医者が、オランダから来た若造を少しも特別扱いしなかったこと。


 糸子は、ところどころ聞き返した。ステーンハイゼンは言い直してくれた。


 そのうちに、糸子の方からも話した。言葉がつかえると、別の言い方を探した。ステーンハイゼンは待った。


 ふと横を見ると、村田蔵六が身じろぎもせずに聞いていた。その顔で分かった。村田は、半分も追えていない。


 しばらくして、ステーンハイゼンが手を上げて話を止めた。


「Your ear is very good. Better than mine was, when I first came to London.」

(耳がとてもいい。わたしがロンドンに着いた頃より、ずっといい)


「And my tongue?」

(舌の方は?)


「Your tongue is still Japanese.」


 ステーンハイゼンが真顔で言って、それから口の端だけで笑った。


「That is only practice. The ear is the hard part. You already have it.」

(それは慣れの問題です。難しいのは耳の方だ。それを、あなたはもう持っている)


 松本良順が、驚いた顔でステーンハイゼンと御簾を見比べていた。


「姫君様は、なぜそこまで」


「外つ国との約定の文を、自分の目で確かめたいと思うて……」


 糸子は、言葉を選んだ。


「遠からず、南蛮の国々との間で、通商の約定が談判されましょう。その時、この国の側に、英文を直に確かめられる者がいなければなりませぬ。わたくしは、その一人になりとうございます」


 松本が村田蔵六を見た。


 村田蔵六が小さく頷いた。


「……なるほど」


 松本が言った。


「和親の約定は、オランダ語を介して訳されたと聞いております。言葉の分かる者が談判の場に足りなかったことは、わたくしども蘭方を学ぶ者の間でも、口惜しく語られております」


 糸子は、ここで一つ確かめておきたいことがあった。


「Doctor, may I ask you how to read one sentence?」

(先生、一つの文の読み方を伺ってもよろしいですか)


「Of course.」


 糸子は、村田蔵六が手に入れた写しから自分で書き抜いておいた一文を、英語で読み上げた。


 和親の約定の、領事を置く定めの一節だ。either of the two governments、と始まる。


「How do you read “either” here?」

(ここの either は、どう読みますか)


 ステーンハイゼンは、少し首を傾けた。


「Either one. If one of the two governments thinks it necessary, that is enough. It does not say both.」

(どちらか一方です。二つの政府のどちらかが要ると思えば、それで足りる。両方とは書いていない)


「Would every Englishman read it so?」

(英吉利人なら、誰でもそう読みますか)


「Every Englishman. And an American will read it the same way.」


 ステーンハイゼンは眼鏡を外して、布で拭いた。


「And he will.」

(メリケン人も同じように読むでしょう。そして、必ずそう読んでくる)


 糸子は、御簾の内で静かに目を閉じた。


 村田蔵六と見比べて気づいた食い違いが、本場の英語を話す人の口で、裏打ちされた。


「Where is that sentence from?」

(その文は、どこから)


「From a book, Doctor.」

(書物からです、先生)


 ステーンハイゼンは眼鏡をかけ直し、しばらく御簾を見ていた。


「Then keep that book close.」

(では、その書物は手元に置いておきなさい)


 それ以上は、聞かなかった。


 昼餉を挟んで、午後は医の話になった。


「村田殿から、姫君様は御所の医のことにもお心をお持ちだと伺いました」


 松本が言った。


「改めと言えるほど大げさなものではございませぬ。ただ——」


 糸子は言葉を選んだ。


「御所の医が、今のままでは足りぬと感じておりまする。御所に住まう方々のお体を守るためにも、より確かな備えが要りましょう」


「具体的には?」


「まず、病に罹らぬようにすることでございます。病を治すより、病を寄せつけぬ方が大切でございましょう。手を洗うこと、水を煮立てること、食べ物の質を見ること、住まいを清めること——これを御所の内に広めるところから始められれば……」


「それは蘭方の考えですね」


「書物で読みましてございます。そして、御所の台所方へ食材を納める折に、少しずつ試しておりまする」


 松本が頷いた。


「蘭方を学んで、わたくしが一番に教えられたことは二つです。一つは、確かめること。目で見て、手で触れて、病がどこにあるかを確かめてから診立てる。もう一つは、病人を分け隔てなく診ることです」


「分け隔てなく?」


「身分に関わりなく、病人は病人として診るということです。御所では、難しいことかもしれませぬが」


「難しいと思いまする。なれど、向かうべき方はそちらだと、わたくしは思うておりまする」


 村田蔵六がオランダ語で、今の話をステーンハイゼンに伝えた。


 ステーンハイゼンが、日本語で、少し間違えながら言った。


「病は……身分を、選ばない」


 それから、英語で付け加えた。


「But the rich man always finds the better doctor. To change that — that is our work.」


 糸子は、御簾の内で静かに頷いた。


 村田蔵六と松本が、ステーンハイゼンの顔を見ていた。


「……今、何と」


 村田蔵六が、小声で糸子に尋ねた。


 糸子は答えた。


「しかし、金のある者は、いつもよい医者を見つける。それを変えること——それが、我らの務めだ、と」


 座敷が、少しの間、静かになった。


 村田蔵六が、何かを噛みしめるように目を伏せた。


 夕刻が近づいた頃、ステーンハイゼンが改まった様子で、英語で言った。


「I may not be in Japan much longer. Perhaps until next year.」

(わたしが日本にいるのは、そう長くないかもしれません。おそらく来年まで)


「Next year?」


「Another ship will come, with another doctor. When I leave, I will tell him about you.」

(別の船が、別の医者を乗せて来ます。わたしが去る時には、その者にあなたのことを伝えましょう)


 別の医者。


 糸子は御簾の内で、その言葉を静かに受け取った。


「Until then, will you write to me? In English. I will send your letters back with corrections.」

(それまで、文をくれますか。英語で。直してお返ししましょう)


「Is that not a burden for you, Doctor?」

(先生のご負担ではありませんか)


「A burden?」


 ステーンハイゼンが、また口の端だけで笑った。


「In Nagasaki, I talk to my patients with my hands and to the interpreters with my patience. I have no one to write English to. You would be doing me a kindness.」

(長崎では、患者とは手で話し、通詞とは辛抱で話している。英語で文を書く相手がいないのです。わたしの方が、ありがたい)


 村田蔵六と同じことを言っている、と糸子は思った。


 知識を持つ者が、それを交わせる相手を求めている。


「Then I will write. Gladly.」

(では、書きます。喜んで)


 ステーンハイゼンが辞去する時、上着の内から小さな本を取り出し、村田蔵六に渡した。手垢で角の丸くなった、英蘭の携帯辞書だった。


「For the young lady. I know it by heart now.」

(姫君に。わたしはもう、中身を覚えてしまったから)


 村田蔵六がそれを捧げ持って、御簾の前に置いた。


 客が去った後、村田蔵六はしばらく黙って座っていた。


「村田殿」


「……正直に申し上げます。わたくしは、半分も聞き取れませんでした」


「わたくしも、全部ではございませぬ」


「いいえ」


 村田蔵六が首を振った。


「近衛様は、聞き取って、答えておられた。それに、あの付け加えを訳されたのは近衛様です。わたくしの授業から、もう出ておられる」


「村田殿の授業がなければ、今日の耳はございませぬ」


「授業は続けます。読むこと、書くことは、まだお教えできる。しかし話すことは——」


 村田蔵六が、少しだけ笑った。


「先生との文で磨かれるがよい。わたくしにも、その文を読ませていただきたい。……わたくしに英語を学べと言ったのは、あの方ですから」


 その夜、松本良順が宿へ下がる前に、改めて挨拶に来た。糸子は御簾越しに、少し話す時間を持った。父上が同座し、近藤が庭に控えた。


「本日は、かたじけなく存じまする」


「こちらこそ。あの先生が、あれほど楽しそうに話すのを、道中で一度も見ませんでした」


「松本殿は、この国の医のありようを、どのようにお感じでございますか」


「もどかしく思うております」


 松本は、ためらわずに言った。


「蘭方を学ぶ者は、皆よく学びます。しかし学んだ者が、この国の仕組みの中で存分に腕を振るえない。身分の壁、仕来りの壁、銭の壁——様々な壁があります」


「典薬寮も、その一つでございましょうか」


 松本が少し間を置いた後、率直に言った。


「典薬寮の医は、蘭方の今の水準から見れば、だいぶ遅れております。ご無礼な言い方になりますが、正直に申し上げた方がよいと思いまして」


「正直におっしゃってくださいまし。そのためのお話でございます」


「主に漢方でございます。診立ての確かさ、治療の仕方、清めの心得——いずれも改める余地がございます。とりわけ、御所の方々のお体を守るという点では、病を寄せつけぬための備えを入れることが、何より先だと存じます」


「わたくしも、同じ考えでございます」


「しかし、典薬寮の方々を説くのは難しい。新しいやり方を受け入れることへの抗いがございます」


「どうすれば、変えられましょうか」


「上から変えるほかございますまい」


 松本が御簾の方を見た。


「御所の、より上の方が変わることを望んでおられると分かれば、典薬寮も動かざるを得ません」


 糸子はすぐには答えなかった。


 御簾の外にいるのは、ご公儀の奥医師の家の者だ。御門様のお名前を、ここで出すわけにはいかない。


「……よく、考えてみまする」


「それで十分でございます」


 松本は、それ以上は聞かなかった。


 翌日、糸子は帳面に昨日のことを書いた。


 英語を、人の口から聞いたこと。聞き取れたこと。舌がまだこの国の舌であること。


 そして、either の読み方。


「和親の約定の領事の定めは、英文ではどちらか一方の判断で足りる。英吉利人もそう読む。メリケン人も必ずそう読んでくる。この食い違いは、いずれ表に出る。」


「ステーンハイゼン殿と英語の文を交わす。来年には去られる。その後に来る『別の医者』に、話を繋いでいただく。」


「今年のうちに、典薬寮を改める最初の一歩として、病を寄せつけぬ心得を御所の内に広める具体的な計画を立てる。しかるべき折に御門様へお伝えし、上からの変化を促す。」


 帳面の脇には、角の丸くなった英蘭の辞書が置いてあった。


 五月が終わり、六月に入った。


 善次郎から、江戸の様子を伝える文が届いた。


 これまでより、少し重い空気を持った文だった。


「姫君様、江戸の様子をお伝えします。老中阿部様のご体調についての噂が広まっています。ご政務に障りが出ているとの話を、何人もの商人から聞きました。また、ご公儀の内では、阿部様の後のことが少しずつ囁かれ始めているとのことです。」


「田辺屋については、近頃動きが見られません。しかし田辺屋に近い両替商が、大坂でいくつか動いているという話があります。久世様についての具体的な話は、今のところありません。」


「それとは別に、一つ気になる話があります。薩摩の島津斉彬様が、近頃、諸藩との交わりを積極的に広げておられるとのことです。その動きの中に、朝廷との結びつきを強めようとする意図があるように見えます。」


 糸子は文を閉じて、少し考えた。


 島津斉彬の動き。


 斉彬は、幕末でもっとも先の見えた人物の一人だ。彼が朝廷との結びつきを求めているなら、糸子の目指す方向と重なるところがある。


 しかし斉彬は、安政五年に亡くなる。


 糸子の知る歴史では、斉彬は大きな変化を起こす直前に死ぬ。


 斉彬が生きている間に、接点を作れるかどうか。


 糸子は帳面を開いた。


「善次郎への返書で、島津斉彬様についての話を集めるよう頼む。薩摩が朝廷に近づこうとする動きの子細を知りたい。」


 その頃、京の試衛館にも、新しい顔が加わった。


 近藤が江戸と文を交わし、永倉新八に続いて、斎藤一が京に来た。


 斎藤一は、無口な若者だった。年は、沖田とそう変わらないように見えた。


 近衛家に挨拶に来た時、糸子は御簾越しに斎藤の目を見た。


 動かない目だった。感情を読ませない目だ。


 しかしその奥に、何か確かなものがある。


「斎藤一殿、ようこそ京へ」


「……はい」


「道場には慣れましたか」


「まだ、日が浅いので」


「近藤殿たちとは、以前からのお付き合いでございますか」


「江戸の道場で、一緒でした」


 会話が短い。しかし糸子は、この短さが不誠実から来るものではないと感じた。


 余計なことを言わない性分なのだ。


「近衛家の守護のことは、近藤殿からお聞きになりましたか」


「はい」


「何か、お尋ねになりたいことはございますか」


 斎藤が少し間を置いた後、一つだけ聞いた。


「姫様は、何を守ろうとしているのですか」


 糸子は少し驚いた。


 これまで守護の話を聞いた者は、たいてい格式のことや、扶持のことを尋ねた。


 斎藤の問いは違った。


 守るものは何か、と聞いた。


「この国が、外つ国に対して対等でいられること。そのために要る人々が、無事に動けること。御門様が、御所の内で安らかにおられること。わたくしが守ろうとしているのは、その三つでございます」


 斎藤が静かに頷いた。


「分かりました」


 それだけ言った。


 あとで近藤に尋ねると、近藤は笑って言った。


「斎藤は承知した、ということです。あいつが『分かりました』と言ったら、最後まで動きます。口数は少ないですが、信用できる男です」


 七月に入った頃、実光が急いで近衛家に来た。


「姫君様、阿部様についての話が入りました」


「どのようなお話でございましょう」


「この夏から、ご政務を大きく減らしておられるとのことでございます。お体が続かぬとのことで、外つ国にかかわることは、首座の堀田様に任せる形が強まっているそうでございます」


 糸子は静かに受け止めた。


 歴史の通りに進んでいる。


「堀田様との関わりは、間接にでございますが、少しずつ進んでおります。なれど、まだ直にお話しするところまでは参っておりませぬ。姫君様として、急がれますか」


 糸子は考えた。


 堀田正睦は、阿部正弘と同じく西洋に目を開いた人物だ。しかし気性は違う。阿部が穏やかに人をまとめる型なのに対して、堀田は自ら前に出て動く型だ。


 その堀田が外のことを一手に握れば、通商の談判は早まるかもしれない。


 それは糸子にとって、備えの時間が短くなることを意味する。


 松本良順はもう江戸へ戻っている。近衛家の座敷で見聞きしたことを、ご公儀のどこで、誰に語ったのか。それは分からない。


「急いだ方が、よいと思いまする」


「どのような形でお近づきになりますか」


「天朝物産会所の商いを通じた形が、いちばん自然でございましょう。堀田様のご領地、下総の佐倉は江戸から近うございます。善次郎を通じて、佐倉のご家中に物産をお納めする形で接点を作れぬか、確かめてはいただけませぬか」


「商いから入る、ということでございましょうか」


「はい。政から入れば、ご公儀の内の人の繋がりがこじれましょう。商いから入れば、自然な関わりが作れまする。商いで信を得てから、本題に進むことに致しましょう」


 実光が頷いた。


「承知致しました。父にも話してみまする」


 夏が来た。


 京の夏は蒸し暑い。


 しかし糸子の日課は変わらなかった。


 授業のある朝は、村田蔵六と英語とオランダ語。昼は天朝物産会所の帳面。村岡と御所の内の話を整理する。夕刻には近藤と近衛家の周りの様子を確かめる。夜は帳面に書きつけ、翌日の段取りを立てる。


 長崎からは、ひと月に一度、英語の文が届くようになった。ステーンハイゼンの字は細く、右に傾いていた。糸子の書いた文には遠慮のない朱が入り、余白に一言、皮肉が添えてあった。


 ある夜、近藤が縁側で言った。


「姫様、一つ伺ってもよろしいですか」


「はい」


「阿部様が退かれた後、ご公儀の中の空気は変わるとお考えですか」


「はい」


「……どのように変わりますか」


 糸子は少し考えた。


「阿部様は、立場の異なる方々をまとめる力をお持ちでした。その方がおられなくなれば、ご公儀の内の争いが表に出やすくなりましょう」


「久世様のような方々が、より強く動くかもしれない、と?」


「はい。それだけでなく——」


 糸子は続けた。


「もっと強い方が、ご公儀の実権を握ろうと動くかもしれませぬ。その時は、朝廷にかかる力も変わりまする」


「近衛家には、どう響きますか」


「直に響くかもしれませぬ。阿部様がおられる間は、近衛家へのあからさまな手出しは抑えられておりました。その抑えが外れるおそれがございます」


 近藤は黙って聞いていた。


「……だから、近頃道場の人数を増やしておられるのですか」


「それも、ございます」


「分かりました。備えは続けます」


 八月になった頃、善次郎から急ぎの文が来た。


「姫君様、まず急ぎのことをお伝えします。先月の下旬、下田にメリケンの船が入り、ハリスという者が総領事として上陸したとのことです。下田のお奉行は、和親の約定では、両国が合意した時に領事を置くことになっているはずだと申し、押し問答になっているそうです。」


 糸子は文を持つ手を止めた。


 来た。


 帳面に書いた、あの一行だ。


 And he will.——眼鏡を拭きながら言った、あの乾いた声が、耳の奥で聞こえた。


 糸子は息を整えて、続きを読んだ。


「次に、薩摩についての続報です。島津斉彬様が江戸で、何人もの開明の方々とお会いになったとのことです。その中には、堀田正睦様のお名前もあったと聞きます。薩摩とご公儀の開明の方々の間で、何らかの意思の通い合いがあるようです。」


「また、斉彬様が、近衛家の御養女となられた篤君様を通じて、朝廷とのことで何かを動かそうとしているという話もあります。子細は分かりません。」


 糸子は文を閉じて、深く息を吸った。


 篤君様を通じた、朝廷への接近。


 篤君様は今年、近衛家の御養女となられた。年の暮れには、公方様のもとへ輿入れされると聞く。同じ家に名を連ねながら、糸子は顔を合わせたこともない。その縁を、これまで手立てとして考えたことはなかった。


 輿入れが済めば、大奥と近衛家の間には、表向きの行き来の道ができる。


 しかし糸子が篤君様に直に働きかけるのは、まだ早い。


 ただ——斉彬が朝廷への道を探しているなら、その道の入口として、近衛家が役に立てるかもしれない。


 糸子は帳面に書いた。


「ハリスが下田に入った。領事の定めの食い違いが、表に出た。村田殿と話し、英文と和文の差を、改めて文に起こしておく。ステーンハイゼン殿への次の文で、メリケンの英語の癖を尋ねる。」


「島津斉彬様の動きに目を配る。薩摩と近衛家の接点を、慎重に探る。篤君様との縁は、時機を慎重に見極める。」


 九月が来た。


 三年計画の第二年が、折り返しを過ぎた。


 ある夕刻、糸子は試衛館の稽古場の前に立った。


 近藤・土方・沖田・山南・永倉・斎藤の六人が、稽古をしていた。


 六人の動きを見ながら、糸子は静かに考えた。


 この六人が、一年あまり後には、条約の談判のすぐそばにいる。


 歴史の上では、この人たちは別の道を歩む。新選組として、壬生に屯所を構え、ご公儀の最後を支える剣として。


 しかし今この世界では、近衛家の守護として動いている。


 その変化が、最後にこの国の形をどう変えるかは、まだ分からない。


 しかし一つだけ、確かなことがある。


 この六人は今、守るべきものを持っている。


 それが、彼らにとっての剣の意味になっている。


 沖田が稽古の合間に、糸子の方を見た。


「姫様、見てましたか」


「はい、見ておりました。よい動きでございました」


「忝う存じます」


「一つ、伺っても宜しゅうございますか」


「なんですか」


「いま稽古をしながら、何をお考えでございましたか」


 沖田が少し考えた後、笑顔で言った。


「姫様を守るには、何が来ても応じられなきゃいけないって考えていました。剣だけじゃなくて、相手が何人でも、狭いところでも、暗いところでも」


「まことに、実際的なお考えでございますね」


「試衛館では、実戦で使える技を大事にします。道場の中で綺麗に見える動きより、本当の場で相手を止められる動きが大事です」


「それは、約定の談判の場でも同じでございましょう」


 沖田が首を傾げた。


「談判と剣術が、同じですか」


「根は同じでございます。相手が何を使ってくるかを読んで、それに応じられる備えをしておく。見事な弁舌より、相手の言い分を本当に止められる理屈が大事でございます」


 沖田がしばらく考えてから言った。


「……なるほど。面白いですね、そういう考え方」


 秋が深まる頃、糸子は帳面を開いた。


 三年計画の第二年の、中ほどの整理をした。


 英語は、人の口で話す場を得た。長崎との文は、朱の量が少しずつ減ってきた。舌はまだこの国の舌だが、耳は追いつきつつある。オランダ語は、村田殿の授業で続けている。


 天朝物産会所は、名と組織の形を整え終えた。いつでも店は開ける。ただ、看板を掲げるのは、堀田様に直にお会いできてからにする。ご公儀の首座が近衛家と言葉を交わした、という事実が先にあれば、取引を望む商家は、田辺屋や久世様の目を恐れずに戸口をくぐれる。順を違えれば、看板はかえって敵を呼ぶ。


 阿部様は、外のことを堀田様に委ねられた。この変化に応じて、善次郎を通じた佐倉への働きかけが始まっている。


 典薬寮については、松本良順との対話で方針がはっきりした。病を寄せつけぬ心得を御所の内に広めることを、最初の一歩とする。


 ハリスが下田に入った。領事の定めの食い違いが、表に出た。


 京の試衛館に、六人が揃った。


 そして、島津斉彬が動き始めた。これは、この先の大きな変わり目になる。


 糸子は最後に書いた。


「第二年の後半の目標:英文の約定を、実際に読み解き、その場で言い返せるところまで仕上げる。ステーンハイゼン殿との文を続け、その後に来る者へ繋いでいただく。堀田正睦様と直にお話しすること。島津斉彬様への接点を探ること。そして——」


 一呼吸置いて、書いた。


「御門様への次のご報告。談判に向けた備えを、御門様と確かめる。」


 筆を置いた。


 縁側まで、試衛館の稽古の音が届いていた。


 木刀の音が、秋の夕暮れに響いていた。


 積み重なるものがある。


 知識が積み重なり、人が集まり、関わりが深まり、器が整っていく。


 そして時が、確実に過ぎていく。


 談判の始まる日まで、もう一年あまりしかない。


 近衛糸子は帳面を閉じて、次の一手を考え始めた。


 第二十一話 了

最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m


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島津斉彬の存在、幕末そして明治期において薩摩からの人材や産業育成などに種をまいた人物。 ただ彼が短命であった事で後継となった弟や父親の影響下となった結果大きすぎる力を持つ薩摩という存在ができてしまった…
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