第二百十三話「集まる俊英⑤――集う者、それぞれの選択」
※本作は第二百四話「英国の試し⑤」直後の時系列にあたるお話です。
一
師走も二十日を過ぎた。
一橋上屋敷の庭は、朝のうちだけ霜で白くなる。池の縁に張った薄氷は昼には溶け、翌朝にはまた戻ってくる。
糸子は縁側に近い文机の前に坐り、その池を見ていた。
葵が茶を置いた。
「……ようやく、静かになりましたね」
英国との談判が終わって、五日になる。
三度の座を重ね、こちらは何も得ず、向こうにも何も渡さなかった。次の協議の日取りだけを、こちらへ残した。
勝ち負けで言えば、辛うじてこちらの勝ちと言える程度には拾えた。けれど、時間をこちらへ置いたという意味では十分であった。
ただ、談判が済んでも、疲れは抜けない。
文机の隅には、奥州から届いた綴りがあった。
松陰が江戸を発ったのは、この年の如月だった。仙台へ入ってから、音信は途絶えた。最初の一通が届いたのは弥生の末で、それからさらに一度ほど、北の風に乗って来ただけである。
(……十箇月近くになるのね。総帥が江戸を離れてから)
廊下に、松屋善次郎が膝をついていた。帳面を一冊、抱えている。
「姫様」
「おはよう、善次郎。語学所で、何かありましたか?」
「講目の割り振りが、回らなくなってまいりました」
糸子は湯呑みを置いた。
「霜月に、伊藤様、稔麿様、飯田様の三名が抜けましてございます。特に伊藤様、稔麿様は、下の者に教える側にも回っておりました。抜けた分を村田先生と生徒で埋めておりますが、年が明ければ持ちませぬ」
「……なるほど、そういうことずら」
「それで、姫様。お取次ぎを願っておられる方々のことでございますが…」
善次郎は帳面を開き、糸子の前へ差し出した。
六つの名が並んでいた。
越前の三岡八郎。
信州上田の赤松小三郎。
美濃の神田孝平。
佐賀の大木民平。
土佐の乾退助。
紀州の伊達小次郎。
国も立場も違う。それでも、同じ場所へ辿り着いている。
それぞれの名の下には、国と用向きが一行ずつ添えられ、頁の端には小さく「姫様へ」とある。
「皆様から、もし許されるなら、所を差配しておられる方に是非お目通りを、と」
「差配しておられる方?」
「……近衛様、とお伝えしてしまいました」
善次郎は頭を下げた。
「申し訳ございません。伊達様というお若い方が、答えを聞くまでいくらでも待つという顔をなさいまして」
糸子は、わずかに笑った。
「構いません。善次郎が言うてよいと判じたのなら、それでよいのです」
「ただ、お会いになるかどうかは、近衛様がお決めになることと申し添えておきました」
「それで結構です」
糸子は帳面を閉じかけ、手を止めた。
六つの名を、もう一度見る。
(……三岡、赤松、神田、大木、乾、伊達)
その中でも、三岡八郎の名だけは、帳面の書き方からして他の者と違っていた。
用向きではなく、仕組みそのものを見ようとしている。
この者は、ただ知識を得るためだけに来るのではない。
松陰が残したものは、本人が去った後も、人を呼び寄せ続けていた。
(蒔いたものが、もう、こんな形になっている)
糸子は、帳面から目を上げた。
その名を追って来た者たちが、こうして一冊の帳面の余白に並んでいる。
「皆様、総帥にお会いに来られたのでしょう」
「左様にございます。それぞれ、先生の講のお噂を聞いて」
「総帥は、すでに北へ向かわれました」
「はい。皆様、門でそうお聞きになりました」
糸子は、帳面を閉じた。
「では、なぜ帰られなかったのです」
「それが」
善次郎は、少し間を置いた。
「先生は発たれる前の晩、訪ねて来る者があれば、所を見せてやってほしいと言い置かれました」
「……そう」
「見せられるところまでお見せしたのでございます」
糸子は黙った。
総帥に会いに来た者は、本人がいないと聞いても帰らなかった。
残された場所を見て、それでもなお、ここに留まった。
口で説く者がいなくても、ここで行われていることそのものが、人を引き留めている。
「……最初にこのお書き込みをいただいたのは、如月の末でしたね」
「さようにございます」
糸子は、頁の端を指で押さえた。
あのとき、糸子は京へ出す密書を書いていた。
弥生には京洛の段取りが始まり、卯月には寺田屋、皐月からは江戸城……、葉月に一橋会談、霜月からは英国。 一日も空いていない。
「随分と、お待たせしてしまいましたね」
「……姫様」
「皆様、責めるようなことは一度も申されませぬ。ただ、何度か時を尋ねられたとは聞いております」
糸子は、しばらく黙った。
「皆様、このあいだ、どうなさっていたのです」
「大木様と伊達様は、門前までなら幾度もお見えとのことでした。中へはお入れしておりませぬ。先生の言付けは一度きりのものでございましたので」
「門前まで、幾度も」
「はい。乾様は月に幾度か、鉄砲の値の写しを置いていかれます。神田様は洋書の訳をお届けくださいました。赤松様は夏に一度上田へお戻りになり、秋にまた出府されました。三岡様は越前へお帰りになっておりましたが、年の瀬の金策で、先日また江戸へ…とのことです」
糸子は、帳面の六つの名を見た。
季節が二つ巡った。
その間、誰も手を引かなかった。
待つだけではない。
それぞれの場所で、それぞれの仕事を抱えながら、なお、この所との縁を切らなかった。
糸子は、静かに帳面を閉じた。
二
六人に会うのは、二日のちの昼と決めた。
場所は語学所の奥の一間である。一橋の屋敷に、よその藩の者を六人も招き入れるわけにはいかない。語学所なら、もともと人の出入りがある。
「皆様、まとめてでございますか」
支度をしながら、葵が訊いた。
「お一人ずつ、お会いにならないのですか?」
「ええ。まとめてお会いします。一人ずつでは、その者自身しか見えませぬ。同じ場に置けば、互いへの向き合い方も見えるでしょう」
糸子は、帯を直させながら言った。
「……それに、わたくしが疲れますもの」
葵は、少し笑った。それから、すぐ真顔に戻った。
「それと、姫様。御簾は」
「掛けまする」
糸子は、迷わずに答えた。
御簾は、五摂家の姫と諸藩の者を隔てるためだけのものではない。
その向こうに誰がいるのかを、相手へ意識させるためのものでもある。
隔てていることが、この国では話の重さになる。
*
出がけに、村田蔵六が一つだけ訊いた。
「教範は、いかがなさいます」
「お見せ致しません」
糸子は即答した。
「商務語学所を始めた時より、生徒以外へ教範を渡さぬ決まりにございます」
村田は、それ以上は訊かなかった。
「……承知しました」
*
その前に、六人は善次郎の案内で語学所の中を一巡りさせられていた。大教場と黒板を見せただけの、ごく短いものだった。
六人は、それから四半刻ほど控えの間で待たされた。
だが、不満を口にする者はいなかった。
十箇月待ち続けた者たちにとって、四半刻など待つうちにも入らない。
皆、自分以外の五人が何を求めて来たのか知らなかった。
ただ一つ共通しているのは、吉田松陰という名だけである。
控えの間は狭い。六人が膝を寄せれば、火鉢一つで足りるほどだった。
互いの名と国だけは知った。だが、打ち解けるほどの間柄ではない。
三岡八郎は、六人の中でも特に静かだった。
だが、黙っているのではない。
周囲の者が何を考え、どのような人物なのかを見ているようだった。
ただ一人、伊達だけは少し様子が違っていた。
他の五人が互いの出方を窺う中で、彼だけは落ち着きなく視線を動かしている。
だが、若さゆえの軽さではない。答えを聞く前に、次の問いを探しているような目をしていた。
伊達小次郎という男は、他の五人より一歩だけ前のめりだった。
最初に口を開いたのは、乾だった。
「のう、聞いた話じゃが……あれは本当じゃと思うかえ」
誰に訊いたともつかない言い方だった。
神田が顔を上げた。
「朝廷の使者が、メリケンとの話をひっくり返したという話があったな。……あれは、近衛様がやったんじゃろか」
「そうじゃ」
乾が頷いた。
昨日、初めて名を聞いた。
朝廷から下った使者が、ハリスとの談判で条約の中身を改めさせた――そこまでが、彼らの知るところであった。
「本当なら、面白いな」
神田は、それだけ言った。
三岡が、大木を見る。
「大木殿は、この門前へよく通っておられる。何か御存じではないか」
「一度も」
大木は首を振った。
「その御方の名を聞いたのも、昨日が初めてです」
三岡は黙った。
これだけ通っている大木にも、内のことは知らせていない。
それだけ用心している場所なのだろう。
赤松は何も言わず、控えの間の障子の桟を数えていた。数え終えると、天井の板へ目を移した。
伊達は、ずっと黙っていた。
廊下の足音を聞いていた。女の足音が二つ、奥へ向かい、しばらくして、男の足音が一つ戻ってきた。
「お入りくださいませ」
善次郎が、障子を開けた。
*
奥の一間には、御簾が一枚掛けられた。
その手前に、六枚の座布団が並べられている。
葵は御簾の脇に控え、近藤は入口寄りに座していた。刀を帯びた姿が、六人の出入りを黙って見ていた。
御簾の内には、糸子がいる。
六人は刀を預け、善次郎に導かれて順に入ってきた。
糸子は、まず名ではなく、座り方を見た。
人は言葉より先に、姿勢に本性が出る。
誰が自分を大きく見せようとし、誰が周囲を見ようとしているのか。
先に入ったのは、三岡八郎だった。
座につくと、すぐに膝の上で手を揃えた。商家の主人が客を待つときのような坐り方で、背筋に無駄な力が入っていない。
赤松小三郎は、座についてから、部屋の広さと御簾の位置を一度目で測った。測り終えると、あとは動かなかった。
神田孝平は、懐に手を当ててから坐った。何か厚みのあるものが入っているらしかった。
大木民平は、静かに一礼してから坐った。門前へはもうふた月ほど幾度も通っている男で、遠目に見知った村田の顔へ、小さく頭を下げた。
乾退助は、胡坐をかきかけ、周りを見て、正座に直した。
最後に、伊達小次郎が入ってきた。いちばん若く、身なりも粗末だった。だが、部屋の様子を最もよく見ていた。
坐る前に御簾へ目をやり、次に村田、善次郎へと視線を移す。それから、ようやく腰を下ろした。
六人が揃うと、部屋は静まり返った。
皆は深く平伏した。
御簾の向こうから、声がした。
「大義である。面をあげよ」
六人が、ゆっくり顔を上げた。
声は落ち着いていた。言葉遣いにも、よどみがなかった。
乾の目が、隣の神田にだけ気づかれるほど、わずかに見開かれた。
三岡は、表情を変えなかった。越前で、年若い藩主の代わりに口を利く家老を何人も見てきた。声の若さで相手を量ると、たいてい量り損なう。
伊達は、声の高さではなく、間の置き方を聞いていた。挨拶の言葉と言葉のあいだの間が、少しも揺れていない。話すことを、はじめから決めてある者の間だった。
三
「そなたらは、吉田殿にお会いになりたかったので、ございましょうや」
御簾の向こうの声が言った。
「はい」
三岡が答えた。
「左様でございます」
赤松が続いた。
「……ええ」
大木が頷いた。
「まあ、そうじゃ」
乾が言った。
「そのつもりで参りました」
伊達が言った。
神田だけが、黙っていた。
「神田殿は」
「私も、同じでございます」
神田は、少し遅れて答えた。
御簾の向こうが、一拍、静かになった。
「では、わたくしにお会いになる理由は、ございませんね」
部屋の空気が、止まった。
三岡は膝の上の手を動かさなかった。赤松が、御簾のほうへ顔を向けた。乾が口を開きかけて、閉じた。
三岡が、静かに口を開いた。
「お目通りを願いましたのは、手前どものほうでございます」
「はい」
「では……」
「吉田殿のお話をお聞きになりたいのであれば、それはわたくしがお話しすることではございませぬ。吉田殿のお話は、ご自身の口からお聞きになるのが、いちばんでございまする」
乾が、膝の上で拳を握った。
「ほいたら、なんで会うてくれたがです」
声が、少し荒くなりかけていた。近藤が刀に手を置いた。
「ふふふふ……」
御簾の向こうで、小さく笑う気配がした。
「吉田殿にお会いになりたくて江戸まで来られた方々に、わたくしが割り込む理由はございませぬ。お戻りになるまでお待ちになるなら、それもよろしいかと……」
誰も、答えなかった。
「ただ――」
声が、一つ間を置いた。
「皆様が語学所をご覧になったのであれば、少しお話を伺いたく存じます。わたくしがお呼びしたのではございませぬ。皆様がそこで見られたものを、どう感じられたか、それを聞かせてくださいまし」
伊達が、そこで少しだけ目を細めた。
まさか、見たものを聞かせてほしい…と言ってくるとは思わなかった。訊かれる側に回るつもりで、ここへ来た者は、この中にはいない。
乾の拳が、膝の上でほどけた。
「……見たもんを話せ、ちゅうことでございますか」
「はい。わたくしは、あの所を毎日見ておりませぬ。毎日見ておる者は、見慣れてしまいます。初めてご覧になった方の目のほうが、よう見えることもございまする」
乾は、少し拍子抜けした顔をした。
伊達は、その遣り取りを聞きながら考えていた。
五摂家の姫が、藩士と浪人を前にして、自分の所の見立てを訊いている。自分の見立てに欠けるところがあると思う者だけが、人に尋ねる。
足りていると思う者は、尋ねずに語るのが、普通だと思っていた。
四
「では、三岡殿から」
名を呼ばれて、三岡は背筋を伸ばした。
「手前が見ましたのは、商いの扱い方でございます」
「どのように」
「商いを、商人の稼ぎとして扱っておらぬように見えました」
三岡は、言葉を選びながら続けた。
「値を付ける。品を集める。運ぶ。売る。銭を回す。手前は越前で、その一つ一つを別々の役目として扱ってまいりました。値は値、運びは運び。ところが、あの所では、それが一本の筋になっております。一つが崩れれば、次が崩れる。その崩れ方まで、生徒が数えておりました」
「ほう」
「商いの一つ一つが、国の力へ繋がるように組まれておると、手前には見えました」
御簾の向こうは、しばらく静かだった。
三岡は、それ以上を足さなかった。
福井で、量を増やした年に値が下がったことも、あえて口にはしなかった。
だが、伝えたいことの半分は、すでに届いている気がした。
「赤松殿は」
「私は、兵を動かす話が、銭と荷と船に繋がっておるのを見ました」
「兵学だけでは足りぬ、と」
「はい」
赤松は、指を折らずに数えるように言った。
「兵が強くても、弾がなければ撃てませぬ。米がなければ戦えませぬ。馬がいなければ運べませぬ。私は上田で、それを兵の勘定として数えてまいりました。ところが、あの所の板に残っておった勘定は、商いの荷を運ぶ勘定でした。並べ方が、私のものと同じでした」
「どちらの勘定が、先にあったと思われます」
「兵の話としてではなく、物を運ぶ話として扱っておる。そのほうが、かえって兵站の骨組みがよく見えますに」
御簾の向こうで、小さく頷く気配がした。
「神田殿は」
神田は、懐に一度手を当ててから、口を開いた。
「数の扱い方が、私の知っておる学問とは違っておりました」
「どう違いまする?」
「私の知る洋学では、数は知るためのものでございます。異国に人がいくら、船がいくら。読んで、訳して、それで終わる」
神田は、言葉を探すように少し黙った。
「あの所では、数から、次に何をするかを決めようとしとります。値がこうなら、量をこうする。量がこうなるなら、船がいくつ要る。数が、そのまま次の手の元になっとります」
「それが、神田殿には違って見えましたか?」
「はい。どちらが上ということではございません。ただ、違います」
「大木殿は」
大木は、少し間を置いてから答えた。
「私は、人を育てる仕組みに驚きました」
「驚いた、と申しますと」
「一人の先生が、大勢に教えるだけではなかとです。学んだ者同士が、互いに問い、考え、言い合いの中身を書き留めて残しております。後から入った者が、それを読んで、前の者が詰まったところから始められる」
大木は、膝の上で手を組み直した。
「あれなら、先生の数で、学ぶ者の数が決まりません。人を増やす仕組みになっております」
「……人を増やす、ですか」
「はい」
御簾の向こうの声が、その言葉を一度だけ繰り返した。
しばらく何も言わなかった。
「乾殿は」
「わしは、軍備のところが気になった」
乾は、腕を組みかけて、やめた。
「わしは土佐の江戸屋敷で、鉄砲の値を見ちょります。じゃが、鉄砲だけ買うても、使う人間がおらにゃ意味がない。人間がおっても、銭がなけりゃ続かん。銭は、商いで作るしかありません」
「そうでございますね」
「結局、藩の力は刀だけでは決まらん。あの所を見て、それがよう分かりました。じゃが――」
乾は、そこで言葉を切った。
「それが土佐で使えるかどうかは、また別の話じゃと思いました」
御簾の向こうが、少し笑った気がした。
「最後に、伊達殿は」
伊達は、すぐには答えなかった。
五人の話を、黙って聞いていた。一人ずつの顔を見ていた。
「あの場所は、人間そのものを集めておりますな」
五人が、伊達のほうを見た。
「商人がいる。武士がいる。学者もいる。百姓の子もいる。皆が同じものを学んでおるわけでもない。算盤の部屋にいる者もいれば、英語の部屋にいる者もいる。それでも、同じ場所にいる」
伊達は、御簾のほうへ目を上げた。
「何を作ろうとしておられるのか。それが、まだ私には分かりませぬ」
御簾の向こうで、糸子は少しだけ目を細めた。
(この者……)
五人は、自分の見方でものを見てきた。値を見た者、荷を見た者、数を見た者、人を見た者、鉄砲を見た者。
しかし、この若者は、それを見ている者たちそのものを観察していた。
ほかの五人も、伊達の言葉に少し戸惑った顔をしていた。
三岡は、自分が値を見ていたときに、この若者が何を見ていたのかを、いま初めて考えた。赤松は、板の勘定の前で足を止めたとき、後ろにいた伊達が一度も板を見ていなかったことを思い出した。
「伊達殿」
御簾の向こうの声が言った。
「分からぬものを、そのまま、見ておられたのか」
「はい」
「退屈では、ありませんでしたか」
「いえ」
伊達は、すぐに答えた。
「分からぬものほど、見ていて飽きませぬ」
五
「では、わたくしから一つ伺いましょう」
御簾の向こうの声が、少し調子を変えた。
「皆様、吉田殿の話をどのようにお聞きになられたか?」
今度は、名を呼ばなかった。
しばらく誰も口を開かなかったが、やがて三岡が言った。
「日ノ本の物産を、まとめて異国へ売れ、と」
「兵站でございます。工場で作った弾を、誰が運ぶか」
赤松が続けた。
「日本人同士が戦うたら、異国が得をする、と」
乾が言った。
「海の国になれ、と聞きました」
大木が言った。
「メリケンの戦の話も」
神田が付け加えた。
「北と南の人の数。工場の数。四年で北が勝つ、と」
「ええ」
声が、そこで少し柔らかくなった。
「その数を、皆はどう思うたか?」
三岡と赤松が、同時に神田を見た。数の話なら、この男だと、案内の途中で二人とも分かっていた。
神田は、少し困った顔をしてから、正直に言った。
「最初は、あまりに都合のよい数ではないかと思いました」
「なぜ、そう思うた?」
「北が二千二百万、南が九百万、そのうち四百万は武器を持たせられぬ。工場は十倍。話を聞かせるには、よう出来すぎとる。誰かがどこかで、丸めたか、盛ったか」
神田は、そこで言葉を切った。
「ですが、自分で調べられる範囲で当たってみると、筋が通っとります。人の数が少ないほうが、工場も少ない。工場が少ないほうが、鉄も少ない。鉄が少ないほうが、鉄の道も短い。一つ一つは確かめきれませんが、並べると、互いに矛盾しとりません」
「はい」
「盛った数なら、どこかで噛み合わんところが出ます。けんど、おかしなところが、見つからなんだ」
赤松が、そこで口を挟んだ。
「私も、一つ引っかかっておりました」
「どこに」
「北の工場が十倍、というところです。工場の数だけなら、数えた者がおれば出ましょう。ですが、十倍の工場が、四年のあいだ休まずに動くかどうかは、別の話です。石炭と鉄が、途切れずに届かねばならぬ」
赤松は、指で膝を一度叩いた。
「そこまで数えた上での四年なのか。私も、そこを先生に伺いたかっただに」
御簾の向こうの声は、少し間を置いてから答えた。
「数えた上での四年です。北は、石炭も鉄も、自分の国の中で掘っておりまする。南の港は、北の船に塞がれて、外から物が入りにくくなっております。途切れるのは南のほうでありましょう」
赤松は、しばらく黙っていた。
「では、四年というのは」
「北が勝つのに四年、ではございませぬ。南が持ちこたえられるのが、四年なのでござります」
赤松は、そこで初めて、はっきり頷いた。
御簾の向こうは、しばらく黙っていた。
「メリケンの事情につきましては、中浜万次郎殿からも報せを受けておる」
六人の何人かが、顔を上げた。
「中浜…殿…あの、メリケンに渡った」
乾が言った。
「はい。中浜殿の報せと、こちらで確かめられる書物と、横浜の異人から聞き取ったことを、突き合わせたものでございまする。吉田殿は、それを講でお話しになった」
「では、あの数は」
三岡が言った。
「吉田殿が勝手に盛られたものではない……」
御簾の向こうの声は、そこでつけ加えた。
「ただし、わたくしとて、すべてを承知しておるわけではない。知っておることと、知らぬことがございまする。分からぬものは、分からぬと申すであろう」
神田は、それを聞いて、懐に置いた手を少し緩めた。
赤松は、小さく息をついた。数の出所がはっきりしたなら、あとはその数をどう使うかの話になる。
伊達だけは、頷かなかった。
伊達は、御簾の向こうの声を聞きながら、別のことを考えていた。
中浜万次郎の報せ。書物。横浜の異人の話。それを突き合わせて、一つの筋にまとめた者がいる。まとめた者が、それを吉田松陰に渡し、松陰が全国で説いた。
この姫君は、何を、どこまで知っているのか。
六
「では、そなたら」
声が、また調子を変えた。
「いまのメリケンが、どう見えておる?」
「内戦にかかりきりで、ございましょう」
三岡が答えた。
「左様です」
声は、すぐに続けた。
「その隙を、異国が見逃すと思われますか」
誰も答えなかった。
「メリケンが日本へ向ける目を弱めている間に、こちらへ目を向ける国はございます。イギリスは、この国の港と海を、メリケンよりずっと熱心に見ております。フランスも、公儀の近くに寄ってくるやもしれませぬ」
赤松が、そこで顔を上げた。
「……双方が、別々の側に付けば」
「はい」
乾が、低い声で言った。
「日本人同士が、争う」
「そのとき、異国は鉄砲を売るでしょう。両方に」
乾は、黙った。
昨冬、藩邸の古参から聞かされた話が、そのまま御簾の向こうから返ってきた。あのときは、学者の見立てとして聞いた。いま聞いているのは、イギリスとフランスの名の付いた話である。
横浜で、長州様も薩摩様も、と口を滑らせた商人の顔が浮かんだ。
「吉田殿がお話しになったことは、先の話ではございませぬ」
御簾の向こうの声は、静かだった。
「いま、この国の外で、その支度が進んでおる」
三岡が、膝の上の手を固く組んだ。
「その支度に、銭を出すのは」
「日本の諸藩でございます」
声は、淡々としていた。
「鉄砲も船も、ただではございませぬ。買うのは、藩の蔵の銭です。その銭は、年貢と、物産の売り上げと、借財から出ておる」
三岡は、目を伏せた。
江戸へ戻ってからのこの数日、三岡が金主の店を回って工面してきた銭も、いずれどこかで鉄砲に化けるかもしれない。化けた鉄砲が、どこを向くかは、三岡には決められない。
「……借りた銭で、買うた鉄砲で、同じ国の者を撃つ」
三岡は、それだけ言った。誰に向けた言葉でもなかった。
*
「ですが……」
声が、少し間を置いた。
「もう一つございます」
六人が、御簾を見た。
「メリケンは、内戦が終わってそのまま…の国ではありませぬ」
御簾の向こうの声は、言葉を一つずつ置くように続けた。
「内戦が終われば、国は再び一つにまとまりまする。そして、今まで以上に強い国になるでしょう。戦のために敷いた鉄の道も、戦のために建てた工場も、戦のために造った船も、戦のために集めた兵も、すべて残ります。戦のために作った力を、今度は一つの国のために使うのです」
赤松の手が、膝の上で止まった。
兵を運ぶために敷いた道は、戦が終わっても道として残る。兵のために建てた蔵は、戦が終わっても蔵として残る。赤松が上田で数えた兵站の骨組みは、戦が終われば、そのまま商いの骨組みになる。
「その国が、日本へ目を向けたとき」
声は、そこで一度止まった。
「今より弱い日本で、どう向き合うのでしょう」
誰も答えなかった。
火鉢の炭が、小さく音を立てた。
「吉田殿は講で、四年の窓と申したと思う」
「はい、そう話しておられたと……」
大木が答えた。
「メリケンが内輪の戦にかかりきりであるあいだの四年間。もう、二年目も半ばを過ぎました」
御簾の向こうの声は、少しも強くならなかった。
「残りは、二年あまりでございます」
「二年……」
三岡が、ほとんど声に出さずに言った。
「メリケンが自国の戦にかかりきりのあいだに、日本は富を作り、人を育て、報せを集め、国の仕組みを変えねばならぬ。二年のあとには、戦を終えたメリケンが戻って来よう。イギリスもフランスも、いまと同じところには留まっておりませぬ」
声が、そこで少し低くなった。
「この二年が、日本にとって、最後の、そしていちばん大きな好機なのです」
部屋が、静かになった。
乾が、その静けさを破った。
「二年で、何ができるか……になるであろう」
責める口調ではなかった。本当に訊いていた。
「鉄砲一つ買うのに、土佐は一年揉めよります。二年あったら、鉄砲を何度買えるかどうか、ちゅうところじゃ」
「そなたの言う通りでございます」
御簾の向こうの声は、あっさり認めた。
「一つの藩が、二年を使えば、そのくらいのことしかできぬであろう」
乾は、口を開きかけて、閉じた。
「ですから一藩で使わぬのでござります」
声は続けた。
「越前で値を付ける人。信州で荷を運ぶ勘定をする人。江戸で数を集める人。佐賀で人を育てる人。土佐で鉄砲の値を見ている人。紀州から出て、ここに残る人。同じ二年を、別々の場所で、同時に使う。一人の時間は二年ですが、十人の二年は、二十年分の働きになりまする」
三岡が、そこで顔を上げた。
語学所の奥の一間で、六人が初めて顔を揃えたとき、三岡は、出も年も身分もばらばらだと思った。
だが、その違いこそが、いまは別の意味を持っているように思えた。
違うからこそ、同じ二年を別々の場所で使える。
七
「その限られた二年のうちに」
御簾の向こうの声が、六人を順に見渡すような間を置いた。
「そなたらは、どう動く?」
誰も、すぐには答えなかった。
六人とも、この問いを受け取るために江戸へ来たわけではなかった。松陰に問いを投げるつもりで来た者たちが、いま自分自身へ問いを返されている。
最初に口を開いたのは、三岡だった。
「一つ、恐れながら伺ってもよろしゅうございますか」
「申してみよ」
「もし手前どもが、こちらで学ばせていただくこととなりましたならば、その……学びのすべてを、お教えいただけるのでございましょうか」
「正式な語学所の生徒になれば」
声は、はっきりしていた。
「ただし、教範を含め、ここで得たものには守秘の義務がある。写しは取れぬ。国元へ持ち帰ることもならぬ。一度ここの生徒になれば、生涯、口外はできぬと思われよ。破れば、身元を保証した方にも咎めが及ぶことになりましょう」
三岡は、それを聞いて、黙って頷いた。
伊達が、そこで口を開いた。
「恐れながら、お尋ねいたしたきことがございます。なぜ、そこまで学問をお授けになりながら、生涯の口止めまでなされるのでございましょうか。学問とは、広めてこそ世のためになるものではございませぬか」
声は、少し間を置いた。
「学問なら、広めます。ここで教えておることの半分は、いずれ世の中に出てよいものでございます」
「残りの半分は?」
「まだ世に出してはならぬ報せである」
声は、静かだった。
「報せとは、持つ者によって価値が変わるもの。誰もが知っている報せには、値は付かぬ。されど、誰も知らぬ時に、それを持つ者は先を読むことができましょう」
伊達は、黙った。
黙って、御簾の向こうを見ていた。
帳面を門で預けさせられたこと。札を渡されたこと。見知らぬ者が冊子のことを訊くと、冊子が机の下へ消えたこと。見たものの一つ一つが、いまの言葉で説明された。
神田が、そこで言った。
「それほどのものなら、私も拝見したいところですが」
「それは、できぬ」
御簾の向こうの声は、間を置かずに答えた。
「外の方に、教範を見せることはせぬ。講義を特別に聞かせる、ということもしておらぬ。今までそなたらが見ることを許されたのは、吉田殿のお言付けがあったから、認めたにすぎぬ」
神田は、しばらく黙っていた。
それから、少しだけ笑った。
「……恐れながら、それが当然でございましょう」
御簾の向こうから、静かな声が返る。
「なぜ、そう思われる?」
神田は、姿勢を正した。
「数は、集めた者のものでございます。集めた者が、どこまで渡すかを決めるものです。決めもせず、誰にでも見せるような場所であれば……私は、信用いたしませんでした」
御簾の向こうで、小さく息をつく気配がした。
安堵したのか、面白がったのか、神田には分からなかった。
「では、講義の後ろで、お聞かせいただくだけでもよろしいのでしょうか」
乾が横から口を挟んだ。
自分たちが壁際に立たされたことを言っているらしかった。
「それも、許さぬ」
声は、変わらなかった。
「今までは、吉田殿のお言付けがあったからこそ、お見せしたのでございます。次からは、生徒か、生徒でないか。そのどちらかでなければならぬ」
「間の席を作れば、いずれその席に人が溢れる。溢れた席から、話は外へ漏れるであろう」
乾は、少し唸った。
「厳しいことでございますな」
「厳しくしておかねば、中で学ぶ者を守れぬ」
伊達は、その言葉を聞いて、わずかに首を傾けた。
守るのは、教範ではなく、中で学ぶ者だと、この近衛様は言った。
口止めを受けた者は、それを破れば咎を負う。
だが、間に余計な者が立てば、内にいる者は、どこまで話してよいのか分からなくなる。
迷う者から、先に罰を受ける。
この姫君は、線の内側にいる者を守るために、外側との境を固めている。
八
「では」
赤松小三郎が、膝の上で手を組み直した。
「私は、ここで学びたいと存じます」
誰も驚かなかった。先ほどの案内で、板の前から動かなかった男である。
「私も」
大木が、静かに言った。
「佐賀の藩命による遊学の身ではございますが、正式な許しを願い出ます。許しが出るまでは、見学のままで構いませぬ」
「私も、お願いしたい」
伊達が言った。藩の許しの話をしなかった。する必要がない、というふうだった。
最後に、三岡が言った。
「手前も、試しを受けたく存じます」
受けたい、ではなく、試しを受けたい、と言った。御簾の向こうの声は、その言い回しに気づいたらしかった。
「そなたら、ここで今日、生徒になれるとお思いか?」
「そうは思うておりませぬ」
三岡が答えた。
「失礼ながら、このような所が、頼まれて誰でも入れる所なら、手前はすぐ帰っておりましょう」
御簾の向こうで、また小さく笑う気配がした。
「では、試しを受けていただく。村田先生」
脇に控えていた村田蔵六が、懐から紙を出した。
*
試しは、その場で行われた。
葵が、奥から文机を四つ運ばせた。机は御簾の手前に一列に並べられ、四人はそれぞれの机の前に坐り直した。背後には、乾と神田の座が残された。
御簾の内から、四人の背と手元が見える位置である。四人のほうからは、御簾の向こうはほとんど見えない。だが、見られていることだけが分かる。
伊達は、机の前に坐ると、一度だけ御簾のほうを振り返った。それから、前を向いた。
四人の前に、硯と筆と紙が置かれた。乾と神田は、座を少し後ろへ下げて、見ている側に回った。
村田は、問いを一つずつ口で言い、紙にも書かせた。
はじめは算勘である。生糸一俵の仕入れ値と、運び賃と、売り値を与えて、儲けがいくらになるかを出させる。次に、同じ荷を船で運んだ場合と、陸で運んだ場合の違い。そこまでは、四人とも迷わなかった。
次に、短い書付が配られた。横浜の商館から日本の商人に宛てた、取引の申し入れの写しである。言葉は和文に直してあるが、言い回しは異国の商人のものだった。
「この申し入れで、向こうがいちばん言いたくないことは何か。答えなされ」
村田は、それだけ言った。
三岡が、すぐに筆を取った。赤松は一度読み、二度読んで、筆を取った。大木は三度読んだ。伊達は、読み終えたあと、しばらく書付を膝の上に置いて、何も書かなかった。
次に、村田は口で言った。
「異国の商人が、ある品を、相場より三割安く売ると申してきた。買うか、買わぬか」
四人が、それぞれ考えた。
「買うか買わぬかは、答えなくてよい」
村田は続けた。
「買うか買わぬかを決める前に、何を確かめるか。それを書きなされ」
最後の問いは、誰も知らないことだった。
メリケンのある港で、生糸の値がいくらになっているか。村田は、それを訊いた。
四人とも、知らなかった。
「知らぬなら、知らぬと書きなされ。そのうえで、何を調べれば答えられるかを書きなされ」
後ろの座で、乾が神田に小声で言った。
「わしじゃったら、最初の算勘で詰まっちょる」
「私も、三割安い品の問いは迷います」
神田は、筆を持たずに、頭の中で答えを組み立てているらしかった。
「安いのは、向こうが売り急いどるか、品が悪いか、こっちの知らん相場があるかの、どれかや。どれかを確かめるまで、買うも買わんもない。……ただ、それをこの短い間に紙に書けと言われたら、私もたぶん、二つまでしか書けん」
「二つで足りんがか」
「足りんやろな。村田先生の顔を見る限り」
乾は、板の前の村田を見た。村田は、四人の手元を順に見ていたが、顔には何も出ていなかった。
*
紙が集められ、村田が一枚ずつ目を通した。
その紙を、御簾の内へ回す。葵が受け取り、糸子の前に置く。糸子が読むあいだ、部屋は静かだった。
赤松の紙は、数がどれも速く正確だった。運び賃の違いの問いには、頼まれてもいないのに、雨で道が崩れた場合の損まで書き添えてあった。
ところが、商館の申し入れの問いで、赤松の答えは変わっていた。
向こうが言いたくないことを書くかわりに、向こうがこう出てきたら、こちらはこう退き、こう回り込む、という手順が、陣立てのように書いてある。
善次郎が、それを読んで、赤松のほうへ向き直った。
「赤松様」
「何か」
「戦と商いは、同じではございません」
赤松は、善次郎の顔を見た。
「戦は、相手を退かせれば勝ちでございます。商いで相手を退かせてしまえば、次の荷を買う者がいなくなります」
赤松は、しばらく黙っていた。
「……なるほど、そういうことずら」
それだけ言って、赤松は自分の書いたものをもう一度確かめた。それから筆を取り、余白に一行を書き足す。善次郎は、その一行を読まなかった。
赤松が、そこへ書き足したという事実だけで十分だった。
御簾の向こうの声が、赤松に向けて言った。
「赤松殿の兵站の勘定は、ここにいる誰よりも深うございます。それを、商いの中へ持ち込みなされ。商いのやり方は、ここで覚えなさい」
「承知いたしました」
赤松は、頭を下げた。
*
大木の紙は、どの問いにもきちんと答えていた。速くはない。ただ、どの答えの横にも、同じ種類の書き込みが小さく添えてあった。
この勘定の、どこで人がつまずくか。
糸子は、それを読んで、御簾の内から声をかけた。
「大木殿」
「はい」
「この勘定を、一人に教えるとしたら、どう教えますか」
大木は、少し考えた。
「一人に教えて終わりなら、増えませぬ」
大木は言った。
「その者が、次の者へ教えられるように教えねばなりません。つまずくところを先に教えておけば、その者は、次の者がどこでつまずくかが分かります」
「それは、大木殿ご自身がつまずかれたところですか」
「そこもございます。ばってん、他の者がつまずいたところを見て、書き足した分のほうが多かとです。答えは、書物に書いてあります。つまずくところは、書いてなかとです」
御簾の向こうは、しばらく何も言わなかった。
「よう分かりました」
声は、それだけ言った。
*
伊達の紙は、他の三人と形が違っていた。
算勘の問いは、正しく答えてある。ところが、商館の申し入れの問いには、答えが一行しかなかった。そのかわり、問いそのものの横に、小さく書いてあった。
この問いは、答えを知るためのものに非ず。
糸子は、その一行を読んで、御簾の内から言った。
「伊達殿。これは」
「この問いは、答えを知りたいのではありませんな」
伊達は、御簾のほうを見たまま答えた。
「なぜ、そう思われます」
「異国の商人が、何を言いたくないのかは、申し入れの紙だけでは分かりませぬ。ならば、問われているのは答えではない。そこへ至るまで、どう考えるかでございましょう」
伊達は、そこで少し間を置いた。
「違いますか」
御簾の向こうが、短く黙った。
「……いえ」
声は、はっきり言った。
「正解です」
乾が、後ろの座で小さく口笛を吹きかけて、やめた。
*
三岡の紙は、いちばん速く、いちばん短かった。
算勘には数だけが書いてあり、余計な書き込みは一つもない。三割安い品の問いには、なぜ安いのかを確かめる箇条が、四つ、簡潔に書いてあった。品の出どころ。相手の蔵の中身。同じ品を他に売っている者の値。相手が急いで銭を欲しがっている訳。
知らない港の値の問いには、知らぬ、と一行あり、その下に、訊く相手の名が三つ書いてあった。横浜の商館の番頭、長崎の蔵屋敷の者、それから、ここの善次郎である。
善次郎が、それを見て、少しだけ眉を上げた。
「三岡殿」
御簾の向こうの声が言った。
「申し分ない」
「ありがたく存じます」
三岡は、深く頭を下げた。
頭を上げたときには、顔つきが少し変わっていた。
「ですが、手前は、すぐにはここへ入れませぬ」
九
部屋が、静かになった。
赤松が、横目で三岡を見た。
「試しには通していただいた。ここで学ぶ値打ちも、よう分かりました」
三岡は、言葉を選びながら続けた。
「されど、手前一人がここで学んで越前へ帰っても、越前では、手前一人が知っておるだけになります」
「はい」
「手前は、越前で十年、勘定を見てまいりました。ゆえに分かります。一人が知っておるだけでは、藩は動きませぬ。動かすには、同じ勘定を扱える者が、帳場にも、在方にも、蔵屋敷にも要ります」
「では」
「この春に一度、国元へ戻って藩内を説いてまいりました。ですが、人を選ぶところまでは参っておりませぬ。もう一度戻り、選んでから改めて参ります。手前も、そのときに」
御簾の向こうは、しばらく黙っていた。
(……この人、自分が学ぶより先に、人を送ると言ってる)
糸子は、御簾越しに三岡の顔を見た。
その顔は、少しも得意そうではなかった。当たり前の勘定を言っただけ、という顔だった。
「分かりました」
声は、そう言った。
「三岡殿のお席は、空けて待ちましょう。越前から来られる方々の試しも、同じように受けてもらいましょう」
「無論でございます」
「どなたを選ばれる?」
御簾の向こうの声が訊いた。
三岡は、少し考えた。
「頭の回る者は、選びませぬ」
赤松が、横で眉を上げた。
「頭の回る者は、越前にもおります。ですが、頭の回る者ほど、上の者に好かれて、帳場へは降りてきませぬ。手前が選ぶのは、帳場で毎日、銭と荷を数えておる者です。数えておる者でなければ、ここで学んだことを、明日から使えませぬので」
御簾の向こうは、しばらく黙っていた。
「それが、よろしいと思う」
*
「神田殿は」
御簾の向こうの声が、神田のほうへ向いた。
神田は、懐から手を下ろした。
「私は、ここへ入る要はないと思います」
「ほう」
「私は、もう別のところで学んでおります。蘭書を読み、訳すのが私の仕事で、これからもそうなるでしょう」
神田は、少し間を置いた。
「ですが、ここの考え方は、知っておきたい」
「教範は見せること能わず」
「はい。当然の仕置きと存します」
神田は、すぐに言った。
「その代わりと申してはなんですが、私のおるところから、こちらの役に立ちそうな数や話が手に入ったら、お届けします。洋書を読んでおれば、異国の数は、ちょくちょく目に入りますので」
御簾の向こうが、少しのあいだ黙った。
「ありがたく、お受けいたしましょう」
神田は、そこで懐にもう一度手を当てた。
厚みのあるものが、そこに入っている。取り出しかけて、やめた。
「神田殿。懐のものは」
御簾の向こうの声が、静かに訊いた。
神田は、少し驚いた顔をしてから、苦笑した。
「……自分で書いたものでございます。農と商のことを。まだ、誰にも見せておりません」
「見せてくださいますか」
神田は、しばらく迷っていた。
それから、懐の束を取り出して、善次郎に渡した。
「数が足りぬところだらけです。どこが足りぬか、言うていただけるなら」
「お預かりします。お返しするときに、申し上げましょう」
善次郎が、束を両手で受け取り、御簾の内へ回した。葵が受け取って、糸子の膝の脇に置いた。
神田は、手の中が急に軽くなったのを持て余すように、膝の上で指を組んだ。
この冬のあいだ、神田はこの束を懐に入れたまま、何度もこの門をくぐった。吉田松陰の講も、後ろの壁際で聞いた。そのうえで、まだ見せなかった。見せたとき、何を言われるのか、自分でも分からなかったからである。
それがいま、見当のつかない相手に渡した。
だが、不思議と後悔はなかった。
*
「乾殿は」
「わしも、生徒になるつもりはありませぬ。手前は土佐の留守居を預かっちょります。軍備の用もございますき、江戸を離れるわけには参りません。講義に日々通うほどの暇までは、どうにも作れませぬ」
「なるほど」
「しかし」
乾は、膝の上で手を握った。
「土佐にも、ここで学ばせるべき者はおります。算盤ができ、物を考える力がありながら、藩校の中で埋もれちゅう者が」
「……」
「そういう者がおれば、江戸へ出します。わしが来られぬ分、土佐の若い者に見せます」
「それは、ありがたいことでございます」
「礼を言われることではございません」
乾は、御簾をまっすぐ見た。
「ここで学ぶことが、本当に国のためになると言うなら、土佐にも、それを知る者がおらにゃなりません。知る者がおらんまま、土佐が鉄砲だけ買うたら――」
乾は一度、言葉を切った。
「わしが案じた通りになりますき」
御簾の向こうの声は、少しだけ間を置いてから言った。
「乾殿。これまで幾度か置いていってくださった鉄砲の値、あれをこの先も、ときどきこちらへお聞かせくだされ」
乾は、少し目を見開いた。
「……値をでございますか?」
「はい。どこの藩が、どこで、何挺、いくらで。それが分かれば、わたくしどもにも見えるものがございます」
乾は、しばらく黙っていた。それから、にやりと笑った。
「留守居の務めでございます。聞き集めたことは、国元へも届けますき。その中から写しを一枚、こちらへ回すくらいのことは、造作もありませぬ」
*
大木が、そこで遠慮がちに言った。
「近衛様。恐れながら、一つ申し上げたきことがございます」
「はい」
佐賀の江藤新平という者が、吉田先生に書状を出しております。霜月のうちに届いておるはずです」
「たしかに届いております」
善次郎が、脇から答えた。
「それと、同じ佐賀の大隈八太郎という者が、吉田先生の学び舎を見に、江戸へ向かっております。春までの許しを取って、蘭学寮から」
「そうですか」
御簾の向こうの声は、少し考えるような間を置いた。
「越後の長岡からも、吉田殿宛てに書状が来ております」
善次郎が言った。
「河井継之助というお方から。問いが三つ」
伊達が、そこで顔を上げた。
この部屋にいない者たちの名が、いくつも出てきている。いずれも、松陰の話を人づてに聞いて、それぞれの場所から問いを投げてきた者たちである。
糸子は、御簾の内で、少しのあいだ目を閉じた。
「善次郎」
「はい」
「長岡と佐賀へのお返事、わたくしのほうで手配します。吉田殿がお戻りになるのを待っていたら、夏になってしまいますからね」
「かしこまりました」
「ただし」
声が、少しだけ硬くなった。
「教範の中身は、一行も書いてはなりませぬ。問いには、問いで答えます。知りたければ、自分で来るか、人を寄越すか。それも書き添えなさい」
善次郎は、深く頭を下げた。
伊達は、その遣り取りを聞いていた。
この姫君は、来た者を拒まない。来ない者も放っておかない。ただ、中身は決して、外へは出さない。
十
六人が帰ったのは、日が傾いてからだった。
奥の一間には、御簾がまだ掛かったままになっていた。
糸子は、御簾の内で、神田から預かった紙の束を膝に置いていた。まだ開いていない。表に、『農商辨』と書いてある。
葵が、新しい茶を入れた。
「面白い方々でしたね」
糸子が言った。
「そうですね」
葵は、茶碗を糸子の前へ置いた。
「皆様、姫様の学び舎を見て、ご自分なりに考えておられました」
「はい」
糸子は、茶碗を取らずに、束の表を指でなぞった。
(私が欲しいのは、私を信じる人ではない)
信じるだけの者は、信じる相手を失えば止まる。
言われたことをそのまま行う者も、想定外のことが起きれば動けない。
(自分の目で見て、自分の頭で考える人)
(それぞれの場所へ戻り、そこで得たものを、またここへ返してくれる人)
三岡は越前へ戻り、越前から人を送る。
神田は外にいて、外の数を送ってくる。
乾は土佐と江戸の間で、鉄砲の値と若い者を送る。
赤松と大木と伊達は、ここで学び、ここから出ていく。
長岡と佐賀には、すでに問いが届いている。
一人一人は、糸子の駒ではない。
自分の足で来て、自分の足で帰っていく。だからこそ、帰った先から何かが返ってくる。
こちらから動かそうとしてはならない。動かせば、それぞれの考えを失わせる。
待つしかない。
前世では、待つのは、あまり得意なほうではなかったんだけれど……
(それでも、そういう人が少しずつ増えていけばいい)
糸子は、ようやく茶碗を取った。まだ、温かかった。
茶を半分ほど飲んでから、糸子は膝の上の束の紐を解いた。
最初の頁を開く。
農を本とし、商を末とする――その考え方への疑いから、文は始まっていた。
少し後ろに、南部の漆の話が出てくる。木一本ごとに運上を掛けたため、民が木を枯らしたという話である。
(この人は、この話を誰かから聞いたのね)
糸子は、そこで一度、目を止めた。
数がない。
何本植え、何本枯れ、運上がいくらだったのか。その肝心のところが、書かれていない。
それでも、筋は外れていない。
もし、この人が数字を持ち、帳面に落とす術を得れば――。
糸子は、束をもう一度括り直し、文机の端へ置いた。
返すときに言うことは、もう決まっていた。
*
「姫様」
廊下に、村田蔵六が膝をついた。
珍しく、村田のほうから来た。後ろに、帳面を抱えた善次郎もいる。
「はい」
「定員のことでございますが」
糸子は、茶碗を置いた。
「……はい?」
「抜けた生徒の穴を埋めていただくはずが、今日の人物を入れますと、そろそろ上限が見えてまいります」
「そろそろ我々だけでは、手が回らなくなります」
「あと、どれほど」
「多くて数人くらいでございましょうか」
村田は、顔を上げた。
「越前から、三岡殿が人を連れてまいります。土佐からも、乾殿が寄越すと申されました。佐賀からは、大隈と申す者が向かっておるそうで」
善次郎が、帳面を開いた。
「それと、姫様。見学を願う者も、増えております。今朝も、門で二人」
「どちらの、どなたです」
「まだ、お名前までは」
糸子は、黙った。
黙って、懐から扇子を取り出した。
扇子を、ゆっくり開いた。
「総帥は、よい仕事をしました」
「はい」
村田が答えた。
「思想を、広めました」
「はい」
「人まで、拾いました」
「はい」
「たいへん、結構です」
糸子は、そこで一つ息をついた。
「……なれど」
扇子が、止まった。
「いきなり、集まり過ぎです」
村田も、善次郎も、何も言わなかった。
糸子は、しばらく帳面を見ていた。
「分かりました。この件は、一旦わたくしが預かります。語学所は、今まで通りで構いません。急に形を変える必要はありませぬ」
「はい」
「ただ、今のままでは、いずれ何もかもが、足りなくなりましょう」
村田が静かに頭を下げた。
「承知しております」
ならば、考えるべきはそこです。教える者をどう増やすか。受け入れる場所をどうするか」
「まだ、答えは出ておりません」
善次郎が、静かに頭を下げた。
「御意」
「なれど、考えがない訳ではありませぬ」
村田も善次郎も、深く頭を下げた。
糸子は、まだ答えを口にはしなかった。
人が増えるということは、力が増えるということではない。
扱いを誤れば、同じ志を持つ者同士でも、互いの足を引く。
だからこそ、器が要る。
松陰が種を蒔いたなら、自分はそれを受け止める土を作らねばならない。
糸子は閉じた帳面へ、静かに手を置いた。
第二百十三話 了
最後まで読んでくれて本当にありがとうございました!
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