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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/75万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第二百十三話「集まる俊英⑤――集う者、それぞれの選択」

※本作は第二百四話「英国の試し⑤」直後の時系列にあたるお話です。

一

  師走も二十日を過ぎた。


  一橋上屋敷の庭は、朝のうちだけ霜で白くなる。池の縁に張った薄氷は昼には溶け、翌朝にはまた戻ってくる。


  糸子は縁側に近い文机の前に坐り、その池を見ていた。


  葵が茶を置いた。


「……ようやく、静かになりましたね」


  英国との談判が終わって、五日になる。


  三度の座を重ね、こちらは何も得ず、向こうにも何も渡さなかった。次の協議の日取りだけを、こちらへ残した。


  勝ち負けで言えば、辛うじてこちらの勝ちと言える程度には拾えた。けれど、時間をこちらへ置いたという意味では十分であった。


  ただ、談判が済んでも、疲れは抜けない。


  文机の隅には、奥州から届いた綴りがあった。


  松陰が江戸を発ったのは、この年の如月だった。仙台へ入ってから、音信は途絶えた。最初の一通が届いたのは弥生の末で、それからさらに一度ほど、北の風に乗って来ただけである。


(……十箇月近くになるのね。総帥が江戸を離れてから)


  廊下に、松屋善次郎が膝をついていた。帳面を一冊、抱えている。


「姫様」


「おはよう、善次郎。語学所で、何かありましたか?」


「講目の割り振りが、回らなくなってまいりました」


  糸子は湯呑みを置いた。


「霜月に、伊藤様、稔麿様、飯田様の三名が抜けましてございます。特に伊藤様、稔麿様は、下の者に教える側にも回っておりました。抜けた分を村田先生と生徒で埋めておりますが、年が明ければ持ちませぬ」


「……なるほど、そういうことずら」


「それで、姫様。お取次ぎを願っておられる方々のことでございますが…」


  善次郎は帳面を開き、糸子の前へ差し出した。


  六つの名が並んでいた。


  越前の三岡八郎。

  信州上田の赤松小三郎。

  美濃の神田孝平。

  佐賀の大木民平。

  土佐の乾退助。

  紀州の伊達小次郎。


  国も立場も違う。それでも、同じ場所へ辿り着いている。


  それぞれの名の下には、国と用向きが一行ずつ添えられ、頁の端には小さく「姫様へ」とある。


「皆様から、もし許されるなら、所を差配しておられる方に是非お目通りを、と」


「差配しておられる方?」


「……近衛様、とお伝えしてしまいました」


  善次郎は頭を下げた。


「申し訳ございません。伊達様というお若い方が、答えを聞くまでいくらでも待つという顔をなさいまして」


  糸子は、わずかに笑った。


「構いません。善次郎が言うてよいと判じたのなら、それでよいのです」


「ただ、お会いになるかどうかは、近衛様がお決めになることと申し添えておきました」


「それで結構です」


  糸子は帳面を閉じかけ、手を止めた。


  六つの名を、もう一度見る。


(……三岡、赤松、神田、大木、乾、伊達)


その中でも、三岡八郎の名だけは、帳面の書き方からして他の者と違っていた。


 用向きではなく、仕組みそのものを見ようとしている。


 この者は、ただ知識を得るためだけに来るのではない。


 松陰が残したものは、本人が去った後も、人を呼び寄せ続けていた。


(蒔いたものが、もう、こんな形になっている)


  糸子は、帳面から目を上げた。


  その名を追って来た者たちが、こうして一冊の帳面の余白に並んでいる。


「皆様、総帥にお会いに来られたのでしょう」


「左様にございます。それぞれ、先生の講のお噂を聞いて」


「総帥は、すでに北へ向かわれました」


「はい。皆様、門でそうお聞きになりました」


  糸子は、帳面を閉じた。


「では、なぜ帰られなかったのです」


「それが」


  善次郎は、少し間を置いた。


「先生は発たれる前の晩、訪ねて来る者があれば、所を見せてやってほしいと言い置かれました」


「……そう」


「見せられるところまでお見せしたのでございます」


  糸子は黙った。


  総帥に会いに来た者は、本人がいないと聞いても帰らなかった。


  残された場所を見て、それでもなお、ここに留まった。


  口で説く者がいなくても、ここで行われていることそのものが、人を引き留めている。


「……最初にこのお書き込みをいただいたのは、如月の末でしたね」


「さようにございます」


  糸子は、頁の端を指で押さえた。


  あのとき、糸子は京へ出す密書を書いていた。


 弥生には京洛の段取りが始まり、卯月には寺田屋、皐月からは江戸城……、葉月に一橋会談、霜月からは英国。 一日も空いていない。


「随分と、お待たせしてしまいましたね」


「……姫様」


「皆様、責めるようなことは一度も申されませぬ。ただ、何度か時を尋ねられたとは聞いております」


  糸子は、しばらく黙った。


「皆様、このあいだ、どうなさっていたのです」


「大木様と伊達様は、門前までなら幾度もお見えとのことでした。中へはお入れしておりませぬ。先生の言付けは一度きりのものでございましたので」


「門前まで、幾度も」


「はい。乾様は月に幾度か、鉄砲の値の写しを置いていかれます。神田様は洋書の訳をお届けくださいました。赤松様は夏に一度上田へお戻りになり、秋にまた出府されました。三岡様は越前へお帰りになっておりましたが、年の瀬の金策で、先日また江戸へ…とのことです」


  糸子は、帳面の六つの名を見た。


  季節が二つ巡った。


  その間、誰も手を引かなかった。


  待つだけではない。


  それぞれの場所で、それぞれの仕事を抱えながら、なお、この所との縁を切らなかった。


  糸子は、静かに帳面を閉じた。


二

  六人に会うのは、二日のちの昼と決めた。


  場所は語学所の奥の一間である。一橋の屋敷に、よその藩の者を六人も招き入れるわけにはいかない。語学所なら、もともと人の出入りがある。


「皆様、まとめてでございますか」


  支度をしながら、葵が訊いた。


「お一人ずつ、お会いにならないのですか?」


「ええ。まとめてお会いします。一人ずつでは、その者自身しか見えませぬ。同じ場に置けば、互いへの向き合い方も見えるでしょう」


  糸子は、帯を直させながら言った。


「……それに、わたくしが疲れますもの」


  葵は、少し笑った。それから、すぐ真顔に戻った。


「それと、姫様。御簾は」


「掛けまする」


  糸子は、迷わずに答えた。


 御簾は、五摂家の姫と諸藩の者を隔てるためだけのものではない。


  その向こうに誰がいるのかを、相手へ意識させるためのものでもある。


  隔てていることが、この国では話の重さになる。


   *


  出がけに、村田蔵六が一つだけ訊いた。


「教範は、いかがなさいます」


「お見せ致しません」


  糸子は即答した。


「商務語学所を始めた時より、生徒以外へ教範を渡さぬ決まりにございます」


  村田は、それ以上は訊かなかった。


「……承知しました」


   *


  その前に、六人は善次郎の案内で語学所の中を一巡りさせられていた。大教場と黒板を見せただけの、ごく短いものだった。


  六人は、それから四半刻ほど控えの間で待たされた。


 だが、不満を口にする者はいなかった。


 十箇月待ち続けた者たちにとって、四半刻など待つうちにも入らない。


  皆、自分以外の五人が何を求めて来たのか知らなかった。


  ただ一つ共通しているのは、吉田松陰という名だけである。


  控えの間は狭い。六人が膝を寄せれば、火鉢一つで足りるほどだった。


  互いの名と国だけは知った。だが、打ち解けるほどの間柄ではない。


  三岡八郎は、六人の中でも特に静かだった。


  だが、黙っているのではない。


  周囲の者が何を考え、どのような人物なのかを見ているようだった。


  ただ一人、伊達だけは少し様子が違っていた。


  他の五人が互いの出方を窺う中で、彼だけは落ち着きなく視線を動かしている。


  だが、若さゆえの軽さではない。答えを聞く前に、次の問いを探しているような目をしていた。


  伊達小次郎という男は、他の五人より一歩だけ前のめりだった。


  最初に口を開いたのは、乾だった。


「のう、聞いた話じゃが……あれは本当じゃと思うかえ」


  誰に訊いたともつかない言い方だった。


  神田が顔を上げた。


「朝廷の使者が、メリケンとの話をひっくり返したという話があったな。……あれは、近衛様がやったんじゃろか」


「そうじゃ」


  乾が頷いた。


  昨日、初めて名を聞いた。


  朝廷から下った使者が、ハリスとの談判で条約の中身を改めさせた――そこまでが、彼らの知るところであった。


「本当なら、面白いな」


  神田は、それだけ言った。


  三岡が、大木を見る。


「大木殿は、この門前へよく通っておられる。何か御存じではないか」


「一度も」


  大木は首を振った。


「その御方の名を聞いたのも、昨日が初めてです」


  三岡は黙った。


  これだけ通っている大木にも、内のことは知らせていない。


  それだけ用心している場所なのだろう。


  赤松は何も言わず、控えの間の障子の桟を数えていた。数え終えると、天井の板へ目を移した。


  伊達は、ずっと黙っていた。


  廊下の足音を聞いていた。女の足音が二つ、奥へ向かい、しばらくして、男の足音が一つ戻ってきた。


「お入りくださいませ」


  善次郎が、障子を開けた。


   *


  奥の一間には、御簾が一枚掛けられた。


  その手前に、六枚の座布団が並べられている。


  葵は御簾の脇に控え、近藤は入口寄りに座していた。刀を帯びた姿が、六人の出入りを黙って見ていた。


  御簾の内には、糸子がいる。


  六人は刀を預け、善次郎に導かれて順に入ってきた。


  糸子は、まず名ではなく、座り方を見た。


  人は言葉より先に、姿勢に本性が出る。


  誰が自分を大きく見せようとし、誰が周囲を見ようとしているのか。


  先に入ったのは、三岡八郎だった。


  座につくと、すぐに膝の上で手を揃えた。商家の主人が客を待つときのような坐り方で、背筋に無駄な力が入っていない。


  赤松小三郎は、座についてから、部屋の広さと御簾の位置を一度目で測った。測り終えると、あとは動かなかった。


  神田孝平は、懐に手を当ててから坐った。何か厚みのあるものが入っているらしかった。


 大木民平は、静かに一礼してから坐った。門前へはもうふた月ほど幾度も通っている男で、遠目に見知った村田の顔へ、小さく頭を下げた。


  乾退助は、胡坐をかきかけ、周りを見て、正座に直した。


  最後に、伊達小次郎が入ってきた。いちばん若く、身なりも粗末だった。だが、部屋の様子を最もよく見ていた。


  坐る前に御簾へ目をやり、次に村田、善次郎へと視線を移す。それから、ようやく腰を下ろした。


  六人が揃うと、部屋は静まり返った。


  皆は深く平伏した。


  御簾の向こうから、声がした。


「大義である。面をあげよ」


  六人が、ゆっくり顔を上げた。


  声は落ち着いていた。言葉遣いにも、よどみがなかった。


  乾の目が、隣の神田にだけ気づかれるほど、わずかに見開かれた。


  三岡は、表情を変えなかった。越前で、年若い藩主の代わりに口を利く家老を何人も見てきた。声の若さで相手を量ると、たいてい量り損なう。


  伊達は、声の高さではなく、間の置き方を聞いていた。挨拶の言葉と言葉のあいだの間が、少しも揺れていない。話すことを、はじめから決めてある者の間だった。


三

「そなたらは、吉田殿にお会いになりたかったので、ございましょうや」


  御簾の向こうの声が言った。


「はい」


  三岡が答えた。


「左様でございます」


  赤松が続いた。


「……ええ」


  大木が頷いた。


「まあ、そうじゃ」


  乾が言った。


「そのつもりで参りました」


  伊達が言った。


  神田だけが、黙っていた。


「神田殿は」


「私も、同じでございます」


  神田は、少し遅れて答えた。


  御簾の向こうが、一拍、静かになった。


「では、わたくしにお会いになる理由は、ございませんね」


  部屋の空気が、止まった。


  三岡は膝の上の手を動かさなかった。赤松が、御簾のほうへ顔を向けた。乾が口を開きかけて、閉じた。


  三岡が、静かに口を開いた。


「お目通りを願いましたのは、手前どものほうでございます」


「はい」


「では……」


「吉田殿のお話をお聞きになりたいのであれば、それはわたくしがお話しすることではございませぬ。吉田殿のお話は、ご自身の口からお聞きになるのが、いちばんでございまする」


  乾が、膝の上で拳を握った。


「ほいたら、なんで会うてくれたがです」


  声が、少し荒くなりかけていた。近藤が刀に手を置いた。


「ふふふふ……」


  御簾の向こうで、小さく笑う気配がした。


「吉田殿にお会いになりたくて江戸まで来られた方々に、わたくしが割り込む理由はございませぬ。お戻りになるまでお待ちになるなら、それもよろしいかと……」


  誰も、答えなかった。


「ただ――」


  声が、一つ間を置いた。


「皆様が語学所をご覧になったのであれば、少しお話を伺いたく存じます。わたくしがお呼びしたのではございませぬ。皆様がそこで見られたものを、どう感じられたか、それを聞かせてくださいまし」


  伊達が、そこで少しだけ目を細めた。


  まさか、見たものを聞かせてほしい…と言ってくるとは思わなかった。訊かれる側に回るつもりで、ここへ来た者は、この中にはいない。


  乾の拳が、膝の上でほどけた。


「……見たもんを話せ、ちゅうことでございますか」


「はい。わたくしは、あの所を毎日見ておりませぬ。毎日見ておる者は、見慣れてしまいます。初めてご覧になった方の目のほうが、よう見えることもございまする」


  乾は、少し拍子抜けした顔をした。


  伊達は、その遣り取りを聞きながら考えていた。


  五摂家の姫が、藩士と浪人を前にして、自分の所の見立てを訊いている。自分の見立てに欠けるところがあると思う者だけが、人に尋ねる。


  足りていると思う者は、尋ねずに語るのが、普通だと思っていた。


四

「では、三岡殿から」


  名を呼ばれて、三岡は背筋を伸ばした。


「手前が見ましたのは、商いの扱い方でございます」


「どのように」


「商いを、商人の稼ぎとして扱っておらぬように見えました」


  三岡は、言葉を選びながら続けた。


「値を付ける。品を集める。運ぶ。売る。銭を回す。手前は越前で、その一つ一つを別々の役目として扱ってまいりました。値は値、運びは運び。ところが、あの所では、それが一本の筋になっております。一つが崩れれば、次が崩れる。その崩れ方まで、生徒が数えておりました」


「ほう」


「商いの一つ一つが、国の力へ繋がるように組まれておると、手前には見えました」


  御簾の向こうは、しばらく静かだった。


  三岡は、それ以上を足さなかった。


  福井で、量を増やした年に値が下がったことも、あえて口にはしなかった。


  だが、伝えたいことの半分は、すでに届いている気がした。


「赤松殿は」


「私は、兵を動かす話が、銭と荷と船に繋がっておるのを見ました」


「兵学だけでは足りぬ、と」


「はい」


  赤松は、指を折らずに数えるように言った。


「兵が強くても、弾がなければ撃てませぬ。米がなければ戦えませぬ。馬がいなければ運べませぬ。私は上田で、それを兵の勘定として数えてまいりました。ところが、あの所の板に残っておった勘定は、商いの荷を運ぶ勘定でした。並べ方が、私のものと同じでした」


「どちらの勘定が、先にあったと思われます」


「兵の話としてではなく、物を運ぶ話として扱っておる。そのほうが、かえって兵站の骨組みがよく見えますに」


  御簾の向こうで、小さく頷く気配がした。


「神田殿は」


  神田は、懐に一度手を当ててから、口を開いた。


「数の扱い方が、私の知っておる学問とは違っておりました」


「どう違いまする?」


「私の知る洋学では、数は知るためのものでございます。異国に人がいくら、船がいくら。読んで、訳して、それで終わる」


  神田は、言葉を探すように少し黙った。


「あの所では、数から、次に何をするかを決めようとしとります。値がこうなら、量をこうする。量がこうなるなら、船がいくつ要る。数が、そのまま次の手の元になっとります」


「それが、神田殿には違って見えましたか?」


「はい。どちらが上ということではございません。ただ、違います」


「大木殿は」


  大木は、少し間を置いてから答えた。


「私は、人を育てる仕組みに驚きました」


「驚いた、と申しますと」


「一人の先生が、大勢に教えるだけではなかとです。学んだ者同士が、互いに問い、考え、言い合いの中身を書き留めて残しております。後から入った者が、それを読んで、前の者が詰まったところから始められる」


  大木は、膝の上で手を組み直した。


「あれなら、先生の数で、学ぶ者の数が決まりません。人を増やす仕組みになっております」


「……人を増やす、ですか」


「はい」


  御簾の向こうの声が、その言葉を一度だけ繰り返した。


  しばらく何も言わなかった。


「乾殿は」


「わしは、軍備のところが気になった」


  乾は、腕を組みかけて、やめた。


「わしは土佐の江戸屋敷で、鉄砲の値を見ちょります。じゃが、鉄砲だけ買うても、使う人間がおらにゃ意味がない。人間がおっても、銭がなけりゃ続かん。銭は、商いで作るしかありません」


「そうでございますね」


「結局、藩の力は刀だけでは決まらん。あの所を見て、それがよう分かりました。じゃが――」


  乾は、そこで言葉を切った。


「それが土佐で使えるかどうかは、また別の話じゃと思いました」


  御簾の向こうが、少し笑った気がした。


「最後に、伊達殿は」


  伊達は、すぐには答えなかった。


  五人の話を、黙って聞いていた。一人ずつの顔を見ていた。


「あの場所は、人間そのものを集めておりますな」


  五人が、伊達のほうを見た。


「商人がいる。武士がいる。学者もいる。百姓の子もいる。皆が同じものを学んでおるわけでもない。算盤の部屋にいる者もいれば、英語の部屋にいる者もいる。それでも、同じ場所にいる」


  伊達は、御簾のほうへ目を上げた。


「何を作ろうとしておられるのか。それが、まだ私には分かりませぬ」


  御簾の向こうで、糸子は少しだけ目を細めた。


(この者……)


  五人は、自分の見方でものを見てきた。値を見た者、荷を見た者、数を見た者、人を見た者、鉄砲を見た者。


  しかし、この若者は、それを見ている者たちそのものを観察していた。


  ほかの五人も、伊達の言葉に少し戸惑った顔をしていた。


  三岡は、自分が値を見ていたときに、この若者が何を見ていたのかを、いま初めて考えた。赤松は、板の勘定の前で足を止めたとき、後ろにいた伊達が一度も板を見ていなかったことを思い出した。


「伊達殿」


  御簾の向こうの声が言った。


「分からぬものを、そのまま、見ておられたのか」


「はい」


「退屈では、ありませんでしたか」


「いえ」


  伊達は、すぐに答えた。


「分からぬものほど、見ていて飽きませぬ」


五

「では、わたくしから一つ伺いましょう」


  御簾の向こうの声が、少し調子を変えた。


「皆様、吉田殿の話をどのようにお聞きになられたか?」


  今度は、名を呼ばなかった。


  しばらく誰も口を開かなかったが、やがて三岡が言った。


「日ノ本の物産を、まとめて異国へ売れ、と」


「兵站でございます。工場で作った弾を、誰が運ぶか」


  赤松が続けた。


「日本人同士が戦うたら、異国が得をする、と」


  乾が言った。


「海の国になれ、と聞きました」


  大木が言った。


「メリケンの戦の話も」


  神田が付け加えた。


「北と南の人の数。工場の数。四年で北が勝つ、と」


「ええ」


  声が、そこで少し柔らかくなった。


「その数を、皆はどう思うたか?」


  三岡と赤松が、同時に神田を見た。数の話なら、この男だと、案内の途中で二人とも分かっていた。


  神田は、少し困った顔をしてから、正直に言った。


「最初は、あまりに都合のよい数ではないかと思いました」


「なぜ、そう思うた?」


「北が二千二百万、南が九百万、そのうち四百万は武器を持たせられぬ。工場は十倍。話を聞かせるには、よう出来すぎとる。誰かがどこかで、丸めたか、盛ったか」


  神田は、そこで言葉を切った。


「ですが、自分で調べられる範囲で当たってみると、筋が通っとります。人の数が少ないほうが、工場も少ない。工場が少ないほうが、鉄も少ない。鉄が少ないほうが、鉄の道も短い。一つ一つは確かめきれませんが、並べると、互いに矛盾しとりません」


「はい」


「盛った数なら、どこかで噛み合わんところが出ます。けんど、おかしなところが、見つからなんだ」


  赤松が、そこで口を挟んだ。


「私も、一つ引っかかっておりました」


「どこに」


「北の工場が十倍、というところです。工場の数だけなら、数えた者がおれば出ましょう。ですが、十倍の工場が、四年のあいだ休まずに動くかどうかは、別の話です。石炭と鉄が、途切れずに届かねばならぬ」


  赤松は、指で膝を一度叩いた。


「そこまで数えた上での四年なのか。私も、そこを先生に伺いたかっただに」


  御簾の向こうの声は、少し間を置いてから答えた。


「数えた上での四年です。北は、石炭も鉄も、自分の国の中で掘っておりまする。南の港は、北の船に塞がれて、外から物が入りにくくなっております。途切れるのは南のほうでありましょう」


  赤松は、しばらく黙っていた。


「では、四年というのは」


「北が勝つのに四年、ではございませぬ。南が持ちこたえられるのが、四年なのでござります」


  赤松は、そこで初めて、はっきり頷いた。


  御簾の向こうは、しばらく黙っていた。


「メリケンの事情につきましては、中浜万次郎殿からも報せを受けておる」


  六人の何人かが、顔を上げた。


「中浜…殿…あの、メリケンに渡った」


  乾が言った。


「はい。中浜殿の報せと、こちらで確かめられる書物と、横浜の異人から聞き取ったことを、突き合わせたものでございまする。吉田殿は、それを講でお話しになった」


「では、あの数は」


  三岡が言った。


「吉田殿が勝手に盛られたものではない……」


  御簾の向こうの声は、そこでつけ加えた。


「ただし、わたくしとて、すべてを承知しておるわけではない。知っておることと、知らぬことがございまする。分からぬものは、分からぬと申すであろう」


  神田は、それを聞いて、懐に置いた手を少し緩めた。


  赤松は、小さく息をついた。数の出所がはっきりしたなら、あとはその数をどう使うかの話になる。


  伊達だけは、頷かなかった。


  伊達は、御簾の向こうの声を聞きながら、別のことを考えていた。


  中浜万次郎の報せ。書物。横浜の異人の話。それを突き合わせて、一つの筋にまとめた者がいる。まとめた者が、それを吉田松陰に渡し、松陰が全国で説いた。


  この姫君は、何を、どこまで知っているのか。


六

「では、そなたら」


  声が、また調子を変えた。


「いまのメリケンが、どう見えておる?」


「内戦にかかりきりで、ございましょう」


  三岡が答えた。


「左様です」


  声は、すぐに続けた。


「その隙を、異国が見逃すと思われますか」


  誰も答えなかった。


「メリケンが日本へ向ける目を弱めている間に、こちらへ目を向ける国はございます。イギリスは、この国の港と海を、メリケンよりずっと熱心に見ております。フランスも、公儀の近くに寄ってくるやもしれませぬ」


  赤松が、そこで顔を上げた。


「……双方が、別々の側に付けば」


「はい」


  乾が、低い声で言った。


「日本人同士が、争う」


「そのとき、異国は鉄砲を売るでしょう。両方に」


  乾は、黙った。


  昨冬、藩邸の古参から聞かされた話が、そのまま御簾の向こうから返ってきた。あのときは、学者の見立てとして聞いた。いま聞いているのは、イギリスとフランスの名の付いた話である。


  横浜で、長州様も薩摩様も、と口を滑らせた商人の顔が浮かんだ。


「吉田殿がお話しになったことは、先の話ではございませぬ」


  御簾の向こうの声は、静かだった。


「いま、この国の外で、その支度が進んでおる」


  三岡が、膝の上の手を固く組んだ。


「その支度に、銭を出すのは」


「日本の諸藩でございます」


  声は、淡々としていた。


「鉄砲も船も、ただではございませぬ。買うのは、藩の蔵の銭です。その銭は、年貢と、物産の売り上げと、借財から出ておる」


  三岡は、目を伏せた。


  江戸へ戻ってからのこの数日、三岡が金主の店を回って工面してきた銭も、いずれどこかで鉄砲に化けるかもしれない。化けた鉄砲が、どこを向くかは、三岡には決められない。


「……借りた銭で、買うた鉄砲で、同じ国の者を撃つ」


  三岡は、それだけ言った。誰に向けた言葉でもなかった。


   *


「ですが……」


  声が、少し間を置いた。


「もう一つございます」


  六人が、御簾を見た。


「メリケンは、内戦が終わってそのまま…の国ではありませぬ」


  御簾の向こうの声は、言葉を一つずつ置くように続けた。


「内戦が終われば、国は再び一つにまとまりまする。そして、今まで以上に強い国になるでしょう。戦のために敷いた鉄の道も、戦のために建てた工場も、戦のために造った船も、戦のために集めた兵も、すべて残ります。戦のために作った力を、今度は一つの国のために使うのです」


  赤松の手が、膝の上で止まった。


  兵を運ぶために敷いた道は、戦が終わっても道として残る。兵のために建てた蔵は、戦が終わっても蔵として残る。赤松が上田で数えた兵站の骨組みは、戦が終われば、そのまま商いの骨組みになる。


「その国が、日本へ目を向けたとき」


  声は、そこで一度止まった。


「今より弱い日本で、どう向き合うのでしょう」


  誰も答えなかった。


  火鉢の炭が、小さく音を立てた。


「吉田殿は講で、四年の窓と申したと思う」


「はい、そう話しておられたと……」


  大木が答えた。


「メリケンが内輪の戦にかかりきりであるあいだの四年間。もう、二年目も半ばを過ぎました」


  御簾の向こうの声は、少しも強くならなかった。


「残りは、二年あまりでございます」


「二年……」


  三岡が、ほとんど声に出さずに言った。


「メリケンが自国の戦にかかりきりのあいだに、日本は富を作り、人を育て、報せを集め、国の仕組みを変えねばならぬ。二年のあとには、戦を終えたメリケンが戻って来よう。イギリスもフランスも、いまと同じところには留まっておりませぬ」


  声が、そこで少し低くなった。


「この二年が、日本にとって、最後の、そしていちばん大きな好機なのです」


  部屋が、静かになった。


  乾が、その静けさを破った。


「二年で、何ができるか……になるであろう」


  責める口調ではなかった。本当に訊いていた。


「鉄砲一つ買うのに、土佐は一年揉めよります。二年あったら、鉄砲を何度買えるかどうか、ちゅうところじゃ」


「そなたの言う通りでございます」


  御簾の向こうの声は、あっさり認めた。


「一つの藩が、二年を使えば、そのくらいのことしかできぬであろう」


  乾は、口を開きかけて、閉じた。


「ですから一藩で使わぬのでござります」


  声は続けた。


「越前で値を付ける人。信州で荷を運ぶ勘定をする人。江戸で数を集める人。佐賀で人を育てる人。土佐で鉄砲の値を見ている人。紀州から出て、ここに残る人。同じ二年を、別々の場所で、同時に使う。一人の時間は二年ですが、十人の二年は、二十年分の働きになりまする」


  三岡が、そこで顔を上げた。


 語学所の奥の一間で、六人が初めて顔を揃えたとき、三岡は、出も年も身分もばらばらだと思った。

 だが、その違いこそが、いまは別の意味を持っているように思えた。


  違うからこそ、同じ二年を別々の場所で使える。


七

「その限られた二年のうちに」


  御簾の向こうの声が、六人を順に見渡すような間を置いた。


「そなたらは、どう動く?」


  誰も、すぐには答えなかった。


  六人とも、この問いを受け取るために江戸へ来たわけではなかった。松陰に問いを投げるつもりで来た者たちが、いま自分自身へ問いを返されている。


  最初に口を開いたのは、三岡だった。


「一つ、恐れながら伺ってもよろしゅうございますか」


「申してみよ」


「もし手前どもが、こちらで学ばせていただくこととなりましたならば、その……学びのすべてを、お教えいただけるのでございましょうか」


「正式な語学所の生徒になれば」


  声は、はっきりしていた。


「ただし、教範を含め、ここで得たものには守秘の義務がある。写しは取れぬ。国元へ持ち帰ることもならぬ。一度ここの生徒になれば、生涯、口外はできぬと思われよ。破れば、身元を保証した方にも咎めが及ぶことになりましょう」


  三岡は、それを聞いて、黙って頷いた。


  伊達が、そこで口を開いた。


「恐れながら、お尋ねいたしたきことがございます。なぜ、そこまで学問をお授けになりながら、生涯の口止めまでなされるのでございましょうか。学問とは、広めてこそ世のためになるものではございませぬか」


  声は、少し間を置いた。


「学問なら、広めます。ここで教えておることの半分は、いずれ世の中に出てよいものでございます」


「残りの半分は?」


「まだ世に出してはならぬ報せである」


  声は、静かだった。


「報せとは、持つ者によって価値が変わるもの。誰もが知っている報せには、値は付かぬ。されど、誰も知らぬ時に、それを持つ者は先を読むことができましょう」


  伊達は、黙った。


  黙って、御簾の向こうを見ていた。


  帳面を門で預けさせられたこと。札を渡されたこと。見知らぬ者が冊子のことを訊くと、冊子が机の下へ消えたこと。見たものの一つ一つが、いまの言葉で説明された。


  神田が、そこで言った。


「それほどのものなら、私も拝見したいところですが」


「それは、できぬ」


  御簾の向こうの声は、間を置かずに答えた。


「外の方に、教範を見せることはせぬ。講義を特別に聞かせる、ということもしておらぬ。今までそなたらが見ることを許されたのは、吉田殿のお言付けがあったから、認めたにすぎぬ」


  神田は、しばらく黙っていた。


  それから、少しだけ笑った。


「……恐れながら、それが当然でございましょう」


  御簾の向こうから、静かな声が返る。


「なぜ、そう思われる?」


  神田は、姿勢を正した。


「数は、集めた者のものでございます。集めた者が、どこまで渡すかを決めるものです。決めもせず、誰にでも見せるような場所であれば……私は、信用いたしませんでした」


  御簾の向こうで、小さく息をつく気配がした。


  安堵したのか、面白がったのか、神田には分からなかった。


「では、講義の後ろで、お聞かせいただくだけでもよろしいのでしょうか」


  乾が横から口を挟んだ。


  自分たちが壁際に立たされたことを言っているらしかった。


「それも、許さぬ」


  声は、変わらなかった。


「今までは、吉田殿のお言付けがあったからこそ、お見せしたのでございます。次からは、生徒か、生徒でないか。そのどちらかでなければならぬ」


「間の席を作れば、いずれその席に人が溢れる。溢れた席から、話は外へ漏れるであろう」


  乾は、少し唸った。


「厳しいことでございますな」


「厳しくしておかねば、中で学ぶ者を守れぬ」


  伊達は、その言葉を聞いて、わずかに首を傾けた。


  守るのは、教範ではなく、中で学ぶ者だと、この近衛様は言った。


  口止めを受けた者は、それを破れば咎を負う。


  だが、間に余計な者が立てば、内にいる者は、どこまで話してよいのか分からなくなる。


  迷う者から、先に罰を受ける。


  この姫君は、線の内側にいる者を守るために、外側との境を固めている。


八

「では」


  赤松小三郎が、膝の上で手を組み直した。


「私は、ここで学びたいと存じます」


  誰も驚かなかった。先ほどの案内で、板の前から動かなかった男である。


「私も」


  大木が、静かに言った。


「佐賀の藩命による遊学の身ではございますが、正式な許しを願い出ます。許しが出るまでは、見学のままで構いませぬ」


「私も、お願いしたい」


  伊達が言った。藩の許しの話をしなかった。する必要がない、というふうだった。


  最後に、三岡が言った。


「手前も、試しを受けたく存じます」


  受けたい、ではなく、試しを受けたい、と言った。御簾の向こうの声は、その言い回しに気づいたらしかった。


「そなたら、ここで今日、生徒になれるとお思いか?」


「そうは思うておりませぬ」


  三岡が答えた。


「失礼ながら、このような所が、頼まれて誰でも入れる所なら、手前はすぐ帰っておりましょう」


  御簾の向こうで、また小さく笑う気配がした。


「では、試しを受けていただく。村田先生」


  脇に控えていた村田蔵六が、懐から紙を出した。


   *


  試しは、その場で行われた。


  葵が、奥から文机を四つ運ばせた。机は御簾の手前に一列に並べられ、四人はそれぞれの机の前に坐り直した。背後には、乾と神田の座が残された。


  御簾の内から、四人の背と手元が見える位置である。四人のほうからは、御簾の向こうはほとんど見えない。だが、見られていることだけが分かる。


  伊達は、机の前に坐ると、一度だけ御簾のほうを振り返った。それから、前を向いた。


  四人の前に、硯と筆と紙が置かれた。乾と神田は、座を少し後ろへ下げて、見ている側に回った。


  村田は、問いを一つずつ口で言い、紙にも書かせた。


  はじめは算勘である。生糸一俵の仕入れ値と、運び賃と、売り値を与えて、儲けがいくらになるかを出させる。次に、同じ荷を船で運んだ場合と、陸で運んだ場合の違い。そこまでは、四人とも迷わなかった。


  次に、短い書付が配られた。横浜の商館から日本の商人に宛てた、取引の申し入れの写しである。言葉は和文に直してあるが、言い回しは異国の商人のものだった。


「この申し入れで、向こうがいちばん言いたくないことは何か。答えなされ」


  村田は、それだけ言った。


  三岡が、すぐに筆を取った。赤松は一度読み、二度読んで、筆を取った。大木は三度読んだ。伊達は、読み終えたあと、しばらく書付を膝の上に置いて、何も書かなかった。


  次に、村田は口で言った。


「異国の商人が、ある品を、相場より三割安く売ると申してきた。買うか、買わぬか」


  四人が、それぞれ考えた。


「買うか買わぬかは、答えなくてよい」


  村田は続けた。


「買うか買わぬかを決める前に、何を確かめるか。それを書きなされ」


  最後の問いは、誰も知らないことだった。


  メリケンのある港で、生糸の値がいくらになっているか。村田は、それを訊いた。


  四人とも、知らなかった。


「知らぬなら、知らぬと書きなされ。そのうえで、何を調べれば答えられるかを書きなされ」


  後ろの座で、乾が神田に小声で言った。


「わしじゃったら、最初の算勘で詰まっちょる」


「私も、三割安い品の問いは迷います」


  神田は、筆を持たずに、頭の中で答えを組み立てているらしかった。


「安いのは、向こうが売り急いどるか、品が悪いか、こっちの知らん相場があるかの、どれかや。どれかを確かめるまで、買うも買わんもない。……ただ、それをこの短い間に紙に書けと言われたら、私もたぶん、二つまでしか書けん」


「二つで足りんがか」


「足りんやろな。村田先生の顔を見る限り」


  乾は、板の前の村田を見た。村田は、四人の手元を順に見ていたが、顔には何も出ていなかった。


   *


  紙が集められ、村田が一枚ずつ目を通した。


  その紙を、御簾の内へ回す。葵が受け取り、糸子の前に置く。糸子が読むあいだ、部屋は静かだった。


  赤松の紙は、数がどれも速く正確だった。運び賃の違いの問いには、頼まれてもいないのに、雨で道が崩れた場合の損まで書き添えてあった。


  ところが、商館の申し入れの問いで、赤松の答えは変わっていた。


  向こうが言いたくないことを書くかわりに、向こうがこう出てきたら、こちらはこう退き、こう回り込む、という手順が、陣立てのように書いてある。


  善次郎が、それを読んで、赤松のほうへ向き直った。


「赤松様」


「何か」


「戦と商いは、同じではございません」


  赤松は、善次郎の顔を見た。


「戦は、相手を退かせれば勝ちでございます。商いで相手を退かせてしまえば、次の荷を買う者がいなくなります」


  赤松は、しばらく黙っていた。


「……なるほど、そういうことずら」


  それだけ言って、赤松は自分の書いたものをもう一度確かめた。それから筆を取り、余白に一行を書き足す。善次郎は、その一行を読まなかった。


  赤松が、そこへ書き足したという事実だけで十分だった。


  御簾の向こうの声が、赤松に向けて言った。


「赤松殿の兵站の勘定は、ここにいる誰よりも深うございます。それを、商いの中へ持ち込みなされ。商いのやり方は、ここで覚えなさい」


「承知いたしました」


  赤松は、頭を下げた。


   *


  大木の紙は、どの問いにもきちんと答えていた。速くはない。ただ、どの答えの横にも、同じ種類の書き込みが小さく添えてあった。


  この勘定の、どこで人がつまずくか。


  糸子は、それを読んで、御簾の内から声をかけた。


「大木殿」


「はい」


「この勘定を、一人に教えるとしたら、どう教えますか」


  大木は、少し考えた。


「一人に教えて終わりなら、増えませぬ」


  大木は言った。


「その者が、次の者へ教えられるように教えねばなりません。つまずくところを先に教えておけば、その者は、次の者がどこでつまずくかが分かります」


「それは、大木殿ご自身がつまずかれたところですか」


「そこもございます。ばってん、他の者がつまずいたところを見て、書き足した分のほうが多かとです。答えは、書物に書いてあります。つまずくところは、書いてなかとです」


  御簾の向こうは、しばらく何も言わなかった。


「よう分かりました」


  声は、それだけ言った。


   *


  伊達の紙は、他の三人と形が違っていた。


  算勘の問いは、正しく答えてある。ところが、商館の申し入れの問いには、答えが一行しかなかった。そのかわり、問いそのものの横に、小さく書いてあった。


  この問いは、答えを知るためのものに非ず。


  糸子は、その一行を読んで、御簾の内から言った。


「伊達殿。これは」


「この問いは、答えを知りたいのではありませんな」


  伊達は、御簾のほうを見たまま答えた。


「なぜ、そう思われます」


「異国の商人が、何を言いたくないのかは、申し入れの紙だけでは分かりませぬ。ならば、問われているのは答えではない。そこへ至るまで、どう考えるかでございましょう」


  伊達は、そこで少し間を置いた。


「違いますか」


  御簾の向こうが、短く黙った。


「……いえ」


  声は、はっきり言った。


「正解です」


  乾が、後ろの座で小さく口笛を吹きかけて、やめた。


   *


  三岡の紙は、いちばん速く、いちばん短かった。


  算勘には数だけが書いてあり、余計な書き込みは一つもない。三割安い品の問いには、なぜ安いのかを確かめる箇条が、四つ、簡潔に書いてあった。品の出どころ。相手の蔵の中身。同じ品を他に売っている者の値。相手が急いで銭を欲しがっている訳。


  知らない港の値の問いには、知らぬ、と一行あり、その下に、訊く相手の名が三つ書いてあった。横浜の商館の番頭、長崎の蔵屋敷の者、それから、ここの善次郎である。


  善次郎が、それを見て、少しだけ眉を上げた。


「三岡殿」


  御簾の向こうの声が言った。


「申し分ない」


「ありがたく存じます」


  三岡は、深く頭を下げた。


  頭を上げたときには、顔つきが少し変わっていた。


「ですが、手前は、すぐにはここへ入れませぬ」


九

  部屋が、静かになった。


  赤松が、横目で三岡を見た。


「試しには通していただいた。ここで学ぶ値打ちも、よう分かりました」


  三岡は、言葉を選びながら続けた。


「されど、手前一人がここで学んで越前へ帰っても、越前では、手前一人が知っておるだけになります」


「はい」


「手前は、越前で十年、勘定を見てまいりました。ゆえに分かります。一人が知っておるだけでは、藩は動きませぬ。動かすには、同じ勘定を扱える者が、帳場にも、在方にも、蔵屋敷にも要ります」


「では」


「この春に一度、国元へ戻って藩内を説いてまいりました。ですが、人を選ぶところまでは参っておりませぬ。もう一度戻り、選んでから改めて参ります。手前も、そのときに」


  御簾の向こうは、しばらく黙っていた。


(……この人、自分が学ぶより先に、人を送ると言ってる)


  糸子は、御簾越しに三岡の顔を見た。


  その顔は、少しも得意そうではなかった。当たり前の勘定を言っただけ、という顔だった。


「分かりました」


  声は、そう言った。


「三岡殿のお席は、空けて待ちましょう。越前から来られる方々の試しも、同じように受けてもらいましょう」


「無論でございます」


「どなたを選ばれる?」


  御簾の向こうの声が訊いた。


  三岡は、少し考えた。


「頭の回る者は、選びませぬ」


  赤松が、横で眉を上げた。


「頭の回る者は、越前にもおります。ですが、頭の回る者ほど、上の者に好かれて、帳場へは降りてきませぬ。手前が選ぶのは、帳場で毎日、銭と荷を数えておる者です。数えておる者でなければ、ここで学んだことを、明日から使えませぬので」


  御簾の向こうは、しばらく黙っていた。


「それが、よろしいと思う」


  *


「神田殿は」


  御簾の向こうの声が、神田のほうへ向いた。


  神田は、懐から手を下ろした。


「私は、ここへ入る要はないと思います」


「ほう」


「私は、もう別のところで学んでおります。蘭書を読み、訳すのが私の仕事で、これからもそうなるでしょう」


  神田は、少し間を置いた。


「ですが、ここの考え方は、知っておきたい」


「教範は見せること能わず」


「はい。当然の仕置きと存します」


  神田は、すぐに言った。


「その代わりと申してはなんですが、私のおるところから、こちらの役に立ちそうな数や話が手に入ったら、お届けします。洋書を読んでおれば、異国の数は、ちょくちょく目に入りますので」


  御簾の向こうが、少しのあいだ黙った。


「ありがたく、お受けいたしましょう」


  神田は、そこで懐にもう一度手を当てた。


  厚みのあるものが、そこに入っている。取り出しかけて、やめた。


「神田殿。懐のものは」


  御簾の向こうの声が、静かに訊いた。


  神田は、少し驚いた顔をしてから、苦笑した。


「……自分で書いたものでございます。農と商のことを。まだ、誰にも見せておりません」


「見せてくださいますか」


  神田は、しばらく迷っていた。


  それから、懐の束を取り出して、善次郎に渡した。


「数が足りぬところだらけです。どこが足りぬか、言うていただけるなら」


「お預かりします。お返しするときに、申し上げましょう」


  善次郎が、束を両手で受け取り、御簾の内へ回した。葵が受け取って、糸子の膝の脇に置いた。


  神田は、手の中が急に軽くなったのを持て余すように、膝の上で指を組んだ。


  この冬のあいだ、神田はこの束を懐に入れたまま、何度もこの門をくぐった。吉田松陰の講も、後ろの壁際で聞いた。そのうえで、まだ見せなかった。見せたとき、何を言われるのか、自分でも分からなかったからである。


  それがいま、見当のつかない相手に渡した。


  だが、不思議と後悔はなかった。


   *


「乾殿は」


「わしも、生徒になるつもりはありませぬ。手前は土佐の留守居を預かっちょります。軍備の用もございますき、江戸を離れるわけには参りません。講義に日々通うほどの暇までは、どうにも作れませぬ」


「なるほど」


「しかし」


  乾は、膝の上で手を握った。


「土佐にも、ここで学ばせるべき者はおります。算盤ができ、物を考える力がありながら、藩校の中で埋もれちゅう者が」


「……」


「そういう者がおれば、江戸へ出します。わしが来られぬ分、土佐の若い者に見せます」


「それは、ありがたいことでございます」


「礼を言われることではございません」


  乾は、御簾をまっすぐ見た。


「ここで学ぶことが、本当に国のためになると言うなら、土佐にも、それを知る者がおらにゃなりません。知る者がおらんまま、土佐が鉄砲だけ買うたら――」


  乾は一度、言葉を切った。


「わしが案じた通りになりますき」


  御簾の向こうの声は、少しだけ間を置いてから言った。


「乾殿。これまで幾度か置いていってくださった鉄砲の値、あれをこの先も、ときどきこちらへお聞かせくだされ」


  乾は、少し目を見開いた。


「……値をでございますか?」


「はい。どこの藩が、どこで、何挺、いくらで。それが分かれば、わたくしどもにも見えるものがございます」


  乾は、しばらく黙っていた。それから、にやりと笑った。


「留守居の務めでございます。聞き集めたことは、国元へも届けますき。その中から写しを一枚、こちらへ回すくらいのことは、造作もありませぬ」


   *


  大木が、そこで遠慮がちに言った。


「近衛様。恐れながら、一つ申し上げたきことがございます」


「はい」


佐賀の江藤新平という者が、吉田先生に書状を出しております。霜月のうちに届いておるはずです」


「たしかに届いております」


  善次郎が、脇から答えた。


「それと、同じ佐賀の大隈八太郎という者が、吉田先生の学び舎を見に、江戸へ向かっております。春までの許しを取って、蘭学寮から」


「そうですか」


  御簾の向こうの声は、少し考えるような間を置いた。


「越後の長岡からも、吉田殿宛てに書状が来ております」


  善次郎が言った。


「河井継之助というお方から。問いが三つ」


  伊達が、そこで顔を上げた。


  この部屋にいない者たちの名が、いくつも出てきている。いずれも、松陰の話を人づてに聞いて、それぞれの場所から問いを投げてきた者たちである。


  糸子は、御簾の内で、少しのあいだ目を閉じた。


「善次郎」


「はい」


「長岡と佐賀へのお返事、わたくしのほうで手配します。吉田殿がお戻りになるのを待っていたら、夏になってしまいますからね」


「かしこまりました」


「ただし」


  声が、少しだけ硬くなった。


「教範の中身は、一行も書いてはなりませぬ。問いには、問いで答えます。知りたければ、自分で来るか、人を寄越すか。それも書き添えなさい」


  善次郎は、深く頭を下げた。


  伊達は、その遣り取りを聞いていた。


  この姫君は、来た者を拒まない。来ない者も放っておかない。ただ、中身は決して、外へは出さない。


十

  六人が帰ったのは、日が傾いてからだった。


  奥の一間には、御簾がまだ掛かったままになっていた。


  糸子は、御簾の内で、神田から預かった紙の束を膝に置いていた。まだ開いていない。表に、『農商辨』と書いてある。


  葵が、新しい茶を入れた。


「面白い方々でしたね」


  糸子が言った。


「そうですね」


  葵は、茶碗を糸子の前へ置いた。


「皆様、姫様の学び舎を見て、ご自分なりに考えておられました」


「はい」


  糸子は、茶碗を取らずに、束の表を指でなぞった。


(私が欲しいのは、私を信じる人ではない)


  信じるだけの者は、信じる相手を失えば止まる。


  言われたことをそのまま行う者も、想定外のことが起きれば動けない。


(自分の目で見て、自分の頭で考える人)


(それぞれの場所へ戻り、そこで得たものを、またここへ返してくれる人)


  三岡は越前へ戻り、越前から人を送る。


  神田は外にいて、外の数を送ってくる。


  乾は土佐と江戸の間で、鉄砲の値と若い者を送る。


  赤松と大木と伊達は、ここで学び、ここから出ていく。


  長岡と佐賀には、すでに問いが届いている。


  一人一人は、糸子の駒ではない。


  自分の足で来て、自分の足で帰っていく。だからこそ、帰った先から何かが返ってくる。


  こちらから動かそうとしてはならない。動かせば、それぞれの考えを失わせる。


  待つしかない。


  前世では、待つのは、あまり得意なほうではなかったんだけれど……


(それでも、そういう人が少しずつ増えていけばいい)


 糸子は、ようやく茶碗を取った。まだ、温かかった。


  茶を半分ほど飲んでから、糸子は膝の上の束の紐を解いた。


  最初の頁を開く。


  農を本とし、商を末とする――その考え方への疑いから、文は始まっていた。


  少し後ろに、南部の漆の話が出てくる。木一本ごとに運上を掛けたため、民が木を枯らしたという話である。


(この人は、この話を誰かから聞いたのね)


  糸子は、そこで一度、目を止めた。


  数がない。


  何本植え、何本枯れ、運上がいくらだったのか。その肝心のところが、書かれていない。


  それでも、筋は外れていない。


  もし、この人が数字を持ち、帳面に落とす術を得れば――。


  糸子は、束をもう一度括り直し、文机の端へ置いた。


  返すときに言うことは、もう決まっていた。


   *


「姫様」


  廊下に、村田蔵六が膝をついた。


  珍しく、村田のほうから来た。後ろに、帳面を抱えた善次郎もいる。


「はい」


「定員のことでございますが」


  糸子は、茶碗を置いた。


「……はい?」


「抜けた生徒の穴を埋めていただくはずが、今日の人物を入れますと、そろそろ上限が見えてまいります」


「そろそろ我々だけでは、手が回らなくなります」


「あと、どれほど」


「多くて数人くらいでございましょうか」


  村田は、顔を上げた。


「越前から、三岡殿が人を連れてまいります。土佐からも、乾殿が寄越すと申されました。佐賀からは、大隈と申す者が向かっておるそうで」


  善次郎が、帳面を開いた。


「それと、姫様。見学を願う者も、増えております。今朝も、門で二人」


「どちらの、どなたです」


「まだ、お名前までは」


  糸子は、黙った。


  黙って、懐から扇子を取り出した。


  扇子を、ゆっくり開いた。


「総帥は、よい仕事をしました」


「はい」


  村田が答えた。


「思想を、広めました」


「はい」


「人まで、拾いました」


「はい」


「たいへん、結構です」


  糸子は、そこで一つ息をついた。


「……なれど」


  扇子が、止まった。


「いきなり、集まり過ぎです」


  村田も、善次郎も、何も言わなかった。


  糸子は、しばらく帳面を見ていた。


「分かりました。この件は、一旦わたくしが預かります。語学所は、今まで通りで構いません。急に形を変える必要はありませぬ」


「はい」


「ただ、今のままでは、いずれ何もかもが、足りなくなりましょう」


  村田が静かに頭を下げた。


「承知しております」


 ならば、考えるべきはそこです。教える者をどう増やすか。受け入れる場所をどうするか」


「まだ、答えは出ておりません」


 善次郎が、静かに頭を下げた。


「御意」


「なれど、考えがない訳ではありませぬ」


  村田も善次郎も、深く頭を下げた。


  糸子は、まだ答えを口にはしなかった。


  人が増えるということは、力が増えるということではない。


  扱いを誤れば、同じ志を持つ者同士でも、互いの足を引く。


  だからこそ、器が要る。


  松陰が種を蒔いたなら、自分はそれを受け止める土を作らねばならない。


  糸子は閉じた帳面へ、静かに手を置いた。


 第二百十三話 了

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