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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第十九話「英語と、時間と、準備の重さ」

 安政二年の秋が終わりに向かう頃、糸子は四冊目の帳面を開いていた。

 第一年の目標として書いていた項目を、一つずつ確認した。

 御所内の情報管理体制の整備——村岡を通じた経路の確認と管理は進んでいる。女官長の問題は、借財の処理を年内に完了させる見通しだ。

 老中、水野忠精への対処——田辺屋への返答文は送付済み。水野の直接の動きはひとまず収まっている。しかし善次郎からの情報では、水野周辺は依然として近衛家を注視している。

 老中、阿部正弘との接点形成——実光の父を通じた間接的な関係は、近藤たちの処遇を経てより確かなものになった。阿部様は近衛家の動きを「問題ではない」と評価していると聞く。

 近藤たちの体制整備——京都道場の場所について、村岡が候補地を三か所絞ってきた。年内に決定できれば、年明けから準備に入れる。

 そして最後の項目に目が止まった。

「外国語——少なくとも英語——をある程度理解できるようになること。方法は後で考える。」

 「方法は後で考える」と書いたのは、正直、逃げだった。

 糸子は帳面を閉じて、縁側に出た。

 秋の空は高く、澄んでいた。

 英語。

 前世の橘咲は英語がビジネスレベルで使えた。フランス語も日常会話程度なら問題なかった。それは二十八年かけて身につけたものだ。

 けれど、今の糸子は九歳だ。

 前世の記憶は持っている。英語の単語も、文法の感覚も、「知識」としては残っている。しかしそれを今の体と声で使えるかどうかは別の問題だ。

 糸子は少し考えてから、むしろ笑いそうになった。

 九歳の子供の脳みそは柔らかい、という話は前世でも聞いたことがある。語学習得に最適な時期は子供の時期だという話は、確かそういうことだった。

 ならば——

 前世の「知識」と今世の「柔らかい脳みそ」を組み合わせれば、通常より速く習得できるはずだ。

 英語だけではない。

 せっかくだからオランダ語も習得してしまおう。長崎のオランダ商館との関係を考えれば、オランダ語は実用性が高い。フランス語も。

 糸子は思い立つと、次の瞬間には手を動かしていた。


 最大の問題は、教師だ。

 幕末の京都で、英語を教えられる人間がどこにいるのか?。

 糸子は善次郎への文を書き始めた。

「江戸または横浜において、英語・オランダ語の教師を探していただけますでしょうか。外国の方でも、外国語を習得した日本の方でも構いません。近衛家の用件として、外国語教育を行える方を探しております」

 文を書きながら、糸子はもう一つのことを考えていた。

 日米和親条約の第十一条問題だ。

 これは前世の知識として糸子が持っていることだった。

 一八五四年に締結された日米和親条約において、英文と和文の間に重大な解釈の差が生じていた。

 英文では「両国政府のいずれかが必要とみなす場合に置くことができる」となっていた領事駐在の条項が、和文では「両国政府の合意をもってはじめて置くことができる」という全く異なる意味になっていた。

 この誤訳は、日本側に英語に堪能な人間がいなかったことが原因だった。

 幕府の交渉担当者は、優秀な人材だった。岩瀬忠震も井上清直も、誠実で賢い人物だ。しかし英語が分からなければ、相手の書いた文書をそのまま信じるしかない。

 糸子の胸の中で、何かが静かに燃えた。

 三年後の交渉では、同じことを繰り返しては決してならない。

 英語が分かる人間が交渉の場にいれば、少なくとも「誤訳」による不利益は防げる。

 そしてそれは、糸子自身が英語を理解できることを意味する。


 善次郎からの返書は十二日後に来た。

 予想より早かった。

「横浜に、ヘボンという名のアメリカ人医師がおります。宣教師でもあり、日本語の研究を行っている方です。日本語が堪能で、英語と日本語の双方向の教育ができる人物とのことです。ただし横浜在住のため、京都には来られないそうです。」

「また、長崎出身で蘭学を修めた医師が江戸に来ており、オランダ語と英語を両方理解する方がおります。この方は移動が可能とのことです。お名前は村田蔵六様とおっしゃいます。」


 村田蔵六。

 糸子はその名前に目を止めた。

 後の大村益次郎だ。

 緒方洪庵の適塾で学んだ後、西洋兵学の翻訳者として名を上げた人物。幕末の軍事改革に大きな役割を果たした。

 その村田蔵六が、今は江戸にいる。

 善次郎は「オランダ語と英語を両方理解する方」と書いた。村田蔵六は確かに、翻訳家として西洋語に通じていた。

 これは、想像より遥かに良い選択肢だ。

 語学教師としてだけでなく、西洋の知識全般において、村田蔵六は糸子にとって貴重な存在になり得る。

 糸子はすぐに返書を書いた。

「村田蔵六様に、近衛家への来京をお願いしてみていただきたく。語学教育だけでなく、西洋事情全般についてのお話を聞かせていただきたいと伝えてください。費用と処遇は相談に応じます。」


 返書を送った後、糸子は別の問いに取り組み始めた。

 英語が分かるようになった後、どう使うか。

 これは語学の問題ではなく、交渉の問題だった。

 三年後の交渉で、糸子が英語を使える場面はどこか。

 直接の交渉相手はハリスだ。ハリスの通訳はヒュースケンだ。幕府の交渉担当者は岩瀬忠震と井上清直になる見込みだ。

 この場に糸子が「御門様の意向を代弁する者」として座るとすれば、糸子には二つの役割がある。

 一つは、日本語で御門様の意向を伝えること。もう一つは、英語の文書を直接確認すること。

 後者が重要だった。

 条約文は最終的に文書になる。その文書の英語と日本語が一致しているかを確認できる人間が、交渉の場にいれば——日米和親条約の第十一条問題のような「誤訳による不利益」を防げる。

 糸子はさらに考えた。

 しかし語学だけでは、まだ足りない。

 条約の解釈問題は、語学の問題だけでなく、法的な解釈の問題でもある。

 糸子の前世の記憶に、一つのことが浮かんだ。

 ウィーン条約法条約だ。

 一九六九年に採択された「条約法に関するウィーン条約」では、条約の解釈基準が明文化されている。しかしその考え方の基礎は、実際にはそれより遥かに古くから存在していた。

 条約はその通常の意味に従って解釈されなければならない。その解釈には文脈が考慮され、目的と趣旨も参照される。

 これが条約解釈の基本原則だ。

 そして——

 糸子は前世でバイヤーをしていた時のことを思い出した。

 海外との取引で、最も揉めたのはお互いの国の法的解釈の違いだった。

 特に中国の取引先は、重箱の隅を突いてくるような細かさがあった。契約書の一文字一文字について、自国に有利な解釈を徹底的に主張してきた。

 糸子は最初の頃、それに振り回されて何度も失敗をした。

 しかし何度も経験するうちに、糸子は対処法を身につけた。

 相手が有利な解釈をしてくる可能性のある表現を、事前に特定する。その表現を、一義的にしか解釈できない言葉に変える。あるいは、複数の解釈の可能性がある場合、その全てのケースで日本側に不利にならないよう、条件を付け加える。

 これは条約の起草段階でしか使えない技術だ。

 つまり、交渉の場で「相手の提示した文書に同意するかどうか」ではなく、「文書を作る段階から参加する」ことが必要だ。

 糸子は帳面に書いた。

「条約の解釈問題は、語学と法的思考の両方が必要。語学は今から習得する。法的思考は——前世の経験がある。それを今世の言葉に変換する作業が必要。」

「具体的な作業として:一、英語・オランダ語・フランス語の習得。二、条約文の解釈基準の研究。三、過去の条約(日米和親条約を含む)の英文と和文の差異の分析。四、交渉の場で使える反論の準備。」

 書きながら、糸子は一つの問題に気づいた。

 条約の解釈基準を「知っている」のは、前世の橘咲が二十一世紀の知識を持っているからだ。ウィーン条約法条約は一九六九年の話だ。一八五八年には存在しない。

 しかし——

 糸子は少し考えた。

 ウィーン条約法条約が明文化したのは、それ以前から実践されてきた解釈基準だ。

 つまり「条約はその通常の意味に従って解釈されなければならない」という原則は、一八五八年の交渉の場でも、理論として提示できる。

 問題は、それを相手に「納得させる」形で提示できるかどうかだ。

 外国の外交官に、「条約の解釈はこうあるべきだ」という理論を話せるためには——

 相手の言語で話せることが必要だ。

 糸子は帳面に大きく書いた。

「全ての道が、英語に繋がっている。」


 村田蔵六からの返書が来たのは、善次郎への手紙を送ってから二十日後だった。

 文面は簡潔だった。

「近衛家よりのご依頼、拝受いたしました。語学教育のご用件と承りましたが、詳細を直接お聞きしたく、一度伺う機会をいただければと存じます。来月中旬に京都に参ることができます。」

 糸子はこの文を三回読んだ。

 村田蔵六が来る。

 これは予想より大きな展開だった。

 大村益次郎として後世に知られるこの人物は、糸子が三年後に必要とする「西洋の実情を正確に知っている日本人」の一人だ。

 しかしそれ以上に、今の糸子に必要なのは「英語を実際に教えてくれる人間」だ。

 糸子はすぐに返書を書いた。

「お越しをお待ちしております。来月中旬、ご都合のよい日にお越しくださいまし。ご費用はお足元に難儀のないようにいたしますゆえ。」


 村田蔵六が近衛家を訪れたのは、初雪が降りそうな寒い日だった。

 背が高く、顔の彫りが深い。目が細く、しかしその目の奥に鋭い光があった。

 村田蔵六は、糸子と向き合って座ってから、最初に言った。

「失礼ながら、近衛様はおいくつでいらっしゃいますか?」

「九歳になりまする」

「失礼ながら九歳の姫君が…外国語を学びたいとのことでよろしいのでしょうか?」

「はい」

「理由をお聞かせいただいても?」

 糸子は正直に答えた。

「三年後に、南蛮の国との条約交渉がありまする。その交渉の場で、英文の条約文を直接確認できる人間が必ず必要になりましょう。その役目をわたくしが担うつもりでおりまする」

 村田蔵六が少しの間、黙った。

「……三年後の交渉に、近衛様が同席されると?」

「はい」

「その根拠は?」

「御門様から、南蛮の言葉で御門様のご意向を伝える役目を示唆していただいておりまする。詳細はまだこれからでございますが…」

 村田蔵六が目を細めた。

「近衛様は、交渉の場で何をされようとしていらっしゃいますか」

「条約の英文と和文が一致していることを確認することが最低限でございます。加えて、日本側に不利な解釈が入り込まないよう、文書の起草段階から関与したいと思っていまする」

「文書の起草から」

「はい。日米和親条約において、第十一条の英文と和文に差異があったことはご存知でありましょう?」

 村田蔵六が静かに頷いた。

「知っております。領事の駐在に関する条項ですね」

「その問題の根本は、日本側に英語を直接確認できる人物がいなかったことが原因でございました。語学の問題は、対処できまする。なれど文書の解釈の問題は、語学だけでは対処できません」

「解釈の問題、とは?」

 糸子は少し考えてから、言葉を選んだ。

「条約文は言葉で書かれておりまする。言葉は、解釈する者によって意味が変わり得まする。外国の外交官は、自国に有利な解釈を最大限にご主張するでしょう。それに対抗しうるためには、言葉の意味を一義的に限定する技術が必要でございます」

「……それは、相当に高度な話になりますな」

「前世の……書物で読んだことと商いで経験したことを合わせると、そのように思えるのでございます」

 村田蔵六が少しだけ表情を変えた。

「商いで経験した、と?」

「天朝物産会所という商売を行っておりまする。その中で、取引の文書の解釈について揉めることがございます。その経験から、文書の言葉をどう定義するかが、後の解釈を左右することを学びましてございます」

「なるほど」

 村田蔵六が静かに言った。「分かりました。私でお力になれるのならば、お教えましょう」

「誠に有り難き幸せに存じます」

「ただし、大変失礼ながら条件がございます」

「一体どのような?」

「わたくしも、近衛様から学ばせていただきたい」

 糸子が少し驚いた。

「わたくしから? 何を」

「情報です」

 村田蔵六が言った。「近衛様は御所と連絡があり、幕府の動向についての情報を持っていらっしゃる。天朝物産会所を通じた各地の情報もある。わたくしは西洋の知識を持っていますが、日本の内部の政治については情報が少ないのです。互いに持っているものを交換したい」

 糸子は村田蔵六を見た。

 これは信頼できる人間か。

 目が正直だ、と糸子は思った。計算している目ではなく、率直に話している目だ。

「分かりました。ただし御所に関わる情報の一部は、お伝えできないものがありまする。その点はご了承くださいまし」

「承知致しました」

「では、よしなに申し上げます」


 最初の授業は翌日から始まった。

 村田蔵六は教え方が独特だった。

 最初に糸子に質問した。

「何語から始めましょうか?」

「英語です。最も急いで必要になりまする。次にオランダ語、その次にフランス語の順でお願い致します」

「では英語から。どの程度の習得を目標にしましょうか」

「条約文を読んで理解できること。交渉の場で相手の発言の要点を掴めること。完璧な会話は必要ございません。なれど重要な言葉を聞き取り、重要な文章を読める必要がありまする」

「三年でそれを達成するおつもりですか」

「はい」

 村田蔵六が少し笑った。

「不可能ではないと思います。ただし、相当の努力が必要ですよ」

「努力は惜しみません」

「もう一つ確認させていただきたい。近衛様は今、どの程度の英語の知識がおありでしょうか」

 糸子は少し考えた。

「アルファベットは分かります。いくつかの単語も知っておりまする。文法の基本的な構造も、おおよそは理解出来ていると思いまする」

「それは全て書物で読んだと?」

「はい」

 村田蔵六が頷いた。

「では基礎はある。問題は発音と、実際の文章の読み取りになるでしょう。では、早速始めましょう」


 授業は毎日、一時間から二時間続いた。

 村田蔵六の教え方は、理論と実用を組み合わせたものだった。

 最初の一週間は、英語の音の体系を理解することに費やした。

 日本語にない音がある。Lの音とRの音の違い。Vの音。Thの音。これらを正確に発音することは、九歳の体でも訓練すれば習得できた。

 二週目から、糸子は英語の文章を読み始めた。

 村田蔵六が用意したのは、日米和親条約の英文だった。

「実際に使われた文書から学ぶ方が、実用的です」

 糸子は英文を読みながら、前世の記憶を少しずつ呼び起こした。

 英語の「知識」は確かに残っていた。しかし二十八年分の英語を使い続けた記憶と、今の九歳の体で活性化できるものの間には差があった。

 それでも、思ったよりも学習が速く進んだ。

 読みながら、糸子は気づいた。

 英文の第十一条を読んだ時、その意味が和文と確かに違っていたことを。

「村田殿」

「はい」

「第十一条、英文では"either government"とありまするが」

「はい」

「これは『どちらかの政府』という意味でございますね」

「そうです」

「なれど和文では『両国政府の合意をもって』となっております」

「……読めるのですか?」

「だいぶ単語を確認しながらですが、大意は分かりましょう」

 村田蔵六が静かに言った。

「近衛様、三週間でここまで読めるのは、尋常ではございません」

「書物で——」

「書物だけではここまではとても来られません。何か別の理由があるはずですが…それはお聞きしません」

 糸子は頷いた。

「…痛み入ります」

「条約の第十一条の問題については、幕府内でもすでに議論があります。しかし今更変えることは難しい。重要なのは、三年後の通商条約でこれを繰り返さないことです」

「その通りでございます。だからわたくしは、文書の言葉の定義から始めたいと思っておりまする」

「具体的には?」

 糸子は言った。「条約文で使われる言葉について、英語と日本語の双方で、その意味が一つに定まるよう定義する条項を最初に入れるのでございます。または、解釈が分かれる可能性のある表現を使わないよう文書を作るのでございます」

「それは……条約の起草に参加することを前提とした話ですね」

「はい。だから交渉の場に座る必要があるのでございます」

 村田蔵六が糸子を見た。

 長い間、黙っていた。

「……この国に、そのようなことを考えている人物がいたとは、正直思いませんでした」

「おおげさでございます」

「おおげさではありません。幕府の交渉担当者は優秀です。しかし彼らは外国語の問題と、文書の解釈問題を、同時に解決できる立場にありません。語学が分かる人間と、交渉の権限を持つ人間が別々にいる。その間の隙間を、近衛様は埋めようとしていらっしゃる」

「隙間を埋める人間が必要だと思っておりまする」

「そのような人物が、九歳の公家の姫君様というのは——」

「年齢の問題は…三年後には十二歳になっておりまする。十二歳でも問題なのかもしれませぬ、なれどわたくしには、やるしかないのでございます」

 村田蔵六が、また少し笑った。

「……教え甲斐がありますな」


 授業が軌道に乗り始めた頃、糸子は別の問題に取り組んでいた。

 条約の解釈基準を、どのように交渉の場で使うか。

 ウィーン条約法条約の内容を、今この時代に使える形に変換する。

 前世のバイヤーの経験から言えば、契約書の解釈で揉める時のパターンは三つだ。

 第一は、言葉の定義が曖昧な時。「迅速に」という表現が、一方にとっては三日で、他方にとっては一ヶ月でも「迅速」になる。

 第二は、文脈が考慮されない時。契約書の一文だけを取り出して、前後の文脈と切り離して解釈する。

 第三は、目的が無視される時。この契約は何のために結んだかという根本的な目的が、細かい条文の解釈に負ける。

 これらを防ぐための対策は明確だ。

 第一の対策として、重要な言葉は必ず定義する。「領事」とはどのような権限を持つ者か。「開港」とはどの範囲を指すか。これらを最初の条項で明確にする。

 第二の対策として、各条項を単独で解釈してはならない旨の条項を入れる。「本条約の各条項は、全体の文脈において解釈されるものとする」という一文が、後の揉め事を防ぐ。

 第三の対策として、条約の目的を前文に明確に記す。目的が明文化されていれば、その目的に反する解釈は論理的に排除できる。

 糸子は帳面に、これらを整理して書いた。

「前世のバイヤーの経験を、条約交渉に応用する。対象は同じ——言葉と言葉の間のギャップを埋めること。」

「違いは——商売の契約は利益が目的。条約は国の形が目的。だから失敗した時の代償が桁違いに大きい。」


 そのような日々が続いていたある日の夕刻、村田蔵六が授業の後に言った。

「一つ、確認させてください」

「はい」

「近衛様が三年後の交渉で使おうとしている、解釈基準の考え方——これはどこから来ていますか」

 糸子は少し考えた。

「書物と、商いの経験からでございます」

「どの書物になるのでしょうか?」

「……複数の書物から、自分なりに整理したものでございます。特定の一冊ということではございません」

 村田蔵六が静かに言った。

「近衛様の考え方の中に、西洋の法学者の議論に近いものがあります。オランダの法学者フローニウスや、スイスのヴァッテルの国際法論に似ている部分があります」

「……そうでございますか」

「ヴァッテルの著書は一七五八年に出版されていて、翻訳の一部は長崎経由で日本にも入ってきています。しかしそれを読んでいる日本人は、蘭学者の中でも限られています」

「村田殿は読まれたのでしょうか?」

「一部を。オランダ語で読みました」

「どのような内容でございましたか?」

 村田蔵六は少し考えてから答えた。

「条約とは何か、国家とは何か、国家間の関係はどのような規則に従うべきかについて論じたものです。その中に、条約の解釈についての考え方も含まれています。条約はその通常の意味で誠実に解釈されなければならない、というものです」

 糸子は静かに聞いた。

「その考え方を、三年後の交渉の場に持ち込めましょうか」

「……法学者の議論を条約交渉の場に持ち込む、ということですか」

「相手の外交官が条約文を自国に有利に解釈しようとする時、こちらが『条約の解釈はその通常の意味に従うべきだ』という原則を主張できれば、議論の前提を変えられまする」

 村田蔵六が糸子を見た。

「その原則は、相手も知っているはずです」

「だから使えるのでございます。相手が知っている原則であれば、相手も認めざるを得ないことでしょう」

「…………」

 村田蔵六は長い間、黙っていた。

 糸子は待った。

「一つ、正直に申し上げてもよろしいですか」

「なんでございましょう?」

「わたくしは長崎で蘭学を学び、江戸で翻訳をしてきました。西洋の知識を日本に伝えることが自分の役割だと思ってきました。しかし近衛様は、その知識を別の段階で使おうとしている」

「別の段階?」

「知識を持つことと、知識を交渉の道具として使えることは違います。わたくしはどちらかと言えば前者でした。しかし近衛様は——最初から後者を目指しておられる」

「それは悪いことになりましょうや?」

「いいえ」

 村田蔵六が首を振った。

「むしろ、この国に必要なことだと思います。知識を持つだけでは、外国の外交官に対抗できないと思います。知識を実際に使える形にする人物が、交渉の場には必ず必要です」

 糸子は頷いた。

「だから教えてくださいまし。語学も、知識も。使える形にするのは、わたくしがやりますゆえ…」


 その夜、糸子は帳面を開いた。

  第一年の目標として書いていた項目から積み上げてきた問いと答えを、静かに確認した。

 英語の習得は始まった。

 条約の解釈基準という考え方が、村田蔵六との対話で形になり始めた。

 日米和親条約第十一条の問題は、三年後の通商条約で繰り返してはならない。

 そのための準備として、糸子には今、二つのものが動いている。

 一つは語学の習得。もう一つは解釈の技術の構築。

 この二つが揃った時、条約の文書を作る段階から関与できる。

 糸子は帳面に書いた。

「外国語は道具。解釈の技術は武器。この二つを持って、三年後の交渉の場に座る。」

「前世では百貨店の商談で、言葉と言葉の隙間を突かれて何度も失敗をした。その経験が、今ここで役に立つとは思わなかった。」

「しかし考えてみれば、商売も外交も、根っこは同じだ。相手が何を望んでいるかを知り、自分が何を守らなければならないかを明確にし、言葉でそれを確定させる。」

「違いは——相手が国家で、守るものがこの国の百年先だということだ。」

 糸子は筆を置いた。

 縁側の外で、近藤が夜番についていた。

 その背中を見ながら、糸子はもう一度考えた。

 三年間の準備が始まっている。

 語学が育つ。知識が積まれる。人が集まる。器が整う。

 そして——三年後、条約交渉の場に座る。

 御門様の言葉を持って。

 近藤たちに守られながら。

 村田蔵六の知識を背に。

 私は一人ではない。

 しかし最終的に言葉を使うのは、糸子自身だ。

 九歳の公家の姫君が、十二歳になってする仕事がある。

 英語と時間と準備の重さが、今この瞬間、糸子の胸の中に静かに積もっていた。


第十九話 了

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― 新着の感想 ―
> 第十九話が始まってから積み上げてきた問いと答えを、静かに確認した。 →地の文とは言え『第十九話が~』と作中で言うのは、メタ的過ぎませんか?  急に第四の壁を破られたような驚きがあります。
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