第二十二話「島津斉彬という人」
安政三年の秋が深まった頃、善次郎が京に来た。
珍しいことだった。
善次郎は江戸を拠点として動いている。京に来るのは年に一度か二度、商談の名目がある時だけだ。
今回の来訪を知らせる文には、こう書いてあった。
「直接お伝えしたい話がございます。文では書けない内容です。」
文では書けない内容。
糸子はその一行を読んで、何かが動いたと感じた。
善次郎が近衛家の座敷に通されたのは、夕刻だった。
いつもの善次郎だった。明るい顔、しかし今日は目の奥に何か真剣なものがあった。
「遠路ご苦労様でした」
「はい。少し急いで来ました」
「どのような話でございますか」
善次郎が少し間を置いた後、言った。
「島津斉彬様が、近衛家との接触を望んでいるとのことです」
糸子は動かなかった。
「詳しく話してくださいまし」
「はい。薩摩藩の江戸藩邸に出入りしている商人を通じて、話が来ました。島津斉彬様は最近、朝廷との関係強化を模索しておられます。その中で、近衛家の動きについて耳にされたようです」
「近衛家の動きを?」
「天朝物産会所の話と、御門様との関係の話が薩摩藩の耳に入ったとのことでございます。どこから漏れたかは確認できておりませんが…」
糸子は頭の中で素早く整理した。
情報が薩摩に届いた経路。大坂の鴻池か、江戸の商家の話か、あるいは別のルートか。
しかし今は経路より内容が重要だ。
「斉彬様は何を求めておられますか」
「直接の対話をしたいとのことです。近衛家の、できれば当主か、それに準じる方と」
当主は父・忠房だ。しかし実質的な判断をしているのは糸子だ。
「対話の場は?」
「薩摩藩邸か、あるいは近衛家に伺うことも可能とのことでした。斉彬様は来月、上洛の予定があります」
来月。
糸子は少し考えた。
島津斉彬との対話は、三年後の交渉に向けた地盤作りにおいて重要な意味を持つ可能性がある。斉彬は薩摩藩主として外国との関係に深い関心を持ち、日本の近代化を本気で考えている人物だ。
しかし。
公家の姫君が大名家の当主と直接対話することは、礼法上の問題がある。
五摂家の姫君は、見知らぬ男性に姿を見せることを極力避ける。御簾が必須だ。大名といえども、いや大名であるからこそ、その礼法は守られなければならない。
「父上に相談致しまする」
翌朝、糸子は父・忠房のところに行った。
忠房は話を聞きながら、いつになく真剣な顔をした。
「島津斉彬殿が」
「はい。薩摩藩主が近衛家との対話を望んでおられるとか」
「斉彬殿は……開明的な方として聞いている。集成館の話も、蒸気船の話も。なれど」
忠房が少し考えた。
「お前が直接会うつもりか」
「近衛家として対話をするなら、実質的な判断をしているのが、わたくしである以上、わたくしが同席するのが自然でございます。ただし御簾越しで…」
「御簾越しで大名と話すのか」
「五摂家の姫君としての礼法を守りながら、内容のある対話をすることは可能でございます。御門様との御前も御簾越しでございます。形式を守ることと、内容を持つことは矛盾致しませぬ」
忠房が腕を組んだ。
「わたしが表向きの当主として同席する」
「はい。それをお願いしたいのでございます」
「糸子、お前は」
忠房が少し声を落とした。「斉彬殿と何を話すつもりだ」
「三年後の交渉について、薩摩藩の立場と近衛家の立場がどう重なるかを確認したいと思っています。斉彬様は朝廷との関係強化を求めておりまする。わたくしは御門様のご意向を交渉の場に持ち込みたいのでございます。この二つが重なれば、互いにとって有益な関係が作れる可能性がございます」
忠房が少し黙った後、言った。
「……分かった。わたしが同席する。なれど」
「はい」
「無理をするな。お前が判断して、これ以上は話せないと思ったら、引け。いいな」
「はい、父上」
実光を呼んで、礼法の確認を行った。
「島津斉彬殿が来訪された場合、近衛家としてどのような形で対応するのが正式でございましょう?」
実光が少し考えた。
「近衛家は五摂家の筆頭です。大名家の当主が来訪する際は、正式な座敷での対応になります。お茶と菓子の設え、座席の配置——これらは有職故実に基づいて整える必要があります」
「姫君の同席は」
「御簾の内にいらっしゃる形が正式です。御当主である忠房様が表に出て、姫君様は御簾越しにお声だけをお聞かせになる、という形が最も礼法に適います」
「その形で、実質的な対話は可能でございますか」
「声が届けば、内容のある話はできます。しかし——」
実光が続けた。「島津斉彬殿がどのような方かにもよります。御簾という形式を、形式として理解してくださる方かどうか」
「斉彬様は開明的な方と聞いております」
「開明的であっても、礼法は礼法です。むしろ開明的な方こそ、礼法の意味を正確に理解してくださる可能性がありましょう」
糸子は頷いた。
「実光様、対話の場の設えをお任せできますでしょうか」
「はい。お任せください」
島津斉彬が近衛家を訪れたのは、十月の初めだった。
朝晩が冷える季節だったが、昼の光は柔らかく、庭の木々が赤く色づいていた。
斉彬は供を数人連れてきた。近衛家の門前で、供の者たちは外に留まり、斉彬だけが邸内に入った。
近藤と山南が邸内の別の場所に控えていた。表向きは分からない位置だ。
糸子は御簾の内に座っていた。
父・忠房が表の座敷で斉彬を迎えた。
実光が事前に整えた座敷は、五摂家としての格式を示しながら、しかし堅苦しすぎない形にしてあった。
斉彬の声が聞こえた。
低く、よく通る声だった。
糸子は御簾越しに、その声に集中した。
「近衛殿、このたびはお時間をいただき、恐悦至極に存じ上げます」
「遠路お越しくださり、御礼申し上げます。どうぞお楽に」
忠房の声は穏やかだった。父上が緊張していないことが、声から分かった。
「近衛殿の姫君様も、御簾の内にいらっしゃいますか」
斉彬が直接聞いた。
糸子は少し驚いた。単刀直入だ。
忠房が答えた。「はい。御簾越しではありますが、娘も同席しております」
「天朝物産会所を動かしておられるのは、姫君様と聞いております。姫君様に直接お声を聞かせていただけますか」
糸子は御簾の内から言った。
「近衛家の糸子でございます。御簾越しではありますが、何卒よしなに」
「お声を聞かせていただけて、光栄です」
斉彬の声に、笑みが混じっていた。
「姫君様、率直にお話しさせていただいてよろしいですか」
「なんでございましょう」
「薩摩藩主として、近衛家の動きに強い関心を持っています。御所御用達の商売を通じた情報収集と、御門様との関係——これは並大抵のことではない」
糸子は少し間を置いた後、答えた。
「斉彬様も、率直にお話しくださるのですね」
「遠回りは得意ではありません」
「では、わたくしも率直に申し上げまする。斉彬様が近衛家との対話をお求めたになられたのは、朝廷との関係強化のためだとお聞き致しました。その目的と、近衛家の目的が重なる部分があるかどうかを確認したいとお思いなのでございましょうか」
「その通りです」
斉彬が続けた。「わたくしは、この国の先行きを憂えています。特に、南蛮の国々との関係において、日本がどのような立場を取るべきかについて」
「それはわたくしも同じでございます」
「しかし」
斉彬の声が少し変わった。「近衛家の立場と薩摩藩の立場は、同じではありませぬ。近衛家は朝廷の側にいる。薩摩は幕府と関係を持ちながら、しかし幕府とも距離を置いている」
「その複雑な立場を、斉彬様はどのようにお感じなのでございましょうや」
「複雑であることは承知しています。しかしこの国が外国と対等に渡り合うためには、幕府だけでも朝廷だけでも足りない。両方が、それぞれの役割を持って動く必要があると思っています」
糸子は御簾の内で、静かに考えた。
これは試されている、と感じた。
斉彬は糸子がどのような考えを持っているかを、この対話で見極めようとしている。
「斉彬様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」
「なんでしょう?」
「三年後に、南蛮の国々との通商条約の交渉がございます。その交渉において、薩摩藩はどのような立場を取るとお考えでございますか」
静寂があった。
この問いは、斉彬にとって想定外だったかもしれない。
しかし斉彬は動じなかった。
「……三年後の交渉を、すでに見据えておられる?」
「はい。今から準備しなければ間に合いませぬ」
「その準備として、近衛家は何をしておられますか」
「御門様との信頼関係を深めること。英語を習得すること。条約文の解釈について研究すること。そして——様々な立場の方々との関係を作ることでございます」
「様々な立場の方々?」
「はい。幕府の開明派、各藩の先進的な方々、そして外国事情に通じた方々との関係でございます」
斉彬が少し笑った気配がした。
「なるほど。それでわたくしにも声をかけてきた、ということですか」
「いいえ」
糸子は答えた。「声をかけたのは斉彬様の方でございます。わたくしは、この対話がどのような方向に進むかを、今この瞬間に考えておりまする」
茶が運ばれた。
しばらく、穏やかな時間が流れた。
斉彬が茶を一口飲んでから、言った。
「姫君様、一つ確認させてください。御門様との関係について」
「はい」
「御門様は、外国との通商条約に対して強い反対の意向をお持ちです。その御門様のご意向を、姫君様はどのように捉えておられますか」
糸子は御簾の内で、慎重に言葉を選んだ。
「御門様の外国への嫌悪感は、本物でございます。なれどその根底にあるのは『この国を守りたい』という思いでございます。わたくしはその思いを守りながら、方法について別の選択肢を提示しようとしておりまする」
「別の選択肢とは?」
「外国を追い払うことは今や不可能でございます。しかし外国に従うことも選びたくない。対等な関係を確立することこそが、御門様の思いを実現する唯一の現実的な道だと思うておりまする」
「対等な関係を、どのようにして実現するのですか?」
「三年後の条約交渉において、御門様のご意向を具体的な条件として交渉の場に持ち込むことでございます。単なる拒否ではなく、『この条件なら勅許を与える』という形でございます」
斉彬がしばらく黙っていた。
それから言った。
「……それは、御門様が条約交渉に関与するということですか」
「はい」
「幕府がそれを認めるとは思えませんが?」
「幕府の開明派には、朝廷の意向を尊重する立場の方々がいらっしゃいます。阿部正弘様がそうでございました。堀田正睦様もそのお一人だと思うておりまする」
「しかし幕府の全員がそう考えているわけではない」
「はい。だから今から、認めてもらえる関係を作っておく必要がありましょう」
斉彬が少し間を置いた後、言った。
「姫君様の話を聞いて、一つ感じたことがあります」
「何でしょうか」
「姫君様は、この国の形を変えようとしている。しかしその変え方が、わたくしが考えているものとは少し異なります」
「どのように異なりましょうや?」
「わたしは、この国を変えるためには力が必要だと思っています。軍事力、経済力、そして外国との実際の付き合いの中で身につける力。しかし姫君様は——」
「商売と言葉と御門様の権威を使おうとしている、ということでございましょうか」
「はい」
「矛盾しないと思いまする」
糸子は言った。「力は必要です。しかしその力を最終的に何のために使うかが重要でございます。軍事力で外国を追い払うことを目標にすれば、終わりがありませんぬ。なれど外国と対等な条約を結ぶことを目標にすれば、そこに向けた様々な力の使い方が生まれまする」
「その目標に向けて、薩摩藩に何を求めますか」
直接の問いだった。
糸子は少しだけ沈黙の後、答えた。
「今は何も求めないでしょう」
「何も?」
「この対話が最初でございます。互いに何者かを知ることが最初の段階と思うておりまする。何かを求めるのは、信頼が積み重なってからのことでございます」
斉彬が、また笑った気配があった。
「……慎重な方ですね」
「慎重というより、順序を大切にしているのでございます」
「なるほど」
斉彬が少し考えてから、言った。「しかし一つだけ申し上げます。わたしは、御門様を中心とした朝廷が、この国の外交において正式な役割を持つべきだと考えています。幕府だけが外国と交渉するのではなく、朝廷の意向が正式に反映される形で」
「それはわたくしも同じ考えでございます」
「その点では、近衛家と薩摩藩の方向性は一致しています」
「はい」
「ならば——」
斉彬が続けた。「今後、情報の共有は可能でしょうか。わたくしが得た外国事情の情報を近衛家に伝え、近衛家が得た朝廷の動向の情報を薩摩藩に伝える、という形で…」
糸子は御簾の内で考えた。
情報の共有。
これは単純な話ではない。
近衛家が得た御所の情報は、御門様のご意向に関わるものを含む。それを薩摩藩に流すことは、御門様の信頼を裏切ることになりかねない。
「すべての情報を共有することはできませぬ」
糸子は答えた。「御門様に関わる情報は、御門様のお許しなく外にお出しすることはできませぬ。なれど——外国事情や幕府の動向についての情報であれば、互いに有益な共有ができると思いまする」
「その区別は明確にできますか」
「できましょう。その区別をすることが、わたくしの役割の一つでございます」
斉彬がしばらく黙った後、言った。
「……分かりました。その条件で、情報の共有を始めましょう」
対話が一段落した後、斉彬が忠房に向かって言った。
「近衛殿、一つ個人的なことをお聞きしてよろしいですか」
「なんでしょう」
「姫君様のご年齢は?」
「十歳になります」
斉彬が少し間を置いた。
「……十歳でこのような対話をされるのですか」
「生まれた時から変わっておりました」
忠房が静かに言った。「生後七ヶ月で言葉を話した子です。わたしも最初は驚きましたが、今はただ信じるしかないと思っております」
「信じる、とは?」
「この子の判断を信じる、という意味です。わたしにはよく分からないことも、この子にはよく分かっている。その差がある以上、信じて任せることが最善だと思っています」
斉彬が少し笑った。
「素晴らしい父上ですね」
「素晴らしいとは言えません。ただ、諦めが早いのかもしれませぬ」
糸子は御簾の内で、少し笑いそうになった。
父上らしい言い方だ。
斉彬が帰った後、忠房と糸子と実光の三人で、今日の対話を確認した。
「どうだった」
忠房が糸子に聞いた。
「斉彬様は本物でございます」
「本物とは?」
「本当にこの国のことを考えていらっしゃいました。自分の藩の利益だけでなく、日本全体として外国と対等に渡り合える形を作りたいと思うているお方。その点は、わたくしと同じでございましょう」
「なれど方法が違う?」
「はい。斉彬様は力を重視しておりました。軍事力と経済力を直接高めることで、外国に対抗しようとしていらっしゃる。わたくしは、まず条約の形を正しく作ることを重視致しまする」
「どちらが正しいか」
「どちらも必要でございましょう。ただ、わたくしにできることは条約の方でございます。斉彬様にできることは力の方でございます。役割が違うと思うておりまする」
実光が言った。
「情報共有の話が出ましたが、どのように進めましょうや?」
「善次郎を通じた形が自然でございます。薩摩藩の江戸藩邸に出入りしている商人がいるとのことでしたから、その経路で外国事情の情報を受け取る形を作れると思いまする」
「御所の情報は出さない、という線は守れますか」
「守れまする。それは交渉前から決めていた線でございます」
夜、近藤が縁側に来た。
「今日の対話、いかがでしたか」
「良い対話でした」
「島津斉彬殿は……どのような方でしたか」
「大きな人でした」
「大きな、というのは」
「器が大きい、という意味です。薩摩藩主として当然の威厳がありながら、しかし固定した考え方をお持ちになっていない。情報を受け入れながら、自分の考えを作り直せるお方だと感じました」
近藤が少し間を置いた後、言った。
「姫様、一つ聞いてもよいですか」
「なんですか?」
「斉彬殿と話していて、近衛家の立場が難しくなることはありませんか。幕府の老中の話もある。斉彬殿の話もある。御門様の話もある。それぞれの方向が違う中で、近衛家はどこに立っているのですか」
糸子は少し考えた。
「どこにも立っていない、と言えばいいのかもしれませんね」
「どこにも?」
「幕府の味方でも、薩摩の味方でも、どこかの藩の味方でもない。御門様のそばにいる、というのが近衛家の立場でございます。御門様を中心に、様々な方向の力を調整することが、わたくしの役割だと思うておりまする」
「それは……難しい立場ですね」
「はい。なれど難しいからこそ、できることがありまする。どこかの味方になれば、他の方向から敵が生まれましょう。どこの味方にもならなければ、どこからも話を聞けるというものです」
「仲介者ということですか」
「仲介者より、もう少し積極的な立場でございます。仲介者は話を繋ぐだけです。わたくしは、話を繋ぎながら、その結果を一定の方向に向けようとしていまする」
近藤が夜空を見た。
「その方向とは?」
「この国が、外国と対等に付き合える形を作ること。ただそれだけでございます」
近藤が静かに頷いた。
「分かりました。俺たちはその姫様を守ります。どこにも属さない姫様が、どこからも狙われる可能性があるということも、分かっていますゆえ」
「心強いですね」
「その代わり」
近藤が言った。「姫様も、俺たちを守ってください」
「守る? わたくしが近藤殿たちを」
「はい。俺たちが武士の格式を持てたのは、姫様と御門様のお力です。その立場を守るために、近衛家との関係は必要です。もし近衛家が危うくなれば、俺たちの立場も危うくなる」
「それは……互いに守り合うということでございますね」
「はい。俺はそういう関係の方が、好きです」
糸子は少し笑った。
「分かりました。互いに守り合いましょう」
十月が終わりに向かう頃、村田蔵六との授業で、糸子は一つの練習を完成させた。
条約文の草案を英語で作る練習だ。
村田蔵六が言った。
「ここまで書けるようになれば、実際の条約交渉において文書を確認するだけでなく、修正案を提示することもできます」
「しかしそれは、英語が分かる人だけが読める修正案です。交渉の場には日本語の翻訳が必要です」
「翻訳は、わたくしが担当できます」
糸子は村田蔵六を見た。
「村田殿、三年後の交渉に、わたくしと共に関わっていただけましょうや?」
村田蔵六が少し考えた後、答えた。
「……はい。可能であれば」
「可能に致します」
「どのような形で?」
「天朝物産会所の関係者として、あるいは近衛家の顧問として。何らかの形で、交渉の場に入れる方法を考えます」
「三年後までに?」
「二年を切りました…」
村田蔵六が静かに言った。
「急ぎますね」
「急いでおりまする。なれど急ぎすぎると失敗いたしまする。このバランスが難しゅうございます」
「近衛様は、この一年で相当に変わりました」
「変わりましたか?」
「はい。最初にお会いした時は、九歳らしい部分もありました。しかし今は——言い方が難しいですが、年齢を感じさせない部分が増えました」
糸子は少し考えた後、言った。
「それは良いことですか、悪いことですか?」
「どちらとも言えませぬ」
村田蔵六が続けた。「子供らしくなくなることは、何かを失うことでもあります。しかし近衛様がしようとしていることは、子供らしくいることを許しませぬ。その矛盾を、近衛様自身が抱えているのではないかと、時々感じます」
糸子は窓の外を見た。
秋の木が、最後の葉を落とそうとしていた。
「……抱えています」
糸子は静かに言った。「九歳でいたいと思うことは、正直ありまする。お梅に甘えて、父上のそばで安心していたい。なれどそれを選べば、三年後に何もできないでしょう。どちらを選ぶかは、すでに決まっているのでございます」
「後悔はありませんか」
「後悔する暇がありませぬ」
糸子は少し笑った。
「しかし——近藤殿たちと話す時間は、少し息ができる気が致します。あの方たちは、わたくしを九歳として扱ってくれることがありまする。それが、大変ありがたいのでございます」
十一月の初め、善次郎から文が来た。
「島津斉彬様からの最初の情報共有として、以下をお伝えします。アメリカの下田総領事ハリスが、幕府に通商条約の交渉開始を強く求めていることが確認されました。ハリスは老中の堀田正睦様と複数回会談したとのことです。」
「また、ハリスが将軍に謁見することを求めているという話もあります。これが実現すれば、通商条約の交渉は加速するとのことです。」
糸子は文を読んで、静かに帳面を開いた。
ハリスが動いている。
歴史の通りだ。
しかし歴史の通りに動きながら、糸子の準備もまた動いている。
糸子は書いた。
「安政三年十一月。ハリスが動き始めた。三年後の交渉が、実質的には一年半後に迫っている可能性がある。準備の加速が必要。」
「具体的な行動として:堀田正睦との直接対話を急ぐ。御門様への報告を早める。村田蔵六の参加形式を確定する。島津斉彬との情報共有経路を安定させる。」
「そして——英語とオランダ語の習熟を、来年の春までにさらに高める。」
筆を置いた。
縁側の外では、試衛館の稽古の音が聞こえていた。
六人の剣士が、今日も稽古を続けていた。
積み重なるものがある。
時間が過ぎていく。
しかし時間は、ただ過ぎていくのではない。積み重なりながら過ぎていく。
近衛糸子は、次の一手を考えながら、帳面を閉じた。
第二十二話 了




